愛多き王様の国・1 |
その朝は、眞魔国が当代陛下を戴いてから数限りなく迎えてきた朝と、何一つとして変わらない穏やかな朝だった。 魔族の国と、人間の国が友好条約を結ぶことが既に当たり前になって久しく、人間が眞魔国内で暮らすのも、友好使節が血盟城に招かれて逗留するのも真新しいことではなくなっている。 そしてその朝も。 友好国の正使が気持ちの良い目覚めで朝を迎えていた。 「んーっ!」 ベランダに出て思い切り伸びをすると、彼女は大きく手足を動かして「たいそー」を始めた。 「姫様!」 乳姉妹でもある侍女が、慌てて飛んでくる。 「そのような場所ではしたない真似はお止め下さい! 誰かに見られたら……姫様! 何ですか、その格好!?」 「だって今お風呂から上がってきたばかりなんですもの。せっかく朝湯を頂いて気持ちがいいんだから、すぐに着替えなくても……」 「姫様!」 この頃すっかり母親に似てきた乳姉妹が、眉を吊り上げて自分を睨み付けている。 ……確かに、風呂上り用のタオルで身体を巻いただけの格好はマズかったかもしれない。 分かったわよ、と言いながら、彼女は部屋の中に引っ込んだ。 魔王陛下から直接教わった「らぢおたいそー」は、なるべく楽な格好の方が動いていて気持ちが良いのだが。 「それにしても」 食後のお茶を頂きながら、彼女はしみじみと口を開いた。 「いつお伺いしても大きなお城ねえ」 「仰せの通りでございます」 主のカップにお茶を注ぎ足しながら、乳母が頷いた。 「初めて眞魔国の地を踏んだ時も驚きの連続でございましたが、このお城を目にしました時には本当に肝を潰しました。これほど強大な王城があるものかと、目が回る思いでございましたよ」 「ウチの国なんて、このお城の敷地の中にすっぽり入ってしまうんじゃないかしら?」 「いくら何でもそれはないよ」 卓の向かいに座るもう一人の乳兄妹が、苦笑して言った。彼は乳母の息子として育った乳兄妹だが、乳母の実子ではない。現在は乳母母子の主筋の家の跡継ぎだ。 「だけど、これほど広大な王城は他に例をみないだろうね。さすが魔王陛下の居城だ」 「でも、ご存知でいらっしゃいますか?」 乳姉妹が何か楽しいことを思いついたかのように笑って口を挟んだ。 「なあに?」 「魔王陛下は、いまだにお城の中で迷子になられるそうですよ? そしてその度に捜索隊が結成されて、皆さんで血盟城を探し回るのですって」 全員が図らずも一斉に視線を宙に向けた。そして全員が同じ想像をしてしまったのか、揃って吹き出すと、明るい笑い声が彼らの間に沸き起こった。 「……姫様、陛下に対してご無礼でございますよ」 「何よ、そういう乳母だって笑っているじゃないの」 「何というか……あのお方らしいという気がするよね」 「そういえば、初めてお会いしました時も迷子になっておられましたわ」 笑いがさらに軽やかに明るくなる。 「本当に……」 朝の陽射しが降り注ぐ外の景色を窓越しに眺めながら、彼女、アシュラム公領の公女、エヴァレットは呟いた。 「眞魔国との友好関係が順調に進んで、本当に良かったわ」 あるきっかけで魔王陛下と知り合ったエヴァレットは、当時眞魔国に対して友好を求めるか否かの迷いの中にあったアシュラムに、当の魔王陛下を招待した。 伝説だの迷信だの噂話だのに振り回されて右往左往した挙げ句、間違った決断をして時代の趨勢に取り残されないためにも、魔王陛下本人と触れ合ったほうが話が早いと考えたからだ。 かなりの荒療治、というか、乱暴極まりない行為だったと今では思う。 実際、アシュラムは古くから魔族を人間の敵、世に邪悪を齎す魔物と言い習わしてきた国だ。魔族と戦い、滅ぼすためにその力を養ってきた神官や法術師も数多く、民の彼らに対する崇敬の念も強い。 大地が乾き、豊かだった自然が枯れ始め、国土の崩壊が民の目にも明らかになってきたその時も、全ての災いは魔族によって齎されたものなのだという主張が強く蔓延っていた。だから、後にエヴァレットの父大公が、隣国に倣って眞魔国と友好条約を結び、魔族の力によって国土の回復を図ろうとしていることが明らかになった時には、国論が完全に二分され大変な混乱が巻き起こったほどだ。 エヴァレットはそんな国情の国に、魔王陛下を招き入れたのだ。 彼女のその行為は、宮廷内に激震を呼んだ。 それだけではない。 彼女はうっかりとしていたのだが、それは魔王陛下の御身をも危うくする、あまりにも危険な行為だったのだ。 しかし魔王陛下は、エヴァレットの招きを、わずかの迷いも見せずに承諾していた。 もちろん、神官や法術師の力が強い国にほとんど単身で乗り込むことがどれだけ危険か、魔王陛下の側近達は十分に理解していた。そして揃って主にそれを進言したが、魔王陛下は決意を翻しはしなかった。陛下の名代として自分が使者になると申し出た側近の一人に対しても、許しを出そうとはしなかった。 「エヴァ様と約束したのはおれだ。だからおれが行く。人任せになんてしないよ」 気が強いくせに小心者だと自覚している魔王陛下だが、1度口にしたこと、まして人間の国との友好に関る問題で決断したことを、簡単に翻すことはない。それもまた側近達は熟知していた。 だから、魔王陛下を護って、わずか4名の側近1同はかなりの覚悟でアシュラムに入国したのだ。その内の一人など、あまりに使命感と緊張感が強かったためか、自分が法術に当てられたらどうなるかということをうっかり忘れてしまい、出国するまで床についたままという情けない状態に陥ったのだった。 そして。 その荒療治は、意外なまでにうまく進んだ。 眞魔国との友好条約締結に関する最大の障害は、神殿と神官、そしてもちろん法術師達だ。 大公の権威すら凌駕する力を持った、アシュラム宗教界最高位にある大神官の下、彼らは組織されている。この勢力とどう折り合うかが、魔族との交流を模索し始めた大公始め、世俗の権威に関る一同の悩みの種だったのだが……。 だが意外な出来事が、神殿の人々の心を揺るがせることとなる。 大公のささやかな宮殿からわずかに離れた林の中、澄んだ池のほとりの開けた場所に、アシュラム宗教界の中心となる神殿があった。 結界に護られたその一帯は、自然の荒廃も少なく、穏やかな陽射しの下、緑も碧い水も穏やかに光を弾いている。 滴る緑も豊かな中庭で、自然の煌きを全身で感じながら、大神官は朝課の後のお茶を嗜んでいた。同じ卓には気の置けない長年の友人と、旅から帰ってきたばかりの若手の法術師がいて、他愛無い会話を交わしながらお茶を共にしている。卓の傍らには見習い神官達が、大神官に仕えるために立っている。……大神官にとっての日常がそこにあった。 そこへ。突如、茂みを掻き分けるように飛び込んできた人影があった。 「…ふわぁ、やっと抜け……あ、あれ…!?」 声を上げると同時に、目を瞠って固まってしまった少年の姿に、大神官は「おやおや」とカップを置いた。 人の姿に驚いたわけではない。 突然目の前に現れた少年の、そのあまりの愛らしさに驚いたからだ。驚いた、というより、驚愕したと言って良い。 ほっそりとしたその肢体はもちろん、陽射しに艶めく赤毛も、大きな茶色い瞳も、ぽかんと開けた口も、何もかもが光を弾いて美しく煌いて見える。大神官は正直なところ、天使の降臨かと愕然として息を呑んだのだが、それを表に出さずに済んだのは長年の修行の成果かもしれない。 「……これは眼福だの」 大神官の昔なじみで、やはり神官を勤めている友人が、ほっほと笑いながら楽しそうに声を上げた。 同席している女性法術師も、感心したように首を振っている。 「…あっ、あのっ、ごめんなさいっ!」 しばらく呆然としていた少年が、頬を染めたかと思うと、勢い良く腰を折った。 「おれ、あの…っ」 「ユーリ!」 少年が口を開いたのとほぼ同時に、茂みからもう一人、男が飛び出してきた。 「先に行ってしまわないでと……っ!?」 新たな人物も、驚いたように大神官達を凝視している。 神殿に入ってからは懸命に己の婀娜っぽさを隠していた女性法術師が、「あら、良い男」と呟く。 大神官は苦笑を浮かべた。 「コンラッド! どうしよう! おれ、人の家に不法侵入しちゃったみたいだ!」 焦る少年の肩に手を置くと、コンラッドと呼ばれた青年が表情を改めて前に進み出た。 「大変失礼致しました。主と共に林の中を散策しておりましたら、つい道を外れてしまい、迷う内にこのようなことに。すぐに出て行きますので、どうかお許し下さい」 姿勢を正し、きちんと腰を折って謝罪する青年の傍らで、少年もそれに倣う。 「本当に、ごめんなさい!」 観れば、主だという少年は年の頃15、6歳。青年は20歳を少々出たくらいだろうか。 2人の品のある顔立ち、特に青年の洗練された物腰、そして纏う衣装からも、この2人がかなり高位の貴族階級に属していることは容易に知れる。同時に、彼らがアシュラムの人間ではないことも、当然ながらすぐに分かった。大公か、もしくは貴族のどの家かの客なのだろう。 その若い主従が見せる、高慢さの欠片もない素直さや礼儀正しさに、大神官は好意を抱いた。 他人の屋敷の庭に入り込んでしまったとひたすら恐縮する2人に、「まあまあ落ち着きなさい」と鷹揚に声を掛けたのは大神官の親友だ。退屈な日常に飛び込んできた、ささやかな非日常を楽しむつもりなのは間違いない。昔から、どんなことでも先ずは楽しもうとする性情の持ち主なのだ。 「ここは万民に開かれた神殿だよ。誰が入ってきても咎められはしない」 え? と2人が顔を上げ、周囲を見回す。 「……ここ、神殿の中、なんですか?」 少年の質問と、そのきょとんとした表情に、親友は笑いながら「そうだよ」と頷いた。 「だから気にしなくて良いのだよ。ここに君達がやってきたのも、神の導きによる縁というものだ。だからここにおいでなさい。急いでいるのでなければ、お茶を一緒にどうかね?」 親友の言葉は、少しだけ間違っている。 この神殿は、アシュラムで最も神聖な場所だ。その尊さでいえば、大公のささやかな王宮よりも遥かに尊い。そしてその権威ゆえに、この神殿の扉は重い。誰彼構わず神殿を訪れることが許されるわけではないのだ。また、神殿に属する土地の周囲には結界が張ってあり、穢れたもの、悪しきもの、魔のものは決して近づくことができない。 この結界を抜けたというその段階で、この2人が悪しき存在でないことは証明されている。また、図らずも大神官達が集う中庭に、迷いもせずに真っ直ぐ入ってきたということは、親友の言葉の通り、神殿と良き縁があるとも言えるだろう。 大神官は傍らで命を待つ見習い神官に、2人分の椅子とお茶を用意するように言いつけた。 「あの、おれ、ほんとにお邪魔してしまって……」 卓についても、少年はまだ恐縮していた。少年と、その隣の青年の前に、お茶とお菓子が置かれる。 自分は従者だからと、最初は座る事を拒んでいた青年も、主に倣って頭を下げた。 「いやいや、気になさることはない」 大神官が微笑み掛けると、少年が照れくさそうに頬を染めて笑みを返してきた。……間近で観ても、本当に可愛らしい少年だ。それなりの長い人生を送ってきたが、これほどの美童を目にしたことはないと、大神官はしみじみ思った。 少年の隣に畏まる青年もまた、実に端正な顔立ちをしている。姿勢の良さから見ても、おそらくは武人であろうと大神官は考えていた。こちらはかなり生真面目な性格なのか、隣に座る女性法術師が盛んに送る秋波を全く無視し切っている。 「外国の方とお見受けするが……?」 大神官の親友がにこやかに問い掛けると、少年が「はい!」と元気に頷いた。 「昨日、フランシアからこちらに伺いました!」 フランシア。その名と、そこから連想されるある行事を思い出し、大神官は内心で眉を顰めた。 突如、大公が一の姫をフランシアで開催される天下一舞踏会に参加させると発表した時、あの真面目な大公に何が起こったのかと、神殿に集う人々はみな訝しんだ。 魔族の長年の企みにより、人間が住まう大地は次第に崩壊しつつある。ここアシュラムでも、それが如実に分かるようになってきた昨今、いくら隣国で開催されるものであろうと何を悠長に、と怒る者もいた。だが、大神官は公女のフランシア派遣に、全く別の意味で危惧を抱いていた。 フランシアは、確かにアシュラムの長年の友好国。いや、ずっとアシュラムという小国を保護してくれた恩義のある国だ。だが、フランシアはある時突然、眞魔国との友好を大陸各国に向けて表明したのだ。 魔族と友好関係を結んだ国は、大地の崩壊を免れる。魔王の魔力が国を救ってくれる。 そんな噂が大陸諸国を飛ぶように流れ、今、人間は争うように眞魔国との友好条約を締結しつつあるという。 何と愚かなことかと、大神官は嘆いた。 人間の国の自然を崩壊させているのは魔族なのだ。ならば、それを止めることができるのも当然のこと。もちろんそこには魔族の浅ましき企みがあるに違いない。相手は闇を統べる魔物なのだ。己の国を救うつもりで魔王に頼った国は、遠からず更なる闇の底に堕ちることになるだろう。 フランシアに未来はない。 大神官は、隣国の若い国王夫妻を思い起こし、彼らのために祈った。 そして。 今回フランシアで開催される天下一舞踏会は、参加国のほとんどが眞魔国と友好を結び、大地の復活がなされつつある国ばかりなのだという。 それがかりそめの復興であることに気づかぬ哀れな国の者達が、自分達の判断の確かさと幸運を喜びながら舞踏会を開催する。そこに、魔族との友好など考えていないはずの我が国の公女が敢えて参加する。それが何を意味するものなのか、ある結論に到った大神官は慄然とした。 「……そういえば公女殿下はまだ……」 親友が呟いた、その時だった。 「大変ですっ!!」 神殿から、若い神官が転がるように駆けて来る。よほど慌てているのか、髪も長衣も酷く乱れている。 「大変でございます!!」 最後は本当に地面に転がって、神官は大神官達の足元に平伏した。 「お客人の前で何だね、その様は。神官たるもの、どのような場面に遭遇しようとも、冷静さを欠いてはならぬと常日頃申し聞かせているであろうが」 申し訳ございません! 叫んだ若い神官は、「しかし!」と顔を上げた。その顔、青ざめ、冷や汗を浮かべ、唇が引きつったように震えている様子に、大神官はきゅっと深く眉を顰めた。 これは、紛れもない恐怖の表情だ。 普段は気楽な親友はもちろん、周囲にいた全員が何事かと構える。 「……何が、あったのだね?」 は、と答えてから、神官は必死に唇を舐め、呼吸を整えるつもりなのか、胸をぐっと押さえた。 「昨日……公女エヴァレット殿下、御帰国にございます」 それは、と、大神官達が顔を見合わせる。 「昨日、と? おかしな話だのう。公女帰国の報が神殿に知らされないとは……。だが、それだけではあるまい。何があったのだ?」 はい、と頷いた神官が、ごくりと喉を鳴らした。 「王宮に、おります、私の従兄弟が……そっと知らせてくれました。……姫は、公女殿下は、フランシアから……ま、魔族、を……」 魔族を、このアシュラムに招き入れられました!! 「っ! なんとっ!!」 親友が、ガタンと荒々しく音を立てて立ち上がる。女性法術師も、ハッとその表情を厳しく引き締めた。 「………魔族が、この国に……」 鼓動が激しく胸を打つ。頭の中で、今から神殿が為すべきことが一気に駆け巡る。だが同時に、頭の隅でかすかな疑問が湧いた。 悪しきもの、魔物がすぐ側までやってきたというのに、どうしてそれに気づかなかったのだろう……? 長年修行を重ね、奥義を究め、大神官の地位にまでついた自分がなぜ……。 「あのー…」 ふいに、大神官の耳におずおずとして子供の声が飛び込んできた。 ハッと見ると、少年が困ったような表情で自分を見上げていた。少年の口元には、焼き菓子の欠片がついている。 悪意の欠片もない少年の澄んだ眼差しに、ホッと息をついた大神官の頬が無意識に笑みを作った。 「これは失礼致しましたな、お客人。だが申し訳ないのだが……」 「あのー、今の話の魔族なんですけど、それ……」 おれです。 その場の全員の動きが、呼吸が、もしかしたら胸の鼓動も、全てが止まった。 今何を言われたのか、理解しているはずなのに理解できない、したくない。 そうだ、おれってば自己紹介も何もしてなかった。 ごめんなさい、と一言謝罪すると、少年が立ち上がり、全員を見回して、それからぺこんと頭を下げた。 「初めまして、こんにちは! おれ、眞魔国からフランシア経由でお邪魔しました、第27代魔王のシブヤ・ユーリといいます。どうぞよろしくお願いします!」 「……………ま、おう…?」 「はい、そうですっ」 「ま…おう?」 「はいっ、おれが魔王です!」 「……え…え?」 「あ、陛下!」 隣でやはり立ち上がっていた青年が、いきなり口を挟んできた。「へいか…」と誰かが呟く。 「何? コンラッド」 「こちらをお向きください。……ああ、やっぱり、お口元にお菓子の欠片が……」 「え…ええっ!? ほんとっ? うわっ、恥ずかしい! どこ? えっと、取れた!?」 「まだです。ああ、ですから擦ったりなさらずにこちらをお向き下さい」 大神官達の見ている目の前で、顔を真っ赤に染めて慌てふためく少年の頬を押さえ、青年が口元の菓子を摘み取る。そしてそれをそのまま、ごく自然な仕草で自分の口に入れた。 「コンラッド!」 「はい、陛下、取れましたよ」 「取れましたよじゃなくてっ。だからそーゆー恥ずかしい真似は……!」 「落ち着いてください、陛下。皆様が見ておられますよ?」 え、と少年が真っ赤な顔のまま大神官たちに顔を向ける。 その愛らしい顔が、さらに赤く染まった。 「ごっ、ごめんなさいっ、おれ、恥ずかし……!」 ケーンっ! その時、上空遥か高みより、身動きの取れなくなった人間達にとって、まさしく天の助けとも呼ぶべき声が地上に降ってきた。 「……おおっ、ザイーシャ!!」 全員の顔が一斉に天を向く。誰かが叫ぶ。 そして天空には。 1羽の巨大な鳥が、大きく羽を広げ、円を描くように中空を舞っていた。 「ザイーシャっ!!」 切羽詰った祈りの声が、天へ向かって投げられる。 ザイーシャは神殿の、いや、アシュラム公国の守護鳥だ。その鋭い爪と嘴とで魔を引き裂くと言い習わされ、神殿が長き年月護り育んできた血統、「黄金の猛き翼」だ。 人々が見守る中、ザイーシャは再びケーンと鋭く鳴くと、突如翼を畳み、頭を下に、一気に地上に向けて急降下を始めた。 「おお! ザイーシャが魔を打ち砕く……!」 ザイーシャは速度を上げ、少年目指して飛び込んでくる。少年の従者が、主を護ろうと少年の前に飛び出す。 だが、奇跡の発現を期待して見守る人々の視線の中、急降下していたザイーシャが、いきなり姿勢を戻した。そして少年を見下ろしてゆっくりと、まるで彼を誘うように優雅に羽ばたきを始めた。少年が、従者の青年の陰から歩み出てくる。……と。 ………ザイーシャが少年の肩に、静かに舞い降りた。 「うわっ? うわっ、すごいっ、コンラッド! ほら! でっかい、こいつ! うわー、金色だよ! ねえ、これ…鷹? 鷲? えっと、わー、とにかくカッコ良い!」 「陛下! 大丈夫ですか!? これはかなりの猛禽ですよ! 爪が痛くはないですか!?」 「全然平気! こいつ、すごく気を遣ってくれてるみたい。ああ、ホントに爪が鋭いなー。うわー、金色の鷹、えっと、鷲? とにかく初めて見たよ! あ、でも、ほらコンラッド、触ってみろよ、すっごく柔らかいぞ!」 はしゃぐ少年、魔王、の肩の上で、ザイーシャは賛美されることが自慢でならないかのように胸を張っている。 少年の手が、黄金の聖なる鳥の身体を撫でた。 ザイーシャが気持ち良さそうに目を閉じ、少年の頬に顔を擦り付ける。 ぐるっぽ〜。 お前は鳩か!? 絶叫したい、でもやっぱり身動き取れない神官たちの前で、主従は楽しそうにザイーシャの身体を撫でていた。 「ああ、本当に柔らかいですね。俺もこんな猛禽がここまで人に馴れるとは思いませんでした。それにしても、見事な色ですね」 「だよなー。……はは、こら、くすぐったいぞー。……なあなあコンラッド、こんなカッコ良い鳥を肩に乗っけて歩いてたら、おれもちょっとは威厳が出るかなあ?」 「鳥などいなくても、陛下は威厳に溢れていますよ。ところで……これはこちらで飼っておられる鳥ですか?」 何となく、皆でこくこくと頷いてしまう。 「名前は何て言うんですか!?」 無邪気に問い掛ける少年は、ザイーシャの喉をまるで猫か何かの様に指で撫でている。うっとりと天を仰ぐ鳥を呆然と見つめながら、大神官は呟いた。 「…ザイーシャ……」 それは質問に答えたというよりも、善なるものの守護鳥への切なる呼びかけであった。 「へえー、ザイーシャっていうのか! すっげ強そう! カッコ良いなあ、お前」 ザイーシャ、ザイーシャと、何度も呼びかけられて、ザイーシャが得意げにそっくり返った。と、さらに何か言い募ろうとした大神官の気配を嗅ぎ取ったのか、鳥の鋭い視線が呆然と立ちすくむ人間達に向けられた。 「…ザイ……」 ぎろりと、ザイーシャの目が人々を睥睨する。 何か文句でもあるのか、ああ!? と、無言の眼差しに脅しつけられた気がして、大神官は思わず仰け反った。 「まあ、すっかり懐いておりますこと」 ふいに飛び込んできた声に、人々の顔が一斉に動く。 「………エイドリアン……」 大神官の前に立っていたのは、すでに故人となった親友の一人娘……と呼ぶには少々年を取ったが、幼い頃から見知っている女官、公女の乳母であった。 「あ、乳母さん!」 少年が明るく声を上げる。エイドリアンが「はい」と頷いて、恐れ気もなく近づいていく。 「ほら、この鳥、おれの肩に乗ってきたんです! すっごく綺麗な鳥ですよね!」 「ザイーシャと申します。神殿が大切に育てている黄金の守護鳥ですわ。国を護る神聖な鳥なのですよ。善悪を見極め、悪しきものはその爪で引き裂くと言われております。世話する者以外、めったに人に馴染むことはないのですが、さすがでございますね。ザイーシャはあなた様の本質をしっかりと見極めたのでございましょう」 「いやー、そんなことー」 たはは、と少年が照れくさそうに笑った。そしてそれからすぐに表情を残念そうなものに変えた。 「でも…そっかー、そんな大事な鳥なら、貰っていくわけにはいきませんよね。……こんなカッコ良い鳥を肩に乗っけていられたら良いなって思ったんですけど……。ザイーシャ、お前、アシュラムを護ってるんだな。すごいな、責任重大だな! ……でも、悪しきものって、例えばどんなものなんですか?」 お前だ! と、大神官達は叫びそうになって、だが直前で言葉を飲み込んだ。 ザイーシャが殺気を籠めた眼差しを、ギンと音がするような勢いで彼らに向けたからだ。 ついでに、少年、魔王、の従者である青年も、口元はにこやかに微笑んでいるが、目がしっかりと神官たちを牽制している。……ザイーシャと青年の瞳に瞬く光が、全く同じものに見えて、大神官達は背筋を震わせた。 「お伽噺に出てくるような想像上のお化けですわ。そんなことよりもユーリ様、もうそろそろお昼でございますよ? 皆様ご心配のご様子で、お2人を探しておいでになりました」 あ、と少年が声を上げる。 「ごめんなさいっ。ちょっとだけ散歩するつもりだったんです。そしたらうっかり道に迷っちゃって。でもこちらの、えっと、神官さん達が親切にお茶に誘って下さって」 「さようでございますか。それは良うございました。ですがそろそろお時間ですので、城に戻りましょう。御案内いたします」 「はい! あ、でも、ザイーシャは……」 「ザイーシャは好きに致しますわ。ユーリ様と一緒にいたいと思えば、ずっと御一緒いたしますでしょう。飛びたい時には勝手に飛んでいきます。どうぞお気になさらずに」 「そうなんですか? あ、じゃあ…ザイーシャ、おれの友達に紹介させてくれるか? 皆もきっとびっくりすると思うんだ。な? 一緒に来てくれるか?」 ぐるぐるぐるっぽ〜。 高らかに喉を鳴らすと、ザイーシャは頭を少年の頬に思い切り擦り付けた。あはは、と少年が笑う。 「よーし、じゃあ一緒にお城に行こうな!」 笑って言うと、少年は明るい目を大神官達に向け、にっこりと笑みを投げ掛けてきた。 「それじゃあ、おれ、お城に戻ります。お茶をごちそうさまでした! いずれまたご挨拶に伺います!」 それじゃ! と手を振ると、少年は肩にザイーシャを乗せたまま、大股で歩き出した。その傍らを、従者の青年がついていく。 「……まあ、ウェラー卿とザイーシャがあのように睨みあって…。……閣下も意外と大人気ないこと」 エイドリアンの呆れたような呟きが、呆然と少年達を見送る大神官の耳に流れるように聞こえてきた。 「…エイ、ドリアン……」 「私は」エイドリアンが、すいと大神官に顔を向け、口を開いた。「父を、そして貴方様方を、心から尊敬申し上げております。今もその思いに変化はありません。ですが、魔族、そして何より魔王陛下につきましては、父も、貴方様方も皆…間違っておりました」 過ちを潔く認め、一刻も早く民に対してそれを正されますことを心底から願っております。 そう告げると、エイドリアンは「ユーリ様、ウェラー卿、そちらではございませんわ!」と声を上げながら去って行った。 後には、自分達を支える完全無欠の柱だったはずの価値観が、軋みを上げる音を耳にして立ちすくむ神官と法術師だけが残された。 その価値観が、大神官達の中で一気に崩壊したのは、その翌日のことだった。 大公の城では、魔を滅する守護鳥であるザイーシャが、魔王に懐いてその肩から離れようとしないことに、皆が吃驚仰天しているという。その話を神官の一人から聞かされて、大神官は深々とため息をついた。 魔王が魔力によって聖なる鳥を誑かした、と主張する者もいた。だが、大神官はそれを肯定することができなかった。 神殿の聖なる鳥、神の力をその身に得た守護鳥が魔力によって狂わされたと大神官が認めることは、すなわち、神殿が魔を滅する唯一絶対の聖なる場所であるという主張を、神殿そのものが否定することに繋がるからだ。それに……。 あの少年、認めるのは怖ろしいことだが、あの、魔王、は、決してザイーシャに対して魔力を振るいはしなかった。 それは、すぐ目の前にいた自分が誰より分かっている。 魔力どころか、悪しき気配も、瘴気も、魔物の毒気も、何一つとして全く感じ取ることがなかったのだから。 日々当然のこととしてこなしてきた修行の全てがあやふやなものに感じられることに、さらに衝撃を深める大神官の元に、またも慌てふためいた見習いが飛び込んできた。 あわあわと身体を震わせる未熟な若者に内心でため息をついて、「何事か」と大神官は尋ねた。 傍らには、やはり表情の優れない長年の親友と信心深い神官たち、そして豊満な肢体の女性法術師がいる。彼らの前で、冷静さを失う真似はすまいと、大神官は密かに心に決めていた。 「……は、林の、奥の、い、池のほとり…に……」 それ以上言葉が続かない見習いをそのままに、大神官は足早に林の奥に向かった。 「…っ!! これは……」 一声唸ったきり、言葉が続かない。 彼らの前には、想像することすら困難な光景があった。 林の奥、量は減ったものの、淀むことなく澄み渡った水が木漏れ日を弾く池のほとり。そこにある1本の樹の根元に。 昨日初めて会ったばかりの、魔王だという少年が、無防備に居眠りをしていた。 そして。 その周りを。 森に、アシュラムの山々に、そして空に生きる様々な動物達が、少年を護るように取り囲んでいた。 樹に凭れ、健やかに眠る少年。 その少年の息遣い、彼の放つ気の届く場所にいたいと願うかのように、動物達は身を寄せ合いながら彼を囲んでいた。そしてやはり同じ様にゆったりと眠りについている。 少年の肩にはザイーシャがいる。羽に顔を埋め、やはり眠っているようだ。 彼が持たれる樹の枝という枝には、様々な鳥が止まっている。 小鳥がいる。猛禽もいる。それらが争うでもなく並んでいる。 地に目を向ければ。 鹿がいる。野犬も、狼もいる。並んで身を丸める熊の身体の上には、兎やイタチ、リスなどの小動物が当たり前の様に乗っている。その隣には、隣には……。 「……あれは……竜、では、ないのか……?」 まだ子供なのだろうか、竜としては小さな身体が、丸まってそこにあった。 バサリ、と。 ふいに、神官達の背後で空気が動いた。 恐る恐る背後を振り返る。 「………ひ…!」 女の引きつった声。 そこには巨大な竜が、今空から舞い降りてきたかのように翼を畳もうとしていた。 そして、人間達を無視したままゆっくりと、驚くほどそっと静かに動物達の近くに歩み寄ると、己の子供らしき小さな竜の傍らに身を置き、その目を伏せた。 林に静けさが戻る。 動物達の、平和で穏やかな寝息と吹き渡る風だけが、池の表面と木々の葉を揺らしている。 一体どれだけの時間が経ったのか。 まるで神話の一場面のような情景を、夢心地で見つめていた神官達の誰かの足元で、ぱきんと鋭い音がした。何かを踏み折ったのかもしれない。 だがその瞬間、眠っていた動物達が目を覚ました。 そして、安らかな空間と時間を犯した者を咎めるような、いや、明らかに怒りを含んだ視線が、一斉に神官と法術師達に向けられた。 「…………っ!」 人間達が息を呑む。 ザイーシャ1羽きりでは分からなかった。 だが今。アシュラムの自然に生きる動物達、まさしく大地の使者の視線を受けて。 その場に居合わせた人間達は、否応なくそれを知らされた。 我等の王を傷つけるものは許さない。その健やかな眠りを妨げるものは許さない。 目は、怒りをもってそう告げていた。さらに。 お前達こそ我等の敵。我等を滅ぼす悪しきもの。 叩きつけられたのは、紛れもない自然の意思、大地の思い。 大地を崩壊に導くのは魔族ではない、お前達だ。と。 自然の、大地の、世界の敵は、邪魔ものは。 お前達。 人間だ。 と。 アシュラムの大地と共に生きる生命の目という目が、はっきりとそう告げていた。 「……うーん……」 木に凭れていた少年魔王が、かすかに呻いて身動いだ。 竜を含めた動物達の顔が、少年に向く。 と。 ゆっくりと、名残惜しげに動物達が身を起こした。小動物が熊の背から飛び降り、竜がゆるやかに首をもたげる。 動物達はそれから、それぞれ少年の側に歩み寄ると、まるで挨拶をするかのように鼻面をその身体に押し付け、頬ずりし、そして林の奥、天空の彼方に向かって去っていった。 残されたのは、眠りから覚めようとしている少年と、少年の肩の上のザイーシャと、人間達。 「失礼します」 そう言って神官達の傍らを抜けて少年に近づいていったのは、いつからその場にいたのか、前日の青年だった。 「……すぐに行方不明になられるのだから」 本当にもう、と呆れたような声で青年が呟く。 青年は少年の側に跪くと、「陛下、ユーリ、起きて下さい」と揺り動かした。手でザイーシャを邪険に追い払っているが、ザイーシャも負けずに爪を出して応戦している。 少年がぽかっと目を開く。青年と聖なる鳥の攻防がふいに止んだ。 「……あれ? あ……おれ、寝ちゃってた…?」 「寝ちゃってた、じゃありませんよ。俺にまで黙って出て行かれるなんて…。昨日お願いしたじゃないですか」 「ごめん、コンラッド! ……窓から外を見てたらさ、何かがおれを呼んでる声がしたような気がして、つい……。ここに来たらさ、池の水はキレイだし、木漏れ日もキレイだし、風は気持ち良いし、それで……。ホントにごめん!」 「呼ばれた、というのは?」 「んー? ……気のせいだったみたいだな」 青年の手を借りて立ち上がった少年が、大神官達に気づいた。 あ、と声を上げると、にこっと照れくさそうに笑って、それからまたもぺこんと頭を下げた。 「こんにちは! 昨日はありがとうございました!」 無邪気に笑う魔王が、従者にお小言をもらいながら去って行ってしばらくして。 神殿に仕える神官と法術師達は、何かが切れたようにへたへたと地面に沈み込んだ……。 魔王一行が去ってしばらくして、アシュラム大公は眞魔国との友好条約を締結する意思を国の内外に発表した。 当然、反対の声が民の間に巻き起こった。 国中に散っていた神官達や法術師達は、そんな民の中心となって反対行動を起こすべく、いざとなれば反乱も辞さぬ覚悟で一斉に王宮を目指した。だがそんな彼らを愕然とさせることが続けて起こった。 大公の発表があって間もなく、アシュラムの聖職者達の最高位にある大神官、そして高位の神官達─紛れもなく、反対運動の中心となり指導者となるべき人物達─が、眞魔国との友好条約締結を、全面的に支持する意向を表明したのである。 それどころか、これまで自分達が魔族を魔物として忌避してきた行為は、その全てが誤りであったとまで断言した。神殿は民に対してこの長年に渡る過ちを謝罪すると同時に、魔族を怖れることなく受け入れよとの宣をも下した。 反対運動は混乱し、やがてなし崩しに立ち消えとなった。 神殿の支援を受けた大公の行動は素早かった。 穏やかな性格で、万事のんびりとしていると思われていた人物とは思えないほど、次から次へと新たな施策を打ち出した。それだけ国政に携わる人々の危機感が強かったということなのだろう。 大公は、行政、経済、外交、文化、宗教に関る者、眞魔国に関心を持つ者を募り、大量に、一気に眞魔国に送り込んだ。後に、「最も小国でありながら、最も大規模な使節団」を送ったとして、アシュラムの名は魔族の間でも有名なものとなる。 眞魔国に、それでも怖々と足を踏み入れたアシュラムの人間達は、魔族の国の文明度の高さを知り、自分達の国で言い伝えられてきた魔族に対する伝承の全てが、荒唐無稽、事実無根の虚構であったことを知った。 一時の驚愕と脱力感を抜けた後、彼らは一気に、眞魔国、魔族という種族とその文化にのめり込んだ。 官僚達は行政を学び、経済を学び、神官達は宗教論を魔族の学者と戦わせ、貪欲にその知識や考え方を吸収していった。 魔族に対してだけではない。 眞魔国には多くの人間達も住んでいる。進歩的な、そして鋭気溢れる他国の人間達と交流することにより、アシュラムの人間達は、自分達がどれほど小さな世界で、どれほど狭量な価値観に縛られて生きてきたかを痛感することとなった。 「眞魔国の技術は、我が国はもちろん、他国と比べましても抜きん出て進歩しております! 大公陛下、ぜひ技術者の眞魔国派遣をお願い申し上げます!」 一時帰国した貴族青年は、紅潮した頬で眞魔国の様々な科学技術について熱心に大公に言上した。 彼はアシュラムの一地域を治める名家の五男坊だ。無駄飯喰いなのだから、少しは国の役に立てと父や兄達に命じられて派遣団員となったのだが、結果として彼は得がたい経験をし、新たな世界に目を開くことが出来た己の幸運に感謝することとなった。 青年の隣には役人が、その隣には神官がいる。三人とも一時帰国してきた派遣団員であり、共に若い青年達だ。 「それほどに発展しているのか? 魔族の国は」 大公の問い掛けに、はっ、と全員が揃って頭を下げる。 「各国との貿易も盛んで」役人の青年が答える。「行政の充実度は、目を瞠るばかりでございます。眞魔国の行政制度につきましては、ぜひ我が国においても取り入れたい施策も多く、後ほど報告書に纏め奉る所存でおります」 うむ、と大公と側近達が頷く。 「また、陛下」 神官が声を上げた。 「眞魔国では、国内の各地に大学と呼ばれる大規模な学舎がございます。これは行政、経済、医療、教育、工学など多岐に渡る専門的な学舎で、国内外の様々な学者を集め、彼らに研究資金と研究場所を援助する代わりに、これを学びたいと希望する者達に知識と技術を授けさせる場でございます。すなわち、世界の最も進歩した知識と教養、そして技術を学べる場所なのです! この大学は、他国の者であろうとも、その国の推薦があれば、留学生として受け入れることになっております。大公陛下、最先端の知識と技術をこのアシュラムに導入するため、アシュラムの未来のため、どうぞ留学生の派遣も前向きに御検討下さい!」 大公と側近達、そして彼を派遣した大神官が揃って大きく頷いた。 だが。 「お待ちあれ!」 末座から、荒々しい声が上がった。 人々の顔が一斉にそちらに向く。 末座に集まる人々の間から進み出てきたのは、地方の神殿を治める高位の神官だった。もちろん、大公が眞魔国との友好を発表した時、大反対すると同時に反対運動を組織した一人だ。 彼は、ここしばらくずっと激しい議論を戦わせてきた大神官達を一瞥すると、若い神官を睨み据えた。 「そなた、神に仕える神官であろう」 「は、左様でございます」 相手が高位の神官と見て、若い神官が恭しく礼を取る。 「恥を知れ! 馬鹿者!!」 突然の罵倒に、若者達が、そして謁見の場に居合わせた大公始め全ての人々がぎょっと目を瞠る。 「神に仕える神官が、魔族の国へ赴いて、魔物を退治したというならまだしも、骨抜きにされてどうするのだ!? 魔族は闇に生きる魔物ぞ! 人の善き世を滅ぼすため、様々な策を弄することはさんざん教えを受けてきたはず。それを………」 地方神官の声が、唐突に止まった。 彼の目は、あり得ないものを目にした驚きに引きつっている。 そこにあるのは。 紛れもない、哀れみと軽蔑の眼差しだった。 神官は、いつどのような場所、誰に対してであろうと、常に「教え導く者」であった。 己より高位の神官を除けば、相対する相手は常に「無知なる者」であり「未だ叡智の目を開けぬ者」であった。 彼の言は常に正しく、常に高邁であり、常に善である。よって、彼の口から発せられる言葉は全て、相手が誰であろうと無条件に、礼を持って受け入れられるべきものであった。 だが今。 3人の、彼からすれば尻に卵の殻をつけたひよっこに過ぎない青年達が彼に向ける目は、まさしく「無知なる者」への哀れみの眼差し、そして「未だ叡智の目を開けぬ者」への蔑みの眼差しだったのだ。 若き神官が、何も答えないまま慇懃に頭を下げ、すっと頭を巡らせて再び大公に身体を向けた。そして貴族と役人の青年もまた、軽く鼻を鳴らすように冷笑を浮かべると、仲間に倣って元の姿勢に戻った。 神の怒りを代弁しようとした神官は、見下され、無視され、その場に取り残された。 アシュラムと眞魔国の友好条約締結が正式に結ばれた後、大公はさらに動いた。 国の技術者達を眞魔国に派遣し、同時に向学心に溢れた若者達から、優秀な者を選抜して留学の手続きを進めた。 アシュラムから眞魔国に向かう人間達は数を増し、同じく、眞魔国から新たな知識を得て帰国する者達も増えた。 魔族との友好に意義を申し立てる声は、日々小さくなっていった。 だが。 決してその声がなくなった訳ではない。 反魔族の運動の中心となっているのは、大神官達から離反した地方の神殿に仕える神官達と法術師達だった。 彼らは、自分達の存在意義が、魔族を滅ぼすことにこそあると信じている。 大神官達の翻意を促すことは既に諦め、彼らは彼らの独自の活動を進めようとしていた。だが、彼らを支えてくれるはずの民は、眞魔国から戻ってきた者達から齎される魔族の情報にどんどん取り込まれていっている。日を追うに従って、反魔族を標榜する人々の数は減っていった。 しかし、どれだけ減っても、いや、その数が減ったからこそ、残った者の意志は濃く煮詰められ、どろどろと熱く滾っていった。 月日が過ぎ、アシュラムの民の意識もまた加速度を増して変化していった。 魔族と友好を結んでも何も悪いことは起こらない、それどころか、実はこれは良いことだったのではないか、いや、良いこと、正しいことだったのに違いないと、民の多くがそう考えるようになっていた頃、反魔族の活動を進めていた者達はほとんど地下組織の様相を呈するまでになっていた。そして魔族のみならず、反大公、反大神官にまで、その叛意を深めていた。 彼らの不満と怒りは、大地を蘇らせるため、魔族の巫女がアシュラムにやってくる、という報せを受けて頂点に達した。 新たな道に足を踏み入れたアシュラムに、最大の危機が訪れようとしていた。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
|