まさかこういう場面で僕が遅れを取るなんてっ! 悔しくて地団駄踏みたい気分だったけど、そんなコトをできるはずもなくて。 すでにエドアルドはやる気満々の闘志を漲らせてカクノシンさんの真正面に立っている。背筋をぴんと伸ばして礼儀正しく立っているだけなんだけど、何と言うか、エドアルドを取り巻く空気が揺らめいているような気さえする。今、おそらくエドアルドの中でわくわくと滾っているものは、僕が感じているものと全く同じだと思う。それが分かるから余計に……。先を越されたのが悔しい! 「他に希望者はいるか?」 ふいに教官殿がそう声を上げるのを耳にして、僕は反射的に腕を振り上げた。 「はいっ! ぼ、僕も、あ、じゃなくて、自分も! お願いしますっ!」 おい、マチアス、とホルバートが耳元で声を潜めて僕を呼ぶ。お前、本気か!? と。止めようとでも考えているのか、肩に手まで掛かった。 もちろん本気だとも! 僕にすれば、こんなめったにない機会、逃す方がどうかしてるよ。 勝てるなんて思ってない。吹っ飛ばされるのは覚悟の上だ! でも自分の力がどこまで通用するのか、ぶつかってみたいと思うのは当たり前のことじゃないか! 教官殿とカクノシンさんが何か話し合っている。それはすぐ終わり、教官殿はカクノシンさんから離れるとエドアルドと僕を見て口を開いた。 「今度は1人ずつの対戦とする。先ずはフォングランツ・エドアルドからだ。次はノイエ・マチアス。いいな?」 本当は誰より早く1番に相手をしてもらいたかったけど仕方がない。はい! と大きな声で答えて、僕はカクノシンさんとエドアルドの試合に神経を集中させることにした。 「よろしくお願いします!」 エドアルドが大きな声で挨拶してから剣を抜き、両手で青眼に構える。 「よろしく」 カクノシンさんもにっこり笑って答えて……だけど剣を構えようとしなかった。右手に握られた剣は、そのまま身体の横で切っ先を地面に向けている。 「よし、始め!」 教官殿の合図で、カクノシンさん対エドアルドの試合が始まった。 2人ともしばらく全く動かなかった。いや、少し違う。 エドアルドは剣を青眼に構えたまま、ゆっくりと移動して攻撃の位置を探っている。その身体の緊張感が急激に高まってくるのが、端で見ていても分った。 そしてカクノシンさんは、エドアルドが位置を変えても一切構わず、ただゆったりと立っている。これが親父がよく言っていた、自然体っていうやつだろう。どこにも無理がないというか、無駄な緊張がないというか。でも弛緩してる訳じゃ全然なくて。……つまりあからさまな隙がない。 エドアルドがカクノシンさんの斜め左前方、利き腕とは反対側までゆっくりと移動すると一呼吸だけその場で動きを止めた。それから剣を引き、素早く突きの体勢を取ると。 地を蹴った。 無言の気合いを剣に込めて突進するエドアルド。 カクノシンさんは、顔を正面に向けたままで。 その顔は静かに微笑んだままで。 その手に握られた剣も下ろされたままで。 「でぇぇぇいっ!」 その瞬間の叫びと同時に、エドアルドは剣をカクノシンさんに向けて思い切り突き出した。 「! あっ、危な……っ!」 動かないカクノシンさん。鋭く走る切っ先。涌き上がるどよめき。カクノシンさんが……刺されるっ!? 「……………え……?」 全部の動きが止まった。 「……ど、どうして……?」 カクノシンさんは動いてない。動いていないはずなのに。エドアルドの剣は、間違いなくカクノシンさんを串刺しにするはずだったのに。 エドアルドが突き出した剣は、カクノシンさんの身体の前、拳一つあるかないかの位置を滑るように過ぎていた。 動きを止め、愕然と目を瞠くエドアルド。 その顔が、ゆっくりと斜め上、すぐ側にあるカクノシンさんの顔を見上げた。 剣を突き出した格好のまま自分を見上げるエドアルドに、にっこりと笑みを投げかけるカクノシンさん。 「なかなか鋭い良い突きだ」 瞬間、エドアルドがその場から飛び退った。と。 「でいっ!」 わずかの間も与えず、一気に踏み込むと、エドアルドは剣を下方から跳ね上げるようにカクノシンさんに向けた。 ギン! と、鈍い音を立てて2本の剣が交わる。 振り上げたエドアルドの剣を、右手に握った剣でカクノシンさんが上から押えている。 エドアルドの腕に力が籠る。ギリギリと鋼の擦れ合う音がする。でもカクノシンさんは……まるで身体のどこにも力を入れていないかのようにゆったりと立っているままだ。エドアルドの全力を右腕1本の力で押えているというのに……。 キン、と、あるかなきかの仕種で、カクノシンさんがエドアルドの剣を弾いた。エドアルドがいきなり不自然なたたらを踏んで、カクノシンさんの前を数歩過ぎる。それから必死で足を踏み締めると、すぐに体勢を変えて、今度は横薙ぎに剣を払った。が。 その剣はまたカクノシンさんの剣に防がれてしまった。再びエドアルドの腕に力が籠る。なのに、交わった剣は微動だにしない。 再び、今度ははっきりと分かるように、エドアルドの剣はカクノシンさんの剣に弾かれた。 エドアルドが後方に飛び退る。そして今度は剣を正面に構え直し、ゆっくりと息を吸い、そして吐いた。 「うおぉぉぉぉっ!!」 雄叫びを上げて、エドアルドが真正面からカクノシンさんに向かう。 カクノシンさんは動かない。 エドアルドが間合いに飛び込む。振り上げた剣を鋭く袈裟掛けに降り下ろす。 カクノシンさんが難なく受け止める。 今度はそこで力押しせず、エドアルドはすぐに剣を引き、さらに攻撃を重ねた。 さらに受け止められ、そしてさらに。 一気に攻撃が加速する。エドアルドの剣は素晴しい速さで様々な角度から次々に繰り出され、そして……その全てをカクノシンさんが受け止めている。右手1本で。 カクノシンさんの周りを素早く飛び跳ねるように体勢を変えながら、ひたすら攻撃を重ねるエドアルド。 防御一方のカクノシンさん。 だけど。 「………だめだ……。全然通じてない……」 ハインリヒらしい呆然とした声が聞こえてきた。 ………信じられない。 エドアルドの剣の腕は、おそらく同期の中でも最高だろうと思う。いくら若いからといって、十貴族の、正統な剣技を幼い頃から叩き込まれてきた奴だ、並の武人などに決して劣る力量ではないはずなのに。 「…あんな攻撃をされて……どうやったら1歩も動かずにいられるんだ……?」 隣に立っていたホルバートも、「信じられない」と呟いている。あんなにほっそりして見えるのに、と。 そう。 エドアルドは全力を剣に込め、ものすごい勢いでカクノシンさんを攻撃し続けている。なのにカクノシンさんは、ゆったりと自然体でその場に立ったまま、一歩も動かない。エドアルドの勢いに押されて下がることも、剣を避けて身体を捩ることもせず、まっすぐ立ったままその剣を受け止め続けているんだ。顔はほとんど真正面を向いたままで、エドアルドが飛び跳ねるように動いているというのに、視線をまともに向けようともしない。 動いているのはカクノシンさんの右腕だけ。右手に持った剣だけ。 カクノシンさんの右手はまるで独自の意志と目を持っているかのように、剣を軽々と自在に動かし、エドアルドの攻撃の全てを確実に受け止め、跳ね返している。 エドアルドはカクノシンさんじゃなく、カクノシンさんの右腕と戦っている。そんな風にしか見えない。 エドアルドの形相が変わってきた。 目は釣り上がり、顔は引きつって、何より汗が顔中に吹き出ている。 エドアルドが再びカクノシンさんとの間に間合いをとった。 ぜえっぜえっと、離れていても聞こえてくる荒々しい呼吸。激しく上下する肩。動きを止めた途端、さらにどっと吹き出てくる汗。 そして最初から何一つ変わらず、穏やかな笑みを浮かべたまま立っているカクノシンさん。 「……なんか、さ」 おずおずと言う声はマルクスだ。 「小鳥が、さ……。自分の羽ばたきで大木を倒そうとしてるみたいだって言ったら……」 エドアルドに悪いよね……。 マルクスの声がしょぼしょぼと小さくなっていく。でも誰もマルクスを非難しようとしない。できない。 「だあぁあっ!!」 エドアルドが裂帛の気合いを込めて突進する。 カンっ!! 陽射しを反射させながら、剣が飛ぶ。飛んで、2人からほんのわずか離れた場所に落ちる。 空手になったエドアルドが、かくん、と膝を折り、地面に沈んだ。 「なかなか鋭い攻撃だった。動きも速い。ただ…少し腕の力に頼り過ぎだな。全体的に踏み込みが浅いから剣が軽い。それに瞬発力はあるけれど持久力が足りないようにも感じたから、もう少し基礎的な体力をつけた方がいいと思う。特に下半身を鍛えることを意識することが大事かな」 息も乱れていなければ汗もかいていないカクノシンさんが、にこにこと人の良さそうな笑みを浮かべてそう告げた。その顔をどこかきょとんと見上げていたエドアルドが、やがて長く深い息をつくと、ゆっくりと立ち上がる。それから傍に落ちた剣を拾い鞘におさめると、カクノシンさんに向かって背筋を伸ばした。 「ありがとうございました!」 一声上げて、頭を下げる。にっこりと頷くカクノシンさん。 周囲から一斉にため息とも呻きともつかないものが漏れて溢れた。 ただ1人、ミツエモンだけが「カクさん、さすがあ! カッコ良い! 最高!」と大喜びで手を打っている。隣にいるんだろう、スケサブロウさんの「あらぁ、坊っちゃん、俺だってあれくらいやれますよ〜」という拗ねた声も聞こえてくる。 顔に浮かんだ汗を手で拭いながら、エドアルドが僕達の元に戻ってきた。 「手も足も出なかったよ」 悔しいなあ。そう言いながら、エドアルドは笑っていた。 どうしてだろうな。エドアルドの言葉が続く。 「完膚なきまでにやられてしまったのに……何故だかものすごく気持ちが良いんだよ」 よし、次! ふいに教官殿の声が響いた。 ハッと顔を上げると、僕の目と、教官殿の何かを伺うような目が合った。これはたぶん……僕が弱気になってることを疑っているんだろう。やっぱり止めますとでも言うと思ってるんだろうか。 冗談じゃない! 「お願いします!」 僕は円の中に大きく1歩踏み込んだ。 僕の喧嘩剣法、どこまで通用するかやってやろうじゃないか! 向かい合い、一礼する。それから剣を構える。 カクノシンさんはエドアルドに対したのと同じ、右手の剣は下ろしたままだ。 そしてやっぱり思った通り、一見ゆったりと立っているけれど、だらけている部分は1ケ所もない。親父が以前口にしていた「自分の身体を、隅から隅まで、今どんな状態で、どんな力があって、何ができるかを全て把握して、そしてその力をいつでも瞬時に最大限に引き出すことができる武人」なんだ、この人は。どこにも打ち込める隙がない。 ………こんな実力を持った人が商人に仕えてるなんて……許されるのか!? 「ハッ!」 気合一声、大地を蹴ってカクノシンさんに迫る。 剣の技ではエドアルドにかなり劣る、だろうけど、僕、瞬発力にも持久力にも体力にも自信があります! 山登りで下半身も鍛えてます! そして僕の剣捌きは由緒正しいものでは全然ないです! だから、カクノシンさん! きっとあなたの意表を突くこともできるはず! と思いたい! 「でぇいっ!」 斜め青眼から降り下ろした剣は、当たり前のようにカクノシンさんの右腕に防がれる。 すかさず次の攻撃を繰り出す。今度は下から、次は突き! 僕の剣は相手を待たせない。待って考えることをさせない。ついでに言うなら、数合の内に僕自身も考えることを止めてしまう。そして身体に叩き込んだ感覚だけで相手にぶつかっていく。 親父に聞いたところに寄ると、この剣はかなり不規則な動きで相手を戸惑わせるらしい。正統の剣を修得してきた者が、「こう動けば、次はこう来る」という身体で覚えた予測が全く外れてしまい、おまけにその不規則な動きが連続し、さらに速いので、大抵の者はついてこれなくなるそうだ。 邪道とか下品とか色々言われるらしいけど、親父は若い頃、この剣法を喧嘩に勝つために身につけて、生き残るために磨き上げて、そうして実際生延びてきた。 右へ左へ飛び跳ねながら、夢中で剣を繰り出す。突く、と見せて、ざっと体勢を低くし、カクノシンさんの脛を薙ぎ払う………。くそっ、これもダメか! 勝てるなんて思ってない。でもせめて、1歩、1歩だけでもこの人を動かすことができれば! 次々に体勢を変えて、打って打って打ち込む。そして突く。それから……。 ぜはっ、ぜはっ、と荒々しい息遣いが聞こえてきた。……僕の息か。 いつの間にか汗が鬱陶しいほど吹き出ている。手が温む。 僕は剣を弾かれたのを幸いに、一旦間合いを取った。それから片手づつ、汗で温む掌を制服の裾に擦り付けて、改めて剣を構えた。 カクノシンさんは平然と立っている。 やっぱり僕じゃダメなのか………いや! 諦めるにはまだ早い! 僕はまだやれる! 「まだまだっ!」 叫んで飛び出した。 体力は僕の自慢だ。だからまだ動ける。僕は頭を空っぽにして、自分の感覚だけを信じて、ひたすらにカクノシンさんに打ち込んでいった。 「………え?」 ふいに。 妙なことに気づいた。 「そんな……はず……」 僕の剣より、カクノシンさんの剣が早い。僕の攻撃より、カクノシンさんの防御が早い。 僕が攻撃するほんの半瞬、半呼吸早く、すでにカクノシンさんの剣が防御の位置に来ている。 ……カクノシンさんは……僕の次の攻撃を、全部事前に見切っているっ!? んなバカな! だってこの剣は、親父が独自に身につけた実戦剣法で、どんな流儀にも当て嵌まらないのに!? それなのにどうしてっ!? どうして僕の太刀筋が読めるんだよっ!? 僕は……これじゃまるで操り人形だ。 カクノシンさんの剣に「さあ、ここだ。次はここだ」と誘われ、操られるままに剣を振り回しているだけだ。 こんなんじゃ、どう頑張ったってカクノシンさんの意表を突くことなんてできっこない! さっき、マルクスはなんて言ったけ……? 小鳥が、自分の羽ばたきで大木を倒そうとしてるみたいだ。と。 僕の頭に浮かんだ情景はちょっとだけ違っていた。 小さな赤ん坊が、その柔らかな小さい拳で、血盟城の城壁を崩そうとぽこぽこ壁を叩いている姿。 可愛らしくも、ひどく滑稽なその姿……。 どっと徒労感が押し寄せてきた。急激に息が上がる。足が……もつれてくる。 カクノシンさんはこんな僕をどんな目で見ているんだろう? 戦っている最中だというのに、そんなことが気になって堪らなくなる。 目線を上げた。 カクノシンさんが気づいた。 ふ、とその目が笑った。「ここまでか」と言っている。 キン! と一つ鋭い音。 僕の剣が手から離れた。 反動で数歩、よろめくようにカクノシンさんから離れ、その場で思わず地面にへたり込みそうになって。それから。 怒りが一気に腹の底から全身を走り始めた。この……情けない僕自身の姿が。こんな姿を晒していることが。悔しい。悔しくて、腹が立って、そして。 自分自身への怒りが、ほんのちょっとだけ僕に力を与えてくれた。 僕はエドアルドみたいに潔くない。 下品だと言われても。卑しいと罵られても。潔く負けを認めるなんて僕はイヤだ。結局は負けるとしても、それでも。 最後の最後まで、粘って粘って粘り抜いてやる。相手がうんざりして戦いを放棄するまで。 それが、ほら吹きオーギュにガキの頃から鍛えられてきた僕の勝負の仕方だ。 こんなみっともない姿で終わってたまるか!! 「まだぁっ!!」 構えを解きかけていたカクノシンさんが、ハッと僕を見た。 手が背後にまわる。短剣の柄が指に触れる。 「この短剣に何度も命を助けられた」と親父が言っていた。お護りだと。 この短剣と共に戦場を生延びてきた親父のためにも! 短剣を胸元に構え、地面を蹴る。 待て! と叫ぶ教官の声。聞けるか! 突き進む。カクノシンさんの間合いに入る。短剣を……。 「うわっ!」 脳天までじーんと伝わる強烈な痛みと痺れが、短剣を握る手首を襲った。 今度こそ、本当に地面にへたり込んで、いや、無様に尻餅をついてしまった。 「……いっつぅ……」 覚えているのは、僕が短剣を突き出すと同時に、カクノシンさんが剣をくるりと持ち替えて、握る柄を僕の腕に降り下ろすところまでだ。……あの柄で、手首を叩かれた訳だな、つまり。 じんじんとした痛みが脳を刺激したのかどうか、何か憑き物が落ちたように頭の中がすっきりとしてきた。 ………バカだなあ、僕は。 頭に血を上らせて戦いに勝てる奴なんかいないって、ついさっき聞いたばかりなのに。 「…………あ」 見ると、カクノシンさんが飛んでいった短剣を拾ってくれている。……じっと見てる。 「……あっ、あのっ、済みませんっ!」 慌てて立ち上がり、姿勢を正して思いきり深く頭を下げた。 「僕、夢中になってしまって……。あ、あの、大変失礼しました! その……」 カクノシンさんが短剣を見ていたのと同じような目つきで、じっと僕を見ていた。 何かを探るみたいに。 「……あのぉ……」 困った顔の僕に気づいたのか、カクノシンさんがふわっと笑って頷いた。 「…カクノシンさん……?」 「そうか。なるほど、そうだったか」 ……って、何が……? 「どうりで覚えのある太刀筋だと思った。それに……そう言えば、ノイエという姓だったな」 言いながら、カクノシンさんが短剣の刃を持ち、柄をこちらに向けて返してくれる。 「これは君のお父さんのものだろう?」 「ど、どうして……っ?」 カクノシンさんが知ってるんだ!? 「君は」 カクノシンさんの笑顔が、何かを思い出すように一層深く優しくなる。 「鉄腕オーギュの息子だったのか」 僕とカクノシンさんの対決(ってもんじゃ全然なかったけど)の次は、スケサブロウさんが再び前に出てきた。 「せっかくだし全員相手してやっから順番に出てきな。大丈夫だって。いきなりぶっ飛ばしたりしねえから」 さっきはちょっと失敗な。スケサブロウさんがへらっと笑う。 「教官達にお前さん達の実力をちゃんと分ってもらえるように相手してやるよ。……ほら、お前ら全員士官になるんだろう? びくびくしてんじゃねーよ」 お願いしますっ! 円を囲む一画から声が上がった。そこに固まっているのは確か、上流貴族の取り巻きとかじゃなく、それぞれが士官になることを希望してやってきた中流地方貴族の子弟達のはずだ。出身地や家の格、でなければ単に気の合う者同士で集っている。 1人が飛び出してきて、スケサブロウさんと向き合い一礼した。 たぶんあいつもミツエモンの一行を平民風情と取り合わずにいたはずだけど、さすがに2人のあの実力を目にしてしまったら、それなりに感じるところがあったんだろう。思いのほか礼儀正しく相対してる。 スケサブロウさんも今度は1対1にするらしい。 2人の対戦が始まった。言葉通り、いきなり叩きのめすことはしないで、きちんを剣を合わせている。そうすればそれなりに力が拮抗しているようにも見えて(錯覚だけど)、次第に周囲の同期生達が熱が籠った応援をするようになってきた。 がんばれ! いけ! そこだ! という声が次々に溢れてきて、次第に手を振り、足を踏み鳴らし、口笛を鳴らす者まで現れた。……興奮すると、貴族もあまり平民と変わりがないんだな。 教官達が特に止めることもしないので、喧噪はどんどん大きくなってくる。 そんな中で。 僕は1人、その興奮に乗り遅れたまま、視線を円の外、ミツエモンとカクノシンさん、それからボッシュ教官、ユーリア教官の4人がいる場所に向けていた。 『きみはてつわんオーギュのむすこだったのか』 てつわん…? 鉄腕? 聞いたことない、そんな呼び名。 親父はいつだって「ほら吹きオーギュ」だった。 それに何より。 カクノシンさんは、僕の父さんを知っているんですか? あの時、カクノシンさんにそう言われて、本当はすぐにそう問い返したかったのだけど、「てつわん」という聞き慣れない単語に戸惑っている内に教官殿からその場を追っ払われてしまった。そしてカクノシンさんはそれ以上僕に何も語らず、ミツエモンの待つ場所に行ってしまったんだ。 今すぐにでも話を聞きに行きたいけど……ダメだよな。今は。 「マチアス? どうしたんだ?」 ハッと横を見ると、エドアルドとホルバートがじっと僕の顔を覗き込んでいた。 「ああも見事にやられて悔しいのは分かるけど……」 「あ、や、違うんだ」 慌てて答えたけれど、2人の疑わしい目つきは変わらない。仕方がないから、僕はカクノシンさんの言葉を2人に教えた。 「ホントか、それ!」ホルバートが声を上げる。「すごいじゃないか、マチアス!」 「てつわん、というと、やっぱり鉄腕だろうな。やはり君のお父上はなかなかの腕の持ち主だったのだな」 ホルバートとエドアルドの声に、セリムが「何? 何かあったのかい?」と身を乗り出してくるし、マルクスやハインリヒ達も顔をこちらに向けてくる。 「カクノシンさんがさ、マチアスの親父さんの知り合いだったらしいぜ!」 へえ! と皆の視線が集中する。 「うん……そうらしいんだけど……でも……」 「何だよ、自分の父親とあのカクノシンさんが知り合いだったなんてさ、嬉しいだろ!?」 「そうなんだけど……でも……」 僕は、親父からカクノシンさんのことを何も聞いたことがないんだ。 皆が、え? という顔で僕を見る。 「あんなすごい人なのに……どうしてなんだろうって……」 ホラばっかり口にして、だから本当の事は忘れてしまったのだろうか。 ウェラー卿コンラート閣下と知り合いだったなんて突拍子もないことを口にする必要、全然ないのに。 カクノシンさんみたいな凄い人がちゃんといるんだから、カクノシンさんのことを自慢すればよかったのに。そりゃあ無名の武人を自慢したって皆感心してはくれないかもしれないけれど、でも。 ………雲の上の、本当にいるんだかいないんだか分からないような立派な方より、カクノシンさんのような人をこそ自慢してくれる親父でいて欲しかったな、なんて、ふと思ってしまった。 黙り込んでしまった僕をどう思ったのかは分からないけれど、皆は何も言わないままでいてくれた。誰かがぽんと肩を叩く。なぜかため息が出てしまった……。 そうこうしている内に、円の中ではいつの間にかスケサブロウさんからカクノシンさんに交代していた。 「お願いします」 声が上がって、1人が進み出てくる。 おお、と声が上がる。……フォンロシュフォール・アーウィンだった。 円の中に入って姿勢を正すと、きちんと一礼する。 フォンロシュフォール・アーウィンか……フォンロシュフォール……未来のフォンロシュフォール家の当主。そして……ロシュフォール領の………。 「………あ…!」 「今度は何だい? マチアス」 セリムが声を掛けてくる。 「僕……うっかりしてた」 「何が?」 今度はホルバートの声だ。 「彼は」視線を円の中に向ける。「将来ロシュフォール領の領主になるんだ」 「それは……そうだろうな」 エドアルドが頷く。 「ロシュフォールのご当主の長男だからな。余程の事がない限り、彼が次期当主だ」 うん、と頷いて、僕は今の今まで忘れていたことを口にした。 「僕は、ロシュフォールの領民なんだ」 あ、と周りにいた仲間達が小さく口を開ける。 僕は改めて、しみじみと円の中でカクノシンさんと剣を戦わせているフォンロシュフォール・アーウィンに目を遣った。 「何か不思議な感じがするよ」 ふいに言葉が口から飛び出してしまう。 「ご領主様って考えたら、とんでもない高みにいる人のように感じるんだ。今でもさ。口にすることも恐れ多いような……。でも……今こうして、同じ場所で同じ制服を着て、共に学んでる。……あいつがフォンロシュフォールだって分ってたはずなのに、いずれは……僕の故郷のご領主になる人なんだってことが全然頭に浮かばなかったんだよ。それが……不思議っていうか何ていうか……」 「ここでは領主だの領民だの、そんな身分の差は意味がない。僕は以前からそう言っているつもりだが」 エドアルドがどこか不本意そうに言う。確かにその通りだ。ただそれが。 「自分のことに当て嵌めて考えてなかったんだな、僕は。……ゴメン、ちょっと恥ずかしいことを言ってしまった」 だけど。 僕はあらためて、真正面からエドアルドを見た。エドアルドが軽く首を傾げて僕を見返す。 「彼は僕が同じロシュフォールの民だと分っても、君のように『同郷か』と笑ってはくれないだろうな」 カクノシンさんとスケサブロウさんが全員を相手にして、剣術の時間が終わった。 ちなみにハインリヒとミハエルとルドルフ、それからマルクスの4人はカクノシンさんに、セリムとホルバートはスケサブロウさんに相手をしてもらっていた。マルクスがカクノシンさんの前に飛び出した時は、正直、びっくりしてしまった。申し訳ないからマルクスには言えないけれど。 教官殿の号令で一斉に「ありがとうございました!」と声を上げる僕達に、カクノシンさんが「お疲れさま」と返してくれる。カクノシンさんもスケサブロウさんも、50人以上を相手にしたのに全然疲れた顔をしていない。すごいよ、本当に。 解散して次の講義、いや、今日の試験に立ち向かうため教室に戻ろうと歩き出して。 ふいに顔を上げると、僕達の前にボッシュ主任教官殿が立っていた。 「……教官殿……?」 ボッシュ教官殿は僕達の顔をざっと眺め渡すと、ほんのわずかだけ躊躇ってからこう言った。 「今日の事を、お前達はいずれ必ず誇りに思うだろう。今日の経験を決して忘れるんじゃないぞ」 人間の国、友好国とそうでない国についての現在の政治情勢について、それからかのウェラー卿が滅ぼした(と言ってもいいだろう?)大シマロンの興亡について、知っていること知らないこと、怒濤のような口頭諮問を終え、魂をどこかに落っことしたような気分で食堂に入ったら、ミツエモンが「やっほー!」とまたまた意味不明な声を上げて手を振っていた。 「お疲れさん! 今夜はたっぷり運動したから、皆ぐっすり眠れそうだよね!」 「……その前に課題があるんだよ……」 食事の盆を置いた途端のミツエモンの脳天気な言葉に、出る声も思わず低くなる。 でもカクノシンさんの顔を見た瞬間、疲れも何も一気に吹っ飛んでしまった。 「あ……」 「カクノシンさん、スケサブロウさん」 ……またエドアルドに先を越された。 「今日は本当にありがとうございました。あれほどまでの完敗は、正直申しまして初めての経験です。大変良い勉強をさせて頂きました。できましたら、またぜひお相手を願いたいのですが、よろしいでしょうか? それに色々とお話を伺いたいこともありますし」 僕も! ぜひまたお願いします! 皆が口々に、試験の疲れも忘れたように熱心に言い出した。僕も本当だったら誰より熱心に練習相手をお願いしたいところだけど、今はそれよりも。 「あの! カクノシンさん!」 やっと口を挟んだ僕に、カクノシンさんが視線を向ける。 「カクノシンさんは、僕の父をご存知なんですか!?」 「結構有名人だったんだぜ? 少なくとも俺達の間じゃさ」 最初に答えてくれたのはカクノシンさんじゃなく、なぜかスケサブロウさんだった。 「…あ、あの……有名って………」 「寄ると触ると拳にモノを言わせる、そんじょそこらにゃ居ねえだろうってくらいの乱暴者ってことで」 「……………」 「あの頃さ、2人いたんだよ。剛腕カールと鉄腕オーギュってのがさ。こいつらがまた揃いも揃って乱暴者で。口の聞き方が気に入らねえと言ってはぶん殴る。挨拶が悪いと言ってはぶん殴る。命令の仕方が悪いって上官をぶん殴った時には、さすがに営倉に放り込まれてたけど」 「……………」 「剛腕と鉄腕っていう、この2人がまた仲が良くってな。同じ隊にいたこともあるが別の隊で戦っていたこともあって、それぞれ生延びて帰ってきて、顔を合わせた時がまた見物で。お互い駆け寄ってな、よく生きてたって抱き合って、お互いの身体をばんばん叩き合うんだな。まあ、そこまではよくある光景なんだが、こいつらはその後が凄いんだ。今まで大口開けて笑ってたと思ったら、いきなりぶん殴り合うんだぜ? そりゃあもう親の仇みたいに本気でな。最初の頃はてっきり喧嘩してるんだと思って止めたヤツもいたんだが……。あいつら、その親切なヤツを2人してぶっ飛ばしてな」 『お互いの無事を祝いあってるのに、邪魔をするんじゃねえっ!』 「そう声を揃えて言いやがるんだな。その内誰も止めなくなったんだが、慣れてくると不思議なもんで、あいつらが殴り合ってる姿が何とものどかで平和な光景に見えてくるのさ。鳥は飛ぶもの、魚は泳ぐもの、剛腕と鉄腕は殴り合うものってな」 「………………」 ………おーやーじー………。 だんだん暗くなる僕を気遣ってくれてか、両側に座っていたエドアルドとミハエルが肩にそっと手を置いてくれた。 「だけど戦場では2人とも本当に頼もしい仲間だった。揃って底抜けに気の良い連中だったし」 カクノシンさんが懐かしそうに言った。 「よく一緒に酒を飲んだし、色んな話もしたが、彼らに関しては楽しい思い出しか残っていない」 マチアス。カクノシンさんが僕を呼ぶ。 「君のお父さんは本当に惚れ惚れするほど強かった。それに心根が真直ぐで、信頼するに足る立派な武人だった。君が士官になっても、君にはお父さんをずっと誇りにして欲しいと俺は思うな」 カクノシンさんは優しいなあ……。 何だか涙が出そうになった。親父はカクノシンさんのことを一言も教えてくれてないのに……。 「それにしても似てねえなあ。俺もたい…カクさんに言われるまで思いつきもしなかったぜ?」 スケサブロウさんの言葉に、あ、と顔を上げる。 「僕、母親に似てるんです。髪の色も瞳も、顔がそばかすだらけなのも…。体つきも全然親父、いえ、父に似てなくて……」 「なあなあ!」 ミツエモンがいきなり声を上げた。 「それで、マー君のお父さんって、今なにやってんだ? ……あ、もしかしてもうお亡くなり……」 「ぴんぴんしてるよっ! ……えっと、あの……」 なぜかちょっと言葉に詰まって、顳かみを指で掻いてみたりする。 「村で……パン屋、やってます。その……パンやケーキや、それから……お菓子を作って……ます」 「………パンって……。あいつが? あの、オーギュが……? あいつがケーキを焼いてるって!? あのオーギュが……あの手で菓子を作ってるってか……!?」 信じられねえっ! 一声叫んで、スケサブロウさんが盛大に吹き出した。カクノシンさんも、笑って良いんだかどうして良いんだか分からないという、複雑な表情で僕を見ている。 スケサブロウさんがぎゃはぎゃはと笑い出した。と、間もなく。 コホンっ、と一つ咳払い。スケサブロウさんがハッと笑いを止めた。 スケサブロウさんの背後をユーリア教官殿がゆっくりと通り過ぎて行く。 やべぇ、と悪戯っ子みたいににやりと笑って、スケサブロウさんが姿勢を戻してスプーンを手にした。 「笑い過ぎだ、ヨ…スケさん」 カクノシンさんが苦笑を浮かべて嗜めてくれた。そうだぞー、失礼だぞーとミツエモンも唇を尖らせている。……お前もさっき結構失礼だったぞ。 「そういう親父しかご存知ないなら仕方ないですけど」 息子としては黙って笑われている訳にはいかない。 「親父、いえ、父のパンもケーキも美味いと評判で、店は繁盛してます。特に誕生日を祝うためのケーキは、他の村の人までわざわざやってきて父に依頼するくらいなんです。僕にとっての父は、最高の腕を持つパン職人です。……兵士としての父がどんな人物だったのか今日初めて教えて頂きましたけど、僕は……職人としての父をずっと誇りに思ってきましたし、これからも誇りに思い続けます!」 ………熱くなってしまった。ちょっと照れくさい。 「そうか」 カクノシンさんがそう言って、優しい笑顔で僕を見ると大きく頷いてくれた。 「……あいつがねえ……。良い息子を持ったもんだ」 笑って悪かったな。スケサブロウさんが笑顔にちょっとだけ神妙な表情を乗せて言った。 いいえ、と笑顔で言うと、スケサブロウさんもニッと笑う。 「おれ、マー君のお父さんのパンやお菓子、食べてみたいなあ」 「坊っちゃん、甘いものが大好物ですもんねー」 スケサブロウさんの言葉に「うんっ!」とミツエモンが大きく頷く。 「今度親父に言っておくよ。王都に来ることがあったら、土産に自慢のケーキを持ってきてくれって」 「絶対だぞ!」 そうやって、その日の夜はしごく平和に過ぎた。……課題(「元大シマロンの現状と今後の展望について述べよ」)は「現状」の認識すらアヤしくて、終わる頃には東の空が明るくなりかけてたけど……。 翌朝。 睡眠不足でちかちかする目で教室に集った僕達の前に、苦りきった顔のボッシュ教官殿が立った。 その目が一瞬だけ、ものすごく剣呑な光と共に上流貴族達が集る一画に向けられたのを僕ははっきり見てしまった。 まさか……まさか、フォンギレンホールが昨日言ってたことが……!? 「……本日より入学式までの3日間、お前達に任務が与えられることとなった」 任務? まだ入学を許されてもいない僕達に? 一部を除いて、教室内が戸惑いに揺れた。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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