ほら吹きオーギュの息子・6



「でしたら、ミツエモンさんは何と呼べばいいんでしょう?」

 「ミーちゃん」と名付けられてしまったミハエルが、ちょっと意地悪な笑みを浮かべて発言した。

 一瞬、きょとんとその顔を見上げるミツエモン。
 と思ったら、わたわたと両手を振り始めた。……お前な、色々飛び散るからスプーンは下に置けよな。

「おれはいいっ。おれはミツエモンのまんまでいいから! あ、『さん』はいらないから!」

 いやぁ、そうはいかないよねえ? だよなあ。皆が(もちろん僕もだけど)にまにまと人の悪い笑いを浮かべてミツエモンを眺める。不穏なものを感じたのか、ミツエモンがきょときょとと僕らを見回した。

「ミツエモンっていうのは、どうも縮めにくいよね」
「だよなー。ミツ君、ミツエ……うーん」
「だっ、だからあ、ミツエモンのまんまで……」
「僕がミーちゃんならさ」ミハエルが再び口を開いた。「ミー君とか! あ、ミッちゃんでもいいか」
 なるほどー、と賛同の声が上がり、「ミツエモンはミツエモンじゃなきゃダメなんだよー」という声をかき消した。
「そうだ、これはどうだろう」
 ハインリヒが声を上げる。皆の視線が集中する。

「モンモン!」

 ミツエモンの顔が悲鳴を上げる1歩手前で固まった。どっと座が沸く。見れば、カクノシンさんもスケサブロウさんも、お腹や口を押えて笑いを堪えている。

「しっ、信じらんねーっ、何だよ、それ!? ヤだかんなっ、そんなの!」

 ミツエモンが真っ赤にした頬をぷくーっと膨らませている。

「あ、せっかく考えたのに」
「だよね。そういうことを言うのはあれだよね」
 全員で目配せして。せーの。

「「「わがまま!」」」

 声を揃えて言われて、ミツエモンは目をぱちくりと瞬かせ、しばらくぽかんと僕達を見ていた。
 ぷっと誰かが吹き出した。カクノシンさんだった。ミツエモンから目を逸らし、それでも耐え切れずにくっくと肩を揺らしている。スケサブロウさんはと見ると、ほとんどこちらに背を向けて吹き出すのを懸命に堪えているらしいけど……身体が震えてますよ。
 そんな2人のお供を、わずかに唇を突き出し、恨みがましい眼差しで順繰りに見上げてから、ミツエモンは ため息と共にくしゃりと表情を崩した。それから徐に両手を肩の辺りまで上げて言った。

「もういぢめんなよー。こうさーん。……でも頼むから『モンモン』は止めて」
 お願いします!

 今度は胸元で手を合わせ、僕達を拝んでくる。それからちろっと目を開けて、そーっと僕達の表情を伺い始めた。その姿が何ともいえずやんちゃというか無邪気というか、とにかく可愛くて……。
 ぷふっと吹き出したのはエドアルドだった。
 それからマルクスが、ホルバートが、ハインリヒが笑い出し、そして僕もセリムもルドルフもミハエルも、一緒になった笑った。
 きょとんと目を瞠いたミツエモンは、それでもしばらく手を合わせたままでいたけれど、すぐにふわっと表情を緩め、ついには僕達と一緒になって腹を抱えて笑い始めた。
 何かもう、ホントにこいつってば……!

 「マー君」も悪くないか。

 笑顔に絆されたワケじゃない、つもりだけど。そんなことを思いながら、僕は笑い続けた。

「で? 話は纏まったとみていいのか?」

 ぴたりと全員の笑いが止む。
 一瞬背筋を震わせてから、そろそろと視線を上げた先に……ユーリア教官殿が腕を組んで立っていた。

「和やかなのは結構なことだが、食事も訓練の内。あまりダラけるのは感心せんな。この注意を受けるのは、お前達これが2度目ではないのか? ……次はないぞ?」
 申し訳ありませんっ!
 背筋を伸ばして叫ぶと、一斉に皿に向かう。ユーリア教官の静かな静かな声が、ものすごく怖い。
 ……あれ?
 どうしてユーリア教官殿なんだろう?
 ちょっと不思議に思って、僕は横目で教官達が並ぶテーブルを見遣った。……ボッシュ教官殿がほとんどテーブルに突っ伏している。その両側では、別の教官達が何か言いながらボッシュ教官の肩を叩いたり、背を撫でたり……。
「……あの、教官殿」
 余計なことをと思いつつ、それでも声を出してしまう僕。「なんだ?」とその場に立ったままで僕達を見張っている(?)ユーリア教官殿が答えた。
「ボッシュ主任教官殿はどうなされたのでしょうか? 何だか、このところお身体の具合があまり……」
「貴様が気にすることではない」
「申し訳ありませんっ」
 ただ。
 僕の謝罪には反応せず、ユーリア教官殿が呟くように言葉を続けた。

「魔族人生初めて、自分が胃弱であることを自覚してしまっただけだ」

 ボッシュ教官殿は胃痛で苦しんでおられるのか?
 ……まさか僕達の出来が悪くてー……なんてことはない、よなあ……?

 僕の目の前では、やっぱりいつの間にか食事を終えてしまっているカクノシンさんとスケサブロウさんが、頬張った食物を顔中の筋肉を使って懸命に咀嚼するミツエモンをにこやかに眺めていた。


「じゃあさっ、エド君はエド君でいいんだよなっ?」
「ええ、いいですよ」
 だからさあ。ミツエモンがまたちょっと頬を膨らます。
「単なる見学者なんだから、いつまでもお客さんだと思わずに普通に呼んで欲しいんだけど。皆もさ」
 な? と笑顔を向けられたら、やっぱりイヤだとは言えないよな。
「じゃあ、ミツエモン」
 僕がそう呼び掛けると、ミツエモンがぐっと親指を立てた。
「うん! それでオッケー!」
 ……おっけえ…? 良く分からないけど、本人が喜んでるんだからまあいいか。
「マー君は? マー君でもいい?」
 いい? って、もう『マー君』で定着しちゃってるじゃないか。
「どっちでもいいよ。ミツエモンが呼びたい方で呼べば。マチアスって名前を忘れてくれなけりゃね」
 苦笑して答えると、またも「おっけー!」と言う。……「了解」とか「よし」とか、そういう意味なのかな? これってもしかして都会人独特の言葉とか?
「僕もルディでいいよ」ルドルフが続けて言う。「そんな風に呼ばれたことはなかったけど、なかなか綺麗な響きだしね」
 気に入ったよ、と言われて、ミツエモンも嬉しそうに笑っている。
「僕はセリムにしておいて欲しいな。さすがにセッちゃんはねー……」
「僕、マルちゃんでもいいです。……ちょっと可愛くて僕には似合わない気もするけど……」

 そんなこんなと、皆でわいわい話しながら、僕達は午後の講義に向かうため廊下を歩いていた。
 今日の午後は剣の教練だ。得意科目なのと、思いきり身体を動かせる予感に、僕の気分も1歩毎に浮き立ってくる。
 腰のベルトには親父が作ってくれた革の筒を装着して背後に回し、やはり親父に貰った短剣が挿してある。
 僕の剣技は親父直伝だ。俗に言う喧嘩剣法で正統な剣術じゃない。だけど正統な剣術を学んできた相手に対してもかなり通用するのは入学試験で実証済みだ。実際、親父もこれで生延びてきたんだし。
 ただ我流なりの弱点は多い。それは親父も良く分っていたらしくて、親父は僕にその剣術だけじゃなく、体術(といえば聞こえはいいけど、言うなれば取っ組み合いでの勝ち方だ)と、それから長剣だけじゃなく他の武器も使って戦う方法、いや、喧嘩の仕方を仕込んでくれた。実は短剣もその一つだ。
 長剣を持った相手の間合いに飛び込んで、致命傷を与えることはできなくても戦闘能力を奪う方法を、色々と教えてくれた。取っ組み合いの方が得意だし、ここで短剣を使うことはまずないだろうけど、正統な剣術に対しても通用するのか、一度試してみたいところではある、な。

 そんなことを取り留めもなく考えながら、歩いていた時だった。

 僕達が進んでいる廊下と交差する横手の廊下からやってきた別の一団が視界に入った。
 その一団の先頭にいるのは……タウシュミット・ルーディンだ……。
 げ、とセリムらしい声が背後から聞こえた。
 彼ら、同期候補生の中でも最上流の貴族の子弟達が、集団になってそこにいた。
 
 わずかに歩みが鈍る。が。
「行こう」
 ちょっとだけ気弱になった僕の背中を押してくれたのは、エドアルドだった。
 そうだよな。別に遠慮する必要なんてないよな。それに僕達の方が、わずかだけど先に進んでいるんだし。
 胸を張って歩き出す。エドアルドも、それから反対側にいたミツエモンも、背後に続く皆も、僕達を睨むように見つめる一団に目を向けることなく歩く。

「無礼者!」

 ………これしかないのか、こいつは。
 顔を向けてみれば、 まるで集団の先払いを勤めているかのように先頭に立つタウシュミットが、僕達を睨み付けていた。

「卑しい平民風情が、一体誰の前を横切っているのか分っているのか!? 身分を弁えろっ!」

「弁えるべきは君の方だろう、タウシュミット・ルーディン」

 すい、と顔を向けてタウシュミットと向き合うのはエドアルド。
 さすがに彼に対しては、タウシュミットも怒りの切っ先が鈍るのか、ぐ、と詰まっている。

「この場所においては、僕達は全員が同じ立場にある。身分も何も一切関係ない。それは最初から分っていたことではないのか? ここで身分を振りかざすのは、魔王陛下の貴いお志に背くことになるぞ」

「そうとばかりは言えないのではないか? フォングランツ卿」
「……卿は封印だろう」
 エドアルドがそう言って視線を向けた相手は、タウシュミットを押し退けるように前に進み出ていた。タウシュミットがさっと横に避けている。
「それも間もなく改められるだろう」
 笑ってそう言うのは、フォンギレンホール・バドフェルだった。2人目の「フォン」だ。
「…どういう意味だ?」
「ギレンホールの父上にご連絡した。どうも現在の教官は、士官を養成するにはふさわしくない人物が揃っていると。我が父から、士官学校にふさわしい教官に変更するよう上に話がされるだろう。遠からずあの礼儀知らず共はこの場所から追い払われることになる」

 こくりと喉が鳴った。

 教官達は厳しい。だけど、身分にこだわりなく、誰に対しても厳しいその態度は間違いなく公平なものだ。
 その教官達が公平であるが故に教官の地位を追われるとしたら……。

「気の毒だが、僕はその期待は捨てるべきだと思う」

 落ち着いた声に、ハッと隣を見る。今は無表情に戻ったエドアルドが、冷静な眼差しをギレンホールに向けている。

「今回教官の入れ替えが行われたのは、魔王陛下のお志に添わんとするが故だ。身分に斟酌することなく、全ての候補生を公平に扱うことができ、また世界の情勢が大きく変化しつつある現代において、より眞魔国の士官にふさわしい人材を育てることができるとして選び抜かれた教官達だ。あの教官達を任命したのがどなたであるかを推察すれば、ちょっとやそっとの抗議で入れ替えられると期待するのは考えが甘いのではないか。それに……」
 くす、と笑って、というか、唇の両端をくいと上げてエドアルドがギレンホールを見た。

「成績が悪くて放校されそうだから、息子に甘い教官に替えてくれ、というのでは、お父上が恥をかくだけだと思うがな」

 う、うわぁ……。
 エドアルド、お前、それはかなりキツいぞ……?
 こういうことも言えるやつだったんだと思うと、何となく怖くなってちょっとだけ腰が引けてしまった。
 そして言われた方はと言うと。

 何を言われたのか分からなかったのか、わずかにきょとんとしてから(結構ニブいな、こいつ)、フォンギレンホールはやがて息を呑み、目を瞠き、硬直させた身体をわなわなと震わせ始めた。引きつった頬と唇がぴくぴくと発作的な痙攣を繰り返している。………このままだど、ぷちんと何かが切れて、ぶっ倒れるかもしれないぞ。
 フォンギレンホール本人だけじゃなく、タウシュミットや他の貴族達、お取り巻き連中も、十貴族の一員からこんなセリフを投げ付けられるとは思っていなかったらしく、言い返す言葉も見当たらないといった様子で愕然とエドアルドを凝視していた。
 張り詰めた空気で対峙することほんの数呼吸。

「許さんっ!」

 叫んだギレンホールがやおら剣の柄に手を当て、一気に引き抜こうと……。

「待て! フォンギレンホール卿!」

 集団の背後から鋭い声が掛かった。

「何をやっているっ! バドフェル殿を止めろ!」
 その声は更に鋭く響き、それに突き動かされたように、周囲にいた数人がフォンギレンホールの腕を掴んだ。
「お止め下さい、バドフェル様! このような場所で剣を抜けば即刻放校です!」
 フォンギレンホールの取り巻きらしい1人が、耳元でかん高い声を上げる。
 ぜえっぜえっと、まるで長距離を駆け抜けてきた後のような荒い呼吸に肩を上下させながら、剣の柄を握りしめたままのフォンギレンホールがエドアルドを睨み付けている。
 そしてエドアルドはというと……鉄壁の無表情だ。白々とした端整な顔を、平然と怒りに歪む同期生の顔に向けている。

「………敵を前にして撤退するなどと考える腰抜けに……このような無礼をされる謂れは……ないっ!」

 絞り出すような、唸るような、激しい呼吸と共に押し出された声は、殺気すら感じるほど荒んでいる。

 ふん、と鼻で笑う音がした。
 …………エドアルド〜……お前、ホントに怖いよ〜……。どうしたんだろう、こんな風に人をバカにするようなやつじゃ決してないはずなのに……。

 ぎりぎりと、エドアルドを睨むフォンギレンホールの眼差しがキツくなる。柄を握る拳が白く筋張る。

「いい加減にしたまえ、フォンギレンホール卿」

 フォンギレンホールを止めさせた声だ。その人物が集団の前に進み出てくる。
 赤味がかった金色の、まっすぐ伸びた髪を襟元でゆったりと纏めた長身の男だ。
「柄から手を離したまえ。士官候補生が私闘で剣を抜いたとなれば、ただでは済まされない。フォンギレンホールの家名にも泥が塗られることとなるぞ」
 有無を言わさない強い口調でそう告げられて、フォンギレンホールはわずかの逡巡の後、いかにも渋々といった様子で剣から手を離した。
 それを確認すると、新たな男がこちらに身体を向けた。

 ………3人目の「フォン」だ。

 今年、士官学校には十貴族の子弟が3名入学した。いや、する予定だ。
 エドアルドとフォンギレンホール・バドフェル、そしてこの男、フォンロシュフォール・アーウィンだ。
 エドアルドとフォンギレンホールが、十貴族とはいえ当主の子弟でないのと違って、このフォンロシュフォール・アーウィンだけがロシュフォールの当主の長男、つまり跡継ぎであり、未来のロシュフォール当主となる男だった。

 フォンロシュフォール・アーウィンが、琥珀色の瞳で僕達をざっと値踏みするように見渡してから、改めてエドアルドと向き合った。

「今さらこう言うのも間の抜けた話だが……久し振りだな、エドアルド」
 ………知り合いか?
「……ああ」
 エドアルドの答えはひどくそっけない。
「君が入学すると聞いて、楽しみにしていたんだ。また親しく付き合えると思ってね。……お父上やお母上、それから兄上達は御息災か?」
「至って元気だ」
「エドアルド」フォンロシュフォールが困ったような笑みを白皙の面に浮かべる。「避けられているとは思いたくないのだが……。こうして共に学べるようになったのだ。旧交を温めたいとは思ってもらえないだろうか? 君が……」
 フォンロシュフォールの視線が、ちらと僕達に向く。
「どういうつもりで常に彼らを従えているのか知らないが……」
「従えてなどいない。彼らは友人だ」
「エドアルド……」
「そろそろ午後の講義が始まる。お先に失礼する」
 行こう、と促され、それまで全く口を挟む余地なく、ただ傍で見ているしかなかった僕達は、無言で頷いてから歩きだした。……自覚してなかったけど、どうも緊張して身体が強ばっていたらしい。何だか足がぎくしゃくする。

「分を弁えた実に立派な選択だ!」

 いきなり声が背後から飛んできた。フォンギレンホールだ。立派とは言ってるが、褒めてるワケじゃないらしい。その声は、人を嘲り笑う毒がたっぷりと滴っているかのように、耳にひどく汚らしく響いた。

「卑しい身分の連中をわざわざ友に選ぶとは、実に実に謙虚な男だな! 褒めてやるぞ! 汚らわしい裏切り者! 反逆者のグランツが! お前達一族は……」

 十貴族の面汚しだっ!!

 エドアルドの足がぴたりと止まった。
「……エド……」
 エドアルドの顔からすうっと色が消える。跳ね上がる眉、瞠いた目、引きつる頬。
 きりきりと噛み締めた唇にぷつりと血の珠が浮かんだのを見た瞬間、僕の喉がごくりと鳴った。
 と。
 エドアルドがものすごい勢いで振り返り、ギレンホール達に向かって荒々しく足を踏み出した。
 その時。

 ふわりと。柔らかな動きでエドアルドの前に立ち塞がった人がいた。
 エドアルドがびくんっと動きを止める。そして見上げた先にいるのは。

 カクノシンさんだった。

 カクノシンさんはエドアルドの両の二の腕を軽くぽんぽんと叩くと、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。

「あんな下らない言葉に一々反応してはいけないな。まともに相手にしては、君の精神まで一緒に地に堕ちることになるぞ。無視するのが一番だ。もしまだそれが難しければ……そうだな、頭の中でこてんぱんに叩きのめしてやれ」

 穏やかで優しくて爽やかな笑顔を浮かべ、それはもう誠実な声で……結構言うなあ、この人も。

 カクノシンさんをじっと見上げていたエドアルドは、やがて肩を落とすようにして身体から力を脱くと、恥ずかしそうに顔を伏せた。
「……はい、すみません……」
 エドアルド、と口々に名前を呼びながら、僕達は友の周りに集った。まだ顔を伏せたままのエドアルドの閉じた眦に、わずかに光るものが見える……。
「エド君……」
 ミツエモンがエドアルドのその眦を、傷ついて血を流してでもいるかのように悲痛な目で見つめている。

「……おれっ、怒ったぞ!」

 いきなりミツエモンが宣言した。

「おっ、おいっ、ミツエモン……!」
「坊っちゃん!」
 止める僕らの手を振り払い、ミツエモンは貴族連中に向かうと、「そこのあんた!」とでかい声を張り上げて、指を鋭くフォンギレンホールに突き付けた。
「あんたなあ! 言っていいことと悪いことが……」
「はーい、坊っちゃん坊っちゃん」
 ミツエモンの肩を押え、噴き出した言葉を遮ったのはスケサブロウさんだった。
「今コ…カクさんが言ったばっかりでしょうが。こういうのをまともに相手すんのはバカげてるんです。ほっときゃいいんですよ」
 ス、スケサブロウさん……!
 さっきのカクノシンさんの声は穏やかだったし、背を向けていたからあいつらには聞こえなかったはずだけど、今のスケサブロウさんの声はしっかり届いたと……。
「無礼なっ!」
 ああ、やっぱり……。
 フォンロシュフォールとフォンギレンホールを囲む上流貴族とそのお取り巻き一団が、おそらくは怒りでざわりと揺れる。
「商人の下働き風情が、何たる悪口雑言!」
 声を張り上げているのはタウシュミットだ。
「おのれ、許さん! 主家の名を言え! この国で商売などできぬように厳罰に処してやる!」
「おんやあ、聞こえちまいましたか」
 スケサブロウさん……?
 とんでもないことになったとドキドキする胸を押えて見上げてみれば、スケサブロウさんはけろりと笑っていきり立つ貴族達に顔を向けた。
「そいつはどうも失礼をー」
 ふざけた声音でそう言うと、くるりと僕達に向き直り、またまたけろりと笑う。
「ほらぁ坊や達、早く行かなきゃ遅刻だぜぇ? また叱られちまうとヤバいんじゃないか?」
 やばいんじゃないかって……だって……。
「あ、ホントだ」今度はミツエモンだ。「ぐずぐずしてたらダメじゃん! ほら、早く行こうよ!」
 あっさり言うと、先に立ってすたすたと歩き始めた。カクノシンさんがすぐ後に続く。
「……って、いいのか……?」
 ホルバートが呆然とした様子で呟くように言う。
 僕も、他の皆も、それからエドアルドも、困ったようにスケサブロウさんと背後の一団を見比べる。
「ほらほら、何やってんだい、坊や達。構わないから行った行った!」
 後ろからスケサブロウさんに追われるように言われて、僕達も颯爽、とはとても言えない足取りで前に進み始めた。後ろからは「待て!」とか「逃げる気か!」とか聞こえてくるけど、ちらっと見上げた先のスケサブロウさんはにやにやと笑ってる。
 ………大丈夫なのか? 本当に? 一体……どうして……?



 士官学校付属の練兵場。
 元々血盟城自体が王都を囲む高い山並全体を利用して造られているので、当然その敷地内にある学校も森林を切り開いた山の中にある。練兵場も他の訓練場も豊かな自然に囲まれた、王都の、それも王城にあることを時々忘れてしまうほど、どこか田舎めいてのんびりとした空気に満ちあふれた場所だ。
 もっともそこにいる僕達がのんびりできることはほとんどないけど。
 そして今日午後最初の訓練は剣技。
 一番楽しみにしていた時間だ。

 僕達は時間ぎりぎりに練兵場に到着して、教官達に睨まれながらも無事だったけど、あの貴族連中はあれからまた怒りの炎を滾らせてでもいたのか、点呼が終わる頃にようやくやってきた。それも話に夢中になっているらしく、なかなか近づいてこない。というか……わざとゆっくりしてるんじゃないのか、あいつら。
 当然教官の雷が落ちるけれど、お取り巻き連中が妙に堂々と言い返している。そしてフォンギレンホールやフォンロシュフォール、それからタウシュミットは彼らの後ろで、どこか余裕の表情を浮かべながら、悠然と胸を張って立っていた。
 ああ、そうか。
 いつものようにムキになったり、怒りを露にしない連中の奇妙な余裕の理由が、ふいに頭に浮かんで胸に落ちた。
「あいつら、すぐにでも教官達を追い出せると確信してるな」
 声に出すと、「だね」と隣でセリムが応じる。
「そううまくいくものか。……バカなやつらだ」
 エドアルドの声が低い。
「うまくいってもらっちゃ困るよ」ホルバートがため息と共に言う。「でも……本当に大丈夫なのかな?」
 そう、その心配は確かにある。
 大体上流貴族達の力のせめぎ合いなんて、僕らには全く想像の範疇外だし、どう転ぶんだかさっぱり分からないよ。それに……。
 僕は教練場の外れに目を向けた。
 そこにはちゃんと並べられた見学用の椅子に、カクノシンさん、ミツエモン、スケサブロウさんと、いつも通りに座っている。カクノシンさんの隣にはボッシュ教官殿。それからスケサブロウさんの隣には、今日はなぜかユーリア教官殿までがいる。
 スケサブロウさんは、本当に大丈夫なんだろうか…?
 ミツエモンやその家族に何か圧力が掛かったりとか……。

 最後に一声怒鳴りつけて、剣術担当の教官殿がバインダーに書き込みを始めた。減点してるんだろう。
 それを横目で眺めながら坊っちゃん達が整列する僕達に近づいてくる。その顔にあからさまな冷笑が浮かんでいるのを、僕は見逃さなかった。
「………下郎めが……」
 通りすがり様、タウシュミットの呟く声が耳に入った。それが教官達に向けたものか、それとも僕達に言ったのか………両方だろうな、たぶん。

「よし! 本日は改めてお前達の技量を確認する! 実戦は剣が基本だ! 鍛錬を一時なりと怠ってはならん! ………さて」
 ふいに語調を変えて、教官殿が整列する僕達を見回した。
「本日は特別に、部外者ではあるが腕の立つ人物に貴様達の実力を測って頂くこととした。部外者ではあるが、遠慮はいらん。存分にぶつかっていくように!」
 では、と教官が顔を向けたのは、ミツエモン達一行が座る場所だった。

「えっと!」ぴょこんとミツエモンが立ち上がる。「見学させてもらってるお礼に、って言ったらちょっと変だけど、今日はウチのカクさんとスケさんが皆の相手をします! 先生、じゃない、教官も言って……仰ってたけど、遠慮はいりません! 我と思わん方はどうぞ前に出てきて下さい!」

 ……いつの間にそんな話になってたんだよ、おいっ!?

「おいおい、さっきの今で……大丈夫なのか!?」
 ハインリヒが戸惑いを隠さない声で言う。

「んじゃまー、俺からだなー」

 お気楽な声。……スケサブロウさんがひょいと身軽に立ち上がると、ユーリア教官から剣を受け取り、足取りも軽やかに僕達の前にやってきた。
 ……背後が騒がしくなってきたぞ……。

「誰でもいいぜぇ。1人じゃなくても構わねぇよ。……遠慮しないで出てきな」

 スケサブロウさんの視線が、僕達のさらに後方、あの坊っちゃん連中が並んでる一画を見ている。というかー……あからさまに挑発してるだろ、あんたっ! んな、ニヤニヤ笑ってたりしたら!

「我々が相手をしてやる!」

 声が、一応技量を測るために相手をしてくれる人に対してあり得ないほど居丈高な声が、背後から上がった。そしてその声と同時に、数人が前に飛び出してくる。
 ……フォンギレンホールと、それからタウシュミットのお取り巻き一同だ。あのクリスもいる。3人づつで6名。
「………6人を一度になんていくら何でも……」
 おろおろと声を上げたのはマルクスだろう。全くだよ。1人じゃなくてもいいって言われたからって、6人で出てくることはないだろう! あいつら……。
 なのに。

「おやぁ?」

 スケサブロウさんの声は笑っていた。

「何だい? お前さん達のご主人様は、剣はからきしかい? 危険な場所は部下に行かせて、自分は安全な場所でのうのうとしてるたぁ、さすがお貴族様は違うねえ。いやぁ立派な根性なしだ! これで士官になろうってんだから、俺ぁ笑っちまうぜ!」

 ススス、スっ、スケサブロウっ、さんっ! あっ、あんた、口っ、悪すぎ! っていうか、ホントに笑い出しちゃったよ、この人!
 あまりのことに、クリス達も呆然として顔を見合わせたまま、スケサブロウさんを取り囲むことすらできずにいる。

「おのれ、無礼者!」フォンギレンホールが列の後ろから怒鳴った。「何たる悪口雑言…! それも1度ならず2度までも……」
 許さんっ!

 雄叫びのような叫びと共に飛び出してきたのは、フォンギレンホールとタウシュミット本人だった。
 ……2人だけ?
 ちら、と後ろを見る。
 そこにはフォンロシュフォール・アーウィンとその取り巻き3名がいた。動く気配はない。いや、取り巻き連中はフォンロシュフォールに向かって口々に何か訴えてるけど、彼は軽く首を振りながら、何かを告げて取り巻き達を押し止めている。
 取り巻き達が不承不承列に戻ると、フォンロシュフォールは腕を組んで視線を前方に向けた。

「……お前達、準備はいいか?」
 教官殿が、スケサブロウさんの過激な言葉なんかなかったように平然と話を進めている。
「この線から内側の円内を戦場とする。他の者はこの線に沿って外側に並べ。………よし、では」
 始め。

 簡単な合図と同時に、フォンギレンホール達8人が剣を構えて素早くスケサブロウさんを取り囲む。
 そして。

「無礼打ちだっ! 死ねぇっ!」

 ぶ、無礼、打ちぃ…? 今どきないだろっ、そんなの!

「冗談じゃな……! ……って………え?」

 剣を構えた8人が、文字通り飛び掛かるようにスケサブロウさんに迫って。
 そしてその輪の中で剣を肩に担いだまま立っていたスケサブロウさんが。
 ふいに。
 舞うようにふわりと身体を動かした次の瞬間。

 フォンギレンホール達8人は……地に伏していた。

 全員が剣を落とし、つい今まで剣を握っていた腕や手首を抱えるように押え、ある者は祈るように地に膝をつき、ある者は尻餅をつき、ある者は転がっている。
「……う、うわああ……!」
 手首を押えて膝をついたフォンギレンホールが、自分に何が起きたのか、その時になってようやく気づいたように悲鳴を上げた。
「いっ、痛いぃ……っ!」
 呻いてそのまま地面に倒れ込む。
 見れば8人全員が痛みに顔を歪め、呻いていた。スケサブロウさんのすぐ側で尻餅をついたクリスが、自分の手を呆然と見て、しかし何が起きたのかさっぱり分からないという顔でスケサブロウさんを見上げている。

「手が痺れたくらいで大げさな声を上げんじゃねえよ。ったく……」
 あのなあ、坊や達。
 呆れたようなスケサブロウさんの声。
「あんな安っぽい挑発にほいほい乗ってどうすんだよ? ……いいか、お前さん達」
 スケサブロウさんが、今度は僕達に向かって話し始めた。

「挑発にコロッと乗せられて、頭をカッカさせて飛び出していって、それで戦いに勝てた奴なんて古の昔から1人もいやしねえんだぞ? お前さんらも士官になるなら、お前さん達に命を預けることになる部下を無駄に死なせないためにも、常に冷静に状況を把握できるようにならねえとダメだぜ?」

 …………そ、っか……。そうだったのか。わざと、だったんだ。……それにしても……。

「……ねえ」セリムが隣から尋ねてくる。「何秒、だった……?」
「分からなかったよ、全然。……動いた、のは……分ったけど、後はもう……」
「ほとんど……呼吸する間もなかったような……気がする……」
 すごい、と、反対側のエドアルドが感歎のため息と共にそう言った。
 本当に……すごいよ、スケサブロウさん……!
「こんな人が……いるんだ……!」
 僕の声の届く範囲にいた全員が、一斉に頷いた。

 パチパチパチ……と、いきなり拍手の音が響いた。ハッとその音の元に顔が向く。

「グリ……スケさん、すごいっ! 強いっ! さすがあ!」

 ミツエモンが満面の笑顔で拍手している。

「坊っちゃ〜ん、ちゃんと見てくれてましたぁ? 俺の艶姿、華麗な剣捌き!」
「うん、見てたよぉ! でも剣捌きは速すぎて全然分かんなかった!」
「ええ〜、うっそ〜!」
 スケサブロウさんが無気味なシナを作って……身悶え、てる……? 何か、怖い……。
「だったらもっとゆっくりやればよかった〜。この子達があんまり下手くそすぎて〜」
 そんなはずないのに。こいつら結構強いはずなのに。スケサブロウさんが強過ぎる、っていうか、その仕種、気持ち悪すぎですっ、スケサブロウさん!
「あー」
 コホン、と咳払いするのは教官殿。
「あなたに下手くそと評されては、その、あまりに酷かと。………とにかく。フォンギレンホール・バドフェル、タウシュミット・ルーディン……」
 教官殿は8名の名前を順に呼ぶと、バインダーを持ち上げた。
「負けたことはよいとして……常に冷静であることは、剣の技量を測る上でも重要である。よって、挑発にあっさりと乗って冷静さを失ってしまったことで、フォンギレンホールを除く7名は5点減点、フォンギレンホール・バドフェルは、興奮していたとはいえ、無礼打ち云々という士官候補生にふさわしからぬ言動に及んだことを重く見て、10点減点とする」
 教官の宣言に、フォンギレンホール達も今度はさすがにどんな反応もできないまま、悄然と輪の外に出た。出て、へたり込んでいる。どうも、痛みより精神的な衝撃の方が大きかったような感じ、だよな?
「ほんじゃ、交代といきますか」

 全員が円の中から去ったのをみて、スケサブロウさんが言った。そして。
 カクノシンさんが、ゆっくりと輪の中に入ってきた。スケサブロウさんが剣を手渡す。

「カクさんはスケさんより強いぞー! 皆、もっとがんばれー!」

 無邪気な声に、でも僕達候補生のほとんどが一斉に息を呑んだ。
 いや、分っていた、というか、そうなんだろうと思ってたけれどー……でもスケサブロウさんの今の実力を垣間見てしまったら、じゃあ一体カクノシンさんは……!

 ごくりと喉が鳴る。
 同時に、腹の底が熱くなってくる。ふつふつと熱いものがこみ上げてくる。
 怒りにも似た、でも怒りじゃない。これは……闘志だ……!

 戦ってみたい、この人と。
 同年代で小隊長だったんだ、きっとその頃からすごい腕の持ち主だったんだろう。
 ぶつかってみたい。喧嘩剣法の僕が、どこまでこの人に通用するか……!

「よし、希望者は挙手を……」

「は……っ」
 教官の言葉に、声と共に手を上げ……。

「お願いしますっ!」

 ………う、うそだろーっ。先を越された!?

 エドアルドが勢い良く円の中に飛び込んで行った。  

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またまた新キャラ登場の巻でした。
それにしても、ホントはコンラッドvsマチアスまでいく予定だったのですが、ダメでした〜。
その対決は次回にて。
メインキャラがほとんど何もせず、ひたすらオリキャラが元気です。
こんなんでもホントにいいのか疑問はつきませんが、ご感想、お待ち申しております。