ほら吹きオーギュの息子・5



「………確かに8人分だな。よし、教室に入れ。……講義中に居眠りなどするなよ」

 教務の係官殿の言葉には労りの思いが籠っていた。だから僕達は、「ありがとうございます!」と敬礼だけはきちんとしたつもりなんだけど、でもしょぼしょぼした目をぱっちり開けるのはかなり至難の技だった。

「……太陽が眩しくて……涙が出てくるよ……」
「ね…眠い……」

 昨夜。
 出した結論を文章にして、出された課題をようやく終えた頃には、もうすっかり真夜中になっていた。その後部屋に戻ってベッドに入ったんだけど……。正直言って、あまり眠れなかった。
 同室の仲間達も同じだったのか、寝返りを打つ音ばかりいつまでも聞こえていたような気がする。

「………夕べのカクノシンさんの話だけど、さ……」
 無言で廊下を行く途中で、最初に声を上げたのはセリムだった。
「部下を皆殺しにしてしまったって……」
「言葉通りに受けとってはいけないと思う」
 セリムの言葉を遮り、間違いを正すように言葉を発したのはエドアルドだ。
「あの大戦は、我らが勝利したのが奇跡といっても良いほどの激戦だった。話は多く耳にしているし、書物でも読んだ。絶対多数の人間を相手にして、惨敗する瀬戸際までいったとも聞いている。もしもかの師団の英雄的な奮闘と犠牲がなければおそらく……。あの人の部下達もそういった戦いの中で散っていったのだろうな。たぶんカクノシン殿は自分だけが生き残った罪悪感から、まるで自分が殺してしまったように表現したのだろうと思う」
「もちろん僕もそう思うよ! ……カクノシンさんは昨日の話振りから見ても、無能な指揮官だったとは思えないしさ」

 昨夜、カクノシンさんから聞いた大戦中の話の流れは、すぐにカクノシンさん自身の過去へと向かった。
 といっても、カクノシンさんが僕の親父のように思い出話に耽ったわけじゃない。
 戦時中、兵を指揮する立場にあったこと、そして、部下だった兵が皆戦死してしまったこと、それだけだ。

 カクノシンさんが発した短い言葉に対し、どう反応していいのか分からずにいた僕達に、カクノシンさんは「坊っちゃんが眠ってしまったから、俺達はこれで失礼する」と言いおいて部屋を去ってしまった。熟睡しているらしいミツエモンを軽々と抱き上げて、難しい顔をしたスケサブロウさんと一緒に。困惑する僕達を置いて。

 思いもかけず聞かされた話。
 僕の選んだ道。士官の役目。背負う命。
 兵を命を預かっていながら、それを無駄に散らせた愚かな男。無謀な攻撃をさせられ、死んでいった兵士達。その思い。家族の哀しみ。ユーリア教官殿の決意。カクノシンさんの過去。そして……おとぎ話のような親父の自慢話。
 色んなことが、顔が、声が、頭の中をぐるぐるし続けて、だから僕はほとんど眠ることができなかった。

「カクノシンさんの部下って何人くらいいたんだろうな?」
「1個小隊とか……?」
「それはないだろう。せいぜい分隊なんじゃないか?」
 ハインリヒが言下に否定する。
「考えても見ろよ。カクノシンさんは100歳を少し越えたくらい、だろう? だったら逆算するとー…」
 ふっと空白があって。それから僕達の歩みが揃ってぴたりと止まった。
 全員が、一種呆然と全員の顔を見回す。それはつまり……。

「…………僕達と……同年代じゃないか……」

 思わず呟いた僕の言葉に、皆が深く頷いた。
「僕達と変わらない年代で、カクノシンさんは戦場に出たんだ……」
 もちろんそれは、カクノシンさんだけが特別だったわけじゃない。僕達はちゃんと知ってるはずだ。国や家族を護るため、多くの若者達が、それこそ7、80歳を越えるか越えないかの若さで、剣を手に戦場へ向かったことを。そして……。
「分っていて当たり前なのに、僕、今ちょっとびっくりしちゃったよ……」

 知ってるってことと理解してるってことは違うんだね。

 どこかしみじみと呟いて、マルクスが情けなさそうに身を縮める。うん、と僕も皆も同じように頷いた。

「でもそしたらさ」ミハエルが声を殊更明るくして言った。「カクノシンさんって優秀だったんだな! 僕達の年代なら士官学校を出ていたとしても、まだ士官に成り立てだろ? あの人は兵学校を出たと思うから、例え分隊長でも立派だよ。……1分隊って何人だっけ?」
「所属によっても違ったはずだけど……。確か10人前後じゃなかったかな」
 ホルバートが答える。
「ということは……」
 またも気づいてしまった事実に、僕達は深々と息をついた。
「僕達と変わらない数だな……」

 あのさ、とわずかな沈黙の後に僕は口を開いた。皆の視線が集る。
「年齢のことを考えたら、きっとカクノシンさんの部下もやっぱり同年代だったんじゃないかと思うんだ。だからさ……。もしも……僕達で1分隊を作って、分隊長になった1人だけを残して皆が死んでしまったら………辛いよな」
 自分で言った言葉に、思わず息を呑んでしまった。その情景─ここにいる全員の命を分隊長として背負って、そしてその全てを亡くして、自分だけが生き残ってしまった瞬間─を、つい想像してしまったから……。
 辛い。本当に辛い。辛いって言葉が空回りして感じるほど辛い……。

 僕はもちろん、エドアルドもホルバートもセリムもマルクスもハインリヒもミハエルもルドルフも。
 無惨な光景とカクノシンさんの抱える痛みを想像して、暗然とその場に立ち尽くしていた。

「おやぁ、坊や達、んなトコで輪になって何やってんだい?」

 昨日ですっかり慣れた気のする声が、いきなり耳に飛び込んできた。その必要もないのに、なぜか身体がびくりと跳ねる。
 振り返れば、スケサブロウさんがちょっと意地悪げな笑みを浮かべながら、のんびり近づいてくるところだった。

「…お、おはようございます……」
 おはよーさん。僕達の挨拶ににこやかに答えるスケサブロウさん。
「あの……お一人ですか?」
 いつもカクノシンさんと一緒にミツエモンの側にいるのに。そう思って尋ねると、スケサブロウさんはケロッとした顔で懐から1枚の紙を取り出した。
「なに、今日の講義の予定表をもらってきたのさ。全部の講義を見学するのもなんだし、どれを見せてもらうかコレを見て決めようと思ってな」
 なるほど。
「……少々伺ってもよろしいですか?」
 エドアルドが礼儀正しく落ち着いた声で言った。
「何だい? グランツの坊や」
 坊やと呼ばれてちょっとだけ眉を顰めたエドアルドだけど、それには何も言い返さず言葉を継いだ。
「今も皆と話をしていたのですが。……昨夜のカクノシン殿のお話について少々お伺いしたいと思います」
「夕べのあいつの話、ねえ……。何を言ってやがったかな」
「戦争で部下を全員なくしてしまったと……」
「ああ、あの大嘘」
「大嘘っ!?」
 驚きの声を上げる僕達に、スケサブロウさんが「そうともさ」と事も無げに答える。

「ここにちゃんと生き残ってるのがいるし」

 え。
 僕も皆も、もちろんエドアルドも、口を間抜けにぽかりと開けたまま、自分を指差すスケサブロウさんを見上げていた。

「俺もあいつの部下だったけど、こうしてちゃんと生きてるし。ほらな? 大嘘だろう? ……まあ……確かに9割方はいっちまったけどな。でも俺の他にも生き残ってるやつはちゃんといる。……まったくあのバカときたら、油断するとすぐ後ろ向きになりやがる。でもって全部の責任を自分1人背負い込もうとしやがるんだ。あいつの悪い癖さ。………坊っちゃんが聞いてたらどんなに……」
 その後はぶつぶつという呟きになって、怒っているという以外言葉を聞き取ることはできなかった。
「あの、確認したいのですが」エドアルドが改めて声を上げた。「今、9割方と仰いましたが……。カクノシン殿が指揮していたのは、何人くらいの隊だったのですか?」
 その質問に、え? とこちらを向いたスケサブロウさんの顔は、なぜか虚を突かれたように一瞬空白になっていた。…ように思う。
 スケサブロウさんが答えるまで、ほんのわずかの、あるかないかの間が空いた。
「……あ、あー……そうだな、4、じゅう人と、ちょっと、かな……」
 ええっ!?
 僕と、皆の驚愕の声が重なった。

「それって……っ。じゃ、じゃあ、カクノシンさんは小隊長だったんですかっ!? どう考えたって僕達と同年代だったはずなのに!? 貴族じゃないから士官でもなかったんでしょう!?」

 す、すごい……!

 思わず叫んだ僕をまじまじと見つめて、スケサブロウさんが困ったように顔を顰めた。

「あいつはその……剣の腕も、そこそこ、立つし、頭も良いし、性格も、まああの通りだから仲間の信頼が際立って厚かったからな……」
「信頼ですか……」
 エドアルドの言葉に、ああ、とスケサブロウさんが頷く。
「結局、大切なのは能力と人柄なのですね」
 何か思う所があるのか、エドアルドが大きく頷きながらそう言った。それにしても。
「どう考えたって当時80歳そこそこ、90歳にはなってないはずだよな?」
「ああ、間違いなく同年代だよ」
「その年齢で小隊長なんて、普通なれないよ! 士官だったとしてもさ!」
「すごい人と知り合いになったね、僕達!」
「ほんとに幸運だよな!」
 あのぉ、と言いながら見上げた先で、スケサブロウさんの渋面がますます深くなっていた。……どうしたんだろう。
「あの……カクノシンさんからまた色々とお話を伺いたいんですが。もちろん、スケサブロウさんもご一緒に。夕べのような用兵の話とか……。色々とご経験なさっていると思うし……」
「僕も聞きたいです!」
 セリムが声を上げ、「僕も!」「ぜひ!」という皆の声が続く。
「あー……それはちょっと勘弁してくれ」
「え……?」
 よく分からないまま見上げてみれば、スケサブロウさんが両手を軽く上げて、どこか困り果てた表情を浮かべながら僕達を見下ろしていた。

「俺達はほら、坊っちゃんのお供でここにいるわけだから。それにあいつも……夕べは何を思ったんだかぽろっと零れちまったが、本来あの頃の話はあまりしたがらねーんだよ。俺もな」
 ま、察してくれ。
 ぱちりと器用に片目を瞑り、笑って見せるスケサブロウさんに、僕達は顔を見合わせた。

「て、コトで! そろそろ講義も始まるんじゃねーのか? 早く教室に入ったほうがいいぜ!」
 んじゃなっ。そう言うと、スケサブロウさんは僕達が応える間も与えずに足早に去って行った。
「……あの……っ」
 それでも上げた声が宙に取り残されて消える。
 僕達は再び顔を見合わせた。

「……でもやっぱりもったいないよ」
 せっかくすごい人と会えたのに話もさせてもらえないなんて。ホルバートがちょっとだけ恨みがましい声でそう言った。ホントにそうだ。できれば何とか……。
「あ、そうだ!」
「どうした? マチアス」
 皆の注目が集る。
「教官殿にお願いしたらどうかな? 見学に来てる人が、実は80歳代で小隊長だった経験の持ち主だなんて教官達も知らないと思うし、興味を示すんじゃないかな。夕べみたいな話を特別講義って感じでやってもらうとかさ」
「冴えてるぞ、マチアス!」
 ホルバートが僕の肩をどんと叩く。
「でもさあ」マルクスが気弱げに口を挟んだ。「無理強いするのはどうかなあ。話したがらないってスケサブロウさんも言ってたし」
「そうだな。それに、講義がびっしり詰まっているのに、そんな時間を取ってもらえるとも思えないなあ」
 ハインリヒもそう続ける。
「……そう言われれば確かに……」
 良い案だと思ったんだけどな。
 それにさ、とセリムがさらに続けた。
「カクノシンさんの話を、タウシュミットやあの辺の連中がありがたく拝聴するとはとても思えないよ」
 ………全くだ。

「もう一つ、方法がない訳じゃない」

 冷静な声はエドアルドだ。

「カクノシン殿とスケサブロウ殿の主はミツエモン、殿、だ」
 カクノシンさん達に「殿」をつけるのはエドアルドらしい礼儀正しさだけど、あのミツエモンに同じ敬称をつけるのはちょっと苦しかったらしい。……そう言えば、僕もミツエモンは呼び捨てだな。心の中でだけだけど。やっぱり……人柄かな。とんでもない美形で、冷静に顔を正視するのがちょっと難しいほどだけど、性格はー……かなり子供っぽい感じがするもんな。まあ、素直だし悪いやつじゃ絶対ないけどさ。……そういえば、かなり年下とか自分で言ってたけど、実際あいつは何歳なんだろう……?
 とにかく。
 あのミツエモンがカクノシンさんみたいな立派な元軍人を顎で使っているのかと思うと、ちょっと……腹立たしい気もする。
 ……商人の父親が、よっぽど大人物、なのかな……?

「それで? エドアルド」
 ホルバートに促されて、ああ、とエドアルドが言葉を継ぐ。
「ミツエモン殿は、どうやら僕達を、というか、同じ平民出身の君達のことを気にしているようだ。友人になりたがっているようにも思える。……もしかしたら、来年度の入学を考えているのかもしれないな。こうして見学に来るくらいだし。だから、僕達がもっとミツエモン殿と親しくなって、友人と呼べるようになれば、カクノシン殿も色々とお話を聞かせて下さるようになるのではないかな」

 思わずぽんと拳を掌に打ちつけてしまった。

「さすがだよ、エドアルド。それでいこう!」
「よし! じゃあ、昼食あたりからさっそく……」
 ハインリヒが明るく宣言しようとしたその時。

「貴様らっ! そんなところで何をやっとる! もう講義の始まる時間を過ぎておるぞ!!」

 しっ、しまった……っ!!

「申し訳ありませんっ!」

 一瞬何もかも頭から追い払って、僕達は一目散に駆け出した。遅刻したら……減点だ!



 その日、午前中最後の講義は用兵学だった。
 昨日はいきなり試験で始まりとんでもない思いをしたけれど、今日が講義としては初日で、内容は用兵学の基礎の基礎から始まった。

 ちら、と視線を走らせると、教室の一番後ろにはミツエモンがカクノシンさんとスケサブロウさんに挟まれてちょこんと座っているのが見える。カクノシンさんの隣には、ボッシュ主任教官もいた。
 昨日あんな話をしたせいか、ミツエモンは興味深々という顔で前を見つめている。

「いいか!」
 今日もきっちり髪を結い上げ、ばっちり化粧をきめ、なぜか襟元だけがゆったり広がるユーリア教官殿は、手にした長い物指しを黒板にバシッと打ちつけた。硬いはずの黒板から、欠片のようなものがぱらぱらと床に落ちる。……あの物指しが空を切って人の頭を襲うことがあるんだろうか……。もしできれば、僕の上に降り下ろされないことを祈り奉ります、眞王陛下。

「今日解説した通り、戦略と戦術の違いをよく頭に叩き込んでおけ! 次回は500年前のアーバントの戦いにおける戦術が、当時の軍の基本戦略をどう反映するものであったかという問題を通してこの点をさらに深く講義する! 問答による理解の確認も行うから、本日の復習と予習を万全にしておくように。いいな!」
 はいっ! と全員で声を揃えて答える。そんな僕達をぐるりと見回して、ユーリア教官殿が頷いた。
「よし。……では昨日の課題についてだが」
 良いながら、教官は教卓に重ねてあった紙の束に、ぽんと手を置いた。……提出から講義が始まるまでの間に全部読んでしまったのか……。
「フォングランツ・エドアルド!」
 いきなりエドアルドを呼ぶ厳しい声に、僕は思わず視線を跳ね上げた。
「…はっ、はいっ」
 エドアルドも驚いたのか、珍しく吃っている。
「カースマイヤー・ミハエル!」
「はっ」
「ラング・ハインリヒ!」
「はいっ」
 こ、これって一体……?
「シュトロハイム・ルドルフ!」
「はい!」
「ホルツ・マルクス!」
「は、は、はい!」
 ……まさか、もしかして……。
「ロードン・セリム!」
「はい!」
「メドチェック・ホルバート!」
「は!」
 だったら次は……。
「ノイエ・マチアス」
 来たッ!
「は、はいっ!」

「以上8名、起立!」

 何がと問う間もなく、即立ち上がる。そして直立不動で待つ。
 ………どうして僕達が。
 心臓がどくどくと1拍毎に激しく鳴る。
 課題の出来がまずかったんだろうか。8人で話し合ったのが悪かったとか? でも1人で考えろと言われた訳じゃないはずだし。いやそれよりも。もしかして答えそのものが全く間違っていたとしたら……。
 教官が右手に持った物指しを、左手の掌にぴたぴたとリズミカルに弾ませながら、嬲っているのかと疑うほどゆっくりと僕達の顔を見回した。

「………お前達が出したこの答えだが」
 教卓から紙の束を持ち上げて僕達に示す。

 どん、と胸が一際高く鳴った。

「これは、それぞれ1人で出したものか。それとも話し合って出した結論か?」
 思わず共に立つ仲間達の顔を見回す。
「あ、あの……」
「あのそのは不要だ! 簡潔明瞭に答えろっ!」
「僕、いえっ、自分達8名で話し合って出した結論であります!」
 エドアルドが代表して答える。
「しかし、教官殿は話し合ってならないとは仰っておられ……」
「余計なことを口にするな!」
「申し訳ありません!」
 じろりと僕達を一睨みしてから、教官殿はゆっくりと教室の中を歩き始め、僕達に近づいてきた。
「1人で考えて1人で答えを出せとは言っていない。話し合って答えを出すのもそれはそれで良い。実際、お前達が提出した文面は、思考の経過と結論こそ同じだが、その表現はそれぞれ異なっていた。人の答えを写したものでなければ全く問題ない。……私が問題にしたいのは」

 これがお前達だけで出した結論なのか、ということだ。

 きょとんと教官の顔を見る。見てから……無意識にコクンと喉が鳴る。
 目の前にカクノシンさんの笑顔が浮かぶ。
 答えを教えてもらった訳じゃない。でも……。

「教官殿に申し上げます」
 エドアルドが冷静に言葉を紡ぐ。
「言ってみろ」
「我々8名で課題に向かい、マチ…ノイエ候補生の間違いが何なのか、本当はどうすべきなのかを悩んでおりましたところ、ある方から助言を頂きました」
「どういう助言だ」
「もう一度、教官殿が出した戦況及び戦力の条件がどういうものであったのかを思い出し、確認してみろ、という内容の助言であります」
 ほう、とユーリア教官殿が間の手を入れる。
「それによって、ノイエ候補生が何をどのように思い込んでいたのかについて気づいたものであります」
 なるほどな、と教官殿が頷いた。
「では、私が出した条件下における最善の方策が、撤退であるという答えに行き着いた状況を述べよ」

 その瞬間、教室の中がざわっと揺れた。
 撤退だと!? という驚きの声と、紛れもない蔑みを込めた唸り声があちこちから溢れてくる。
 ……ってことはー……撤退という答えを出したのは……僕達だけってことか!?

「……状況というものはありません。ノイエ候補生の勘違いが判明して後、ならば何が最善の策なのかと考えて、自然と出てきた答えです」
「その答えが出るまでにその誰かの助言はあったのか?」
「いいえ。助言を頂けるかとも思いましたが、その方からは自分達で考えるようにと言われました」
「ふん……。で、撤退という答えを最初に出したのは誰か」
「自分であります」
 間髪入れず、胸を張ってエドアルドが答える。またも教室がざわりと蠢く。
「その結論に、全員がすぐに納得したか?」
「あ……いえ……」

 そっと再び、僕達は目線を交し合った。
 どうしてその結論を全員が納得したのかと問われたら、答えなくてはならなくなる。カクノシンさんから教えてもらった、あの大戦の頃の話、ユーリア教官殿の過去を……。

「ではどうしてその結論が、お前達全員の総意となったのか」

 どうしよう……!

「リーベンルーフ教官、殿。……少々よろしいか?」

 その時。
 救世主とも呼ぶべき声がした。カクノシンさんだ。
 僕達の、仲間だけじゃなく、その時教室にいた全員の視線が一斉に後方に向く。

「…………見学者が何か?」
 教官殿の声が低く流れる。
「彼らに助言をしたのは俺、いや、私……です」
「私が示した条件をもう一度吟味しろと」
「ああ…いや、はい、そうです」
「だが最善の策が何であるかは教えなかった」
「それについては何も」
「しかし、フォングランツが思いついた撤退案が最善であることは教えた」
 ああっ、見破られてる……。
「俺、いや、私が言ったのは……戦略的撤退は立派な作戦行動である、ということ……ですね」
 ユーリア教官が「納得した」と頷いた。
「お前達もこの御人のこの言葉で、その策が正しいという考えに至った訳だな」
 その問いかけは、すでにもう質問ですらなくて、ただ単に事実を確認するだけのものだった。

 ユーリア教官殿が成績表を挟んだバインダーを取り上げた。
「フォングランツ他7名。加点20点のところ、他者の力を借りたことが判明した故に減点19点。よって全員加点1点とする。この1点は、撤退案が助言によって生まれたものではないことに寄る。以上! 8名は座ってよし!」

 やった! やっぱり撤退案で正しかったんだ! 減点はもったいなかったけれど、たぶんこの答えを出したのは僕達だけだから、1点でも加点されればもうばっちり……!
 椅子に腰を下ろそうとした時、太股の辺りにぽんと軽い衝撃があった。横目で見ると、ホルバートがにっと笑って合図を送っている。僕も小さく頷いて、笑いかけた。
 でもその時。

「待てっ! そんなバカな話があってたまるかっ!」
 貴族的優雅さとは掛け離れた音を立て、許可も得ずに立ち上がったのはタウシュミット・ルーディンだった。気色ばんだ顔で教官殿をほとんど睨み付けている。
 教壇を下りていた教官殿の眦がきゅうっと上がった、と思うとすぐ、くるりと方向転換してすたすたとタウシュミットに近づいて行く。
 そしてタウシュミットのすぐ前に立つと、物指しを彼の胸にぐいと押し付けてその顔を見下ろした。

「今の発言は、一体誰に向かってのものだ? ………タウシュミット・ルーディン、10点減点。……座れ」
「……ぼ、僕は誇りある……」
「座れと言った!!」
 どん、と音を立ててタウシュミットの身体が椅子の上に落ちた。女性の声とはとても思えない、ぶつけられた相手を文字通り叩きのめしかねない迫力に満ちた声が怖かったのか(…僕は怖かった)、それとも怒りなのか、タウシュミットの肩が大きく上下している。
「私に聞きたいことがあるなら、挙手の上、『質問があります。教官殿』と言え。やり直し!」
 肩を強ばらせたまま、タウシュミットは答えない。
「………質問がないなら声など上げるな、バカ者。タウシュミット・ルーディン、さらに5点減点……」
「し、質問があります! 教官殿!」
 その声は、タウシュミットよりほんのわずか高かった。
「アーデルワイズ・クリスティアン。何だ? 起立して質問の要旨を述べろ」
「はっ、はい!」
 アーデルワイズ・クリスティアン。「クリス」だ。タウシュミットのお取り巻きの1人。あの日、僕の無礼とやらにぷりぷり怒るタウシュミットの陰で、そっと僕達に微笑み掛けて頭を下げてくれたやつ。大貴族のお取り巻きにしては、良さそうなやつだと思ったけれど、結局その日以来一言も話してはいない、な。
 クリスティアン─クリス、は、立ち上がると軽く深呼吸してから口を開いた。

「教官殿のお言葉によりますと、つまり、昨日の課題は我が軍の撤退が正しい答えなのでありますか!?」
「その通りだ」教官殿が即答する。「少なくとも、用兵に関する基本的な知識がほとんどない現在のお前達の段階で、撤退案が出せれば文句なしというところだな」

 教官殿の言葉に、押えていたものが吹き出るように教室内が一気にざわめいた。特にその声が大きいのが、タウシュミット達上級貴族が陣取る一画だった。そして僕達はというと、互いに視線と笑みとを交し合い、やったぜ! と無言の喝采を上げていた。

「冗談ではないっ! それでは……」
「教官殿!!」
 先に上がった声を無理矢理押さえ付けるように、さらにクリスが発言した。
 犬が唸るような声を喉の奥から絞り出して、タウシュミットが傍で起立するクリスを睨み上げる。クリスは顔を強ばらせて、必死の様子で前を見つめている。
 ………こいつ、クリスのやつ……もしかして、タウシュミットがバカをやらないように庇ってんのか……?
 ユーリア教官殿が、クリスとタウシュミットを、背筋が寒くなるほど冷え冷えとした目で交互に見遣ってから「何だ? アーデルワイズ・クリスティアン」と、クリスの答えを促した。

「て、敵を前にして撤退するのは、高潔なる魔族の誇りを踏みにじるものであり、崇高にして偉大なる魔王陛下の御名に泥を塗る行為ではありませんでしょうかっ!」

 今度起きたざわめきは、同意を現すものがほとんどだった。何人かの頭が上下に動く。タウシュミットもその通りだと大きく頷いて、恐れ気もなく教官殿を下から睨み付けている。

「高潔も誇りも崇高も偉大も! そんなモノはどうでもいい!」

 ざわりと。今度こそそれは大きなうねりとなって教室を覆った。

「無意味に言葉を飾るな! このバカ者共! 戦いは、国土を護り、民を護り、その上で最終的に我らが勝利することこそが目的である! そのために為すべきことを為す! 軍人にできることはこの一事のみ! 絶対に不利な条件下において、無謀な戦いを挑んで貴重な兵力を失うことこそ国家に仇なす行いだとどうして気づかんのだ、この阿呆っ! 同時にまた戦略的撤退は、そこの!」
 教官殿の手に握られた物指しが、びしっと後方にいる人に向けられた。軽く仰け反るカクノシンさん。
「おせっかい殿が言っていたように、攻撃と何ら変わらぬ立派な作戦行動の一つである! 不利な戦いを避け、新たな作戦を立てることにより、自軍をさらに有利な状況に置いた上で必勝の戦いを遂行する。何一つ不思議でもおかしくもまた恥ずかしくもない! むしろ当然の行動だ! それを理解できんというなら、貴様らに士官になる資格などない! とっとと荷物を纏めてここから出て行け!!」

 教室にしんと沈黙が下りた。ただこの雰囲気は、納得したというより、怖くて言い返せないというのが正しいかもしれない。

 教官殿が、ゆっくりと教室中を見回す。やがてその視線は、硬直したように立つクリスに向けられた。

「アーデルワイズ・クリスティアン」
「………は、はい……っ」

「ここにいる理由をお前がどう考えているかは知らんが、自分で思ってもいないことを口にするのはよせ」

 教官殿の、ちょっと戸惑うくらい穏やかな声。クリスの肩が跳ねるように揺れた。

「これで本日の講議は終了する、が、その前に」
 言うと、教官殿は真直ぐ教室の後方、ミツエモン達が座る場所に目を向けた。

「見学者。特にそこのおせっかい殿。一部の者にのみ助言を与えるのは不公平であり、また助言を与えられた者は不正を疑われることにもなりかねない。候補生との交流は構わないが、以降、今回のような真似は厳に慎しまれたい。よろしいな?」

「あー……申し訳ない、いや、申し訳ありません、教官殿」
 そう謝罪して、カクノシンさんが立ち上がった。
「そんなつもりはなかった、のですが、確かに軽率でした。以後気をつけます」
「理解してもらえれば結構。では……」

「あっ、あの、先生! じゃなくて、きょーかん、どのっ!」

 いきなり声が上がった。……ミツエモン、が立って手を挙げている……?

 カクノシンさんがハッと顔を向け、スケサブロウさんも慌てて立ち上がり、何を思ったのかボッシュ教官も飛び上がるように立ち上がった。

「あのっ、今度のことは、皆と一緒にいたいって言ったおれの責任で! でもって、話の流れでそうなってしまったけど、不正をするつもりなんて全然なかったんです! だから皆は全然悪くなくて……だからその……今さらだけど、皆の減点をなしにしてもらうわけには……えっと……」

 ミツエモン、お前……!

 腕を組んでじっとミツエモンを見つめるユーリア教官。ミツエモンの声からどんどん力が抜けて行く。

「………あの……おれ、余計なことを………」

 腕を組んだままのユーリア教官殿が、ふっと目を閉じた。それから一つ、ゆっくりと呼吸をすると、パチリと目を開き、改めてミツエモンを見据えた。

「確かに余計なことだな」

 ひゅうっと息を呑む音がする。わずかに視線をずらすと、苦笑を浮かべながらミツエモンを見つめるカクノシンさんがいて、その隣にー……顔を異様に赤黒くして、身体を不自然に強ばらせたボッシュ主任教官殿がいる。もしかしなくても、さっきの音はボッシュ教官、だろうか……?

「その気があったとか、なかったとかの問題ではない。結果としてそのような疑いを持たれるということだ。故に、行いを慎んでもらいたいと言っているのだ。……お前達」
 ユーリア教官殿の視線が僕達に向けられた。
「お前達は、聞きたくもない助言を無理矢理聞かされたと考えているか?」
「いいえ」いつも通りエドアルドが代表して答える。「ありがたい助言だと思いました」
「ならば減点されても文句はないな?」
「ありません」
 僕達も一斉に頷く。
「ということだ」ユーリア教官殿が再びミツエモンに顔を向ける。「ご理解頂きたい」

「…はい、あの……ごめんなさい……」

 ぺこりと頭を下げるミツエモン。よろしいと頷くユーリア教官殿。苦笑するカクノシンさん。それからミツエモンの頭を「いい子いい子」と撫でているスケサブロウさん。それから……。
 ボッシュ教官殿がこちらに背を向け、片手を胸に当てて壁に縋っているように見えるのは何なんだろう…?


「……おれ達のせいで、ホントにごめんな」

 昼食時。食堂で合流したミツエモンが、僕達の顔を見た途端、そう言って申し訳なさそうに目を伏せた。
 その姿は何というか……ぎゅっと抱き締めて「僕が護ってやる!」と叫びたくなるほど頼りなげで……。
 思わずほーっとため息をついたら、ほとんど同時に全員から同じようなため息が漏れた。
 ……皆して同じことを考えてたな……たぶん。
 そのため息をどう捕えたのか、ミツエモンがますます居た堪れないように肩を窄める。

「あなた方の責任ではありません!」

 こういう時に最初に声をあげるのは、もちろんエドアルドだ。

「カクノシン殿から頂いた助言のお陰で、僕達は正しい答えに行き着いたのですから。それに、減点はされてもちゃんと加点1点分は残っています。僕達は満足しています。カクノシン殿に対しましては、感謝こそすれ不満など欠片も抱いてはおりません」

「ホントに!?」
 ミツエモンが嬉しそうに顔を輝かせる。……こいつはやっぱりこういう顔の方がずっと綺麗だ……!
「そう言ってもらえると嬉しいよ。ありがとう」
 カクノシンさんもにっこりと笑う。この人の笑顔も本当に優しげでいい感じだよなあ。僕もこんな笑顔の似合う男になりたいというか……。

 正直、周囲の視線はかなり冷たかったけど、僕達は気にせずテーブルについた。
「あのなっ」
 係官の号令で食事が始まってから、ミツエモンが声を弾ませて言った。
「おれさ、皆の名前、ちゃんと覚えたぞ!」
「全員ですか?」
 僕の問いかけに、うん! とミツエモンが頷く。
 ここで、ミツエモンと友人になって、さらにカクノシンさんとも友好を深める、という朝のエドアルドの言葉が脳裏に蘇った。
 よし!
「嬉しいです。これからもっと色々お話できるようになりたいって、僕達も話してたんですよ」
 な? と皆に顔を向けると、全員が揃って「そうです!」とか「友達になれると嬉しいなあ」と続ける。
 ミツエモンがさらに嬉しそうな笑顔になって、それからすっと僕を指差した。

「えっと。あんたが『マー君』!」

 ……は?

「それから、『マルちゃん』に『ホル君』に『ミーちゃん』だろ? それから『セッちゃん』に『ルディ』に『ハイン君』に、でもって」
 ミツエモンの指がエドアルドを指す。

「あんたが『エド君』! な!」

「………マル、ちゃんって……僕……?」
「………………ホル、くん……?」
「まさか、ミーちゃんって僕のことじゃないよな? な?」
「……ルディってのは僕だよね? ……んー、これは悪くないかも……」
「…………僕の場合、セリムのままでちっとも構わないと思うんですけど……。どうして無理矢理縮めるんですか?」
「だって皆の呼び名を考えたのに、セッちゃんだけそのままだったら不公平じゃん!」
「いや、全然気にしませんが……」
「おいこら、ちょっと待てよ!」
 思わず敬語も忘れて(というか、どうして僕達こいつに敬語を使ってるんだ? お客さん扱いする必要性、もうないんじゃないのか?)、僕は思わず剣呑な声を上げてしまった。
「なに?」
 くるん、とミツエモンが僕を見る。
「マー君ってのは僕か!?」
「もちろん!」
「冗談じゃない! 止めろよな、そんな妙な呼び方!」
「気に入らない?」
「当たり前だろ!」
 じゃあ。ミツエモンがちょっとだけ宙を睨む。

「マッチだ!」

「………あのなあ……」
「これもイヤなのか?」
「ああ、イヤだねっ!」
「わがまま」

 思わず。怒鳴りつけてやろうと、思いっきり息を吸い込んだ。
「おい! 落ち着け、マチアス! ……友達にならないと……!」
 最後の一言だけ声を潜めて、ホルバートが言った。
 ぐっと唇を噛み締め、いち、に、さん、と数を数えてから、ミツエモンから視線を剥がす。

「………すみませんけど」
 顔を向けた先では、カクノシンさんとスケサブロウさんが苦笑を浮かべながら僕達を見ていた。

「おたくの坊っちゃん、ちょっと拳で撫でてやってもいいですか……?」

 だめー。
 スケサブロウさんが答え、それからカクノシンさんと2人で肩を震わせて笑い出した。

「…っ、あの……!」

「……エド君、かあ……」

 何だかしみじみとした声。
 え? と頭を巡らすと、エドアルドが……まさかと思うけど、どこかうっとりと宙を見つめていた。

「…エ、エドアルド……?」

「僕、エド君なんて呼ばれたの初めてだよ。こういう愛称というものを、僕の一族は軽々しいと言って許さなかったし……。でも呼ばれてみると、何というか、意外と心地よいものなのだな」
「嬉しい? エド君!」
「嬉しいです! ありがとうございます!」

 頬をほんのり染めて、エドアルドがにっこりと笑った。こんな顔ができたのかと、吃驚するほど嬉しそうに。

「エド君は素直で良い人だなー! マー君ももっと自分に正直になった方がいいと思うぞ!」

 僕は思いきり正直だよっ!

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