ほら吹きオーギュの息子・4



「…………確かに……話を聞いたらすごく良い成績のような気がしてきた……」
 ルドルフが言い、セリムが「うん、僕も」と頷いている。
「僕……なんだか申し訳ない気がしてきたよ……」
 え? と見ると、マルクスがもじもじと居心地悪そうにしている。
「何がだ? マルクス」
「だって……僕、両親ともに教師でいつでも分からないところは教えてもらえたし、学校にもちゃんと行ってたし、家にも本がいっぱいあって、勉強するのに何の不自由もなかったし……」
「何言ってんだよ、マルクス。それは……」
「おれもー……」
 ふいに飛び込んできたもう一つの声に、僕は口を開いた格好のまま顔をその声の主に向けた。
 ミツエモンが胸元で両手の人さし指の先をもじもじと合わせながら、頬を赤らめて視線を伏せている。
「……えっと……?」
「おれさー」ミツエモンがひょいと顔を上げる。「おれ、正直言って頭悪いっていうかー、勉強って苦手でさ。あ、もちろん勉強が大事だってことは分ってるんだけどさ! でも……窓から見える空が青かったりすると、こんなに気持ちの良い天気なのに、どうしておればっかりうす暗い部屋の中でめんどくさい話を聞いてなきゃならないんだよーっとか思っちゃって。で、ギュ……あーと…家庭教師、の目を盗んで脱走したりするんだ。学校でもさ、数学の難しい公式を覚えたりとか問題とかやってると、こんなの人生の何の役に立つんだよっとか考えたり……。だから……」

「お前、ホントにバカだな!」

 つるっと言葉が飛び出してしまった。

 目の前で、ミツエモンとそれから……カクノシンさんとスケサブロウさんが揃って仰け反っている。

「あのなあ……」
 手にしていた先割れスプーンを盆に置き、顔だけじゃなく身体ごとミツエモンに向かった。僕に見据えられたミツエモンが、パッと背筋を伸ばす。
「魔王陛下のご英断があるまで、僕の村にはまともな学校がなかった。診療所もなかった。でも偉大な、本当に偉大なユーリ陛下のおかげで、村には立派な学校と診療所ができた。それを村の皆がどれほど喜んだか分かるか? 診療所は分かるよな? 命に関わることだもんな? だけどそれと同じくらい学校ができたこと、それからちゃんとした資格を持った先生達が来てくれたことを、皆、心の底から喜んだんだ。どうしてだか分かるか?」
 僕に問いかけられて、ミツエモンがまるで問答式の試験で当てられた生徒の様に表情を引き締めた。
「……もっとちゃんと勉強したいって、村の人達皆が思っていた、から……?」
 ああ、そうだ、と僕は頷いた。
「昔話ばかりじゃなく、もっと文字を覚えたい、たくさん本を読んで、世界のことをもっと知りたいってな。子供達はもちろん大人達も、自分達はダメだったけど、せめて自分の子供には勉強させてやりたいと願っていた。……僕の家は商売をしてて日銭があったし、親父が僕に望みを掛けていたから本を取り寄せたりもできたけど、ほとんどが貧しい農夫ばかりの村の人にそんなことは無理だった。それでもやっぱり、勉強したい、させたやりたいって思いは、村の誰もが、それこそ何世代にも渡って胸に抱え続けてきたんだよ。君たちから見ればささやかな夢だろうけど、僕の村ではとても実現できるとは思えない、果てしない夢だった。それが……学校ができたことでついに実現することになったんだ。大人も子供も、あの時は本当に飛び上がって喜んでいたよ。……学校の開校式の時には、村中の人が独り残らず、1年に1度着るかどうかもわからない一張羅の晴れ着を纏って集ってきた……」

 あの式典の朝の興奮が、僕の中に蘇ってくる。
 陽の光の下で輝いていた幾つもの顔、顔……。

「僕は年齢的に時期を終えていたし、1人で学ぶことがもう当たり前になっていたから学校に行くことはなかったけれど、村の大人の中には先生に頼んで子供達と机を並べて勉強する人が何人もいたんだ。大抵は文盲だったりしたんだけれどね。………つまり、何が言いたかったかというと……えっと……」
「世の中には勉強したくてもできない人が山のようにいるってのに、せっかくの良い環境を無駄にするな、っていうことよねー?」
 見るとスケサブロウさんが笑いながら僕に向かって軽く片目を瞑った。……この人の笑顔がどうしても皮肉っぽく見えてしまうのは錯覚なのかな? それともこの人の癖なのかな? 癖と言えば、この逞しい身体で妙に科を作った仕種が垣間見れるのもそうなのかな? 何か……気持ち悪いんだけど……。
「……まあ……突き詰めてしまうとそういうことなんですけど……スミマセン……」
「何謝ってるの!?」
 ミツエモンが高い声を上げる。
「いや、あのー……余計なことを喋っちゃったかも、と……」
「そんなことないよっ!」
 ……あんまり大きな声を上げて欲しくないんだけどなあ……。どうもミツエモンが何か言う度、周囲の視線が突き刺さってくるというか……。
「言ってもらって構わないよっ、全然! むしろ、言いたいことがあったらもっと言って欲しい! ……村の人の話とか、すごくその…それこそ勉強になったし! だから……」
「あ、じゃあ、もう一つ」
「え!?」
 ミツエモンが軽く引く。本当にまだあったのか、という顔つきだ。……言って欲しいって言ったの、お前だろ! ……腰を浮かせて身構えるミツエモンに、隣に座るカクノシンさんも苦笑を浮かべながら「坊っちゃん、座って下さい」と穏やかな声を掛けている。
「ごっ、ごめん! はいっ、どーぞ!」
 ミツエモンが慌てて席につき、ぴょこんと背を伸ばす。
 あまりエラそうなことを口にするのは好きじゃないけど、まあここまで言っちゃったんだからもういいか。
「あのさ」
 僕はミツエモンに向かってわずかに身を乗り出した。
「住む家があるとか、家族が揃っているとか、腹一杯食べられるとか、服がたくさんあるとか、学校に行けるとか、そんな恵まれた境遇ってのは、誰に譲ることも分けることもできないんだぜ? だから、自分がそんな環境に生まれたことを感謝して、もっと大切にしろよ。それが、お前が持ってて当たり前だと思ってるものを持っていない者に対しての、せめてもの礼儀ってもんだと僕は思うぞ。……違うか?」
「………う、ううん……違わない」
 一瞬、ぐっと詰まったミツエモンは、すぐに大きく首を振ってそう答えた。それから、
「あの……おれ、ごめんな……」
 ミツエモンがしょぼんと肩を落とす。
「……何でそこで謝るんだ? そういえば、マルクスもさ。こういうことって謝ったりすることと全然違うだろう?  人と比べてどうこうって問題じゃないんだから。ええっと、何て言えばいいのかな……」

「大切なのは、それぞれの生まれ落ちた環境がどうあろうと、恵まれて驕ることも、貧しいからと恨むことも羨むこともせず、まして諦めたりもせず、それぞれの人生を精一杯生きるということだね」

 カクノシンさんだった。

 にっこりと笑ってそう言うと、ミツエモンの頭に手を置いて優しげな手付きで撫でている。

「だから坊っちゃんは、勉強から時々逃げ出すことを反省したら、良い話をしてくれた彼に謝るんじゃなく、お礼を言えばいいんですよ?」

 その言葉を反芻するように、じっと上目遣いでカクノシンさんを見つめていたミツエモンは、やがて「うん」と頷くと僕に顔を向け、ぺこっと頭を下げた。

「色々と教えてくれて、本当にありがとう!」

「……あ、いや、そのー……」
 何ていうか……こいつってホントに素直なやつだなぁ……。顔立ちだけじゃなく、そういったところも何ともいえず可愛いっていうか……。
「えーと、こっちこそ、妙に説教くさいことを言ってしまって……ごめん、じゃない、済みませんっ。失礼しました!」
「……どうしていきなり丁寧な言葉になる訳?」
 きょとんと首を傾けるミツエモン。
「いや……えーと、正直どういう言葉遣いが正しいのか良く分からないんだけど……。でもまあ、我ながららしくないことしちゃったなあ、と……。それに同年代に対して、やっぱりちょっと失礼だよなって……」
「同年代じゃないよ」
 え? と全員の視線がミツエモンに向く。
「だってあんた達皆、純血魔族だろ? おれ、混血だし! だからあんた達よりおれ、ずっと年下だよ! 混血は成長の仕方がちょっと違うもんな」
 混血!?
 その時、ハッとエドアルドが目線を上げた。僕も気づいた。ホルバート達も気づいたらしく、視線を同期生達の一画に向けている。
 ミツエモンが混血だと声高らかに宣言した瞬間。
 僕達の会話に耳を澄ましていたらしい同期生達のあちこちで、小さなざわめきが起きていた。それも明らかに非好意的なざわめきが。
「……あのー……」
 雰囲気の変化を察したのか、ミツエモンがどこか弱々しげな声を上げた。
「……もしあんた達が混血が嫌いだっていうなら……」
「そんなこと、全然関係ありません!」
 きっぱりと断言したのはエドアルドだった。

「混血だろうと純血だろうと、偉大なる魔王陛下を戴く同じ魔族です。血はただの血、血液に過ぎない。そもそも混血とか純血という呼び方自体が間違っているんです! そういう区別した呼び方をするから、混血だから濁っているの、純血だから澄んでいるのと言い出す馬鹿者が現れるのです。先祖のおかげでたまたま高い地位を得た家柄を、さも貴いかのように自慢する者がよくそのようなことを主張しますが、彼らは己が己の無知蒙昧さを自慢していることに早く気づいて、深く恥じ入るべきだと僕は思います。文字通り恥知らずな行いですから」

 食堂の中の非好意的なざわめきが大きくなる。
 どこかで音を立てて立ち上がろうとする者を、周りにいる者が懸命に引き止めている気配がする。

「僕が友と認めた彼らは」
 エドアルドは、今はもう完全な無表情で、でも声には重い怒りを籠めて、言葉を続けた。
 その視線はまっすぐミツエモンを向いているけれど、その言葉の向かう先が全く違うことは僕達にもはっきりと分った。
「混血だ純血だということで、人を差別するような真似はしないと信じています。もちろん!」
 エドアルドの視線が不穏な雰囲気を漂わせる席に向かって鋭く走る。
「ここにいる全ての者が同じであることを僕は願っています。なぜなら、混血であることを理由にその者を差別したり、誹謗中傷することは、それすなわち、魔王陛下を貶めることに他ならないからです!」
 その言葉に、不穏だった空気が一瞬で凍るように固まった。
「偉大なるユーリ陛下は、ご即位あそばされると同時に、御自ら混血であることを眞魔国全土、全臣民に対して堂々と告白なさいました。……勇気ある行動であったと思います。陛下の偉大さの数ある証の中で、まさしく最初の一事であったと……。ユーリ陛下が眞魔国史上最高の賢帝であらせられることを、誰1人として否定するものはないと思います。にも関わらず、混血を誹謗する者があるとするならば、それはすなわち魔王陛下を誹謗するも同じ。まさしく反逆者!」
 語気激しく言い切ると、エドアルドは今やすっかり静かになった食堂を見回した。
「……と告発されても致し方ないと。もちろん士官を目指す我々の中にそのような不埒な輩が存在するはずがないですから、あなたも全く気になさることはないと思いますよ」
 ここでようやくエドアルドがミツエモンに微笑みかけた。
「…ど、ども……ありがと……」
 ミツエモンの笑みがどことなくぎこちない。……ちょっと怖かったのかもしれない。と思ったら、ミツエモンがわずかに背伸びしてカクノシンさんの耳元で小さな声で囁いた。
「あのさ……史上最高のケンテイって、何……?」
 小さいながらもはっきり聞こえたその声に、今度はカクノシンさんが、自分のお坊ちゃまの耳に唇を寄せて答える。
「ケンは賢者の賢ですよ。賢くて立派な王様、という意味です。彼はユーリ、陛下を、眞魔国の歴史の中で最も賢い、最も偉大な王であると言っているのです」
 その瞬間、「ひょえっ」と妙な声を上げてミツエモンの身体が跳ねた。それからすぐ、「ほややぁ〜…」とまたまた訳の分からない声だか言葉だかを洩らすと、何やら気恥ずかしげに椅子の上で小さくなった。
 何でこいつが恥ずかしそうにしてるんだ……?

「……あー…」
 ゴホンっ!
 突然、野太い声と咳払いがテーブルを囲む僕達の輪の中に飛び込んできた。
 何となく聞き覚えのある……と振り返った先には。

 ボッシュ主任教官殿の苦りきった顔があった。

「あー……お客人……と語らうのは何ら問題はないんだがな。食事を終えとらんのは貴様らだけだ。このままでは課題を仕上げる時間が減る一方ではないのか?」

 あっ! と、全員の顔色が変わる。
 見ればすでに食事を終えた同期生がかなり席を立ち始めているというのに、僕達ときたら……まだ半分近くも食事が残ってるじゃないかっ!?

「ごっ、ごめん!」ミツエモンが声を上げた。「おれが変なこと言ったから!」
「やっ、そんなことは……」
 思わず手を振って、彼の言葉を遮る。だってそうじゃないか。
「余計な話を長々してしまったのは僕だから! ごめん、皆! 申し訳ありませんっ、教官殿!」
「いいからさっさと食え!」
 言われるまでもなく、僕も、それから仲間達も、懸命に食事を掻き込んでいく。その必要はないはずだけど、ミツエモンも一緒になってはぐはぐと皿の食事を口に流し込んでいた。カクノシンさんとスケサブロウさんはというと、いつの間にかすっかり食事を終えていて、にこやかにミツエモンの様子を見守っている。
「坊っちゃん、急ぐと喉を詰まらせますよぉ。………ほら、言わんこっちゃない」
 くすくすと笑うスケサブロウさんの前で、ミツエモンが苦しげに胸を叩いている。
 はい、坊っちゃん、と、カクノシンさんが水を差し出しかたと思うと、コップをそのままミツエモンの口元に当てて飲ませ始めた。ミツエモンの手は胸を押えたままだ。……自分で飲まないか? 普通……。
 ようやく食べ物を飲み下せたらしいミツエモンが、ぷはーっと息を吐いた。

「…あー……お客人、方、に、お願い、したい、のだが……」

 どうしたんだろう? ボッシュ教官殿の声に、いつもの勢いが全然ない。妙に歯切れも悪いし。
 一瞬食事を忘れて見上げた先で、ボッシュ教官殿が……苦しげに顔を歪めていた。
 具合でも悪いんだろうか。こめかみに……あれは汗だよな……?

「何か? 教官殿?」
 カクノシンさんの穏やかな声に、ボッシュ教官殿がびくりと(?)顔を上げた。
「あの、あ……いや……」
 ゴホンッ、と再び咳払い。
「……初年生達は最終試験中であり、時間は大変貴重でありま……である。見学なさ、するのは構わんが、できるだけ生徒達の勉学の、あー、邪魔、をせんようにお願い致…お願いする!」

「ごめんなさいっ!」

 ミツエモンが叫んだ。

 その瞬間、ボッシュ教官殿が飛び上がるように背筋を伸ばした。ように見えた。

「おれってば、つい楽しくて。これから気をつけますから許して下さい。それから食事が遅くなったのはおれのせいだから、皆を減点したりしないで下さい」
 お願いします!

「…っ! あっ、いやっ、それは……っ!」
 ぺこりとミツエモンが頭を下げた瞬間、ボッシュ教官殿が焦ったように腕を振り始めた。元々黒い顔がさらに赤黒くなり、見る間に汗が吹き出てくる。
「教官殿……?」
 誰かの不思議そうな声が上がる。その声が耳に入ったのか、ハタッと何かに気づいたかのように教官殿の身体の動きが止まり、腕がぱたっと下ろされ、と思ったらいきなり僕達に背を向けてしまった。
 どうやら胸に手を当てている、らしい。それからー……しばらく肩で息をしてから、深呼吸? している?
 全く意味が分からず、仲間達と顔を見合わせ、ひとしきり首を捻っていた。ら、またも唐突に教官殿がくるりと身体をこちらに向けた。
「分って! 頂けたら! 結構!」
 しっ、失礼する! 宣言すると、ボッシュ教官殿はどたどたとその場から離れていった。
 本当に一体何が起きたんだろう……?
「おい、マチアス! 急げよ!」
 呼び掛けられて、僕は慌てて三口分ほど残ったオムレツを口の中に押し込んだ。



「……うーっ、どうして加点1点なのかが分からないっ!」

 ノートを前に、思わず頭を掻きむしってしまう。

 突然現れた見学者一行のこと。考えれば考えるほど妙な教官殿の態度。
 それはそれでものすごく興味があるけど、でも僕達はそれどころじゃない大問題に直面していた。

 何としても課題を仕上げねばならないのに……全然進まないんだ!
 
 4人部屋に8人が集って勉強するのはかなり手狭ということもあり、僕達は寮内の談話室の一画を陣取って、並び変えた机の周りを囲み全員で唸っていた。

 今日の記入式の試験は戦史と応急手当及び蘇生術について。その課題は何とか終えた。後は最難関の用兵学の課題を仕上げることだ。
 すでに時間は就寝時間を二刻ばかり過ぎている。本当は部屋にいなければならないんだけど、最終試験中は勉学を目的にする場合に限って免除されている。ということで、今こうして談話室にいるのだけれど。

「致命的な勘違いと思い込みって……」
 何だろう……?
 ここで取るべき正しい作戦は……。

「もう一度教官の提示した条件を思い出してみたらどうかな?」

 え?
 全員で声のした方向に一斉に顔を向ける。

「……カクノシンさん……?」

 カクノシンさんがにこにこと穏やかに笑いながら(…って、何だか僕はこの人のこんな顔しか見てないような気がするぞ)、そこに立っていた。

「はーい、坊やたち〜。ウチの坊っちゃんから差し入れですよ〜」
 カクノシンさんの背後から突然現れたのはもちろんスケサブロウさんだ。
 手に大きなお盆を捧げ持っている。お盆の上には湯気の立つカップと大きめの鉢。
「熱々のカチュネをどーぞ。それから軽くてお腹にもたれないお菓子をね」
 寄せ集めたテーブルの真ん中にお菓子を盛った鉢を置き、カップを配ってまわるスケサブロウさん。
「あ……ありがとうございます。えっと、あの……ミツエモン、さんは……」
 いた。
 カクノシンさんとスケサブロウさんの後ろ、談話室の入り口の扉の陰から、目から上だけがぴょこんと飛び出してこちらを覗いている。
「先ほど君たちの邪魔をしてしまったと、坊っちゃんが気にしていてね」
 つまり遠慮しているわけか。
「あの」エドアルドが口を開いた。「邪魔されたとは誰も思ってはおりません。……このように遅い時間ですが、今夜はこちらにお泊まりになるのですか?」
 そうなんだ、とカクノシンさんが頷く。
「しばらくこちらに泊まり込んで、士官学校の生活をじっくり見せて頂こうと思ってね。なるべく迷惑を掛けないようにするので、どうかよろしく」
 スケサブロウさんに促されて、ミツエモンがおずおずと談話室に入ってくる。
「あの……さっきはごめんね? ……邪魔しないから、ここに居てもいい……?」
 わずかに小首を傾げた姿。ほんの少し弱々しげな瞳に瞬く淡い光。こっちは座っていて、あちらは立っているのに、なぜか上目遣いで見つめられた瞬間、僕の胸を何かがどんと音を立ててぶつかり、そして貫いていった。瞬間、視界がグラリと揺れる。
 ミツエモンが見せたその仕種は、何と言うかもう、とてつもない破壊力を持っていた!
 これはすでに強力な武器だ!
 その攻撃をまともに喰らったのは僕だけじゃないらしく、ごくりと大きく喉が鳴る音がいくつか耳に入り、視界にはホルバートやミハエル達がやっぱり眉間を押えてクラリと目眩を起こしている姿が映った。
 ちょっとみっともない姿を晒したような気がして恥ずかしいけど、それが僕だけじゃなかったらしいことに、僕は内心密かにホッと息をついていた。

「課題がまだ終了していませんのでお相手はできませんが、それでよろしければどうぞ」

 ちょっと信じられないくらい冷静な声。
 それはもちろん、フォングランツ・エドアルドのものだ。

 白皙の整った容貌は全く変化なく、実に穏やかで礼儀正しく、文字通りの沈着冷静で。
 エドアルド、君ってやつは……。
 全員が、驚きと幾許かの尊敬の念を込めて、その大貴族のまさしく貴族的な顔を見つめている。
 と。

 …………………あれ……?

 ふと。
 妙な違和感が僕の胸にかすかに湧き上がった。

 エドアルドをじっと観察してみる。
 その顔。今は何の表情も浮かべていない品の良い顔…には何も…………。
 なくなかった……!

 顔は確かに変化がない。表情もない。でも。
 金髪にわずかに隠れるかどうかという耳が……真っ赤になってる……!
 それに、首筋もほんのりと赤く上気していて。

 まさか、もしかして……こいつの、エドアルドの無表情って……。

「ありがとーっ。んじゃ、お邪魔しまーす! グリ、じゃない、スケさーん、おれにもカチュネ!」
「はーい、坊っちゃん。ただいま〜」

 ハタッと見ると、つい今し方の儚いまでの気弱げな雰囲気は何だったんだ!? と怒鳴りたくなるような脳天気な顔で、ミツエモンが足取りも軽くやってきた。
「はい、坊っちゃん、こちらにどうぞ」
 僕達と隣り合った机の椅子を引き、カクノシンさんがミツエモンを座らせる。
 スケサブロウさんがミツエモンと自分達の分らしいカップとお菓子を机に置く。
 思わずエドアルドから目を離し、そうして3人が席につくまでをまじまじと見つめていた僕達に、ミツエモンがにぱっと明るく笑い掛けてきた。

「どうしたんだ? 課題、やんなきゃダメなんだろ? 応援してるから、がんばれよ!」

 ………こ、こいつ……。

 何だか騙されたような複雑な心境で、僕達はのそのそと机に向かった。

「あの……伺ってもよろしいですか?」
 ふいに上がったのはセリムの声だ。
 ミツエモン、カクノシンさん、スケサブロウさんが揃って顔を向ける。
「あの、カクノシン、さん、でしたよね? ええと……先ほど仰っていた、教官が提示した条件を思い出す、という点についてですが……」
 ああ、とカクノシンさんが笑みを深めた。…というか、この人、本当にずっと笑顔のままだけど……疲れないのか? これが地顔とか? ……まさかね。
 あまりヒントを出すと不公平になるかなあ? と呟きながらも、カクノシンさんは僕達に向かって指を1本立てて話を始めた。
「言った通りだよ。あの時、ユーリア……教官は状況を何と君たちに説明したかな?」
「状況って……」
 思わず顔を見合わせる僕達。
「マチアスが地図を読んだんだよな?」
「ああ。僕達は低地の平原にいて、敵は高所に陣を張っていて……」
「味方も敵も同数。兵力も同じ。……他に何かあったっけ?」
 いや、と誰かが呟いて、それぞれがまた改めて腕を組んだり頭を捻ったりと悩みはじめる。
「それってつまりさあ……!」
 上がった声はミツエモンだった。
「全く同じ戦力を持った軍が高い所と低い所に分かれて、攻撃の切っ掛けを探ってるって状態?」
「ええ、全くその通りですよ、坊っちゃん」
 カクノシンさんが嬉しそうに頷く。
 何をそんなに嬉しそうに笑ってるんだか。だってミツエモンが言ったことは、状況をそのまんま言葉にしただけで…………。

 あれ?

 どうしたんだろう。今、何か喉の奥に引っ掛かったぞ……?

「……あ、あれ……?」
「どうした? マチアス」
 ホルバートが僕の目を覗き込む。
 それには答えず、僕はその「何か」を探ろうと、机の上のお菓子の鉢、羽目板の木目も整然とした床、壁に並ぶ魔動ランプ、それからシャンデリアと呼ぶには少々質素な照明へと、視線を順繰りに動かしていった。
 マチアス? という誰かの問いかけと、全員の眼差しが僕に注がれる。
 と。
 唐突に、僕の頭の中で「何か」がパチンッと音を立てて弾けた。

「あ……あっ……あーっ!!」

 頭を抱え、思わず椅子を蹴り倒すように立ち上がって叫ぶ僕に、顔を寄せていた皆が一斉に身体を引く。

「僕…っ、間違えてた! 思い込んでた! うわっ、ホントに思い込みだーっ!」

「うん、そうだね」

 穏やかな声に、意識が現実に戻る。
 ハッと振り返ると、笑っているのはカクノシンさんとスケサブロウさん。ミツエモンはきょとんと僕を見上げている。

「敵のいる高所の裾野を包囲して、補給線を押さえるという君の策は、敵が戦う状況になく、砦や城に篭城した場合にのみ有効だ。決して今のこの状態で使える策ではないね」

 ということは。僕はカクノシンさんの顔をまじまじと見て思った。
 あの試験の時から、この人はあの場所にいたのか……?

「なるほど…!」
「…あ、そうか……っ」
「うっかりしてたよ!」
 エドアルド、ホルバート、セリムの声。マルクスやハインリヒも、1拍遅れてから「ああ!」と納得の声を上げる。
 だけど「篭城……?」と、ミハエルがよく分からないと首を捻り、ルドルフも困ったように腕を組んだままだ。
「説明してあげたらどうかな?」
 カクノシンさんに促され、僕は改めて仲間達に顔を向けた。

「僕は間違ってたんだ。教官は一言もそんなことを仰ってはいなかったのに、勝手に……あの大戦の時の親父の自慢話を思い出してさ、状況が似てたせいか、うっかり篭城戦だと勘違いしていたんだよ。城に籠って動こうとしない相手をどう降伏させるか、という……。それで……。だけどもしも敵がただ攻撃の切っ掛けを探っているという段階で、兵を展開させて裾野の包囲なんかしたら……」
「同等の兵力なら、こちらの護りの壁はとんでもなく薄くなるだろう。もしも、上から一番弱そうに見える箇所を一斉攻撃されたとしたら……」
 エドアルドが僕の言葉を引き取って続ける。
「丘を囲んでいる分、味方の動きは鈍くなる。情報も命令も、伝達速度はぐっと下がるだろう。下手をすれば味方は……」
「全滅だ」
 ため息と共に最後の一言を口にして、僕はぐったりと席に腰を落とした。

「……教官殿の仰る通りだ……。僕の勘違いは……致命的だ……」

「めでたく間違いも分ったことだし、早く課題を書いたらどうなのかしら〜? このままだと夜が明けちゃいそうなんだけどね」
 スケサブロウさんだった。
 確かにそうだ。
 僕達は慌ててペンを握り、用紙に向かった。が。
「……それで、さ……。だったらこの場合、どうするのが最善の策なんだ……?」
 ミハエルの疑問に、ハタッと僕も含めて全員の手が止まる。
 止まってから。……別に示し合わせた訳ではもちろんないんだけれど、僕達はそろそろと首をカクノシンさんに向けた。
 カクノシンさんは、相変わらずにこにこと笑っている。そして。
「自分達で考えようね」
 すっぱりと言われてしまった。

「……兵力は同じ。違うのは……味方は敵に比べて格段に不利な状況、というだけ、なんだよね……」
 セリムが確認する。確かに、条件はそれだけなんだ。
「思ったんだが」
 エドアルドが、らしくなく遠慮深げな声で言った。
「今思いついたんだが…。もしも援軍もなく、状況がこのまま膠着しているとしたら……」
 エドアルドがどこか自信なさげに僕達の顔を見回した。

「最善の策は、撤退すること、ではないだろうか……」

 撤退!?

「…や、でも幾らなんでも……」
「そうだよ、いきなりそんな……」
「でも……他に案があるか……?」
 何とも答えようがなく、僕も皆もそれぞれの顔を見回しながら、結局は揃って頭を抱えてしまった。

「ひとつ、昔話をしようか」

 ひどく唐突な声。
 救いを求めるような気分で頭を巡らせた僕達の視線の先で、カクノシンさんがやっぱり微笑んでいる。

「あの大戦で起きた実際の話だ。……ある作戦を遂行中の、確かあれは二個中隊だったはずだが、ある場所で格段に不利な状況で敵と対峙してしまった。このままでは危険だと、隊の指導部にある者は揃って司令官に撤退を進言した。ところがその司令官は…十貴族に繋がる、いわゆる名家に属する男だったんだが、撤退などという不名誉な真似ができるかと副官達を一喝した。『魔族の誇りと由緒正しき一族の名に掛けて、撤退など断じて許さん。撤退して一族の名に傷をつけるくらいなら、名誉ある戦死を選ぶ!』と宣ったんだ。そして『貴様らの眞魔国への忠誠心が真のものであるならば、我らは必ずや勝利するであろう!』と檄を飛ばし、突撃を敢行した。結果……その二個中隊はほぼ全滅した。もちろんそれは彼らの忠誠心が薄かったからでは決してないけどね」
「………その、司令官も……?」
 眉を顰めて問うミツエモンに、カクノシンさんは首を左右に振った。
「彼は無傷で帰ってきましたよ。自分は魔族の名誉を守ったのだと堂々と胸を張ってね」
「そんな……」
「もちろん、いくら当時の宮廷、そして軍指令部が酷いありさまであったとしても、さすがに彼を許す訳にはいかなかった。摂政は庇おうとしたが、人々の怒りはあまりに大きかったしね。特に、グ…フォンヴォルテール卿、現在の宰相閣下は激怒していた」

『己の名誉を守るためなら戦死も厭わぬとまで口にしたというではないか! ではなぜ貴様は生きている!? 生きてこの場にいることこそ恥であるとなぜ思わぬ!? 圧倒的に不利な状況で、それでも突撃すると言うならば、貴様、なぜ自ら兵の先頭に立って敵の直中に飛び込まなかったのだっ!?』
 魔王陛下と摂政、そして宮廷の人々が居並ぶ前で、フォンヴォルテール卿グウェンダルはその男を激しく糾弾した。
『わ、私は司令官であり、司令官とは軍の後方にて戦局を見極め、兵を指揮することこそ任務! ましてこの私が兵の先頭に立って戦うなどと……殿下は我が一族がどのような血筋であるかを……!』
『貴様がいつ戦局を見極めたっ!? 一体いつ……! ……貴様ごときに流れる血など、二個中隊の兵が流した血に比べれば塵ほどの重さもないっ!!』

「己の名誉と彼が呼ぶもののために自分自身の命を懸ける、という発想はどうも端からなかったらしい。……無名の兵卒の命など、彼にとっては所有物以上のものではなかったようだしね。だから自分のためにその命がどれほど失われたとしても、むしろそれは兵士達にとっても名誉であるとすらあの男は考えていたんだな」

「……おれ、用兵のことは何にも知らないけど」
 ミツエモンが沈んだ声で呟くように言った。
「そいつ、さいてー……」
「その司令官はどうなったのですか?」
 エドアルドも冷たい刃物を感じさせるような声で尋ねた。……十貴族の1人として、やっぱり……恥ずかしいと思ってるんだろうな……。
「任を解かれ、領地で蟄居を命じられたまま現在に至っているはずだ。ついでに言うと、高貴な家柄を侮辱したということで、フォンヴォルテール卿も数日の謹慎を命じられたはずだな」
 ほう、とやるせないため息が一斉に漏れた。一体何をどういえば良いのか分からない……。昔の話とはいえ、ただもう……無謀な指揮の下に死んでいった兵士達とその家族の気持ちを思うと……悔しい……! たまらない悔しさがこみ上げてくる。だって、もしかしたらそこには僕の父さんがいたかも……。

「リーベンルーフ・ユーリアは、その戦いで弟を亡くした」

 僕を含め、全員の垂れていた頭が一斉に上がった。

「その時以来、彼女は用兵を徹底的に学び直した。元々彼女の専門は戦史だが、これまで様々な作戦について研究していたのが役に立ったのだろう、用兵学については、国軍でも右に出る者はいないと言われるほどの専門家になった。実戦で指揮したことはないが、教官としては最高の人物だね」

 そう言って、カクノシンさんは微笑んだまま、ゆっくりと僕達を見回した。

「戦略的撤退は、立派な作戦行動だ。おかしくもなければ、まして恥などでは絶対にない」
 これだけは覚えておいて欲しいのだが。
 付け加えられた言葉に、僕達は姿勢を正してカクノシンさんと向かい合った。

「君たちが士官となれば、いずれ兵を指揮する立場に立つ。それは君たちが、部下となる全ての兵の命を肩に背負うということだ。その重みを決して蔑ろにしてはならない。部下の命を護ることもできない指揮官に、国を護ることなど絶対にできないはしないのだから」

 はい!
 僕は、僕達は、精一杯の思いと決意を込めて、大きく大きく頷いた。


「……あのー……いいでしょうか……?」
 僕の間違いと結論ははっきりしたのだから、後はそれぞれ自分の言葉でそれを文章にしようと、無言のまま懸命にペンを走らせていた最中に、僕はふと思い立って振り返った。
 そこでは片手にお茶のカップを持ったカクノシンさんが、そろそろ眠くなってきたらしいミツエモンの頭を、もう一方の手でそっと胸に引き寄せているところだった。
「……何かな?」
 心持ち声を潜めてカクノシンさんが答える。
「あの、すみません……そのー……僕の答えは本当に致命的な間違いだったと思うんです。なのにどうして教官殿は加点されたんでしょうか……?」
 僕の質問に、カクノシンさんがちらっと視線を向ける。
「そうだね。……少なくとも篭城戦であれば君の作戦は有効、ということもあるしね。それと後は……君が待つと言ったことを評価したんじゃないかな」
「あれが……どうして……?」
「若くて経験が浅ければ浅いほど、血気に逸った行動を取り易い。鍛え抜かれた大軍団による大攻勢を掛ける、などという一見勇壮で実は中味が空っぽな言葉を有り難がったりね。でも君は待つと言った。必要な手を打ったら、後はただ待つ、とね。おそらくそこを彼女は評価したんだろうね」
「1点分、ですね」
 そうだな、とカクノシンさんが小さく笑った。

「あのぉ」今度はセリムだ。「……軍においでになったことが……あるんですよね……?」
「俺のこの年齢であれば、あの時戦場に向かわなかったものはまずいないよ」
 ミツエモンの頭を器用に胸に納めて、カクノシンさんはほんのちょっと質問の意図とずれた答えをした。
「兵を指揮したことがあるとお見受けしましたが」
 セリムの質問に被せるように、そう尋ねたのはエドアルドだ。
 ペンを置き、じっとカクノシンさんの瞑目した横顔を見つめている。

「……ああ。確かに俺は指揮官だった」

 そして。

「俺もまた、部下を皆殺しにして帰ってきた男だ……」

 カクノシンさんがその端整な頬に浮かべたのは、自らを嘲るでも怒るでもない、ただ静かな静かな笑みだった。  


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こんなことしてたらダメだよ。話が進まないと面白くも何ともないよ。と、思っておいでの方もきっと大勢おいでになるかと!
ホントにスミマセンっ!
頭の中で彼らの色んな会話が弾んで弾んで、止まってくれないんですーっ。
イントロは(いえ、どこまでがイントロで、何が本題かすら、すでに分からなくなってるのですが!)続くよ、どこまでも、という感じになってきました。
すでにもう4話が終わったというのに!

こんなのですが、ホントにこんなので申し訳ないのですが……ご感想、お待ちしております……。