ほら吹きオーギュの息子・3



「ありがとっ! ちょっとふざけてたら飛んでっちゃって」
 近づいてこられると、無意識に後ずさりたくなってくる。それくらいそいつの美しさというか、可愛さには迫力があった。……「可愛い」に「迫力」というのは、かなり間違ってる気もするけど……。でも、そう、1歩づつ近づいてくるその「坊っちゃん」の、道端で見つけた一輪の花より可憐で、雨上がりの虹や雲の隙間から地上を照らす太陽の光の帯より神秘的な美しさと愛らしさは、息を呑むほどの迫力があったんだ。
 ………誰かがどれだけ綺麗かを表現するのに、こんなに一生懸命になったのは初めてだ。何だか……ものすごく照れくさいことをしている気がする。
 内心赤面する思いで、僕は思わず顔を伏せた。と。

「あなたがどういう方か存じないが」
 耳に飛び込んできた声に驚いて見上げれば、フォングランツ・エドアルドが球を手に、最初の印象のままの無表情で、「坊っちゃん」を見つめていた 。
「ここは血盟城の敷地内です。このようなものでふざけて良い場所ではないと思います」

   ………そういえば、この球を拾ったのはホルバートじゃなかったか? 一体いつこいつの手に?
 ホルバートは、と見れば、やっぱり呆気にとられた顔でフォングランツを見上げている。

 フォングランツの言葉に、球を受け取ろうと手を伸ばしかけた「坊っちゃん」も、きょとんと顔を上げる。
 見上げる顔も可愛い。
 それにしても、この並外れた可愛い顔と間近に見合って、平然としているフォングランツはとんでもない大物! ……なんじゃないだろうか?
 それとも十貴族ともなると、こんな美形を目にするのも珍しくはないんだろうか……?

「闇雲に投げれば」フォングランツのお説教は続く。「どこで誰に当るか知れません。実際、このボールはここにいる彼の頭にぶつかりました」
「……え!?」
 「坊っちゃん」が吃驚した顔で目を瞠く。そして慌てたようにしゃがみ込み、マルクスの顔を覗き込んだ。
「だっ、大丈夫!?」
「…っ、うっ、あうっ、あ、い、いえっ、あのその……っ」
 覗き込まれ、上目遣いで見上げられたマルクスの顔が一瞬で真っ赤に染まる。それからどっと汗が吹き出すのを、僕らはまじまじと見つめていた。
「あー顔が赤くなってるし、汗も出てる。痛む? うわー、おれってば……」
 言いながら「坊っちゃん」が手をマルクスの額に向けて伸ばす。
 誰かがごくんと喉を鳴らした。
 と。
「坊っちゃん」
 ふいに、不自然な動きで「坊っちゃん」の身体が後ろに退いた。見ればその両肩を、男の手がしっかりと押えている。
「……コ」
「とりあえず立って、謝りましょうね。そちらの彼については、俺の見るところ特に緊急の手当が必要というわけではなさそうですし」
 あ、と小さく口を開けて、それから「坊っちゃん」は慌てて立ち上がると姿勢を正した。
 僕達もなんだかその場の勢い(?)で一緒になって立ち上がり、「坊っちゃん」と向き合う。「坊っちゃん」(僕と同年代だろうと思うけど、こうして並んで見ると小柄でかなり華奢な体格だ)が、僕達の顔を見渡してから、改めて頭を下げた。

「どこに人がいるかも分からない所で危ない真似をして、本当にごめんなさい! ついふざけてボールを投げてしまって……。これからはくれぐれも気をつけます! ……えっと、それで、ホントに大丈夫……?」

 眉尻をしょぼっと下げて、再びマルクスを見つめる「坊っちゃん」。突如。
「だっ、大丈夫っ、ですっ! ぼぼ、僕はっ、こんな体格ですから! 頑丈ですから! 頭も硬いですから! あっ、あのっ、ぜんぜんっ、気にしないでっ、下さいっ!」
 棒の様にぴんと立って、指の先まで揃えた両手をちゃんと腰の横に当てて、教官に何かを申告するかのようにマルクスが叫んだ。
「…………ほんと?」
 一瞬びっくりした顔で仰け反った「坊っちゃん」だったが、すぐに小首を傾げる様にマルクスを見上げる。
「ほっ、ほんとでありますっ!」
 ますます真っ赤になり、がちがちに固まって、マルクスが答える。
 それならいいんだけど……と、「坊っちゃん」がまだ心配そうに呟いている。
 それにしても。
 ここで遅まきながら僕はようやく気がついた。
 外れとはいえ、れっきとした魔王陛下の居城の敷地内で球遊びなんかするこの人物は、一体何者なんだろう。
 改めてこの一行を見直してみると。
「坊っちゃん」は……大してお坊ちゃまらしい姿をしてるわけじゃなかった。
 むしろ質素といっていい服装で、でも、それが顔立ちや雰囲気と妙に合っていないような気もする。
 貴族じゃないのかな? 城内で働いている? でも、だったらどうして「坊っちゃん」……?
 お供らしい2人の男は、年齢が100歳前後、というところだろうか。すらりと背が高くて体格も悪くなさそうだ。服装は「坊っちゃん」と同じく、ごくごく平凡で質素、というか……。
 2人の内の1人は、茶色の髪に茶色の瞳。すっきりと整った顔立ちの、どこか品の良さそうな雰囲気だ。もう1人は果物の皮みたいな妙な髪の色と、青い瞳をした男で、もう1人に比べると…そう、野性的、な匂いがする。捲り上げた袖から伸びた腕やはだけた胸の様子から察するに、かなりの筋肉に恵まれているようだ。どちらも剣を下げているわけじゃないから、武人ではなさそうだけど……。かなり良い体格をしてるのに、もったいない気がするなあ……。
 ほんとに、この3人って……?

「その制服からすると、お前さん達は士官学校の生徒かい?」
 果物の皮というか、夕焼けの色というか、とにかく派手な色の髪をした男に、逆に尋ねられてしまった。
「雰囲気からみてー……入学したばっかり、かなぁ?」
 にやにやと笑いながら(といっても、どちらかというと明るい笑顔なので、あまりイヤな感じはしないけど……何だか面白がっているような雰囲気が、どうも気になる。)、夕焼け髪の男が聞いてくる。
「そうです、が……」
 フォングランツ・エドアルドが、少し戸惑ったように答えた。彼もこの3人が何者か分からなくて、どういう態度を取ればいいのか迷っているようだ。
「あ、そうなの!?」
 いきなり「坊っちゃん」が声を上げた。
「だったらさあ、ちょっと聞きたいんだけど! 今年からほら、一般からの入学もあったんだろ? えっと、確か4人! ね、どんな感じ? ちゃんとやっていけそう? ……あー……あんた達が貴族だったら……」
「あの!」
 思わず声を上げた僕に、「坊っちゃん」がパッと顔を向ける。真正面から見合う。……心臓が跳ねた。
「……あの……。それ、僕達のことですが……」
 え? 「坊っちゃん」が目を瞠き、まじまじと僕を見つめてきた。うわー……。
「君たちが?」
 その言葉は、茶色髪の男から発せられた。よく通る、でも柔らかな良い声だ。この顔とこの声で歌でも歌おうものなら、ウチの姉貴達なんか一発で恋に落ちるだろうな。
「はい、僕達がそうです」
 答えたのは僕じゃなく、セリムだった。
「僕と、ここにいるこの3名が一般臣民からの入学者です」

 へえ。「坊っちゃん」が僕達を、1人1人確認する様にじっと見つめる。かと思ったら、徐にぱあっと笑った。
「そっかー! あんた達がそうなんだ! ………あれ? じゃあ、こっちの人達はー……」
 「坊っちゃん」の視線がフォングランツ達に向く。
「……僕達は、まあ一応……貴族です」ラングが答えた。「といっても、別に地位や財産があるわけでもないですが。……僕達は4名は、制度が変更されてすぐ、旧弊な貴族の反発を受けることを覚悟の上で入学してきた彼らの意気に感じまして、良き同期生、友人としてこれから付き合っていきたいと思い、今身の上のことなど色々と話しあっていたところです」
 ラングの言葉が素直に嬉しい。だけど関係ないはずの「坊っちゃん」の瞳が、そのセリフを聞いてなぜかぐんと輝きを増した。
「ホントに!? ホントにそんな風に思ってくれたのか!? ……そっかあ……うわー、よかったなー…!」
 ………どうしてこいつがこんなに喜ぶんだ……?
 僕だけじゃない、ホルバートもセリムもマルクスも、それからフォングランツもラングもシュトロハイムとカースマイヤーも、揃って呆気に取られた顔で「坊っちゃん」を見ていた。

「……っと、坊っちゃん!」
 ふいに声が、あの夕焼け髪の男の声がその場に響いた。
 呼ばれた「坊っちゃん」がひょいと振り返る。
「そろそろ行かないと試合が始まっちまいますよ? 今日は初回から観戦なさるんでしょ? ぐずぐずしてたら近道した意味がなくなっちまいます」
「あ……あーっ、そうだった…! やば……」
 「坊っちゃん」がいきなり踵を返し、走り出そうとする。
「坊っちゃん、待って下さい」
 茶色髪のお供が、走りかけた「坊っちゃん」の腕を掴んで止めると、自分の方に向かせた。
「はい、そろそろこれを被って下さいね。メガネも忘れずに……」
 言いながら、「坊っちゃん」の頭に懐から抜き出した帽子を目深に被せ、それからメガネを掛けさせた。
 ……これじゃせっかくの可愛い顔がすっかり見えなくなってしまうのに……。
「それじゃあ行きましょうか」
 茶色髪が「坊っちゃん」に、にっこり笑いかけてそう言った。
「うん!」
 元気に良い子の返事をすると(もしかしたらもう少し年下かもしれない)、「坊っちゃん」はあっさりと僕達に背を向け、小走りに進、んだかと思うと、いきなりこちらを振り返った。

「今日は急いでるからこれで! またなっ!」


「………………またな、って……?」
「……さあ……」
「一体、何だったんだ、あれ……?」
 全員揃って首を傾げる。
「……あ!」
 いきなりの声に、僕達の視線が声の主、フォングランツに向いた。
「これ……」その手の中には、やきゅうとやらに使う球。「返すのをすっかり忘れていた」

 士官学校入学(仮)第一日目。
 不思議な出会いをしてしまった。

 しかしその出会いは、翌日にはきれいさっぱり僕達の脳裏から消えた。
 それどころじゃなかったんだよっ。

「よし! この地図をしっかり見て、地形を頭に叩き込め! いいか、敵と味方はほぼ同数! 兵力も同じ! ここで我々はどう動くべきか! フォンギレンホール・バドフェル! 答えろ!」
「あ…あの、え…っと……」
「何があのえっとだ、バカ野郎っ!! 唸ってる間にてめぇの部下は全滅しちまうぞっ!」
 窓ガラスが震える程の大音声で怒鳴りつけた用兵学の教官殿は、怒鳴った次の瞬間すっと冷静な顔に戻ると、教卓の上のバインダーを取り上げた。
「フォンギレンホール・バドフェル。10点減点」
 フォングランツ同様、十貴族の若君であるフォンギレンホールが「ぐぐ…っ」と喉を詰まらせた。
 拳を震わせ、何か言い返そうと顔をキッと上げたフォンギレンホールに、教官殿がじろりと睨み返す。
 切れ長の目。すっきり通った鼻筋。目蓋に塗られた紫色の塗料(?)がキラキラと輝き、同じように紅色に塗り上げられた唇も、艶かしい程に光を反射している。
 教官殿のほっそりとした身体は、なぜか胸だけがどんと突き出し、金髪はいかにもお硬そうにきっちり結い上げられているのに、その軍服の襟元はなぜか危険なまでに寛げられて、ほとんどもう谷間が……。
「アルヴァン・ゲイル! 答えろっ!」
 はっ! と立ち上がったのは、タウシュミットのお取り巻きの1人だ。
「全軍を率い、一気に大攻勢を……」
「クソボケっ!!」
 教官殿が教卓の上に並べられていたチョークを1本拾い上げると、勢い良く投げる。軽いはずのそれは、ビシっと鋭い音を立ててアルヴァン・ゲイルの額を直撃した。
「うがっ!」
 瞬間的に仰け反ったかと思うと、すぐに額を押えてへたり込むアルヴァン。
「頭に刺さったわけでもあるまいに、この腰抜けっ!」
 アルヴァン・ゲイル、20点減点!
 僕達に用兵学を教授して下さる、リーベンルーフ・ユーリア(この名前は絶対詐欺だと思う……)教官殿は、僕ですら幾ら何でも理不尽な、と思えるセリフを口にすると、黒板にダンッと拳を叩き付けた。
「地図も読めずに、よく士官になろうなんぞと考えやがったなっ! 良く見ろっ! ……ノイエ・マチアス! この地図が意味するものは何かっ!」
 一瞬誰のことか分からず、きょとんとした僕だったけれど、教官殿の青い瞳に瞬く危険な光を認めた次の瞬間、慌てて立ち上がった。
「その地図の意味する所は! 敵は高台にあり、我々は低所の、それも平原といえる場所に軍を展開しているという状況でありますっ!」
「不利なのはどちらか!」
「我々であります!」
「その通り! 戦況を把握し易い高所に比べ、低地、それも隠密行動もできない平原にある我々は敵の状況を正確に把握することが難しい。また、我々が攻め上がるより、状況を視認しつつ攻め下る敵の方が断然有利である! ろくな情報も得ぬまま闇雲に攻撃を仕掛ければ、壊滅的な敗北を喫することにもなりかねん! よって、全軍を率いた大攻勢なぞ、言葉は勇ましいが無能無策の証明以外のなにものでもない!! ……ノイエ・マチアス! 続けて答えろ! 貴様はこの状況でどうすべきと考えるか!」
 一瞬、息が止まる。
 それから僕はそっと、でも大きく深呼吸して、前を見据えた。
 頭の中に、親父から聞かされた昔話が蘇る。親父はほら吹きだが、それでも戦場の駆け引きや軍略に関しては、決して間違った話はしていなかったはずだ。

「……我々は敵の陣地の裾野で、敵を包囲する形をとります。その上で、敵の補給路を完全に断ちます。高所にある敵は、必ず他の場所から補給を受けなければ陣を保持することができません」

 僕の答えに、ユリア教官がわずかに表情を変えた。
「そしてどうする?」
「そして」口の中に溜った唾を飲み込む。「待ちます」
 ユリア教官が僕の目を覗き込むように見つめてきた。
「待つのだな」
 ユリア教官が確認する。
 はい、と僕が答える。
「よし」ユリア教官が今度は大きく頷いた。「ノイエ・マチアス、加点1点」

 ……い、1点……?

「…あの……それはー……」
 何というか、ものすごく微妙な……。
「何か文句でもあるのか!?」
「いっ、いいえ! ありがとうございます!」
「バカ者!」
 加点してもらったからお礼を言ったのに、怒鳴られてしまった……。
「合格だと言ったわけではない! お前の答えには、致命的な勘違いと思い込みがある! それを分ってもおらんくせに、教官に向かって礼など述べるな、このおっちょこちょいが!」
「申し訳ありません!」
 直立不動で謝罪すると、「よし、坐れ」とお許しが出た。

「課題を出す! 今の問いにおいて、ノイエ・マチアスの答えが加点されたのはなぜか。なぜ1点だったのか。致命的な勘違いとは何か。総合的な分析をした上で、各々の戦略及び戦術を述べよ! ノイエ・マチアスは、自分の答えを改めて考察の上、修正意見を述べよ! 全員、明日朝一番に教務の窓口に提出のこと! いいなっ!」

「質問をよろしいでしょうか」
 馴染みのある声は、フォングランツ、いや……エドアルドのものだった。

 一昨日の士官学校初日、フォングランツ・エドアルドから「名前で呼び合おう」という提案をされた。その時はまさかそんな真似はと遠慮したものの、昨日1日、エドアルドから熱心に(本当にどうしてこれほどと不思議になるほど熱心に)説得され、結局今朝から、かなりたどたどしくはあるけれど、僕達8人の同期生達はそれぞれがそれぞれの姓ではなく、名前で呼び合うようになったんだ。というか、名前で呼び合うよう、努力してみることとなった。……実際それはかなり勇気がいることで、フォングラ……エドアルドに呼び掛ける時など、思わず深呼吸をしてしまうほど緊張してしまう。
 なあ、父さん、僕、自分がこれほど小心者だとは、ここにやってくるまで全く気づかなかったよ……。

「フォングランツ・エドアルドか。何だ?」
 は、とエドアルドが立ち上がる。
「僕た……失礼しました。自分達は、つい2日前に士官学校に仮入学したばかりで、用兵の基礎も学んでおりません」
「その通りだな。貴様らにそれを教えるために私がいる」
「はい。そのような未熟な自分達に、戦略戦術上の見解を述べさせることにどのような意味があるのでしょうか」
 淡々と無表情に質問するエドアルドに、ユーリア教官殿がふんと鼻を鳴らした。
「貴様らが用兵について何一つ分っていないひよっこだということは、百も千も万も分っているのだよ、グランツの小僧。誰がお前達なんぞに完璧な答えを期待するものか。……私が望むのは!」
 ユーリア教官殿が、声を上げ、ぐるりと全員を見渡した。
「現在の、いわばゼロの状態におけるお前達の考え方を知った上で、お前達の内に、将来司令官となる素質の持ち主はいるのか! 鍛えればモノになるヤツはいるのか! 今の内に僻地に飛ばす要員候補に入れておいた方がいいのは誰なのか! それともどいつもこいつも教えるだけ時間の無駄なのか! ……といったことを把握し、今後の講議に生かすことだ。……先ほども言った通り、完璧な答えなど期待してはおらん。今現在のお前達が最大限考えた上で、それぞれの意見を述べよ。……了解できたか? フォングランツ」
「了解しました。ありがとうございます」

「よし!」
 唐突に教室の後ろから声が上がった。
「本日の試験はこれにて終了する。本日出された課題は全てきっちり完成させた上、明日朝一番に提出する様に。昨日も言ったが、提出できなかった者は即刻放校とする!」
 ずっと後方で僕達を見守って(?)いたボッシュ教官の一声で、ようやく今日の講議と試験が終わった。

 そう。
 今の、ユーリア教官とのやりとりは授業じゃない。
 最終試験の一つ、だ。

 昨日から始まった士官学校の授業。
 午前中は教室での授業だ。眞魔国、それから人間諸国の地理、歴史、戦史、各国の行政制度、軍の制度、そしてもちろん用兵学などなど、の講議が目白押しにある。昼の休憩を挟んで、午後は外に出て体力増強のための訓練や、剣や各種体術の訓練が行われることになっている。昨日の初日は、荷物を背負っての登攀訓練だった。
 山登りは親父に小さい頃から徹底的に鍛えられてきたので、ほとんどお手のものと言っていい。王都を囲む山の一つを制覇した時には、他の連中はぜえぜえと肩で息をしていたけれど、僕は清々しい気分で気持ちの良い眺めを楽しむ余裕があった。
 その場で体操をして息を整えた後、王都を眺めながらの講議を受けた。それから再び荷物を背負って学校に帰ってきた時には、僕は心地よい疲労感にすっかり満足し切っていた。しかし。
 本当の試練はそれからだった。
 着替えて教室に集合して、本日の講議はこれで終了となったその後。
「では本日の試験を開始する」
 と、ボッシュ教官から宣言された。
 疲れ果てていた同期生達は、もう文句を言える気力も体力もなく、ただもう呆然と配られた試験用紙を見つめていた。呆然としてたのは、別に大して疲れていなかった僕も同じだけれど。
 昨日は、数学と国語の記入式の試験と歴史の問答式の試験だった。大変だったのは問答式の試験だ。
 今日の用兵学同様、次から次へと質問が繰り出され、即座に答えられないとすさまじい罵倒が飛ぶ。減点もされる。
 緊張感の連続で、終了した時は全員青息吐息で、ほとんど机に突っ伏している状態だった。
 そしてその上、試験があった教科は必ず課題が出る。昨夜、やっとの思いで全ての課題を書き終えた時には、夜もとっぷり更けていた。……僕も含めて同室の全員、体力気力の全てを絞り取られたような気分でろくな挨拶もしないまま、ぐったりと眠りについた……。

「終了の前に」ボッシュ主任教官殿の言葉は続いていた。「昨日の数学と国語の答案を返却する。点数及び順位を確認しておくように! これから先、最下位が続いた場合は覚悟しておけ。ちなみに、数学と国語の最高得点を取得したのは同じ人物だ」
 ボッシュ教官の言葉に、皆が静まり返る。
「ホルツ・マルクス! 数学、国語、共に満点! よくやった」
 おおっ、とどよめきが起こる。僕もびっくりして隣に座るマルクスを見上げた。
 満点取得者のマルクスは、でっかい身体を申し訳なさそうに縮めて、でも嬉しそうに頬を染めている。
 仲間の快挙に、僕達平民出身士官候補生(仮)は、笑みを交しあい、祝福の意味を込めてマルクスの身体をそっと拳で小突き回した。


「僕は両親とも教師だから……。勉強する環境は元々かなり良かったんだ。だからだよ」
 運が良かったんだ。
 寮に戻ってすぐ、皆で揃って食堂に向かう廊下を歩きながら、そう謙遜するマルクス。
 ちなみに、2位はエドアルドで、ハインリヒ達を含め、仲間達は全員が20位以内に入っていた。
 そして……。
「マチアス、君は? 総合順位はどうだったんだ?」
 ホルバートに尋ねられて、僕はポケットから成績の書き込まれた答案用紙を抜き出し、目の前に広げた。誰かが「何で今持ってるんだ?」と不思議そうに呟いている。
 その疑問を余所に、僕はそこに記された順位を見つめ、思わず……うっとりしてしまった。
「正直言って、まさかこんなに良い成績とは思ってなかったよ」
「そんなに良かったのか!?」
 僕の言葉に、皆の注目が集る。思わず「えへへ」と笑う僕。
 その時。いきなり傍から僕の手元を覗き込む誰かの気配を感じた。そして。

「42番だ!」

 声がした。

 え?
 全員が立ち止まり、きょとんとその声の主を見つめる。

「………ど、どうしてここに……?」

 「坊っちゃん」がいるんだろう。

 あの日、僕達の前に突如現れた「坊っちゃん」が、今、士官学校の寮の廊下に、またも唐突にその姿を現していた。
 前回と同じく、2人のお供を従えて、まるで最初から一緒に行動していたかのような顔で僕達といる。

「………あ、あのー……」
「どうしたの? ご飯食べに行くんだろ? 早く行こうよ!」
「行こうよ、って……」
 だから、どうして……?
「俺達もご一緒させてもらうので、よろしく」
 「坊っちゃん」の後ろから、茶色髪のお供がにこにこ笑いながらそうあっさりと言った。
「……一緒、って……」
 何だかバカみたいに言葉を繰り返す僕達。
「今日からさ、しさ……じゃない、見学させてもらうことにしたんだ! もちろん許可はもらってるから!」
「お勉強の邪魔はしないから、よろしくね〜、坊やたち」
 妙なしなを作って笑う夕焼け髪。
「見学……!?」
「坊やたちって……」
「なあ、おれ、お腹空いちゃったよ。早く行こう!」

 食堂で、僕達はすっかり注目の的になっていた。
 どうしてこうなるのかはさっぱり分からないのだけど……… 僕達は「坊っちゃん」と行動を共にすることになってしまった、らしい……。
 ほとんどなし崩しに、というやつだ。

 広い食堂には細長いテーブルが列になって並んでいる。初年生で、放課後に試験を受けている僕達は、2年3年の上級生達が食事を終えた後、テーブルに向かい合わせに座って食事をすることになっていた。
 お盆と先割れスプーンを取り、きちんと並んで厨房から差し出される食事を受け取るとテーブルに向かう。「坊っちゃん」とお供の2人は食堂中の注目をものともせず、楽しそうに食事の盆を手に持つと、当然のように僕達に混ざり、一緒に席についた。
 食堂には寮の係官も教官殿達も揃っていたけれど、見れば皆、何も言わずに彼らを受け入れているようだ。許可を貰っていると言っていたから……やっぱりそうなんだろうな。

「おれ、こんな風に食事するの、すっごい久し振り!」
 「坊っちゃん」の声はわくわくと弾んでいて、本当に嬉しそうだ。満面の笑顔は、興奮にほんのりと上気している。
 いただきまーす、と妙なセリフを口にすると、「坊っちゃん」がスプーンを手に取る。その途端、茶色髪が「まだですよ、坊っちゃん」と制止した。
「係官が合図をします。それまで手は膝の上に置いて待っていて下さい」
 あ、そうなの? 確認すると、「坊っちゃん」は素直にスプーンを置き、手を下ろして背筋を伸ばした。
「……少なくともあの男は、ここのやり方を知ってるみたいだな」
 ホルバートが僕に囁いた。

 全員が席につき、係官から本日の注意事項が知らされ、そしてその後ようやく許しが出て一斉に食事が開始された。
「よろしいですか?」
 食事が始まって早々、エドアルドが最初の声を上げた。視線はもちろん「坊っちゃん」一行に向けられている。
 はぐはぐと食事を掻き込んでいた「坊っちゃん」と、お供の2人がエドアルドに顔を向けた。
「あの……それで、あなた方は一体どういう……?」
「あれ?」
 「坊っちゃん」が不思議そうな声を発してから、「あっ、そうか!」と大きな声を上げた。……また周囲の視線が一斉に集る。
「おれってば、自己紹介をすっかり忘れてた! ごめんなっ。おれ、ミツエモン! よろしく!」
 ミツエモンって、妙な響きの名前だな……。っていうか、自己紹介ってそれだけか!?
「俺達は」
 主の言葉の足りなさを補うように、茶色髪が続けて言った。
「血盟城に品物を納めているチリメン問屋の者です。俺はカクノシン。よろしく」
「俺は……えーと、スケサブロウ、だな。よろしくー」
 ……どうして自分の名前を名乗る前に「えーと」が入るんだろう。というか、どうして揃いも揃って妙な名前なんだ? 呼びにくそうというか……。それにそもそもチリメンって何!?
 不思議に思ったのは僕だけじゃないらしく、仲間達はそれぞれ妙な顔で首を捻っている。
「なあなあ!」
 「坊っちゃん」改めミツエモンが、焦れたように声を上げた。
「あんた達の名前も教えろよ! なっ?」
 なっ、と、可愛く顔を向けられたのは隣に座ることになったミハエルで、ちょっと困ったように頬を赤らめてから、「カースマイヤー・ミハエル。です」と名乗った。
 士官学校を見学にきた商人の息子とそのお供に、どういう態度を取って良いのか分からないという戸惑いが、ミハエルの様子からありありと感じられる。
 それから順番に、僕達はミツエモン達に名前と出身地を告げていった。とりあえず敬語で丁寧に。
 ……こういう場合どう接すればいいのか、後で教官殿に確認しておいた方がいいかもしれない。

「フォングランツ・エドアルドです」

 そう最後に自己紹介したのはエドアルドだった。

「フォングランツ?」
 ミツエモンが目を瞠る。
 まさか僕達の中に十貴族が混ざっているとは思わなかったんだろう。彼だけじゃなく、カクノシン、さん(年上だし、やっぱり呼び捨てちゃダメだよな?)も、スケ、えっとスケサブロウ? さんも、へえ、と驚いた顔をしている。
 さあ、どういう態度に出るかな?
 何といっても相手は十貴族だ。どれほどの大商人の息子かは知らないが、結局はたかが商人。十貴族の若君を目の前にすれば、畏まらずに済むはずがない。
 僕は、たぶん皆も、興味津々に彼らの様子を眺めていた。
「フォングランツって、あのグランツ? 十貴族の……」
「ええ、そうです」
 十貴族以外に「フォングランツ」がいるわけないだろうが。
 だけど。

「アーダルベルトとどんな関係?」

 え? と、それこそ全員が瞠目する。ミツエモンはエドアルドが十貴族と分っても、少しも態度を変えない。声も顔色も。食事の手を少しも休めることなく、平然と質問をしてきた。
 僕は王都の商人のことなど何も知らないが……それでいいのか? 許されるのか? それで………アーダルベルトって誰だっけ。

「………従兄弟になります。あの人はグランツの当主の長男。僕は当主の末弟の息子ですので。……あの人をご存知なのですか? 面識が? それとも……」
「ちょっとね。……でも面白いなー。十貴族の人がこんな風にしてるなんて。あんたはさ、平民が士官学校に入るの、イヤじゃないわけ? 平民と友達にもなれるの?」
 眉を顰めて尋ねるエドアルドの質問には軽く答えておいて、ミツエモンは逆に質問を返してきた。
 その間、カクノシンさんとスケサブロウさんはと見ると、やっぱり2人とも平然とした顔で、主の無礼を窘めるでもなく食事を続けている。都会の大商人は、その使用人まで十貴族を重要視してないのか?
 しばらくじっとミツエモンを見つめていたエドアルドが、小さく息をつく。
「嫌だなどと……。僕は、血筋だけで士官の地位を与えられる方が間違っていると思っています。兵を指揮する能力は身分や血筋から生まれるものだとは思いません。 平民だろうと何だろうと、その能力があれば、士官となるのはむしろ当然ではないかと考えます。それから友情も。……互いの身分や地位を考慮した上で生まれる友情など、僕は欲しいと思いません。そんなものは……ただの幻、いいや、嘘の塊だ……!」
 小さく低い、だが激しい言葉が迸るようにエドアルドの口から飛び出した。
 一瞬、言葉もなくその顔を凝視してしまった僕達に気づいたのか、ハッと表情を改めると、エドアルドは僕達のその視線を避けるように顔を背け、誰にともなく「失礼」と呟いた。

「……えーとぉ……」
 ふっとその場に下りた沈黙を無理矢理破るように、ミツエモンが声を発した。
「ごめんな、何かその……イヤなことでも思い出させちゃった、のかな………? あ、でも、あんたの考え方はすごく立派だと思うよ。十貴族も色々いるのは知ってるつもりだったけど………うん、何か思いも掛けない収穫って感じ。な? カクさん、スケさん。だろ?」
「ええ、そうですね」カクノシンさんが微笑みを浮かべて頷いた。「言葉だけなら何とでも言えますが、実際彼はこうしてこの場に加わっていますし。フォンの姓を持つ者にはなかなかできることではないでしょう」
 だね、とミツエモンがにっこり笑う。スケサブロウさんも笑っているが、その笑みはかなり皮肉っぽい気がするのは……どうなんだろう……。エドアルドの言うことを信じていないのか、それとも十貴族を嫌っているのか……。

「ところでさあ」
 ふと考え込んでいたら、またもいきなりミツエモンの声が上がる。その声に釣られて顔を上げた途端、ドキッと心臓が跳ねた。ミツエモンは僕を見ている。
「うっかり忘れてたんだけど。さっきの、ほら、テストの成績。すごく喜んでたみたいだけど、42番ってのは良い成績なの? 確か全部で50人ちょっとだったと思うけど……おれの勘違いかな……?」
「………あ、ああ、あれ」思い出した。「ええ、まさかこんなに良い成績だなんて、僕も信じられない……」
「良くないだろう、マチアス!」
 仰天したような声で叫んだのはホルバートだ。
「初年生は52人だぞ! 42番なんて、下手したらあっという間に最下位じゃないか。せめて常時30番以内には入っていないと……!」
「ホルバートの言う通りだよ」セリムだ。「勉強、苦手だったのか? だったら僕達も協力するから……」
「苦手というか何というか」
 見つめる全員の視線に何となく照れる思いで、僕はこりこりと頭を掻いた。
「僕は自分の学力がどの程度のものか、今日まで全然知らなかったし」
 え? と皆の瞳に怪訝な光が宿る。

「僕、読み書きと足し算引き算以外は、全部独学なんだ」

 僕の発言に、全員が唖然としたように一斉に目を見開いた。

「言っただろう? 僕は山奥の村から出て来たって。……僕の村には子供向けの学校、らしいものもあるにはあったんだけどさ。でも教師の資格なんて誰も持ってなくて、読み書きを教えてくれたのは、引退して暇な村の長老とかだったんだ。そこで読み書きの他に教えてもらったのは、農作業や買い物に必要な数の数え方や足し算引き算、くらいだなあ、やっぱり。後はほとんど昔話を聞かせてもらうだけだったと思うよ。でも……僕の親父、父親がね、僕を正規の軍人にしたいって夢を持ってて。だから街から必要な参考書を少しづつ取り寄せてくれて、僕は家で1人で勉強してたんだよ」
「勉強は、じゃあ、お父上がみてくれたのか?」
「まさか!」エドアルドの質問に、思わず吹き出してしまった。「僕のおや、父は、若い頃は名うての暴れ者だったとかで、毎日子分を引き連れて喧嘩ばかりしていたらしいよ。当然、勉強なんて読み書きが精一杯で……。あの大戦の時も、兵学校にも入れずに結局志願兵でしかなかったし。……父は『分からない所があったら質問しろ』なんてエラそうに言ってたけど……」
 話ながら思い出してしまった光景に、僕は人前であることも忘れてくすくすと笑い出した。
「質問してもその場では全然答えられなくてね。あーとかうーとか唸ってばっかりだった。ところが翌日になると、何とかかんとか答えを出してくるんだな。子供心に不思議に思っていたんだけど。でさ、ある夜、見てしまったんだ。夜中に僕の部屋で、参考書を開いて必死の顔で勉強してる親父……父の姿をね。本当に……必死だったんだろうな。それ以来、なるべく父を困らせないようにって考えながら、一生懸命勉強したよ。志望を兵学校から士官学校に変更した時には……我ながら無謀かとも思ったけど……。でも、僕なりに死に物狂いで勉強した。ただ、やっぱり1人きりだからね、自分の理解がどの程度なのか、合格点に達しているのかどうかもさっぱり把握できなくて……不安だったな」
 その気持ちは分かるよ、と誰かがしみじみ言った。他の皆も深く頷いている。
「だから合格した時は、本当に嬉しかった……! 父も顔を真っ赤にして感動してたし。正規の軍人にって夢は持っていたけど、まさか士官学校に入れるなんて、家族の誰も期待してなかったからなあ。で、これが」
 部屋に放り出しておくのが何だかもったいなくて、ポケットに大事にしまい込んでいた答案用紙を抜き出して、目の前に翳す。
「僕が初めて教えてもらった、数学と国語の僕の現在の学力なんだ! ……まさか、僕の後ろにまだ10人もいるなんて! 本当に信じられないよ……!」

 思わずうっとりと、答案用紙を胸に抱き締めた。

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ものすごく中途半端な所で終わって申し訳ありませんっ。
いつものごとくの字数エラーで……。ここまでがめいっぱいでした。

マチアス視点であることと字数の関係で、説明不足になっている点があるかと思います。
その一つ、お供のコンラッドとヨザックが剣を下げていないのは何故か、とか。
剣については、実はちゃんと持ってるのですね。「いじわるな骰子」で使いましたアニシナさん特製の飛び出す剣「ちょっとアブないのび太くん」(笑)。
もし他にも何かご質問がありましたが、どうぞご遠慮なく仰って下さいませ。

それにしても、予定してたところまで全く進みませんでしたっ! いつものことですが……無意味に長くなってます。ごめんなさいっ。

ああ、もう書けないっ。
ご感想、お待ちしておりますっ。