ほら吹きオーギュの息子・2



「俺がお前達初年生担当の主任教官となるボッシュだ」
 ドスの効いた早口でそう言うと、ボッシュ教官殿はじろりと僕達を見回した。

 叩き上げらしい鍛えた体つきに、どこかやさぐれたような、そう、軍服を着ていなければウチの村の酒場で管を巻いてる連中と少しも変わらない、無精髭を生やした中年のおっさん(だって本当にそうとしか言えないし……)が教壇に立ってふんぞり返っている。

「もうイヤというほど分っちゃいるだろうが、本年度より当士官学校は、偉大なる魔王陛下の天より高く、海より深いお志によって、大きくその制度が変更された。すでに士官学校は上流階級の子弟が箔付けに立ち寄るところでも、人脈と派閥作りに勤しむ場でもない。純粋に、一軍を指揮するにふさわしい能力を徹底的に錬磨する場所となったのだ。という訳で、本年度より教官も一新されることとなった。俺はお前達のお守じゃない。お前達から甘ったれた根性を叩き出し、心身共にとことん鍛えるためにここにいる!」
 もう聞いていることと思うが。
 ボッシュ教官が、語調を変えて続けた。
「お前達は厳しい入学試験を潜り抜けて、今ここに集った。しかし、体制が変化したこともあり、真に士官にふさわしい人物であるかどうかを見極めるため、さらにこれから1週間、実際の教練を通しての最終試験が行われることと決定した。……話が違うと不満に思う者もいるかもしれない。だが、お前達が本当に士官にふさわしい人物であるなら、何も不安に思うことはない。課題を果たし、己がその能力を有することを俺達にはっきりと見せつけろ。いいか? ………おい! お前!」
 いきなり、ボッシュ教官が大声を上げて、士官候補生の1人に鋭く指を突き付けた。
「貴様、何をにやにや笑っている! それに教官が話をしている時に、腕組みをするヤツがあるかっ!」
「……ぼ、僕は……!」
 指差されたヤツが、驚いた様子で組んでいた腕を広げた。だが。
「馬鹿者っ!! 座ったままで何を言っている! 立って姓名を申告せよ!」
 しばし間をおいてから、そいつはのろのろと不本意そうに立ち上がった。
「僕は……」
「僕じゃないっ。自分は、と言え!」
 僕と、新たにできた友人達は、揃って教室の後ろの隅に陣取っていたので(別に身分が低いからと遠慮したわけじゃないが……まあ、慎み深いということで)、怒鳴られているヤツの顔は見えなかった。だけど、そいつの強ばった背中から不満と怒りの気配が一気に湧き上がったことは、後ろから見ていてもはっきり分った。
「………自分は! フォンビーレフェルトの親族筆頭、タウシュミット家嫡男! タウシュミット卿ルーディンだ!」
 恐れ入ったか! と言いたげに胸をグンと張る。ところが。
「よくそれで試験に合格してきたな! この大馬鹿者っ! 最後は『ルーディンであります』と言え! やり直しっ!」
 タウシュミット卿が鋭く息を吸う。遠目にも、握りしめた拳が白くなり、ぶるぶると震え始めた。
「…………タウシュミット卿ルーディン、で……あります……」
 それでも答えた声は、地を這うごとくに低い。
 よし、と頷いたボッシュ教官が脇に挟んでいたバインダーを前に取り出した。
「タウシュミット・ルーディン、10点減点」
 声にならない呻きと疑念の声が教室を満たす。タウシュミット卿を取り巻くように席につく者達から、いかにも不満そうな声が上がった。
 それに気づいたのか、ボッシュ教官がバインダーから顔を上げて、凍りついた様に立つタウシュミット卿に視線を向けた。
「 ……何やってる。もういいぞ、座れ。これから教官の言葉は姿勢を正して聞くように。いいな」
 なお。と、ボッシュ教官が平然とした顔で言葉を続けた。
「士官学校の体制変更により、本年度より士官学校で学ぶ者は全員、姓と名のみで呼ばれることとなった。貴族の称号である『卿』は、卒業まで封印だ。お前達が互いの名を呼ぶ時も、姓名のみで呼び合うように。分ったな」
 僕としては「へえ、そうか」としか感じないことだけれど、やっぱり貴族のお坊ちゃま達にとってはとんでもない話だったらしい。一斉に不満の声が上がった。しかし。
 ダンッ!
 怒りの籠った容赦のない音が喧噪の教室に響き、その唐突さに一瞬静寂が場を満たした。
 ボッシュ教官がバインダーを教卓に叩き付けた姿のまま、爛々と輝く目で僕達を睨み付けている。
「この馬鹿者どもっ!!」
 戦場で鍛えたのだろうか、ものすごい大音声が耳を劈き、僕達は思わず飛び上がって居住まいを正した。

「ここをどこだと思っているっ! 士官学校は軍の一部! お前達は最終審査を残しているとはいえ、すでに軍の門を潜ったのだ! 我々教官はお前達の上官である! 上官の命令は絶対だ! お前達がどこのどういう生れだろうが一切関係ない! 上官の命令を聞けぬという者は、今すぐこの場から去れっ!!」

「ここで全員の勘違いを正しておく」
 静まり返った教室を見回し、ボッシュ教官が改めて宣言した。
「お前達の多くが、おそらく今回の最終試験について誤解していると思う。いいか、今回の最終試験は、魔王陛下の貴いお志に真に報いるために行われるものだ。決して、本年度より入学を許された一般臣民を士官学校から追い出すためにあるわけではない。真実、士官となるにふさわしい能力を有していると認められる者だけを残すために行われるものだ。よって、この最終試験で試されるのは、ここに集る全員だ! 貴族であるから残れるなどと思うな! そして同時に、俺がこう言ったからといって、一般臣民出身者の味方だとも考えるな! 身分だの、親の地位だの、どこの親族だろうがお友だちだろうが、一切関係ない! お前達は等しく士官学校の初年生、いや、初年生候補だ! 全員を平等に審査する! そのことを決して忘れるな!」


「どうやらものすごいせめぎ合いがあるみたいだね」

 いつでもどこでも無邪気な笑顔のロードン・セリムが、やっぱりにこにこと笑いながらそう言った。
 士官学校初日を終えたばかりの教室で、僕達─僕とホルバートとセリムとマルクス、が片隅に集って話し合っていた。もちろんボッシュ教官のあの発言についてだ。

「せめぎ合い、って?」
 マルクスがつぶらな瞳を大きく開いて尋ねている。筋肉隆々のでっかい身体をどこか申し訳なさそうに丸めている姿は、何だかー……温和な大型草食動物みたいだ。悪いから口にはしないけど。
「平民士官反対派と、魔王陛下の御心に添おうとする賛成派との、さ」
「それはつまり……」と、視線を宙に向けたのは僕。「つまり……旧来の頭の固い貴族連中は、この最終試験で僕達を追い落としたいわけだ、な? 士官学校の麗しき伝統を護るために。しかし宮廷内には、魔王陛下のご意志に従い、士官学校を改めようとする勢力もある、ということか。その人達は…僕達が無事に士官になることを望んでいる、と」
 そういうこと、とセリムが微笑む。
「最終試験を実施させることにしたのは、平民士官反対派だね。でも賛成派はそれをいわば逆手に取って、巻き返しを計ってきたというわけだ」
「確か、教官が一新されたと言ってたな、あの無精髭オヤジ」
 ホルバートもにやりと笑って言葉を挟む。
「だよね。どう見たって、ボッシュ教官が貴族の若君達を相手に指導してきたとは思えないし。あの人は元々兵学校の教官だったんじゃないかな。……どうやら平民士官賛成派もそれなりの実力者がいるみたいだね。一気に教官を入れ替えることができたんだから。おそらく新たな教官達は賛成派の意を受けて、最終試験を身分に関係なく、能力の有無で審査しようとしてるんだ。ボッシュ教官のあの言葉は本当だと思うよ」
 僕もホルバートもマルクスも、揃ってセリムの言葉に頷いた。
「何にせよ」言ってホルバートが僕らを見回す。「そうと分ったからには、僕達にできることはただ一つ。持ちうる力を全て発揮して最終試験を突破する。これだけだ」
 確かに。4人が揃って大きく頷いた。

 その時。

 ガッ、と何かが破壊されるような大きな音が響いた。
 僕達も含め、教室にまだ残っていた者達の視線が一斉に集中する。
 そこでは……タウシュミット卿が机を蹴飛ばしていた。
 かなり苛ついているらしく、机を蹴飛ばし、椅子を蹴飛ばし、床を踏み鳴らし、周りを囲む数人にどうやら八つ当たりをしている。
「タウシュミット家は、ビーレフェルトで本家に劣らない勢力を持った家だ」
 ホルバートが小さくため息をつきながら解説を始めた。そう言えば、ホルバートはビーレフェルト領の出身だった。
「本家には頭が上がらないとしても、その威光はビーレフェルト領内の隅々に行き渡ってる。その家の嫡男だからな。士官学校のたかが教官風情、自分の家の家庭教師ほどにも考えていないさ。そんな相手にあれだけやられたんだ、名家の誇りとやらがさぞ傷ついてるんだろうな。それに、あのお坊っちゃんはずっとビーレフェルト領で育ってきたはずだ。たぶん、フォンビーレフェルトの姓を持つ人々と両親以外に、頭を下げたことなんてないんじゃないかな」
「たかが士官候補生ごときが教官殿にああいう態度をとるなんて、どうかしてるんじゃないかと僕は思ったんだけれど……」
 僕の言葉にホルバートが吹き出した。
「そういう当たり前の理屈が通らない妙な世界があるってことさ」
「上流階級のことに詳しいんだね、ホルバート」
 マルクスが感心したように言う。ホルバートが皮肉な笑みを浮かべながら肩を竦めた。
「僕は商人の家に生まれたからね。商売人はそれこそ色んな階級の人々と渡り合っていかなきゃならないし。顧客には上流のお歴々も多いのさ。否でも応でも学んでしまうんだな、これが」
 なるほど、と頷いてしまう。
「ところで」
 僕がまだ荒れているタウシュミット卿、いや、タウシュミット・ルーディンにちらっと視線を走らせて言うと、3人の視線が僕に集った。
「タウシュミットの周りにいる連中は何なんだ? あれだけ当り散らされて、どうしてあんなに……」
「なんだ、マチアス。君、本当に何も知らないんだな」
 ホルバートが笑いながら答えた。
「何もって……。そりゃあ僕は田舎の村で育った根っから庶民だからな。知らないことだらけで悪かったな!」
 ムッと言い返すと、ホルバートが笑って手を振った。
「悪くなんかないさ! そんな子供みたいに頬っぺた膨らませて拗ねるなよ、マチアス」
「誰が頬っぺたなんか……! ……いや……もういいよ、それで? あいつら何であんなにぺこぺこ卑屈にしてるんだ?」
 僕の視線の先では、荒れ狂うタウシュミットを囲んで3人の同期生達が、どうやら懸命に宥めている真っ最中のようだった。3人とも見るからに腰が低く、卑屈なまでにタウシュミットの機嫌をとっている。
「まるで召し使いみたいじゃないか」
「召し使いだよ。ほとんどね」
 え? とホルバートを見返す。セリムとマルクスが心得顔で頷いているのがちょっと癪に障った。
「実家からついてきたお取り巻きだよ。ああいう高貴なお家柄のお坊っちゃんは、1人で身の回りのことを片付けたりなさらないんだよ、マチアス。タウシュミットに仕える家や、一族の者でも格下の家の子弟の中で、士官学校に入学できそうな者を選んで一緒に受験させるのさ。そして入学後は、ずっとお側でお仕えするというわけ。学校もその辺りはちゃんと分っているから、そういう連中は寮の一室に集めるようになっている。部屋の中は、きっとお坊ちゃまのご座所と彼らの居場所に分けて模様替えされてるだろうね。タウシュミット卿だけじゃない、身分の高い貴族の子弟は揃ってそうさ。そして彼らが卒業すれば、軍の中にまた一つの派閥が誕生するというわけだ。それが色々融合したり分裂したりしながら、軍のいわゆる上層部というものが形作られているということなんだよ。分ったかい? マチアス君?」
 最後の「マチアス君?」は、いかにも挑発しているような気取った言い方で、だから僕はご期待通りに拳をホルバートの横っ面に向けて繰り出した。ホルバートは余裕で躱す。
 とにかく、一つ勉強した。
「なるほどなあ。そう考えると貴族社会ってのも……」
 なかなか苦労が多いんだな、と続けようとした時、バンっと鈍い音が教室に響いた。
 思わず顔を向けると、タウシュミットがついに机を一つ蹴り倒したところだった。 ……こいつ、一体いつまで癇癪を起こしたままでいるつもりなんだろう?
 周囲の、他の貴族連中もさすがに眉を顰めているのが見て取れる。誰か何か言ってやればいいのに。

 倒れた机の上にあった物が、ばらばらと床に散らばる。それをお取り巻きが慌てて拾い上げている。お坊ちゃまは腕を組んでふんぞり返ったままだ。自分でやったことの後片付けさえしないのか。…しないんだな。
 ふと床に目を向けて、僕達がいるすぐ近くに、何か小さなものが転がっているのに気づいた。
 どうしようかな、と一瞬迷っていると、現場を監督なさっておいでのお坊ちゃまがそれに気づいた。
「あそこにもあるぞ! クリス! ちゃんと拾ってこい!」
「はっ、はい!」
 クリスと呼ばれたやつがあたふたとこちらに向かってくる。
 その様を見ていたら、お取り巻きの3人が急に可哀想になってしまった。
 と思った瞬間、僕の身体は無意識に動いて、すぐ側に転がっている物体をひょいと拾い上げていた。
「……あ、あの……」
 立ち上がった僕の前に、どこか困ったような「クリス」の顔。
 僕と同じ80歳前後だろうか、小柄で、淡い金髪に薄い緑色の、その色彩同様、どことなく存在感が薄いというか、自己主張の乏しそうなやつだ。
 拾った物を「ほら」と差し出すと、そいつも素直に腕を伸ばしてきた。が。
「貴様! 無礼者っ!」
 お坊ちゃまだ。
 「クリス」の肩ごしに見ると、目を釣り上げ肩を怒らせたタウシュミットが荒々しく僕に向かってくる。
「この僕の持ち物に下賤な手で気安く触れるとは……! 許し難い無礼だぞ!」
 僕とご主人様に挟まれて、「クリス」がおろおろとしている。
 それにしても。
 落とし物を拾ってやると怒鳴られるわけか。どうもこいつらと付き合うのは思った以上の難題だ。
 怒りよりも先に、面倒くささにため息が出た。
「……! 貴様ぁ、この僕を一体誰だと……っ!」
「タウシュミット・ルーディン、だろ?」
 僕のため息にさらに怒りを燃やしたらしいお坊ちゃまに答えてやる。
「僕と同じく士官候補生、の候補だ。違ったか?」
「何だと…ぉ…」
 呻くお坊ちゃまの背後に、残りのお取り巻き2名が腕組みをして立つ。そして僕の背後にも、3人の仲間が並んだことが気配で分った。……仲間を見捨てたりしない。背中に3人の意志を感じる。
「卑しい身分で何という無礼な……! 思い上がるな、平民どもっ! お前達がこの場にいること自体許し難いというのに、その傲慢不遜な口のききよう! ここがビーレフェルトであれば、即刻牢に放り込んでやるところだ!」
「傲慢不遜はどっちだよ」
 思わず言い返してしまった。
「貴様ぁ! タウシュミット卿に対して何たる無礼だ!」お取り巻きその1が叫ぶ。「タウシュミット家は、恐れ多くも魔王陛下のご婚約者であられるフォンビーレフェルト卿のご一族……」
「だったら無礼を責められるのはそちらの方だ」
 僕の背後からセリムが声を上げた。
「な、何だと……!?」
「僕達がこの場にいるのは、士官となるに身分など関係ないという魔王陛下の貴いお志によるものだ。それを許し難いだの、傲慢だのと言うのは、魔王陛下の御心に反するということじゃないか。恐れ多くも魔王陛下のご婚約者であられるフォンビーレフェルト卿のご一族が、このような場所でこうも堂々と魔王陛下の御言葉に逆らうというのは如何なものだろう。ビーレフェルトのご親族は魔王陛下に叛意ありとされて、果たして申し開きができるのか!?」
 ………そう言われればそうだ。
 声高に僕達の存在を否定すれば、それはそのまま魔王陛下の御心に反対であることを明確に表明することになる。
 おそらくそういう反撃がくるとは思いもしていなかったんだろう。タウシュミットは一瞬呆気にとられた顔をしてから、やがて一気にその顔色を変えた。
 思うに……ビーレフェルトではそんな話が散々されていたんだろうな。周囲が揃って平民士官に反対しているから、彼らもここでそれを口にすることの危険を全く感じていなかったんだろう。うかつなヤツらだ。
 それにしても、セリムというやつは頭の回転がかなり早い。度胸もある。こういう話をしていながら、顔にはいつも通りの自然な笑みが浮かんだままだ。どう見ても同年代だし、体つきも顔つきも僕と大差ない雰囲気なのに、この状況で気負いも敵愾心も露にしない肝の太さは、僕もちょっと見習った方がいいかもしれない。
 そんなことをつらつら考えていたら。

「その辺で良いのではないか」

 唐突に声が割り込んできた。

 ハッと顔を向けると、そこにフォングランツ卿、じゃない、フォングランツ・エドアルドが立っていた。
 彼は、以前見た時と同じように、ほとんど表情らしい表情を浮かべないまま僕達を見ている。
 その冷静な視線がすっと動いたかと思うと、タウシュミットの元で止まった。

「タウシュミット卿、ここはビーレフェルト領ではないし、君の家でもない。この地は王都であり、この場所は魔王陛下のおわす血盟城の敷地の中だ。偉大なる魔王陛下の御元において、僕達は皆等しく、士官候補生の一歩手前という立場の存在であるに過ぎない。君はその事実をもう少し真摯に受け止める必要があるのではないか。少なくとも、教官殿への口のききようも含めて、先ほどからの君の態度は誇り高い貴族としてあまり褒められたものではないと思う。そう感じているのが僕だけではないことも伝えておこう。タウシュミット卿、いや、タウシュミット君と呼ぶべきだな、言っておくが、ここで姓にフォンを持つのは、僕1人ではないぞ」
 言外に、お前程度の者が何を偉そうにしている、と言っているように聞こえるのは、もしかしたら気のせいじゃないかもしれない。
 タウシュミットも同じことに気づいたらしい。最後の一言に、ハッと目を瞠いたお坊ちゃまは、慌てて教室中を見回した。
 幾つかの、どこか白々とした表情が、彼の視線を受け止めている。
 急に何かが萎んだかのように落ち着きをなくすと、タウシュミットは「失礼した」とか何とかフォングランツに向かって小さく呟き、それから踵を返して─その瞬間、僕達を鋭く一瞥することは忘れずに─、取り巻きを引き連れて席に戻っていった。
 この一幕で唯一ホッとしたのは、僕達から離れていく時、あの「クリス」が僕達に向かって小さく微笑みかけ、かすかに頭を下げて挨拶してくれたことだった。
 お坊っちゃん連中の取り巻きも、イヤなヤツばかりが揃っているわけじゃないらしい。

「さすがに、初年度からここに乗り込んでくるだけの気概の持ち主だな、君達は」

 え? と見ると、フォングランツ・エドアルドが唇の端をわずかに上げて、僕達を見ていた。
 入学試験の時もそうだったけれど、彼のその態度に、それから何よりその瞳に、僕達平民を見下す光が全くないことが、僕は正直不思議でならない。
 目の前に立つ彼は、正真正銘の十貴族。「十貴族会議」という、魔王陛下すら無視することのできない国政の決定機関を構成する、わずか十家(この大国の、たった十家族!)に属する1人だというのに。
「君は、ノイエ・マチアス君、だったな」
 フォングランツが僕を見ている。……なぜか、どぎまぎしてしまう自分がおかしい。
「…あ、ああ……いや、あの、はい、そ、そうです……」
 僕の返事に一瞬きょとんとしてから、フォングランツ・エドアルドが小さく吹き出した。
「どうしていきなり敬語になるんだ? タウシュミットにはああも堂々としていたのに。……まさか、僕が十貴族の出だから、というのではあるまいな?」
 もしそうなら興醒めだとでも言いたげな口調に、僕は慌てて手を振った。
「…あ、いや、そうじゃなくて……、頭ごなしに難癖をつけてくるならこっちもその気でやりあうんですけど、そのー……」
「僕達は、貴族の方々から反発を受けるだろうことを覚悟の上でここにやってきました。魔王陛下の御心にお応えするためにも、理不尽な言動には絶対負けないという決意でいたのです。ですから逆に、あなたのように公正な態度を取って下さる方には、僕達としても敬意を表さずにはいられないという気分になってしまうんですよ。ですからマチアスは、あなたが十貴族だから遜っているわけではありません」
 セリムが横に立って僕の気持ちを端的に解説してくれた。感謝だ。目でそれを伝えると、セリムがにこっと笑って頷いた。
「なるほど……そういうものか? ……君はかなり弁が立つようだな。名前は?」
「ロードン・セリムと申します。……グランツ領から参りました」
「同郷か!」
 フォングランツが嬉しそうに声を上げた。確かに同郷には違いないけど。……セリムもさすがに吃驚した顔をしている。
「1人故郷を遠く離れてしまうと、同郷の者の存在は実に嬉しいものだと分かるな」
 セリムはもちろん、僕達全員の表情にも気づいていないのか、フォングランツが今度は本当に嬉しそうに頬を緩めて言った。
「……あの、僕は……皮革、革製品を扱う職人の子で……」
「そうか、お父上は皮革工芸に携っておいでなのか。ノイエ君のお父上もそうだが、手に確かな技を持っておられるというのは立派なことだな。……血筋以外何一つその身に誇れるもののない者と比べれば、その腕一つで己と家族を養うことのできる力を持った人々は、はるかに貴い存在だと僕は思う」
 後半はほとんど呟きだったけれど、それははっきり僕達の耳に届いた。
 正直……驚いた。仰天したと言ってもいい。
 これが貴族の、それも十貴族の言葉だなんて……!
「伺ってもよろしいですか?」
 ホルバートが言葉を挟んできた。
「君は?」
「メドチェック・ホルバートと申します。ビーレフェルトで宝飾品と衣料を主に売買しております商人の息子です」
「そうか。僕に何か質問が? メドチェック君」
 自己紹介したホルバートが「はい」と頷いた。
「今程、1人故郷を離れて、と仰いました。お身の周りの世話をする『ご学友』は同郷の者の数に入らないのですか?」
 取り巻きを人とも思っていないのか、と尋ねるホルバートに、一瞬目を瞬かせたフォングランツは、すぐに「ああ、なるほど!」と笑みを浮かべた。
 ………気のせいか、フォングランツの表情がどんどん豊かに、というか明るくなっているような……。
「確かに、君が疑問に思うのも無理はない、のかな……? 僕としては、上流貴族と呼ばれるものが誰も彼もああだとは思って欲しくないのだが」

 僕は1人で王都に来たんだ。

 あまりにさらっと言われたので、よく意味が分からなかった。
「シュピッツベーグやビーレフェルトなどと違って、グランツは元々無骨な武人が多い家柄だしね。自分のことは自分でやる、という者もこれで結構いるのだよ。僕もそうだ。というか、僕の父が元々そういう性格なのだな」
 フォングランツ卿エドアルドの父親は、グランツのご当主の年の離れた末弟で、エドアルドはさらにその末っ子だそうだ。「みそっかす、と世間では表現するらしい」とエドアルドは笑ったが、十貴族の若君がそんな言葉をご存知だとは思いもしなかった。
「だから僕は、物心ついた頃からあまり人に構われたことがないのだよ。細々世話などされると、逆に鬱陶しくて堪らなくなる。それで士官学校も1人で受験したし、寮にも1人で入ったのだが……」
 そこまで言うと、フォングランツはくすくすと笑い出した。
「おかげで同室になった彼らには、とんでもない心痛を掛けてしまった」
 そう言ってふいにフォングランツが振り返った。僕達も一緒になって視線を彼の後方に向ける。
 その視線の先、幾つかの机や椅子に寄り掛かるように、砕けた雰囲気の同期生が3名、面白そうな様子でこちらを見返していた。
「そろそろ話に混ぜてもらっても構わないかな」
 3人の中の1人が、こちらに歩み寄りつつ話しかけてくる。
「僕はラング卿……いや、『卿』は封印だったな。ラング・ハインリヒだ。よろしく。えーと、君がノイエ・マチアス君、それからロードン・セリム君にメドチェック・ホルバート君。それから、君は……」
 でかいなあ、君はと、ラング・ハインリヒが惚れ惚れしたような声を上げてマルクスを見上げる。
「ほ、ホルツ・マルクス、です! あ、あの、王都出身で、両親は共に教師をしています!」
「では唯一の都会人だな!」
 馬鹿にした風もなく、ラング・ハインリヒが言う。
 濃い茶色の巻き毛にやっぱり茶色の瞳で、僕より少し年齢が上だろうか。身長も高い。
「僕はシュトロハイム・ルドルフだ。よろしく諸君」
「カースマイヤー・ミハエル。実技試験でのノイエ君の体術の冴えはよく覚えているよ。これから同期としてよろしく頼む」

「僕達は皆、まあいわゆる貧乏貴族というやつだな」
 ラング・ハインリヒが笑って言った。


「そうだったんだ……!」

 まだ陽も高い午後だけれど、僕達8人はそれから揃って校舎を出て、寮の近くの庭、というか空き地というか、とにかく緑の豊かな場所を選んで親交を深めるべく、お喋りに夢中になっていた。
 ちなみに、士官学校初日は各訓練科目を担当する教官達の紹介(どの教官達も、一癖二癖ありそうな人相の連中ばかりだった)と講議の進め方について、それから学校内と寮内での規則や生活上の細々とした規定などについての説明(二度と繰り返さないので、頭に叩き込んでおけと言われた。1人が違反すると連帯責任で罰せられるらしい)をされた後、医療部隊による健康診断を受け、教科書など学校で必要なものを支給されて終了した。本格的な授業と訓練、それから最終試験が始まるのは明日からだ。こんな時間が取れるのは、おそらく今日一日限り。

「貴族の坊っちゃん達は皆、取り巻きを引き連れてやってくるものだと思ってました」
 勘違いして申し訳ない。ホルバートが苦笑を浮かべつつも、潔く頭を下げる。
「『卿』だからといって、誰も彼も地位や金を持ってるわけじゃないからなあ」
 同じように苦笑するのはラング・ハインリヒだ。
「実家じゃ、僕が軍からもらう給料を早くも当てにしてるくらいでね。長年仕えてくれた執事兼料理人はいるんだが、身の回りの世話をしてくれる取り巻きなんて、望むべくもないさ」
「僕の家にはそんな者すらいないよ」と笑うのはカースマイヤー・ミハエル。「父はワイン農園の農場主に雇われて働いているくらいだしね。血筋と人柄と数字に明るいところを評価されて、農場の管理の一切を任されてはいるけれど……。農場主の篤い信頼があるから生活に不自由はないが、まあ貴族といっても我が家はまさしく名前ばかりの、というアレだな。家事は母と妹が一切仕切っているし、召し使いはもちろん、きらびやかな宝石にもドレスにも、夜ごとの宴会にも縁はないし」
 僕も似たようなものだ、とシュトロハイム・ルドルフも続けた。
「だから、同室がフォングランツ卿だと聞いた時にはたまげたよ。まさかこれから十貴族の我がままな若様にお仕えしなくちゃならないのかってね」
「不安にさせて、まことに申し訳ない」
 フォングランツ・エドアルドがふざけたように頭を下げる。明るい笑いがその場を満たした。

 貴族といっても、本当に色んなやつがいるんだ。
 僕はしみじみとそれを思い、そしてそれを知ったことで世界が広がったような歓びを感じていた。我ながら単純だと思うけど。
 でも、十貴族でありながら(たとえみそっかすであろうとも)平民と同じ場所に腰を下ろして一緒に笑える若君もいれば、貧乏であることを隠しもせずに笑い飛ばして、平民である僕達と仲良くしようとしてくれる者もいる。

 まだまだ困難は山のようにあるんだろうけど、それでも僕の胸は、ほんの数時間前に比べるとぐっと軽く、そして晴れ晴れとした気分に溢れていた。

「ところで、伺ってもよろしいですか? フォングランツきょ……いや、ええと……」
 さすがのセリムもちょっと口ごもっている。
 あちらが僕達を「君」づけで呼ぶのは特に違和感もない、わけじゃないけど、まあいいとして、でも僕達が彼らを、さらにフォングランツ・エドアルドを呼ぶ時にはどうしたらいいんだろう。教官はああ言っていたけど、そうそう簡単に「フォングランツ君」などと呼べるはずもないし……。
「ああ、その呼び方だが」
 フォングランツもそれに気づいたように言葉を発した。
 どうだろう、と僕達を見回す。

「僕達はこれから魔王陛下の御心にお応えするため共に学び、共に過ごす者同士なのだし、いっそのこと、名前で呼び合う、というのは?」

 名前? 名前って……。
「それはつまり」ホルバートが反応する。「あなたが僕をホルバートと呼び、そして僕があなたを……エドアルド、と呼ぶ、と……?」
 まさかそんなこと、と言い返すホルバートの笑みは、いつも以上に皮肉たっぷりだ。
「まさしくその通りだ」
 驚いたことに、フォングランツがあっさりと頷いた。
「それに『卿』を封印するということは、つまりここにおいては身分も地位も一切関係ない、ということだ。だから当然、敬語もなし、ということになる」
 ………どうして。この男は。
「僕達が彼らと当たり前に話すことは不思議でも何でもないが……」
 ラング・ハインリヒも、首を傾げて疑問を露に言葉を挟む。
「幾ら何でもあなたは……」

「どうしてですか?」

 思わず口からその言葉が転がり出た。

 全員の視線が僕に集る。

「……最初、あの試験会場で会った時からそうだった。あなたは……他の上流貴族達と全く違っていた。今も、あなたの言うことはあまりにも……。あなたの態度は十貴族とはとても思えないことばかりです。どうしてあなたは……?」

 ずっと引っ掛かっていた疑問が一気に言葉になる。そんな僕を、フォングランツは静かに見つめていた。
 それから、不思議なほど静かな、そしてどこか自嘲するような笑みを浮かべると、「それは」とゆっくり口を開いた。

「それは……僕がグランツだからだろうな。……フォングランツの一族は、あの大戦からこれまで、ある人物のおかげで色々と……そう、学んだのだ。骨身に沁みた、と言ってもいい。それが当時まだ幼かった僕にも大きく影響してきたと、そういうことなのだろうな」
「……ある、人物……?」
 そう、とフォングランツが頷く。
「タウシュミット辺りは、僕が君たちと親しくしていることを知れば、きっと納得した顔でこう言うだろう。『やはりあいつはグランツだから』とね」
「それは一体……」
 それは、とフォングランツが言いかけた、まさにその時だった。

 何かが一気に迫ってくるような気配に、ハッと全員が顔を上げた。
 さすが士官候補生、の候補、だ。気配には聡い。
 が。

「あたっ!!」

 気配に反応できるかどうかはまた別だった。

 マルクスが頭を抱え、吃驚した顔で目を瞬かせている。

「……これだな」
 隣に座っていたホルバートがそこに転がっているものを取り上げて言う。
 それは……。

「………? 何だ、それ……?」
 ホルバートが手にしているのは、おそらく革製の、拳より少し大きめの球体だった。全体を妙な縫い目が覆っている。
「これは野球のボールだよ。……チームに所属してる人が練習でもしてたのかな」
 頭を擦りながらマルクスが言った。そうだね、とセリムが頷く。ほう、これがそうかとフォングランツが興味深げに見つめている。全員の顔をざっと眺め回してみると……良く分っていないのは僕だけらしい。
「やきゅう…? やきゅうっていうと……」
「あれ、マチアス、知らないのか? 我が国の国技だぜ?」
 こくぎ? ……やきゅう……。……そう言われてみれば……。
「聞いたことがあるような……。……だから! 僕は山奥の田舎から出て来たんだよ! 知らないことがあったって……」

「こっち! この辺りに落ちたはずだから!」

 突然。
 木立の間から、人が飛び出してきた。
 走りながら木立の奥に向かって声を上げ、それからこちらに顔を向け、驚いたように足を止める。

 男、というか、僕達とほとんど同年代の少年……だと思う。
 どうして「思う」なのかと言うと。

「…………すごい、美人……!」

 だったからだ。(ちなみにいま呆然とした声で呟いたのはセリムだ)

 同年代の男、だと思うけれど、見るからに華奢な体つきと、柔らかな頬の線が、さらにその雰囲気を幼く、そして少女めいて見せているようだ。
 さらさらとした赤茶色の髪、ぱっちりとした大きな、やっぱり茶色の瞳も小さな鼻も唇も、ちょっと信じられないくらいキレイ、というか、可愛いというか、愛らしいというか………どう表現したらいいんだろう、とにかく、僕はこんなに美しい人を見たことがない。ただ美しいというのとも違う。ああ、本当に何と言えば良いんだろう……。

「坊っちゃん! 先に行ってしまわないで下さい!」
 その時、木立の奥からさらに男が、これは少々年上の、紛れもない男が2人、息せき切って飛び出してきた。………今「坊っちゃん」って言ったよな? やっぱり男か……。

「これですか?」
 すぐ側で上がった声にハッと見ると、フォングランツ・エドアルドがいつの間にか球を手にして立ち上がっていた。
「あ、それ! おれのボール!」
 「坊っちゃん」がフォングランツの手元を指差して、ぱあっと笑った。

 まるで、花の蕾がぽんっと音を立てて一気に満開になったような。
 真冬の夜空に、一瞬で太陽が輝き、突然夏がきたような。

 綺麗で鮮やかで、まるで光がきらきらと弾けるような笑顔だった。


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陛下、次回は出ますとか言って………顔見せだけ!
状況説明と新キャラ登場だけでここまで時間を掛けてしまって、ごめんなさいっ。
平民と貴族の二極対立だけじゃどうも……と思って新キャラだしたら、当然セリフも増えて、でもって長くなってしまいました。
大体の説明は終わったので、次回からはスピード上げます! その気持ちだけはあります!

ご感想、お待ちしております。





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