ほら吹きオーギュの息子・16−1



 いつも通りの時間にちゃんと夜が明けて。
 太陽もいつも通りに輝いて。
 それは間違いなくいつも通りの朝なのに。

 僕達が迎えた朝は、今までの朝とは全く違っていた。

 これまで80年程も生きてきて、何度も何度も迎えた朝の、全ての光を全部集めたよりも今朝の太陽は煌々しく輝いている。木漏れ日は金色、透明な風は果実の香りを運んできたのかと思うほどに甘い。
 風にそよぐ緑の木々や草花の葉ずれの音は、美しい音楽の様に胸に響き、それはまるでこの世を超越した存在からの祝福の言葉にすら聞こえる。

 と、いうようなことを、朝食を摂りに寮へと向かう道すがら、アーウィンが声高に唱えている。熱心に頷いている仲間達も多いけれど、ちょっと……。
「恥ずかしいヤツだな、あいつは」
 エドアルドがため息をついて言った。確かにね、と笑う僕。
「聞いてるとちょっと恥ずかしい気もするけど……でも気持ちは分かるよ」
 ほんのわずか僕の顔を見つめて、エドアルドが「ああ、そうだな」と頷いた。
 アーウィンみたいに言葉を飾る気はないけれど、でも。
「生まれ変わったみたいな、昨日までとは全く違う朝を迎えたんだって気分は、僕も同じだよ」

 陛下のこと。ウェラー卿のこと。それから。
 ………父さんのこと。
 身体の奥、どこからか溢れてきたものが僕を満たし、そしてそれが内側から僕を変えようとしている。そんな気がする。
「でもよかったよな、マチアス」ポンと僕の肩を叩いて、ホルバートが言う。「親父さんがほら吹きじゃなかったって分かってさ」
「ああ。……今度親父に会ったら、ちゃんと謝らなきゃって思ってる」

「偉大なる存在の祝福を受けて、今日、この朝、僕の魂は全く新たに生まれ変わったんだ! たとえ姿は同じでも、僕はもう昨日までの僕ではない!」
 アーウィンが両手を天に掲げ、大きな声を上げた。

「……やれやれ」
 ふいに声が後方からしてきた。同時にすたすたと近づいてくる足音。
「やはり寝不足はいかんな。それにしても、歩きながら寝言を垂れ流すようでは……」

 呟きながら、ユーリア教官殿が僕達を追い抜いて行った。

 「フォンロシュフォール・アーウィン! たかが二晩の徹夜で寝ぼけるなっ! 5点減点!」というユーリア教官殿の情け無用の宣告と、アーウィンの悲鳴に、僕達は一斉に吹き出した。


 その日、教室の風景、もしくは雰囲気、は、一変した。
 フォンギレンホールとタウシュミット、そしてその取り巻きが姿を消した。そして僕達は、上流貴族達の目を何となく避けるような卑屈な精神状態から解放され、教室の真ん中で堂々と集まり、声高に話をし、笑いあった。
 最初気味の悪いものを見るような目でいた他の貴族候補生達も、教官殿からフォンギレンホールとタウシュミット、そしてその取り巻き達が士官学校から去ったことを知らされ、そしてまた休憩時間にピート達からあの見学者の正体と、夜の間に起きた出来事を教えられ、すっかり悄然としている。今や教室の片隅で身を寄せ合ってるのは、タウシュミット達に取り入ることに未来への展望を夢見ていた中流貴族達の方だ。

「それにしても陛下のお言葉には感動したな、僕」
 しみじみとセリムが言う。
「身分や血筋が国を動かすんじゃない。人が動かすんだ。身分の高さは能力の高さを証明しない……。お言葉の一つ一つに励まされたよ」
「それもあるけど」と僕も言った。「僕は何よりびっくりしたな。だって……今まで魔王陛下っていったら、神が天上から見下ろすように世界を観ておられるって、そんなお姿を想像してたからさ。陛下もまた、普通に悩んだりなさるんだ、この方も魔王という地位にはあるけれど、やっぱり一人の人でいらっしゃるんだと思ったら……愕然としたっていうかさ」
「僕は少々謙遜が過ぎておられるのではないかと思う」
 アーウィンが横から口を挟んでくる。
「陛下が玉座に登られて、国が変わったのは事実だ。民の生活も変わったし、何より人間との関係が激変したではないか。陛下が登極される直前まで、わが国と人間の国は一触即発の状態だったのは間違いのない事実なのだからな。陛下がどのように仰せられようと、あの方が稀代の名君でいらっしゃることに間違いはない!」
「僕だってそう思うさ!」
 僕も負けずに言い返した。
「たださ……嬉しかったな、僕。あの方が人を超越した存在だったとしても、やっぱり偉大なお方だと僕は尊敬の念を抱くと思うよ。でも……僕らと何も変わらない人である陛下が、悩みながら苦しみながら、懸命に王としての道をお歩きになって、その上でこの国がどんどん素晴らしい国に発展していくっていうそちらの方が、僕は……ずっとずっとすごいことだと思うんだ。あのような方が魔王陛下でいらっしゃってよかったなあって」
「マチアスの気持ちは僕も理解できる」
 エドアルドが同意してくれる。
「そもそもあの方は僕達よりずっと年下であらせられるのだしな。自信満々に政務にあたられているとすれば、それはある意味恐ろしいことだろう? ウェラー卿やフォンヴォルテール卿といった方々が陛下をお支えしてこそ政は成り立っているのだといえる。だが同時に、アーウィンの言うことも正しいと思う。陛下のご即位がなければ、フォンヴォルテール卿も人間との戦争を避けようとお考えではなかったとも聞いているしな。陛下が陛下であらせられたからこそ、今の平和があるというのは確かだと思う」
 やはり偉大なお方だ、としみじみ言うエドアルドに、皆が一斉に頷いた。
「それにしても」
 おずおずとマルクスが口を挟んでくる。
「本当にお可愛らしい方でいらっしゃるよね? 小さくって、お美しいというより愛らしいって感じで……。それにとってもその……幼い雰囲気だった…じゃない、雰囲気であらせられた、っていうか…。だから最初魔王陛下だって言われても、信じられなかったよ、僕」
 僕も僕もと声が上がる。ちなみに僕もその一人だ。
 ミツエモンとして僕達の前にいらしたあの方は、本当に何と言うか……子供っぽいっていうか、はっきり言ってガキっていうかー……。
「バカだな、皆」
 いきなりセリムが笑って言った。皆の視線が集中する。

「お芝居をなさっていたに決まっているじゃないか!」

 一拍置いて、ああ! と理解の声が上がる。

「素顔の魔王陛下としておいでになれば、それはそれで僕達に不審がられるからさ。きっとわざと子供っぽく振舞っておいでだったんだよ。あのお顔立ちだもの、その方が僕達も納得するとお考えだったんだな、きっと!」

 なるほど! そう言われてみれば、説得力がある説明だ。さすがセリム。

「それにしてもさ」得意げに笑っていたセリムが、ふと表情を変えた。「僕達は本当に幸運だったんだよね」
 改めて、どこかしんみりとした雰囲気でそう言うセリムに、皆の表情も変わった。
「マチアスじゃないけど、魔王陛下も、そしてウェラー卿も、僕達にとって夕べあの瞬間まで、雲の上どころか本当に……神にも等しい方だった。でも今は違う。僕達はそれを知ったし、それに……何より、僕達、陛下にもウェラー卿にも、僕達の名前も顔も知って頂けた。ずっと……崇めて、憧れ続けてきた人に、存在を知ってもらえたんだ! こんな幸運、そうないよね……!」

 うん。本当にそうだね。
 ずっとずっと憧れてきた人は、僕だけじゃないたくさんのたくさんの人にとっても憧れの人で。
 皆が知っている人だけれど、その人は僕も皆のことも全然知らなくて。
 でもそれは当たり前のことで。
 その憧れの人に、僕の、僕達の存在を知ってもらえた。名前も顔も声も覚えてもらえた。
 僕達はもう、あの人たちに憧れるたくさんの人たちの一部じゃない。
 それがこんなに嬉しくて、こんなに誇らしくて、あちこちに自慢したくてたまらなくなるほど幸せなことだと知らなかった。……父さんの気持ちが痛いほどよく分かるよ。

  「とにかく」
 いきなりアーウィンが重々しい声を上げた。表情もひどく真面目だ。おや? と皆が不審げにその顔を見つめる。

「陛下のお言葉で、僕は確信を持った」

 僕の歩んできた人生に間違いはない!

 皆の表情がきょとんとしたものに変化する。

「高貴な家に生まれた者には、果たさねばならぬ義務と責任がある。それを果たさずして己の高貴を鼻に掛けるのは恥ずべきこと。全く仰せの通りだ! 僕はタウシュミットなどとは違って、その事をちゃんと自覚している。そして陛下はこうも仰せになった。己の身分や血筋に頼らず、また家の名に押し潰されることもないよう、己を鍛えて真の力を身につけろ、と。僕はロシュフォールの後継者として、家名に縋ることもなく、家名をさらに高めるため、これまで自分を鍛えてきた。これからも鍛え続けていくだろう。それはすなわち、陛下が高貴な血筋の者に期待されておいでの全てを、僕がすでに実践しているということだ! 僕の歩んできた道は正しい! 僕こそ、陛下がお求めになる、国家を動かすに足る人材なのだ!」
 眞魔国の未来は明るいぞ、諸君!

 しーん、と辺りが静まった。

「………………僕さ」
 思わず漏れるため息。これも仕方がないと皆認めてくれるだろう。
「今、ロシュフォールの未来に、そこはかとない不安を感じてしまったよ……」
 分かるぞ、と、エドアルドを始め、たくさんの手がぽんぽんと僕の肩をやさしく叩いてくれた。

「ああ、ロシュフォールといえば」
 僕の呟きを聞いていたのかいないのか、いきなりアーウィンが僕にまっすぐ顔を向ける。
「マチアス、君は最初の休暇にはロシュフォールに戻るつもりなのか?」
 ……いきなり何を聞くんだか。
「まだ先のことだろ? でもまあ……初めての休暇だから……何もなければ1度戻りたいな」
 そうか、とアーウィンが頷く。
「僕もそうするつもりなんだ。だったら君、一緒に帰ろう」
「………え?」
「別に構わんだろう?」
 僕の表情こそ意味が分からないという顔で、アーウィンが聞き返してくる。
「僕達は同郷なのだから」

 ぱちぱちと目を瞬かせる僕の背中を、とん、と誰かが叩いた。ハッと見るとエドアルドが笑っている。

「…………ああ、そうだね。同郷だものね、僕達。うん、じゃあ、一緒に帰ろうか」
 君と一緒に、僕達の故郷へ。

 魔王陛下がおいでになられたほんの数日で、たくさんの、本当にたくさんのこと─目に見えることも、見えないことも─が確実に変化している。それを実感できることが、僕は無性に嬉しかった。



「なかなか似合うぞ!」
「こんな格好したことないんだ、照れくさいよ」
「なあ、後ろ、おかしくなってないか?」

 一晩ぐっすり眠って、すっきり目覚めれば、その日はついにやってきた入学式だ!

 僕達は前日配られた士官候補生の礼装に身を包み、髪を整え、何度も何度も鏡を覗き、仲間達とかなり興奮気味に騒ぎながらその時を待っていた。本当に……この日が来るまでの1週間、わずか1週間だというのに、何て色んなことがあったんだろう…!

「やあ、おはよう」

 覚えのある声がして、ハッと振り返った先には。

「……! クリス!」

 僕達と同じく、礼装を纏ったクリス、アーデルワイズ・クリスティアンが立っていた。

「クリス、君……!」
「ご当主様の命令なんだ。僕は残って、ルーディン様達より一足早く士官を目指せって。そして来年か、その次か……ルーディン様が改めて士官学校へおいでになり、士官になられる時に、先輩として指導してやってくれって。……ご当主様も色々とお考えになられたご様子だった。夕べその事を命じられた時のご当主様は、何だかお顔つきまで変わってみえたんだ。……本当だよ?」
 へえ、と仲間達が声を上げる。
「ルーディン様はまだ衝撃から抜けてないけどね。でもいつかきっと、お気持ちも新たにこの学校の門を潜って下さると思うよ」
「花はどうしたんだ?」
「ご当主様が責任を持って姉に返して下さると約束してくださった。だから大丈夫だ。というわけで」

 あらためて、これからよろしく!

 こっちこそ! よろしくな! 新たに加わった仲間に、僕達はもちろん歓迎の声を上げた。

「お前達!」
 凛とした声はユーリア教官殿だ。
「そろそろ中庭に来賓の方々が集まってこられる。外に出てお迎えしろ!」
 はっ! と敬礼して、揃って外に出、ようとして。
「アーデルワイズ・クリスティアン」
 教官殿に呼び止められ、クリスだけじゃなく、一緒にいた僕達も足を止めた。
「そうか、お前は残るのだったな」
「はい。色々とありましたが、残留をお許し頂きました。これからもご指導、よろしくお願い致します!」
 敬礼するクリスに、ユーリア教官殿がこっくりと頷く。
「確かに……お前は独立した方が良いだろうと思っていたが、意外な展開でそれが叶ったな」
「僕が…独立、ですか?」
「そうだ。自分でもわかっていたはずだぞ。あの時……私の初めての課題で、戦場から一旦撤退すべきと書いたのは、フォングランツ達8名を除けば、お前一人だけだったのだから」
 仰天する僕達の視線を浴びて、クリスが恥ずかしげに顔を伏せる。
「タウシュミットにはそれを言えなかったか」
「…………はい」
「我々は誰かの付属物としてお前を入学させたのではない。お前は独立した一人の士官候補生だ。国家と民と、そして魔王陛下に忠誠を誓う者だ。それを本当の意味で理解しなくては、お前一人、ここに残った意味がないぞ」
「はい!」
 敬礼するクリスの目には決意がある、と思った。
 隣で「意外な好敵手が登場したな」とアーウィンが呟いている。僕も。負けるもんか。

 寮と校舎と式典が行われる講堂の3つの建物に3方を囲まれた広い中庭には、我が子の晴れ姿を見にやってきた家族達と候補生達のわいわいと明るい声が響いている。
 王都で学校の教師を務めているマルクスのご両親や、グランツ領からわざわざやって来たセリムのご両親に挨拶したりされたり、友人の一人がフォングランツだったことに絶句されて、そう言われればうっかりしてたと笑ったり、僕も結構楽しく過ごしていた。ざっと見回せば、ホルバートやアーウィンがご家族らしい人達と楽しそうに立ち話をしているのが見える。エドアルドとクリスの3人で連れ立って歩いていたら、「お前はまた何を夢のようなことを」と笑う女性の声が耳に飛び込んできた。察するところ、16、いや17人の仲間達の誰かが魔王陛下のことを家族に話して、予想通り信じてもらえなかったんだろう。
「マチアス、君のご家族は?」
「うちはロシュフォールの山奥だからねえ。遠すぎてとても王都まで来れないよ。エドアルドこそ」
「僕は、僕の方から来なくていいとお断りしたんだ。母がちょっと身体の弱い方でね。遠出が苦手なんだよ。父も忙しい人だし…。クリス、君の家はやっぱりこういう場合は主家に遠慮するものなのか?」
 僕には君のような存在がいないからよく分からないんだが。
 エドアルドに問われて、クリスがちょっと首を傾けた。
「僕の場合は、主に仕える生き方しか知らないので逆に他のやり方を知らないのです……あ、ええと、知らないの、だけど」
 つい先ほど、同期生相手に敬語は使うなとエドアルドに言われたクリスが、ちょっと口ごもりながら続ける。
「そう、僕の場合はとにかくルーディン様にお仕えするために王都へ行くんだっていう考え方でし、だった、から。士官になりにいくというのは、二の次だったような気がする。だから当然家族もそのつもりで、立派に役目を果たしてこいと送り出してくれただけで……。学校の入学式に出席しようなんて、頭に浮かびもしないだろうな」
 なるほど、と僕とエドアルドが声を揃えて言った。色んな家があるもんだ。

 そして。
 特に家族が来る予定もない僕達は、そろそろ講堂に入って待機してようか、と話がまとまりかけた時だった。

「マチアス!」
 ひどく懐かしい声が僕を呼んだ。
「マチアース! こっちよ、こっち!」
「父さん、母さん、早く! ほら、マチアスがそこにいるわ!」

 ………………う、うそ、だろう……?

 たくさんの家族達を掻き分けるようにして、向こうからやってくる、のは……。

「……と、トーラ、姉さん…? シホナ姉さんも……。それに……!」

 姉さん達の後ろから、えっちらおっちら太った身体を揺すりながら走ってくるのは母さん。そして、何だろう、衣装箱みたいなでかい木箱をがっしり抱えてえっほえっほとやってくるのが……。

「と……父さん……っ!?」

 僕の家族だ!!

「マチアスっ!」
 一声叫んで、二人の姉さんが僕に抱きついてきた。懐かしい香りがする。
「やだ、あんたったら、何よ、ぼんやりして! せっかく皆であんたの入学式をお祝いに来たってのに!」
「マチアス、すごいじゃない! ああ、信じられないわ、何て素敵な衣装なの! 剣まで下げちゃって! もうすっかり立派な士官様じゃないの!」
 両耳に、同時にお喋りを開始する2人の姉の言葉が飛び込んでくる。幸い長い付き合いなので、何を話しているかはちゃんと識別できたけど。でも……。
「ど、どうしてここに…!?」
「あんたが出発してすぐ、学校からお知らせが届いたんだよ」答えてくれたのはおふくろだ。「入学式は入寮日から1週間後になりますので、よろしければご出席下さいって。時間もあったしさ、思い切って出てきたんだよ。いやぁ、王都ってのは人が多いねえ。道を歩いてても息ができなくなっちまって……」
 しまった、おふくろの長話が始まってしまう。止めなくちゃと思った時だった。ぽんと肩を叩かれて、見るとホルバートがすぐ傍らに立っている。
「マチアス、君のご家族か?」
 いつの間にか、セリムやマルクスやアーウィンや、とにかく仲間達とその家族が近くに集まってきていた。どうやら個々の家族の話を終え、本格的に仲間達同士の挨拶合戦を始めるためひとつ処に寄り集まってきたらしい。すでに挨拶を始めている家族もいくつか見受けられる。
「あの2人の女性は……」
「2人とも姉だよ。トーラとシホナといって……」
「あんな美人だなんて言ってなかったじゃないか! それに、あちらにおいでなのが、ウェラー卿とお付き合いのあった親父さんだろう? ほら、きちんと紹介してくれよ!」
 ホルバートが言い、まるでその言葉が聞こえたかのように、元から側にいたエドアルドとクリスはもちろん、セリムやマルクス、そしてアーウィンまでもが寄ってくる。
「マチアス」
 ふいに親父が、まじまじと僕を見つめながら話し掛けてきた。
「よく見せてくれ。……そいつは礼装か?」
 親父の言葉に、そうだよ、と頷いて、僕は1歩前に出ると姿勢を正した。
 布を被せた木箱を傍らに置くと、目をしっかりと瞠り、僕の礼装姿を見つめる父のごつい顔に、みるみる赤みが射してきた。何かを堪えるように、親父が唇をぐっと噛み締めると、ごつい顔にますます厳つさが増す。
 何だか……照れるなあ……。
「……うん。なかなか、うん、いいんじゃないかな、うん、結構、うん、似合ってるな、うん……」
 うん、うん、と言う度に目をしぱしぱと瞬かせ、最後にはぐすっと鼻をすする親父に、照れくささと同時に、何ともいえないほんわりとしたものが胸を満たす。……こんな気持ちになったのは、一体何年ぶりだろう……。
 ほんとにな、と、親父の、今にも噴出すものを懸命に堪えているような声が続いている。
「俺の……うん、俺の、息子にしちゃあな……」

「全くだ。おめぇの息子にしちゃ上出来だぜ?」

 ……!!

 この声!!

 バッと、我ながらものすごい勢いで声のした方向に身体を向ける。そこには。

「スケサブロウさ……!」
 慌てて口を塞いだ。

「めかしこんでるな、坊や達」
 そう言って、もう見慣れた悪戯っ子のような笑みを投げ掛けてきたのは、スケサブロウさん、じゃなく、眞魔国三大剣豪の……。

「グリエ! グリエ・ヨザックじゃねえかっ!」

 叫んだのは親父だった。

 うおおおと、獣のような雄叫びを上げ、どころか、両腕を高々と上げるとずどどどっと突進していく。……熊だ。
 その勢いのまま、親父はスケ、じゃなくて、グリエ・ヨザック殿の身体をばんばんと叩き始めた。

「グリエだ! ヨザックだ! 信じられねえっ! こんなところで……! 元気かっ! 元気だな! 俺も元気だ!」
「痛ぇっ、痛ぇってば! 俺の身体が粉々になっちまうだろうがっ!」

 やっぱり親父さん、友達だったんだな、とホルバートが囁いてくる。
 それに、うん、と頷いて、僕はほのぼのとした気分で2人を眺めていた。
「……スケサブロウさん、じゃなくて、グリエ殿さ。あんまり……軍服が似合わない気がする……」
「上級士官に失礼だろ」
「でも言葉遣いはスケサブロウさんをやってる時と変わらないよな」
「ちょいと、マチアス」
 おふくろが仲間に混じり、すぐ側で僕を見上げている。
「あの軍人さんは父さんの知り合いなのかい?」
 うん、そうなんだ、と答え、あの人がどういう人なのかを説明しようとした。その時だった。

「オーギュ」

 声がした。

 踊るようにはしゃいでいた親父の全身が、ぴたっとその動きを止めた。
 僕も、おそらく皆も、耳に聞こえたその声に胸をドンと叩かれたような衝撃を感じて、一瞬息を詰めた。
 そして。
 そろそろと。
 首を巡らせた。

 そこには。

 グリエ殿と縁取りの色だけが違う地味な色の軍服を身につけた、その人が、ウェラー卿コンラート閣下、が、微笑を浮かべて立っておられた。

 親父が、ぎくしゃくとグリエ殿から身体を離す。そして。

 いきなりビシッと、親父にこんな格好ができたのかと吃驚するほど鮮やかに、閣下の前で敬礼した。

「おっ……お久しぶりでっ、ありますっ! た……、隊長っ!!」

 にっこりと、本当に嬉しいことに、すっかり見慣れたあの優しい笑みを浮かべられると、閣下がすっと手を上げ答礼して下さった。
 でもすぐに手を下ろすと、閣下は動けないままになってる親父に向かって大股で、素早く近づいてこられた。そして腕を広げ、がっしりと、きっとこれから何度も何度も思い出しては幸せな気持ちになれるだろうと確信できるほど親しげに、親父を抱きしめて下さった……!

「会えて本当に嬉しい、鉄腕オーギュ。……幸せな人生を送ってるようだな」
 親父の身体から身を離すと、親父の顔を嬉しそうに眺め、太い二の腕をぽんぽんと叩きながら、閣下がそう仰って下さるのが聞こえた。
「…た、たいちょう……おれぁ、俺………隊長……」
 親父の声はすっかり濡れてて、肩がぶるぶると震えている。後ろから見ていても、親父の顔がもう涙と鼻水でぐしょぐしょなのが分かる。
 僕が横を向くと、おふくろと姉さん達がどう反応したらいいのか分からないという顔で、親父の背中を見つめていた。
「母さん、それから姉さんも」
 3人の顔が同時に僕に向けられる。
「あの方が……ウェラー卿コンラート閣下でいらっしゃるよ」
 3人の目が一斉に大きく瞠られ、口が出ない悲鳴を形作るようにぽかっと開く。
「……だって…っ、だって、マチアス……!」
「そ、そんな……うそっ!」
「父さんはホラなんか吹いてなかったんだよ。父さんが言ってたことは、本当のことだったんだ」
 僕を見つめていたおふくろと姉さん達が、再び親父の背中に顔を向ける。
「あたしゃ……」親父の後姿をじっと見つめていたおふくろが、呆然と呟いた。「あたしゃ……イヤだよ、あたしときたら……亭主の言うことも信じてやれなかっただなんて……」
 恥ずかしいねえ……。おふくろがほうっと深い息を吐き出した。
「おい! マチアス!」
 ホルバートの声、と同時に、わき腹が小突かれた。え? と見ると、親父がウェラー卿とグリエ殿を案内するようにこちらにやってくるところだった。親父……堤防が決壊して崩れた畑みたいに顔が崩壊してるぞ。

 こちらに近づいてこられた閣下が、歩きながら僕達にお顔を向けられた。そしてあの優しい笑みを浮かべられ、小さくこくりと頷かれる。それを合図に、僕達は一斉に姿勢を正し、敬礼した。周りにいた他の家族達が何事かと集まってくる。閣下のお顔を知っている人物だろうか(もしかしたらアーウィンのご家族かもしれない)、「ウェラー卿!」と声が上がり、同時に周囲のざわめきが一段と大きくなった。

「隊長、これが女房と、それから娘です。そっちにいるのが今度士官学校に入学させてもらえることになった一人息子でして……」
 名前はマチアスっていうんです。どうか目を掛けてやって下さい。
 という趣旨の紹介を、濡れてぐしゃぐしゃの顔を懸命に袖で拭いながら、親父が切れ切れにした。
「マチアスのことは、俺もヨザももうよく知ってるよ、オーギュ」
 笑いながら閣下が仰せになる。え? と手を止めて目を瞠る親父。
 閣下はそんな親父をそのままに、にっこりと笑みを深めるとおふくろに顔を向けた。
「ウェラー卿コンラートといいます。遠いところからよくお出でになりましたね。あなたのご主人には、戦時中色々と助けてもらいました。危ないところを救ってもらったことも1度や2度じゃない。こうして良いご家族に囲まれて、幸せに暮らしているのを確認して、安堵しました」
 しばらく呆然と閣下の顔を見上げていたおふくろと姉さん達は、見ているこっちが焦ってしまうほど間をおいてから、顔を一気に真っ赤に染め、ガバッと勢いよく腰を折った。
「…とっ、とんでもないことでっ、ございますっ! おおおお、お、恐れ多いこって……ほんとにもう……! ウチの亭主が、本当にまあご面倒を、ご迷惑を、あの、申し訳ないことでございます……っ!」
「何をいきなり謝ってるんだ、お前は!」
 照れ隠しに怒鳴る親父が、何だか可愛く感じるよ。
 おふくろはとにかく真っ赤になっておろおろしているし、姉さん達は…こっちも真っ赤になってるけど、おふくろと大分雰囲気が違う。2人で手を握り合って、今にも踊り出しそうだ。

「それにしてもオーギュ、本当に良い息子を持ったな」

 閣下のお言葉に、頬がかあっと熱くなった。
「ど、どうして隊長……」
「この1週間、少々訳があって士官学校に行っていたんだ。ヨザもな。その間にマチアスとは色々話をさせてもらったよ。お前の話も聞いたし……」
「お前の昔話もしっかりしてやったぜ?」
 そ、そいつぁ! と声を上げて、息子がすでにウェラー卿の知遇を得ていたことが嬉しいんだか、昔の悪さを息子に知られて恥ずかしいんだか、親父はぐしゃぐしゃに濡れた顔をさらに赤く染めた。……ますますすごい顔になってきた。
「まさかあの鉄腕オーギュがパンだのケーキだのを作ってるとは思わなかったぜ!」
 グリエ殿ににまあっと人の悪い笑みを向けられて、親父が「うるせぇっ!」と背中をどやしつけている。グリエ殿相手だと態度が激変するな。眞魔国三大剣豪だって知ってるのかな…?
「いてぇな、ったく。……ところで、いつまでこっちにいるんだ?」
「おう、久しぶりの王都だし、女房達は初めてだしな。もう2,3日いて王都見物と洒落ようかと思ってよ」
「だったら今夜か明日辺り、久しぶりに飲みに行かねぇか? ベルンの店も久しぶりだろ?」
「あいつぁまだ生きてやがるのか!? ああ、もちろんだとも!」
「てワケで、奥さん、すんません、ダンナを一晩お借りしますね? 隊長も付き合えよな!」
「ああ、俺も久しぶりだ。とことん付き合わせてもらおう」
「ほんとですか!? 隊長!」

「……すごいじゃないか、マチアス! お父上は今も閣下と酒食を共になされるほど親しい存在なのだな!」
 エドアルドが感嘆したように言う。周りからも「すごいなー」「羨ましいよ、マチアス」という声が次々に上がった。おふくろは、かのウェラー卿コンラート閣下と親父が一緒に酒を酌み交わす、という話にすっかり舞い上がったらしく、「こんなのでよろしかったら、ええもう、どこへでも持ってって焼くなり煮るなりお好きになすって下さいまし!」と答えている。そして僕は、ただもう心の中で閣下に「ありがとうございます!」とお礼を言い続けていた。
 ……親父はー…ぐっしょり濡れた顔が赤黒くてらてらと光り、それが笑み崩れ、目も鼻も口も溶け落ちる寸前というか、これはもうすでに人の顔じゃないよ、というところまできていた。まあ……そこが可愛い親父だけどね、うん。

「そっ、そうだ!」親父が突然声を上げる。「俺としたことが、すっかり忘れちまってた!」
 何だ、どうしたと見ていると、親父が足取りも軽やかにあの木箱に向かっていく。
「隊長! これ、よろしかったら味見して下さい!」
 味見? と首を捻る間もなく、親父が木箱に被せた布を取り払った。中からは。
 おお、という声が僕達と取り囲む人々から一斉に上がる。
 そこに入っていたのは、山盛りのパンとお菓子、だった。こんなでかい木箱に山盛り……。一体幾つあるんだ!?
「と、父さん!? それ……っ?」
 思わず横から声を上げた僕に、親父が嬉しそうに笑いかけてきた。
「材料だけ担いできてな、宿の厨房を借りて焼き上げたんだ。お前や、同期の皆さんに食べてもらおうかと思ってなあ。でもまさか……」
 親父の顔が、嬉しそうに閣下とグリエ殿に向く。
「隊長やヨザックにここで会えるなんて、本当に俺ぁ嬉しくて……! 食べてみて下さい! 皆さんもどうぞ!」
「父さん、夜中からずっと頑張って焼き上げたんです。あの、皆さんよろしければ本当にどうぞ!」
「どうか皆さんで味見して下さい!」
 皆さんと言いながら、姉さん達の目は閣下に固定されている。
「どうりで香ばしい良い匂いがすると思った」
 姉さん2人ににっこりと笑いかけ、閣下がそう仰った。姉さん達が揃ってうっとりと、祈るように手を握り合わせている。と、閣下が僕達にも視線を向けられ、「マチアス、それに皆も、そんな所にいないでこちらに来なさい」と招いて下さった。

 先を争うように進み出て、僕達は木箱山盛りのパンと焼き菓子を取り囲んだ。僕は何だかものすごく久しぶりな気がする親父のパンの香りに、その場にしゃがみ込んでまじまじとそれを見つめた。不思議だ、たまらなく懐かしい。これこそが故郷の匂い、そんな気さえする。僕のすぐ右隣にはエドアルドが一緒になって腰を下ろし、「良い香りだ 」と言ってくれた。
「美味そうだなあ」
「本当に良い匂いだな!」
「何だか急にお腹が空いてきたよ!」
「これがマー君のお父さんのパンとお菓子かあ! すっごい!」

 ………………。
 ………………。
 ………………。

 ……………誰だ!? この、最後のセリフを言ったやつ。

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長くなりすぎました! 二つに分けます。ひゃあー。