とさっと。 すぐ傍らで音がした。 ぼんやりと首を巡らすと、クリスが花を、両の掌の上に乗せたまま、尻餅をついていた。 「……ま、おう……へいか……?」 声とも呼べない、擦れた息だけがその音を綴る。 クリスを見つめたまま、僕はごくっと喉を鳴らした。口の中はからからで、飲み込む唾もなかったけれど。 横に向けていた首を正面に戻す。ただそれだけの動きのはずなのに、どうしてだろう、どうして首がこんなにぎりぎりと音を立てるんだろう。 「……あなたが、さまが……ま、魔王陛下、で……あらさら、せら…あらせ、られ、ます、か……?」 ああ、エドアルドでもこんなに噛むんだぁ、と頭の隅でぼんやり思う。 沈黙の中で、これははっきりと上がった声に、彼、ミツエモン、いや……が顔をこちらに向けた。じゃなくて、お向けられ、違う、お向けらし、向け遊ぶ…? お向け? あそばそ……? 「うん。ごめんね、黙ってて」 うわぁ! ざわっと空気が動いた。いや僕か? ざあっと波打つように全身を走ったのは…鳥肌が立ったのか? 一瞬で見知った世界から切り離されてしまった気がする。そして、僕達を閉じ込めたまま凍り付いてしまった空間に、言葉にならない色んな音が、息が、湧いて、満ちて、消えて……それっきり僕達は動けなくなってしまった。 閉じることを忘れた瞳に、ボッシュ教官殿が深々とため息をつく姿が映った。 まおうへいか。魔王、陛下……? って、どの…? いや、魔王陛下っていったら一人だけだろう! たった一人、この国の偉大なる主。 眞魔国史上最強の魔力。最高の名君。僕などが言葉を交わすなど永遠にありそうにない、雲の上の上のはるか彼方の御座所に居ますお方。それこそ神にも等しい……。 そのお方こそが魔王陛下。 あれ? だったらこいつは? この目の前にいるこいつ、この、人、は……? あれ? あれ? ……だって、そんな、だって……! うわぁぁっ!! 「ねえ、タウシュミット卿」 僕達の混乱を他所に、ミツエモン、じゃなくて……その……人が、呼びかけた。 「おれさ、王様になるための勉強っていうか、帝王教育っていうんだっけ? そういうコト全然してこなくって、いきなり王様になれって言われちゃったんだよね。だからおれの中には何にもないんだ。魔王として国を治めていくために、これだけの準備してきたんだから大丈夫って思えるような具体的な…自信、みたいなものがさ。一国の王として、自分の決断の根拠になるものがない。だから自分に自信がもてない。それで…ずっと怖いんだな。でも……」 逃げ出すわけにはいかないだろう? 言葉の割りに、その笑顔は明るい、と思った。 「おれの側にはね、これ以上ないってくらい最高の人たちがいて、おれを支えてくれてる。 おれが一人ぼっちで苦しんだり悩んだりしないように、おれが立派な王様になれるように、おれをがっちり支えて護ってくれる。身体も心もね。同時に、彼らは皆、おれが間違ったらはっきりとそれを口にしてくれる。おれが王様だからって遠慮なんかしない。おれが変な道に迷い込んだら、無理矢理にでも正しい道に引っ張り上げてくれるし、怒鳴りつけてでも引っ叩いてでも、おれの目を覚まさせてくれる。おれは本当に素晴らしい側近に恵まれていると思うよ。心から、そう思う。彼らがいるから、おれはどんなに肩に背負うものが重くても、それを放り出すことをせずに済んでるんだ。彼らのためにも……おれは逃げない。逃げるわけにはいかない」 明るくて、なのに不思議なほど静かな笑みだ。 「おれが感じる恐怖は、おれの中で、おれ自身が、おれの弱さが生み出したものだ。それが分かるから、余計に逃げるわけにはいかない。おれはおれの弱さと向かい合って、立ち向かって、乗り越えていかなくちゃならないんだ。乗り越えていきたいんだ。そしておれはそれが出来ると思う。だっておれ……」 一人じゃないから。皆が側にいてくれるから。じたばたもがくおれを、皆がしっかり支えてくれるから。 「だから、大丈夫!」 きっぱりと言い切ったその言葉は力強い。なぜか切なくなるほどに。 目の焦点が、やっと合ってきたような気がする。 目の前にいる人が、やっとちゃんとした人の形を取って見えてきたような気がする。 人の。 ひと、なんだ。 この人もまた、ひと、なんだ。 全てを見通して、世界を掌の上で操っているような存在じゃない。 悩んで苦しんで、そして懸命に日々を生きてる、そんな……僕達と何も変わらない、一人の、ひと……。 だからね、と、その人の言葉が続く。 「おれ、皆がどれだけ褒めてくれても、いい気になったり思い上がったりなんてとてもできないよ。正直、そんな暇はないって感じ?」 くすっと笑いが漏れた。 「そんな暇があったら、自分を鍛えなきゃね。実際おれさ、最初は何もわかってなくて、ただ夢中で突っ走ってるばっかりだったけど、この頃ようやく、本当にようやく実感として分かってきたんだ。一国の王になるってことが、王でい続けるということが、どれほどの覚悟が必要なものなのか、一体……何を背負い、どれほど重い義務と責任を果たし続けていかなくてはならないのか……。それが少しづつ理解できるようになればなるほど、おれはまだまだだってしみじみ思う。それこそ泣きたくなるくらいにそう思う。偉大な魔王と呼ばれるのにふさわしい王様に、いつか本当になれるんだろうかって考えると、正直気が遠くなりそうだよ。でもさ、1歩でも評判に近づけるように努力しなきゃね。じゃなきゃ、おれを信じてくれてる民に申し訳ないよ。民のためにも、おれを支えてくれる皆のためにも、おれ、頑張らなきゃ! そしていつか、皆の熱い眼差しを真正面からしっかり受け止めることができる王様になりたいって、おれ、心からそう思うよ」 ねえ、タウシュミット卿。 その人の視線が畏まったまま見上げる男に向けられる。 「あなた達だってそうだろう? あなた達もおれと同じように、ものすごく大きな義務と責任を背負っているはずだ。たくさんの人の生命と生活をあなたもまた背負って、その重みを感じながら生きてるはずだ。……あなたが皆から尊敬され、そしてあなたの家が長年受け継いできた家の力を振るうことが許されてるのは、あなたが何よりその責任を義務をきちんと果たしているからだ。そうだよね?」 問い掛けられて、タウシュミット卿が慌てて、仰せの通りでございます! と平伏する。 「先祖代々受け継いできた家の力、その名誉や誇りを大切にするのはちっともおかしいことじゃない。でも、そんな力のある家に生まれたというただそれだけの理由で、自分が立派な存在だって思うのはおかしいよね。こんなに高い身分に生まれたんだから、何もしなくたって自分は偉いんだ、皆に尊敬されるのは当然のことだ、なんて考えるのは、おれ、とんでもない勘違いだし、思い上がりだと思う。高い身分、高い地位にあるならば、必ず背負っているはずの義務と責任がある。でも、それを何一つ果たさない者が、ただ自分の生まれの良さを鼻に掛け、威張り散らすのは絶対間違ってる。ましてその力を使って人を陥れるような真似をするのは言語道断。上流貴族に生まれて、いずれは人の上に立つことが生まれながらに決まっているからといって、人の人生を好き勝手にしたり、踏み躙ったりすることが許されるわけじゃないんだから。そんな行為はむしろ、あなた達が大事に受け継いできた名誉や誇りに傷をつける行為じゃないのかな?……どう思う?」 「……お、恐れ入ります……」 力なく言って、タウシュミット卿がますます身体を縮こまらせた。 「タウシュミット卿。おれはたくさんの人に、国をより良くしていくための役に立ってもらいたいと思ってるし、おれの側でおれを支えてもらいたいとも思ってる。でも間違えないで欲しい。おれが求めるのは『人』であって、身分でも血筋でもないんだ。身分や血筋が国を動かすんじゃない。身分の高さは能力の高さの証明なんかにならない。高い身分に生まれた、ただそれだけで国の指導者になれるなんて、安直に考えてもらっては困る。おれは、そんな人はいらない。おれが欲しいのは、その人の身分でも血筋でもないんだから。……分かってもらえるかな? それから……」 タウシュミット卿に向けられていた顔がすっと動いた。 その人の目が、タウシュミット・ルーディン、そしてフォンギレンホール・バドフェルに向けられる。 いまだに足をだらしなく投げ出して床に座り込んでいるタウシュミットと、そしてその側に立つフォンギレンホール、そして彼らの取り巻き達が一斉に身体を強張らせた。 「あんた達、皆さ。……裸で勝負しろよ」 全員の視線がその人、彼……魔王、陛下、に向く。 「そもそもさあ、あんた達、ここにいる皆をやり込めようとして言えたのは、自分の家は大貴族だぞってただそれだけだっただろ? 自分を尊敬して欲しいくせに、自分自身に何も自慢できるものがないって、ある意味むちゃくちゃ情けなくない? じゃあもし家の力がなくなったら、高い身分も何もかも消えてしまったら、残ったあんた達って結局何者? そういうことって考えたことない?」 タウシュミットとフォンギレンホールがおどおどと顔を見合わせ、それからまたおどおどと視線を伏せた。 「生まれが良いとかどうとかそんなことじゃなく、本当に自分を尊敬してもらいたいって思うなら、身分も血筋も脱ぎ捨てて、一人のただの魔族として、自分自身の力で世界と勝負しろよ。自分より弱い立場の人をいたぶって、無理矢理言うこと聞かせて、言いなりにさせることで、ありもしない自分の力を確かめたりするなよ。あんた達の家の力は、あんた達が自分自身で何かを成し遂げて、そして身につけた力じゃない。だろ? ましてあんた達は、人の上に立つのにふさわしいだけの義務も責任もまだ何も果たしてないんだから。これからあんた達が家を背負って、義務も責任も背負って、それからあんた達に人生を預けて生きていく人たちの思いも全部背負って生きていくっていうなら、素のまんまの自分を鍛えて、自分の、自分だけの力を身につけろよ。そして大きすぎる家の名前だの、名誉だの誇りだの、そんなものに押し潰されたり飲み込まれたりしないくらい強くなれよ。自分自身の本物の力を身につけろよ。……もしおれの側で、国のために働きたいと思うなら、それはその後のことだ」 一気にそれだけ言う、えっと、仰る、と、その人、魔王陛下は、急に照れた様に笑った……お笑いになられた。 「ごめんな。何かすっごく生意気に語っちゃった。まだまだこれからのおれが偉そうに言うことじゃないよな。でも……発展途上の辛さはおれもすっごくよく分かるからさ。だから……なおさら思い上がったり、それから身分を笠に着て人を苦しめたりしないで欲しいんだ。自分自身の弱さに負けないように、頑張って努力して成長を目指そうよ」 お互いにね! にっこりと、それこそ本当に、暗雲を一気に払う太陽に様に、魔王陛下が満面の笑みを投げ掛けられた。 呆けたようなタウシュミットとフォンギレンホールの顔が、ただ呆然と陛下を見つめている。 さてと! と、2人の様子に拘らず、陛下が気分を変えるように声を上げた、お上げになら……ああもう! 「ああ、そうだ、タウシュミット卿!」 元気に呼びかけられて、タウシュミットの親父(だろ?)が「はっ!」と顔を上げた(こいつはこれでいいよな?)。 「あの魔石の花、すごく綺麗だね! 堪能させてもらったよ。ありがとう!」 「ははっ!」今度は嬉しそうにタウシュミット父が応える。「あれは我がタウシュミットが長年に渡り庇護してまいりました天才的彫刻家スーリン・ディオンの……」 「うん。知ってる」 陛下があっさりと長くなりそうな口上を遮った。 「あれ、クリリ…じゃない、えっと、エーデル……」 アーデルワイズ、です。アーデルワイズ・クリスティアン、と、カクノシンさん(もしかしたらこの名前も違うのかな)がそっと斜め後ろから囁いた。 「そうそう。アーデルワイズ・クリスティアンに返すから」 は? とタウシュミット父がきょとんと顔を上げる。 「あれはスーリン・ディオンがクリリ…クリス、ティアンのお姉さんに、自分の形見として渡したものだ。だからあれはあなたのものでも、もちろんおれのものでもない。あの花はクリスのお姉さんのもの。だからアーデルワイズ家に返却する。反論はなし!」 しかし! と言い募ろうとするタウシュミット父に対して、魔王陛下がぴしゃりと言…仰った。 「言っとくけど、今度のことでアーデルワイズ家を責めたりしたらダメだよ? クリスティアンはあなたの息子のために一生懸命だし、とってもしっかりした人だ。むしろ大事にしてあげて。……もしこのことで彼や彼の家に何かしたら……」 魔王陛下がタウシュミット父の顔を間近で覗きこんだ。 「怒るよ。おれ」 ははぁっ、とタウシュミットの親父が改めて平伏した。 それから陛下はひょいと背筋を伸ばすと、くるりと踵を返し、すたすたと僕らの側に、クリスに向かって歩いてこられた。そして尻餅をついたまま呆然と見上げるクリスの前まで来られると、すとんとその場にしゃがまれた。 真っ青になってるクリスの、花を乗せたままの両手に、そっと包むように陛下の手が添えられる。 クリスの全身がピキンッと硬直した。 「お姉さんにね、哀しい思いをさせてごめんなさいって、伝えてくれる? ディオンさんの花、これからもずっと大事にして下さい。そして、どうか幸せになって下さいって。頼むね?」 がくがくと頷いて、クリスはそれから思い出したように「か、かしこまり、ました」と声を絞り出した。そして陛下がすっと立ち上がると、「あのっ」と追いかけるように声を上げた。 なに? と陛下が視線を向ける。 クリスがごくっと喉を鳴らした。そしてほんのわずか、迷うように視線を彷徨わせ。 それから気を取り直したように花を左腕で胸に抱き込むと、姿勢を正し、右膝と右手の拳をきちんと床につけ礼を取った。 大きく息を吸い込んで、クリスがまっすぐに陛下を見上げる。 「今までのご無礼、何とぞお許し下さいませ! そして……臣ごときへの陛下のお慈悲、心より、心より光栄に存知奉ります。アーデルワイズ家を代表し、誰より姉になり代わりまして、衷心より御礼申し上げます! 本当に……」 ありがとうございました! クリスの頭がぐっと下がる。 …………何か。 思い切り、先を越された気分だ。 エドアルドやアーウィンさえもまだ衝撃から抜けてないってのに、僕達の誰もが夢心地でぼんやりしてるっていうのに、クリスだけがこうやってしっかり挨拶してる。 何か……揃いも揃ってガキだと証明してしまったみたいで……悔しいって思うのは、単なる僻み根性だろうか。 「とんでもないよ。本当に素晴らしいものを見せてもらったしね。ありがとう」 陛下の言葉に、はっとクリスが畏まる。 「さーてとっ」 陛下がうんっと背伸びをした。あ、じゃない、なされた、だ。 「士官学校視察はここまでかあ。……皆!」 陛下がぐるっと僕達の顔を見渡された。 「すっごく楽しかったよ! 色々あったけど、とにかく……ありがとう!」 にっこーと笑い掛けられて、もう僕達はどうしたらいいのか……。 「全員、起立!!」 大音声が部屋に響いた。 思わず目を向けると、ボッシュ教官殿がそりゃもう怖い顔で僕達を睨んでいる。 「何をぐずぐずしておるか、バカ者! 陛下の御前だぞ! 起立っ!!」 一斉に、腰を抜かしていたタウシュミットも、跪いていたクリスも、へたり込んでいた全員がざっと立ち上がり、背筋をピンと伸ばして姿勢を正した。 「敬礼っ!!」 気合のこもった敬礼に、陛下がにこっと、でも…もし僕の目が間違ってないとしたら、ちょっとだけ寂しそうに微笑んで、「うん」と頷かれた。同時に「直れ!」の声が上がり、上げていた手を腰にぴたりと当てる。 「教官達にもお世話掛けちゃったね。ごめんなさい」 とんでもございません! とボッシュ教官殿が大声で答え、びしっと敬礼する。それにユーリア教官殿や他の教官殿達も続いた。 「それじゃ、戻ろうか」 2人のお供に、陛下がそう声を掛けられた時だった。 「おっ、お待ちください、陛下!」 タウシュミットの親父が膝でずりずりと前に出る。 「タウシュミット卿……。あなたもいい加減その格好は止めてよ。……どうしたの?」 「あ、あの……っ」 おどおどと、威厳も何もあったもんじゃない様子で、タウシュミットの親父が唇を震わせた。 「あの……私共の……処分は……」 しょぶん? と陛下がきょとんと首を傾げ、られる。 「陛下に献上すると致しました品を、その、息子にねだられたとはいえ、士官学校に持ち込み、色々と、その……」 教官達に圧力を掛けて、僕達を陥れて、平民が士官候補生になることを妨害しようとした、ってか。 ああ、と、今気付いたというように陛下がぽんと手を打たれた。 「えーと……」 言…仰りながら、陛下の目がカクノシンさんに向く。カクノシンさんがにっこりと笑った。 「ボッシュ教官」 「はっ!」 カクノシンさんに呼ばれて、ボッシュ教官殿が改めて敬礼した。 ……カクノシン、さん、に、ボッシュ教官殿が……敬礼、した。 「陛下に献上されることになっていた宝物は、士官学校に持ち込まれることはなかった」 「は……」 「持ち込まれなかったのだから、候補生達がそれを警備することもなかったし、それについて何か悪事が企まれることもなかった。陛下は…」 カクノシンさんの視線が再び陛下に向く。 「タウシュミットから魔石の花を献上されましたが、その花の来歴を耳になされ、お慈悲をもってそれを本来の持ち主であるアーデルワイズ・シホナに返却されることとなされ、花はタウシュミットに戻されました。以上が今回の宝物に関する全てです。よって花が士官学校に持ち込まれることはなかったし、罰せられるべき企てもなかった。如何でしょうか?」 そう確認されて、陛下が少し考えるように小首を傾けてから、「うん、いいよ」と頷かれた。 「おれもこの人たちを罰したいとは思ってないしね。……タウシュミット卿、それでいいね?」 ……つまり何もなかったことになるのか? 何か……悔しいっていうか、腹立つっていうか、納得できないっていうか……。 「畏まりました。タウシュミットの宝物が士官学校に預けられた記録は、抹消いたします」 ボッシュ教官殿が答えた。 タウシュミット親父は、おお、と感動の面持ちで、目をきらきらさせてやが……いる。 「ただし」 ふいにカクノシンさんが声を上げた。 「陛下はもちろん、我々はこのことを覚えている。何もなかったことにするからといって、卿のしようとしたこと、卿の一族の存念が記憶から消えることはない。その事実、あなたも努々お忘れになるな。それから、今回のことはフォンビーレフェルト卿ヴォルフラムを通してビーレフェルトのご当主にも伝えられるだろう。ビーレフェルトがどのように扱うかは知らないが、その結果を我々が注目していることもまた伝えておくつもりだ。ビーレフェルトのご当主が魔王陛下への忠誠心に溢れていると主張するなら、それなりの決断がなされだろうと考える。……お分かりだな。それから、フォンギレンホール・バドフェル。君もだ。ギレンホールのお父上、それからご当主にもきちんとお伝えしておくので、タウシュミットの企てに安易に乗ったお仕置きはしっかりしてもらいなさい。ギレンホールのお歴々もかなり我が子に甘いようだ。それが単にわが子可愛さなのか、それとも陛下の政に対して不平不満があるのか、その辺りも含めて、この後のギレンホールの対応にもまた注目させてもらおう」 ………つまりー。 公式には何もなかったことにするけれど、タウシュミットが平民士官候補生を陥れようとしたことも、フォンギレンホールがそれに1枚噛んだことも、忘れるわけじゃないぞ。 そして今回のことはフォンビーレフェルトとフォンギレンホールの当主に伝えられ、それなりの処罰をしてもらうつもりだ。 もし両当主がちゃんとした処罰をしなかったら、それは両家の魔王陛下への忠誠心に疑問があるということだから、それはそれで問題になる。 だから、覚悟しておけ。と。 ……はー……なるほどー……。 「十貴族と極めて近い家の当主が、魔王陛下の士官学校改革に企てをもって逆らおうとした。それだけじゃない。知らなかったとはいえ陛下を盗賊として告発しようとしたんだ。表沙汰になれば、一族揃って身分剥奪、財産没収の上国外追放、最悪、叛意を疑われて全員処刑ということもあり得る。そうなればビーレフェルトとギレンホールの本家とて無事では済まない。……表沙汰にしないでおくのは仕方のないことだ」 まるで僕の心を読んだように耳元で声がした。見ると、エドアルドがすぐ側に立っている。 「君が不服そうな顔をしてたからね」 そう言って小さく微笑んだ。 「……うん。分かってるよ」 ガキじゃないんだから、と続けようとしたけれど、そう言うとますますガキっぽい気がして止めた。 「恐れ入りました」と答えて平伏するタウシュミット親父に、教官の一人が近づいていく。そして何かを囁いて彼を半ば無理矢理立たせると、タウシュミット、こっちは息子、と、それからフォンギレンホール、そして取り巻き一同にも合図をし、全員を引き立てるようにして部屋から出て行った。 魂が抜けたような様子で、とぼとぼと教官殿の後に従うタウシュミット達の後姿に、ざまみろ、と心の中で舌を出した僕は……やっぱりガキだろうか? 「さーてっ、そろそろ夜も明けるし、今度こそ戻ろうか!」 陛下はそう仰せになると、改めて僕達に顔を、えーと、ご尊顔を、お向けになられた。 「ホントに楽しかった! また入学式でね!」 にっこりとお笑いになり、両手を振られると、陛下はくるっと踵を返した。カクノシンさんとスケサブロウさん(…じゃないんだろうなあ、たぶん)もまた、僕達に軽く手を振り、これまで通りの優しい笑みとちょっと悪戯っ子めいた笑みを投げ掛け、そして……陛下に続き部屋を出て行った。出て行って、しまわれた……。 ぼうっとした、真っ白な時間がぽかっと僕達を包んでいる。 そんな気がする。 敬礼で陛下を見送って、そのまま僕達は真っ白な時間の中で呆然と立ち尽くしていた。 と。 「……俺がどれだけ胃の痛い思いをしたか、分かるか、お前達っ!」 ボッシュ教官殿が一声怒鳴った。 途端。詰めていた息が一気に口から吐き出されて、同時にがちがちに固まっていた身体から力が抜けた。 思わず膝が砕けそうになって、ぐっと踏ん張った、瞬間、すぐ近くでいくつものどすんという音が耳に響いた。 顔を巡らせ、最初に視界に入ってきたのはマルクスだ。 でっかい身体でぐったりとへたり込んでいる。 「……まおう、へいか、だったんだ……あのひと……」 まるで寝言の様にぼんやりとマルクスが呟いている。 「どうりで……見たこともないくらい綺麗な人だと思った……」 「僕ら……魔王陛下と一緒にご飯食べたんだよね」 セリムが言った。浅黒い肌にくっきりと赤みが射している。 「テーブルを囲んで一緒にお茶も飲んだし、お菓子も食べたし、それに……」 ここ数日の思い出が蘇って、僕達は夢心地のまま、互いに顔を見合わせた。あの思い出が夢じゃないと、僕達は偉大なる魔王陛下とまるで友人の様に一緒に過ごしていたんだと、お互いの目に浮かぶ光と笑みで確認を繰り返した。 「…ああ! でも、どうしよう、僕!」セリムが突然声を上げた。「色々ご無礼したような気がする!」 頭を抱えるセリムに、皆が揃って顔を不安に曇らせ始め、僕もふと………。 「ボッシュ教官殿っ!!」 理解するより早く上がった声は、ほとんど絶叫だったような気がする。全員の顔が一斉に僕に向けられた。 ボッシュ教官殿も仰天したような顔で僕を見ている。 「ぼっ、僕! へっ、へいかのっ、そのっ、頭を……! あのっ、僕っ……」 思い切りゴツンとやっちゃったんだよっ!! あー、とボッシュ教官殿が何か思い当たったように(…見てたんだろうか)、小さくこくこくと頷いた。 「この数日、お前達と陛下との間に起きたことは、それがどういう行為であろうと、また発言であろうと、無礼は一切問われない。なぜならここに視察、いや、見学に来ていたのはミツエモンという名の商人の息子だからだ。と、陛下よりの仰せだ。それどころか陛下は久しぶりに多くの同年代の者達と交流が出来て、心底楽しかった、皆に心から感謝している、との仰せだった」 はー……っと、身体中の空気が口から一斉に漏れて出た。そして今度こそ本当に膝が砕けた。 床にへたり込んだ僕の肩に手が置かれる。見れば両側にセリムとホルバートがいて、それぞれ僕の肩に手を置き、一緒になってしゃがみ込んでいた。2人がまるで打ちあわせたかの様にしみじみとため息をつく。 「まあ何だ、それも一生の思い出になるだろう。知らんこととはいえ、魔王陛下の頭をぽかりとやったんだからな」 そう言って、ボッシュ教官殿がくくっと笑う。見ると他の教官殿も笑っていて、僕はもう頭を上げていられなくなってしまった。顔がぐわっと熱くなってもう……。 「悩め悩め! ったく、あと1日延びていたら、俺の繊細な胃が破れるところだったぞ! 俺の長い軍人生活で、これほど命の危険を感じたのは初めてだ! ……ったく、お前達の気楽な様子ときたら……!」 ぶつぶつとボッシュ教官殿が文句を言っている。ユーリア教官や他の教官達のくすくすと笑う声がまだ続いている。 何だか、それを聞いていたら。 「……はは、あはは……」 ハッと見上げたら、アーウィンが腹を押さえて笑っていた。 最初はどこかぼんやりとした笑いだったのが、だんだん可笑しくて堪らないという、本当に楽しそうな笑いに変わっていった。 「…あは、あはは……」 「ぷっ、くくく……」 笑いがだんだん伝染するように仲間達の間に広がっていって。それはすぐに爆笑になった。 「信じられるかっ!? 魔王陛下だぜっ、魔王陛下と一緒にいたんだぜっ!?」 「まだ夢を見てるみたいだよっ! 目の前でお話させてもらってたなんて!」 「それも同じポットのお茶を分け合って!」 「僕なんて、陛下とお菓子を半分こしたんだぞ!」 「いつだよ、それ!?」 「夕べだよ、お菓子が1個余ってて、そしたら陛下がたまたま側にいいた僕に、半分こしようって手づから分けて下さったんだ!」 「すごい!」 あはは、わははと笑いながら、ばんばん意味もなく仲間達の身体を叩きまくって、僕達は一気に高まった興奮に、熱に浮かされたように喋り続けた。 「でも一番すごいのはマチアスだよ!」 「陛下をお前呼ばわりだもんな!」 「それどころか、頭をごつんと!」 「それを言うなよーっ!」 わあっとまた笑いが爆発する。 「僕達だけなんだな! あの時、花を悪事から護ろうと集まったこの16人だけが、陛下とご一緒する栄誉に恵まれたんだ!」 ピートの白い頬が真っ赤に染まっている。あの時の自分達の決断がどれほどの幸運を招いたか、しみじみと噛み締めているようだ。 「ああ、今すぐ故郷の家族にこのことを伝えたいよ!」 「でも信じてくれるかな? こんなものすごいこと!」 「僕なんて庶民だもんな。家族だってとても信じてくれないよ。きっと王都で夢でも見たんだって思われるさ!」 「僕もさ! しょうもないホラを吹くなって笑われておしまいかも!」 わっと笑いが湧く。でも。 ふと僕は我に返った。 ………ホラ……。 「教官殿! お伺いしたいのですが!」 いきなり上がった声に、ハッと身体が動く。 エドアルドが、浮かれた場にそぐわない真摯な表情でボッシュ教官達を見つめていた。 「陛下のお側におられた、あのお2人についてですが」 あの方達は、どういう方なのでしょうか!? あ、と、僕達は顔を見合わせた。 そうだ……。 あの方が魔王陛下なら、あの2人、いや、お2人、は……。 「お前達がスケサブロウという名で呼んでいたあの人は」 ボッシュ教官殿が、ゆっくりと口を開いた。 「名をグリエ・ヨザック殿と仰る。れっきとした上級士官だ」 上級士官! ……うわぁ、現役軍人だったんだ……。でもあんまり軍人ぽくなかったような……。 「あ、あのっ、グリエ・ヨザック、殿というお名前には記憶があるのですが……」 誰かが声を上げた。同時に、僕も、僕もどこかで聞いた覚えがある、という声が相次いで起こった。……僕は全然知らないけど……。 「武人を目指すなら知っていてもおかしくはない。グリエ・ヨザック殿は…軍人としての経歴を全くの一兵卒から始められ、ルッテンベルク師団ではウェラー卿の副官を務められた。そして現在では魔王陛下を始め、宰相フォンヴォルテール卿のご信頼も篤いというお人だ。また、フォンクライスト卿、ウェラー卿と並んで、眞魔国三大剣豪として知られる剣の達人でもある」 うわお! 眞魔国三大剣豪! どうりで……。やっぱりあれだけ強いんだもんなあ…………あれ? 「あ、あの…教官、どの……。でしたら……カクノシン、殿、は……」 エドアルドの声が、緊張に強張っている。 だって。カクノシンさんは、スケサブロウさんより……強くて……だったら……。 部屋の中がしんと静まった。 全員がボッシュ教官殿の口がどう動くか、瞬きもせずに見つめている。 「もう、答えは分かっとるのではないのか?」 ボッシュ教官殿の声が、何となく優しい。 「お前達が、カクノシンと呼んでいたあのお方こそ」 ボッシュ教官殿の目がぐるっと僕達を見回した。誰かがごくっと喉を大きく鳴らす。 「ウェラー卿、コンラート閣下でいらっしゃる」 ひゅううっと、窓の隙間から風が吹き込んできたような音がした。 苦しくなって、そこでようやく、それが僕が勢いよく吸い込んだ息の音だと気付いた。 カクノシンさん……。 いつもにこにこと、穏やかで優しい笑みを浮かべていて。 落ち着いた口調で、僕達に色んな事を教えてくれた。 あのカクノシンさん、が、ウェラー卿……コンラート、閣下……。 あの……偉大な、伝説的な英雄。僕達が皆、天空に輝く星のように、ただただその名を想って、1歩でもその存在に近づきたいと願って、いつかお会いできるかもしれない瞬間を夢見て、ひたすら憧れ続けてきた人。その人と、僕達は……。 はああ、という、深い深い息がどっと仲間達から漏れた。 何だか、もう胸がいっぱいで、いっぱいになりすぎて、どんな思いも言葉も浮かばないほどいっぱいになって、出るのはただため息だけ。そんな感じだった。 「……あ、ああ、うわ、ああ……」 エドアルドが頭を抱えて床に膝をついていた。 「ぼ、僕……どうしたらいいんだ……ウェラー卿に、閣下に……ご本人に………」 恥ずかしい……! 頭を抱えたまま、消え入りそうな声でエドアルドが呻いている。 「エドアルド」 アーウィンが駆け寄って、その傍らに片膝をつき、幼馴染の肩に腕を回した。 「恥ずかしがることなどないだろう? 君は自分がどれほど閣下をお慕いしているか熱烈に語っていただけ……」 「だから恥ずかしいんじゃないかっ!」 エドアルドがくわっと顔を上げて怒鳴った。 「ああもう……今度もしお会いできる機会があっても、僕、恥ずかしくてご挨拶もできないよ……」 そうか? とアーウィンが首を捻る。 「僕は僕の言動の方が恥ずかしいと思うが。陛下に対してはもちろんだが、ウェラー卿に対しても我ながら……少々傲慢な部分がなきにしもあらずだったという気がしないでもないし」 「何がなきにしもあらずだ! それに全然恥ずかしがってないだろうがっ!?」 まったくだ、と思わず頷いてしまった。両側に一緒になって座り込んでいるセリムとホルバートも、やっぱり同じように頷いている。 いや、とアーウィンが首を振った。 「かなり恥ずかしく思っている。だがそれよりも……嬉しいという気持ちの方が強いのだろうな」 「嬉しい?」 「ああ。陛下は別格としても、ウェラー卿はやはりさすがといえる人物だった。稀代の英雄として、あれほどの名声を得ていながら傲慢の欠片もない。言動、立ち居振る舞い、全てがこうあって欲しいと願ったそのまま、いやそれ以上の人物だったように思う。それが嬉しいから、あまり自分のことは気にならんな。それに閣下は僕達のような未熟者の失態など気になされはしないだろう」 「僕もそう思うよ」 立ち上がり、ズボンの埃をぱたぱたと払いながら、僕は言った。エドアルドが僕を見上げる。 「それにさ、エドアルド。もう挨拶もできないって言うなら、ウェラー卿の部下になっていずれは片腕にっていう夢も捨てるのか?」 「そんなはずはないだろうっ!」 言ってエドアルドが勢いよく立ち上がる。 「そうだ……少々の失態に恥じ入って、夢を捨ててなるものか。それに、そうだ! 今回のことで、僕の顔も名も志も覚えて頂けたはずだし、この状況はむしろ、夢に一歩近づいたと言って良いくらいじゃないか!?」 ……結構現金なやつだな、エドアルドも。でもまあそうだよね。それに……。 「剣の指南だってして頂いたしな!」 その通りだ! と、エドアルドの顔がぱあっと明るくなった。そうだそうだという声が、周囲からも一斉に上がった。 「僕も!」マルクスがうっとりと言う。「僕も、僕なんかも、ウェラー卿と1対1で剣を戦わせたんだ! すごい……!」 ふと思い出して、僕は、騒ぐ僕らを止めもせず、叱りもせず、ちょっとあり得ないくらい優しい眼差しで見守ってくれている教官達の中、壁に寄り掛かるようにして僕達を見つめているボッシュ教官殿に目を向けた。 『今日の事を、お前達はいずれ必ず誇りに思うだろう。今日の経験を決して忘れるんじゃないぞ』 ああ、確かに。 僕は、ウェラー卿コンラート閣下に、直々に剣の指南をして頂いた。 ええ、教官殿。僕はこのことを生涯忘れはしません……! 「また学校においでになられるかな?」 「幾らなんでも陛下とはもうお会いできないだろう?」 「もしお会いできても、もう二度とこれまでのような態度は取れないしね……」 「そう思うと、やっぱり夢のような日々だったな……」 ほう、とため息が漏れる。 「ウェラー卿も、それからグリエ殿も駄目、かな…?」 「お2人にまた剣の指南をして頂けたらなあ……」 「お話だってたくさん伺いたいよ。ああ、そうと分かっていたらあの時もっと……」 「なあ、マチアス」 ふいにピートが何か思いついたような顔で僕を呼んだ。 「何だい?」 「君からウェラー卿にお願いしてみてくれないか?」 …………………。 「はあぁっ!?」 何でっ。どうして僕がそんな……っ!? 「だって君、言ってたじゃないか」 きょとんとした顔でピートが答える。 「君のお父上、ウェラー卿と友人でいらしたのだろう? だったら……」 『君は鉄腕オーギュの息子だったのか』 頭が破裂するような勢いで、浮かんだのはあの時の情景。あの人の言葉。 親父の短剣を見て、それが誰の物か気付いたカク……ウェラー卿。 『この短剣でな。隊長を助けたこともあったんだぜ? 隊長が覚えててくれりゃあなあ……』 そう言っていた親父。 『君のお父さんは本当に惚れ惚れするほど強かった。それに心根が真直ぐで、信頼するに足る立派な武人だった。君が士官になっても、君にはお父さんをずっと誇りにして欲しいと俺は思うな』 「………ぼ、僕……」 マチアス? どうしたんだ? おい! ……周りでたくさんの声がする。 「マチアス!? どうした? 何があった!? ど、どうして……泣いてるんだ……?」 僕の顔を覗きこんでエドアルドが言う。その言葉に何も答えられず、僕は両手で顔を覆った。 「僕、は……」 家族や村の人に呆れられながら、それにも気付かず、笑って自慢話を繰り広げていた親父。 こんな親父と一緒にしないで欲しいという意志もあからさまに、横を向いてため息をついていた僕。 ああ………。 「………ごめん、親父……父さん……。本当に……ごめんなさい……」 長い年月、あなたを、あなたの言葉をただの1度も信じようとしなかった僕を。 どうか……許して下さい。 「…父さん、は……僕の、父さんは……」 ほら吹きなんかじゃなかったんだ……!! →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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