一睡もしないまま、僕達は講義に向かった。 眠気に襲われるほど退屈な講義などあるはずもなく、僕は自分の体力に感謝しながら教官殿の話に耳を傾けていた。共に夜中の任務を果たした仲間達も、背をしゃんと延ばして黒板に顔を向けている。さすがだね。 今日も明日も僕達は夜の任務だ。試験を受けなくちゃならないし、課題もしっかり与えられる。ぼんやりしている暇はないぞ。 今この教室からは、4人の姿が消えている。宝物警備の当番に当たってる班の連中だ。 日中の当番は洩れなく上流貴族と、彼らと近しい立場のヤツらが当たっていた。つまりフォンギレンホールやタウシュミット達とそのお取り巻き、そして彼らとお近づきになることを許された中流貴族の一団、ということになる。彼らから距離を置く者ほど警備は不利な時間が割り振られている。……こうもあからさまだと、文句を言う気力すらなくしてしまうよな。 この宝物警備は僕達平民出身候補生と、おそらくはエドアルドを陥れるための罠だ、と聞かされた。 その時は事の重大さと理不尽さに怒りを覚えたけれど、こうして一晩を明かし、朝の光の中で思い返してみると……そんな陰謀、ほんとにあるのかな……? 宝物がなくなったり、傷ついたりしたら責任を問われる、というのは確かだけれど、そもそも僕達が警備をしているその最中にどうやって宝物を奪うのか、もしくは傷つけるのか。 正直、フォンギレンホールやタウシュミットに、そのための計略を細かく考える能力があるとは思えないんだよなー。……ちょっとバカにし過ぎか? でも、少なくとも、エドアルドがあいつらに陥れられるとは思えないし……。それに僕達にはカクノシンさんとスケサブロウさんがついている。あの2人を出し抜くなんて、絶対できないと思うぞ! それにそれに、あいつらが気付いているかどうかは分からないけど、フォンロシュフォールだって僕達の味方だし。 ……フォンロシュフォール……じゃなくて、アーウィン、だった。 朝、新たに友人となったピート達とも名前で呼び合う僕達に気付いたフォンロシュフォールが、どこか不自然なほどぶっきらぼうに「僕をのけ者にしないでくれ」と言い出した時にはびっくりした。 僕にもアーウィンという名がある。そう言った時のあいつの頬がうっすらと赤く染まっていて、二度びっくりした。 『うん! だからアーちゃん!』 『い、いや、それはちょっと……』 『だったらいちご金髪ちゃん。ちょっと長いからいちごちゃんでもいいか』 『…………アーちゃんでいい……』 誰の、とは今更言う必要もない会話が交わされ、しばらくむっつりしていたフォン…じゃなくて、アーウィンだったが、「アーちゃん」と呼ぶのが一人だけだと分かった後はホッと頬を緩めていたっけ。 ……とにかく。 その後、部屋を出る時のエドアルドとアーウィンが会話している雰囲気は、まあちょっとぎこちなくはあったけど、それでもこれまでの様子から見たら充分和やかだった。何よりアーウィンが本当に嬉しそうだった。 だからって訳じゃないけれど、あいつのことは信じてもいいと思う。 まあそんなこんなで、僕達の仲間は着々と数を増やしていて、あいつらがそうそう罠を仕掛ける余裕はないと思うんだけどな。 もしかしたら、単に講義や試験や課題をサボりたい、あいつらの狙いはただそれだけだったんじゃないかとすら思う。少なくとも減点は免除されるわけだし。 あいつらが考えるのはせいぜいその程度……って、ああ、また人をバカにしてしまった。気をつけよう、うん。 それでもやっぱり……。 「……ノイエ・マチアス! 何をぼんやりしておるか!」 「…っ、もっ、申し訳ありません!」 しまったぁ、つい……。 「よもや2時間警備をした程度で睡眠不足というのではあるまいな!」 「大丈夫であります!」 「ならば前に出てきてこの数式を解け!」 「は、はいっ」 あー……。まずった。 「マチアス、さっきは何をぼんやりしてたんだい? まさか本当に居眠りしてたとか? 下手をすると今夜も明日も、たぶん徹夜だと思うけど……大丈夫かい?」 「ああ、それは大丈夫だと思うけど…そうじゃなくてさ……」 午前の講義を終え、食堂に向かう廊下で心配そうに話しかけてきたセリムに、苦笑して答える。 「ちょっと考え事してたんだ」 「考え事?」横からホルバートが覗き込んでくる。「何をだい?」 うん、と答えたところで食堂の入り口が見えてきた。と、先に教室を出ていたピート達が笑顔で僕達に合図してくる。それに軽く手を振り返して応えると、近くにいた他の同期生達が「おや?」と意外そうな顔で僕達に視線を向けてくる。それがまたちょっと楽しかったりして。 総勢16人という何だか堂々たる一派をなして食堂に入り、食事を盛ったお盆を手にして周囲を見回すと、「おーい」という脳天気な声が聞こえてきた。 食堂の端のテーブルからミツエモンがこっちこっちと手を振っている。その両側にはもちろんカクノシンさんとスケサブロウさん。 僕達の足がぴたりと止まった。そして全員が急に無言になって、何となく横目で仲間達の様子を窺い始めた。もちろん僕も。……微妙な緊張感が高まってくる……。 一瞬の隙を突き、僕は大きく一歩を踏み出すと早足でテーブルに向かった。すぐに「あ!」「抜け駆け!」「しまった!」という声が上がって、背後の集団が一気に動き始める。 食堂は走ることができない。これが規則だ。だから思いっきり早足で歩く。バラバラの、だけど力強い足音がすぐ後ろから追いかけてくる。お盆の上でスープが踊り、サラダが跳ねる。 目指すはミツエモンの真正面の席! そしたらカクノシンさんとスケサブロウさんの両方とたっぷり話ができる! どっちかの隣でもいい! とにかくたくさん話ができるすぐ側の席は絶対確保だ! ……ったく! いきなり競争率が上がるから! 後もう数歩! と思った時だった。 僕達の反対側からテーブルに近づいていた男がさっとミツエモンの真向かいの席の椅子を引き、容赦なく腰を下ろした。 ………アーウィンだった。 「くっそー、いちごちゃんめー」 ホルバートが憎々しげに呟く。 あいつ、1人なのか? 取り巻き達にはどう言ってきたんだろう…? 結局、カクノシンさんの向かいの席はエドアルドが確保し、僕はスケサブロウさんの向かいの席を何とか奪った。かなり激しい競争が繰り広げられてしまい、「騒がしいぞ、貴様ら!」と教官に怒鳴られて、全員1点づつ減点されてしまった……。 事前のくじ引きを提案してみようかな。……でも、この人たちはいつまでここにいてくれるんだろう? ミツエモンの見学が終わったら……もしかしてもう会えないとか……? それは……嫌だ。嫌だけど……。 「そういえば午前中は見学してなかったよね?」 僕の隣に座ったハインリヒに尋ねられて、ミツエモンがうんと頷いた。 「朝ごはん食べたら、もう眠くって眠くって。午前中いっぱい寝てたんだ。……皆は寝てないよね? 大丈夫? 今夜も夜中に当番なんだろう?」 「僕達は鍛えてるからな!」 君みたいな子供とは違うんだよ。ハインリヒに茶化されて、「子供扱いすんな!」とミツエモンが頬っぺたを膨らませて怒る。……そんな顔をするから子供だってんだよ。 「坊ちゃんは早寝早起きなんですよねー」 スケサブロウさんに言われて、「そう! トレーニングも欠かしません!」と胸を張って宣言してる。 ……どうも都会の言葉はよく分からないなあ。何だよ、とれーにんって。 「ところで、君達は今夜もここにいる全員で警備をするつもりなのかい?」 その声が耳に響いた途端、僕を含め全員の背筋が伸びた。 カクノシンさんの声は本当に美声というか、穏やかで優しくて人柄が滲み出てるよなあ。……あ、いや、スケサブロウさんがそれに劣るって訳じゃないんだけど! でもやっぱり何というか、カクノシンさんの全身─声はもちろん、顔立ちも、笑顔も、姿勢も、そして隙のない仕草も─から溢れるように感じられる雰囲気が、とにかくー……並大抵の人じゃないって感じで。 その証拠に、十貴族のエドアルドも、最初は何か思惑があったように思えるフォ…アーウィンも、カクノシンさんの前では尊大な態度は一切とらない。まあ、エドアルドは元々自分の身分をひけらかすヤツじゃないけど。 「何が起こるか分かりませんので、最も危険な4時間は僕達8名で護るつもりです」 エドアルドが答える。ちょっと待ってくれ、と、エドアルドの向こう隣にいるピートが声を上げた。 「僕達を忘れないでくれ。僕達も君達と共に警備をするよ!」 「でもそうなると、君達は自分の分を含めて6時間、任務に就かなくてはならなくなるだろう? 僕達は4時間なのに……。それは良くない。それにそもそもこれは僕達の問題で……」 「それは違う!」ピートがきっぱりと否定する。「これは士官学校全体への挑戦、いや、魔王陛下のご意志に対する明確な反逆行為だ! 陰謀の存在を知った以上、それを阻止しようとするのは士官候補生として当然のことだろう? それに夕べも言っておいたはずだが、僕達は君達のことを知る以前から不穏な動きを察知していたんだ。だから入学式までの三日三晩、眠らずにあの部屋を見張ることも決めていた。6時間じゃない。僕の班の担当時間から朝まで8時間、しっかり警備の任を果たさせてもらうつもりだ!」 「ならば僕達も8時間、君達と共に任務を果たす。当事者としてそれが為すべき義務だろう」 「はーい、坊ちゃん達、熱くならない、熱くならない」 だんだん熱を帯びてくるエドアルドとピートの掛け合いに、スケサブロウさんが口を挟んだ。 僕達をほったらかしにして言い合っていたエドアルドとピートが、ハッと居住まいを正す。 「俺達もいるんだし、もうちょっと気持ちに余裕を持った方がいいぜ?」 そうそう、おれもいるんだしー、と横からミツエモンが声を上げる。 そのミツエモンが、今度は「ところでさあ」と視線をアーウィンに向けた。 「アーちゃんはどうするんだ? アーちゃんは本当は夜の当番じゃないんだろ?」 横からミツエモンが口を出す。ああ、そうだ、とアーウィンが頷く。 「本来は、今この時間が僕の当番なのだが」 「…………」 「…………」 「…………」 「………何だって……!?」 エドアルドが目を瞠り、身体を隣に座るアーウィンに向けた。 僕達も、それからミツエモン達も、動きを止め、呆気にとられた顔でアーウィンを見ている。 「この僕に昼食時を割り振るなど、少々許せんと思ったのだ。それにあいつらの狙いは君達なのだし、僕の時間に何が起こるはずもない。なので、我が家の者に後を任せて出てきた。僕は試験も課題も免除されているからな。仮眠もしっかり取れる。安心したまえ、今夜もちゃんと付き合う」 ……こ、こいつ……! 「……アーウィン、あのな……」 エドアルドが額を抑えて呻いている。 あのさ、エドアルド、君、友情についてやっぱり少し考え直した方がいいかもしれないね。 「えーと。……まあ、それはともかく」 カクノシンさんが苦笑を浮かべて言葉を続けた。 「スケさんも言ったが、俺達もいることだし、やはり交代で任務に当たった方が良いと思うな。いくら体力に自信があるといっても、三日間ずっと眠らずにいるのは良くない。士官候補生が護るべき基本の基本、自己管理という点でもね」 その言葉にはさすがに言い返すことができないのか、エドアルドもピートもわずかに肩を落とした。 「……あ、あの、ちょっと考えたんですけど……」 カクノシンさん達の目が僕の方に向いたのを確認して、僕は講義中に思いついたことを話した。 「甘いぞ、マチアス」 今のこの状況で宝物をどうにかできるはずもないし、フォンギレンホールやタウシュミット達はもう講義や試験をサボれるだけで満足するんじゃないか。僕のその想像をきっぱり否定したのはエドアルドだった。 間にいるアーウィンを押しのけるように顔を近づけると、エドアルドは声を抑えて話し始めた。 「貴族というものの底なしの陰湿さを君は知らないんだ。ましてあいつらは、常に国政の中心に身を置くことを渇望する十貴族とその一族だぞ? 当代陛下の王権が確立し、陛下の宮廷が今の形で落ち着く直前まで、血盟城の影では凄まじい権力闘争が繰り広げられていたんだ。それも剣を振るって戦うといったあけっぴろげなものじゃない。陰険で姑息で、とにかく敵とみなした相手を貴族社会から抹殺するためなら、どんな卑怯な手でも使うヤツらなんだ! ありもしない陰謀をでっち上げて、嘘八百の噂を撒き散らし、いる筈もない証人やあるはずもない証拠を作るくらいお手の物だ。ほとんどの家が手飼いの隠密を抱えているし、そいつらは命じられれば暗殺だって平然とやる。あいつらはそんな家で育ったんだ! これまでの言動から考えても、僕達を見逃すはずはない! 必ず何かとんでもない卑怯な手を使ってやってくる!」 ……おいおい、エドアルド〜……。 そういうお前だって十貴族だろう? っていうか、16人も仲間が増えてて良かったよ。いくら声を潜めてても、絶対誰かに聞かれてたと思うし。 てっきり解決したのかと思っていたエドアルドの「貴族嫌い」は、どうやら消えてなくなったわけじゃないらしい……。 「エドアルド、君……」 さっきのエドアルドとそっくりの仕草で、アーウィンが額を押さえている。 結構似たもの同士の幼馴染かもね、こいつらって。 「なあ、貴族達の凄まじい権力闘争なんて……本当にあったのか?」 ミツエモンの声がした。見れば、カクノシンさんを見上げている。 そうですねえ、とカクノシンさんがちょっと困った顔で答えた。 「上王陛下の御世においてはまあそれなりに色々と。国も乱れていましたし……。ユーリ陛下の場合は…史上最年少で即位あそばされましたし、誰かが宰相、もしくは摂政になる必要性は皆が認めていました。前摂政もまだ権力に固執しておりましたし、その対抗馬となるグ、フォンヴォルテール卿が当初陛下のご即位に難色を示していたことも皆知っていました。なので……玉座が安泰となるかどうかも含めまして、色々と騒がしかったのも事実です。ですが前摂政が早々に宮廷を去り、フォンヴォルテール卿達が陛下をお支えすることを正式に表明して後は騒がしさも治まりました。ですからその、彼が言うような権力闘争は起きなかったと言ってよろしいかと思いますよ」 ふーん、とミツエモンが考え深げに頷いた。 ……カクノシンさん……どうしてそんなに貴族達の事をよく知ってるんだろう…? 「宮廷内の事情に詳しいのだな」 アーウィンが僕の代弁をしてくれた。 カクノシンさんが僕達に視線を向けてにこりと笑う。 「知り合いが城内で働いているからね。こういうことは使用人の方がよく知っているものだよ」 なるほどね。 「で、話を戻すけど」 スケサブロウさんが割って入ってきた。 「実は俺らもそれなりに情報を仕入れててな。ちょいと気になる話が耳に入ったのさ。それがな……」 ビーレフェルトから、タウシュミットの坊ちゃまのためにかなりの人数が王都に入った。 それがスケサブロウさんから齎された情報だった。 「もちろん、晴れの入学式を迎えるためにご両親がお出でになったり、お祝いの宴を開いたり、それなりにあるだろうからな。そういう人員ってことは充分にあり得る。けど、ま、時期が時期だけに用心しといた方がいいだろ?」 もっとも。そう言って、スケサブロウさんがにやりと笑った。それはいつもの皮肉っぽさを通り越した、どこか獰猛な笑み、のように僕には感じられた。 「こともあろうに血盟城の敷地内にある士官学校に、数を頼んで襲撃、なんて事を仕出かそうもんなら、破滅するのはあちらさんだけどな」 「そうなれば、累は本家のビーレフェルトにも及ぶ。まさかそこまで愚かではない、とは思うが……」 「いいえ! やりかねません!」 エドアルドが拳を握って宣言する。ミツエモンがスプーンを銜えたまま、きょとんとエドアルドを見上げ、カクノシンさんとスケサブロウさんは揃って苦笑を深めた。 落ち着けと、隣のアーウィン、それから反対隣のピートとが、エドアルドの肩や背中をぽんぽんと叩き始める。 出会って何日も経ってる訳じゃないけれど、こいつって本当に性格が変わっちゃった気がするなあ……。 僕達のそんな状況とは一切関わりなく、一日は平穏無事に過ぎていった。つまり、講義は厳しく、午後の体術(本日は格闘技)は容赦なく、試験は冷酷非情で、課題は……課題だけがなぜかいつもと違っていた。 今日の課題。『魔王陛下への手紙』。 士官候補生として、魔王陛下へ伝えたいと思うことを、どのような形でも内容でも良い。思うままに書け。 「……それは、実際に魔王陛下に読んで頂けるのですか?」 恐る恐る質問した同期生に、ボッシュ教官殿が大きく頷いた。 「恐れ多いことながら、ちゃんと読んで頂ける。魔王陛下がそのように仰せになられたと、宰相閣下より直々にお話を賜った。魔王陛下への思いでも、願いでも、将来の夢を語るのでも構わん。また諫言であっても一切無礼を咎められることはない。もし陛下に訴えたいことがあれば、それでも構わん。ただし! 根拠のない誹謗中傷は許さんぞ。いいな? それから、名前と出身地を忘れずに記入しろ。この課題は……試験を免除されることのない者達にのみ与えられるものであることを肝に銘じておけ」 ボッシュ教官殿のその言葉が発せられて、数拍間が空いた。それから「うおぉ…」という、感動の深いため息が一気に部屋を満たした。 フォンギレンホール、フォンロシュフォール、タウシュミットという代表的な上流貴族の班、それから彼らと近しくなっている中流貴族達の班が日中から就寝時間までを担当し、彼らは試験と課題を免除されている。 課題をこなさなくてはならないのは、夜間と早朝の当番に当たった班24人と、その日の「予備班」となった4人、総勢7班、28人だ。 一日2時間づつ4人で任務に就くとすると、必要人員は48人。同期は52人だから、必ず4人、つまり1班浮くことになる。これが「予備班」だ。彼らはその日任務に就くことはなく、普通に講義を受け、試験も課題もこなさなければならない。 予備班は日替わりだが、三日間とも中流貴族の班が当てられている。 ……ギレンホールもタウシュミットも、何がなんでも講義をサボりたかったし、試験も課題も免除されたかった訳だ。 今この教室には、当然のことだけど24人分の席が空いている。 それはすなわち。 その24人には、魔王陛下に手紙を差し上げ、直々に読んで頂く資格がない、ということなんだ! いくら上流貴族だからといっても、そうそう簡単に陛下に存在を知って頂ける訳じゃない。 一番手っ取り早い魔王陛下への拝謁も、陛下ご自身や、その周辺の方々のご意向がない限り、ただ上流貴族の子弟だからというだけの理由で許可されることはないのだそうだ。 だからこそタウシュミットはあんな宝物を用意したのだし。 だとしても。 自己顕示欲の激しいあいつらがこの課題の内容を知ったら……。 思わず緩む頬を押さえることができない。 陛下に読んで頂く手紙。 思いっきり書くぞ! 「……で? エド君は?」 部屋ではミツエモンとカクノシンさんとスケサブロウさんを中心にして話が弾んでいる。もちろん今夜もお茶とお菓子がもれなくついている。僕の手元にもちゃんと。 「僕はウェラー卿の部隊に入り、いずれ閣下の直属の部下になることが夢なんです!」 エドアルドの将来の夢を語る声が弾んでいる。 「た…ウェラー卿の? でもあの人の第一の任務は魔王陛下の護衛で……まあ、王都警備の総司令官でもあるが、そっちの仕事は実際に街に出て現場の治安に携わることになるから、貴族はほとんどいないぜ? っていうか、兵学校出身の叩き上げばっかりだぞ? それも筋金入りのな。はっきり言って十貴族の若様が……」 「そんなこと、関係ありません!」 スケサブロウさんのもっともな言葉に、エドアルドが憤然として言い返している。 「僕はウェラー卿のお役に立ちたいんです! そのためならどんな任務でも果たします!」 「士官学校出だからって甘やかしちゃもらえねえぜ? それこそ最初の内は酔っ払いの喧嘩の仲裁とか、泥棒を追っかけるとか、掴み合って喧嘩する夫婦の間に割って入るとか……」 「やります! 身体を張って頑張ります!」 鼻息が荒いぞ、エドアルド。 「そして、そしていつか……ウェラー卿に頼りにして頂けるような、その、片腕と呼ばれるような、そんな存在になりたいんですっ!」 「エド君、すごいな!」 ミツエモンの感心したような声に、「いえ」と照れくさそうなエドアルドの声。 「よし、じゃあな」何か思いついたようにスケサブロウさんが言う。「今から入隊面接の練習をしておこうぜ?」 「れ、練習…?」 「そうともさ。言っとくが、ウェラー卿の部下になりたいヤツは軍にごまんといるんだぜ? 競争率がどれだけ高いか、全然分かっちゃいねえだろ? 十貴族の若様だからって、ぼけっとしてたら弾き飛ばされて終わりだぞ」 「やっぱりそうなんですか!? 競争率、そんなに高いんですか……」 「だから! 今からしっかり練習しておくのさ。ほれ、ここにいるカクさんをウェラー卿だと思ってな、どれだけウェラー卿をお慕いしているか、思いのたけをここで全部ぶちまけてみろ!」 おいおい、スケさん、と、カクノシンさんの苦笑しているらしい声。 「あの……カクノシン殿をウェラー卿と思って、ですか?」 「ああ、そうさ。できるだろ?」 「はあ……。あの、でも……」 「何だい?」 「僕が思い描いているウェラー卿のお姿は、カクノシン殿とはかなり趣が異なっているのですが」 「……………」 「……………」 「……………ぶふっ」 最後のはミツエモンだな。 それからその場は、何だか何人もの声が入り乱れ、聞き取れなくなってしまった。 「……マー君!」 顔を上げると、ミツエモンがにこにこしながらこちらに近づいてくる。 ミツエモンの向こう、魔石の花の台座の前では、エドアルドとカクノシンさんとスケサブロウさんと、それからたくさんの仲間達がああだこうだと言い合っている。「いや違う」「そんなことはないよ」「いや、僕が想像するウェラー卿という方は……」といった声が切れ切れに聞こえてきた。 「課題、まだ終わんないのか? 魔王陛下への手紙、マー君はどんなことを書いたんだ?」 そう言うと、ミツエモンは机に手を置き、僕の手元を覗き込んだ。 この三日間、一応就寝時間と決められている時間から朝までの8時間を警備するのは、僕達不動の16人だ。真夜中はエドアルド達と僕達の8人。その前後を、昨日までは全く気付かなかったけど、上流貴族達と一線を画していたらしいピート達が受け持つことが決定してる。 この辺りに、僕達16人に対する上流のお坊ちゃま達の心境が現れている訳だ。 あの、身分に関わりなく公平であろうとする教官達が、こういう干渉を喜ばなかったことは確かだと思う。 それでも受け入れざるを得なくなった教官達が、せめてもの抵抗として考え出したのが今回の課題だ、というのが僕達の一致した意見だった。 魔王陛下の士官学校改革。水面下で抵抗する上流貴族達。 きっと僕達の知らない所で、様々な人が動き回っているんだろう。 とにかく。 課題だ。 「マチアス、君さあ、一体何枚書いたんだよ? それってもう手紙とはいえないんじゃないのか?」 「魔王陛下はお忙しいんだし、あまりたくさん書いてもご迷惑になるんじゃないかな? というか、見ただけでげっそりされそうなんだけど……」 ホルバートとセリムがミツエモンの背後に立ったかと思うと、意地の悪いことを言い出した。 「だって、書きたいことがいっぱいあるんだよ! こんな機会、もう2度とないだろうし……。あれもこれもって思ったら止まらなくなっちゃって」 「だが目立ちはするな」アーウィンまでやってきた。「読んで頂けなかったとしても、名前は覚えて頂けるかもしれないぞ? ……そう言えば、バドフェル殿とタウシュミットの2人はよほど悔しかったのだろう。目に映るもの全てにあたり散らしていた。自業自得だというのに……。あのように我がままでは、仕える者もさぞ大変だろうな……」 ……誰でも他人のことはよく見えるってね。 「アーちゃんは悔しくないのか? 課題、書きたくても書かせてもらえないんだろ?」 「免除、だ」 わざわざ振り返ってそう尋ねるミツエモンを、アーウィンがじろっと睨んだ。 「僕は入学式の後、次代ロシュフォール当主として、父上と共に陛下にご挨拶に上がることになっている」 あー、なるほどねー。つまり同じ十貴族でも、本家当主の跡継ぎと分家の息子では立場が全く違うってことか。 「マチアス、ホルバート、セリム、そろそろ君達が任務につく時間だ」 いつの間にか話を終えていたらしいエドアルドがやってきた。 「僕としたことが、話に夢中になって時間をすっかり失念していたよ。とにかくマルクスはすでに花の側に……マチアス! まさか君、そんな分厚い手紙を陛下に読ませようというのじゃないだろうな!?」 エドアルドが呆れた声を上げる。 「……枚数制限はなかったはずだぞ」 むっとして言い返したら、わざとらしくため息をつかれてしまった。 そう。 書きたいことが山の様にあって、ありすぎて、夢中で書いている内に時間はあっという間に経ってしまった。 「仮眠を取るのも任務の内」と仲間に説得されて一眠りした後、結局僕は宝物警備のこの部屋で続きを書いていた訳だ。 ピート達の当番時間になってすぐ、僕達は全員がこの部屋に集合した。すぐにミツエモンとカクノシンさん、スケサブロウさんも来てくれた。仮眠をしっかり取ったのか、夕べより時間が早いせいか、ミツエモンもちゃんと目を覚ましている。 カクノシンさんは僕達が全員揃っているのを見て、でもちょっと苦笑しただけで何も言わなかった。 で、自分の本来の当番時間でないこともあって、僕は部屋の隅で課題を仕上げていたんだけど……。 「なあ、何書いたんだってば! ちょっと読ませてよ」 僕の向かい側に椅子を置き、座り込んだミツエモンが手を伸ばしてくる。 「だめだ!」 反射的に手紙の束を囲い込み、隠す。 「これは恐れ多くも魔王陛下に読んで頂く手紙だぞ! そう簡単に人に読ませられるか!」 「いーじゃん! なあ、見せろってば!」 「だーめーだー!」 思いっきり顔を顰めて言ってやると、「けち」と言い返された。けちはないだろよ、けちは! 「じゃあさっじゃあさっ」 ……ここにも何があってもメゲない坊ちゃんがいるなあ。 「せめてどういうコトを書いたのかだけでも教えてよ。……これだけ長いしさあ、一応概略だけは把握しておきたいというか……」 「……え? それってどういう……」 「俺もぜひ聞きたいな」 ハッと見上げると、カクノシンさんが傍らに立っていた。 「思いを込めて書いたんだろうね。次から次へと思いが溢れてきて、どれだけ書いても書き足りないという気持ちは分かるよ。俺も君がどんな強い思いを書き記したのかぜひ教えて欲しいな」 ……うあー。何だか嬉しくなってきちゃったかも。 「そっ、そうですか!? あ、じゃあ、ちょっと、その、概略だけ。あ、でも、そんなに大したことは書いてないんですけど……」 なぜか急に照れくさくなってきた。 コホンと1つ、咳払い。 「まずはとにかく、僕達平民にも士官学校への道を開いてくださったことへのお礼です。それから山奥の田舎にも学校と診療所を建てて下さったことも。そのおかげで、村の皆は病気に怯えることもなくなったし、自分の将来に色んな夢を持つことができるようになりました! 昔は、ほとんどの男は農夫、女はその女房以外なれるものなんてありませんでしたし……。そういったことをつらつらと。それとー…僕の父のことや、父がどれだけ僕の士官学校合格を喜んでくれたかということや、将来どんな軍人になりたいかということも、今思いつく限り書いてみました。その、例えば……今人間の国では大地の荒廃が進行していて、民が大変苦しんでいると聞きました。それでもしも我が国の軍が、そういった国々の援助活動を行う状況になれば、ぜひ僕も参加させて欲しいこととか、援助活動の内容について思うところとか……」 ふと思いついて書いたことだけど、僕の正面に座るミツエモンがへえ、という顔で目を大きく瞠き、頭の上からもカクノシンさんの「ほう」という声が聞こえてきた。……ますます照れくさくなってくる。 「あ…後はー……陛下へのお願い、かな」 「お願い? 何?」 何故だかミツエモンが身を乗り出してきた。顔がひどく真剣だ。何で? 「……えっと……つまりその、僕、士官学校入学が決まって、初めて王都にやってきたんだよね」 うん、とミツエモンが頷く。 「それで都会と、僕達みたいな田舎の生活があまりにも違うことを初めて知ったんだよ。ここで当たり前にあるものが田舎にはない。存在すら、僕達は全く知らない。あの水道とか」 ああ、なるほどと、再びミツエモンが頷く。 「都会だから、王都だから、田舎も田舎、山奥の村と違っているのは当然だと思う。でも、それで納得していいのかなって思ったんだ。……今、水道の設置工事が行われていることが……」 その時だった。 「おい!」という声と共に、いきなり二の腕が掴まれた。 何かいけない事を口にしたか? そう思って見上げれば、エドアルドが僕の腕を掴んだまま、そっぽを向いていた。いや……別方向に視線を向けていた。 エドアルドの視線を追いかけてみる。 そこにあるのは部屋の扉で、閉じていたはずのわずかに開かれていた。 その隙間の向こうに……人がいる。 「………誰だ?」 誰何する声。 それに反応したのか、一呼吸置いて扉がゆっくりと開かれる。 部屋の灯に照らされて、一人の男の姿が、次第にはっきりしてきた。 「……お前……っ!?」 思わず立ち上がる。 そこには。 アーデルワイズ・クリスティアン。 「クリス」が、立っていた。 部屋に、しん、と沈黙が下り、緊張の糸が速やかに僕達の間に張り巡らされていく。 クリスティアン、クリス、は、タウシュミットの取り巻きの一人だ。ただ……決して主であるタウシュミットの威光を笠に着たり、横柄な態度を取るやつではない、と思う。 そう感じたのは、初めて出会ったあのわずかな時間のことでしかないのだけれど……。 「……邪魔して、良いかな……」 そう言いながら、クリスが部屋に足を踏み入れた。そうして1歩中に入ったところで、ハッと動きを止め、驚きに目を瞠る。そしてその表情のまま、ぐるっと部屋の中を見渡した。 「………ど、どうして……」 まさか20人もの人数がここに揃っているとは思いもしなかったんだろう。呆然とした顔が少し異常なほど青ざめ、唇が震えている。 「もちろん君のご主人様が持ち込んだ宝物を護るためさ」 そう言うと、セリムが動かないままのクリスに歩み寄っていく。 「で? 君は? アーデルワイズ・クリスティアン。こんな真夜中の、それもわざわざ僕達の担当時間にやってきたのはどういう訳かな?」 口調は軽く、顔には笑みを浮かべているけれど、クリスを見据えるセリムの瞳は鋭い。 クリスが慄くように視線を伏せた。 「クリスティアン」 次に呼びかける声に、クリスの伏せた顔がハッと上がる。そしてその声のした方に顔を向け…。 「フォンロシュフォール卿!」 かん高い声を上げた。 壁に寄り掛かるように立っていたアーウィンは、これまでクリスの死角に入っていたらしい。愕然とするクリスの口がパクパクと開いて閉じてを繰り返す。 「……あ、アーウィン様……」喘ぐような声。「あなた様までどうして……」 「そんなことはどうでもいい」 切って捨てるアーウィン。 「答えろ。タウシュミットに何を命じられてここに来た?」 ひゅっと、クリスの呼気が体内に吸い戻される音がする。それっきり、クリスは石か氷になった様に、開いた口を閉じることも、指1本動かすこともできない様子で固まってしまった。 ゆっくりと、その場に集った仲間達全員が、クリスに近づいていく。もちろん、僕も。 そして半円形を描く様にクリスを取り囲む。 蒼白になったクリスが、引きつった顔でぎくしゃくと僕達を見回す。震える足が、扉の外に向かって後退りを始めた。 その時だった。 「何やってんだよ!」 声と同時に、居並ぶ僕達の隙間から飛び出してきたのはミツエモンだった。 緊張渦巻くその場の様子に気付いてもいないのか、ミツエモンは軽やかな足取りでクリスに近寄ると、ひょいとその腕を取った。 「新しい人だな! いらっしゃいませ! えっと…ごめん、名前、も1度教えてもらっても良い?」 にっこり笑い掛けられて、クリスが呆然とした顔のままパチパチと目を瞬かせている。 「……あ、な…なま、え……? ……あ、あの……アーデルワイズ・クリスティアン……です。……あの……あなた方、も、どうしてここに……?」 「ん? どうしてって、いつもお世話になってるからお礼に! えーと……エーデルワイス……?」 「アーデルワイズ、ですよ、坊ちゃん。名前はクリスティアン、だそうです」 すっと素早くミツエモンの横に立ったカクノシンさんが訂正を入れる。 「くりすてぃあん、かあ。縮めがいのある長さだな!……ねえねえ、一応確認しとくけど、愛称ってあるの?」 「…あ……あい、しょう……?」 「そう。呼び名っていうか」 「あの……クリスって…呼ばれてます、が……」 「クリスかあ……。ずっと?」 「え? あ…はい…。あの……子供の頃から……」 「飽きない?」 「……え?」 「そろそろ別の名前で呼ばれてみたいとか思わない?」 「は?」 「たとえばー……クリリンとか!」 「クリ……え、ええっ!?」 「おーい、いい加減にしろよな、お前」 思わず僕の口から声が飛び出てしまった。 「何? マー君」 「なに? じゃないだろ! 初めてのヤツが現れる度、ヘンな名前をつけるのはよせっての。迷惑なんだよ!」 あーっ、マー君! いきなりミツエモンが僕を指差してきた。 「なっ、何だよっ!?」 「マー君っ、ヤキモチやいてるなっ!」 …………………。 「何考えてんだっ、お前はー!!」 ミツエモンがわざとらしく「ぷっくっく」と笑っている。それにつられたのか、僕の周りでも数人が吹き出した。ミツエモンの隣でカクノシンさんもくっくと笑っている。 「マー君、あのねえ」 いかにも物分りの悪い子供を教える教師のような声音で、ミツエモンが指を1本立てて見せる。 「愛称で呼び合うのは、人と人が腹を割って理解しあうための第一歩だよ?」 ほーう。……だったら言わせてもらおうじゃないか。 「なるほどねー。それじゃ僕もこれからお前を愛称で呼ばせてもらうよ。……モンモン君!」 それは言わない約束だろーっ!! 口をぱかっと開け、一瞬絶句してから叫ぶミツエモンに、エドアルド達が一斉に腹を抱えて笑い始めた。 僕も堪らず吹き出した。 溢れる笑いに、ミツエモンの頬がぷくっと膨らむ。 どんな顔をしてても可愛いよなあ、こいつって。 視界の中で、マルクスやミハエル達が分からないでいるピート達に笑いながら説明している姿が映る。 さっきまでの緊張は、とっくに跡形もなく消え去っていた。 「も、いいよ! 笑いたければ笑ってろよ! おれは平気なんだからな!」 そう宣言すると、ミツエモンは呆気に取られたままのクリスの腕を引っ張った。 「こんなの放っておいてあっちに行こうよ。お茶飲まない? おれと話をしようよ、ね? クリリン」 こらこら、なし崩しに定着させるんじゃない! →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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