エドアルドは怒りにきらきらと輝く眼差しを、そこにいない誰かに向けた。 「最初は……捕らえられたのだと思った。もうこれで終わりだと。だが…違っていた。あの男は、自分の意思で眞魔国に戻ってきたと言ったんだ。愕然とする一族の前で、けろりとした顔で……」 『よお』 ……よお…? なぜか慌てふためく父に連れられて出かけたグランツ領主の城で、エドアルドは呆然とその顔を見つめていた。 『久しぶりだ、リドゥルガの叔父御。変わりがなくて何よりだ。従兄弟殿達もでかくなったな。……おい、お前、エドアルドか。何だ、あんなにチビだったのに、ちょっと見ない内にえらくひょろひょろと伸びたじゃねえか』 『………アーダルベルト……』 すでに30年近く経って、だがほとんど記憶と変わらない姿のその男─しかし柄はかなり悪くなっている─は、悪びれた様子もなく椅子にゆったりと腰掛けていた。 大広間には、すでに父の兄達、そして一族の主だった者達がほとんど顔を揃えていた。エドアルドが不思議でならなかったのは、その場に集った一族の者達が一様に感涙に咽んでいることだった。 ……今のグランツの苦境は、全てこの男が齎したものだというのに。 『……私の館はもうリドゥルガにはないのだよ。……ああ、いや…』 そんなことではなく。父は混乱した様子で呟くと、唇を震わせた。 『ハンス……』 震える声で呼びかけてきたのは、グランツ領主、アーダルベルトの父であり、エドアルドの伯父だった。 『お前達、喜んでくれ。帰ってきてくれたのだ…。アーダルベルトがついに帰ってきてくれたのだよ……』 感極まった様子の伯父に、父が『おお…』と唸るような声を上げる。 『……それで。……魔王陛下は……』 『陛下は……』 それだけ言うと、伯父は一気に溢れてきた涙に堪えきれなくなったように、両手で顔を覆った。後はもう言葉にならない。 『昔のこたぁどうでもいいから、十貴族の一員としてしっかり働けとよ。ったくあの小僧、この俺をこき使うつもりだぜ』 …………小僧…? って……。 『バカ者、アーダルベルト』伯父が咳き込むように声を上げた。『魔王陛下を小僧呼ばわりとは何事だ! 陛下のお慈悲、ゆめ忘れるでないぞ……!』 『で、では兄上! 陛下は我らにお咎めを……』 『一切のお咎めはなしだ! アーダルベルトに対しても、もちろん我らに対しても。……王佐フォンクライスト卿より届けられた文書には、陛下のお言葉が添えられてあった。読むぞ? よいか?……余は、余の治世に多くの経験と知識を得て帰国したフォングランツ卿アーダルベルトを心より歓迎する。長年に渡り広く世界を見聞したであろうアーダルベルトは、十貴族の一員として、魔族と人間の平和と友好のため、必ずやその力を発揮してくれるものと信じている。フォングランツの一族には、当主長子の無事帰国に対し、余より祝福の言葉を贈るものである。フォングランツ一族の、余に対する忠誠心に一片の疑いこれなく、フォングランツがこの後も余と眞魔国のため、十貴族としてその義務を果たしてくれることを心より望むものである……と』 我らの名誉は回復されたのだ! 『何と慈悲深いお言葉……!』 『陛下は我らの思いをちゃんと理解して下さっておられたのだ』 伯父の叫びに、一族の者達の目から新たな涙が溢れた……。 「……まだ幼く、世間のこともよく分かっていなかった僕と違い、グランツの歴史と名誉を護り続けてきた大人達にとって、この数十年は長い日々だったと思う。決して表立って罰を受けることもなく、公式に非難されることもなかったが、それでも……。その長い日々が、まさしくあの瞬間に終わったのだと、僕も呆然としてしばらく声もでなかった……」 ほう、とエドアルドが息をついた。僕達も釣られたように詰めていた息を吐き出した。 「その…アーダルベルトという人も、きっと感激しただろうな」 「……どうかな」 『伯父上達が……魔王陛下がお許しになっても、僕はあなたを許すつもりはありません!』 その夜、内輪だけのささやかな宴の後、居間でくつろぐアーダルベルトにエドアルドはそう噛み付いた。 『あなたの勝手な行いのために、一族の皆がどれほど辛い思いをしたのか分かっておいでなのか!? それをよくもしゃあしゃあと……。無頼の生活をしている間に、恥という言葉も忘れられたか!?』 エドアルド! 傍らの父や兄達が止めるのも聞かず、エドアルドはアーダルベルトを睨み上げた。 そんなエドアルドを目をぱちくりとさせて見下ろしていたアーダルベルトは、やがてさも楽しそうに破顔した。 『人の後をちょこちょこ追いかけて歩くばかりのちびすけだったのに、一人前に言うようになったじゃねえか。……たまらねぇな、一気に年を食っちまったような気がするぜ。なあ? 叔父御。お互い老けちまったな?』 そう言ったかと思うと、アーダルベルトはわっはっはと晴れやかに笑い、呆気にとられるエドアルドの頭にその大きな掌を勢い良く乗せた、というか、頭をわし掴んだ。そしてエドアルドに振り払う暇も与えず、わしわしと髪をかき混ぜ、それからどんと背中をどやしつけた。 『許す必要なんかねえさ。俺も親父達があんまり喜ぶもんだから、少々困っちまったくらいでな。一人や2人、お前みたいなのがいた方が俺もありがたい。……これからしっかり俺を見張ってな。もしもまたお前達を裏切るような真似をすると思ったら、その時は遠慮はいらねえぜ? 剣でも何でも持って掛かって来い。もっとも……ちょっとやそっとの腕じゃあ俺は斬れねぇがな?』 「……なんか…すごい人、だな……。その、色んな意味で」 並大抵の精神というか、図太さじゃないと思う。仲間達が揃って大きく頷いた。 「まあな」 エドアルドがどこか諦めたようにため息をつく。 「誰も責めようとしないから僕が、と思って糾弾したつもりだったんだが……子供扱いされただけだったな。後から父や兄達にひどく叱られてしまった。人の情もろくに理解できない青二才が、何を偉そうに、と。まあ……確かにその通りなのだが」 だから決めたんだ。 次にエドアルドの口から出たその言葉は、不思議なほどさばさばと明るく聞こえた。見れば、それまでの怒りが嘘の様に、エドアルドはにこっと笑っている。 「これからしっかりあの従兄弟を見張っていようとな。アーダルベルトにもそう告げた。これからは、あなたの背後に僕の目があることをどうか忘れないで頂きたい。そして何か事が起きた場合には、未熟な腕であろうとも、命を懸けてきっとあなたを成敗してみせます、とね」 生意気だね。自分で言ってエドアルドは笑っている。 「その……アーダルベルト、さんは、何て?」 うん、とエドアルドが頷く。 『分かった。お前が俺の背中を見つめているのだということを、俺も肝に命じておこう。……誓うぜ、末っ子殿。お前のその目を二度と裏切らないとな』 「……これまでのことを思い出すと、その度に怒りが湧いてくる。これはもうどうしようもないな。20年以上ずっと続いてきたのだし。ただ同時に、あれだけのことをしながら堂々と帰ってきたあの男に、僕はとてもかなわないとも思うんだ。剣の腕がどうとかじゃなくてね。人としてというか…男として……。その後もアーダルベルトは立派に仕事をこなしているし」 「仕事? 十貴族としての?」 「それもあるが……何より、魔王陛下から下された新たな仕事だ」 新たな? 「君達も聞いているだろう」ここでフォンロシュフォールが口を挟んだ。「国土全体を覆う交通網の整備拡充事業だ。すでに測量を終え、工事も始まっているはずだ。フォングランツ卿アーダルベルトは、その最高司令官に任命されたのだ」 あれか! とあちこちから声が上がる。確か、とセリムも言葉を挟んだ。 「同時に上下水道を全国津々浦々まで整備する大工事じゃなかったですか!?」 その通り、とエドアルドとフォンロシュフォールが揃って頷く。 「水道!?」僕も思わず声を上げた。「あの…水道って、寮や学校にあるアレだよね? あの取っ手を捻るとお湯や水が出てくるすごいの……」 「マー君の村には水道がまだ引かれてないの? っていうか、水道のこと、もしかして知らなかった?」 ずっと黙って話を聞いていたミツエモンが、ふいに尋ねてきた。うん、と頷くと、らしくない難しい顔で腕を組む。 「……やっぱり地域格差が広がってるのかなあ……」 ……チーキカクサ……? 「さすが魔王陛下のお膝元だってびっくりしたんだけど……。アレが国中に、僕の村みたいな山奥の田舎でも作られるっていうことなのか!? もしかして、一軒一軒の家で使えるようになるとか……?」 その通りだよ、とエドアルド達が頷く。そのための大工事なんだ、と。 ……信じられない! 毎朝井戸から水を汲んでくるのは、子供の頃からの当たり前の仕事だった。冬には氷を割って冷たい水を汲むのも、夏には汗だくになって水桶を運ぶのも、誰もがしなくてはならない当然の仕事。 僕の脳裏に、寮に入ったその日、生まれて初めて目にした水道と、そこから迸る水の情景が浮かんだ。 あれが、あの恐ろしいほど便利な仕組みが、僕の村の一軒一軒の家に設置される……! 「1年や2年で完了する仕事ではない。いわば国土全体を改造する国家的大事業だからな。当初、この最高責任者が誰になるか、宮廷でもかなりの話題となった。君達も士官を目指すなら理解できると思うが、国土を覆う道路網というものは、単に道というだけではない。例えば国防という観点からみても、重大な問題なのだ。あだ疎かにできるものではない。それほどの大事業の最高責任者となれば、本人にとってもその一族にとっても大変な名誉だ。それだけではない……」 ロシュフォールがそこまで続けて、わずかに言い淀んだ。みんなの視線が集中する。 「……何年にも渡る大事業であるから、それに従事する者の数も大変なものになる。同時に……動く金も、だ。整備工事となれば必要とする資材も膨大なものとなるし、それに関わる業者、商人も多い。となれば当然、そこには競争が生じるわけだ。商売の点から見ても、これは大きな機会だからな。どの業者を使うか、必要な資材をどこからどれだけどのように調達するかも、全て最高司令官によって決定される。名目上は魔王陛下の御名において、ということだが、実際は最高司令官の裁量だ。となれば、業者がこの司令官に何とか取り入り、仕事をまわしてもらおうとするのは当然の帰結だろう。つまり……最高責任者がその気になれば、どれだけでも、その、こういうことを口にするのは僕としてはどうも下品というか……」 「なるほど! 賄賂の取り放題ってことだな!」 ホルバートがあっさり口にして、それから「下品?」と複雑な表情で視線を宙に向けた。 「まあつまり……そういうことだ。もしろくでもない者が司令官となれば、この事業はいつまで経っても終わらないだろう。長引けば長引くほどその者の懐は潤うこととなるからな」 それはそうだと皆が頷く中で、ミツエモンが1人、腕を組んだまま不愉快そうに眉を顰めている。 ……こいつってば子供だし、結構正義感とか強そうだよな。でもって間違いなく、後先考えずに羊突猛進で突っ走るやつだ。……カクノシンさんやスケサブロウさんが苦労してそうだなあ。 「だから」 フォンロシュフォールが、コレが結論だというように声を強めた。 「並大抵の人物にこの役は務まらない。一体誰が任命されるのか、皆が注目していたのだ。同時に、我こそはという者が多く手を上げたのも事実だ。任務の遂行に自信がある者もいただろうし、おそらく上手く立ち回って己の立場と懐を暖めようと考えた不届き者もいただろう。十貴族各家、もちろん我がロシュフォールからも、その大役にふさわしいと思える人物を推薦した。もちろん、最高司令官として充分な能力を有した者だ。だが……魔王陛下が御自ら任命されたのは、フォングランツ卿アーダルベルトだった。つい先日まで国家から離反し、魔王陛下の御命すら奪おうとした男を、魔王陛下は国家の根幹に関わる大事業の最高司令官に任命されたのだ」 「それはすなわち」 エドアルドが続ける。 「魔王陛下のグランツへのご信頼が本物だということの、怖れ多いことながら、証明ともいえた。その報せを、アーダルベルト本人の口から聞かされた時の一族の感激はすごかったよ。もちろん僕もだ。魔王陛下は心から僕達グランツを信じて下さっている。それが真剣に実感できて、あの時は涙が止まらなかったな……。伯父上も一族の長老達も、皆抱き合って声を上げて泣いていた。……一人、アーダルベルトだけが苦笑していたけれど……」 その時を思い出したのか、エドアルドも苦笑を浮かべている。 「それで…」ハインリヒがおずおずと口を挟んだ。「今、どうなんだい? アーダルベルト、殿の仕事ぶりは……」 「それが驚いたことに」 エドアルドが明るく笑う。 「どうも見事なまでに司令官の職を果たしているらしいんだ。僕の2番目の兄がアーダルベルトの副官の一人としてついているのだが、会うたび彼を褒めちぎっている。……商人達には、その商売の規模の大小に関わらず公平に接し、一切の賄賂を拒絶し、それでもとしつこくする者は容赦なく糾弾する。かと思えば、いつの間にか工事現場で働く下々の労働者に立ち混じって共に酒を酌み交わし、その話に真剣に耳を傾け、気がついた時には事業に関わる人々の心をすっかり掌握していたそうだ。……国を出奔する以前は、傲岸不遜という欠点もなきにしもあらずという話だったから、無頼の生活もある程度役に立ったということかもしれないな」 「エド君の期待を裏切らないようにって、頑張ってるんだな!」 いきなり飛び込んできた声、もう聞きなれたミツエモンの、に、全員の視線が集中する。 一斉に見つめられて、ミツエモンがきょとんを目を瞬いた。 「……僕の?」 呆気に取られた声で問い返すエドアルドに、ミツエモンが「もちろん!」と笑う。 「……そもそも僕は期待なんて……」 「してるだろ?」 それは、と一瞬詰まってから、エドアルドは「いいや」と首を左右に振った。 「僕の期待などじゃない。アーダルベルトが殊勝にも応えようとしているとすれば、それは魔王陛下のご期待に対してだろう」 「それもあるだろうけど……」ミツエモンが小首を傾けて笑った。「やっぱりエド君だと思うな、おれは。エド君が後ろで見てる。その視線をアーダルベルトはちゃんと感じてるんじゃないかな。昔、ちっちゃかったエド君を、エド君だけじゃないけどさ、一族皆の信頼を裏切って、長い間辛い思いをさせたってこと、アーダルベルトはちゃんと分かってるんだと思うよ。出奔してからの人生、アーダルベルトのことだから後悔なんてしてないと思う。でもそれでもやっぱり、一族の皆に対しては申し訳なかったって気持ちがあるんだよ、きっと。だからエド君はさ、アーダルベルトにとって、も二度と裏切りたくない一族の人達の、たぶん、そのー……何て言うかー……」 「象徴、ですか? 坊ちゃん」 隣からカクノシンさんが助け舟を出す。「そう! それ!」と、ミツエモンがパアッと顔を輝かせた。 「さすがコン……カクさん! それだよ、象徴! エド君に許してもらって初めて、アーダルベルトは自分を許せるんじゃないかな。だってほら、まだ許してないってはっきりアーダルベルトに言ってやったの、エド君だけなんだろ? だからエド君に認めてもらうっていうのが、今のアーダルベルトにとって、ものすごく大切なことなんだって、おれ思うんだ!」 違うかな? ミツエモンにじっと見つめられて、エドアルドは困ったように、どこかどぎまぎと視線を逸らした。 そうして僕は、笑みを浮かべたままじっとエドアルドを見つめるミツエモンを見ていた。 こいつって……。 何かすごく幼いというか、子供っぽいというか、考えなしにすっ飛んで行くやつなのは確かだと思うんだけど、時々妙に核心を突くこと言ってるよな。 鈍いかと思えば鋭くて、ガキかと思えば時折こちらがドキドキするほど深い瞳や表情を垣間見せる。 ただ可愛いだけじゃない、というんだろうか。何だろう……。 ひどく……不思議なやつ、だ……。 「……まあ、そういう経過で」 考え込むように目を伏せてしまったエドアルドに代わって、フォンロシュフォールが話を無理矢理繋げていく。 「十貴族から、いや、この国の貴族名鑑から危うく抹殺されかけたフォングランツ一族は安泰となった訳だ。そして魔王陛下のグランツへのご信頼が、怖れながら本心からのものであると知れ渡ると同時に、十貴族始め貴族社会におけるグランツへの態度も一気に変化した。アーダルベルト殿が出奔する以前の、本来の形に戻ったというか……」 そう言いながら、どこか複雑な表情を浮かべると、フォンロシュフォールがそっとエドアルドを見遣る。その瞬間をまるで待っていたかのように、エドアルドが顔を上げた。 急に気分が悪くなったとでも言いたげに眉を顰めて。 「全く」エドアルドの口から洩れる低く押し殺した声。「一気に、だったな……」 「……? エドアルド……?」 せっかく温まりかけた空気が、急にまた温度を下げたような気がする。 エドアルドがちらりと隣に座るフォンロシュフォールに目を遣った。 「……ロシュフォールのご領主も、見事に態度を変えられたな」 今度はフォンロシュフォールがきまり悪げに顔を逸らした。 「我が家を訪ねて来られて、まるで20年以上のあの日々がなかったかのように笑い、父上の手を握っておられた。グランツの名誉が回復されて本当に良かった。もちろん自分はグランツの潔白を信じていた。だが、ロシュフォールの当主として、表向きだけでも君達と縁を切ってみせなくてはならなかった。本当は私も辛かったのだ、と……」 表向き? そう呟いて、エドアルドはくっくと笑い始めた。 「20年以上30年近くにわたって、ただの一度も親しい素振りを見せなかったではないか! ただの一度も、僕達を擁護をしてくれることはなかった。かつて僕の父と親友であったことすら、認めようとしなかった。それどころか! アーダルベルトが当代陛下のお命を縮めようとしたことが発覚し、我々の立場がさらに悪化して後はどうだ!? お前の父上が僕達のことを『あの反逆者共』と呼んでいたことを、僕達が知らないとでも思っているのか!? ……それが……信じていた、だと…? 僕はあれ程まで人が白々しくなれるものだということを、あの日初めて知った! お前の父上から学ばせてもらった!」 言い放たれたフォンロシュフォールが、噛み締めていた唇をふと緩めた。 「……しかし、君のお父上は……」 「ああ、そうだ! 父は喜んでいた! 父だけじゃない、それまで逼塞しがちだった一族の者が多く王都に出かけ、身に当たる風の変化に皆喜んでいた。……怒る僕に、父は言った。気持ちは分かるが怒りを捨てろ、と。仕方がなかった。由緒ある一族の長として、フランツはそうせねばならなかったのだ。それが彼の義務だ。もし立場が逆であれば、自分もそうしただろう、と……」 『フランツは我らの友情を復活させたいと願っているのだ。かつての行いを後悔し、我らに対して申し訳ないと思うからこそ、彼はわざわざ我が家に出向いてくれたのだ。それを素直に喜ぶことは、決して恥ずかしいことではないぞ?』 エドアルド。父が穏やかな声で彼に呼びかける。 『人とは弱いものだ。護りたいものがあれば尚の事な。それを理解できるかどうか、その思いを受け入れることができるかどうかで、己の器が量られるとは思わぬか?』 『……僕は……』 『よい、お前はまだ若い。まだ子供だ。ゆっくりと考えなさい。……ところでエドアルド。フランツから申し出があってな。お前とマリーア姫とのことだが、あらためて婚約を結んでもらいたいとのことだ。どうするね? 私とすればこれ以上ない良い縁だと思っているよ。母上も同じ意見だ。長い断絶があったとはいえ、お前達は幼い頃から仲が良かったしね』 「……だが君は断った」 「僕は狭量な男だからな。とても父上達のようにはいかない……!」 「子供だということだろう?」 キッと見返したエドアルドと、開き直ったのか不適に微笑むフォンロシュフォールがにらみ合う。 ……ああまた何だか緊張感が……。 困ったなあという雰囲気のため息が、あちこちから漏れる。と。 ふいにエドアルドが不毛なにらみ合いを止め、僕達に顔を向けた。 「フォンギレンホール達が僕にどう言ったか、覚えているか?」 その瞬間頭に浮かんだのは、あの廊下での出来事だ。あの時の……。 「十貴族の面汚し。そう言ったんだ。……お前もそこにいたんだ。まさか忘れてはいないだろうな?」 言われたフォンロシュフォールが顔を顰める。そう、興奮して剣を抜こうとするフォンギレンホールを止めたのがこいつだった。 「結局、あれが本音だ。汚らわしい裏切り者。反逆者のグランツ。……当代陛下の、凡人には到底理解できない広い御心で許されたとしても、30年近くに渡って我々を反逆者の一族だと白眼視してきた者達の意識がいきなり変化するはずもない。表面的には祝いの言葉を述べ、自分達の輪に戻ってきたことを喜んでみせたとしても、それは全て魔王陛下の御心に添わんとするがためだ。心からグランツの名誉回復を喜んでいるわけではない。おそらく陰では我らの喜びようを口さがなく言い立てていることだろう。ギレンホールやタウシュミットが口にしていたようにな! あの態度、あの言葉、あの目! あれこそが我らグランツに対するこの国の貴族達の本心だ!」 人を愚弄するのもいい加減にしろ! エドアルドが叫ぶ。 「我らグランツに疚しいことなど欠片もない! それなのに、どうしてこうも貶められなくてはならないんだ! 一体あいつらの何が尊くて、そんな真似が許される! 十貴族であることがそんなに偉いのか!? 立派なのか!? やれ身分だの、血筋だのと、そんなことをやかましく言い立てる者ほど性根は腐ってるじゃないか! ウェラー卿を見ろ! ルッテンベルク師団の人々を見ろ! 真に気高く雄々しい魂の持ち主に、身分も血筋も関係ない!」 そんなもの何の意味もないんだ! エドアルドが……叫ぶ。 ……エドアルド。 どうしてなんだろう。胸が痛い。 こんな君を見ているのが、辛くて堪らない……。 「……今思えば」エドアルドがくすっと笑って続けた。「フォンギレンホールやタウシュミットは、実に正直な男だと言えるかもしれないな」 「あのような愚か者と我々を一緒にするな!」 いい加減にしろ、エドアルド! 嘲笑に顔をゆがめたエドアルドに、フォンロシュフォールが噛み付くように声を荒げた。 「父上は後悔しておられる! 真剣にやり直したいとお考えなのだ! もし君の言葉が正しければ、もし君のお父上に対しての言葉が嘘偽りであるならば……大切な一人娘であるマリーアを、君に嫁がせたいと申し出るはずがないだろうっ!!」 フォンロシュフォールが……怒鳴りつけた。 ……びっくりした。 しんと静まった部屋で、誰かの喉を鳴らす音がした。 仰天したように目を瞠いたエドアルドが、やがてばつが悪そうにぎくしゃくと目を逸らした。 「……確かに」懸命に自分を抑えるように、フォンロシュフォールがゆっくりと口を開いた。「ギレンホールのように考える者もいるだろう。だが貴族達の全部が全部そうだと考えてくれるな。僕達の様に、僕や、父の様に、できることなら時を巻き戻したいと願っている者もいるのだ。魔王陛下のご判断を、我が事の様に喜んでいる者も大勢いるのだ……! エドアルド、君が貴族達の仕打ちに怒りを感じているのは分かっている。理解もできる。だが、そのために目を曇らせることだけは止めて欲しい……」 頼む。エドアルド。 そう告げるフォンロシュフォールの瞳は、強い光を放ってひたすらにエドアルドを見つめている。 その真摯な眼差しに、僕は無意識に深く長く息を吐き出していた。 人って。 本当に完璧にはなれないんだよな。 長所も欠点も山の様に抱えたまま、うろうろうろうろ、迷って迷って生きていかなくちゃならないんだ。 身分や血筋にこだわりなく、平民の僕達とも対等に向き合ってくれるエドアルド。 身分や血筋にこだわる貴族達への果てしない怒りに、雁字搦めになっているエドアルド。 自分がどれほど強烈な選民意識に凝り固まっているか、全く無自覚のフォンロシュフォール。 頑なな思い込みに縛られて苦しむかつての親友の心を、何とか救いたいと懸命になっているフォンロシュフォール。 ああ、本当に人って……。 しんと静まった部屋で、全員がこの2人を見つめていた。 「…………すまない」 小さく擦れた声がした。うっかりすると聞き逃してしまいそうな呟きが。 エドアルドが肩を落として項垂れている。 「……エドアルド……?」 フォンロシュフォールが囁くようにその名を呼んだ。 「………すまない」今度の声はもう少しはっきりとしていた。「……あんな言い方をするつもりじゃなかった……。確かに……君の言う通りだ。魔王陛下がアーダルベルトを許されたとはっきりした直後、君のお父上は誰よりも早く僕の父の元に駆けつけてくれた。マリーアのことも……。だけど……」 それを認めるのが何だか……悔しくて。 その声が濡れているように感じるのは、たぶん気のせいじゃないだろう。 フォンロシュフォールがほうっと息をつく。 「いいんだ。分かっている。30年近くグランツ一族が蒙ってきた辛苦を思えば……君が全てを許せないと思う気持ちも分かる。……僕の方こそ、興奮して申し訳なかった」 フォンロシュフォールが立ち上がると1歩踏み出し、その手をそっと、どこかおずおずと、エドアルドの肩に乗せた。 かすかにエドアルドの身体が震える。だけどエドアルドはその手を振り払うことはしなかった。 部屋に、ほっと安堵の吐息が広がる。 「青春だぁねー」 いきなり響いた声の、あまりの能天気さに、うっと息が詰まる。 一拍置いて、全員が一斉に顔を向けた先では、スケサブロウさんが椅子の上でちょっとだらしなく足を組み、両手を頭の後ろに回す格好で笑っていた。 「つまり俺達、30年近く絶交状態だった2人の友情が復活した瞬間の、言ってみりゃあ立会人になったわけだろ? こいつはめでたい上に光栄なこった」 スケサブロウさんが軽やかに片目をつぶって、にかっと笑う。 と。数瞬きょとんと目を瞠いていたエドアルドが、一気に顔を真っ赤に染めたかと思うと、ばね仕掛けの人形の様に飛び上がった。 「すっ、すみませんっ!! ぼく、僕は、何て……。あ、あの、一人で興奮して埒もないことをべらべらと……! 本当に、その、恥ずかしいです。まさかこんな……。あ、あの、申し訳ありません! ええっと……皆も……すまない。さぞ迷惑だっただろう? ど、どうしてこんなことになってしまったのかな……?」 赤面したまま、しどろもどろのエドアルド。これはこれでなかなか見応えのある姿だとは思うけど。 「いや、君だけの責任ではない」友情篤いフォンロシュフォールがすかさず助っ人に入る。「僕も一緒になって興奮して、話し続けていたのだからな。……諸君には関わりのない話を延々と聞かせてしまった。さぞ聞き苦しかっただろう。申し訳ないことをした」 「いや、そんなことはないよ」 そこで2人の謝罪を穏やかに遮ったのはシュトレーゼン・ピートだ。 「正直、宮廷や十貴族の中で何が起きているのかなんて、僕達のような田舎貴族にはさっぱりだからね。届くのは噂話の類ばかりだし。思いもかけない内輪の話を聞かせてもらえて、田舎者の好奇心はすっかり満足したよ」 ふざけた仕草で両手を掲げ、にこっと笑うと、あちこちから笑いが洩れた。 「……十貴族も普通なんだなあ……」 ハッと気付くと皆の視線が僕に集中していて、そこで自分がつい口走ってしまったことに気付いた。 「あ、えーと、ご、ゴメン! ヘンな意味じゃなくて……」 考えて口に出した訳じゃないからどうにも言葉にならなくて、僕は時間稼ぎに頭を掻いた。 「えっと……いや、僕なんて平民で、田舎の村のパン屋の息子だからさ。十貴族なんて、魔王陛下やウェラー卿と同じように、物語の登場人物としか思えなくて。つまり…僕達にとっては雲の上の、遥か高みにいる人達なんだよね。そんな高い所でお暮らしの人達からすると、世界は僕達と違ったように見えるんだろうし、考え方も感じ方も何もかも違うんだろうって漠然と信じてたんだ。姿を見たら目が潰れてしまうほど輝いていて、下々の言葉なんてきっと通じないだろうって……」 でも違ってたんだな。 目の前に、紛れもない十貴族の2人がいて僕を見ている。同じ高さの同じ場所で。僕も2人を見返した。 「十貴族だって平民だって、皆同じなんだな。身分も立場も、それから確かに考え方も言葉遣いも生活も、違うところは山の様にあるけれど、でも……笑ったり泣いたり怒ったり、そんな、何ていうのかな、気持ちっていうか、感情っていうか、心っていうか……そういうもののあり方は、皆同じなんだなって……思ったんだ。家族を思う気持ちとか、友情とかもね。……確かにちょっとびっくりしたけど、でも……何にも知らないままでいた時よりも、ずっと君達のことが親しく感じられるよ。それがさ、僕は今何だかとっても嬉しい気がするな」 そう言って笑いかけると、エドアルドも照れくさそうに笑みを浮かべた。フォンロシュフォールも、そんなエドアルドの様子にホッとしたように微笑んでいる。 ふいにポンと背を叩かれた。 見ると、ホルバートが傍らに立ってにやっと意味ありげに笑いかけてくる。何だよと言い返そうとして…気がついた。 仲間達はもちろん、今日初めてまともに話ができたピート達や、それにミツエモンにカクノシンさんにスケサブロウさんも、皆してにこにこと笑みを浮かべながら僕を見ている。 ……何だか急激に気恥ずかしくなってきた。 似合いもしないのに語っちゃったし。 どうにもいたたまれない気分でいたら、くすくすと笑い声が聞こえてきた。あの声は。 「いやー、若いってなぁ良いモンだねー。俺もぴっちぴちだった頃を思い出しちまったぜ」 ………やっぱりスケサブロウさんが、何とも楽しげに笑っている。 「つっても、俺がお前さん達くらいの頃は、世界中を敵にまわしたような気になってたっけ。不用意に近づいてくるやつがいねえか、もしいたら傷つけられる前に傷つけてやるっていつもピリピリと周囲を見回してた。けどそんな俺にも良い仲間がいっぱいいたぜ。一緒になって笑ったり泣いたり怒ったり、大喧嘩して殴り合って絶交した次の日にはまた一緒になって酒を飲んでたりな。……なぁ、た…カクさん。」 スケサブロウさんが隣に座るカクノシンさんに呼びかけた。 「こいつら見てると、純情可憐だったあの頃を思い出したりしねえか? なーんか懐かしくなってきちまったぜ」 「誰が純情可憐だったのかは知らんが、勝手に懐かしがってろ。俺は昔を懐かしがるほど年を取った覚えはない」 すっぱり切り捨てるカクノシンさん。「あ、ひでー」と、スケサブロウさんが大げさな身振りで言い返す。 この2人の掛け合いと、ミツエモンが隣から「カクさんもスケさんもまだまだぴっちぴちだよー。若者だよー。青春真っ盛りじゃないかー」と一生懸命訴える健気さが楽しくて、気がついたら僕も、そして皆─エドアルドもフォンロシュフォールも─も一緒になって笑い出していた。 「……本当にどうしてこんな話になってしまったのかな」 ひとしきり笑いあった後、エドアルドがまだ照れた顔のままそう言った。 「そう言われれば……どうしてだろうな」 フォンロシュフォールも首を傾げ、それから何となく皆が顔を見合わせて、そして……。 全員が一斉に顔を向けた先はミツエモンだった。 「……え? おれ?」 自分を指差して、ミツエモンがきょとんと目を瞠いている。 「おれ、何かした? 何言ったっけ?」 「よく覚えてないけど」答えるのは僕。「全ての始まりはお前だったような気がする」 「えー!? おれ全然覚えてない!」 あれ? あれ? と右に左に首を傾けるミツエモン。にこにこ、にやにや笑って、でも何の助け舟も出さないお供の2人。 「きっかけなど別にどうでもよいのではないか? 思いもかけず胸に溜まったものを吐露することが叶って、僕は良かったと思う。もちろん君もそうだろう? エドアルド」 フォンロシュフォールの問いかけに、エドアルドも頷いた。 「ああ。……あんなに興奮してしまって、今思い出しても顔が熱くなるのだが……。でも、そうだな、確かにすっきりしたような気がする。……君とこんな風に話をしたのは本当に久しぶりだな、アーウィン」 エドアルドに笑いかけられて、フォンロシュフォールも笑顔を返す。2人の、何よりエドアルドの笑顔の明るさが、僕は何だかとても嬉しかった。 「………あーっ!」 ……いきなりこんな声を出すのはただ一人だ。 振り返れば、やっぱりミツエモンがこちらに背を向け、壁に向かって指を突きつけている。 「うわ、いつの間にか、ほら!」 え? と見ると、ミツエモンが指差しているのは壁じゃなく、厚いカーテンを下ろした窓だった。 そのカーテンの隙間、細い縦の線がほの白く光っている。 ミツエモンがたたっと窓に駆け寄り、勢い良くカーテンを引いた。 「………あ!」 白い光が、さあっと部屋に差し込んでくる。燭台の灯に慣れた目が、眩しさに一瞬眩む。 「朝だ! 何だかあっという間だったね」 おれ、お腹が空いた! と元気に主張するミツエモンの声を聞きながら、僕は胸の内を不思議な感覚が満たしていくのを感じていた。 そう、まるで、長い長いトンネルを抜けて、ようやく外に飛び出すことができたような。 今、生まれ直したような。 ……それはたぶん、僕だけの感覚ではないのだろうと思う。共に一時を過ごした者同士で共感する、大切な友人への思い……。 傍らに目を向ければ、エドアルドがやっぱり目を細めて差し込む朝陽を見つめている。その横顔が、ふと僕に向いた。 笑いかける。笑い返される。 朝陽の中の屈託のない笑顔に、胸がふわりと軽くなった。 ……それにしても。 長いような短いような不思議な夜だったなあ……。 うんっと思い切り背伸びをした。ほうっと息が洩れる。 宝物警備、初日の夜がこうして終わった。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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