ルッテンベルク師団。 眞魔国人なら知らないもののない、伝説の軍団。 かの人、ウェラー卿コンラート閣下に率いられ、滅亡の淵に立つ魔族を救った、救国の英雄達。 紛いもの。混ざりもの。そう自分達を蔑んだ同胞を、命を懸けて救った史上最強の戦士達。 ………今はもう、存在しない……。 「あなた方はルッテンベルク師団の方なのですね!?」 そうエドアルドが叫んだ瞬間、部屋の中を驚愕の沈黙が満たした。 瞠くというよりは、目を剥き、顎を落とした仲間達が一斉に、視線を一点に向ける。 僕もまた呆然と、ほとんどもう頭を真っ白にして目の前に座る人たちを、困ったように苦笑を浮かべて顔を見合わせるカクノシンさんとスケサブロウさんを見つめていた、と思う。 アルノルドの一言を口にしたミツエモンは、僕達の形相に驚いたように目を瞬かせ、きょろきょろと皆を見回し、しばし考え込んでから、ハッと気付いた様に口を両手で押さえた。……遅すぎる。 部屋に満ちた沈黙は間もなく臨界点を超えた。 う。 うわ。 うわぁぁ……! 腹の底から湧き上る熱く滾ったものが、狭い喉を通過してさらに濃く熱く渦巻き、それが叫びとも悲鳴ともつかない声となって口から溢れ出ていく。 「……ルッテンベルク師団! ほ、本当に…!? 「す、すごい……! 信じられない!」 「お会いできて嬉しいですっ!」 全員が一斉に立ち上がり、カクノシンさんとスケサブロウさんの前にどっと集まってきた。 3人を取り囲んでいたピート達も、勢い良く立ち上がる。 「……あのっ!」 中流貴族達の中から一人、無我夢中といった顔で飛び出してきた同期生がいた。 カクノシンさんとスケサブロウさんの前に立つと、そっくり返るような勢いで背筋を伸ばす。 「ぼ、僕の叔父が! 援軍としてアルノルドに赴き、一番最初にルッテンベルク師団と合流した隊に所属しておりました! おじが……僕の、叔父が……」 興奮して息が続かなくなったそいつが、咽るように息を吸うと、再び背筋を伸ばした。 「叔父が…言っておりました。ルッテンベルク師団の方々と合流して先ず何より驚いたのは、一人残らず傷つき、疲れ果てていたはずにも関わらず、全員の目が炯々と輝き、その戦意にわずかの衰えもなかったことだ、と。もし我々が敵味方に分かれていたならば、彼らによって、自分達は間違いなく全滅させられていたであろうとも……。叔父は、恥ずかしかったと言っておりました。郎党に綺麗に洗わせ、火熨斗まで当てた軍服と磨いた軍靴を身につけた自分が、恥ずかしくてたまらなかったと。ろくに戦場に出ることもなかったのに、いっぱしの軍人気取りでいた自分を、その時初めて恥ずかしいと思ったと、そう言っておりました。ルッテンベルク師団、彼らこそが本物の戦士、眞魔国が誇りとすべき偉大な戦士達だと思ったそうです。身体は傷つき血と泥に汚れ果てていても、その魂は誇り高く輝く魔族のもの。……自分達はこれまで何と恥知らずであったかと……。隊の司令官も叔父達も、皆さんを前にして、ただ敬礼する以外しばらく何も言葉が出なかったと、僕に教えてくれました。お前も眞魔国の武人として生きるならば、ウェラー卿コンラート閣下と、そしてルッテンベルク師団の名を決して忘れてはならないと、叔父に会う度、僕はそう諭されてきました。僕は…ずっと……」 ずっと、憧れてきた方々とお会いできて、心から光栄に存じます! 感極まった様子のそいつが、ビシッと音がするような勢いで敬礼する。 その思いは一瞬で全員のものとなり、僕も、僕達もまた一人残らず(フォンロシュフォールもだ…!)、目の前の伝説の英雄達に思いの丈を込めて敬礼した。この国に、同胞に、あなた方がおいでになった事を、心の底から幸せに思います、と。 「……照れちまうねぇ……」 カクノシンさんとスケサブロウさんが紛れもない苦笑を交し合い、ちらっとミツエモンに目を遣り(その瞬間、ミツエモンはひゅっと小さく首を竦め、申し訳なさそうに胸元で手を合わせた)、仕方がないといった様子で立ち上がると、それでもきちんと答礼してくれた。 ……ああ、強いはずだ。 強くて当然だ。 ルッテンベルク師団。わずか4000人で、3万を越える大軍に立ち向かい、一歩も引くことなく戦い抜いた戦士達。彼らの勇姿(そう呼ぶには、あまりに悲壮であまりに悲惨なものだけれど)が全ての魔族に反撃の力を与え、ついには劣勢を跳ね返し、祖国に勝利を呼び込んだんだ。 まさしく救国の英雄。 だけど、その9割以上が戦場に散り、生き残ったのはウェラー卿始めほんのわずか。常に攻撃の先頭に立って戦ってこられたウェラー卿もまた、瀕死の重傷を負われ生死の境をさまよわれたと聞いている。 その師団で、その戦いで、生き残ってきたこの2人……! すごい人達だとは思ってたけど、まさかここまですごい人達だったなんて! こんな幸運、本当に信じられない……! 「ほらぁ坊や達、もういいだろう? 気恥ずかしいからそこまでにしてくれって」 スケサブロウさんがひらひらと手を振って、僕達の興奮を鎮めようとしてる。 「大体なあ、俺達はただもう生き延びるために死に物狂いで戦った、それだけなんだぜぇ? 最前線ってのはどこもそんなモンさ。褒めてもらえるのはありがたいが、正直魔族の魂だの誇りだの、考えてる暇はなかったね。んな感動の言葉、俺はいらねえからたいち…ウェラー卿の前でやりな」 「ウェラー卿に直接なんて、そんなこと……っ!」 悲鳴のような声があちこちから飛び出した。 ウェラー卿コンラート閣下とお話する…? 魔王陛下の名付け親にして保護者にして側近中の側近にして、眞魔国史上に燦然とその名を輝かせること間違いなしの偉大なる英雄と!? できる訳ないだろっ!! 僕達(エドアルドやフォンロシュフォールまでも!)は、ただふるふると首を左右に振った。 やれやれ。苦笑を浮かべてスケサブロウさんが肩を竦める。 「あの! ルッテンベルク師団の戦いについて、教えて頂けないでしょうか? ぜひ……!」 同期生の一人が上げたその言葉に、思わず全員が身を乗り出した。しかし、カクノシンさんはいつも通りの穏やかな表情のまま、きっぱりと首を左右に振った。 「君達が今しなくてはならないのはあれを」と、カクノシンさんの視線が魔石の花に向く。「護ることだろう? お茶やお菓子を配っておいて言うことではないかもしれないが、先ず何よりも今すべき任務を第一に考えなくてはいけないと思うな」 「任務を果たしながらでも話を聞くことはできる」 偉そうに反論したのはフォンロシュフォールだった。 こいつがかなり選民意識の強いやつだってのはもう分かっているけど、どうやらウェラー卿やルッテンベルク師団に対する畏怖や尊敬の念は僕達と少しも変わらないらしい。…ちょっと、いや、かなり意外だ。 「ロシュフォールからも援軍に加わった者は多くいる。彼らから僕も様々な話を聞いた。ルッテンベルク師団が結成された経緯はわが国の歴史における恥だが、その存在は華だ……と評すれば貴公らは怒りを覚えるかもしれないが……魔族の偉大さと高潔さの象徴として、忘れてはならない存在だと僕は考えている」 ……何かズレてないか、こいつ……? 決して間違っている訳でも、相手を貶めている訳でもないはずなのに、なぜかいつも素直に賛同できないその言葉に、数人が不思議そうに首を傾げた。そんなフォンロシュフォールの言葉に、でもカクノシンさん達は怒ったりはしなかった。ただ小さく吹き出して、苦笑を深めただけだ。 ……大人、なんだよなあ、きっと。 「…あの、よろしいでしょうか」おずおずと発言したのはエドアルドだった。「お2人は、では…ウェラー卿ともお知り合いでいらっしゃるのでしょうか…?」 普段の姿からは思いも寄らないほど目を輝かせ、興奮に頬をほんのり染めているエドアルドの質問に、一拍置いてから全員が「ああ!」と熱い声を上げた。 親父のホラとは全く違う。本当にかの英雄と共に戦った人達なんだ、この2人は…! ああ、だんだんエドアルドの興奮が移ってきたような気がするぞ。 「え、エド君ってさ!」ミツエモンが大急ぎといった様子で口を挟んでくる。「コ…ウェラー卿のファン……えーと、ウェラー卿が好きなの?」 「すっ、好きだなんて、そんな恐れ多いっ!!」 悲鳴のような反論に、ミツエモンが仰け反る。……エドアルドの反応は当然だよ。そもそも! 「『好き』とか『嫌い』とか、そういう次元で語るべき人物ではなかろう、ウェラー卿コンラートという方は」 不愉快そうに言い放ったのはフォンロシュフォールだ。……驚いた。初めてぴったり意見が合った。 フォンロシュフォールの言葉に、今度はエドアルド始め全員が、全くその通りだと頷いている。 「現在眞魔国の頂点には、ユーリ陛下の御世を支える方々が、綺羅星のごとく揃っておいでになります」 目を閉じ、心にあるものを噛み締めるようにゆっくりと言葉にしていくエドアルド。 「ですが僕にとって、ウェラー卿を凌ぐ方はおいでになりません。僕からすれば、ウェラー卿は魔王陛下同様、今この時同じ敷地の中においでになるとは到底思えない、いえ、地上に存在することが信じられないほどの高みにおられるお方です。僕は、このように申しては魔王陛下への不敬と取られるかも知れませんが……」 誰よりも、ウェラー卿コンラート閣下を尊敬申し上げているのです。 まるで恋の告白のような恭しい口調に、僕を含め何人もの口からため息が洩れた。 「……不敬とはいえないだろう」フォンロシュフォールが言う。「ウェラー卿が救国の英雄であることは疑いようがないのだからな。わが国の仇敵大シマロンをたった一人で滅亡に追いやった手腕は、もはや武功などという生易しい表現で済むものではない。あれほどの人物を尊敬するのは、武人としてむしろ当然のことだ。エドアルドの気持ちは、僕もよく分かる。それに、魔王陛下に対し奉りての我らの忠心は、尊敬などという簡単な一言で表されるものではないだろう」 確かにその通り。 僕もウェラー卿を尊敬申し上げている。 あの方こそ武人の鑑、真の英雄だ! 同期生達が口々にそう声を上げた。 「当代陛下の御世に生きることができる幸運を思わぬ日はありません。同時に……僕は、ウェラー卿コンラート閣下という方と、同時代に生きることができる幸運を、眞王陛下に感謝申し上げない日もまたないのです。……まるで、古の物語に描かれた英雄もかくやとばかりの勲の数々。しかしあの方は、伝説に彩られた古の英雄などではありません。あれほどまでに完璧で、万能な方でありながら、ウェラー卿コンラート閣下は、今僕達が生きているこの現代、同じ空の下、そしてこの血盟城の同じ敷地の中で、生きておられるのです。僕達はあの方と同じ空気を吸っているのです! ……今はきっとお休みになっておられるのでしょうが、夜が明ければまた魔王陛下の御為に一日をお過ごしになられるのだと……。それを思うと不思議なほどに感動して、胸が震えます……」 それだけ言うと、エドアルドはほうっと息をついた。ウェラー卿へのその気持ちは、僕も実感としてよく分かる。 親父がさんざん名前を口にしていて、ちょっと間違った親近感を抱いてもいたし、姉貴の本も(内容は笑い話だったけど)読んだし、学校の教科書に取り上げられたと聞いて、それも見せてもらった。だからウェラー卿コンラート閣下という、まるでお伽噺の主人公のような英雄が、今この瞬間も生きていて、その人と同じ空の下で呼吸してるんだと考えるだけで、胸がときめいたのを僕も覚えている。 「エド君って、ホントにコン…ゴホゴホ、えーと、ウェラー卿のことを尊敬してるんだー」 ミツエモンが感心したように、しみじみとそう言った。 その隣でカクノシンさんが、何となく困ったような顔で小さく息をつくと、そのまた隣でなぜかそっぽを向いてお腹を押さえているスケサブロウさんの背中を睨みつけて………あ、今、軽く蹴りが入った。見ちゃったぞ、僕。……何だろう? ルッテンベルク師団の生き残りにしか分からない、隠された謎とか秘密でもあるんだろうか? 「でもさ」 お供のやってる事に全然気付いてないミツエモンが、不思議そうな顔でエドアルドを見上げた。 「グランツにはアーダルベルトがいるだろ? アーダルベルトを尊敬するってことはなかったの……」 「それは一体何の冗談だ?」 その瞬間、部屋の温度が一気に急降下したような気がした。 つい今しがたの、ウェラー卿への尊敬と憧れを語っていたエドアルドの口から、同一人物とは思えない、冷たく硬い声が吐き出される。 「…え? え、あ……あのー……あ、もしかして、アーダルベルトが国を出奔したことで……」 ミツエモンのまん前に、エドアルドがずいっと迫るように立った。ミツエモンが口を開きかけたまま固まる。 「そういえば、初めて会ったときもあの男のことを話していたな。……アレと親しくしているとか…? 君の家の客なのか? それとも……」 おい、どうしたんだ? 側にいたホルバートがエドアルドの二の腕を掴んで声を掛ける。 どうしたんだろう、エドアルドらしくない。…といったら、今日のエドアルドはらしくないことばかりだけど。 それにしても…アーダルベルト? どこかでこの名前、聞いてるよな……。 「ちょっと顔を知っているというだけだ。親しくしている訳では、別に全くこれっぽっちもない」 気がついたらカクノシンさんが立ち上がっていて、穏やかに微笑みながら妙にきっぱりと断言した。 「…あ」エドアルドが赤面して、小さく頭を下げた。「すみません、つい……」 「坊ちゃんは、お年もお若い。前のあの戦争をご存じないんだ。もちろん、彼のことも良く知っているわけではない」 ……戦争を知らない? 僕は見かけ80歳ほどのミツエモンを見た。 確かに…混血で、僕達よりずっと年下だということは聞いている。でも戦争を知らないとなると……。 「坊ちゃんはまだ、16歳なんだ」 …………。 …………。 「………じゅう、ろく…っ!?」 我ながら素っ頓狂な声が出た。全員の頭がざっと動く。一斉に視線を向けられたミツエモンは、これまたびっくりした顔でこくこくと頷いている。 「16歳といえば、僕の末の妹よりまだずっと幼いではないか」 何ということだ、とフォンロシュフォールが大げさな仕草で天を仰いだ。 「な、何だよーっ、子ども扱いすんなよっ!」 皆の表情に気付いたのか、ミツエモンが顔を真っ赤にさせて怒り出した。 子供だよ。 平均寿命400年の魔族人生。16歳で成人することになってはいるけれど、ほとんど名前ばかりで実態は子供。いや、幼児だ。……どうりで、やることなすこと子供っぽいって思ったよ。 「勘違いしてもらいたくないんだが」 一気にちっちゃな子供を見る目に変化した僕達の様子に、カクノシンさんが言葉を挟んだ。 「俺もそうだったが、混血は生まれてからしばらく、人間と同じように成長する。坊ちゃんもそうだ。それは肉体的なものだけじゃなく、精神も同じなんだ。魔族の16歳と一緒と考えるのは誤解を生むのでやめてもらいたい。坊ちゃんは今その精神も、人間の16歳と同じなんだ。人間の16歳は、魔族のほぼ80歳。つまり坊ちゃんの精神年齢は君達と大差ないということになる。坊ちゃんを幼い子ども扱いするのは止めてもらいたいのだが」 ……大差ない、かなあ……? そう首を捻りつつミツエモンを見れば。 「………う」 思わず絶句してしまった。 ミツエモンは……。 両手でぎゅっと拳を握り、唇を噛み締め、でっかい目をさらにでっかく瞠いて僕達を、それも上目遣いでじーっと見上げていた。その目が……涙目で、うるうると揺れていて……。 しん、と部屋が静まり返る。 やがて、コホコホという遠慮がちな、そしてかなりぎくしゃくとわざとらしい咳払いがあちこちから起き、ため息をついたり深呼吸をしたり、気の抜けた照れ笑いをしたり、頭を振ったり掻き毟ったりする音がして……硬直していた時間がようやく流れ始めた。 「……えー…っと、あのぉ」 誰も最初の一声を上げないので、仕方がないから僕が勝手に代表することにした。 「そう言われてみれば、確かに、その……人間の成長というのは、心身共にとんでもなく早く進むのでした、よね。だからその……カクノシンさんもそう仰ることですし……僕は、ミツエモン、君を、子供扱いしないとお約束します」 「……ホントに……?」 ミツエモンが小首を傾げてそう問いかけてくる。……だから! そんな目で見上げるなってのっ! 「本当だってば! あ…えーと、皆ももちろんそうだと思うぞ。な? 皆、な? そうだなっ!」 「……あ、う、うん、そう、そうだね!」 「そ、そうだ、うん、確かに…! 僕も、お約束します」 「確かに年齢だけで幼いと決め付けるのは認識が浅い。浅いが、しかしお前の場合……あ、いや、いい。その……80歳とは思えないが、60…5、あー、70歳相当と判断するにやぶさかでない、と思う」 セリムが、エドアルドが、それからかなり苦しそうにフォンロシュフォールが言った。 「……みんなは…?」 今ひとつ疑わしげな目で、ミツエモンが上目遣いのままぐるっと全員を見回した。波打つように仰け反る一同。 「大丈夫ですよー、坊ちゃん!」スケサブロウさんが助っ人に入ってくれた。「皆すっかり坊ちゃんとお友達ですから! そうだろぉ? 坊や達?」 きらりとどこか危険な光が瞬くスケサブロウさんの瞳に、僕達は一斉に勢い良く、何度も頭を上下に振った。 「ほらねー。だから安心して下さいね〜、坊ちゃん。それにー」 坊ちゃんを泣かせて無事に朝陽を拝めたヤツなんて、この世に一人もいませんから〜。 うん! とにっこり笑うミツエモン。背筋をつうっと氷の塊が滑り落ちていったような気がしたのは、たぶん僕だけじゃないと思う……。 ……とにかく。一刻も早く、話を変えた方がいいような気がする。 このままだと、何だかものすごく危険─身の危険というより、何だろう、もうちょっと違った意味での─な感じがする。 ルッテンベルク師団やウェラー卿の話は……ものすごく聞きたいけど、どうも話してくれなさそうだし。これは改めてお願いするとして。 ……ええと。どうしてこうなったかと言うと……。 そうだ。エドアルドだ。 「…お、おい。エドアルド」 声を掛けると、エドアルドがまだどこかぽかんとした顔で見返してくる。……ったく、ホントにいつもの冷静さは、一体どこへ行ったんだよ! 「それで?」 「……何が?」 「だから……。そろそろ話を戻した方がいいと思うんだけど」 「………何の話、だったかな……?」 考えろよ! 「だからその! えーと……ああ、そうだ、確かアーダルベルトとかいう人の話をしてたんじゃないか!」 思わず上げた大きな声に、エドアルドより先にミツエモンが「あ!」と顔を上げた。 ようやくそこに思い至ったらしいエドアルドが、一気に嫌そうに顔を歪めて、なぜか僕を睨みつける。 「……エド君はさあ」 わずかの時間を置いて、ミツエモンがおずおずと言葉を挟んできた。 「アーダルベルトがキライなのか……?」 「フォングランツ卿アーダルベルト、あの人は……グランツの現当主、僕の叔父の長男だ」 そうエドアルドが話し始めたのは、何だか心臓に悪いイロイロなことがやっと治まって、お茶を淹れ直し、それが行き渡り、ようやく座が落ち着いてしばらくしてからだった。 「僕には従兄弟に当たるが、年齢はかなり開いているな。本来ならとうに当主の座についていてもおかしくない、いや、あの時何もなければ、今頃当主となっていたはずの人だ」 「あの時?」 質問したのは僕だ。何も知らないんだな、とエドアルドが僕を見返す。知らない? 何を? 「……前の戦争が終わる直前、だ。あることが起きて、アーダルベルトは十貴族の、魔族の武人としての責務の一切を放り出して……眞魔国を出奔したんだ」 「出奔!?」 「またどうして?」 口々に問いかける僕やホルバート達に、エドアルドは不愉快そうな様子で眉を顰めた。 「……眞魔国で知らないものはいないと思っていたよ……」 って、いくら十貴族の跡取りの不祥事とはいえ、それはちょっと……。 「まあ、割と有名な話だからね」 答えたのはハインリヒだ。……地方の下級貴族でも知ってる話なのか……。 「十貴族の若君が、戦争に嫌気がさして国を飛び出したって。でも本当のところは良く知らない。こういう話は色々と尾ひれがつくものだしね」 「戦いに嫌気がさして、というのは少し違うな。何せあの人は……」 『武門のグランツ』を体現するような男なんだから。 冷笑するようにエドアルドが言う。 「筋骨隆々、顔も身体もどこもかしこも逞しく、偉丈夫とはまさしく彼のことだと今でも思う。見かけばかりではなく、剣の腕も並外れて立ったし、頭も良かった。指揮官としても当時、フォンヴォルテール卿やウェラー卿と比べても遜色ないほど優秀な人物だった、はずだ。誰もそれを疑っていなかったし、文字通り一族の誇りだった。僕も……まだ子供だったが、あの人の従兄弟であることが自慢でならなかった。グランツは十貴族でも最高の一族だと、何の疑いもなく信じていた。……信じていられた」 「実際」カクノシンさんが優しく言葉を挟んだ。「彼は、実に武人らしい武人だと当時の俺も思っていた。十貴族の誇り高さと、兵士達の信頼篤い豪放磊落さの両方を自然に兼ね備えた稀有な男だとね」 「それほどの人物が、どうして…?」 僕の質問に、エドアルドがきゅっと眉間に皺を寄せた。 「当時彼には婚約者がいた。フォンウィンコット家の姫だ。その方は眞魔国3大魔女に数えられるほどの強力な魔力の持ち主で、その力故、生まれつき盲目という障害がありながら、戦地に赴かなくてはならなくなったんだ。そして……亡くなられた」 「それは………」 事情を知っている者も知らない者も、皆が沈痛な面持ちで頭を垂れた。 「その姫君の死については、僕も詳しい事情を知っている訳ではない。遺体はある事情があって、その地で荼毘に付されたという話だし…。ただ、どうも我が方の作戦行動に何か不手際か、もしくは問題があって、それに彼女は巻き込まれてしまったらしい、ということだ。つまり……十貴族の姫君としては、かなり理不尽な死を遂げた、ということになるのかな。それを……アーダルベルトは許せなかったんだ」 「許せなかったって……」 「彼女の死が、許せなかった。……彼女を死なせた無能な部隊が許せない。指揮官が許せない。彼女を死に至らしめた者、助けることができなかった者、その場に居合わせた全ての者が許せない。そんな者達が罰せられないのが許せない。罰しようとしない司令部が許せない。司令部を構成する貴族達が許せない。貴族の頂点にいる無能な摂政が許せない。摂政に全てを任せる魔王陛下が許せない。そして……魔王陛下を玉座に据えた眞王陛下が許せない……」 それは、と誰かが唸るように言って、それから再び沈黙が広がった。 「それで、出奔を……?」 僕の質問に、そうだ、と、エドアルドが頷く。 「ルッテンベルク師団の方々が帰国する直前だったはずだ。突如として姿を消してしまった」 何だか……すごい。 「…その人」おずおずと声に出したのはマルクスだった。「そのお姫様のこと、本当に好きだったんだね」 好きで好きで。だから彼女を奪った世界そのものが許せなかったんだ……。 「すごい、や……。祖国や家族や…十貴族の誇りも名誉も何もかも捨てられるほど、人を好きになれるなんて……」 ちょっと憧れてしまいそうだ。 「それで終わればな」 エドアルドが吐き捨てるように言った。 「ただ出奔したというだけなら、もしかしたら眞魔国文学史上に残る純愛物語で終わったかもしれない」 そう言うと、自分の言葉がさもおかしかったかのように、くすくすと笑い出した。 「エドアルド…?」 問いかけると、ふいに笑うのを止めてそっぽを向いてしまう。 「エドアルド…」 エドアルドは答えない。困ってしまって、何となくセリムやホルバートといった仲間同士で顔を見合わせた時だった。ふう、というため息が別の方向から聞こえてきた。 「フォングランツ・アーダルベルトの怒りは、眞魔国全体への憎しみになっていった、のだな」 説明を続けたのはフォンロシュフォールだった。 「彼は……人間の国へと奔り、何と魔力を捨てて法力を身につけ、そして……魔族撲滅を標榜する人間達に組し、打倒眞魔国の活動を始めてしまったのだ」 「…っ! う、嘘だろっ、いくら何でもそんな……っ!?」 僕達平民組と、それから詳しい話を知らなかった数人が、目を剥いて声を上げた。 いくら愛する人が戦死してしまったからって……! だってそれじゃ……。 「反逆者……じゃないか……」 「その通りだ」 エドアルドが顔を上げ、きっぱりと言った。 「フォングランツ・アーダルベルトは反逆者だ! あの男は、それ以来延々眞魔国に敵対的な行動を、それもあからさまに取り続け、グランツの名を地に叩き落した…! それだけじゃない! ユーリ陛下がご即位あそばされてからは何度も! ある時には直接剣を抜き、その尊いお命を奪おうとすらしたのだ……!」 前言撤回。 誰が憧れるか、そんなヤツ。 「だって、戦争だったんじゃないか……! だったら、大切な人を亡くした人はそいつだけじゃない……っ!」 「その通りだ、マチアス!」エドアルドが叫んだ。「君の言う通りだ!」 「戦争だったんだ。国中に理不尽な死が溢れていた…! 大切な人を失い、許せないと絶叫した人々がどれほどいたことか…! リーベンルーフ教官殿の弟御にしてもそうだ! あんな理不尽な死があるか!? 許せるか!? アーダルベルトだけじゃないんだっ! それに……理不尽といえば!」 ウェラー卿コンラート閣下が、そして混血の魔族達が受けた仕打ちこそ、まさしく理不尽ではないか!? エドアルドの、ほとんど絶叫といってもいい叫びが部屋に響いた。 「ウェラー卿は、魔王陛下のご次男としてお生まれになりながら、お父上が人間であったというただそれだけで、そのお人柄も才能も一切が無視され、差別され続けてきたんだ! 貴族としての身分は最下級、士官学校では、今のマチアス達よりもさらにひどい扱いを受けていたと聞いている。実の叔父はもちろん、宮廷でもあからさまに軽んじられ、そしてついには……ルッテンベルク師団の指揮官として、悲惨な差別を受け続けてきた混血の魔族達と共に、死地へと送られてしまった。それでも……! ウェラー卿が、国を恨んだか!? 裏切ったか!? 混血達は、自分達を差別し、抹殺しようとする者達に剣を向けたか!? それどころか!」 国を護るため、家族を護るため、魔族の一員としてその誇りを護るため、命を懸けて戦い抜いたじゃないか!! ……本当にその通りだ。 単に救国の英雄と持て囃されるだけじゃない。ウェラー卿始め、ルッテンベルク師団の人達には、僕なんかには窺い知れない辛酸を舐め続けてきたんだった。 ようやくそれに思いを致したように、皆が粛然と姿勢を正し、改めて心からの尊敬の念を込めて、カクノシンさんとスケサブロウさんに身体を向けた。 「……あまりにも、違いすぎる。アーダルベルトとウェラー卿……。時間が経てば経つほど、アーダルベルトの所業と、ウェラー卿の功績の全てを知れば知るほど……恥ずかしくて、情けなくて……。偉大な武人だと信じてきた従兄弟が、ウェラー卿の足元どころか、影にも寄れないほど愚かで浅ましい男だと、そんな男と同じ血を引いているのだと思うと……。それなのに、叔父上は結局あの男をグランツから放逐すると宣言することもなさらなかった……」 エドアルドの表情が、今にも泣きそうに歪んだ。 「それほどまでに…大切な息子だったのだ、アーダルベルトは。叔父上にとって自慢の息子、十貴族の中でも無骨なばかりで垢抜けないと軽んじられるグランツの、希望そのもの。……反逆者にまで身を落としたというのに、叔父上は……いつかアーダルベルトが心を改めてくれると信じて、それまでは自分が頑張ると当主の座についたまま、その帰りを待つと仰せになられた。魔王陛下の御命を狙うような愚か者を! それが、グランツをどれほどの苦境に追いやるかもお考えにならずに…!」 ごくりと、誰かの喉が鳴る。僕も、呼吸を忘れていたことに気付いて、そっと大きく息を吸った。 だけどそれきりエドアルドは疲れたようにぐったりと顔を伏せた。僕達の視線が、自然にフォンロシュフォールに向く。フォンロシュフォールもまた、目を閉じて深く息を吐き出した。 「フォングランツは、十貴族の中で発言力を失った。当然のことだろう。ご当主がアーダルベルトを許さぬと仰せになり、一切の縁を断ち切ると宣言なされればまだしも、帰りを待つというのでは……。フォングランツが一族挙げて国家に対する反逆の意を秘めているのだと疑われても仕方がなかった。だから……我がロシュフォールも、グランツとの一切の交流を断つことに決めたのだ……」 フォンロシュフォールが、ちらっとエドアルドに視線を向けた。 「……僕の父上とエドアルドのお父上とは幼馴染で、年齢が近かったこともあり親友と言っていい間柄だった。だから当然、僕とエドアルドもまた物心ついた頃からずっと一緒にいた。共に育ってきたと言ってもいい。そして、僕の妹のマリーアとも……。エドアルドとマリーアは……生まれた時からの許婚だった……」 フォンロシュフォールの目がエドアルドに向く。それにつられるように、僕達もまたエドアルドに視線を向けた。 「あの日のことは、僕も忘れられない……」 『今日を限りに、我々の付き合いはお終いにさせてもらう』 『……フランツ…?』 『そのように呼ぶのも今日限り止めてもらう。これからはフォンロシュフォール卿と呼んでもらいたい』 『それは……』 『君の息子と私の娘マリーアとの婚約も、なかったことにしてもらう』 『フランツ!』 『……分かってくれ。私はロシュフォールの当主として、我が一族が反逆者と通じていると、世に思わせる訳にはいかないのだ!』 『我々は反逆者ではない!』 『ならば何故アーダルベルトと縁を切らんのだ!? グランツのご当主がそれをなさらぬ限り、グランツは永遠に反逆者の一族だぞ! このまま道を誤れば、十貴族からグランツの名が消える! 私は……例え君との友情を踏み躙ってでも、ロシュフォールを護る義務があるのだ!』 「僕は、マリーアとエドアルドと3人で、隣の部屋からその光景を覗いていた。そして理解した。エドアルドと一緒にいることはもう許されないのだと。だから……マリーアを促し、その場で……エドアルドから離れた」 僕は、僕達は、それを言ったフォンロシュフォールを見て、それからエドアルドを見て、そして、ただもう、何も言えずに目を伏せた。 確執とか恨みとか、そんな言葉では言い表せないどうしようもないものが、この2人の間には横たわっていたんだ。 「当代陛下がご即位あそばされ、その陛下の御命を……アーダルベルトが狙ったという話が伝わって、グランツは完全に十貴族の中でその存在を抹殺されることとなった。もちろん、十貴族会議にも出席が叶わなくなった。十貴族はもちろん、上流貴族の一切がグランツとの交流を断った。グランツはいずれ近い内に取り潰される。それが当然の結果として認識されるようになった……」 それだけ言うと、フォンロシュフォールが複雑な表情で顔をエドアルドに向けた。 『十貴族の面汚し!』 そう叫んだ、フォンギレンホールやタウシュミットのあの表情と声が蘇る。 エドアルドもまた、自分には何の責任もない理不尽な差別を受けてきたんだ……。 全員の顔が、またもエドアルドに向けられる。 でもさ。セリムが小さな声で言った。 「……フォングランツは、取り潰されては……いないよね……?」 「取り潰されなかった」 ふいに顔を上げてエドアルドが言った。 「魔王陛下が、そのようにご判断なされた」 「……どうして……?」 どうして魔王陛下は、そんな男を待つ一族をお許しになられたんだ? 「陛下の、その神意とも言うべきご意思がどのように働くものなのか、僕ごときに理解できるはずもない。ただ……」 ただ……? 「帰ってきたんだ」 「……え?」 「十貴族会議からも追放され、もうお終いだと一族皆が死をも覚悟したその時になって…!」 エドアルドの声に、どこか沸々と煮えたぎるような怒りが籠もってきた。ような気がする。 「アーダルベルト。あの男が、いけしゃあしゃあと……」 帰ってきやがったんだ!! その時僕の胸に浮かんだのは、十貴族の若様もこんな品のない言葉を使うこともあるんだ、という、かなりズレた感想だった。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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