僕はノイエ・マチアス。80歳。 親父の名はノイエ・オーギュスト。お袋はエリサ。上の姉がトーラ。次の姉がシホナ。5人家族の、僕は末っ子ってわけだ。 僕が生まれて育った村は、ロシェフォール領の外れの山あいにある。小さな、でも自然が豊かで、人も牧場の牛や羊も、のんびりゆったりしたいい村だ。 僕の親父は、この村でパン屋を経営している。パンだけじゃなく、ケーキも焼くし、夫婦で工夫したお菓子も色々と売っている。街中ならともかく、田舎の村では本来パンもケーキもそれぞれの家で焼くのが普通だ。家で用意できるものを、わざわざお金を出して買ったりしない。しかし、両親が経営する店は、朝も暗い内からお客さんが引きも切らずやってくる。 自分の家でも焼けるパンを、わざわざ買いに来る理由。それはもちろんただ一つ、美味しいからだ。 「オーギュの焼くパンは絶品だ」と、村の誰もが口を揃えて言う。パンだけじゃなく、ケーキもお菓子も評判は上々だ。 特に子供の誕生日を祝うケーキは、誰もが必ず親父に頼んでくる。「オーギュ、ウチのこの子のために、最高のケーキを焼いておくれよ」と。 僕の親父は最高の腕を持つパン職人だ。 息子としては自慢の父親だ。 しかし。 誰にでも、欠点というものはある。 実は親父には、あまりありがたくない呼び名がある。それが。 「ほら吹きオーギュ」。だ。 親父の唯一の欠点。それが、誰にでも法螺だと分かる自慢話を滔々と話したがる。というものなのだ。 親父がその話を始めると、村の皆は揃って苦笑を浮かべ、「また始まっちまったよ」と顔を見合わせる。そして、「ああ、その話ならもう何度も聞いたよ、オーギュ」とか、「大したもんだね、オーギュ、でも忙しいから話はまたにしとくれよ」などと言って親父のホラから身を避ける。 自慢話が好きな者なら誰でもそうだろうが、せっかくの話の腰を折られると、親父は瞬く間に不機嫌になる。そしてそのとばっちりは、当然のように僕達家族に向けられるのだ。 物心ついた時から散々聞かされたホラ話を、親父が満足するまで、家族揃って拝聴しなくてはならなくなるというワケだ。 といっても、親父が村の嫌われ者という訳ではもちろんない。 親父は前の大戦で負傷して戦列を離れるまで軍にいて、まあ下っ端兵士だったのだけど、やっぱりそれなりに体つきもがっしりしてるし押し出しも悪くない。人相も……まあまあ、だ。 村の世話役の1人で、寄り合いの様子などを見ている限り、それなりに発言力もあるし、結構頼りにされている方だと思う。その証拠に、親父はこの20年以上ずっと変わらず世話役を勤めている。 つまりまあ。 「アレさえなけりゃあ良い人なんだけどねえ」と、笑って言われる程度のものだ。 そして僕はといえば。 あまりありがたくない呼び名を奉られていた。すなわち。 「ほら吹きオーギュの息子」と。 「いやぁ、めでたい!」 「この村から士官様が誕生するとはなあ!」 「立派なもんだ。士官となれば、もしかしたら魔王陛下のお側近くでお勤めできるかもしれんじゃないか」 「よかったなあ、オーギュ。あんたも嬉しかろう」 村の皆に肩を叩かれ祝いの言葉を掛けられている親父は、朝から酒でも飲んだのかと思うほど顔を真っ赤に上気させ、満面の笑みを浮かべている。というか、「ぬはは」とか「ぐほほ」とか、何だかよく分からない笑い声を上げている。……もしかしたら本当に酔っているのかもしれない。 「まだ士官になれるかどうか分からないですよ。士官学校は卒業するのも大変だそうですし……」 ちょっと謙遜気味に笑って言うと、すぐに反論が返ってきた。 「なーに、お前なら絶対大丈夫さ!」 そうだそうだと、集ってくれた皆が口を揃えて根拠のない励ましを贈ってくれる。 「皆の言う通りだよ、マチアス! 今からそんな気の弱いことを言っててどうすんだい!? 魔王陛下のお側近くで働けるくらい出世してみせますとかさ、それっくらいの大口を叩いてお行きよ。全く情けないねえ」 お袋が小太りの身体を揺らすように叱りつけてくる。 「ああ、そうだ!」 いきなり親父がぱあっと顔を輝かせた。……何を思いついたんだ、親父? そんな楽しそうな顔をして。 「俺から隊長に頼んでおこう! ウチのマチアスをよろしくって。隊長が目を掛けてくれりゃあ、この先も大丈夫だろう? 何つったって俺の隊長は……」 「いいよ! 父さん!」 視界に、しまったという顔のお袋と、また始まったかという村の連中の困った顔が映る。 不思議なくらいそれに気づかない親父は、きょとんと僕を見返した。 「……えーと、あの……ほら、そういう縁に頼るのはズルい感じがするじゃないか。僕、自分の実力で立派な士官になってみせるよ。だから本当に……気にしないでくれ。な?」 そうだよお前さん! と、お袋が慌てて声を上げる。姉貴達も、村の連中も、一緒になって頷いている。 「そうか……? そう、だな。うん、確かに裏から手を回すのは卑怯だな! 魔王陛下のご意志にも反するし。……よし、マチアス、さすが俺の息子だ。よく言った! がんばれよ、お前ならきっと立派な士官になれる!」 「うん、父さん。母さんも姉さんも、それから……皆さん、わざわざありがとうございました! 僕、王都で頑張ってきます! うちの家族のこと、どうかよろしくお願いします!」 おお、頑張っておいで。しっかりね。立派な士官様になるんだよ。元気でね。 たくさんの声に送られて、僕はその日、村を出た。 新たな、そしてきっと刺激的な日々が待っているだろう王都に向かって、第1歩を踏み出したんだ! 僕の愛する祖国、眞魔国。 僕は今この時代に、80歳という若さで生きていられることをしみじみ幸運だと思ってる。 この国の頂点におわすお方、第27代魔王であられるユーリ陛下は、建国の王である眞王陛下に匹敵すると言われる史上最強の魔力を有し、政治、行政、外交のあらゆる場面において並外れた判断力と指導力を発揮なされ、国を一気に繁栄に導かれた史上最高の名君と名高いまさしく偉大なる王だ。ついでに言うなら(…ついで、なんて言っては無礼だな)、陛下は絶世の美貌の持ち主という点でも、津々浦々に御名を轟かせておられるお方でもある。陛下の神々しいばかりのお美しさに瞬く間に骨抜きになった人間達が、わずかの言葉も交わす前から陛下の御前に身を投げ出し、是非にもと眞魔国との友好を求めてきた、という噂話の類は、それこそ両手両足の指を使っても足りないほど巷を飛び交っている。 ユーリ陛下は即位なされて以来、さまざまな改革を断行され、そのほとんどが国家の繁栄と民の生活を向上させるための大きな力となった。 5軒以上の家が集る集落には、必ず診療所と学校を建てなくてはならないとされ、その費用も、医師や教師の派遣も、全て国が責任を持ち、そして何と、医療費も学費も全てが無料になるのだと知らされた時、村の人々がどれほど狂喜乱舞したことか。 僕達の村に学校はあったけれど、教師は1人きりでもう老人だった。授業は文字や計算を学ぶこと以外は、ほとんどが昔話で終わってしまう。それに診療所にはずっと縁がなくて、簡単な病気は薬草の知識が豊富な老人に頼るか、病が篤い時には馬車を使って丸一日掛かる街まで病人を連れていかなくてはならなかった。貧しい家の者はそれすらできず、苦しむ家族の手を握っている以外何もできなかった。 それが一気に解決したんだ。 最初は半信半疑だったけれど、新しい法律の制定を知らされて間もなく、お役人がやって来て、学校と診療所を建てる場所を決めていった。後は一気で、今、村には立派な学校と診療所がちゃんと建っている。学校には専門科目を教えてくれる複数の教師達がいるし、診療所には、王都から派遣されたお医者様と看護人が常に村の人々の健康を守ってくれている。 魔王陛下は民を何より大切になさる、有言実行の人だった。そのような指導者がどれほど貴重な存在か、僕達庶民は骨身に沁みて知っている。ほんの数十年前、民の上に立つという意味が分っているとは到底思えない王と摂政のために、多くの無辜の民が戦場に散っていったのだから。 この偉大なる陛下のために、自分の力を捧げたい。 漠然とした夢が、その思いと共にはっきりと形を取るようになって、間もなくの事だった。 軍の制度に、新たな改革が行われたんだ。 戦時中とは違って、現在国軍の兵士になるには、兵学校か士官学校に入学することが必要だ。 兵学校は平民の子弟が、士官学校は貴族を中心とした上流階級の子弟が、それぞれ入学するのが不文律となっている。士官学校を卒業すれば、経験に関係なく即士官になれる。そして兵学校の卒業者は、自動的にその下につく訳だ。身分社会における当然の配剤。しかし。 魔王陛下はここに改革の手を入れられた。 これまで身分が高ければ、もしくは、まあこれは大っぴらに行われる類のものではないけれど、軍に多額の寄付金を提供することができれば、士官学校の入学は割と簡単だった。実際、入学試験はあるものの、身分の高い子弟が試験に落ちたという話は滅多に聞かない。貴族階級はすなわち武人階級なので、幼い頃から鍛錬している訳だから、当然といえば言えるのかもしれないが……。兵学校は逆の意味で同じだ。体力と腕っぷしとやる気があれば、身分だの金だのにはこだわらない。 しかし陛下は、それは違うと仰せになったそうだ。 身分、地位に関わらず、能力があると認められた者が士官になるのは当然のことではないのか、と。 組織の中で、上に立つ者にその能力がないとなれば、その組織そのものの存亡が危うい。そしてそれが軍隊ならば、軍という組織のみならず、国家の存亡すら危うくなる。 士官学校を卒業した者はその瞬間から数多の兵士の上に立ち、指揮官としての能力を即座に発揮することを期待される。彼らの力は、即、国家を護る力となるのだ。故にこそ、問われるべきはその者の持つ能力のみ。士官となる者に、身分も地位も金も一切関係ない、と。 考えてみれば当然のことだけれど、これまで誰もそれについて言及することはなかった。 それが慣例というものだったからだ。しかし陛下はいとも軽やかにその慣例を崩された。 そしてついに、その布告がなされたのだ。 本年度より士官学校入学については、真に士官となるにふさわしい人物を、選考試験の結果によってのみ厳正にこれを決定する。士官学校入学希望者の身分、親族の社会的地位、経済状況などについては一切を不問とする。なお軍に対する寄付金等は、選考の結果に一切関与しない。万一この布告に違反し、身分、親族の地位、もしくは寄付の多寡によって合否を歪めようとする者があれば、これを厳しく処罰する。と。 パン職人の息子である僕が軍人となることを望むなら、進むべきは本来平民向けの兵学校のはずだった。でも、魔王陛下の改革によって、僕にも士官学校への道が開けたんだ。 僕は兵学校入学のための願書を破り捨て、即座に志望を士官学校に切り替えた。 魔王陛下の御心にお応えするためにも、僕は兵学校ではなく、士官学校を受験すると宣言した時、親父は即座に賛成してくれた。 僕は、親父からただの1度もパン屋を継げと言われたことはない。 僕が幼い頃から親父に習ってきたのは、パンの焼き方じゃない。剣だ。 剣の握り方なんて、パン職人には必要ない。でも、朝食向けのパンが全て売れて、店が一段落した後、親父は必ず僕を裏庭に連れていって剣を握らせた。そして、僕に我流の剣を教え、時には素手で敵を倒す方法(手っ取り早く言えば、喧嘩の勝ち方だ)を教え、山登りをさせて体力をつけさせた。 おかげで、この年になると僕はかなりの体力と、何より腕っぷしを誇るようになっていた。 といっても、僕はどうもお袋に似たらしく、親父のがっちりとした筋肉質の身体を受け継ぐことはなかった。身長は、まあ同年代の中では割と高い方だと思うのだけど、体つきはさほど目立った逞しさはなくて、僕がこれまで培った力を発揮した時はかなり周りを驚かせることになる。女の子達からよく「マチアスって着痩せするのね」と言われるのはそういうことなんだと思う。一見非力な痩せっぽちに見えるらしい。 それはたぶん、僕の顔のせいでもあるかもしれない。親父はかなり厳つい顔立ちで、ごつごつと、男らしいと言えば実に男らしい顔だ。でも僕は顔もお袋似の童顔で、これまたお袋譲りのそばかすが僕をひどく子供っぽく、ひ弱そうに見せてしまうらしいのだ。ついでに言うと、僕の灰褐色の髪と緑色の瞳もお袋譲りだ。 お袋は今でこそ太ってしまって全体にたぷたぷしているのだけれど、昔はそれはもう愛らしい娘だったと聞いている。それが嘘でない証拠に、僕の2人の姉、トーラとシホナは村でも美人姉妹と評判だ。 だから村の口さがない連中はこう言っている。確かにオーギュの女房は、昔、美人だったに違いない。だけどそれは、今あんなに美人なトーラとシホナも、いずれはその母親のようになってしまうということでもあるぞ、と。だから姉さん達は2人とも、親父の作るケーキがどれだけ美味しかろうと、決して食べ過ぎないように自分を戒めて、モリモリ食べる母を時折憎らしげに見つめている。 ……まあ、そんなことはどうでもいいんだけれど。 息子に自分の夢を押し付けたくなかったのか、決して口にすることはなかったけれど、でも僕が本物の軍人になることを親父が夢見ていたことは確かなことだ。 「パン屋の息子がどれだけ頑張ったって、出世できるわけでもなし。みっともないから止めておくれよ」とお袋はしょっちゅう文句を言っていたけれど、親父はいつも笑ってそれを無視した。 そして僕自身も、パン屋になるよりは軍人になった方がずっとカッコ良いと思っていた。 親父の夢を叶えるという意識はあまりなかったのだけれど、軍人になるという将来への希望は、親父とのそんな生活の中でいつしか僕の中にしっかり根付いていた。 だから僕が士官学校に合格できたのは、魔王陛下と親父のおかげであることは間違いない。 士官学校の入学試験。 予想はしていたけれど、入学希望者はこの年膨大な数に上り、後で聞いたところによると、競争率は一気に100倍を超えたという。 それでも。書類審査、筆記試験、それから体力及び体術測定と、名称は単純だけど中味はすさまじく厳しい試験を何とか突破し、僕は無事、士官学校入学を許された。 士官となるための最初の関門を突破できたんだ! 合格通知が届いた時、飛び上がって喝采を上げた僕や姉貴達の傍で、親父は口を真一文字に固く結び、一言も言葉を発することはなかった。でも、首まで真っ赤にして、何度も何度も大きく頷く親父の厳つい顔は、紛れもなく歓喜に輝いていたと思う。 そして旅立ちの前夜。親父は僕を部屋に呼ぶと、「餞別だ」と色褪せた布に包んだものを渡してくれた。 短剣だった。 装飾も何もなく、質素というより粗末といって良い程のもので、だがその刃はしっかり手入れされているのか、部屋の灯を鋭く反射して輝いていた。 「……前の戦争の時にな、俺がずっと肌身離さず持っていたものだ。何度もこれに命を助けられた。そりゃあもう色んなものをこれで切り刻んで、そして命を繋いで来た。……手荒く扱ってきたんだがな、何とかなくさずに済んだ。お護りだと思って持っていてくれ」 ありがとう、と受け取る僕をじっと見つめていた親父が、何かを思い出した様にふっと笑った。 「こいつでな、隊長の命を助けたこともあったんだぜ? 恩に着ると言ってたが、まだ覚えてくれてるかな。覚えててくれりゃあ、お前の事を頼むんだが」 せっかくいい気分だったのに。 親父のホラが発動すると、近頃は条件反射のように脱力感に襲われる。 ……昔、身体に傷は負ったものの、何とか命を拾って親父が戦場から帰ってきたあの頃は、親父の口にすることを全部本当の事だと信じて、胸をわくわくさせて話をせがんだこともあったんだけどな……。 僕が軍人になること。 それが前の大戦で志願兵、下っ端も下っ端の一兵卒でしかなかった親父が息子に託すささやかな夢だということを、僕も、家族も、そして村の皆も知っていた。 僕を鍛えようと頑張る親父の姿に、 オーギュは自分のホラを本物にしようとしてるんだと、村の連中は笑って囁きあったそうだ。 親父のホラ。 村の誰もが知っているそれは、まさしく夢物語そのものだ。 ウチの親父が。田舎のパン屋の店主で、まあ身体はごつくて、若い頃に少々世を拗ねた暴れん坊だったとかで剣もそこそこ使えて、だから前の大戦の時には志願兵として戦地に赴くことになった親父が。 ほとんど消耗品として扱われていた、ただの一兵卒が。 こともあろうに。 眞魔国の救国の英雄。 かの高名なるウェラー卿コンラート閣下と。 それはもう深く篤く親しく友達つきあいをしてきた。 なんて……。 立派な軍人に憧れていたんだってことは、それでだけでもよく分かるさ、親父。 それに誰だって、ちょっとでも自分をでっかく見せたいと思うものだよな。それも良く分かるよ、親父。 けどなあ。 これははちょっとあんまりだと思うぞ。 誰が信じるっていうんだよ、そんな嘘っぱち。 なあ、親父。 ………息子はちょっと情けないぞ。 ウェラー卿コンラート閣下。 魔族として生まれたなら、知らない者はない人物だ。その半生はすでに伝説といっても良いだろう。 前王陛下のご次男としてお生まれになり、何より第27代魔王、偉大なるユーリ陛下の名付け親であり、信頼篤い保護者であり側近中の側近でいらっしゃる。 …………雲の上、遥か彼方の高みにおいでになるお方だ。 閣下は前王のご子息、本来歴とした「殿下」であらせられるのだけど、誰もが知っている事実、人間との混血であるというその一事をもって、身分は貴族としても最低のものとされた。 しかし、かのシマロンとの大戦でやはり魔族であれば知らないもののない戦いで、何者であろうと文句のつけようのない武功を上げられ、救国の英雄となられた。 それだけじゃない。 当代陛下が即位して後、正義の旗の下(どんな正義だ!?)、魔族殲滅を唱える大シマロンが着々と勢力を広げていたその時、ウェラー卿は魔王陛下を裏切ってシマロンに奔るという驚くべき行動を取った。 もちろん、魔王陛下に反逆しようなどと、かのウェラー卿が考えるはずがない。 それは、大シマロンの中枢に潜り込み、シマロン王の信頼を得ると同時に反シマロンを標榜する勢力を結集させ、反乱を起こして国を内部から崩壊させようという、壮大にして危険極まりない工作任務だったんだ。 弱冠100歳の若さで、そして祖国を遠く離れ、たった1人で、ウェラー卿はその恐るべき任務をやり遂げた。大シマロン内に反乱軍を組織し、これを指揮して、見事大陸一の大国を滅ぼしたんだ! たった100歳。 僕はその話を聞いた時、しみじみと、100歳そこそこの村の連中の顔を思い浮かべた。 そいつらの一体誰が、そんなものすごい任務をやってのけられるだろうか。 できる訳がない。誰にもできない。20年後の自分がその任務を果たすことを想像しても、想像するだけで恐ろしくて身体が震える。絶対にできない。 救国の英雄。ウェラー卿コンラート閣下。 魔王陛下の御ため、祖国のため、ただ1人、失敗すれば反逆者の汚名を着たまま死んでいくことも覚悟の上で、一国を、我が種族の敵を滅ぼした方。 話を聞いただけだったら、一体どんな昔のお伽話だと思うだろう。 そんなすごい人が実在するはずがない、と。 でも、ウェラー卿は今現在、ちゃんと王都においでになる。 大シマロンからお戻りになり、今は魔王陛下のすぐ傍で、陛下をお護りになっておられる。 同じこの空の下、その方は今この時も、息をし、もしかしたら魔王陛下とお言葉を交わしておられるかもしれない。 まさしく、生ける伝説の英雄。 そんなすごいお方と。 ウチの親父が。 友達はおろか、ちょっとした知り合いにだって、なれるはずがないだろうがっ! ………よっぽど憧れてたんだな、正規の立派な軍人に。そしてその象徴でもあるウェラー卿に。 もしかしたら戦場で、ウェラー卿とすれ違ったとか、何かの弾みでちょっとお言葉を頂いたとか、そんなことがあったのかもしれない。 それが親父の中で、いつの間にか「友達」に変化してしまった、としたら……まあ、息子としては切ないことに変わりはないよな。 とにかく。 そんな親父のおかげで、僕は憧れの士官学校に入学できた、という、まあ、そういうことなんだな。 「へえ。なるほどねえ」 ベッドにだらしなく寝転がっていた男が笑って言った。 「人に歴史ありってとこだね。まあ、ホラは別として、なかなか良い親父さんじゃないか」 僕が今いるのは、士官学校の寮の一室だ。 入学式に先んじて入寮式を行い、僕は血盟城の敷地内(といっても遥か彼方にやっとお城を眺めることのできる外れだけど)の寮に入った。ちなみに士官学校は全寮制だ。どんなに身分の高い若君も、士官学校に入ったらこの寮で過ごさなくてはならない。 入寮の手続きにあたって、僕はかつてないほど胸を高鳴らせていた。歓びに興奮していたわけじゃない。不安だったんだ。 情けない話だけれど、正直言って、本当に合格できたんだろうか、これは間違いじゃないだろうか、という不安が、いつの間にか心の隅に根付いていたらしい。「お前の名前は合格者の中にない」と言われるのではないかと、信じられないくらい胸がドキドキした。……自分がこんなに気が小さいとは知らなかった。だから、「……ノイエ・マチアス。よし」という、名簿を手にした係官の短い確認の言葉と、寮の規則を列記した書類を貰った時には、情けない話だが本気で安堵の息をついてしまった。 そうして割り振られた部屋が、士官学校初年生用の4人部屋だ。 部屋の両側の壁を頭に、二つづつ並べられたベッド。その傍には私物を入れる棚。奥には壁に向かって4隅に並べられた勉強用の机。それぞれの机が向かう壁には備え付けの本棚。 ここが僕の、いや、僕を含めた4人の同期生が過ごす城だ。 ありがたい事に(たぶんね)、これからの日々を同じ空間で過ごす事になる者については、軍も色々と配慮の必要性を感じてくれたらしい。 魔王陛下の御心を慮れば、同じ士官学校生同士、寮の同室になる者は身分も地位も関わりなく割り振るべきなのかもしれないが、さすがにそれは難しいと考えたのだろう。僕の同室になった同期生は、皆、今回の法改正によって士官学校を受験した平民出身者ばかりだった。つまり栄えある平民士官一期生という訳だ。ついでに言うなら、この4人が今回見事合格した平民出身士官候補生の総員だ。 本年度合格者52名中の4名。これが多いのか少ないのかは分からない。どうあれ、僕達4人が眞魔国士官学校の新たな歴史を作る礎となることは間違いない。 入寮式も終え、私物の整理もほぼ終え、食事も入浴も終えて部屋に落ち着いた僕達は、それぞれ自己紹介も兼ねて士官学校受験に至る身の上話に花を咲かせているところだったりする。 「君の親父さん、腕が立つのは確かなようだね」 ベッドに寝転がってそう言うのは、メドチェック・ホルバートというビーレフェルト領からやってきた商人の息子だ。ちょっと斜に構えたところのある、笑顔が妙に皮肉っぽい男だ。悪いやつではなさそうだけど。 「ホントにね。君の試合、ものすごく印象深くてよく覚えてるよ」 椅子に座って僕に笑いかけるのは、浅黒い肌に笑顔がとっても人なつこいロードン・セリム。グランツ領の皮革職人の息子だ。その隣の椅子でうんうんと頷いているのが、見上げるほど大きく筋肉隆々とした身体で、なぜかつぶらな青い瞳が不思議なくらい愛くるしいホルツ・マルクス。王都出身で、両親ともに教師だと言っていた。 「最初見た時、とても剣を奮えるようには見えなかったしな。それがまさか……」 ホルバートが思わずといった様子で吹き出した。 「マチアス、君、お坊ちゃま方にかなり恨まれてるぜ?」 士官学校入学のための最終試験。それが体力及び体術審査、つまり軍人として最も重要な実戦力、剣の腕、戦いの力量を計るものだった。 最終試験まで残ったメンバーをいくつかのグループに分け、総当たり戦を行い、結果上位の者を集めてまたグループ分けして総当たり戦、そしてさらに、と試験は続いた。 流派も型もあったもんじゃない、親父譲りの我流剣法だけど、僕は最終グループ、最後の8人にまで勝ち残った。その最終グループに残った平民は僕1人だ。つまり残りは全て貴族のお坊ちゃま。幼い頃から正統な剣を修得してきたメンバーばかりだった。 そして彼らは、僕が彼らの中で唯一毛色が違う事にすぐ気づいたらしい。僕を見下す態度は笑えるくらいあからさまだった。 そうして始まった8人総当たりの試合で。 僕は続けざまに2人、剣を叩き落とし、相手の頸動脈に刃を当て、「まいった」の一言を言わせることに成功した。1人は試験官に向かって「こんな邪道で下品な剣裁き! 士官にふさわしいとは思いません!」と訴えたが、さすがに無視された。 そして3人目。 これはちょっとキツかった。最初に剣を落とされたのは僕の方だったからだ。飛ばされた剣は円を描きながら場外に飛んでしまった。でも。 勝った、と踵を返そうとした相手に、僕は「まだまだっ!」と一声叫ぶと、勢いをつけて飛びついた。 「…っ! ひっ、卑怯……!」 「何がだっ!? 僕は参ったとは言ってないぞ!」 僕に組み付かれた相手が慌てて試験官に顔を向けるが、試験官は僕を止めることなく、じっと成りゆきを見つめている。 『参ったと宣言した方を負けとする』。試験官は最初にそう言ったんだ。剣を落とされようとどうしようと、参らない限り試合は終わらない。そう判断した僕は正しかったということだ。 僕は相手の手首を捻り、剣を落とさせ、それから素早く足を払ってその身体を地面に叩き付けた。もしかしたら上流階級の坊っちゃん達は、素手で組み合う戦いは貴族的ではないと考えているのかもしれない。相手はおそらく痛みよりも地面に叩き付けられた驚きの方が大きかったのだろうと思うけれど、断末魔の様な唸り声を上げ白目をむいてしまった。両手を押え、喉首に膝頭を押し当てて「参ったか?」と聞く僕に、相手が小さく頷く。そこで初めて試験官が僕の勝利を宣告した。 正直に告白すると、僕が勝ったのはこの3人だけだ。後の4人には連敗してしまった。 分析してみるならば、最初の2人は僕をバカにして油断していたということ。3人目は、思い込みを利用した不意打ちが功を奏したということ、だろう。 その後はさすがに用心してきて、そうなると我流の剣ではなかなか太刀打ちが難しかった。 特に1人、剣を合わせた瞬間に、「あ、これはだめだ」と分った相手がいた。 こいつの名前はすぐに覚えた。 フォングランツ卿エドアルド。 正真正銘の十貴族だ。 すらりと伸びた背筋、どこにも歪みのない端整な顔立ち。貴族らしからぬ短く刈り込んだ(でもきちんと整った)金髪。青い目。 「上品」というのはこういうことなんだろうと、しみじみ納得してしまう雰囲気に溢れている。 とはいえ、負ける訳にはいかない。相手が十貴族だろうが関係ない。 僕は真正面に立ったその顔を、無礼と思われることを承知の上で睨み付けた。だけどそこにあったのは、不思議なほど表情のない顔だった。 特にその瞳には……他の貴族連中が見せるような、人を人とも思わないあの光がない。 「始め!」 試験官のその合図で互いの剣を相手に向けた瞬間、僕は、これまでただの一度もそんな経験はなかったのだけど、こいつには負ける、と分った。 どうしてかは分からない。 フォングランツ卿エドアルドからは闘気のようなものは全く感じられなかった。ただ静かに僕に剣を向けている。……先に焦りが生じたのは僕の方だった。 切っ先を合わせてただ待つ事に焦れて、僕は一気に間合いを詰め、エドアルドに向かった。 鋭い音を立てて、剣が交わる。 「強いな、君。どういう人物を師としたのか聞いてもいいか?」 交差する剣を挟んで向かい合ったエドアルドが発した声は、まるで茶飲み話でもしているかのように穏やかだった。こちらは必死で剣を支えているというのに。 その冷静さと余裕に驚き、それから彼が僕を「お前」でも「貴様」でもなく、「君」と呼んだ事にさらに驚いた。 「………僕の、親父、だ」 「父上か」納得したようにエドアルドが頷く。「君のお父上は、何を生業となさっておいでなのだ?」 そうか、貴族、それも最上級の貴族というのは、こういう喋り方をするものなのか。 「父上なんて大層なもんじゃないが……。僕の親父はパン職人さ。村でパンやケーキを作って売っている」 なるほど、と、小さく呟くと納得したように頷き、それからエドアルドはすい、と剣を引いた。突然の対戦相手の動きに、柄に渾身の力を込めていた僕は、思わず前につんのめった。 次の瞬間、軽い衝撃と共に剣が弾かれ、あ、と思った次の瞬間、エドアルドの剣の切っ先が僕の喉に突き付けられていた。 「…………まい、った……」 エドアルドが剣を鞘に納め、きちんと礼をして場を去っていく。その先では同じ貴族の坊っちゃん達が拍手をして迎えていた。 完敗だった。 なのに何故だろう。 フォングランツ卿エドアルド、天と地ほどに身分の違う大貴族の若君に対して、僕は何故か悔しさも腹立たしさも全く感じることがなかった……。 「……知ってるかい?」 声にふと意識を戻せば、そこは同期生となった3人と共に過ごす寮の一室。 「何だい? ホルバート」 セリムに問い返されて、ホルバートがにやっと笑った。 「本年度の士官学校入学式は、なぜか1週間後に行われるという話」 え? 僕達3人、僕とセリムとマルクスが、驚きに目を瞠き、一斉に顔をホルバートに向ける。 その反応に満足したのか、ホルバートはベッドの上に起き上がると、ニヤニヤと人の悪そうな笑いを浮かべて僕達を見回した。 「1週間後…って、どういうことだ? 入学式だろ? 普通何より最初に行われるんじゃ……」 僕の言葉は、ぴっと指を立てたホルバートに遮られた。その指がちっちっちと左右に振られる。 「本年度、歴史ある士官学校においては、崩れるはずのない慣例が崩れた。これまで貴族の子弟の進路であった士官学校に、何と平民が身分も弁えず乱入してきたのだ。士官とは、戦場においてそれぞれが王の代理とされるもの。その誇りと栄光ある地位は、まさしく選ばれた貴族のみが就くべきものである。しかし……! ってね。めんどくさい連中がコネを生かしてゴネたらしいのさ。平民ごときが士官として指揮官の地位にふさわしいのか、しっかり見極める必要があるってね」 「見極めるって……。だからそのために入学試験があるわけだろう!? 僕達はそれにちゃんと合格したわけだから……!」 「そういう当然の理屈が通らないのがいるってことさ。で、そのために入学式まで1週間という期限が切られたわけだね」 「つまりこういうこと?」 笑顔が可愛いセリムがその笑顔のままで言った。 「この1週間で、僕達を適性外と判定して振り落とす、とか?」 「一応、真に士官にふさわしい者であるかどうかの最終審査、だそうだよ。僕達を、というわけではなくね。でも実際の標的は僕達なんだろうなあ。だってこんな話は今まで聞いた事もないんだから」 「……のんびり言うなよ……!」 全く、冗談じゃない! どんな思いで僕がここまで来たと思ってるんだ! ここで旧態依然としたバカ貴族たちの思惑に嵌ってたまるもんか! 「のんびりなんかしてないさ」 笑ったホルバートは軽やかにベッドから降りると、部屋の奥、窓際まで行くとさっとカーテンを開いた。 窓の向こう。遥か先の最も高い位置に、魔王陛下がおわす血盟城の本丸がある。 その城は、ほのかに浮かぶ窓の灯や、随所に掲げられ、煌々と輝く松明の炎でさらに濃くなった影を、夕闇の中に堂々と屹立させていた。 あそこに、あの場所に、今、魔王陛下がおいでになる。 ウェラー卿コンラート閣下も、宰相であられるフォンヴォルテール卿も、王佐のフォンクライスト卿も、魔王陛下の婚約者であるフォンビーレフェルト卿も、お名前だけはよく知っているけれど、存在している事も知っているけれど、でも同じ時代、同じ空の下に実在している実感はまるでない至高の座におわす方々が、今目にしているあの場所に、確かにおいでになられるんだ……! 父さん。僕はついに、本当に、ここまで来たよ……! 「あそこに行こう」 ハッと見ると、ホルバートが魔王陛下の居城に向かって腕を伸ばし、真直ぐに指を突き付けていた。 「力を合わせて、皆であそこまで行こう。魔王陛下のお側近くまで。頭の中にカビが生えた貴族共の鼻を明かして、士官になるのに身分なんか関係ないと証明してみせよう……!」 僕達4人で! 「……ホルバート……!」 マルクスの声が感動に震えている。 我に返ったらしいホルバートが、照れ隠しだろう、顳かみを軽く指で掻きながら、唇を妙な形に歪ませた。皮肉な笑い、のつもりかもしれない。……こいつ、結構人の良いやつだな。 「……うっかり熱くなってしまったな。僕としたことが……」 「何言ってんだよ」僕はぽんとホルバートの肩を叩いた。「君の言う通りだ! がんばろう!」 「だよね! 負けたたまるかってとこだね」 セリムも言って、窓際に寄ってくる。 「僕も必死で努力してきたんだ。……絶対士官になってみせる……!」 マルクスも傍に立つ。 「力を合わせて……頑張ろう!」 4人で手を重ね、誓いを交わす。 そして僕達は、揃って魔王陛下のおわす城に視線を向けた。 「4人揃って、いつか必ずあそこに行こう……!!」 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
|