「おおーっ、キレイだー!」 その場に1歩足を踏み入れたミツエモン坊っちゃんが、大きく腕を広げて、だけじゃなく、ぶんぶん上下に振りながら感動の声を上げた。コンラ…カクノシンが慌てて「坊っちゃん、品物に当ります」と腕を押えている。 この、素直であけっぴろげでまっしぐらな朗らかさに、当初緊張を見せていた店員達が一斉に頬を綻ばせた。混ざりモノのない笑顔ってのは、ホント、良いやね。 イザーク爺さんとスーヴェルフェミナちゃんに案内されて、俺達は旧市街、別名伝統街にやってきた。荷物はトナーが責任を持って運ぶと請合ってくれたので任せることにしたから、結果として思いの他早い旧市街観光ができるようになったわけだ。 旧市街は、全部ぶっ壊して新しく計画的に造り上げた新市街とは、何もかもが違って感じる。街の造りも人も、空気そのものも。 直線が1つもない、どこもかしこも曲がりくねった細い道。石畳は長い年月の果てに馬車の轍の痕が食い込むように残り、隙間なく並ぶ間口の狭い家々や商店はあちこち補修され、重ね塗りされた分厚い塗料が年月を物語っている。辻々には苔むした小さな道標が立っていて、ケンシロウ坊っちゃんが興味津々で読もうとしたが、すっかり磨耗しちまってて文字は読めなかった。これじゃ道標の役目を果たしていないが、たぶんあんまり長くこの場にあり過ぎて、逆に存在を忘れられちまってるらしいから構わないんだろう。 旧市街の通りに軒を並べる老舗商店の多くは間口が狭い。入り口も、古い店は厚い木の扉だし、窓のない店も多いから覗いても何の店か分らない。見分けるためにあるのが看板だ。これまたロシュフォールらしく、あの手この手の意匠に、鮮やかに彩色されて軒に取り付けれらた看板の数々は、それだけでも見応えがあって旧市街の名物となっている。 そしてそんな、裏道と見紛うような細い通りには、さまざまな匂いが沁み込んでいた。 老舗と違って気取りのない店は、小さいなりに扉や窓を開け広げている。食堂や茶店、パン屋、菓子屋から漂う匂いはもちろんのこと、道に食み出して商品を積み上げたり、軒から吊り下げている八百物屋や肉屋、生薬の量り売りをしているらしい店、絨毯や古着などの布類や、書物や紙類を売る店からの乾いた匂いもしっかりと存在を主張している。色んな種類の店が雑多に入り組んで生まれたこの匂いそのものも、この街の歴史の証……なんつってな。 年月を捏ね上げ、「今」を迎えた街を歩く連中は、その空気を身体に巻きつけるようにゆっくりと歩いていた。だから、きょろきょろと好奇心たっぷりに辺りを見回しながら歩く、俺達みたいな観光客はすぐに判った。まあ、旧市街はこれ自体が観光名所だし、名のある店が集まってるから当然なんだが。 イザーク爺さんから「さあ、ここが私の店です」と言われた時の、ミツエモン坊っちゃんのきょとんとした顔は結構見ものだった。いや、もちろん可愛いって意味で。 でっかい目をぱしぱしと瞬かせて小首を傾げた姿は、ほんっと可愛いんだよねー。ウチの大将なんて、目にする度に眉間の皺を無理矢理深くして、拳なんぞも震わせて、緩みそうになる頬っぺたを必死になって引き攣らせてるもんな。……バレてないと思ってるらしいけど。 きょとんとしていたのはウッカリ卿も同じだった。え? という顔をしてから、木の扉の周囲をきょろきょろと見回している。それも当然で、店の間口はやっぱりエラく狭く、よほど注意しなければ扉があることさえ気づかないほど商店らしさがなかった。道に面した壁には窓もないから中も見えない。あるのは扉の上の壁に打ち付けられた「ルルド 銀製品取り扱い」と彫られたそっけない、特別凝った意匠も何もない小さな看板だけだった。だがそれが逆に、存在を主張する必要のない老舗の矜持を感じさせる。かもしれない。 そしてさらに坊っちゃん達を驚かせたのは、開かれた扉を抜けて店に入った時だった。 ロシュフォールの旧市街の古い家々には特徴がある。つまり、間口が狭く、その代わり意外と奥が深いんだ。そして、街の構造上日当たりが悪いので、中庭や天井を上手く使って光を取り入れている。だから、初めて訪れた客がてっきり薄暗いと思って店に入ると、驚くほど明るくてびっくりすることになる。今の坊っちゃんとウッカリ卿がまさしくそれだった。さすがにケンシロウ坊っちゃんは余裕の笑顔だが。 そしてもちろん、坊っちゃん達を驚かせたのは店の意外な広さや明るさだけじゃない。銀だ。 店の中いっぱいに、様々な種類の銀製品がぎっしりと飾られている。ぐるりと店の中を囲む壁沿いの棚には食器などの大きめのものが、中央の台座の1つには小物、各種のナイフやスプーンや大小の杯など、もう1つの台座には指輪、首飾り、耳飾や髪飾りなどの装飾品が美しく並べられていた。 全ての製品が、どこからかほんのりと差し込む光や蝋燭の灯を受けて、硬質な輝きを放っている。 「ねえ、ミツエモン」 銀の輝きを浴びて目を奪われているミツエモン坊っちゃんに、ケンシロウ坊っちゃんが話しかけた。 「銀ってさ、輝き方に色んな種類があると思わない?」 一瞬きょとんとしたミツエモン坊っちゃんが、改めて周りを見回し、「あ」と声を上げた。 「よく気づいてくださいましたな」 嬉しそうに会話に入ってきたのがイザーク爺さん。 「透明で、まさしく金属的な硬い輝きもあれば」 言いながら、ケンシロウ坊っちゃんがゆったりと作品を見回す。 「どこか儚くて、滲むような柔らかな光もありますね」 おー。思わず口を丸く開けて感心するミツエモン坊っちゃん。 隣で、坊っちゃんから笑顔で語りかけられたイザーク爺さんやスーヴェルフェミナちゃん、それから店員達がにこにこ頷いている。 「金でありましたら」傍らの皿と燭台を両手に取って、イザーク爺さんが語り始める。「どのような形、どのような細工をいたしましょうともその輝きは不変です。金というものは、真の意味で己の本質を細工師に委ねはしないのです。細工師はただ、その輝きを借りるだけ」 しかし銀は違う。 爺さんの目が愛おしそうに細められた。 「銀は、細工師の思い、ある時は願いや祈りに応えてくれます。その輝きも、色も……」 「あ…色」 じっと皿を見つめていたミツエモン坊っちゃんが、イザーク爺さんを見上げた。 「色、違いますよね? このお皿は白っぽい感じで、でもこっちの」 坊っちゃんの視線が台の上の腕輪に移る。 「これはどこか……光の中にほんのり赤味があるっていうか……」 「そうですよ、坊っちゃん」イザーク爺さんが頷いた。「純粋な銀というのはとても柔らかいのです。そのままでは細工もできません。ですので、精製するときに他のものを混ぜるのですよ。金だとか銅だとかをね。それで硬さも変わるし、色合いも変わる。こう、触った時の感触も変わるのですよ」 「へえ! ……あ! 良いですか?」 「どうぞ。手にとってご覧なさい。輝きの違いや感触の違いを、ご自分の目と指でお確かめください」 思わず手を伸ばしてからお伺いを立てる坊っちゃんに、爺さんが皿を差し出した。 おずおずと手に取り、その表面をそっと撫でる坊っちゃんを、爺さんがどこか愛しげに見つめている。 見つめている……んだが、何だかな、その視線が坊っちゃんの赤毛に向いてるような気がするんだよな。ひどく、懐かしげってのか、見つめていながら別のものを見ているってゆーか。でもって、そんな爺さんを、スーヴェルフェミナちゃんがこれまた複雑な表情で見つめているのがちょいと、ね。ふと見ると、カクノシンが訝しげな表情をちらっと俺に向けた。同じことを感じたらしい。でも、ま、どう斜めに見ても坊っちゃん達にとって害になるような視線じゃねえから良いようなモンだけど。 「ところで、こちらにはどれだけ滞在のご予定で?」 ミツエモン坊っちゃんとケンシロウ坊っちゃんとウッカリ卿が、3人して盆をナデナデする姿を楽しげに見やってから、爺さんが俺とカクノシンに顔を向けた。 「近々銀製品の競技会のようなものがあると聞いています」 カクノシンが答え、爺さんとスーヴェルフェミナちゃんが頷いた。 「ああ……競技会と申しますか品評会と申しますか……。王都の方であればご存知でしょうが、春に王都で全国物産展が開催されます」 「ええ、存じています」 「それにロシュフォールを代表して出展するための、銀細工職人とその作品を選ぶことになっております。……では、それを?」 「ええ、どのような作品が出品され、選ばれるのか、ぜひ拝見したいと考えています」 「左様でございますか……。ではごゆっくりして頂けますな?」 「それまでお世話になっても?」 「もちろんですとも! 歓迎いたしますぞ!」 □□□□□ 「広くて立派な部屋ですねー」 客室は、邸の端、半ば独立した離れにあった。長期滞在する客も多いそうで、自由に暮らせるように造られているんだそうだ。この邸に滞在するような客は供も多いってことで、離れは部屋数も多い。 案内された主賓室は、驚くほど広かった。パッと見はトナーの宿より質素な雰囲気だが、素材の質が違う。 家具も絨毯も、部屋の中央に置かれた丸型の卓も椅子も、素材から造りまで全てが上等の品ばかりだ。紛い物なんぞ1つもない。金は金、銀は銀、家具や置物、燭台などにさりげなく嵌め込まれた宝石も本物。だけど、鬱陶しくキンキラキンに光ってるモノなんかない。どれも長年に渡って、充分に手入れされながら使い込まれた物ばかりだ。シブく、鈍く、しかし上品に光を弾いている。ただ天井から吊り下げられた大きな燭台は金と銀とガラスでできていて、蝋燭の火が灯されたらさぞ眩く輝くだろう。 隣の主寝室も同様で、天蓋つきの寝台も大貴族並み、布はほとんどが絹だ。いやー、大したモンだ。 「よく大切なお客様をお泊めするんです」 案内してくれたスーヴェルフェミナちゃんが教えてくれた。 「ルルド工房には、通りすがりで入店されるお客様というのは少ないんです。主なお客様というのは、お店においでになるのではなくて、私共からお邸にお伺いしてご注文を頂くというのがほとんどなんです」 なるほどなるほど。上流階級のお歴々ってそういうことをしたがるよね。で、お隣ではウッカリ卿がさも当然という顔で頷いている。 「ですが、時折足を運んでお顔を見せて下さるお得意様もおいでになります。何十年もお付き合いのある大切なお客様ばかりで、おいで頂けた時にはお泊めしてお持て成しします。ですから客間はいつでもお客様をお迎えできるようにしてあるんです。……あ、アツミ様とササキ様はこちらのお部屋です」 従者用の部屋も立派なもんだった。王都の下町にある俺のねぐらとは雲泥の差だ。考えてみりゃ、大貴族の従者ってのは分家の下級貴族だったり、荘園主の息子の行儀見習いだったりするから、そうそう召使扱いはできないもんな。ちなみに前王の息子で、王宮内に部屋がありながら、どこの兵舎だってくらい殺風景な部屋で暮らしている幼馴染も、感心した顔で部屋を見回している。 「よろしければ中庭でお茶をと祖父が申してます。もしこの後のご予定がなければ中庭においでください」 てな流れで、俺達はお茶を頂きに中庭に向かった。何だかんだとあって、もうそろそろ夕刻だし、時間はたっぷりあるし、そもそも目的だった銀細工にぐぐっと近づいたわけだし、何も焦ることはないしってことで。 「まさか、伝統街の裏側がこんなに広くなってるなんて、びっくりしました」 ルルド工房の中庭。お茶とお菓子で一服中。ミツエモン坊っちゃんが言った。 「初めてご覧になった方は、皆さん驚かれますよ」 爺さんが応え、スーヴェルフェミナちゃんもにこやかに頷いている。 「何せ表通りも狭ければ、ぎゅうぎゅう詰めの建物も全て小さいですからな。下手をすると屋根があるだけで、露店と大して変わらない店も多い。しかしずっと昔、まだ『街』とも呼べなかった頃、ここもずっと広々しておったらしいのです。初期の頃の商店は大きく、その奥に家や作業場や、八百屋なら畑、肉屋なら牛小屋や鳥小屋などを備えた店もあったと聞いております。私共の工房も、そんな時代にできあがったのですな」 へえと坊っちゃん達が頷いた。 「ですが、街が商人と職人の街として発展していく中で、土地は切り売りされてどんどん小さくなり、現在の、伝統街の特徴とも申すべき、間口は狭く、奥が深いという形ができあがったのです。今となっては、私共のように家も土地も売ることなく続いてきた商店はほんの数店となってしまいました。ヴェスタグリューネでは、このような昔ながらの商店を、真の意味で『老舗』と呼んでおります」 なるほどルルド工房が別格扱いされてるわけだ。 俺は同じ卓で坊っちゃん達と一緒にお茶を貰いながら、ぐるりと頭を回して周囲を確認した。 周囲は、あの狭っ苦しい伝統街のきちきちに詰まった建物の裏側とはとても思えないほど広々としていた。 店の裏口は、裏口と呼ぶのが申し訳ないほど立派なもんだった。豪壮ですらある。自宅に通じるってだけじゃなく、本当に大切な客やお得意さんを案内するのがこの扉だからだ。 店は、間口からすればそれなりに広いが、王都の商店に比べると格段に小さくて、店の陳列棚に全ての商品を並べることはできない。 だから、店に並べているのは言ってみりゃあ見本みたいなモノで、さほど高価なものを置いてるわけでもない。 本当に良いお客はこの裏口から邸に招き入れ、邸の中の専用の部屋でその客にふさわしい商品を開陳する、ということになってるわけだ。 当然裏口の方が上等になるし、裏口から邸に通じる中庭も、小さいながら庭園と呼んだ方が相応しいほど整えられている。何せ、ちょっとした四阿や噴水まであるんだから。ちなみに、俺達が今お茶してんのも、その四阿の中だ。 敷地の周囲、そしてあちらこちらに、背の高い樹木が聳えている。これがまた上手く配置されていて、まるで林のような奥行きを感じさせてくれる。この木々が見事な目くらましとなっていて、この敷地が建物の密集地の中にあるってことを忘れさせてくれている。 で、工房はどこにあるかというと、店や邸、それから木々と離れた場所に独立してあるんだそうな。 何でも、銀細工ってのは火を使うし、細工に結構音がするらしく、建物から離す必要があるらしい。間違って火なんぞ出して延焼なんてことになれば、街が壊滅しちまうしな。 「今日はごゆっくりなさって、明日から色々と観て廻られるとよろしいでしょう。街でも工房でも、スーがご案内いたします。どうぞご遠慮なく仰って下さい」 え? と、坊っちゃんの表情がちょっとだけ変わった。 「あの。スーヴェルフェミナさんは、競技会に作品を出品するんじゃないんですか? それはもう出来上がって……」 「ああ、いえいえ」 爺さんがとんでもないと、首と手の両方を振った。で、スーヴェルフェミナちゃんはというと、それまでにこやかだったのが、やにわに表情を曇らせてしまった。 「修行らしい修行の1つもしていないのですから、そのような、いえもう、とんでもないことでございますよ」 「でも」ケンシロウ坊っちゃんが慎重に言葉を続ける。「ご自分の工房をお持ちだとか。すごいことですよね?」 「あれは! いえいえ、それはもう、マリーア姫様のお先走りというものですよ。あのお方は、少々分りにくくはありますが、本当はお心根の優しい、親切な方でいらっしゃいます。ただ…これはもうご存知のことと思いますが、ご身分の高さと世間知らずが災いして、親切心が仇となってしまうことが往々にしてあるのですよ。孫の工房についても然り。スーが己の工房を持って職人面するなど、100年早いと……」 「でもお爺ちゃん!」 堪らず、という様子でスーヴェルフェミナちゃんが声を上げた。 一瞬沈黙が場を覆ったが、その次に爺さんが見せた表情はかなりのものだった。それはこれまでの「祖父」の顔じゃあ全くなく、紛れもない筋金入りの職人、名人と謳われる親方の、鋼のように厳しい眼差しだった。 ゴクッと、誰かが喉を鳴らす音がした。 「スー?」 ぎろりと睨まれて、ヒュっと肩を竦ませたスーヴェルフェミナちゃんだったが、爺さんの怒りには慣れているのか、それとも生来気が強いのか、小さく唇を噛むと、キッと眦を上げて爺さんを見返した。 「お爺ちゃん、私、参加申し込みを済ませてあるの!」 「だから何じゃ。お前ごときにロシュフォールを代表する力があると、まさか本気で思っているわけではあるまい?」 「そんな図々しくない。でも、今の私の実力でどこまで通用するか、それだけでも知りたいって……」 「お前にはまだ、実力などと呼べるものは何1つとしてない!」 「でも!」 「才能があるなどと煽てられてその気になるとは! 恥ずかしいとは思わんのか!?」 「煽てられてその気になったわけじゃない!」 「なっとるだろうが! でなくてどうしてポゥムやゲイド達の寄り合いなんぞに出たと言うんじゃ! あんな、修行も中途半端に投げ出すような、細工師と名乗るもおこがましい連中の仲間になったら最後、才能なんぞあったとしても瞬く間に枯れ果ててしまうわい!」 「お爺ちゃん! ラス達は一生懸命よ! ロシュフォールの銀細工を、一部の選ばれた人だけのものにしておいちゃいけないって、変えていきたいって! …ねえ、お爺ちゃん、私、本当に銀細工師になりたいの! だから、今の私にどこまでやれるのか、それを確かめさせて。お願い!」 「スー!!」 カシャン、と。陶器の鳴る小さな音が響いた。だがそれだけでも、爺さん達に冷や水を掛けるには充分だったらしい。2人はハッと動きを止めると、勢い良く、揃って俺達に顔を向け、それからまたまた揃って一気に顔を真っ赤に染めた。 「こ、これは何と…! いい年をして恥ずかしい真似を!!」 「申し訳ありませんっ!」 爺さんとスーヴェルフェミナちゃんが慌てて頭を下げた。 「…あの、いえ、えーと……お邪魔しちゃって……」 ミツエモン坊っちゃんの両の掌の間で、カップのお茶が波打っている。 「スーヴェルフェミナさんには大変な才能があると耳にしましたが」 何事もなかったかのような穏やかな口調で、ケンシロウ坊っちゃんが続けた。 「いいえっ、とんでもないです!」スーヴェルフェミナちゃんのほっぺたがますます赤くなった。「あの、私、……子供の頃から見よう見真似でやってただけで、お爺ちゃん、あの、祖父の言う通り、修行らしい修行はしてないんです。ですから……祖父の言うことはもっともなんです。ただ私…こんな挑戦ができる機会はもうないだろうし、だから……」 「そうですか」 コクッと頷き、お茶を一口飲み、それからケンシロウ坊っちゃんが改めて口を開いた。 「僕の生まれ育った国に、こんな言葉があります。『天才は、1分の才能と9割9分の努力でできている』と。長い地道な努力や修行という土台があってこそ、才能やひらめきが花を咲かせ、実を結ぶということなんでしょうね」 「……天才は…1分の才能と……」 「9割9分の、努力……」 言葉を口の中で転がして、味わうように呟くと、2人は驚いたように目を瞠った。……動きが見事に揃っている。 「それは……素晴らしい言葉をお教え頂きました!」 爺さんが興奮したように声を張り上げた。御座なりじゃない真剣な目をしているから、ちょっとびっくりした。 「そうなのですよ! 私はそれを皆に言いたいのです。自分には才能があるのだとか、なのに雑用ばかりやらせるだの、いつまでも独立を許さないだの、近頃の若造ときたら……! 己の才能など、どうして自分で測れましょう。そして本物の才能があればこそ、修行に到達点などあってはならんのです。工房での仕事は、どんなものでも修行です。例え雑用に見えても、その作業1つ1つに意味があるのです。それに、本当に独り立ちできるほどの力があると認めれば、私だっていつでも独立を許します。それがないから認めないだけだというのに……! 絶え間ない修行と努力、これがなくてどうして才能が実を結ぶでしょうか。いやまこと、良い言葉を教えて頂きました! ……このお言葉、工房に貼り出したいと思いますが、よろしゅうございましょうか?」 「ええ、それはもちろん。先人の言葉ですから、僕に断る必要などありません」 「……あの…」 おずおずと、スーヴェルフェミナちゃんが会話に入ってきた。 「今、お生まれになった国と仰せでしたが……眞魔国でお生まれになったのでは……」 「僕とミツエモンは混血なんですよ。僕達2人とも、生まれ育ったのは眞魔国とは別の、人間の国です」 「混血…で、いらっしゃると……」 おやま、爺さんと孫が揃って絶句しちまった。困ったね、こりゃ。 「坊っちゃん達だけでなく」カクノシンが口を挟む。「俺とスケさんも混血です」 混血はお嫌いですか? カクノシンにさりげなく尋ねられて、爺さん達がハッと目を瞠った。 「いえっ、いいえっ、とんでもありません! 血に混じるも混じらんもない……そんな……そんなことでは……」 そう言った爺さんの視線が、複雑な色を湛え、またもミツエモン坊っちゃんに向けられた。 何かを……求めるような、訴えたいような……。イヤな色じゃないんだけどね。不愉快とか嫌悪とか、そんなモノは全然ないと思う。ただ、何か重たいものを抱え込んでるみたいな感じなんだなあ。 坊っちゃんも気づいたんだろう、きょとんと爺さんを見返している。 「……失礼、いたしました」爺さんが居住まいを正して言う。「皆様が混血であろうと何であろうと、何ら関係ありません。私共の家に、混血を論うような愚か者は1人もおりません。もし万一、そのことで皆様にご不快な思いをさせる者がおりましたら仰って下さい。キツく罰しますゆえ……」 「いいえ、そのようなことは……。こちらこそ失礼しました」 それっきり、お茶の時間は何とも微妙な空気に包まれ続けた。 □□□□□ 「先ほどは……ごめんなさい。私も祖父も、あの……」 「気にしないで」ミツエモン坊っちゃんが笑った。「混血だって気にしないんだろ?」 「もちろんです!」 スーヴェルフェミナちゃんが「一生懸命っ!」って顔で言った。 赤く染まっていた西の空もだんだんくすんできた頃。 観光も工房見学も全部明日にして今日は休もうと、夕食までの一時、俺達は揃って部屋に戻ってきた。だがすぐ、新しいお茶とお菓子を携えて彼女が訪ねてきた。 「あのっ、すごくおかしな態度を取ってしまったと思って、私……! お話しておいた方が良いと思って…」 私、腹違いの兄がいたんです! 何かと聞く前に、スーヴェルフェミナちゃんが力を籠めて言った。その勢いと口調に、もしかしたら彼女は、この部屋に入る前に話すことを練習していたのかなと思った。 兄がいたと言われて、でも何と反応したら良いのやら。俺達はただ話の続きを待った。 「その、父が、私の母と結婚する前にお付き合いしていた方で、父はその方と結婚するつもりでいたそうです。ただ……その方が、あのヴィルナさんと仰るのですが、山の方で……混血だったんです」 坊っちゃんがちょっと首を傾げて何か聞きたそうにしたが、とりあえず黙って話の続きを待った。 「昔、あの戦争の前から戦時中、混血の方々が受けた仕打ちは……とてもひどいものでした。皆さんは…よくご存知かと思いますが」 「実体験としてね」 コクッと小さく頷いて、続きを話そうとするスーヴェルフェミナちゃん。 「他のところは存じませんが、ロシュフォールでも……混血の魔族は生活を、いえ、生命を脅かされる毎日だったと、幼かった私ですら記憶しています。ですから……父とヴィルナさんも大変な思いをしていたのだと…思います。何と申しましても、ルルドは貴族でこそありませんが、ロシュフォールでも指折りの旧家であり名門の老舗です。そしてお爺ちゃん、祖父は、ご領主様の覚えも目出度い名職人です。父も、祖父の跡を継ぐのにふさわしい腕を持つ職人だったそうです。だから親戚も、取引先の皆さんも、古くからのお客様も、商人組合の人たちも皆…皆で大反対したそうです」 「……お爺さんは?」 ケンシロウ坊っちゃんが尋ねた。 「…祖父は…公正な人です。ですから、混血だという理由で反対したりは……」 「賛成した?」 そこでほんのわずかスーヴェルフェミナちゃんが詰まった。 「………いえ」小さな声で答える。「口に出しては……。祖父も悩んだのだと思います。混血だからという理由で、父と父の愛する人を引き離すような祖父ではありません。でも……」 「ご領主様の覚えも目出度いしね。で、ロシュフォールのご領主様は筋金入りの混血嫌いだ」 目を伏せて、少女がさらに小さく消え入りそうな声で「はい」と答えた。 「それでも父の意志は固かったそうです。でも……ヴィルナさんは……」 「君のお母さんと結婚して君が生まれているってことは、身を引いたってことかな?」 「はい。……ヴィルナさんは自分のために父の立場を悪くしたくないと、山に帰って2度と父と会おうとしなかったそうです。やがて父も諦めて、しばらくして親戚の勧めた相手、私の母ですけど、その相手と結婚しました。でも、ヴィルナさんはその間に……」 「子供を産んでた。それがお兄さんだね?」 「はい。ヴィルナさんもご実家の誰も、そのことを祖父にも父にも教えていませんでした。ですが、私が幼かったある時、山から来て工房に新しく弟子入りした少年が……兄だということが分りました」 「どうして分ったの?」 「本人が、祖父と父の2人に告白したそうです。実はヴィルナさんは兄が山を下りる直前に亡くなっていて、それを切っ掛けに、兄はずっと会いたいと願っていた祖父と父の下にやってきたんです。すぐに確認して事実だと判りました。父は喜んで、息子だと公にしようとしたそうですが、本人が断ったそうです。その頃はまだ私の母も存命でしたし、自分の存在が家族や工房の迷惑になるかもしれないと……。そんなことは望んでいない、息子と認めてくれただけで嬉しい、できれば弟子の1人として、1人前の銀細工職人になれるよう修行させて欲しい。そう言ったそうです。……山で生まれ育ったとは思えないくらい生真面目な性格だったと……聞いています」 「君は覚えていないの?」 「いえ……。私が覚えているのは、暇があるとよく遊んでくれた優しいお兄ちゃんだった、と。なかなか才能があると、父がとても嬉しそうに口にしていたことも覚えています。でも、私にとってはまだ、大勢いるお弟子さんや職人さんの1人でしかなくて……」 「そうか……まあ、そうだろうね。それでそのお兄さんは?」 「……亡くなりました……。戦死、です。兄は……」 ルッテンベルク師団の一員でした。 □□□□□ 火薬が足元で爆発した。 そんな衝撃が、いきなり俺達を襲った。 正直、膝つき合わせて、何でまたこんな身の上話を聞かされないと? と生あくび半分だった頭をぶん殴られたような気がした。 ……『ルッテンベルク師団』は、俺と隊長の命の底の部分にずっと根っ子を張って、俺達の命の一部になっちまった名前だ。 俺達は、全員が目を瞠り、素早く視線を交わしあった。 「……聞いて、良いかな? お兄さんの名前は?」 ケンシロウ坊っちゃんが何気なく質問を続ける。 「アヴェイ・ヴィオル。ヴィオと、呼ばれていました」 隊長と、互いの目の中を探り合う。そして互いにそれを読み取った。……知らない名だ。 小さく首を振る隊長を横目で確認して、ケンシロウ坊っちゃんが頷いた。 「ここで修行してたってことは、正規の軍人じゃなかったんだよね? 志願兵?」 「ええ、もちろんそうです。……兄は、自分もそうでしょうが、お母さん、ヴィルナさんのこともあったんだと思います。混血が、ただ混血だというだけで、まるで生きる価値もないみたいに蔑まれることに我慢がならなかったんです。実際……戦争が激しくなるにつれて、兄は工房の仲間から辛い仕打ちを受けるようになっていました。父は懸命に庇って、息子だってことを皆に言おうとしたらしいのですが、兄は最後までそれを拒んだそうです。息子だからという理由で扱いが変わっても、それは自分を認めたからじゃない、ルルドに対しての遠慮に過ぎない、自分を蔑む気持ちは何も変わらないのだから、と……」 「お兄さんの言う通りだ」 「はい、私もそう思います。……私は、こういったことは後から教えてもらって、その当時は何も分っていませんでした。それが……兄に対して申し訳なくて……」 「で。お兄さんは混血への偏見に対抗するため、ルッテンベルク師団に志願したわけだね?」 「はい。父は大反対したそうです。兵士として何の訓練も受けていないのに、いきなり最前線に送られたら間違いなく死んでしまう。でも兄は……飛び出して行ってしまったんです。そして……帰ってきませんでした」 ふう、とため息をもらしてしまった。 じゃあ記憶がなくても仕方がない。 少人数の師団つったって、それでも4000人いたんだ。何年も一緒に戦っていたりとか、志願兵でも例えばあの『鉄腕』みたいに、さんざん修羅場を潜り抜けてきた喧嘩屋のように目立つヤツならまだしも、剣も禄に握ったことのない職人じゃあ記憶の端にも掛かりゃしない。 「父は、兄に期待していたんだと思います。いずれは息子だと発表して、ルルドを継がせたいと。でも……。よほど落胆したんでしょう、兄が戻ってこないことがはっきりしてから、父は急激に病がちになり、しばらくして……。ヴィオが父の息子であったことは、兄の戦死がはっきりして間もなく周囲に知れました」 「非難されたりした?」 「いいえ、それどころか……。ルルドの希代の名職人である祖父の孫が、救国の英雄ルッテンベルク師団の一員として人間と戦い、名誉の戦死を遂げたと……大評判になりました。ご領主様からも、お見舞いのお言葉とお品を頂戴したんです。……皮肉でしょう?」 「とてつもなく、ね。それにしても…ふーん、あのフォンロシュフォール卿がお見舞いを、ね……」 「あの」という言葉にスーヴェルフェミナちゃんがわずかに反応したが、それでも何も言わずに頷いた。 「はい。ロシュフォールの英雄に哀悼の意を表する、と」 けっ。…っととと。 「ところで、ここまでの話の中にほとんどお爺さんのことが出てこないね」 さすがにケンシロウ坊っちゃんは目ざとい。ま、俺も気づいていたけどね。 スーヴェルフェミナちゃんが視線を落とした。 「祖父は……何も言いませんでしたし、何も……しませんでした。兄が自分の孫だと分った時も、皆から苛められている時も、父が何とかしようとした時も、そして、兄がルッテンベルク師団に入ろうとしたときも……。混血だから卑しいなどと、そんな考えを祖父は全く持っていません。何度も申しますが、その点では祖父は公正な人です。だからこそ、父も私も、そんな偏見を持たずに育ったと思います。ですが……」 「だからといって、混血をあからさまに庇ったり、孫だと正式に認めたり、偏見を持つ者を諭したりはしなかった」 「できなかった、んです。どれだけそれが卑怯なことだと分かっていても。それほどルルドは……」 「フォンロシュフォール家に近かった。どうしても、フォンロシュフォール卿の勘気に触れることだけはしたくなかった」 「そうなんです! ご領主様のご性格を近くで見知っていた祖父は、それがどれほど危険なことか良く分っていました。だから沈黙を守っていたんです。でも、だからこそ……」 祖父は、本当に後悔してるんです…! スーヴェルフェミナちゃんが、絞り出すようにそう言った。 「私は、ヴィルナさんと兄のこれらのことについて、ずっと後から祖父自身や親戚達から聞かされて知りました。特に祖父は、自分が何をしたか、いいえ、すべきだったことをしなかったか、それがどれほど人として許されないことかを私に告白しました。祖父は、父とヴィルナさんのことも、認めてやりたいと考えていたんです。そして父と同じ様に、兄に会えたことを喜んでいたんです。祖父は、間違いなく兄を愛していました。私に話してくれる思い出話の端々からそれが分ります。祖父もまた、兄に期待を掛けていたんです。兄を守りたいと、兄を戦地に行かせたくないと、そして兄が無事に戻ってくるようにと、心から願っていたんです。でも……そんな思いのひとつとして、祖父は兄に伝えることをしませんでした。兄は、祖父を心から尊敬していたそうです。でも、兄は祖父から愛されていたことを知らずに……なくなりました。祖父はそのことでずっと自分を責め続けています。その兄が……」 ミツエモン様と同じ赤毛だったんです。 そう言って、スーヴェルフェミナちゃんは爺さんと同じ、懐かしむような視線を坊っちゃんに向けた。 「ごめんなさい、長々と自分の家のこんな話を……」 長い沈黙の後、わずかに後悔したようにスーヴェルフェミナちゃんが頭を垂れて言った。 思わず顔を見合わせて、最初に頷いたのはカクノシンだった。 実際、こういう状態の女の子の相手をするのにうってつけなのは、素直で心優しい坊っちゃんか、「誠実」を絵にしてみたら、ついうっかりこんなのになりましたって男のカクさんこと隊長だろう。……いや別に、それが外面だけだとか、そういうことを言いたいわけじゃないから。うん。 「そんな顔をなさらないで下さい」穏やかな笑顔で応えるカクノシン。「実は、さきほどのお爺さまのご様子を不思議に思っていたんです。ですから俺達としては、事情を教えていただけて良かったと思います」 「そう仰って頂けると……。あの、これはもう昔の話ですので、皆さんはどうかお気になさらないで下さい。あの、それじゃあ私はこれで失礼します。あ、今夜の食事はご一緒にと祖父が申しております。準備が整ったらお呼びしますね。それから、明日からの朝食はこちらの食堂にお運びします。その方が皆さんも気楽になされると思いますし。食事の間にお風呂や寝室の用意を済ませておきます。この離れでは、どうぞご自由にお過ごしください。何か御用がありましたら、どうかご遠慮なく、どんどん呼びつけてくださいね」 それではと、スーヴェルフェミナちゃんが部屋を出て行こうとした。その時。 「あ! あのっ、スーヴェルフェミナさん!」 ミツエモン坊っちゃんが呼び止めた。 「はい?」 「あの……銀細工の競技会、出品は諦めるんですか?」 あ、と小さく口を開けて、それからスーヴェルフェミナちゃんはきゅっと唇を噛んだ。そして、何かを決意したようにまっすぐ坊っちゃんと向かい合った。 「いいえ。祖父は怒るでしょうけど、でも私、挑戦すると決めたことを諦めたくないんです。私、いつかお爺ちゃんの、祖父の跡を継いで、ルルドの名前を眞魔国中、いいえ、世界中に広めたいって思ってるんです! 父や兄のためもありますし、何より私自身が銀細工を心から愛しているから。だから! 修行だってしっかりやるし、難しい挑戦だってどんどんしていきたい! ……あの、やっぱり図々しいって思われますか…?」 「ううん、全然! 本当にやりたいって思ってることを貫けるって、素晴らしいことだと思うよ? それに、夢は諦めなければ絶対叶うって思うし。やりぬく気持ちを持ってる人って、それだけでもおれ、尊敬する!」 尊敬なんて…! と、スーヴェルフェミナちゃんが瞬く間に真っ赤になった。坊っちゃんの言葉は嘘がないから、一気に照れくさくなっちまった彼女の気持ちは良く分る。 「ありがとうございます! 私、がんばります! ……あ、あの、そうだ、私のこと、よろしければスーって呼んでください」 「うん、分った。おれ達のことも、様付けはいらないから。おれのことはミツエモンって呼んでくれたら嬉しいな」 「僕はできればケンちゃんって呼んで欲しいなー」 2人の無邪気な笑顔に、スーヴェルフェミナちゃんがクスクスッと楽しそうに吹き出した。 「はい! あらためて、よろしくお願いします! じゃあ、これで」 そう言って、彼女は入ってきたときは全然違う笑顔で部屋を出て行った。 そして俺達はといえば、扉がパタンと閉まった途端、一斉に深々とため息を漏らしてしまった。 「まさかあんな身の上話を聞かされるとはねー」 「まったくです。よもや、ルッテンベルク師団の名前をここで出されるとは……」 「コンラッド、ヨザックも、そのヴィオさんって人のことは……」 「彼女やご老体には申し訳ないのですが……」 「俺も……済みません」 謝ることでもないんだが、坊っちゃんの顔を見たら何とも申し訳なさが込み上げてきちまった。 「仕方ないよ、渋谷、じゃない、ミツエモン。いくらこの2人だって、4000人の師団全員の名前と顔を覚えるのは無理だよ」 「志願兵ならば猶更だな」ウッカリ卿も厳しい顔で言った。「コンラートは師団の司令官だったんだ。それも急ごしらえで結成された……。あのような状況の中では、小隊長の名前だって覚えている余裕はないはずだ」 「いや」カクノシン、隊長が否定した。「小隊長なら全員覚えている。分隊長もだ。志願兵でも、印象深く覚えている者が何人もいる」 「そ、そうなのか?」 「ああ。だが彼の名前は全く記憶にないな……。遺族へはいつも俺が自分で手紙を出すようにしていたんだが、あの時は……」 「下手すりゃお前自身がイッちまう状態だったしな。……腸がはみ出てた」 グッと、嫌なことを思い出したと言いたげに眉を顰め、それから「…ああ、そうだったな」と頷いた。 「…あ、あの、えーとぉ」 話を変えようと思ったんだろう、ミツエモン坊っちゃんが口をパクパクさせながら周りを見回した。 「あ、ああっ、そうだっ、おれ、聞きたいことがあったんだった! ほらあの、スーヴェルフェミナさんが言ってたことばの中でちょっと……」 「もしかして、『山』ですか?」 隊長、えっと、カクノシンが乗った。察しの良い護衛に、坊っちゃんが嬉しそうに笑う。 「そう! 何かさ、山って言葉を特別そうに言ってたような気がして」 「ロシュフォールでは、確かに特別ですね」 「…ってーと?」 首を傾げる坊っちゃんに微笑みかけて、カクノシンが窓辺に寄った。そして窓を開け、外に顔を向けた。 「もう暗くなりましたし、これだけ建物が密集していると見えにくいのですが……ロシュフォールは北に、この領地にとって重要な意味のある山があります。鉱山です」 「ああ……銀とかの?」 「そうです。……我が国は山岳地帯も多く、山に囲まれた地方は珍しくありません。しかしどこもかしこも鉱山という訳にはいきません。特に良質な鉱床となると。このロシュフォールの北に位置する鉱山は、眞魔国でも指折りの良質な鉱山なんです」 うん、と坊っちゃん達が頷く。 「ロシュフォールは四方を山に囲まれていますが、不思議なことに、鉱山と呼べる山は北側にしかありません。例えば…士官候補生のマチアスですが……」 「マーくん?」 「はい。彼もロシュフォールの領民で山里育ちですが、彼は南側にある山の生まれです。南の山は鉱山とは全く縁がありません」 「そうなんだ」 「そして、鉱山があるからには、鉱石を掘らなくてはなりません。あの山に良い鉱床があることは、建国して間もなく判明しましたが、その頃から鉱石を掘るのは罪人と決まっていました」 あ、と声を上げてから、「そっか」と頷き、ミツエモン坊っちゃんがケンシロウ坊っちゃんに顔を向けた。 「島流しってそういうのだったんだよな?」 意味は判らなかったが、ケンシロウ坊っちゃんにはすぐに通じたらしい。 「佐渡はね。あそこは金山があったから、流人は強制的に鉱山に送られたんだ。ま、状況としては同じだね」 坊っちゃん達が頷きあい、それからカクノシンに顔を戻した。カクノシンも頷き返す。 「長くそういう状態が続きましたが、次第に街にいられなくなった者など、いわゆる無法者や流れ者が居つくようになり、罪人に代わって彼らが採掘に従事するようになりました。そして、長い年月の間に『山の街』ができあがっていったのです。街といっても、大きな村のような感じで……そうですね、ヴィジュアル的なイメージですが……」 そう言ってからちょっとだけ宙を睨む。 「マチアスの故郷は、そう、スイス、ハイジの世界ですね」 「あ、分る分る」 「そして『山の街』ですが、雰囲気としてはアメリカの開拓時代、つまり西部劇の世界です」 「あー、なるほどー!」 「それはイメージしやすい例だね」 でしょう? カクノシンが自慢気に微笑んだ。……俺とウッカリ卿はさっぱり分んねーんだけどな。ほら、ウッカリ卿こと閣下がそろそろイライラしだしているぞ? 今にも「せーぶげきとは何だっ、男か!?」なーんて叫びだしそうだ。 「実際」構わずカクノシンが続ける。「緑はほとんどなく、岩肌がむき出しの山ばかりに囲まれて、植物と言えばサボテンもどきばかり。土ぼこりが酷くて、街はロシュフォールとは思えないほど殺風景です」 「西部劇に出てくる街って、ホントに土埃っぽい感じだもんな。ガンマンもいる?」 「ガンマンはさすがに。でも、自己流の剣を自慢にしている者は掃いて捨てるほどいますね。具体的なことでしたら、ヨザ、スケさんが詳しいですよ?」 「そうなのか!?」 おっと、お鉢がこっちに回ってきたか。 よほど興味があるのか、坊っちゃんのでっかい目がキラキラしてる。となりゃあ、ここはご期待に沿わなくちゃねえ。 「まあ、お仕事で潜入する必要があったりしましてねー。しばらく住み着いてたことがありますよん。そん時、『街』の顔役の1人に気に入られちゃって、片腕になっちゃくれないかなーんて頼まれたりして」 「おおっ、すっげー」 「情景が目に浮かぶようだね」 寝床で冒険譚を読み聞かされる子供さながら、坊っちゃんってばお目々がキラッキラしてる。 坊っちゃんお2人と並んで座り、むっつりと腕組みしていたウッカリ卿閣下も、同じ軍内の任務とはいえ、ご自分とは全く縁のない諜報員の昔話に心惹かれたらしく、腕組みを解いて真っ直ぐ俺に向かって座り直した。 「ロシュフォールの鉱山経営を探るためか?」 「まあ……そんなトコでしょうかね。坊っちゃん達にはほら、王都を出発する前に、ロシュフォールについて事前にいくつかお話したでしょ? 前摂政失脚の頃のちょっとした混乱について」 「あー、フォンロシュフォール卿が領内の粛清を行ったって、あれ?」 「一族にさえも容赦なかったって話だったね。その結果、ロシュフォールの権力はフォンロシュフォール本家に集中することになった」 「そう、そん時の話です。フォンロシュフォール卿は、一族の、特に長老格の家と結びつき、領内の闇の部分を仕切って甘い汁を啜っていた街の、これは下界の街の話ですが、顔役達を根絶やしにしようとしました。でも、事は簡単じゃない。そういう連中ってのは、生き延びる方法をいくつも用意しておくもんです。確かにフォンロシュフォール卿の攻撃は凄まじかった。だけど確実に生き延びたのがいて、そいつらはほとんどが1箇所に逃げ込みました。それが『山の街』、鉱山街です」 「フォンロシュフォール卿はそれを見逃したのかい?」 不思議そうに小首を傾けているのはケンシロウ坊っちゃん。確かにこのお方なら、敵と看做したモノはどんなネズミだろうと徹底的に根絶やしにするだろう。 「そこが『山の街』なんです。何つーか…独特の歴史っつーか文化っつーか…てのがありまして」 「というと?」 「さっき隊長、カクさんも言ってたように、大昔、鉱石を掘るのは罪人の役目でした。それっくらい過酷な作業だったわけです。それが、だんだん流人や亡命者みたいな、行き場をなくした連中、どんな過酷な仕事をさせられても、そこ以外に居場所がないって崖っぷちの連中が集まって仕事をするようになり、街が出来上がったわけです。つまり歴史的に、流れ者は同胞も同じ、よほどの理由がない限り拒まないって性質があるんですよ」 「それが領主に逆らう者であっても?」 「そうです。そして、歴代のフォンロシュフォール卿もそれをほぼ黙認してきました。じゃないと、ロシュフォール最大の産業である鉱山の経営が成り立たなくなる。採石も、鉱石の製錬精製も、完璧なものに仕上げたのは『街』です。フォンロシュフォールじゃない。『街』に代々生まれ育って、あの仕事に従事してきた『山の者』が、数千年掛けて完成させたんです。『山の街』が失われれば、鉱山も潰れる。何代前かのフォンロシュフォール卿がしまったと気づいた時には、潰せない力を身につけていたってわけです」 「それは……面白いな」ケンシロウ坊っちゃんがニッと笑った。「だけど、暗黒街のヤクザが大挙して流れ込んできたんじゃ、街の治安は大変なんじゃないかな?」 「そういう点じゃあ厳しいんですよ、あの『街』は。今言った様に、本来的に来るもの拒まず、去る者追わずが基本なんです。ただし、来た以上は『街』の掟に従う。これはもう絶対です。掟に逆らったり違反したら、容赦なく罰せられます。こいつは見せしめって意味もあるから、文字通り叩きのめされます。下手すりゃ命も取られます。むしろ、命で支払う方が多いくらいです。俺が見た、あの粛清の時期の『街』はそういう状態でしたね。まあ、危険な連中が群れなしてきたっていう特殊な状態だったのもありますが……」 「つまり」ケンシロウ坊っちゃんが眉を顰めて言った。「街には独自の法がある。これにはロシュフォールの法も、もしかすると国法も及ばない、ってことなのかな?」 「まあ……何だかんだつってもロシュフォール領内の、フォンロシュフォールの支配下にある『街』ですから、領主や魔王陛下のご威光を無視してるってことはないでしょうが……。けどまあ元が罪人や流人ですからね、反骨の気概は染み付いてると思います。俺達には俺達のやり方がある、って感じで」 「ふーん……。あんまり面白いって笑っていられる状態でもなさそうだな……」 「なあ、ヨザ、ととっ、スケさん」 ミツエモン坊っちゃんが手を挙げた。別にそんな必要ないのに。 「はい、ご質問をどうぞ、坊っちゃん」 「そんな厳しい掟に縛られて、街の人はひどい思いをしてたりしないのか?」 「いいえ、そうでもないですね。むしろ、掟を守る限り、『街』では意外と平和に暮らすことができます。掟は『街』の者の生活を縛るものじゃなく、治安を守るためのものですから。だから、全体に荒くれ者が多いにも関らず、夜の夜中に女が1人で外を歩いても、危険なことはほとんどないんです。……これは俺がこの目で見たんですが、酒場で酔っ払った男が通り掛った娘にちょっかいを掛けたんです。その女が商売女じゃなく、鉱夫の娘だったもんですから、その男は木に逆さづりにされて、水の入った樽に何度も頭を突っ込まれてました。そいつも粛清から『山』に逃げ込んできた下界の男でしたんで、ほとんど溺れるまでやられてましたね。あと、集団での喧嘩や私闘は禁止でしたが、立会人を置いての決闘はしょっちゅうありました。これで負けたら、命を落としても文句は言えません。それに、決闘で負けた側の仇討ちは許されませんでしたね。私闘と看做されて罰を受けます」 「法を犯した者を、フォンロシュフォールの司直の手に渡すことはしないんだね?」 「それは絶対にあり得ませんね。自分達の『街』でおきた不始末は、自分達でカタをつけるってのが基本です」 「……それを今まで放ってきたとはね……。これは、山はそういうものだと悠長に認めていられる問題じゃないよ? 渋谷、どう思う?」 「うん……。なあヨザック、もう1つ質問なんだけど、その街、そんなに独自のやり方をしてるんだったら、病院とか学校とかはどうなってるんだ? 何か、話を聞いてると……国が派遣する教師や医者を簡単に受け入れてくれないような気がするんだけど……」 「……あー……」 そうだった、その問題があるんだった。うっかりしてた。 「済みません。その……『街』には、坊っちゃ、いやあの、当代陛下が定められた病院や学校は……建てられていません。正直言いまして、フォンロシュフォール卿自身が、病院はまだしも学校の設置にあまり積極的じゃなかったこともありましたんで、『街』が最初に拒絶した時から、そのままになってたはずです」 「下々の者に学問なんて必要ないってことだね?」 「そういう考えが、いまだに上流の方々には染み付いてますからね」 「僕は違うぞ!」 突然ウッカリ卿、閣下が声を上げた。 「僕は教育の必要性についてはちゃんと理解している! だから、ビーレフェルトでは法に定められたとおり、病院も学校も領内の隅々まで行き渡らせてある!」 「君は確かにそうだね、フォンビーレフェルト卿。でも、君の伯父上はどうかな?」 猊下(今のはどう考えても『猊下』のお言葉だもんな)に言われて、いきり立っていた閣下が、ウッと詰まってしまった。今さら確かめるこっちゃないが、当代ビーレフェルトのご当主殿も守旧派の巨頭だ。 「つまりさ、村田、おれ達の基本政策は、国内においてもまだ完成されてない、道はまだまだ長く続くってことなんだよな」 「うん、そうだね。でも君の治世はある意味始まったばかりだよ? どんな政策も、すぐに完成させることなんてできるわけがない。少しずつ、でも確実に変えていこう。僕達にはそれができるはずだ。だろ? 渋谷」 「おう。……それにしてもさ、国内にも、おれ達の知らない民の暮らしがあるんだな。で? ヨザック、じゃない、スケさん。そんな特別な街でも、怪しまれたりせずに任務を果たせたのか?」 「もちろんですよ〜。それこそ俺の得意技ですからね。流れ者の剣士崩れと、酒場の歌姫の2重生活を立派にこなしていましたとも!」 「え!? そうなの!?」 「そうでーす。女にも男にもモッテモテで、イロイロ楽しかったなー。うっふっふ」 「うわー、さすがー」 「節操がないだけです。羨ましがっちゃダメですよ、坊っちゃん」 「確かに、お前にはできない技だな、コンラート」 「カクノシンだ、ヴォル、ウッカリ卿。それから、そんなものは技じゃない。こいつのは趣味だ!」 「何とでも言えっての」 その後は、話がグッと砕けていった。 剣士の俺を自分の片腕にと望んだ顔役が、歌姫の俺に「自分の女になれ」と迫ってきたという話には、坊っちゃん達はもちろん、カクノシンもウッカリ卿も腹を抱えて大笑いになった。 そんな感じでその夜は更けていった。 □□□□□ 今日も元気だ、朝飯が美味いっ。 てなわけで、伝統街での2日目の朝がきた。 パイはロシュフォールの名物だが、実際「朝のパイ」、「昼のパイ」、「夜のパイ」と、ちゃんと種類が別れている。ただ、余所者にはその違いがさっぱり分らないってのがまあ……良いんだけど、美味いから。 で、朝飯の、野菜と腸詰と玉子を詰めたパイとお粥、果物の砂糖煮を詰めた食後のパイをがっつり頂戴し、上手いお茶もたっぷり飲んですっかり腹ごしらえができた俺達は、さっそく本日の予定を遂行しようと中庭に出てきた。 坊っちゃんのご希望は、工房の見学だ。 「じゃあ坊っちゃん達は四阿ででも待っててください。誰かに案内を頼んで……」 きます、と言いたかったんだが、俺の舌はそこで動くのをやめた。 これから向かおうとしていた前方、店の裏口が開き、こっちへ向かってやってくるのがいるのに気づいたからだ。もうちょっと具体的に言うと、やってくるのが誰かに気づいたからだ。 「あら、おはよう。下々の者は朝が早いというから来てみたのだけど、本当なのね」 何と、ツンツンマリーアちゃんの、夜襲ならぬ朝襲ときたもんだ。 ……気に入らねーっつーなら、いい加減、ほっといてくれないもんかなあ……。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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