「で? お前は何やってんだ?」 俺の標的が、部屋の窓から外を眺めている。だから俺は、俺が自覚している中で最高に愛想の良い、男受けも女受けも良い、そりゃあもう善人であることが溢れんばかりの笑顔で言ってやった。 「………えーと」 なのにそいつは、ものすごくイヤなものを目にしたかのように盛大に眉を顰め、文句を言いたそうに口を開いてから、ハタと何かを思い出したらしく視線をあちこちに泳がせ始めた。 「……良い、天気だな……とか…?」 何で疑問形なんだ? それに。 「ここ、お前の病室だったと思うんだが、何でお前が起きてて、坊っちゃん達が寝台で寝てるんだぁ?」 ついさっき、俺が部屋を出るまでは2人とも起きてたよな? 俺の目の前の狭い寝台に、2人の坊っちゃんがそれこそ寝苦しそうに眠っている。こんな狭い寝台、2人で寝るのはちょっと無理があると思うんだが……。 それにしても。 自称婚約者同士(自称してるのは片方だけだが)のお2人が、1つ寝台でほとんど抱き合うように寝ているというのに、何でかな、色っぽさとか艶っぽさとか危険な香りが皆無なんだが。 どこからどう見ても遊び疲れた子供が2人、仲良くお昼寝中としか見えない。 「あー……お前がいない間に看護人がおやつを持ってきてくれて。満腹したら、急に眠くなってきたらしい。ほら、その……ひどく興奮していたし、疲れたのもあったと思うから……」 コイツとは思えないほど歯切れが悪い。 「つまり、お前のことを心配しすぎて、ただでさえ疲れてるところに腹もいっぱいになって、眠気に襲われてしまった、と」 泣くほど心配して興奮して、それでお菓子を腹いっぱい食べる、という流れが、何つーかただモンじゃないなあと思う。……単にお子ちゃまなだけかもしれないが。 「あ、ああ。それで、俺の代りに寝台を提供したんだ。俺はそもそも寝る必要なんかないし……」 「ああ、なるほど、元気なんだよな? だったらちょっと俺につきあってくれねぇか?」 良いだろ? 隊長? にーっこり笑ってやると、「標的」コンラッドは唇を変な風にひん曲げて、それから小さくため息をつくと、「分った」と頷いた。 目をつけといたのは、建物の裏、どこにでもある馬小屋のそのまた裏だった。城外の広い敷地に立てられたこの建物の裏手は小さな丘で、今は誰の目もない。 「………割とありがちな場所だな」 コンラッドが呟いた。 「そうかい? けどま、ものには王道ってモンがあるしな」 言い終える前に、俺は軸足をクルッと回転させて振り返ると、間髪入れずに拳を繰り出した。 ガッと顎の骨が鳴ると同時に、コンラッドの身体が吹っ飛んだ。そして背中から馬小屋の壁にぶつかると地面に尻餅をついた。 「こうもまともに喰らうってことは、つまりお前も分かってるってことだよな?」 俺に見下ろされているコンラッドは、地面にへたり込んだまま顎をさすっている。それからチラッと俺を睨み上げ、ため息をついた。 「……ああ…分かってる」 俺はゆっくりと足を投げ出したままのコンラッドの側に歩み寄った。 「時々忘れるらしいから言っとくが、お前は坊っちゃんの側を離れちゃいけないんだよ。何が起ころうが誰がどうなろうが、お前だけは、絶対に、坊っちゃんの側で、坊っちゃんを護ってなきゃ駄目なんだ。……あのな、隊長。んな分りきったこと、今さら俺に言わせるなよ」 「……そうだな。すまない」 「俺に謝ってどうすんだよ」 「…ああ…そうだな。……すまん」 ふう、と息をつく。 あの時。 「コンラッドっ!!」 コンラッドを追って坊っちゃんが伸ばした腕を、ほとんど無意識で掴んだ。掴んで、そして引き寄せる。これ以上前に進ませるわけにはいかない。腕の中で華奢な身体が暴れたが、力を抜くわけにはいかない。 坊っちゃんを何とか押さえ込んだ瞬間、今度はすぐ傍らを、末っ子閣下が敵陣に斬り込むような形相で走りぬけようとした。思わず舌を打つ。 「いけませんっ、お客様ぁっ!!」 宿の主のトナーは接客業の鑑だ。太った身体が宙に舞ったかと思うと、ヴォルフラム閣下を頭から押さえつけ、ほとんど押し潰してしまった。 ぐええっと、内臓が口から飛び出すような、貴公子にあるまじき呻き声が聞こえたが、これはご本人の名誉と安全のために聞かなかったことにする。 「グッジョブ、トナーさん」 猊下がトナーの背中をぽんと叩く。 「あああっ、ご無事でお客様! どうかご無事でぇ!」 宿もお客も心配だが、火を消すことも中に飛び込むこともできない自分がもどかしいのか情けないのか、トナーが盛大に身悶えを始めた。 ぐっ、ごっ、ぶっ! トナーの腕に押さえ込まれたまま、一緒に身悶えさせられている閣下の、悲鳴になれない声が聞こえる。……鼻も口も押さえられている気がするんだが、もしかして今窒息してるか? 「あっあの! 今の人はスーを救けるために火の中に飛び込んだんですかっ!?」 「それ以外に、何か理由があるように見えるのか?」 喘ぐように掛けられた言葉に反射 的に返事をして、それから相手が誰か分かった。 あの、スーヴェルフェミナを探していた男だ。 ポゥムとか言ったか? その工房の男は目を極限まで見開いて、ただ呆然と煙りの流れ出る宿の玄関を凝視している。んな心配なら、ぐだぐだ喚かずにとっととてめぇが飛び込めばいいのに、傍迷惑な野郎が。 と思ったら、もっと傍迷惑なヤツがいた。 「ああっ、何てことだ! スーヴェルフェミナさんが! 大切なお客様が! ああ! 眞王陛下、魔王陛下! どうぞお助けくださいっ!!」 余計なことを言うんじゃねーよっ、ボケっ!! わざわざ隣で跪き、お祈りを始めた受付係を、俺は坊っちゃんを抱えたまま蹴飛ばした。すぐ側におられた猊下に向かって倒れかけた身体を、猊下がひょいと避ける。受付係はコロコロと転がっていった。 誰が何と言おうが、どうお願いされようが非難されようが、俺はこの人を護る。護らなきゃならないんだよ。 「……どうしよう……」いつの間にか静かになっていた坊っちゃんが、俺の腕の中で呟いた。「おれのせいだ。おれが…あんなこと言ったから、コンラッドが……コンラッドに、なにか、あった、ら……おれ、お、おれ……っ!」 「大丈夫だよ、渋谷」 傍らに膝をついて、猊下が坊っちゃんの頭にそっと手を乗せる。 「あんな女の子のために命懸けなんて、そんなマヌケなことを彼がするはずがない。大丈夫、彼は必ず君の下に戻ってくるよ」 「………むらた……ホントに…?」 「もちろん。僕が保証する。ウェ……カクさんは無事だよ。っていうか、君が彼を信じなくてどうするのさ。絶対大丈夫だから、安心して、ここで魔力を振るおうなんて考えちゃダメだよ? これ以上広がるようなら別だけど、この程度ならここの消防部隊でも消し止められそうだ」 「〜〜〜…っ」 一生懸命歯を食いしばり、迸りそうになる激情を抑えて、坊っちゃんが深呼吸した。それに合わせ、そっと腕の力を抜く。 「……ごめん、グリエ…じゃなかった、スケさん。も、だいじょぶ、だよ…? コ……カク、さんはちゃんと帰ってくるね……?」 「とーぜんでしょ? 俺の幼馴染は命汚いんですよ。ちゃーんと戻ってきますから安心してください」 坊っちゃんが小さく、コクっと頷く。その幼い仕種に、俺の胸が締め付けられる。 畜生、バカ隊長。とっとと戻ってきやがれ! と胸の中で怒鳴りつけて、ふと横を見たら、猊下が怖ろしく厳しい眼差しを前方に向けていた。 もしも、実は君が救いようのないマヌケだったと分かったら。 声になるかならないか、そんなかすかな呟きが俺の耳に滑り込んできた。 焼き殺すなんて生易しい死に方はさせないからね。 ……バカ隊長。とっとと戻ってきやがれ! きやがらないと、後悔するぞ! つーか、お願いだから戻ってきてくれっ! まじでイロイロ怖ぇんだよっ!! 「…っ! おいっ! あれを見ろ!」 俺の渾身の祈りが通じたんだと思う。 必死で凝らした目の中に、飛び込むように現れたのは紛れもない隊長、コンラッドだった。腕には見覚えのある少女を抱きこんでいる。 うおおっ! いきなり声が上がった。 「! コ…っ!」 「スー!!」 「お客さまあっ!」 ……坊っちゃんが出遅れた。 誰よりも早くコンラッドに駆け寄り、できればドサクサ紛れに思いっきり抱きつきたかったんだろうが(たぶん隊長も抱きつかれたかったはずだ)、俺の腕を振り払ってる間に、トナーやスーヴェルフェミナの友達やらが俺達を押し退けて先に飛び出してしまったんだ。 それどころか。 「早く! こっちだ!」 「服に火が!」 「水だ! 水を掛けろ!」 「怪我はないか!?」 「あんた、よくやったな!」 「大した勇気だ!」 「間違いない! あんたは英雄だ!」 あれよあれよという間に、隊長は野次馬や兵士達に取り巻かれてしまった。 コンラッドが宿の中に飛び込んでいったのを、野次馬はもちろん、兵士達も皆、しっかり見ていたらしい。 そして消防隊として一緒に人命救助に飛び込もうとか、少しでも消火して手助けしようとか、そんなことも考えずにどうなることかと眺めていたわけだ。 こいつらは2人(1人はお姫様抱っこをされてだが)が飛び出してきたのを確認すると、俺達を差し置いてドッと駆け寄り、それっとばかりにバケツの水を何杯もぶっ掛け始めた。 「どうでも良いからこの子の手当てを! 煙を吸っているし、火傷も負っている!」 賞賛の言葉なんて貰い飽きてる隊長が、うるさげに水を払い、周りの連中に怒鳴りつけているのが見えた。あんなぐちゃぐちゃの人ごみに坊っちゃんを放り込みたくないので、俺は改めて目の前の薄い肩を掴んだ。坊っちゃんが苛立たしげに足踏みをしている。 「この娘、ルルド工房のお孫さんじゃないか!」 「イザーク殿の!? こりゃ大変だ!」 「怪我は酷いのか!? おい! 早く馬車をここへ!」 「病院だ! 病院に運べ!」 馬車が来た。あの子の知り合いの男もすぐ側にいるし、病院に送り出せばそれでこっちはお役御免だろう。見たところ隊長は無事だし(ちょっとくらいの火傷、舐めときゃ治るってもんさ)、ここが治まったらこれからのことを話し合わなけりゃ……と思ったら。 おせっかいな連中がコンラッドの腕を掴んで無理矢理立たせ、ぐいぐいと馬車に押し込み始めた。 「…あ、い、いや、俺は……!」 「早く乗れ! 安心しろ、病院はすぐそこだ!」 「いやあの、そうじゃなく!」 多勢に無勢。ぽかんと見ている俺達の目の前から隊長の姿が消える。と同時に、馬車が走り出した。 「…! ちょっちょっ、ちょっと待てーっ!!」 て、コトでまあ、今に至るわけだ。 端折りすぎたか? トナーと受付係の手助けで、俺達はすぐさま病院へと駆けつけた。新市街の外れに新しく建設された病院なので、大きいし、設備も新しい。 看護人に案内された病室で、コンラッドはなぜか3人の女性と1人の男性看護人に包帯でぐるぐる巻きにされているところだった。互いにガンを飛ばしながら手厚い看護を競う看護人達と、その魔の手(?)から逃れようとじたばたするコンラッドをしばらく鑑賞してから、俺達はようやく本当の意味で合流を果たした。 我慢に我慢を重ねていた坊っちゃんは、夢中だからこその大胆さでコンラッドに抱きつき、その無事をご自分の身体で確かめようとした。末っ子閣下の「コンラートは怪我をしているのだぞ!」というもっともらしい言葉で引き離された後は、どれだけ心配したかを興奮した口調で喋り続け、その隣でヴォルフラム閣下は、自分が次兄の安否にどれほど無関心かを、口を極めて言い募っていた。つまりコンラッドの身を心底心配し、そして安堵し、競うような勢いで喋り続けたお2人は、とことん疲れ果ててしまったわけだ。……興奮して疲れた身体に、甘いものは美味しかっただろうな。うん。 ちなみに隊長は、2人の様子を微笑みながら見ていたものの、その笑顔はびみょーに引き攣っていた。 それはたぶん、いや間違いなくもう1人の……。 「なんだ、お仕置きはもう終わったのかい? 見物に来たのに遅かったかな」 コンラッドに手を差し伸べ、コンラッドが応えて手を伸ばした瞬間、声がした。 コンラッドの身体がギクリと強張る。 2人で顔を向けた先に、猊下が立っていた。 「……げ、いか」 コンラッドの強張った舌がようやく動く。 本来ならこいつは、猊下と堂々タメを張ってみせることくらい造作なくできるヤツだ。 あの時、大シマロン出奔事件の一連の出来事の中で、どれほどの罪悪感を抱えていたとしても、こいつは自分がしなくてはならないと思い決めたことをやり、陛下に対して非情な態度を取り続けた。覚悟を決めたコイツは、それがどれほど過酷なことだろうがやってのけることができる。 それが、根っ子の深い部分で猊下との確執を生み、その確執がいまだ続いていたとしても、コイツは後悔しないし、猊下に対しても決して卑屈な態度を取ったりしない。猊下もそれを認めている。コイツが卑屈になったりしたら、猊下はむしろ失望するだろう。 そのコンラッドが猊下から目を背け、唇を噛み締めて項垂れている。それはつまり、こいつが「ついうっかり」勢いで突っ走り、やっちゃいけないことをやってしまったことを自覚してるってことだ。 「ウェラー……ととっ、またやっちゃった。えっと、カクさん、いつまで地面に座りこんでるつもり?」 「え……あ、いいえ……」 もごもご言い訳しながら、コンラッドが立ち上がった。 その様子を見るともなく見ていた猊下が、俺に視線を移した。 「今、渋谷は?」 「ああ、えーと、病室に……」 「1人じゃないよね?」 「もちろんヴォル、あー、ウッカリ卿がご一緒です」 「そう。じゃあ早く戻ろう。彼を信じないわけじゃないが、少々心許ない」 「あの…げい、ケンシロウ坊っちゃんはどちらに? 突然お姿が見えなくなってましたが……」 「病院探検。王都の病院は僕達の目が行き届いているから良いけど、こういう地方のはどうなのかなと思ってね」 「…あの、猊下…」 歩き始めた猊下の背中に、コンラッドが呼びかける。猊下は歩みを止めない。 「猊…」 「って呼んじゃダメだろ? カクさん?」 振り返らないまま、猊下が仰せになった。 「…あ…申しわけありません……」 「ねえ、カクさん」 「は、はい」 「君がしたことは、人として立派な行いだ」 「………」 「己の身を顧みず少女の命を救った。賞賛に値する行為だ。実際この病院の中でも評判になってるよ。さっき運び込まれた男性は、燃え盛る火の中に飛び込んでルルド工房のお孫さんを救い出したのですってってね」 「……燃え盛るほどではありませんでしたが……」 「噂話ってのはそういうものだろ?」 「あの! 猊……」 「人の命を救った。そして君も彼女も助かった。結果オーライ」 「……………」 「なのに君は落ち込んでるね。それはつまり、自分の主から決して離れずその身を護るという使命と相反することをしてしまったこと、そして何より、決して最優先すべきでない行動を自ら取ったことで、君を失うかもしれないという恐怖を主に味わわせてしまったことを、誰より君が自覚しているということだ。だろう?」 「………はい」 「ならば、僕がこれ以上何か言う必要はない」 「申しわけ……」 「何も責めていないのに謝られる謂れはない」 つまり。謝らせてもくれないわけだ。 良い行いをしたと、ただそれだけで無条件にお褒め下さるほど猊下は甘いお方じゃない。 「カクさん」 「はい」 「さっきも言ったけど、結果オーライだ。だからこれから先はしゃんとしていたまえ。じゃないと渋谷…ミツエモンが、自分の言葉のせいで君が死に掛けたと自分を責め続けることになる。彼にそんな思いをさせるな。あれしき朝飯前って顔でいろ。いつものあの胡散臭い笑顔でね」 ニコッと笑った猊下の顔にも口調にも、イヤミなところはない。 何を捨てても護らなきゃならないものは何なのか、問うているのはそれだけだ。 「……はい。分りました。実際、大した危険は感じませんでしたし」 「そうそう、その調子」 落ち込んだ理由は、坊っちゃんの側を離れてしまったこと、そして危険の中に飛び込んで坊っちゃんを心配させたこと。 コンラッドはスッと背筋を伸ばし、いつもの笑みを浮かべ、猊下の半歩後を一緒に歩き始めた。と、ふいに振り返り、怪訝な顔で俺を見る。 「何やってるんだ? ヨザ。変な顔をして」 「………悪かったな、ヘンな顔で」 俺らの友情なんて、あるとしたってこんなモンだ。 □□□□□ 「……あれぇ…?」 坊っちゃんが床で身を起こし、こしこしと目元を擦っていた。 寝台の上では、ウッカリ卿が両手両足をのびのびと伸ばしてぷーかぷーかと眠っている。 「大丈夫ですか!?」 「……そーゆーコンラッドは……あれぇ? 気のせいかな。コンラッド、顔に怪我してたっけ…? 赤くなってるし……歪んでる…?」 「……俺は大丈夫ですよ。たぶん虫刺されでしょう。さあ目を覚ましてください。お茶でも飲みながら、とりあえず今夜の宿をどうするか決めましょう」 まだ半分以上眠っているらしい坊っちゃんを起き上がらせ、どっちが怪我人か分らないほど甲斐甲斐しくお世話し、ついでに弟閣下を叩き起こし、ようやく全員が、さてと顔を合わせたその時だった。 失礼致します。穏やかな男の声がした。……聞き覚えのある声だ。 俺達の顔が一斉に扉に向く。と。 「……あ…!?」 扉を開けたのは、あの、ロシュフォールのお姫さんにくっついていた、たぶん従者、確かフレデリックとか呼ばれていた男だった。 まるでそれが王宮の扉か何かのように、恭しく視線を落として丁寧に扉を開けきると、すっと身体を脇に寄せ、さらに恭しく頭を下げた。ただし、俺達にじゃあない。廊下で自分の出番を、おそらく、いや間違いなくツンと顎を上げて待っている誰かさんに向かってだ。 果たして。ロシュフォールのツンツンマリーアちゃんが、堂々と、肉感的とはほど遠い残念な胸を張って病室に入ってきた。そして部屋の全員を睥睨すると、まるで女王様か巫女の託宣のように仰々しく口を開いた。 「あなた。スーの命を救ったのですってね」 コンラッドに向かい、小さな身体で全力の上から目線だ。この技は父親直伝かね。 「炎の中に飛び込んだと聞いたわ。礼儀を弁えない下賤の者にしては良くやりました。褒めてあげます」 「別に、あなたに褒めて頂く謂れはありませんが?」 クワッと目を剥いた弟閣下の、爆発寸前の頭を押さえつけつつ、コンラッドが冷ややかに答えた。 自分に褒められてさぞ喜ぶだろうと予想していたのか、今度はマリーアが目を剥いた。 キッとコンラッドを睨み上げ、今にも怒鳴りつけようとしたところで、背後からスッと近づいたフレデリックが耳元で何やら囁いた。その瞬間、マリーアが何かに気付いた様に表情を緩める。そしてすうっと息を吸い込み、振り上げかけた拳を下ろした。 「そうね、この者達は何も分かっていないのよね。卑賤のものであれば仕方がないわ。今の無礼は許してあげます。フレデリック?」 「はい」 マリーアに促され、フレデリックがまたまた恭しく前に進み出てきた。そしてもったいぶった様子で俺達を眺め渡すと徐に口を開いた。 「この方は、このロシュフォールの主、十貴族の筆頭とも申すべき貴きフォンロシュフォール家の一の姫、フォンロシュフォール卿マリーア様にあらせられます。これ以降、応対を改められますように。よろしいですね?」 「ハイ、質問!」 ここで元気に挙手ができるのは、猊下……あー、ここはやっぱきちっとしといた方が良いやねえ。えっと、猊下じゃなく、ケンシロウ坊っちゃん。そう、やっぱケンシロウ坊っちゃんならではだな。 「……しつもん?」 あんまり意外だったのか、質問って言葉の意味を図りかねたようにフレデリックが繰り返した。 「一体いつからロシュフォールが十貴族の筆頭になったんですかー?」 主従の戸惑いなど意にも介さず、ケンシロウ坊っちゃんが仰った。実に無邪気ににこやかに、それはもう危険な香りがぷんぷんだ。おお、こわ。 「十貴族に筆頭だの末席だのがあるなんて、俺も聞いたことがありませんね。現状であえて筆頭と呼ぶなら、宰相であるフォンヴォルテール卿だと思いますけど」 自分に被害が及ばない限り、火に油を注ぐのが近頃大好きになったらしいコン、カクノシンがわざとらしいほど怪訝な表情で付け足した。 フレデリックがムッとした顔で2人を睨みつける。 「そのように言われるほど高貴なお家柄であるということです!」 「誰が言ってるんだろ?」 聞いたことないよねー。ケンシロウ坊っちゃんは無邪気な笑顔のまま。フレデリックの渋面はどんどん厳しくなっていく。 「……フォンヴォルテール家の者か…?」 「いーえ、王都の商人でーす」 「……信じられない…!」マリーアが怒りに声まで震わせている。「こんな無礼な者達がいるなんて…!」 「え?」カクノシンがきょとんとマリーアを見返した。「無礼なんてした覚えはこれっぽっちもありませんよ?」 ………そうかなー? ムカつくんじゃないかなー。 「単に素朴な疑問を口にしただけです」 「だよねー」 「フレデリックの話を聞いていなかったの!? 私はフォンロシュフォール卿マリーアよ!」 「知ってますよ? というか、あの宿でお会いした時から知ってましたよ?」 「……え?」 「知っていて……その態度か!?」 カクノシンとケンシロウ坊っちゃんが顔を見合わせた。2人して、意外な叱責にビックリ仰天ですという表情だ。ああ、がっちり組んだこの二人に苛められるような、どんな悪いことをこのお姫さんがしたっていうのか……。でもとばっちりはゴメンだから、救いの手は伸ばさないけど。 「別に……ヘンなコトやっても言ってもないですよね?」 「よねー」 ……村田とコンラッド、楽しんでない? ミツエモン坊っちゃんがそっと囁いてきた。いつの間にか俺の隣に立っていたウッカリ卿が「まったくだ」と頷いている。 「最初は、僕もあの2人の態度に腹立たしさを感じたが……だんだん気の毒になってきたぞ」 俺もミツエモン坊っちゃんも、思わず頷いてしまった。 「いい加減になさい!」ついにマリーアが怒鳴った。「あくまでその無礼な態度を改めぬのなら……フレデリック! 今すぐ兵を呼びなさい! この愚か者達を捕らるのよ!」 「捕らえる? 僕達を?」 「今さら怖気づいても無駄よ!」 「君がそれを命じるわけ? どういう権限で?」 「覚悟しなさ……って……け、けんげん……?」 そうだよ。ケンシロウ坊っちゃんが頷く。 「眞魔国は魔王陛下という絶対権力者に統治された、だが紛れもない法治国家だ。僕達を捕らえるというなら、僕達がどういう法を破ったと主張するのか、さらに、君がどういう権限で僕達を捕らえる決定を下せるのか、それをはっきりさせろ。単にフォンロシュフォール家の者だというだけで兵を動かし、気に入らない態度を取ったというだけで人を逮捕したり、処罰できると考えているなら、それはつまりロシュフォールが、魔王陛下がお認めになられた国家の法を蔑ろにしているということになる。それを突き詰めれば、ロシュフォールは魔王陛下に叛意を抱いている、という解釈になるね。ロシュフォールに謀叛の意ありと訴えたら、君はどう釈明するつもりなのかな?」 サクサクサクッと言い募られて、マリーアが目を極限まで見開いたまま、窒息しかけた魚のように口をパクパクとし出した。 まー、この子としちゃあ領主の娘としてできて当然だと信じていたのかもしれないが、よもやそれが「ロシュフォール謀叛!」にまで発展させられるとは思ってもみなかったんだろうな。ってーか、ふつー考えないよな。 「姫、お下がりください」 「ふ、フレデリック……!」 冷静な表情を取り戻したフレデリックが、マリーアの前にズイッと進み出てきた。 「前にも申し上げたと思うが、姫様は世慣れない方でいらっしゃる。そのため、少々お考え違いをなさることがあるので、その旨了解願いたい。ロシュフォールはもちろん、国法を蔑ろになぞしないし、魔王陛下に対し奉り謀叛など微塵も考えていない。よって、あなた方を捕らえさせたりなぞもしない」 あったりまえでしょ? ケンシロウ坊っちゃんがちょっとばかり人の悪い笑顔で、ひょいと肩を竦めた。その態度にフレデリックが思い切り眉を顰める。 しかし、この男は主のように俺達を「ただの無礼な平民」とは思っていない。用心が必要だと考えているのだろう、それ以上反応しなかった。 「姫」フレデリックがマリーアに向き直って言った。「この者達に仰せになりたいことがあったのでは?」 言われたマリーアはしばし憮然と俺達を睨みつけ、それからギュッと唇を噛み締め、拳を握ったり開いたりし、最後に大きく息を吸い込み、大きく吐いた。どうやら葛藤を乗り越えたらしい。 「……まず、あなた達が高貴な者に対しての礼儀を弁えない、無礼極まりない者であると言っておくわ。あなた達、自らが卑しい身分の者だという自覚が足りないわ。でも、これ以上そのことを指摘するのは止めておきます。知性や教養が欠落したものにどれだけ大所高所から真理を教えても、理解を期待することは難しいものね」 「大所高所ってここで使う言葉じゃないよね、カクさん?」 「ですね。このお姫様、もしかしたら大所高所をお城の高い窓のことだと考えておられるのでは?」 「あ、言えてる」 あははーと、眞魔国最キョーの腹黒2人が笑った。拳を震わせるマリーアから歯軋りの音が聞こえてくるような気がするが、錯覚かな? 俺の隣で2人の坊っちゃんが遠い目をしている気もするが、これは錯覚じゃないな。 「あなた達をっ! ロシュフォール城に招待するわっ!」 唐突に、あまりにも唐突にマリーアが言った。 2人の笑いがピタッと止まる。そして俺達、俺とミツエモン坊っちゃんとウッカリ卿は意味が分らず、情けないながらポカンとお姫様を見つめてしまった。 「あなた達は許しがたい無礼者だわ。でも! あなたは私の大切な友人を……スーの命を救ってくれたわ。……スーが炎の中に取り残されて、もう少し遅かったら焼け死んでいたって聞いて私……!」 マリーアが、キッと顔を上げる。 「あなた達は気に入らないけど、でもスーの命の恩人、腹立たしいけれど、私にとっても大恩人よ! だから御礼をします。もうあの宿には泊れないでしょう? ロシュフォール城にきなさい。どういう目的があってここにいるのか知らないけれど、城で宿泊すれば良いわ!」 ビックリした。本気で仰天した。こういう判断のできるお姫さんだったのか。 お姫さまをとことん馬鹿にして遊んでいたケンシロウ坊っちゃんとカクノシンもさすがに目を瞠っている。 へえ。ケンシロウ坊っちゃんの表情がふいに変化した。ひどく面白そうに。目の前の我がままツンツン姫に、急に興味をそそられたかのように。 俺達の表情が変化したことに、マリーアは満足したらしい。身体から力が抜け、表情に余裕が生まれた。 「宿の主には、あなた方の荷物を探してここに運ぶよう言いつけてあります」 ここでフレデリックが言った。俺達が恐れ入ってると思ったのか、こっちもすっかり穏やかな態度に戻っている。 「荷物が届いたら、城に向かう準備をしてください」 って、そういうワケにはいかないんだよ。 ロシュフォール城には今、フォンロシュフォール卿がいるはずだ。万一顔を合わせることになったら……。 「それは遠慮させてもらうよ」 当然のことだが、俺の隣のミツエモン坊っちゃんが言った。マリーアとフレデリックが驚いた顔を向けてくる。 「遠慮…ですって!? それは何? 城へは行かないってこと!?」 「そう」 「そうって……! ロシュフォール城に招かれるのよ!? 光栄には思わないの!?」 「別に。必要ないし」 「………っ!」 今度こそ驚き呆れたという顔で、マリーアが息を呑む。 「何を言っているの、あなた達!? ロシュフォール城よ!? あなた達なんて、一生掛かっても足を踏み入れるどころか、門に近づくことも許されないのよ!?」 そうでもないけどね。 「この私が礼をしたいと言っているのに、それを拒むというの!? 一体どこまで私を……」 「お礼?」 「そうよ!」 「だったらさ」 坊っちゃんがマリーアの目を真っ直ぐ見て言った。 「ありがとうって、それだけで良いよ」 「………え?」 「別に何か欲しいとか思わないし、招待とかも必要ない。でもお礼がしたいって言うなら、やっぱり何より最初に感謝の気持ちを言葉にすることが大事なんじゃないのか? お礼したいって言っても、あんた1度もありがとうって言ってないじゃん」 「そんな……」 マリーアがもごもご言いながら唇を歪めた。なんだかものすごく言いたくなさそうだ。 「そんな言葉……私のような立場の者が軽々しく口にするものではないわ」 「はあ?」 「お前たちのような下賤の者に対して、高貴の者が礼を述べるなどあってはならないと言っているのよ! 高貴の者を侮辱するようなことを口にするのはお止めなさい!」 ……うーん、まあ、なあ、俺も坊っちゃん達と付き合うようになってちょっと忘れてたけど、そういや坊っちゃん達以外の高貴なお方から、「ありがとう」なんて直裁なお言葉を頂戴したことはほとんどないなあ。あったとしても大抵は「よくやった、褒めてやる」とか、せいぜい「礼を言う」ってトコ止まりで。礼を言うって言うからには、その次に「ありがとう」とくるのかと思ったら、そうじゃないんだよな。「礼を言う」ってのが高貴なお方の、低い身分の者に向かっての「ありがとう」なんだってことは、俺がガキの頃に覚えた社会常識の1つだ。 対して、ウチの坊っちゃん達は相手が貴族だろうが下町のおばちゃんだろうが、「ありがとう」も「ごめんなさい」もちゃんと言える。ミツエモン坊っちゃんは驚いたんだろう、ポカンと口を開け、ケンシロウ坊っちゃんは「どうしようもないな」って顔で呆れている。ちなみにカクノシンは目を眇めて肩を竦め、坊っちゃん達に大分影響されてきた隣のウッカリ卿は、「下らん」と吐き捨てていた。 「相手が高貴だろうが何だろうが、何かしてもらったら『ありがとう』って言うのは常識だろ? 人にお礼を言うのは礼儀正しいことで、それを言ったからってあんたの何が傷つくって言うんだ? むしろお礼の言葉も言えない人こそ、恥ずかしいって思うべきだとおれは思うな」 馬鹿にするでも諭すでもなく、素直にそう言う坊っちゃんに、マリーアは一瞬で真っ赤になった。……怒りか、それとも恥ずかしさか。後者ならまだ見所もあるが。 マリーアがひゅううぅぅぅとすごい勢いで空気を吸い込んだ。隣でフレデリックが顔をぎょっと引き攣らせている。 「あ、すごい。ほらカクさん、ドレスがビリビリって破けて、筋肉モリモリに…」 「これから街を破壊して回るんですね。って、なってませんよ?」 「まー、女の子のドレスが破けるのは多方面に問題ありだしね。いくら残念な鳩胸でも」 「残念じゃなくても問題ありですよ。ほらそこに、筋肉でできた胸を豊満だと勘違いしてる迷惑なのもいますし」 んまっ、悪かったわねっ! 「同じ鳩でも、スケさんの胸はお役立ち度満点のリアルピジョンが満載だから良いんだよ」 「あーなーたーたーちー…!!」 マリーアの眦がキリキリキリッと釣りあがった。うん、分るぞ、今なら同情点はまるまるお姫さんのものだぞ。 と、思ったら。 「お客様ー、ご無礼致しますですー」 突然、朗らかで丁寧な、営業的に完璧な声と同時に病室の扉が開かれた。 「おお、お客様、もうお起きになってもよろしゅうございますか!? おおおっ、これはお城の姫様! 何でまた……ああ、イザーク様やスーヴェルフェミナさんとお待ち合わせでございますか?」 宿の主、トナーだった。後から受付係がついてくる。2人して台車を押していて、そこには俺達の荷物が並んでいた。…これを宿からここまで押して歩いてきたんだろうか。 「あ! おれ達の荷物!」 「はい、お坊ちゃま」 声を弾ませるミツエモン坊っちゃんにトナーが、これはまた本当に嬉しそうに笑って頷いた。 「お部屋が3階でございましたからでしょうか、お荷物は全て無事でございました。まあその、少々燻されておりますが、中身は大丈夫ではないかと推察いたしますです」 「ありがとう! おじさん!」 良いよねえ、この一言が人として大切なんだよねえ。 ちらっと見ると、マリーアがどこか悔しそうな顔で唇を噛み締め、坊っちゃんを睨んでいる。 対して、お礼を言われたトナーはますます嬉しそうに頬を綻ばせた。 「ところであの実は…」 言いながら、トナーが背後を振り返った。開きっぱなしだった扉に人影が射す。 「よろしゅうございますか? 失礼致します」 「失礼します」 声に続いて、俺達の視界に入ってきた二人連れは、齢300歳前後の老境に差し掛かった男、そして少女─スーヴェルフェミナだった。 □□□□□ 「ルルド・イザークと申します。アツミ・カクノシン様でいらっしゃいますか。この度は、孫の命をお救い下さいまして、まことにありがとうございます!」 そうだろうとは思ったが、やはり老人はスーヴェルフェミナの祖父、ロシュフォールの銀細工師の中でも名人中の名人、老舗中の老舗を仕切るルルド工房の主だった。 長年職人として修行してきたからなのかどうか、がっちりと引き締まった体つきの老人は、背筋も真っ直ぐ伸びている。貫禄はあるんだろうが、どちらかというと強面な雰囲気で、老舗の主としてはどうかね。銀細工の職人なんていうと、俺なんかの頭の中じゃあ、作業台に向かってコツコツひたすら細かい作業をしている丸めた背中って姿しか浮かばないんだが…それとはちょっと違うな。 とにかくまあ、老人は、孫娘に教えられていたんだろう、まっすぐ隊長、じゃない、カクノシンに向かって深々と頭を下げた。 「それはわざわざご丁寧に……。起きてもうよろしいのですか?」 最後の問い掛けはスーヴェルフェミナに向かってだ。頭や手に包帯を巻かれた痛々しい姿の少女が、照れくさそうに笑って頷く。 「これ、大げさなんです。あの時も煙を吸わないよう息も止めてましたし。でも、あなたが来てくださったときにはもう、息が苦しくなってて、どっちに向かって行けば良いのかも分からなくなってました。本当に…怖くて……身体を動かそうとしても動かなくて……。お姿を目にした時には、ホッとして気が遠くなってしまいました。だからお礼を申し上げるのがすっかり遅くなってしまって。あの、助けて下さって、本当にありがとうございました!!」 じいさんと孫が2人改めて頭を下げる。その様子にカクノシンが、老若男女見境なく、あ、いや、節操なく……じゃなくて、差別なく…? とにかく万遍なく垂らしこむあの笑みを浮かべた。 スーヴェルフェミナちゃんの頬がほんのり赤くなる。やれやれ。 「ところで……」爺さんの顔がお姫さんの方に向いた。「姫様は何ゆえこちらに?」 一介の職人にしては妙に言葉遣いが強気だ。強面の顔とも合っている。とはいえ、こういう態度はお姫さんを怒らせるんじゃないか? と思ったんだが、意外なことに、老人に質問されたマリーアはバツ悪げに視線を逸らした。 「わ、わたしはっ、ただ、その…っ、スーの命の恩人に、友人としてお礼を言いにきただけよ?」 そう答えて、だが目を合わせようとしない少女に、老人の視線が今度はカクノシンに向く。 「お礼の言葉というのはまだ頂いてませんが、ただ宿が焼けて困るだろうから、礼代わりにロシュフォール城に招待しようとは言われました」 「それは……」 応えて老人が眉を顰めた。 「姫、それはお父上のご了解を得た上でのお話ですかな?」 「え、と……」 「フレデリック殿?」 「いえ」フレデリックが軽く肩を竦めて答える。「まだです」 「姫、そのような勝手をされて、こちらの方々に逆にご迷惑になるとはお考えになりませんか?」 「そんな…っ。お父様だって、スーの命の恩人に宿を提供するといえば、きっと歓迎なさるわ! この者達にとっても、一生の名誉よ!」 「姫……」 ふうとため息をついて、それから老人が俺達の顔をぐるっと見回した。 「皆様は、姫様のお申し出をご了承なされたのでしょうか?」 「いいえ」カクノシンが即座に否定する。「お断りしたところです。お城に滞在など恐れ多い。想像しただけでも息が止まりそうです」 実ににこやかに爽やかに嘘をつく。 「それに、今お伺いしたところによると、ご領主様もご存知ないとか。図々しくお城に伺うなどとんでもないことと思います。我々としては、むしろ程ほどの値段の、そこそこ良い宿をご紹介願えれば、その方がよほどありがたいと思いますね」 「左様でございましょうな」 イザーク爺さんが頷き、続けて「そこでものは相談ですが」と続けた。 「トナーさんから宿のことを伺い、ならばと考えていたことがございます。皆様方、次のお宿が決まっていないということであれば、どうでしょう、我が家においで頂けませんでしょうか?」 「あなたのお家にですか?」 「はい。ご存知かもしれませんが、私は銀細工の職人で、家の敷地に工房と店を構えております。このロシュフォールでも、まあそこそこの老舗で、それなりの広さも部屋数もございます。トナーさんの宿に比べれば粗末なものですが、よろしければ是非、孫娘の命の恩人に恩返しをさせて頂きたいと存じます」 「粗末などとんでもございませんよ、お客様!」トナーが横から大きな声を上げた。「大変ご立派なお邸でございますですよ! ルルド工房はロシュフォール最高の銀細工工房で、イザーク様は細工師組合の永年代表を勤めていらっしゃいますです!」 「単なる名誉職で、大したことではございません。家も、昔からあるものを受け継いだだけ。私の手柄ではございません。そのようなことよりも、いかがでしょうか。ここにおります孫娘も、皆様のお世話をしたいと申しておりますし、私としては是非にもおいで頂きたいのですが……」 その言葉に、マリーアが「え!?」と声を上げた。 「この者達のお世話って……スー! 本気なの!? 家に戻る気!? 工房はどうするの!? せっかくスーの才能を発揮させる最高の機会が訪れたというのに……!」 「姫様、ちょっとお静かに願えませんかな」 「じいっ! スーを縛り付けるのは止めなさい!」 「そのようなことはしておりません」 「だって…!」 「マリーア様! お爺ちゃ、お爺さまの言いつけじゃありません! 私が自分から……」 ……何か、身内の言い争いになっちまった。当事者のはずの俺達、置いてけぼりなんですけどね。 それに……爺さんのことを「じい」って呼んだよな、このお姫様。 どれだけ老舗の主だろうと、平民の職人を領主のお姫さんが「じい」呼びねえ……。 「なかなか面白い人間関係だよね」 「魔族だけどな」 いつの間にか隣においでになっていた猊、じゃねえ、ちょっと油断するとすぐこれだ、ええと、ケンシロウ坊っちゃんがミツエモン坊っちゃんに笑い掛けられた。 「で? どうする? ミツエモン、君が決めてくれたら良いよ」 「うーん、工房だろ? ってことは銀細工の作品をいっぱい見られるってことだよな。願ったり叶ったりってトコだと思うんだけど」 「だねー。銀の細工そのものもすごく興味深いし、ホームスティも悪くないよね」 「何だ、ほーむすてーと言うのは? まあとにかく、僕も芸術家の1人として工房には興味がある。環境も悪くなさそうだし、良いのではないか?」 「じゃあ、そういうことでお返事しますか? どうやらあちらも一段落ついたみたいですし」 カクノシンが纏めたところで視線を移すと、確かに3人の言い争いは終わっていた。というか、お姫さんの息が続かなかったってところかな。お姫さん1人だけが、ぜーぜーと肩で息をしている。 「……フレデリック殿、姫様をお連れしてお城にお戻りなされ。妙齢の姫君がふらふらと街を出歩き、他人の病室に押し掛けるなど、外聞の良いものではございませんゆえな」 「じいっ!」 「イザーク殿の仰るとおりです、姫。この者達も城に上がるのは遠慮するとのことですし、いい加減もう戻りましょう」 お付きの従者にまで「いい加減にしろ」と言われてしまって、さすがにお姫さんも言い返せなかったんだろう。憤然とした顔を俺達に向け、全力で睨みつけたかと思うと、またもやツンと顎を上げ、頭を下げるルルドの爺さんとスーヴェルフェミナも無視し、お姫様としては少々品に欠ける足音を立てて出て行った。 「……本当は素直でお優しい方なのに……。お可哀想に、御心をどう言葉や態度に表せば良いのかお分かりにならんのだ。少しでもお力になりたいと願っているのに……」 呟くように言ってから、イザーク爺さんは思い出した様に目を瞠り、俺達に顔を向けた。 「これは何ともお恥ずかしい。みっともないところをお見せ致しました」 「いえ」とにかく会話の代表はカクノシンだ。「さすがにルルド工房のご主人となると、フォンロシュフォール家とも昵懇になさっておられるのですね?」 「ああ、いえ、さほどのことは……。それで、いかがでございましょう」 「はい、今、主とも話していたのですが」 そう言ってカクノシンが顔を坊っちゃん達に向けた。すかさずミツエモン坊っちゃんが前に出る。 「おれ達、銀細工に興味があってロシュフォールにきたんです」 「おお」坊っちゃんの美貌に初めて気づいたのか、爺さんが驚いたように顎を引き、目を瞬かせた。「左様でございましたか!」 「お爺さんの工房にお邪魔したら、銀細工をたくさん見られますか?」 「もちろんですとも、お坊ちゃん」 ここでやっとイザーク爺さんの表情が楽しげなものに変わった。 「工房では多くの職人が仕事をしておりますし、店には様々な種類の銀細工が取り揃えてあります。それに、歴代の親方の作品など、歴史的に価値のある作品も多く所蔵しておりますぞ?」 「そういうものも見せて頂けますか?」 ケンシロウ坊っちゃんの質問に「もちろんですとも」と爺さんが請合う。 「じゃあ、喜んでお世話になります!」 よろしくお願いします! 声を揃える坊っちゃん達に、イザーク爺さんが嬉しそうに頷いた。 どうやらこれで今回の旅の宿が決まったようだ。ここで落ち着いて、何事もなく平穏な旅行で終わってくれないかな。 ……んな上手くいくもんかって声が聞こえるような気がするのは……気のせいでありますように。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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