「来たぜー、ロシュフォールー!」 うん。そーですね。来ちゃいましたね、ロシュフォール。……なんか、あってー間だったなあ。 アレから結局、坊っちゃんのお忍び旅が決定した。どんだけ経験値を積もうとも、坊っちゃんの必殺技の前には無力だってことを今回も証明しちまったわけだ。 すったもんだしたのはその後だった。 誰が今回の坊っちゃんの旅のお供をするか。 隊長は当然の顔で準備を始めたが、今回は猊下も「キレイな工芸品で眼の保養も良いよね」と、すっかり乗り気になってしまわれた。 この2人は誰に遠慮もいらない立場だから良いんだが、ちょっと微妙だったのが末っ子閣下だ。 陛下ほどじゃないとはいえ、結構無鉄砲なお人の割りに、妙に生真面目なトコロもあって、兄上の許可がないと身動き取れなくなってしまうことがある。おまけに、閣下は猊下に少々苦手意識もあるようだ。 猊下に参加表明の先を越され、ちょっとだけ迷う風情で陛下の様子を窺っていた─どうも「自分の側にいて欲しい」と言って欲しかったらしい─のだが……。 陛下がまた素直というかニブチンというか、あっけらかんと「別にどっちでも良いしー」という態度を取ってしまったため、それがカチンときたらしく、婚約者であるこの僕を置いていくつもりか、この尻軽、浮気者、薄情者とぎゃんぎゃん喚き始め、結局同行することが決まった。どうも、先のグランツ旅行に同行できなかったこと、何よりあの決勝戦を観戦できなかったことをいまだに根に持っているらしい。だったら素直に一緒に行きたいと言やぁ良いのに。このお坊ちゃまも、まあ、なあ……。 で、俺だが。 俺はまあ、ご命令さえ頂ければどこにでも行くんだが、今回は陛下、猊下、閣下、隊長が行くと決まった時点で、俺も自動的にお供と決まったらしい。 ヴォルフラム閣下が駄々を捏ね、陛下が「わーったよ! じゃあお前も来いよ!」と叫び、閣下が「じゃあとは何だ! じゃあとはっ!」と言い返し、ぎゃんすか言い合いになった傍らで、額に手を当て、うんざりとため息をついた宰相閣下に呼ばれた。 「……グリエ、済まんな」 「………やーですよぉ、閣下ったら何謝ってらっしゃるんですかー?」 「またあいつらのお守をお前に頼まねばならん」 「まあ今回は猊下もいらっしゃいますしね。ヴォルフラム閣下は…アレとして、隊長だけじゃ……」 「この頃私は、コンラートにもお守が必要なのではないかという気がしている」 「……………」 「暴走したら止めてくれ」 「………あのぉ…誰の暴走を……」 「骨は拾ってやる」 「……………」 「済まんな」 ……という訳で、俺も坊っちゃんのお供をさせていただくことになった、わけだ。 わいのわいのと賑やかに、そして街道の村々の休憩所や宿泊所をのんびり楽しみながら、俺達はロシュフォールに到着した。 「やっぱ、こうして見てもグランツとは雰囲気違うなー。グランツは石やレンガの色がほとんどだったけど、こっちは色んな色が溢れてる感じだ」 陛下と猊下が馬車で、俺と隊長とヴォルフラム閣下が馬車を囲むように馬で、ロシュフォールの都、ヴェスタグリューネの城門潜った。 さすが、経済活動が十貴族の中でも盛んなロシュフォール、王都に匹敵する賑やかさだ。 坊っちゃんは窓から身を乗り出し、お上りさんよろしく、きょろきょろと街の賑わいを見物している。大通りを歩く連中にすれば邪魔だろうが、都会に生きてるんだから慣れてるんだろう、スイスイと俺達を避け、目的地に向かって足早に歩いている。 さて、ロシュフォールだが。 ここの特徴といえば、優雅の一言だ。いわゆる貴族的な優雅さで、時代によっては頽廃の美だの爛熟の美だのの象徴の地とされたこともある、らしい。当主の性格っつーか、血統だな、こりゃ。 そのせいか、ロシュフォール当主のお膝元であるこの街は、全体的に装飾過多だ。細身の塔が多く、その塔や家々の壁は木組みも塗りも美しく色鮮やかで、柱や梁には繊細な彫刻や彩色があちこちに施されている。俺は男としちゃあ無粋な方だろうが、この街を観て下品だの底が浅いだのと非難する気はない。派手だなーと思うだけだ。グランツの連中が見たら、脆弱だと嘲笑いそうな気もするが。 「ヴェスタグリューネの街は、2つに大きく分かれているんですよ」 馬車の窓から顔を出した坊っちゃんに、並走するコンラッドが説明している。 「2つ?」 「はい。いわゆる新市街と旧市街です。昔ながらの古い街並みが残る地域と、近年の経済発展によって新たに開発され発展してきた地域ですね。もっとも旧市街の住民は旧という言葉を嫌って、伝統街と主張していますが。今回の宿は、新市街の方に手配しました」 「…何か理由がありそうだけど?」 「はい。実は、旧市街の宿には、観光客向けのものがないのです」 坊っちゃんがきょとんと眼を瞠るのが、コンラッドの後から見ていても分かった。 「ない? どうして?」 「観光旅行そのものが、つい最近まで一般的でなかったからです」 今度は軽く首を捻る坊っちゃん。 「スポーツと同じなんです」 坊っちゃんを見下ろし、笑顔で答えるコンラッド。 「観光旅行という概念が、これまで庶民の中にほとんど存在していなかったのですよ。特に農民はよほどの理由がない限り、生まれ育った土地から出ずに過ごすのが普通だったんです。楽しむための旅をするのは、これまで専ら富裕層だけの特権でした。しかし彼らの旅行の目的地には大抵親戚や友人がいますから、宿を取る必要性がありません。富裕層向けで宿泊施設が必要なのは、せいぜい保養地くらいです。ですから、庶民で旅をするのは、よほどの必要がある者か、または行商人のように仕事で国を廻る者だけだったわけです」 「そういう連中が泊まるのは安宿ですからねえ」 隊長の後から口を挟むと、坊っちゃんがパッと顔をこちらに向けてこられた。 「ほら、坊っちゃんも知ってるでしょ? 1度俺を訪ねて来てくださった、1階が酒場で、その上に……」 「グリエちゃんが歌姫と用心棒のバイトをしてた店だな!」 俺の言葉に、坊っちゃんの眼が輝いた。 歌姫と用心棒? え、と見ると、坊っちゃんの顔の下から猊下の眼だけが覗いている。その眼にまじまじと見られて、何かー……こそばゆい。 「でも、コンラッド」 「はい」 坊っちゃんと隊長の会話が続いている。 「さっきの説明、結構過去形が多かったよな? つまり今は、お金持ち以外の民の観光旅行も増えてるって考えていいんだな?」 「そうですね。国民の所得も増えましたし、生活に余裕も生まれました。農村と都市部の民の生活の格差も少なくなっています。観光旅行も、庶民の間で年々増えていますよ。ですからこの街でも、特に新市街には観光旅行者向けの新しい宿がいくつもあるんです」 「そっかー」 なんて話をしている内に、俺達は新市街に入った。 ここは元は裏町で、貧民窟みたいなものだったからかなり荒れていた。ちょっとした無法地帯だ。まあフォンロシュフォールのお膝元だし、無法っつってもヌルいもんだけど。 で、ちょいと昔ならどんな街にもあった無法地帯には、縄張りを牛耳る顔役が必ずいる。こいつらは当時、ロシュフォール軍の上層部だの、フォンロシュフォールの係累だの、とにかく上の方と繋がって暗黒街の主を気取り、表には出せない商売なんぞに勤しんでいた。 そしてロシュフォールの上層部の連中だが、こいつらはこいつらでワル共をすっかり手懐けた気になって金を貢がせ、その金を中央、つまり摂政シュトッフェルに貢ぐことで自分達の立場の強化を図っていた。 つまり暗黒街の汚い金が、廻りまわってシュトッフェルの財布を潤していたわけだ。 ツェリ様の時代、純血と大貴族の誇りを何より大切にするフォンロシュフォール当主、デル・フランツは、宰相シュトッフェルにぴったり寄り添ってこの国の頂点にいた。 つまり、自分達は選ばれた特権階級であり、人間なんぞ下等生物、混血なぞに魔族を名乗る資格はないと公言していたわけで、当時の俺達にはこいつとシュトッフェルの間の違いなんざ、これっぽっちも思いつかなかった。せいぜい、シュトッフェルよりは頭が良さそうな分、陰険そうだな、という程度だ。 まあとにかくそうやってシュトッフェルと息を合わせ、俺達庶民を支配していたデル・フランツだが、実は自分の足元をうろちょろするゴミ虫みたいな連中が目障りで仕方がなかったらしい。しかし、そのゴミ虫はロシュフォールの上層部、シュトッフェルを後ろ盾にした連中の懐に食い込んでおり、そう易々と駆逐することもできなかった。 だが風は、シュトッフェルの失脚で一気に変わった。 摂政が三兄弟に権力の座から叩き出され、ユーリ陛下の即位が確実と観るや、デル・フランツは即座に行動を開始した。 目障りなゴミ虫や、そいつらを囲う腐った上層部─例えそれが親類縁者であろうと─に、誇り高きロシュフォールの名が汚されるのをもはや許せなくなったわけだ。 貧民窟は一掃された。ロシュフォール軍が地域一帯を完全に封鎖し、ヤクザ共がそうと気づいて反撃する前に根城を急襲、幹部顔役を捕らえ、反抗する者はその場で斬り捨てた。命からがら逃げたある者は領外へ、またある者はロシュフォール領内の……ま、イロイロだ。 そして上層部だが。 シュトッフェルに追従していたのは仮の姿だったとでも主張するかのように、デル・フランツの粛清は苛烈を極めた。フォンヴォルテール卿の命令でロシュフォール内部を調べていた俺達は、それを目の当たりにさせられた。 シュトッフェルを大樹と寄り掛かるような輩は、欲ばかりが肥大した無能者揃いだ。軍の上層部は一気に入れ替えが行われ、地位を追われた者は、ほとんどが醜聞を暴かれて家そのものが没落した。親族の家では当主がいきなり交代したり、跡継ぎがいるのに断絶させられたり、領地や荘園が取り上げられたり半減したりした。特に、自分の頭越しにシュトッフェルに取り入っていた一族の長老格の家に対しての攻撃は凄まじかった。若造の跳ねっ返りなぞ許さんとばかりにいきり立ち、デル・フランツを押さえ込もうとした長老達は、なぜか全員同じ日に自殺し病死し事故死した。そのあからさまな当主の「意志」に、フォンロシュフォールの親族であることに甘えきっていたヤツらは震え上がって白旗を掲げ、粛清は完了した。 この後、ロシュフォールの富は全てデル・フランツ、すなわちフォンロシュフォール本家に集中することとなった。当主に忠義を尽くした家は無事おこぼれに与り、ロシュフォールの結束は飛躍的に強化されたというわけだ。 とはいっても、デル・フランツの悩みが全て解決し、視界が広々と冴え渡っているかといえばそうでもない。 ロシュフォールには、ある意味、街の暗黒街よりはるかにヤバくて厄介な場所がある。生き延びた暗黒街のヤツらが多く逃げ込んだのもそこだ。 だがそれを潰すことはできない。ロシュフォールがロシュフォールである限り。 さてその後、貧民窟は取り壊され、新市街が建設された。 元々その地域に暮らしていた民の中で、軍の「大掃除」から逃れた民は、当然のことながら街から追い出された。 デル・フランツは城外に村を作り、そこで暮らすように勧告したって話だが、裏町に住んでた貧乏人は、ほとんどが貧しい農村で暮らしが立たずに逃げ出した連中だ。今さら土地を─それも農地でもないただの空き地を─耕そうって気にはなれない。おざなりに作られた村なんぞに夢も希望も未来もない。ま、貧乏人はもともとそんなモノを持っちゃいないが。 国による各村での学校と病院の建設、教育費と医療費の無料化、それから上下水道の整備なんぞというユーリ陛下の政策が具体化したのはその後の話だったから、都をおん出された民にできることといえば、我が身の不運を嘆くことだけだった。 結局、手に職があり、新しい街に潜り込むこともできた幸運な少数を除き、ほとんどが別の街の、似たような裏町に流れていった。 つまりまあ……。 そういう昔を知ってるから、デル・フランツがどれだけご立派な事を口にしても、俺なんぞはちょっと眉に唾つけたい気分になっちまうんだよな □□□□□ 「いらっしゃいませ!」 玄関広間の受付で、名家の執事のようなお仕着せを纏った150歳ほどの男が朗らかな声を上げた。 宿は貴族の館を模した建物で、外観と中身の意匠は派手だが、素材は安上がりだ。あちこちキラキラしてるが、本物の金や銀、宝石類は皆無だろう。つまり全部紛い物。でも、それはもう織り込み済みだ。 今回の宿は、新市街の一般観光客向けの中でも、中の上、もしくは上の下に位置する宿を選んだ。 富裕層向けの宿は、下手をすると俺達の誰かの顔を見知った客がいる可能性もあって危険だし、安宿は論外だ。管理がしっかりしていて、従業員もそこそこきちんと躾られていて、部屋は清潔でそれなりに広く、洗面所と風呂完備で、飯と酒の美味い食堂があればなお良しという辺りで決めた。 こういったことについては、この俺の目利きを信用してもらおう。 実際、玄関広間は広々と明るいし、床石は安物だが磨いてあるし、何より人が大勢行き来している。人が集まる宿は良い宿さ。 そうそう。 今回陛下の髪色はいつもの赤毛、眼は茶色の色ガラスだ。猊下もいつも通り、ちょっと嘘くさい金髪と蒼い色ガラスにしている。だが陛下は今回珍しく顔を露にしている。 理由の1番は、ヴォルフラム閣下の同行だろうか。 ユーリ陛下に負けず劣らず美しい閣下が堂々顔を晒しているのに、ユーリ陛下がお顔を隠す理由がないというところだな。それに、末っ子閣下もこれまであまりロシュフォールには縁がなかったというし。 で、今回の設定だが。 坊っちゃん3人は従兄弟同士で、下級貴族とそこそこ富裕な商家の子弟だ。そして隊長と俺はそれぞれの家に仕えるお供、ということになっている。 ちなみにコンラッドは、「衝撃の秘密」の持ち主なんだそうだ。 何でも、下級貴族のお坊ちゃんであるヴォルフラム閣下の父上が、ヴォルフラム閣下が生まれる前に女中に手をつけてできた、お坊っちゃんの腹違いの兄、だとか。しかしそれをひた隠して、愛する弟に仕えているときたもんだ。 これには坊っちゃんの内、約2名が反対意見を激しく主張した。1名は「下級貴族とはどういうことだ!? それにこの僕がコンラートに護られてたまるか!」であり、1名は「コンラッドはおれの護衛だぞ! ヴォルフのじゃないぞ!」だった。しかしこの反対意見は、「舞台監督」を自称するもうお1人に却下された。隊長はと言えば……ただひたすら、笑いを顔に貼り付けていた。 裏設定ということなら、俺だって黙っちゃいない。 『猊下猊下っ、俺っ、俺にはどんな衝撃の設定が!?』 『うん、グリエちゃんにももちろん用意してあるよー。あのね、君は実は盗賊なんだ!』 『……え』 『金持ちばかりを狙い、奪ったお宝は貧乏人に全てバラまくという義賊! あ、これは政治家のバラまきじゃないから安心して!』 (横から「ネズミ小僧だな!」の声あり) 『ネズミ? ネズミって病気の元じゃないですか。それにもう小僧って年じゃないし。それから奪ったお宝全部ばら撒いたら、俺の儲けは?』 『義賊はそんなけちけちしない!』 『え、だってー』 『君は僕達の家にかつて忍び込んだ盗賊だ。しかしその場で捕らえられてしまった。だけど君の民を思う気持ちに感心した僕が助命を願ったおかげで、君は助かった。そしてその後、君は恩返しの思いを籠めて僕と渋谷に仕えることになったわけ。つまり僕は君の命の恩人なので、心して仕えるように!』 『……………身命を賭してお仕え致しますデスー』 宿の受付担当の男は、坊っちゃん3人を視界に入れると、驚きに一瞬目を瞠り、頬をわずかに赤らめ、懸命に息を整えてから、にっこりと営業的に満点の笑顔になった。よしよし。 「いらっしゃいませ。王都からお越しの、えーと……エチゴヤ・ミツエモン様、ケンシロウ様、ウッカリ卿ハチベー様、それからアツミ・カクノシン様、ササキ・スケサブロウ様、で……よろしゅうございますか?」 「そうでーす」 受付係はちょっと不思議そうに俺達を見回してから、この世にゃ色んな名前があるもんだと納得したんだろう、あらためてにっこり笑って手続きを始めた。 「この宿、評判良いんだなあ。客もわんさかいるじゃねーか」 俺は受付台に寄り掛かり玄関広間を眺めて言った。 今、広間の真ん中には、きょろきょろと周りを見回している坊っちゃん方3名、コンラッド、それから俺達の荷物を馬車から降ろしてきて、部屋に運ぶために鍵を待っている係りの男が2名立っている。その傍らを、それはもう多くの男女が行き来していた。 何があるのか、妙に声高に言い合っているのが多く、雰囲気も刺々しいのが気になるが……。 「いえ、この方々のほとんどは宿泊のお客様ではないんです」 はたして、受付係が言った。 「当宿には地元の皆様にもよくご利用頂く広間がありまして、本日はそこで寄り合いがあるのです」 皆様、その参加者でいらっしゃいます。 その言葉に頷くと、俺は行き来する連中を観察してみた。 どれも若い、っつーか、150歳から200歳前後が多いかな。街の者らしい垢抜け方をしちゃあいるが、さほど実入りが良さそうでもない。かといって、貧乏人でもない。微妙なトコで……個人営業の商人か職人かも。 と、思った時だった。 「わっ」 「きゃっ」 きょろきょろ広間を見回して、そのままトコトコと足を踏み出したユーリ陛下改めミツエモン坊っちゃんと、隣の部屋から駆け出してきた娘が絶妙の間合いでかち合った。 よろめいた坊っちゃんを、コンラッドがすかさず支える。……油断だぞ、隊長。 「ごっ、ごめんっ、おれ、よそ見してて…」 「いいえっ、私こそ……」 娘、年の頃7、80歳、つまり坊っちゃん方とさほど変わらない年代の少女は、謝ろうと坊っちゃんの顔を至近距離で見てしまい、一瞬で固まってしまった。 ポウッと赤く染まった頬と淡い菫色の瞳がなかなか良く合う。だが、顔立ちが少女らしい可愛らしさに溢れているのに、どういう事情があるんだか、薄茶色の髪はざくざくと、ちょっと無惨なくらいに短く刈られているし、服もどう見ても男物だ。……惜しい。 俺って、美人より可愛い系が好みなのかなーとふと思ったその瞬間だった。 「あなた! どういうつもり!?」 誰かがいきなり怒鳴った。 え? と見ると、これまた少女、今度は少々幼い、6、70歳くらいのがふんぞり返っていた。怒っているらしく、眉を吊り上げている。 ……銀に近い金髪が、ぽわぽわふわふわだ。すげー猫っ毛だな。どうやら山ほどのピンやリボンで押えているようだが、コイツは毎朝纏めるのが一苦労だろうなあ。癖毛の苦労は俺もよく分る。 なんてコトはどーでも良いんだが。 一体どうして、誰に向かって怒っているんだろう。と見ていたら、少女、っつーか、小娘がずんずんと音を立てる様に勇ましく近づいてきた。猫っ毛がぽわんぽわんと揺れている。 「私達が歩いているのに、どうして脇に避けないの!? 私達の進路を邪魔するなんて、無礼でしてよ!」 信じられないわ! 怒りの拳を震わせる小娘は、まっすぐ坊っちゃんを睨みつけていた。 「……え? え?」 呆気に取られ、まん丸の目をぱちくりさせてるミツエモン坊っちゃん。ひゅうと面白そうに口笛を吹いたのがケンシロウ坊っちゃん。そして「何だとぉ…!?」と眦を吊り上げたのがウッカリ卿こと末っ子閣下だ。 ……この娘は間違いなく貴族だ。 この態度もそうだが、着ているドレスは上等だ。一生懸命質素を装っているものの、質の違いは一目瞭然。装飾品はあえて省いているようだが、細っこい手首に見える腕輪は本物の銀だろう。細工も凝ってる。 頬の辺りにまだ幼さが残っているが、どうやら貴婦人の誇りはすっかり一人前らしい。坊っちゃんと真正面に向き合っても、その美貌に臆してなるもんかと唇を噛み締め、懸命に睨みあげている姿はなかなか健気でもあるんだが……。 「失礼ですが」 怒髪天を衝き、今にも飛び出そうとする弟閣下を抑えて前に進み出てきたのは、坊っちゃんを傷つける者に対しては老若男女関係なく容赦しない男だ。 「ぶつかったのは私の主とこちらのお嬢さんであり、あなたは関りありません。それにそもそもここは公共の場所です。事前に告知や規制などがされていない以上、今現在この場所に誰かのための進路などというものは存在しません。つまりこの状況において、無礼を責められるのはあなたの方だと思いますよ?」 「なんで、すって……!?」 小娘、愕然。 そして盛大に顔を引き攣らせると、ヒューっと音を立てて息を吸い込み、そしてくわっと口を開いて……。 「おっ、お待ちください! マリーア様っ!」 坊っちゃんとぶつかった少女が、抱きつくように小娘を止めた。 ……マリーア…? って、どこかで聞いたような……。 「だって、スー…!」 「この方の仰るとおりです!」 「っ!」 「悪いのは私なんです! 私が気をつけなかったから…! それに申し上げたじゃないですか。ここは街の、普通の宿なんです。お城じゃありません!」 「ここはロシュフォールだわ! ロシュフォールの中である限り……」 「そういうお考えは間違っていると申し上げました!」 「お控えなさい、お2人とも!」 新たな人物登場。 俺達をほっぽって言い合いを始めた娘達の間に、2人を引き離すようにして現れたのは、いかにも貴族の従者然とした男だった。年の頃、俺よりちょい年上の120〜30歳、青い瞳、鋭い目つき、藁色の長い髪をひとつにまとめて背に流している。 男はちらっと俺達に目を向けたが、すぐにその視線を2人の娘に戻した。 「このような衆人環視の場で、名を隠しもせずに怒鳴りあうとは何事ですか! ひめ、いえ、お嬢様。私は、お淑やかになさっておられないならお付き合い出来ませんと申し上げたはずですよ?」 周りをよくご覧なさい。 叱られた娘達が、ハッと身を引いて周囲を見回す。 当然のことだが、娘達はもちろん、俺達は玄関広間にいた人々の注目の的になっていた。中には数人、ハラハラと冷や汗をかいているようなのもいる。ちらっと見ると、宿の受付係も顔を引き攣らせていた。 「……だ、だってフレデリック! この者がスーにぶつかってきたのよ!? なのに、私が叱ったら、この者が私に無礼な口を……」 「スーヴェルフェミナ?」 「違います、フレデリック様。私がよそ見をしてあちらの方にぶつかったんです。それをマリー…お嬢様がお怒りになられて…。あちらの方は、心得違いを窘められただけです」 フレデリックと呼ばれた男が、ふうとため息をついた。 それから改めて俺達に顔を向けると、娘2人を背に庇う様に前に進み出て、コンラッドと対峙した。 「主が失礼を申し上げたようだ。あまり世慣れない方なので、お許し願いたい。それからこれはあくまで忠告だが、ここで妙に事を荒立てると、あなた方にとって決して喜ばしい結果にはならない。ここは穏やかに引き下がってもらえると良いと思う」 「脅しか!?」 ヴォルフラム閣下改めウッカリ卿が耐え切れずに怒鳴った。 フレデリックがそちらに顔を向け、閣下の美貌に気づいたんだろう、ちょっとビックリした顔で目を瞠った。それから慎み深く逸らした視線がミツエモン坊っちゃんにぶつかり、そこでフレデリックの表情のビックリ度がさらに増した。 「忠告だと……申し上げました。失礼はお許し願いたく存じます」 口調が変わった。 なるほど、魔族は純血の度合いや身分血統が良ければ良いほど美麗度が増す。だから、この一行はタダモノじゃないかもしれないと思いついたわけだ。 「事を荒立てる気など毛頭ありませんよ」コンラッド、カクノシンが応えた。「ご理解頂ければ、それでこちらは結構です」 「ありがとうございます」 長居は無用だと判断したんだろう。フレデリックは一言礼を述べると、急き立てるようにマリーアを歩かせ、足早にその場を離れた。ちなみにマリーアの方は、フンッと思いっきり鼻を鳴らし、ツンと顎を上げて俺達の横を通り過ぎて行った。分りやすいお嬢様だ。 それにしても。 「マリーア」で「お城」で「姫」か。なるほどね。 「…あ、あの……」 スー、えっと、ヴェルフェミナ? がおずおずと声を掛けてきた。 「申し訳ありません、私のせいで不愉快な思いをさせてしまいました。お許しください」 「あ、いいえ、あなたのせいではありませんよ? どうぞお気になさらず」 「そうだよ」坊っちゃんが笑って言った。「それに、よそ見してたのはおれも同じだもんな。こっちこそごめん!」 「いいえ、そんな……」 スーヴェルフェミナちゃん(俺、礼儀正しくて素直な子は好きだし)は、坊っちゃんを眩しそうに見て首を振った。 その時、客の中から「スー」と呼びかける声が上がった。スーヴェルフェミナちゃんはハッと振り返り、それから俺達に向き直ると、「失礼します」と頭を下げ、駆けていった。 玄関広間の時間が再び動き始め、客達も気を取り直した様に歩き始める。 「…お、お客様……」 「ありゃあロシュフォールのお姫様かい?」 様子を窺うように周囲を見回してから、受付係が小さく頷いた。 街の者なら、お姫様の顔を見知っていてもおかしくはないな。 もう縁はないだろうが、一応の用心に軽く情報収集をして、俺は受け取った鍵を荷物係に渡した。 でもなぜか、妙な胸騒ぎがするんだよなあ。 何せ、嵐を呼ぶ坊っちゃんが2人揃ってるし、この手の胸騒ぎが外れたことがないってのが切ないトコかも……。 □□□□□ 「え!? じゃああの子、アーちゃんの妹なわけ!?」 部屋に入ってすぐ、俺の話を聞いた坊っちゃんがでっかい声を上げた。 「あれ? あれ? じゃあ、じゃあさ、あの子がエド君の元婚約者!?」 「エド君って、エドアルド君?」 聞かでもの質問をする坊っちゃんの隣で、猊下、ケンシロウ坊っちゃんが確認してくる。 「そうそう。ほら、グランツの問題があって、アーちゃんのお父さんが婚約破棄したんだってさ」 「ふーん、なるほどね。……でも良かったんじゃない? あの子、どう見てもエドアルド君とは合わない気がするし」 「エド君、真面目だしな」 「……って、お前達は一体何の話をしてるんだ…!? あーちゃんだのえどくんだの、誰だそれは! 男か!?」 「そうだけど?」 「何だとーっ!!」」 ぎゃいぎゃい言い合うお2人の隣で、猊下、おっとっと、ケンシロウ坊っちゃんがゆったりお茶を飲んでいる。 そこへ、部屋の確認を終えたコンラッドが戻ってきた。 今回の部屋は3つ。今集まってお茶してるのは、ミツエモン坊っちゃんが使うことになった部屋だ。 期待通り、そこそこ広いし、清潔だし日当たりも悪くない。寝具一式も洗濯が行き届き、よく乾いている。部屋の造りは建物と同じく貴族的に派手だが、使っているモノはどれも見かけ倒しの安物だ。でもこれで充分。ってーか、昔に比べると旅の宿もしっかりしてきた。いや、ホント。 今回の部屋割りは、一部屋にミツエモン坊っちゃんとウッカリ卿、もう一部屋にケンシロウ坊っちゃんと俺、1番小さな1人部屋にコンラッドことカクノシン、となっている。 俺は結構動き回ることになるだろうし、1人でいるのに慣れてるし、1人部屋は狭いし、ってことで、最初は隊長に2人部屋をと思ったんだが、これは丁重にきっぱりと全力で断られた。 命の恩人のケンシロウ坊っちゃんのお世話を、お前がしないでどうするんだと笑って言ったコンラッドの目は全然笑ってなかったし、俺の二の腕を掴んだ手の力は半端なかった。……理由は分る。分るけどな。 「で? スケさん? あのもう1人の、感じの良い方の女の子は何者?」 もちろん調べてあるんだろ? にっこり見上げられて、「はーい、坊っちゃん」と俺も笑った。 「実はあの子、というか、この宿で開かれてるっていう街の寄り合いなんですが、これ、俺達の旅の目的と結構関係あるんですよ」 「どういうこと? グリエちゃん!」 ミツエモン坊っちゃんが会話に入ってきた。 見れば、まだ怒鳴り足りないらしいウッカリ卿ことヴォルフラム閣下を、隊長が「どうどう」と宥めている。宥めているんだよな? 「この宿の1階にちょっとした広間があって、街の者が宴会を開いたり、寄り合いをやるのに使うそうです。で、今日のその寄り合いに集まってたのが銀細工職人と、銀製品を取り扱う商人達だったんですよ。それも、中小の個人工房や店の主達なんです」 「じゃあ、フォンロシュフォール卿が内定を白紙に戻したことで、ついに名を挙げる機会到来って喜んでた側ってことだね?」 「そうです。何でも、老舗側の反撃があって、腕の良い職人の引抜とか、工房の買収とかが始まってるらしくて、その対策についての話し合いだそうですよ? 弱小は弱小同士で助け合おうとか、そんなところでしょうね」 「で、あの子は?」 「そこなんです。あの娘、スーヴェルフェミナちゃんってのは、このロシュフォールの銀細工工房の中でも老舗中の老舗、職人としちゃあ大名人と謳われる人物の孫娘なんだそうです」 「それでどうして弱小連合の寄り合いに参加するわけ?」 「家出中だそうですよ。宿のモンが言うには、この辺りじゃ有名な話だそうです。あのスーヴェルフェミナって子は、あの年ながら、銀細工についちゃあ爺さん譲りの腕の持ち主だとか。で、本人も銀細工職人の道を極めたがっている。だけど、職人の道ってのは厳しいもんでしょ? 修行は一生もので、一人前になるまで何年も掛かるし、本気でやるとなりゃあとてもじゃないけど結婚して家事をするだの、子育てするだのできませんよね。爺さんとしちゃ、可愛い孫娘に銀に囲まれてるだけの人生を送らせたくないって、職人になるのを大反対したらしいんですよね。で、彼女は家出して、何と自分で小さな工房を立ち上げちまった、と」 「すげー、やるじゃん」 「あの男の子みたいな格好は、彼女の決意の表れかもしれませんね」 横からそう言ったのはコンラッド、じゃなくてカクノシンだ。 坊っちゃん達に新しい菓子を配ると、茶葉を入れ替えて次のお茶の準備を始めている。 「しかし、そんな職人志望の娘が、どうしてフォンロシュフォールの姫君と?」 不思議そうに尋ねたのはウッカリ卿ハチベー殿だ。どうやら1人で怒っているのは不毛だと気づいたらしい。 「何だかんだと言い合ってはいたが、付き合いは深いように見えたが?」 「幼馴染だそうです。平民で職人とはいっても、あの子の家くらいになると、名誉もあるし、尊敬もされてる街の名士です。かなりの資産家だそうですしね。となりゃあ、そこらの貧乏貴族よりはるかに格は上です。当然、フォンロシュフォール本家にも出入りが許されていて、娘同士は物心ついたころからの仲良しなんだそうですよ。あ、そうだ、そのスーヴェルフェミナの工房ってのも、あのお姫さんが資金援助してるそうです」 「ふーん……。ちょっと意外な気がするな。どんなに名士だろうと、あのツンツン姫が平民の娘風情と仲良くなるってのがね……」 「ツンツン? ツンデレ?」 「デレがあれば可愛いもんだけど、ツンだけじゃムカつくだけだね。中身の伴わない傲慢は最低だよ」 「つんでれって何だ!? 男か!?」 「ウェラー、じゃなかった、カクさん、お茶もう入った? だったらちょうだい」 あ、そろそろ飯時だな。 □□□□□ 先ずは宿の味を確かめてみることにして、俺達は食堂に入った。 意外なことに、そこにはあの弱小連合の職人連中が難しい顔で食事をしていた。卓を幾つもくっつけて、食堂の半分以上を占拠している。 その中にスーヴェルフェミナちゃんもいた。確かに、いい年の職人連中の中で1人だけ若くて可愛い女の子ってのは目立つな。ああいう格好をせずにいられないのは、単に決意表明だけじゃないかもしれない。 職人達はどいつもこいつも顰めっ面で、皿の料理をぐちゃぐちゃにかき回していた。見ていると、どれだけ不味い食事なんだと不安になるが、あいつらのあの渋面はたぶん食事のせいじゃないんだろう。と、思いたい。 「あのさ、おれ、ちょっと気になるんだけど」 幸い食事は美味かった。5人一緒に卓について食事をしていると、俺自身を取り巻く環境がどれだけ変わったかをしみじみと感じてしまう。が、今はそんなことどうでも良い。 名物だという熱々の肉詰めパイや野菜のパイを、はくはくとと頬張りながらミツエモン坊っちゃんが仰った。 「マリーアってさ、眞魔国じゃ良くある名前なのかな。だってほら」 もう1人、マリーアさんを知ってるよね。坊っちゃんが誰かの顔を思い出すように視線を宙に向けている。 「グランツのご隠居様のことですか?」 コンラッドに笑顔で尋ねられて、「そうそう」と坊っちゃんが頷く。 「チャイナクイーンのマリーア様」 「正しくは飛鳥返しのマリーア様でいらっしゃいますが……」 「飛鳥返しというと、グランツの7人の英雄達の1人だな」 ヴォルフラム、じゃない、えーと、ウッカリ卿が仰った。この方だってれっきとした武人だし、知ってて当然か。 「マリーアだけじゃないんですよー」俺が言うと、坊っちゃん達の顔が一斉にこっちに向いた。「ヒルデガルド、つまりヒルダって名前もグランツに多いんです」 「そうなの? もしかして、あのヒルダ様やマリーア様にあやかって、とか?」 「実はそーなんです」 「…ってーと?」 「生まれた赤ん坊が弱々しかったりすると、よく付けられるんですよ」と言ったのはコンラッド。「どうか生き延びて欲しい。英雄達のように強く逞しく凛々しく育って欲しいという親の願いですね」 「そっかあ……でも強く逞しく凛々しくって……ヒルダ様は分るけど、マリーア様は……チャイナとド派手な扇子と、あの高笑いが……」 「伝説の英雄なんて、大抵実体より美化されるもんですって」 どっかの誰かみたいに。 小さく付け足すと、某英雄がチロッと睨んできた。 「デル・フランツ殿はグランツのハンス殿と親しかったですし、その縁でグランツの英雄のお名前を娘につけたのかもしれませんね」 「ああ、そっか」 坊っちゃんはそれで納得したらしく、関心を目の前のパイに移した。 「このパイ、ほんっと美味しいよな!」 「ロシュフォールのパイは有名ですよ? 一流店から露店まで、それこそ何百種類ものパイがあると言われています。食べ比べも良いですね」 「食べ比べとか食べ歩きってさ、ロマンに溢れる言葉だよなー」 「渋谷、君のロマンはいつ食い気から別方向へ向かうのかな」 「……別方向? ってドコ?」 「……良いんだよ、気にしないで」 「へなちょこー」 弱小連合は延々仏頂面をつき合わせていたようだが、少なくとも俺達の食事の卓は和やかで明るかった。 でも。やっぱり嵐を呼ぶ坊っちゃんは、のんきな旅とのんきな護衛を許してはくれなかった。 部屋で食休みをして、午後の一時、さあ街を観て歩こうと立ち上がったその時だった。 ウッカリ卿ことヴォルフラム閣下が、ふと眉を潜め、何かを探すように視線を宙に向けた。 「ヴォルフ?」 外出の用意を整えたミツエモン坊っちゃんが、いぶかしげに婚約者を見ている。 「……炎、だ」 「え?」 「どこか、いや、すぐ近くで大きな火が上がった」 「…って」 「坊っちゃん!」 コンラッド、カクノシンが窓の外を見下ろして、緊張した声を上げた。同時に開けた窓から、一気に外の賑わい、というよりは、慌しく騒ぐ声や叫びが飛び込んでくる 「玄関から人が逃げ出しています。これは……」 お客様!! その時突如、部屋の扉をドンドンと叩く音と声が聞こえたきた。 「調理場から火が出ました! すぐに外に避難してください!!」 出ますよ! コンラッドがすかさず言った。 「…あ、でも、えっと、荷物……」 「荷物なんかどうでも良い。行きましょう!」 「そうだよ、渋谷、行こう!」 「ぐずぐずするな、ユーリ!」 「坊っちゃん、貴重品やお金は俺や隊長が身につけてますから問題ないですよ〜」 「……貴重品! 待って! アレが…!」 坊っちゃんがコンラッドの手を振り払うようにして、部屋の隅に置いた荷物に向かった。 「ユーリ!」 「…どこだっけ? アレだけは…大事な…」 「行って下さい、坊っちゃん! それは俺が…」 あった! 袋から抜き出された坊ちゃんの手には、小さな巾着袋が握られている。 「さあ、行きましょう!」 □□□□□ 避難経路はとうに確認済みだ。 部屋を出しなに、俺はそこらにあった布に水差しの水をぶっかけて、坊っちゃん達の鼻と口を覆わせた。ヴォルフラム閣下は拒絶したが、コンラッドが問答無用で押し付けた。 炎はまだ見えなかったが、煙は俺達のいる3階の廊下の床を這うように広がっている。 廊下には誰もいなかった。さっきのヤツは先に逃げたか。 お客第一の宿としちゃ減点だが、避難を呼びかけに廻っただけでもまだましかね。 「……はふーっ」 「到着した途端にこれって、どうなんだろうねー」 無事に外に飛び出した俺達に、宿の関係者らしい男が、「お客様、大丈夫ですか!?」と水を運んできた。 それを坊っちゃん達に飲ませる間、俺とコンラッドは周囲を確認した。 火はさほど大きくはなさそうだ。宿の玄関から煙は流れてくるものの、炎が建物を覆うとか火柱が立つといった凄惨な状況は見えない。 消防隊のお蔭かとも思ったが、どうやらそっちの作業は滞っているようだ。 新市街だから通りはどれも広いし、その通りに面した宿だから消防隊も動きやすいはずなんだが、賑やかな一画だけに野次馬がとにかく多い。 宿の主らしいのが、何とかしてくれ、早く火を消してくれと、人混みの中を右往左往しながら叫んでいるんだが、野次馬達の喧騒と兵士らしい怒鳴り声ばかりが響いて、作業が進んでいる気配がない。 今なら最小限に抑えられるだろう被害も、このままじゃ無駄に広げてしまいそうだ。 「ハードは綺麗だけど、ソフト面に難ありかな、このロシュフォールの都は」 いつの間にか俺達の隣に並んで通りの様子を見ておられた猊下が、苦笑を浮かべながらそう呟かれた。 まあいつものことながら理解不能な単語もあるが、つまり見てくれほど中身がしっかりしていないと仰せなんだろう。 「確かに、ここの防災担当部隊は再訓練が必要ですね」 俺に任せてもらえれば、と続けたそうに、隊長が眉を顰めてそう言った時だった。 「当宿の、オリュッパの宿のお客様は、どうかこちらにお集まり下さいーっ!」 声が聞こえてきた。 見れば、あの受付担当の男だ。 人々の間を廻り、手を振りながら、注意を引こうと懸命に声を張り上げている。 「み、皆様、お怪我などはございませんでしょうか」 さっきまで通りで救いを求める声をあげていた壮年の男が、汗と涙と煤でどろどろになった頭を下げた。 昼時で客も多くが出払っていたのか、集まった数はそう多くなかった。 「オリュッパの宿の主でございます。こ、この度は、私共の、その、不調法で、お客様方にはまことに、まことに、大変なご迷惑を……」 自分の財産が失われようとしているこの時に、とにもかくにも客に詫びようという姿勢には好感が持てる。 坊っちゃんもそう感じたんだろう。思わず、という様子で、坊っちゃんが宿の主に手を差し伸べた。 「おじさんこそ、大丈夫ですか? あの…火傷とか、してませんか?」 「おお、坊っちゃん」主がぶわっと涙を溢れさせた。「何とまあお優しいお言葉を……! いえもう私なんぞは……」 「スー! どこだ!?」 え? 今にも手を取り合いそうだった坊っちゃんと主の動きが止まる。俺達も、反射的に声のした方に顔を向けた。 「スー! ……トナーさん!」 野次馬や兵士達を掻き分けて姿を現したのは、まだ150歳になるかならずの男だった。男は宿の主に気づくと、ハッと目を瞠って駆け寄ってきた。どうやらトナーというのが主の名前らしい。 「これは、ボゥム工房の……。この度はせっかく寄り合いに使って頂きながら……」 「スーを見ませんでしたか!?」 「スー、というと……イザーク様の?」 「一緒にいたんです! でも避難しようとしたら、細工の意匠集を広間に忘れたと言って戻ってしまって……!」 「寄り合いをなさっていた広間ですか!?」 横から、受付担当の男が口を挟んできた。その質問に、男が頷く。受付係の顔から血の気が一気に引いた。 「あの広間は厨房のすぐ脇です! もう火が廻って……っ!」 「…!! た、た、大変、だあぁっ!!」 主が絶叫し、男はすぐさま踵を返して吹っ飛んで行った。そしてすぐ近くにいた兵士の胸倉を掴むと、宿を指差して懸命に何かを訴えている。すぐにあの子を助けてくれと言ってるんだろうが……。 俺達の傍らでは、宿の主と受付係が踊るようにわたわたと慌てふためいている。 「スーって、あの子、スーベルフェミナって子だよね?」 「間違いないでしょうね」 「助けなきゃ!」 そう一声上げると、坊っちゃんは宿に向かって駆け出された。コンラッドが咄嗟に坊っちゃんの腕を掴む。 「火の中に飛び込むおつもりですか!?」 「でも…! …そう、だ! おれの魔力で火を……」 「お前の魔力はもう強力すぎる! 下手をすれば被害を大きくするだけだぞ!」 「だけど…!」 「あなたが危険を犯す必要はありません!」 「コンラッド!」 坊っちゃんがキッと隊長を睨みあげる。コンラッドがハッと顎を引いた。 「今、あの火の中にいるのは、おれの民だ。おれが助けなくてどうするんだ?」 「……ユーリ……」 「坊っちゃん……」 俺達の間に粛然とした空気が流れる。 「分りました」 それじゃあ、と俺が言いかけた、ほんの半呼吸早く、コンラッドが言った。 「俺が行きます」 決然と、そう宣言したかと思うと、コンラッドは止める間もなく身を翻し、宿の中に駆け込んで行った。 「コ、コンラッド!!」 「コンラート!」 「ウェラー卿!」 …っ、こんの…っ。 「馬鹿野郎っ!!」 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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