野球教室に参加なさる方はこちらへー……と呼びかけるくーるふぁいたーずの男性選手は、ユーリ達一行に目を向けた瞬間、わずかに身体を硬直させた。不自然に感じられるかどうかの微妙な間を置いて、こちらへ集まって下さーい、と続く。 彼が先ず視界に入れたのは、実はコンラートだった。 野球ファンの民から、ついでにユーリからも時々忘れられるが、くーるふぁいたーずは監督から選手まで、れっきとした国軍、それも王都警備大隊に所属している兵士なのである。つまり王都警備の最高司令官であるウェラー卿コンラート閣下の直属の兵士達なのだ。ウェラー卿の顔を知らないわけがない。 そしてその日、交流試合記念の野球教室に、身分を隠した尊いお方が参加されることは、実は以前から予定されていたことだった。だからこそ、野球教室を担当するのは他のどのちーむでもなく、国軍兵士で結成されたくーるふぁいたーずでなければならなかったのだし、代表ちーむのユニフォームを着てその場に残っている選手も、もちろんふぁいたーずから選ばれたメンバーばかりなのだ。つまり彼等は、野球ファンとの交流及び野球の面白さを世に広く知らしめるという役目を背負うと同時に、尊いお方の御身をお護りするという密命をも負っていたのである。 ゆえに彼等は燃えていた。 くーるふぁいたーずは王都警備大隊の消防救助部という専門部隊の隊員有志で結成されている。彼等は王都の民を火事を主とする災害から護り、もし災害が起きた時には死をも怖れず現場に飛び込み、民を救い出すのが役目である。よって、王城や尊いお方、すなわち魔王陛下と直接繋がる部署ではない。 それが今回、すぐお側で陛下の御身をお護りする栄誉が与えられたのだ。 魔王陛下に忠誠を誓う兵士として、これが燃えずにいられようか。 そしてそれだけではない。 魔王陛下とウェラー卿コンラート閣下のお2人は、ただ今現在眞魔国において、知らぬ者のない最高最強の恋人同士だ。片や眞魔国史上最高の名君と謳われる双黒の美貌の魔王、片や眞魔国史上に間違いなくその名を残すであろう救国の英雄。このお二人こそ、まさしく民の夢と憧れの象徴! シンニチに表明された大賢者猊下の尊いお言葉によると『真夏には絶対側にいて欲しくない熱々甘々ばかっぷる』なのだ。 ばかっぷるという意味は不明だが、偉大なる大賢者猊下のお言葉だ、魔王陛下とウェラー卿の愛に対する、きっと素晴らしい礼賛のお言葉なのだろう。もしかしたら4000年前の昔、かの眞王陛下と大賢者猊下の間で使われていた、由緒あるお言葉かもしれない。 それほどまでに素晴らしいお二人のお姿を、今日、彼等はすぐ目の前で見物、もとい、観察、ちょっと違う、とにかくできるのである。これを後から家族や彼女や彼氏や友人一同に教えてやれば、どれだけ自分の株が上がることか! 「明日のあいどる」はこの俺達だ! あらゆる意味での使命感に、くーるふぁいたーずの選手達は、その名称とは裏腹に熱く熱く燃えていたのである。 ウェラー卿の側に少年がいる。質素な服に身を包み、長めの前髪と帽子と眼鏡とで、その表情はよく分からない。選手達の胸がどきどきと高鳴り始めた。 その時、サービス精神が旺盛なのか、単に見せ付けたいだけなのか、ウェラー卿が動いた。その手が自然な雰囲気で少年の肩に回ると、ふいにその耳元に顔を寄せ、何かを囁きかけたのだ。くすぐったそうに肩を竦めると 、顔を上げ、にこっと笑みを返す愛らしい口元の少年。 ……あの方こそ偉大なる魔王陛下! 一斉に、だが密かに、拳をぎゅっと握ってガッツポーズ、さらに萌え…燃え上がるくーるふぁいたーず一同。 「はいっ、皆さん、どうぞここに並んで下さーい!」 くじ引きで司会役を勝ち取った選手が、誇らかに頬を染めて声を上げる。 子供達の集団の隣に、ユーリ達も並んだ。 「本日はくーるふぁいたーず主催の野球教室に、ようこそおいで下さいました! 皆さんには、ぜひ野球の楽しさを体験して頂きたいと思います。どうかよろしくお願いしまーす!」 にっこり笑顔でスピーチすると、「はーい!」という良い子のお返事が一斉に上がった。もちろんユーリ達も一緒だ。 「また本日は、大変素晴らしいお客様に参加して頂きました! 我が眞魔国と友好条約を結ぶため、遠く『新連邦』からお出で下さいました方々です!」 思いもかけない突然の紹介に、揃って目をぱしぱしさせるクォード達。参加者達の視線も一気に彼等に集中する。 「新連邦の皆さん、眞魔国にようこそ! 皆さんは以前から野球にご興味はおありだったのですか?」 司会の質問に、「はい」と答えてアリーが前に進み出ようとしたその瞬間。 「さよう!」 いきなり答えてずいっと前に出たのはクォードだった。 「我が新連邦は、これから建国を宣言する新しい国家であるが、ぜひとも眞魔国とは友好を育みたいと願っておる。そしてまた、この野球という素晴らしい催しを、ぜひぜひ我が国でも広めたいと熱望いたしておる。本日は野球の真髄についてしっかり学ばせてもらうつもりだ。皆々、よろしく頼む!」 かなりエラそうな口調に、周囲が一瞬ぽかんと口を開ける。 ちょっとマズいと思ったのか、そこへアリーがぴょこんと飛び出してきた。 「頑張りますから、皆さんで教えて下さいねっ。よろしくお願いしまーす!」 「よろしくお願いしまーす!」 カーラとバスケスとアドヌイとゴトフリーが、クォードを押し退けるように前に出ると、アリーと一緒になって愛想よく笑い、頭を下げた。ついでにカーラとバスケスの足がそれぞれクォードの向こう脛を蹴っていったのを、コンラートとヨザックとクラリスの三人だけが目撃していた。 可愛い少女を中心とした一同の笑顔に、周囲の魔族達も気を取り直したのか、一斉に拍手が上がる。 どうもーとアリーが八方に笑顔を向けて手を振っている。愛想を振りまくという技を、どうやら夕べ一晩でしっかり身につけたらしい。 「最初は体操をして身体を解します。2人一組になって下さーい」 その声に合わせて並んでいた参加者がばらばらと崩れた時。 「あのぉ…」 カーラが声のした方に顔を向けると、そこには人間なら10歳前後の少年少女が4、5人集まってカーラを見つめていた。さらにその背後には、彼等に隠れるようにして子供達がやはりじいっとこちらを見ている。 「何、だろう?」 なるべく優しい顔と声で問い掛けると、一番年長らしい、それでも人間年齢12、3歳位の少年が1歩前に進み出てきた。 「新連邦、って、あのー……もともと大シマロン、だったって、ホントですか……?」 おずおずと上目遣いで尋ねてくる少年に、意図を図りかねながらも「ああ、そうだが」と頷いた。その途端。 きゃあっ、と声を上げて、中にいた少女が後方へ跳ねるように逃げた。顔がどう見ても恐怖に歪んでいる。 「じゃあ……あんた達、シマロン人……っ」 質問をしてきた少年もまた、恐ろしいものの様にその名を口にすると、背後にいる仲間たちを庇うようにしながら、そろそろと後ずさっていく。上目遣いのまま、カーラ達を睨むその目の中で瞬く光が何であるか、カーラはすぐに理解した。その光は、かつてカーラ自身が持っていたもの。鏡を覗く度、嫌でも目にした疎ましい、だがあの時の自分には生きていくために絶対必要だった光。 憎悪だ。 シマロンの人間達よ! 少女が叫ぶ。と、同時に、集まっていた子供達が恐怖に竦みあがるようにか細い悲鳴をあげ、身を寄せ合い始めた。 「お、お姉さま……!?」 「カーラ? 一体どうしたのだ!?」 仲間達が慌てて集まってくる。一体……何といえばいいのか。 人間と魔族の間の数千年に渡る誤解や偏見も、このようなちょっとしたすれ違い─ほんのちょっと知識が足りなかったり、感情が邪魔をしたり─そんなことで起きたものなのだろうか? カーラの中に、ふとそんな埒もない感慨が湧いた。 誤解や偏見を抱き、見当違いの恐怖や憎悪を抱くという行為に、種族の違いなど関係ないのだな、と、そんなことも思った。 だが、いつまでもこのままでいて良いはずがない。我々のすれ違いは長すぎた。 とりあえず、今はこの子供達の……。 「違うんだよ!」 ハッと見ると、ユーリが子供達に駆け寄っていく姿が目に入った。 「この人達は違うんだ!」 「でもっ、でも新連邦はシマロン人が……!」 そうじゃないんだ! 言って、ユーリは子供達に笑顔を向け、ゆっくりと口を開いた。 「この人達はね、大シマロンに滅ぼされて、生まれた国を占領されちゃった人達なんだよ。大シマロンはそうやって国を大きくしていったからね。あそこにいるお姉さんやお兄さんの家族も皆、その時の戦争で亡くなったんだ。それであの人達は、ほら、知ってるだろ? コン…えっと、ウェラー卿と一緒に大シマロンと戦って、大シマロンを倒して、そして新しい国を作ったんだよ」 ゆっくりと噛んで含めるように話すユーリの言葉を、身を寄せ合ったまま、じっくりと反芻するように聞いていた子供達が、やがて互いに顔を見合わせ、それからそうっとカーラ達に視線を向けた。 先ほどとは違う目つきで、じーっとカーラ達を見つめてくる。 「あの子供達は、全員戦災孤児だ」 え? と顔を向けた先に、コンラートが立っていた。 「かつてのシマロンとの大戦の時に家族を亡くし、以来施設で暮らしている子供達だ」 「………シマロンとの、大戦……?」 「それは一体……」 いつの話だ? そう尋ねようとして、カーラはハッと目を瞠った。 集まっている子供達は人間年齢10歳から12、3歳。魔族年齢でいえば、50歳から70歳くらいなのだろうか。とすると……。 「シマロンとの大戦があったのは、30年程前のことだ。人間にとっては昔の話だな。当時生まれていたのは……クォード、あなたくらいか」 確認するコンラートに、クォードが「うむ」と頷く。 「だが俺にしても、記憶があるわけではない。生まれてはいたが……まだ物心つくかつかぬかの幼子であった」 「だが魔族は違う」 コンラートが顔を子供達に向ける。 「魔族の成長は遅い。人間達は、魔族の寿命が長いことは知っているが、それがどういう意味を持つかはほとんど分かっていない。言っただろう? 魔族の精神年齢は、ほぼ見た目通りだと。つまり肉体の成長だけでなく、精神の成長もゆっくりだということだ。だから……君達にとってははるか昔の戦争であっても、我々にとっては違う。大戦当時幼い子供であったあの子達は、30年近く経った今もやはり子供なんだ。そして、あの戦争の痛みは、今も変わらずわれわれの社会にも、そして心の中にも残っている。魔族の悲しみの記憶は、君達が理解する以上に長く続き、そして……心を苛み続けるんだ……」 30年。カーラはまだ生まれてもいないはるか昔。祖母にとっても、記憶の彼方の物語だろう。だが、自分の人生よりも長い時間、ずっとその痛みを胸に抱えてきた人々が、それも幼い子供達が、ここにいるのだ。 「……そうか……そういうことなのか……」 寿命が長いということは。 成長がゆっくり進むということは。 カーラは、一塊になりじっと自分達を見つめる子供達に目を向けた。 10歳ほどにしか見えない少女と視線が合う。 ああ、それは何と。 何と……惨く、哀しいことなのだろう……。 カーラは目を閉じ、顔を伏せた。 傍らではクォードが「うむむ…」と唸り、アリーが長く深いため息を漏らしている。 と。 「あの……」 ハッと顔を上げると、先ほど声を掛けてきた少年が、すぐ近くでカーラを見上げていた。少年の腰の辺りには、幼い少女がしがみつくようにくっ付いている。 「あなたも……シマロンに滅ぼされた国の人、なのですか……?」 おずおずと尋ねてくる少年に、カーラはゆっくりと大きく頷いた。 「ああ。私の国は大シマロンに滅ぼされ、併合された。私の……父も兄も、大シマロンとの戦いで亡くなった……」 「ホントっ!?」 叫んだのは少女だった。 ぴょんと飛び出してくると、カーラの前でカーラを見上げてくる。 「お姉ちゃんも!? お姉ちゃんのお父ちゃんとあんちゃんも死んじゃったの? ホリィもだよ! ホリィのお父ちゃんとあんちゃんも、シマロンに殺されたの!」 ホッとした様に笑う少女の前で、カーラは地面に膝をついた。 「そうか……。お前、ホリィ? ホリィの家族は?」 「お母ちゃんがいたけど、お父ちゃんたちが死んじゃった後、病気になってお父ちゃんとおんなじトコロに行っちゃったの。でね? シセツに入ったの。あのね? お父ちゃんは仕立て屋さんだったんだよ? ホリィがね、おっきくなって、お嫁さんになる時に、ドレスを仕立ててくれるって言ってたんだって。ホリィはちっさかったから覚えてないけど。あんちゃんも、仕立て屋のしゅぎょうをしてたの。お姉ちゃんのお父ちゃんやあんちゃんは何をしてたの?」 「……私の、私の父は……」 何と言おう。 言葉に詰まったカーラの目の前で、いきなり幼女、ホリィの身体が宙に浮いた。 きゃっと小さな声が上がる。 見上げた先で、ホリィの小さな身体がクォードの腕の中にあった。 「そなた、ホリィと申すのか。元気そうな良い娘だの。そなた、家族をなくして寂しいか?」 意外なほど優しい声でクォードが少女に話しかけている。 数瞬、びっくりしたように目を瞠っていたホリィだったが、クォードの笑顔に安心したのか、すぐに笑顔に戻った。 「ううん! シセツにたくさんあんちゃんやねえちゃん達がいるもん! ホリィ、全然寂しくないよ!」 「おお! ホリィは強くて良い子だな!」 笑いかけるクォードの顔をじっと見つめて、それからホリィが口を開いた。 「おじちゃんは? おじちゃんもシマロンと戦ったの?」 おお、とクォードが頷く。 「俺もここにいるカーラと同じだ。大シマロンに攻め込まれ、国を失った。だから俺は国と誇りを取り戻すため、大シマロンと戦ってきたのだ」 「おじちゃんのお父ちゃんやお母ちゃんは?」 「母は子供の頃に亡くした。父は戦に敗れた後大シマロンに捕えられ、処刑されて亡くなった。親族の中で命永らえたのは俺だけだ」 「おじちゃんだけ?」 「そうだ」 「寂しい?」 「昔はな。だが今は違う。仲間が大勢いるからな。ホリィと一緒だ」 「そっか!」 「そうとも!」 にっこりと笑いあう二人。 その姿を、カーラは呆気にとられたまま見つめていた。クォードがこんな風に子供と話ができる男だとは、今の今まで思いもしなかった。同じ気持ちなのか、カーラの隣ではアリー達はもちろん、ユーリやコンラート達、魔族の面々もぽかんと口を開けて彼等を見つめている。 その時、少女ホリィが、無邪気な笑みをさらに広げて言った。 「おじちゃんはウェラーきょうと一緒にシマロンの人間とたたかったんだね! じゃあさっ、じゃあおじちゃんは、ホリィのお父ちゃんやあんちゃんのカタキを取ってくれたんだねっ!」 ハッと、クォードが、そしてその会話を聞いていたカーラが、目を瞠って少女を見た。 魔族の子供のための敵討ち。 そんなことは、この瞬間まで全く考えていなかった。 だが、かつての戦争でシマロンに家族を殺された魔族からすれば、やはり自分達はそういう存在になるのだろうか……。 それにしても、こんなに幼い少女─たとえカーラの倍近くの年月を生きていたとしても─が、「仇を取る」などという殺伐とした言葉を口にするのは、何ともやるせない気がする。 「その通りだ!」クォードが力強く頷いた。「俺は、俺の一族の仇だけではない、シマロンに無惨にその命を奪われた、全ての人々の仇を取ったのだ。もちろん、ホリィの父と兄の仇も、この手でしっかり取ったぞ!」 うわぁ、とホリィが歓喜の声を上げた。 もし自分だったら。 カーラはその姿を見つめながら思った。 きっと色々考えすぎて、これほどきっぱりとあの少女の求める言葉を口にしてやることはできなかっただろう。 「おっさんってさ、やっぱ優しい人だよね」 いつの間にか隣に立っていたユーリが、笑みを浮かべている。 「彼のことはかなり理解しているつもりでしたが」 コンラートが、苦笑を浮かべて主に告げた。 「こういうことができる男だとは思っていませんでした。……少なくとも、彼は今、1人の戦災孤児の心を救いましたね」 うん、とユーリが頷く。そして、ふと表情を改めると。 「おれももっと頑張らなくちゃね。これだけ時間が経っても、皆まだこんなに辛い思いから抜け出せないでいるんだ……。皆が前に向かって進んでいけるよう、おれ、もっともっと頑張らなきゃ……!」 でもね、ユーリ。 コンラートがユーリの肩にそっと手を置いて続ける。 「1人で頑張り過ぎてはいけませんよ? あなたの側には俺達がいるんです。どうかもっと俺達を頼ってください」 ユーリがコンラートを見上げて、ふわっと笑った。 「うん。頼りにしてます」 笑みを浮かべて見詰め合う2人を、不思議なほど平静に見ていられる自分に、カーラはホッと息をついた。 幸か不幸か、彼等の周囲でやはりホウッと、これはどこかうっとりとしたため息が一斉に漏れていたことには気がつかなかった。 「はいっ、皆さんっ、体操を始めます! それが終わったら、きゃっちぼーるを始めましょう!」 ずっと様子を見ていたのだろう、司会役の青年が明るく声を上げた。 どうなることかと遠巻きに様子を見ていた参加者達も、安堵したのか思い出したように明るい歓声を上げてグラウンドに散っていく。 「うーむ、これはなかなか難しいぞ。全く球が飛ばんではないか」 「てゆうかよ、何か俺達、間違ってねえか?」 バスケスを相手にキャッチボールをしているクォードが不満げに言えば、バスケスもまた首を傾げている。まともにボールを投げられない二人の元に、選手の1人が寄ってきた。 「はい、お二人さん。投げるのはぐらぶをつけてない方の手でですよー。これはぼーるを投げるためじゃなくて、受けるためにあります。それから、ぼーるを素手で捕るのは危険ですから止めましょうねー。ではまず、ぼーるの握り方からいきましょうか」 試合をずっと観ていた割に、根本的なところを間違えていた二人に、優しい指導が開始された。 「お上手ですね」 姉とキャッチボールをしていたアリーの傍らに寄って来た選手が、感心したように声を掛けてきた。 「そ、そうですか?」 照れたようにアリーが笑うと、若い選手もかすかに頬を赤らめた。 「私、国でちーむを作ってるんです。あ、そこにいる2人も同じちーむの仲間なんです! まだ全然形になってないけど、でも、眞魔国から送ってもらったばっとやぼーるで、私達なりに練習してるんです! ちゃんとるーるぶっくも読んでます!」 「そうなんですか! あ、それで、あなたのぽじしょんは?」 「……びっちゃー、です」 おずおずと伝えるアリーに、へえ! と青年が声を上げた。 「僕もぴっちゃーなんです! とはいっても、まだ控えですけど」 「そうなんですか!?」 「そうなんです。偶然ですね。……あ、そうだ、後で皆さんにみにげーむをしてもらう予定なんですよ。ぴっちゃーをやりませんか?」 「ほっ、ほんと!? いいんですか?」 「ええ、もちろん! 監督に言っておきますから!」 「嬉しい! ありがとうございます!」 頬を真っ赤に染め、胸元で手を組んで青年を見上げるアリー。青年もまた照れくさそうに笑って頭を掻いている。 「いいえ、そんな……。あ、僕、ジョフレンっていうんです。ジョーって呼んで下さい」 「私、アリーです。よろしく、ジョー」 「よろしく、アリー」 「……ねえ、何かあそこで青春してない?」 コンラートの球を受けたユーリが、すぐ近くに立つ女性士官に声を掛けた。クラリスは誰ともキャッチボールをせず、見学者という顔でずっとユーリの近くに立っている。彼等一行が11人という半端な人数だった関係もあるが、やはりユーリの背後を護る者が必要だからだ。ちなみにヨザックはヴォルフラムと組み、もう1人の「坊ちゃん」が投げる全くコントロールの定まらない球を、受けるよりも拾いに走り回っている。 「はい。妙にほのぼのしてますね。……放ったらかされたカーラがおろおろしてますが」 「カーラはこういうことには不器用というか……さらっと受け流すとか、軽く考えるということが出来ない性質ですからね」 キャッチボールを中断して、ユーリの下に歩み寄ってきたコンラートが言った。 「でもいい感じ、だよね? あんな風にさ、人間と魔族がそれぞれ仲良くなって、気軽に色んな話ができるっていうのは。………まさか恋に発展しちゃうってことはあり得る?」 「絶対ないとは言えませんが」コンラートが小さく吹き出して答えた。「まずないですよ。アリーも、眞魔国で良い野球友達が1人増えて嬉しい、とまあそんな程度じゃないですか?」 だよねー、とユーリも笑う。 そんなユーリ達の傍らで、クラリスはちょっとだけ悩んでいた。 一人ぼっちで放っておかれたまま、野球青年と良い雰囲気の妹を不安げに見つめるカーラを、慰めに行くべきかどうか。「大丈夫だ、笑って見ていろ」と肩を叩いてやりたい気がする。 女性に優しいクラリスは、どんな女性に対しても姐御視点なのだ。 キャッチボールの後は、バッティングだ。バットの握り方から始めて、バッターボックスでの構え方、振り方、それからトスバッティングで実際にボールを打つ感触を覚える講座となった。 「しっかり握りましょうねー。きちんと握らないまま思い切り振ると、ばっとが飛んでいってとっても危険ですよー」 ふんっ、ふんっ、とバットを振る大人達と少し離れて、子供達も子供用のバットをぶんぶん振り回している。あちらこちらでいつの間にかちゃんばらごっこになってしまうのは、やんちゃな子供ならではのご愛嬌だ。ちなみに武人に男女の差別がない眞魔国では、「えいゆうウェラーきょうごっこ」の主役は男の子だけの特権ではない。おまけに今日は野球教室に参加するということで、女の子もドレス姿ではなく、男の子と同じ「うんどうふく」に着替えているのだ。女の子もますます張り切っていた。 「われこそは、魔王陛下のちゅうじつなるかしん、ウェラーきょうコンラートなり! あくぎゃくひどーのシマロン人め! せいぎのやいばを受けてみよ!」 「ずるいぞ、ホリィ! 昨日もウェラー卿の役をやったじゃないか!」 「昨日はちがうもんっ。昨日やったのは、パインだったもん!」 「とにかく今日はおれがやるんだぞ! 約束だったぞ!」 「そんなの……!」 言い返そうとしたホリィが、ハッと何かに気付いた様に目を見開いた。それから仲間たちを放って、いきなり走り出す。行き先は、新連邦の人間達が集まってバットを振っている一画だ。 「おじちゃん!」 ホリィは目当ての人を見つけると、大きな声で呼んだ。呼ばれたクォードがバットの構えを解き、「おお」と少女に顔を向ける。 「ホリィではないか。如何したのだ」 「おじちゃん! おじちゃんのお名前、何ていうの?」 尋ねられたクォードは一瞬きょとんとしてから、「これはしたり!」と額を叩いた。 「名を名乗らぬままでおったとは、淑女に対して何たる無礼! 許せ、ホリィ。よいか? 俺は、元ラダ・オルドのクォード・エドゥセル・ラダと申す」 「…………どれがお名前?」 「………クォード、と呼んでくれ」 少女の素直な疑問に、ぷっと吹き出す仲間(のはず)の一同をじろっと睨んでから、クォードが答えた。 「クォードおじちゃん!」 「うむ」 大きく頷くクォードに、ホリィがにこーっと笑った。 「分かった! じゃあ、今日はホリィ、クォードおじちゃんの役をやる!」 「役? とは?」 「あのね、いまね、えいゆうウェラーきょうごっこをしてたの!」 ホリィ達に背を向けてバットを振っていた某英雄が、軽くコケた。 「ウェラー卿ごっこなんてあるんだ!」 ユーリがホリィの顔を覗きこむように、弾んだ声を上げる。 「うん! ウェラーきょうとせいぎのせんしたちが、あくのシマロン人をたおすんだよ! ほんとはウェラーきょうの役をやりたかったけど、でもトマスがやるっていうから。だから今日はホリィ、クォードおじちゃんの役をやる! えっとー、ウェラーきょうのせんゆうでー、それで…そうだ! ウェラーきょうの1番のぶかってことに……」 「待て待て、ホリィ!」 いきなりクォードが大きな声を上げて少女の言葉を遮る。 「おじちゃん?」 「俺がコンラートの部下だと? 何を申すか、とんでもない! よいか? ホリィ。俺はな、あの戦いにおいて、コンラートに指示を出す立場におったのだ。俺の方が、コンラートより立場が上、分かりやすく申せば、俺の方がコンラートより偉いのだ!」 「うっそぉ!」 なぜか現在進行形で「偉い」と言い切るクォードに、少女が目を瞠った。 「それ、ほんと!?」 ホリィが答えを求めるようにカーラ達を見回す。うーん、と唸りながら、顔を見合すカーラ達一同。 「……偉いとかどうとかじゃなく……コンラートがそうやって、王族どもを表面上立ててみせてた、ってだけのことなんだけど、なあ……」 バスケスがホリィに、というより、実際どうだったんだと疑問の目を向けるユーリやヴォルフラムに釈明するように言う。だがそれを、こんな少女にどう説明すればいいのか。 「ほら、誰も否定せんであろう。事実なのだからな。さあ、友のところにまいって、ここにいるこのクォードこそ、コンラートが心から喜んで従った英雄であったと告げてやるがよい!」 「おじちゃん、すっごーい!」 「たっ、隊長! それって、ばっとを振る体勢じゃないから! あんたが手に持ってるのは剣じゃないんだから! 頼むからその殺気をどうかしろって!」 「落ち着いてください、隊長。子供が側にいるんですよ。元は構いませんが、子供がとばっちりを受けたらどうするつもりですか」 「さっきから何をバカなことを言っているんだ、2人とも。俺がこんな場所で無謀な真似をすると思っているのか? 安心しろ。……的は外さん…!」 「だから違うだろって!」 「さあ! いよいよ本日の目玉、くーるふぁいたーずの選手も交えてのみにげーむです!」 グラウンドの一部で起こっていることはさらっと脇に置いて、司会が声を上げた。 試合は3イニングのみ。これで参加者は少なくとも1回はバッターボックスに立てる計算だ。 「はいっ、くじ引きをして2つのちーむに分かれてもらいますね〜。お友達と敵ちーむになっても文句は言いっこなし! さあ、どうぞー!」 司会に促され、選手の1人が差し出す箱に参加者達が手を差し入れていく。 実はこのくじ引き、事前にちょっと問題が起きていた。この企画当初、担当者から「魔王陛下が参加なされるのであるから、ちーむの編成はこちらで決めておいた方が良いのではないか?」という提案がなされたのだ。 遊びとはいえ、恐れ多くも魔王陛下が野球をなさるチームには、ウェラー卿を始めお側の方々、それから身元の確かな人々を集めるべきではないか、という発想は、ある意味無理のないことだ。しかしその意見は、ウェラー卿本人によって退けられた。 陛下はそのような気の遣い方を良しとはなされない。陛下は様々な民との自然な交流を楽しみになされているのであるから、この件に関して一切の斟酌、まして事前の操作等は無用である。全て一般の参加者と同じ態度で接すること。というような答えが返ってきたことで、企画担当一同ホッと胸を撫で下ろしたのだ。が。 「あーっ、おれ、コンラッドと敵同士になっちゃったー! あーあ、久しぶりにバッテリー組みたかったのになー」 お互いが引いたくじを見せ合い、少年─秘密の魔王陛下─が声を上げた。だけでなく。 「おおっ、姫! 我ら、同じちーむでございますぞ! これぞ天の采配! 共に生きろとの運命の啓示でござる!」 余計な男が余計な快哉を上げるものだから。 ウェラー卿の顔がくーるふぁいたーずの司会を始めとする面々に向けられた瞬間、屈強の兵士達が一斉に色をなくし、永久凍土に吹きすさぶ氷の嵐に晒されたかのように竦みあがった。 俺と陛下を同じチームにするくらいの配慮もできんのか、この役立たず! 無能! アラスカへ行けっ! 魔力を持たないはずの閣下の理不尽な怒りの声が、兵士達の頭の中で炸裂する。………あらすかってどこだろう? 「でもコンラッド、たまにはこういうのも面白いかもね! おれ、負けないからねっ。コンラッドも手加減するなよ!」 いつでもどこでも前向きな主の元気な声に、コンラートがすっと顔を戻した。 春の陽だまりを見るような、優しい笑顔がユーリに向けられる。 「そうですね。いつもキャッチボールばかりで、バットを構えてるユーリに投げたことはほとんどないですしね。よーし、俺も負けませんよ?」 「おうっ!」 「……よく表情をああもコロコロ器用に変えられるものだな……」 「コンラートだからな」 「あっちを向いてこっちを向いてとやってる内に、ついうっかり間違える、ということはないのかな」 「以前隊長にその点について尋ねてみたことがあるのだが…」 「何と答えた?」 「陛下に対しては自然に顔が綻ぶので、間違えるなどありえない、と」 「その自信が落とし穴だな………」 ふっふっふ、と笑うヴォルフラムの両脇で、カーラとクラリスがため息をついた。 コンラートを見る目が変わってきた気のする自分が、頼もしいのやら情けないのやら、さっぱり分からないカーラだった。 ユーリがいるチームには、ヨザック、クラリス、アリー、クォード、バスケスが入り、コンラートのチームにはヴォルフラム、カーラ、アドヌイ、ゴトフリーが入った。 一般参加者達もそれぞれ別れ(ちなみに一定の年齢以下の子供達は見学だ)、足りないポジションはくーるふぁいたーずの選手達が埋めることになっている。 それぞれのチームの先発ピッチャーはアリーとコンラートに決まった。アリーの球を受けるのはもちろんユーリ。そしてウェラー卿の球を受けるという栄誉を担ったのは、くーるふぁいたーずのじゃんけんで負けた(…)捕手だった。 「アリー」 コンラートに呼びかけられて、ピッチャーズマウンドに向かおうとしていたアリーが振り返る。 「何?」 「分かっていると思うが、お前のボールは力もないし速さもない」 「わっ、分かってるわよ! でも……」 「しかしお前には、誰にも真似できないコントロールの良さがある」 顔を真っ赤にして怒鳴ろうとしたアリーが、きょとんと目を瞠る。 「こんとーろーる?」 「ああ。ボールを、投げたいと思う場所に正確に投げる技術のことだ。お前は当たり前にできることだと思っているかもしれないが、これは訓練しても並大抵でできることじゃないんだぞ?」 「そ、そうなの……?」 アリーの頬に、今までとはちょっと色合いの違う朱が、ほんのりと射してきた。 「そうだ。ユーリはそれをちゃんと分かっているから、ストライクかボールか、打てるか打てないかの際どい所に構えてくるだろう。ユーリの構えた場所にしっかり投げられれば、お前のぼーるはそうそう打たれることはない。自信を持って投げろ」 「コンラート!」 じゃあ、頑張れよ。そう言って背を向けるコンラートに、アリーは思わず声を掛けた。コンラートが振り返る。 「あの……ありがとう」 ああ、と笑って頷いて、コンラートが去っていく。 自信をもって頑張れと、そう言ってくれたコンラートの言葉に嘘はないから。 だからアリーは嬉しかった。 ゲームは意外と両チームの力が拮抗した形で進んで行った。 玄人はだしのコンラートの投げるボールは、一般参加者にはそうそう打てない。くーるふぁいたーずの選手達も、ボールの速さやらコントロールの良さやら向かってくる視線が怖いやら、とにかく色んな理由で打ちあぐんでいた。一部の「大人気ない」という視線にもめげず(だってユーリが「手加減するな」と言ったのだから)、コンラートはどんどん打者を打ち取って、点を入れさせなかった。 対するアリーも、ボールのスピードや威力こそなかったものの、ユーリのリードと絶妙のコントロールで長打を許さなかった。またヒットコースに打たれても、「私ぃ、野球は初体験なんですぅ」という顔で玄人顔負けの守備を展開するヨザックやクラリス、ライトから本塁に見事なレーザービーム返球で走者をアウトにし、思わず監督がすかうとしろ! と叫んだほどの強肩を見せ付けたバスケスの存在などで、これまた相手に点を入れさせなかった。 そして、最終の3回、ユーリに初めての打順がまわってきた。 「よーし! いっくぞーっ!」 最初のバッターとして構えるユーリ。 「コンラッド! 手加減なしだからな!」 「分かってますよ、ユーリ!」 とはいうものの。 コンラートは困っていた。 バットを構え、真剣な顔を向けるユーリはとっても可愛い。 視力の良いコンラートには、こちらを睨みつけるような、ちょっと上目遣いのユーリの顔がしっかり見える。 ユーリの鮮やかなバッティングが見たい。飛び上がって喜ぶ姿が見たい。ヒーローになるユーリが見たい。 でも。 ここでヒットを打っても、ユーリはコンラートに抱きついてはくれない。 やったぞ、コンラッド! と、満面の笑みを向けてはくれない。 なぜならこの場合、ユーリに打たれるピッチャーはコンラート自身だからだ。 ユーリがヒットを打って満面の笑顔を向けるのは……。 「ユーリ! 頑張ってー!」 「坊ちゃん、あれやこれやイロイロ溜まった恨みを、ここで一発晴らしちまいましょう!」 あれやこれやの恨みって何だ。いや、ユーリにさんざん辛い思いをさせた過去があるのは確かだ。それを忘れるつもりはない。それはそれとしても。 ……こいつらはまだ良い。良い、としよう。アリーとユーリがじゃれる姿は、ほのぼのと可愛い、と思えば何とか思えないでもない。幼馴染への報復はこれから幾らでもできる。 だが。 「姫〜! コンラートごとき、徹底的に叩きのめしてやりましょうぞ!」 ………ユーリがこいつとハイタッチをする姿など見たくない。 ユーリを喜ばせたい純粋な思い。主への忠誠心。自分以外の誰にも笑顔を見せて欲しくない、恋人の独占欲。 複雑に交差した思いがボールを握る手に伝わったのかどうか。 投げたボールは、見事なまでにど真ん中に走った。 「貰ったーっ!」 ユーリの一振りで、ボールはコンラートの頭の上を越え、センター方向に飛んでいった。 「やったぁ!」 「坊ちゃん、さすが!」 「姫! お見事でござる!」 「素晴らしいですっ、陛……、どこかの坊ちゃんっ!!」 即席ちーむめいとと、くーるふぁいたーず全員の拍手喝采を受けながら、ユーリは悠々2塁に到達した。 「コンラッドー! わざとど真ん中に投げたんじゃないだろうなー!?」 「違いますよ」 まだ歓声の止まないグラウンド上で、2塁走者とピッチャーが会話をしている。 「ストレートで真っ向勝負してみたかったんです。見事にやられてしまいました。さすがですね、ユーリ」 「そっか!」 素直なユーリはにっこり笑い、コンラートに向けて「やったぜ」とVサインを送ってくる。それにやっぱり笑顔を返して、コンラートは正面に向き直った。 ボールを構える振りをして、胸に手をあて考えてみる。 ………嘘は言っていない、と思う。思考があれこれ揺れたのは確かだが、ユーリ相手に変化球を投げるつもりは最初からなかった。 ユーリには、ユーリにだけは、真正面から向き合って、自分の思いのありったけを、飾らず誤魔化さずそのまま真っ直ぐ届けたい。ユーリがいつもそうしてくれるように。 そう願って、本当はいつも願って。でも自分はそんなことはできないから。そんな素直な生き方もしてこなかったし、性分でもない。 だからせめて、ユーリに投げるボールは直球ど真ん中で。 よし、と胸に頷いて、コンラートは改めてバッターボックスに視線を向けた。 次のバッターは一般参加の人間年齢18歳ほどの少年で、なかなか上手い送りバントを決めてユーリを3塁に進めた。そして次の、ユーリやヴォルフラムと同年代の少女は、充分過ぎる気合が見事に空回り、振るバットは全て空気をかき回すだけに終って三振。これでツーアウト。 そして。 「おお! これぞ、天が我に与えた好機! コンラートを打ち砕き、姫を本塁に、このクォード・エドゥセル・ラダの胸にお迎えするのだ!」 クォードがバッターボックスに立って、ばっとの先をコンラートに向けた。 「姫が真に頼りとなされる者は誰か、今こそ思い知るが良い、コンラート!」 ばっとを向けられたコンラートの方はといえば、腕を組み、余裕の笑みを浮かべてクォードを見ている。 「おっさん! ツーアウトだからなー! ボールをしっかり見て打っていくんだ!」 「おお姫! 姫もこのクォード・エドゥセル・ラダがコンラートに勝利することを願っておられるか!」 「……怒ってる……。ありゃあ、相当頭にきてるぜぇ……」 「今は坊ちゃんが見ておられるから何もできないが……。近い内に行方不明者が1人出る可能性があるな」 ヨザックとクラリスの会話に、傍らのバスケスがため息をつく。そこへ。 「ねえ、お兄ちゃんたち…?」 声に顔を向けると、彼等の側にあのホリィが立っていた。 「お兄ちゃんたち、クォードおじちゃんのお友達でしょ? ねえねえ、あのぴっちゃーのお兄ちゃん、あの人のお名前も『コンラート』っていうの? ウェラーきょうといっしょだね!」 あ、と3人が顔を見合わせる。すっかりうっかりしていた。 「たまたまだな! たまたまおんなじお名前だったんだなー」 ヨザックが誤魔化し笑いで言う。少女も、すぐ側にいる男と「ウェラーきょう」が同一人物とは考えもしていなかったらしく、すぐに「そっか」と納得した。 「それよかさ、クォードおじちゃんを応援しようよ! ね!」 言ったかと思うと、ホリィはばったーぼっくすに立つ男に向かい、「クォードおじちゃん、がんばれー!」と大きな声で叫んだ。クォードがくるりと振り返り、「おお、任せよ!」と上機嫌で返事をしてくる。 「ほら、お兄ちゃんたちも早くー!」 いたいけな少女の無邪気なお願いに、無邪気に応えることのできない大人達は「う…」と唸ったきり、視線をさりげなく左右に向けた。 「……冗談じゃねえ。ここであの野郎を応援なんかしたら、どんなとばっちりが……」 何を想像したのか、バスケスがそこまで言って、恐ろしげに身体を震わせた。 そして、コンラートvsクォードの第1球。 コンラートが最初に投げた球は、大きなカーブを描いてキャッチャーに向かっていく。 そしてボールがキャッチャーミットに納まる寸前、クォードがバットを力強く一閃した。ボールはバットに掠り、クォードの足元に落ちた後、跳ねて転がっていく。ファウルだ。ワンストライク。 「……ううむ」 クォードが転がるボールを見ながら唸る。 「………よく当てたな。隊長のかーぶはそうそうばっとに掠らねえぜ?」 「ああ。初めてにしては……。偶然か、それとも……」 「おっさん、いいぞ! その調子でよく見て!」 「お任せあれ、姫! 必ずやご期待に添いましょうぞ!」 コンラートは無言のまま、剣ですっぱり切ったような笑みに全く変化はない。 そして第2球。 投げられたボールは、今度はかなり低い位置を、先ほどとは違う曲線を描いてすさまじい速度で本塁に迫っていく。だがクォードの目はボールの動きをしっかり追っていた。 ぶん、と風を切ってバットが唸る。 ガキッと、鈍い音が鳴ったと思った瞬間、ボールは前に飛んだ。しかし惜しくも3塁線を切れて転がって行く。 またしてもファウル。ツーストライクだ。 「けど……確実に当ててきてやがる。やべぇぞ、隊長」 「もし元がひっとを打ったら……」 「俺ぁ、逃げるぞ。悪ぃがお前ら、後は頼んだぜ」 バスケスはすでに逃亡の態勢を整えていた。 「………動体視力、か……」 コンラートは密かに呟いた。 地球世界でも、スポーツの1流選手は動体視力、動くものを見る目の力が優れているという。そしてこの世界においても、1流の武人であればあるほど動体視力は優れている、はずだ。 クォードがボールの動きをしっかり捉えることができるのも、それがあるからだとコンラートは考えていた。 他の部分が突出して個性的なので皆うっかりしているし、コンラートも殊更口に出すつもりもないが、クォードは武人としては純粋に超1流の男なのだ。 だが。 「打たれてたまるか……」 第3球。 コンラートの渾身のはずの1球は、だが当人の思惑通りにはならなかった。 気合が入りすぎてすっぽ抜けたのか、それとも指がボールに引っ掛かったのか、とんでもない悪球、バッターの胸元へ向かう、このままだとデッドボール間違いなしのボール球だったのである。 「…! しまった……っ」 きっちり打ち取るはずだったのに、デッドボールにしてしまう。これはちょっとカッコ悪い。 コンラートは心の中で舌打ちした。 その時。 「待っておったぞっ、これぞ絶好球ーっ!!」 え? 全ての人が目を瞠った瞬間。 クォードが力強くバットを、どういう振り方なのかさっぱり分からなかったがとにかく振った。 うわぁ……っ!! 歓声がグラウンドに溢れる。 ボールは高く高く、真っ青な空に吸い込まれるかと思うほど高く上がり、そして遥か、観覧席すら越えて飛んでいった。 「おお……」 ボールが飛んでいく。クォードの一振りによって、真っ直ぐにひたすらに、天を目指して飛んでいく。 その姿を、クォードはバッターボックスに佇み、瞬きもせずに追い続けていた。 「何たる……!」 呆然と、クォードは声を上げた。 「何たる……感動……! ぼーると共に身体をも軽々と天に舞ったかのようなこの……解放感……! おお…っ」 最初は、単に棒で球を打つという、ただそれだけの遊びだとばかり思っていたのに……。 ぼーるを完璧に打ち返すとは、何と大きな歓びと感動を魂に齎すものなのか。 溢れる思いに、クォードの全身がわなわなと震え始めた。 「野球とは……これほどの感動を与えてくれるものであったか……! 何と、何と偉大な……!」 そこでクォードはハッと顔を戻し、ユーリを探した。 クォードがこれほど見事にコンラートのボールを打ち返した以上、ユーリもまた全身で喜びを表しながら、クォードの元にひた走ってくるはずだ。 「……ひ、姫……っ!」 クォードの視線の先に、確かにユーリがいた。 「姫! 打ちましたぞ! このクォード・エドゥセル・ラダ、姫のご期待に従い、見事コンラートを打ち砕き申した! ……姫……?」 クォードの顔が不安と疑問に曇る。 なぜなら、ユーリは3塁ベースの上から全く動いた様子を見せていなかったからだ。 「姫! 何故我が胸に飛び込んできては下さらぬ!?」 「胸にって……」 コンラッド並のジョークだと、ユーリはしょっぱい笑みを浮かべた。 「だってさあ、おっさん。今の」 3塁ベース上で、ちょっと困ったようにユーリが首を傾ける。 「ファウル。だし」 クォードが野球の歓びに目覚めた記念の1打は、場外への超特大ファウルであった。 「もしかしたら……」 ふとあることに思いついたコンラートが、審判に促され呆然とした顔でバットを構えるクォードに向かって最後の1球を投げた。 ど真ん中のストレート。 傑出した動体視力を持っているはずのクォード、ここで見事な空振り。 ユーリを3塁に残したまま、攻撃は終了した。 「……もしおっさんがあそこでホームラン打ってたらー」 後にユーリがしみじみと語った。 「おれ、おっさんのことおっさんって呼ぶのは止めて、葉っぱくんとかイワキくんって呼ぶようになってた気がするなー」 野球好き少年ならきっと知っているはずの古典的(?)高校野球漫画。そこに登場する悪球打ちが得意なでっかい人を思い出したユーリだった。 ちなみにミニゲームは最終3回裏、ラストバッターとなったコンラートが、1塁に走者を置いて見事な3ベースひっとを打ち、勝利をもぎ取った。コンラートのバッティングの前には、さしものユーリのリードも、そしてアリーのこんとろーるも通用しなかった。 ユーリには残念がられたものの、後から「さっすがコンラッド!」ときらきらした目でお褒めの言葉を頂戴できたので、コンラートとしては大満足の結果で終わったのだった。 1人の男が謀殺の危機から救われたことに、魔族数人がホッと胸を撫で下ろしたことをユーリは知らなかった。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
|