フィールド・オブ・ドリームゲーム・10



「気持ち良い……っ!」
「ほんとに……たまらないわ……!」
 妹と仲間の魂からこみ上げるような声とため息を耳にしながら、カーラはこぽこぽと湯に沈んでいった。
 少し熱めの湯に、これまでの疲れが全て溶けて流れていくような気がする。
「なかなか良いでしょう?」
 笑って声を掛けてきたのは、行政視察組に付き添ってくれた眞魔国行政諮問委員会の委員、シュゼット・グラディアだ。
 ……姓と名の名乗りが人間と逆なのは、何度耳にしても慣れない、とカーラは密かに思った。魔族の慣習だし、あまり口に出しては言えないが……。
「ヒルドヤードの歓楽街にある温泉と比べたら規模は小さいかもしれないけれど、街の共同浴場としては充分自慢のできるものだと自負しているのよ」
 ヒルドヤードの温泉など知らないけれど。
 カーラはゆったりと身体を伸ばして思った。
「これを贅沢を言わずして、何を贅沢と言うのだ……」
 生真面目なカーラの呟きに、グラディアが微笑んだ。


 野球を学びにはるばるやってきた客を持て成そうということだろうか、野球教室を終え、一般の参加者が去った後も、くーるふぁいたーずの選手達はアリー達の質問に懇切丁寧に答えたり、実際にバットやボールを使って助言してくれたりと時間を割いてくれた。それどころか、グラウンド上で一行に軽食を振る舞うことまでしてくれた。
 コンラートとの勝負に負けた上、懐いてくれた子供達とも別れて、どこかしょんぼりと肩を落とすクォードを一人置いて、アリーとアドヌイとゴトフリー、そしてユーリとヴォルフラムは、観客が誰もいなくなったグラウンドの中を走り回り、「続・野球教室」を存分に楽しんでいた。くーるふぁいたーずの選手達も、実に熱心に付き合ってくれる。もちろんユーリ達は、選手達が魔王陛下とお茶をご一緒したり、ボールを投げあったり、自分の投げるボールを打って下さったりする幸運に、「一生の自慢!」と内心感涙に咽んでいたことには気付いていなかった。
 その間カーラ達大人組(といってもカーラとバスケスの2人だけだ。クォードは放心状態だし、コンラート達はお茶を頂きつつも、さりげなくユーリの側から離れない)はというと、年少組の歓声を聞きながら芝に寝転んで午睡を楽しんだり、用意してもらったお茶やお菓子を頂いたりと、午後の一時をのんびりと過ごしていた。
 実際、春の日差しと青空とそよ風の下、広々とした芝に寝転んで過ごす一時は、これまでのカーラの日常とあまりにかけ離れたのどかさで、妙な後ろめたさすら感じてしまう。

 西の空にほんのりと朱が混じり始める頃、ようやく「続・野球教室」は終了した。
 お開きの切っ掛けになったのはクォードだった。後半、コンラートとヨザックとクラリス、それからクラリスが参加するなら自分もとやってきたバスケスも加え、くーるふぁいたーずの選手達と共に再びミニゲームを楽しんでいたところ、我に返った様子のクォードが乗り込んできたのだ。
 もう一度自分と勝負しろ! と、聞き様によっては決闘の申し入れのような勢いでコンラートに剣ならぬバットを突きつけた。
 それではとユーリ達は脇に退き、全員の見守る中、コンラートとクォード、1対1の勝負が行われることとなり。
 緊迫した雰囲気の中、勝負はコンラートがど真ん中へのストレートを3球投げるだけであっさり終了(つまり三球三振)してしまった。
 男と男の誇りを懸けた真剣勝負。わくわくと盛り上がっていただけに、その場に漂う脱力感はグラウンドの全ての人を覆い、それが結局本日のいべんと終了の合図となったのだ。

 夕焼け空の下、体格は揃いも揃って見事に鍛えてあるものの、下級兵士がまま見せる居丈高な態度もなく、笑顔が底抜けに明るいくーるふぁいたーずの選手達に見送られて、文化視察組一行は気持ち良くぼーるぱーくを離れた。
「すごく良い人達ばっかりだったわね! あの人達となら、アドヌイもゴトフリーも大丈夫よ!」
 アリーは存分に野球ができて、これまで溜め込んでいたものが全て発散できたらしく、すっきりした顔で笑っていた。彼女の言葉を受けて、アドヌイとゴトフリーも弾んだ笑顔で頷いた。彼等は翌日から、くーるふぁいたーずの残留組の練習に加えてもらうことになっている。これで彼等もようやく眞魔国での生活を楽しむことができるだろう。
「たっぷり練習して、色んなことを覚えて、国で待ってる皆に教えてやります!」
 頑張ってね! 張り切る2人にユーリが笑いかける。
 夕焼けが美しいミツエモン畑が広がる道を、彼等を乗せた馬はゆっくりと進んで行った。

「早く汗を流して、ご飯にしようよ!」
 そうユーリが言った時、カーラ達はてっきり城に戻るのだと思っていた。だが案内されたのは思いもかけない場所だった。城下の街の中、それもシマロンでは、いや、大陸のどの国でも馴染みのない、庶民のための公衆浴場だ。

「王都の民の暮らしを知ってもらいたいしさ、人を理解するには裸の付き合いが一番だし!」
「…はっ、裸、の、つきあいぃ……っ!?」

 ひ、姫がそのように大胆なお言葉を。
 嬉しい、いやいやそんないかがわしい、ああしかしそのような突然のお申し出、心の準備が……!

 曲解したり深読みしたり。新連邦の人間一同が一気に顔を真っ赤に染めた。クォードはユーリを、バスケスはクラリスを見つめながら、もじもじと身体を揺すっている。きっと何か間違っていると思いつつ、カーラもまたついつい視線がコンラート向かうのを止めることができなかった。

「………あれ? 皆どうかしたのかな?」
「さあ。何か勘違いしたのでは? さ、構いませんから行きましょう。彼らのことは、ヨザ達がちゃんとしてくれます」
 にっこり笑って、コンラートはユーリの背を押した。

 案内された公衆浴場は、街のにぎやかな通りに面した5階建ての巨大な建物だった。
 面した、といっても、正面玄関から道までは小さな広場の様に整備された空間があり、そこにはたくさんのテーブルと椅子が並べられている。テーブルの上部は、日除けや雨避けのためだろう、大きな傘が開いている。そしてそのテーブルには、暮れ掛けた時間を気にすることもなく、多くの人々がのんびりとお茶のカップを傾けていた。
「………食堂……?」
 思わず呟いてしまったカーラが見つめている間も、ひっきりなしに人が出入りしている。
 建物の1階は、正面玄関の扉も両隣の大きな窓、ではなく、自由に出入りができるらしいガラスの扉も、清々しいほど開放された雰囲気の、どう見ても食堂だった。内側にもたくさんのテーブルと椅子が並び、多くの人が座って飲食しているのが見える。  それから……。
「………あれは……窓、か……? 鉄のようなものが嵌っているが……」
 ふと上を見上げたカーラが、誰にともなく言った。
 建物の3階と4階の窓に当る部分が、他の階とちがってガラスが入っていない。どこか金属的な色合いのものが斜めになった陽射しを鈍く反射している。
 カーラに言われて上を見上げた人間一同が、一様に首を捻った。

 魔族が、まっ平らで透明な、そして巨大なガラスを大胆に窓にはめ込んでいることも、カーラ達には驚きの1つだった。
 グラスなどのガラス工芸品は、それこそ様々な種類の物があるし、華麗な装飾に彩られた芸術品も多々ある。だが、広く大きく透明で、かつ歪みのない、そして薄い板状のガラスはなかなか出来ない。広々と大きなガラスを作ろうとすれば、強度の関係で自然と厚みが増し、歪みも大きくなる。気泡や製造過程での混ざり物も完全になくすことはできない。だから一般的な窓ガラスはある程度曇っているのが普通だ。もっとも、戦乱を経た現在の新連邦では、ガラス製造もままならなくなり、まともなガラス窓はあまりない。大抵はぽっかり開いた壁の穴に木戸をはめ込んだり、布を垂らして風を防いでいるのだが……。
 しかし血盟城の窓は、カーラ達がこれまで目にした事がないほど薄く、透明で、そして大きかった。いや、ここに到るまでに目にした、王都の建物の窓もまた同じだ。細かく組んだ格子の中に小さなガラスをはめ込む、という方法ではなく、大きな1枚ガラスで窓を形作っている。
 これが経済力、技術力、すなわち国力の違い、なのだろうか。

「ああ、ありゃあ……。ま、行ってみりゃ分かるさ。ほれ、こんなとこで立ってると通行人の邪魔になるぜ?」
 ヨザックに促され、カーラ達は建物の中に足を踏み入れた。

「1階は茶房だ」クラリスが解説をしてくれる。「飲み物と菓子の類を提供している。ここでは酒は出さない」
 広い店内は隅々まで磨き上げられて清潔だし、光が溢れて明るい。花や絵画が飾られている割には気軽な雰囲気だ。酒場のような雑然とした感じもない。女性客が多く、1人でポットとお茶のカップを前に置き、新聞や本を読みふけっている客も少なくない。
 お仕着せらしい衣装を纏った女性達が、彼等に気付いて頭を下げる。
 いらっしゃいませ、という彼女達の声に送られて、彼等一行は奥にある階段に向かって進んだ。
「2階が食堂だ。1階では出さない食事や酒も出す。今はまだ中途半端な時間だが、昼は家事を終えた主婦達が昼定食を囲んでお喋りを楽しんだり、近くで働いてる連中が食事に来る。料理はさほど高価でもないし、気取ったものでもない。泥酔した者は入店禁止だから、夜は家族連れが多いな。老若男女、誰でも気軽に食事のできる店、というところだ」
 やはり清潔で明るい店内を見渡し、なるほどとカーラ達は頷いた。
 とにかく広い。そして窓が大きい。時間のせいか、客の入りは6分程度だが、そのほとんどが窓際の席を占めていた。窓は下から見た通り大きい。格子が最低限しかなくガラス面が広いから、外も良く見える。道行く人を眺めながら食事をするのも、また楽しいものだろう。
 再びいらっしゃいませという声に送られて、彼等はまた奥の階段に向かっていった。

 3階が、彼等の目当ての大浴場だった。
 階段を上がったところに大きな扉と、そのすぐ隣に「受付」と記した札が掲げられた小窓があった。窓の奥に誰かが座ってこちらを窺っている。そこにヨザックが近づき、二言三言何かを告げると、すぐに扉が内側から開かれた。コンラートとユーリの後から、カーラ達も中へ入る。
 中はやはり灯をたっぷり使った明るい大きな広間になっていた。いくつものソファが並べられ、人々がゆったりと大きな背もたれに身を預けている。
 いらっしゃいませ、というすでに聞きなれた言葉と共に、係りの者らしい女性が2、3人側に寄ってきた。そして彼等の前に、靴、のような、踵のない履物を並べ始めた。
「ここから中は土足厳禁だからねー。このスリッパに履き替えて下さい」
 女性の代わりにユーリが説明する。先を越された女性が慎ましい笑い声を上げた。

 女性達から1人1人に大きな袋を手渡された後、広間に入った。広間は床一面、まるで王侯貴族の屋敷のように厚い絨毯が敷き詰められている。……これが庶民向けのものとはとても信じられない。カーラはため息をついた。
「あ、こっちよ!」
 声に視線を巡らせると、ソファの1つに別行動だった仲間たちの姿を見つけた。
 サンシアが立ち上がって手を振っている。そのすぐ隣にはレイルもいる。
「待たせてごめんねー!」
 ユーリがすたすたと近づいていく。カーラはここに到ってようやく、文化視察組と行政視察組がこの場所で合流する予定になっていたことに気付いた。
 ソファに座っていた全員がさっと立ち上がる。

「さて! と。ここでお風呂タイムにします! あっちが男性用、こっちが女性用だから。それぞれゆっくり楽しんできて下さい! お風呂から上がったら、またここでね。それから食事にします!」

 ユーリが自分を囲んで立つ全員に向かって、「お風呂たいむ」とやらの開催を宣言した。
 この広間は、彼等の様に待ち合わせをしたり、風呂上りに一休みしたりするためのものなのだそうだ。広間の隅には飲み物や菓子類を販売する場所もあり、サンシア達もそこで果汁を買ってソファに座り、カーラ達を待っていたのだという。

「あ…あの、姫は……?」
 何を期待しているのか、クォードの頬がほんのり赤い。
「陛下…坊ちゃんは別行動だ。ヨザ、サディン、それからクラリス、グラディア、彼らのことを頼むぞ」
 はい、と名指しされた4名が頷く。だがなぜかサディン─グラディアと同じく、行政諮問委員で、行政視察組の世話をしてくれた男性─だけが、不承不承といった様子であることに、カーラは気付いた。視察中に何か問題でもあったのだろうか……?
「よっしゃ、それじゃ行こうか」
 ヨザックが声を上げ、クォードの襟首を掴む。それから空いた方の手でサディンの背中をドンとどやしつけると、カーラ達に背を向け歩き始めた。ユーリとコンラート、それからヴォルフラムを除く男性一同が後に続く。
 べ、別行動とは何なのだ!? はっ、はだかのつきあいだと姫が……! あれは一体!? どんどん遠くなる声を聞くともなく聞きながら、カーラはサンシア達と顔を見合わせた。
「……裸のつきあいって何?」
「い、いや……。それよりも視察中に何かあったのか? サディン殿の様子がおかしかったが……」
「ああ、あれは気にしないでちょうだい」横からグラディアが口を挟んできた。「あなた方とは全く関りのないことなのよ」
 そうなのか? と首を傾げた隣で、「じゃあ、おれ達も行こうか!」とユーリが声を上げている。
「ええ、そうしましょう。じゃあ」
 コンラートが軽く手を振り、ユーリを促すと、ヴォルフラムと共にヨザック達が進んだ方向とは別の方向に歩き出す。
「彼等は……」
「4階に上がるんだ」
 答えてくれたのはクラリスだった。
「4階には、大浴場とは違う、貸切の浴場がいくつかある。この階の大浴場ほど広くはないが、家族や夫婦など、自分達だけで浴場を借り切って使用したいという客に対応できるようになっている。もちろん予約制で、割増料金もある。……坊ちゃんは本当は民と一緒に入浴したいとお考えなのだが、さすがに、な。心の狭い護衛も側にいるし」
 なるほどと納得して、カーラ達も女性用大浴場に向かって歩き始めた。

 婦人大浴場と記された扉を開くと、先ず脱衣所がある。すりっぱを脱ぎ、中へ入る。
 中ではすでに、何人もの女性がいた。これから入浴するのか、服を脱いでいる者もいれば、入浴を終え、火照った体に大きなタオルを巻きつけ、水分を含んだ髪に櫛を入れたり、化粧を直している女性もいる。

「このろっかあに服を入れる。ここに付いているのが鍵だ。服を全部脱いだら、先ほど貰った袋からこれを」
 と言って、クラリスが袋の中から布を取り出す。
「体に巻く。ほら、ここに紐があるから、これで留めることができる」
 ふっくらと柔らかな感触の布を巻くと、胸から膝にかけてが隠される。なるほど、これなら多くの人がいても肌を晒す恥ずかしさはかなり薄まる。
「袋に入っているのは入浴中に使うタオルと、それから大きい方は入浴後に身体を拭くタオルだ。これはろっかあに入れておけばいい。鍵は閉めたらなくさぬように腕に巻いておけ」
 教えられた通りにカーラ達3人が身支度を整えると、ざっと視線を走らせたクラリスが再び口を開いた。
「公衆浴場は陛下の肝煎りで建てられたのだが、陛下は本当は裸で入浴するようになさりたかったのだ。布を巻いたり、ヒルドヤードのように水着を着るのは、陛下の感覚では邪道というものらしい。だが全裸で、というのは当初民の抵抗も大きくてな」
「浴室を持ってる民なんて一握りの富裕層だけだし、どんなものか良く分からないというのが当初の民の正直な思いだったのよね。今でこそ王都の民になくてはならない場所だけれど、最初の頃はとにかく他人と一緒に裸でお湯に入る、ということがとんでもないことのように思えて……」
「金持ちが保養に訪れる温泉施設の存在は知っていても、公衆浴場という概念はユーリ陛下が提唱されるまで我が国に存在しなかったのだから、それも仕方のない事だろう。とにかく裸で入るかそれとも隠すかという問題は、結局このような布を巻くという形に納まった。男性は腰の周りを布で隠すようになっている」
 クラリスとグラディアが交互に説明する内容にいちいち頷きながら、カーラは自分の身体を巻く布に目を落とした。
「私はヒルドヤードの温泉など知らないし、そういう施設を利用したこともないので分からんのだが……。確かに何も身につけず、というのはかなり抵抗があるな」
 隣でアリーが「私も」と頷いている。
「私は知っているわよ」
 口を挟んだのはサンシアだ。
「仕入れのために各地を廻った時、ヒルドヤードの歓楽郷にも立ち寄ったことがあるわ。あの入浴用の水着は……あまり感じが良いとは言えなかったわね。身体が締め付けられる感じだし、足は付け根までむき出しだし、身体が洗い難くて。私はこちらの方がいいわね。……それよりもグラディアさん、それからクラリスさん、でしたよね? カーラ達にここの窓について教えてやってくれません?」
 窓? と呟いてから、カーラは脱衣所の壁にはめ込まれた大きな窓に目を向けて、ふと眉を顰めた。
 窓からは外の景色がくっきりと見える。人が衣服を脱ぐ場所の窓がこのように大きくて良いものなのか? 3階というのは、この街では決して高くない。姿が見えてしまうではないか。魔族には羞恥心というものが……。
 そこまで考えて、それからカーラはハッと目を見開いた。
 3階の、窓。
「カーラ、その窓が」そう言ってクラリスが1方の窓を指差した。「通りからお前が見上げていた窓だ」
「………そんなはずはない……。あれは……」
 ガラスではなく、鉄のような金属がはめ込まれていたではないか。クラリスが指差した窓は、普通のガラス窓、夕暮れ時の街の景色が見える透明な窓だ。
「これが、我が国の技術で開発した特殊ガラスだ」
「特殊……」
「正確に言えば、フォンカーベルニコフ卿アニシナ様と、大賢者ムラタ・ケン猊下との共同研究で開発されたものなの。内側からだと普通の、本当はちょっとだけ色合いが変化してるのだけど、一応透明なガラスね。でも、外から見ると色がついて中を見ることができないという特別製のガラスなの。こういう場所にはぴったりでしょ? どう?」
 すごいでしょ?
 グラディアが悪戯っぽく笑って、片目を軽く瞑る。
「そっ、そんな……! どうしてそんなことができるの!?」
 ひっくり返ったアリーの声を聞きながら、カーラは呆然と窓を見つめていた。
「吃驚したでしょう?」サンシアの声。「私もグラディアさんに聞いた時は腰を抜かしそうになったわ。ラース達も同じよ。平らなガラスを作ることさえ完全にはできないのに、冗談じゃないわよって思わず声が出てしまったの。変な話だけど、怒りさえ感じてしまったわ。もしもこれがね、カーラ」
 魔術で作ったというのなら、納得したかもしれないわ。
 低い声でいうサンシアに、カーラとアリーは顔を向けた。
「魔術なら……私達にはどうしようもないのだもの。でも、違うんですって。これを作ったのは、魔族だからどうとかじゃなく、ただ本当に純然たる技術なのよ。技術なら、私達人間にだって作れて良いはずのものなのよ。でも……私達にはとてもできない」
 これが私達人間と魔族の差、よ。
 ぶるりと、カーラの身体が震えた。

「そんな風に思い込まれてしまうと、反って困るわ」
 軽い声にふと顔を上げると、グラディアが苦笑を浮かべて彼女達を見ていた。

「フォンカーベルニコフ卿アニシナ様は、我が国でも並大抵でない発想の持ち主として有名な方なのよ。誰もあの方の真似なんてできないわ。天才的な発想と、それを現実のものとする技術力と行動力をお持ちなの。偉大な科学者よ。そして大賢者猊下は、聖職者であり魔王陛下の側近であるというだけでなく、やはり科学者としても他の追随を許さない頭脳の持ち主なの。これはそういうお二人がお力を合わせたからこそ完成されたものなのよ。これを魔族なら誰でも作れると思ってもらってはちょっと困るわ」
「実際完成はしたものの、まだ量産化には至らないという話しだからな」
 グラディアの後に続けてクラリスが言った。
「量産化できれば、我が国の特産品がまた1つ増えることになるのだが…。とにかく、ここには試験的に設置してみたようだ。ま、1番良い場所なのは確かだ」
「どうであれ……」
 カーラはため息をついた。
 このようなものを開発製造できるという、その事実がすごい。
「その…フォンカーベルニコフ卿と仰るお方だけれど」サンシアが何か思いついた様に声を上げる。「ご挨拶することはできないかしら? ぜひとも誼を結ばせて頂きたいわ」
 人脈は財産。官僚として、実は何より商人として、サンシアは人の繋がりの重要性を誰より理解している。カーラの様に、ぽかんと話を聞いているだけではない。……そのくせムラタ猊下のことを一言も口にしないサンシアに、カーラはそっと苦笑を浮かべた。
「そうねえ」
 グラディアが視線を宙に向けた。
「突発的に姿を消されることもあるけれど、大抵は血盟城の地下にある研究室においでになるわ」
「血盟城においでになるの!?」
 ええ、とグラディアが頷く。
「血盟城に専用の部屋をお持ちになっているということは、魔王陛下のご信頼も篤いということか」
 しみじみと言うカーラに、グラディアが肩を竦めた。
「ご信頼が篤いのは確かだけれど、研究室に関しては陛下には無断で、ご自分が気に入った場所を占拠なされたと聞いたわ」
「「無断で!?」」
 サンシアとカーラの声が重なる。ええ、とグラディアが頷く。
「そのような勝手な振る舞いが……咎められないのか!?」
 カーラの当然の疑問に、グラディアとクラリスが顔を見合わせ、それから言った。
「アニシナ様だもの」
 ……とんでもない人物らしい。

「ひっろーいっ!!」

 アリーの声はさっきからひっくり返りっぱなしだ。
 溢れる湯気と暖気の中、目に飛び込んできた光景に、アリーはもちろんカーラも、ぽかんと口を開いてその場に立ち尽くしていた。
 目の前に、浴場という言葉で思い描くものとはかけ離れた光景が広がっている。
 一国の王城の大広間にも匹敵するほどの広さ。壁という壁にはめ込まれた大きな窓。そこから燦々と差し込む夕陽で、立ち上る湯気すら朱金に輝いている。
 その湯気の中を、ゆったりと歩き、もしくはそこかしこに置かれた長いすに座ってお喋りをする女性達。
 それから……。

「池!? 湖!?」

 湖はないだろうと思いながら、カーラもまた唖然とそれを見つめていた。

 広い広い、とにかく広い。大広間のほとんどの面積を占めるそれ─浴槽と呼ぶのが憚られるほど広い、だがやはり浴槽、なのだろう。
 美しく組まれた石で囲まれた中に、満々と湛えられた湯。湯気の向こうに……果てが見えない気がするのは、本当に気のせい、湯気のせい、なのだろうか?
 これほど広大な浴槽をいっぱいにするには、一体どれだけの水が必要なのだろうか。水を湯にするために、どれだけの薪が使われているのだろう。こんな……こんな……。

「……公衆浴場、というものは…どこもこんなにすごいものなのか? ヒルドヤード、とか……」
 隣に立つサンシアに、呟くように尋ねてみた。
 そう、ね、とサンシアが答える。
「歓楽郷の温泉は確かにここより大きいわね。まあ、あそこの場合、岩で囲ったたくさんのお風呂が限りなく並んでいる、という作りなのだけれど……。他で言えば、シマロンにも温泉施設はたくさんあるのよ? 小シマロンには有名な温泉観光地がいくつもあるわ。でも大抵は富裕層向けだから、それなりに贅を尽くしているけれど、1つ1つの規模はさほど大きくないわね。たった1つの浴槽がこれほど巨大だというのは、私も初めて見たわ。まして一般庶民向けの公衆浴場なんて……」
 話している間に、アリーが湯に向かって駆けて行く。
「あ、滑るから走っちゃダメよ! 他の人の迷惑にもなるし」
 呼び止められて、アリーが思わずたたらを踏む。
「さ、ここの作法というのかしら、決まりについて教えておくわね」
 グラディアの言葉に、カーラ達が頷く。この辺りのことはグラディアに任せると決めたのか、クラリスは何も言わずに彼女の後ろに控えている。
「とにかくここは公衆浴場だから、様々な人が使うわけね。だから基本的な決まりがあるの。とにかく、人の迷惑になったり、迷惑だと思われるようなことをしない。アリー、あなた、運動をしてきて汗をかいたでしょう? そんな体のままでお湯の中に入ったら、お湯が汚れてしまうわ。だから、先ずは体と髪を洗って、綺麗にしてからお湯を楽しみましょう。いい? というわけで」
 先ずはあそこよ。
 グラディアが手で指し示した方向に、カーラ達が一斉に顔を向ける。
 それまで全く気付かなかったが、そこにはたくさんの小さな扉が並んでいた。

 グラディアに連れられていったそこは、1人1人が全身を洗うための「しゃわーぶーす」と呼ばれる場所だった。
「中に入ったら布を取って外に掛けておくの。そうすれば、今使用中だって分かるでしょ? ほら、この取っ手を捻るとお湯が上から落ちてくるわ。熱いと思ったらこの取っ手をこう、ね? 逆にぬるいと思ったらこちらに回して。そうそう、それでいいわ。それで、こちらが洗髪水、こちらが石鹸水。タオルはちゃんと持っているわね? ここで全身を洗ったら、お風呂に入ってのんびりお湯を楽しみましょう。あ、髪はタオルで包んで……こんな風にね、お湯に入らないように気をつけて。髪の毛をお風呂のお湯に浸けるのは、作法に違反するわ。何か質問はある? なければ、それぞれ空いたぶーすで身体を洗いましょう」

 そして。
「これを贅沢を言わずして、何を贅沢と言うのだ……」
 カーラはまたもこぽこぽと湯の中に沈んでいった。

 風呂には結構多くの女性達が入っていたが、広いので混み合っているという感じはない。
 柔らかな感触の湯にのびのびと身体を沈めていると、堪らない解放感に全身がホッと息をつくような気がする。
 そうして全員がようやく身も心ものんびりと出来た頃。
 湯船(というにはあまりに広大過ぎるが……)の一画でにぎやかな声が上がっているのに気付いた。子供の声だ。
 目を凝らして見ると、その場所にだけ大勢の子供達が集まってわいわいとはしゃいでいる。
 子供達のいる場所には……何だろう、あれは……。湯船の縁に高い台が取り付けられている。台は階段状になっていて、上に上がれるようになっている、らしい。不思議なのは、その台の頂点から、板、のようなものが突き出ていることだ。縁を低い壁のようなもので護られたその板はかなり長く、緩やかな曲線を描きながら、最終的には湯の中に差し込むように設置されている。
「滑り台だ」
 カーラの視線の向く先で気付いたのか、傍らに座っているクラリスが教えてくれた。
「すべり、だい…?」
「ああ。ほら、見てみろ」
 言われて見ていると、階段を登り、台の一番上に上がった子供の1人が、板の上に腰を下ろした。と思うと、次の瞬間板の上を滑らかに滑り出して、最後は飛沫を上げて湯の中に飛び込んでいった。歓声が上がる。
 カーラが見ている間も、次々と子供達が台を上がっていった。
「あの辺りは子供達の遊び場になっているんだ。浮き輪や浮き板も置いてあって、泳ぐこともできる。これだけ広いからな。子供が騒いでも他の客の迷惑になることもない。王都は水遊びをする場所がほとんどないから、ここは親にとっても子供にとっても楽しめる場所だ」
「なるほど……」
 見れば、数人の大人達が子供達を見守るようにして湯に浸かっている。
 いいなー、楽しそう、私も滑ってみたい、とアリーが心なし滑り台に近づきながら呟いている。その姿を、微笑みながらカーラ達が眺めるとはなしに眺めていた時。
「あーっ! おねえちゃんだーっ!」
 突然子供達の集団から声が上がった。
 え? と見ていると、子供達の中から1人、10歳くらいの少女がざぶざぶと元気に飛沫を上げて近づいてくる。
「あ、あなた、野球教室にいた……」
 ホリィだった。

「いっぱい野球をして汗をかいたから、皆でお風呂にきたの! お姉ちゃんたちも!?」
 よく響く元気な声に、アリーが「ええ、そうよ」とお姉さんらしく答えている。
「おじちゃんは!? おじちゃんも一緒!?」
「一緒よ。……じゃああの子達は皆施設のお友達なの?」
「そう! せんせーと一緒に、みんなできたの! シセツの子供はお風呂がタダだから、毎日きてもいいんだよ!」

「……どういう子?」
 サンシアがそっとカーラに囁いてくる。
「野球を観にいった先で、ちょっと知り合った子供だ。……クォード殿にえらく懐いてな」
「あら、珍しい」

 戦災孤児の存在について聞かされたサンシアは、カーラと同じく初めてその意味に思い当たったらしく、「そうか……確かにそうよね……。戦災孤児がいても、魔族の成長速度ならおかしくないのよね……」と考え込んでいた。
「この公衆浴場は二つの役目を持っているのよ」
 ふいに掛けられたグラディアの言葉に、カーラとサンシアはハッと顔を上げた。
「1つはね、疫病などの発生と蔓延を防ぐため、なの。汚れた土や水が疫病の原因を生み出すことは知っているわよね? そしてその疫病の元となるものは、不潔な身体にこそ取り付きやすいのよ。自然の災害や戦で荒らされた場所で疫病が広がりやすいことは、もちろん分かっているでしょう?」
「それは……もちろん……」
 つい先頃まで、自分達は戦乱の直中にあったのだ。
 戦場に放置された遺体。腐っていく肉体と血。それが川に、土に沁み込み、大地も水も腐っていく。そんな土地に、それでもしがみついて生きている人々。そのような土地ほど疫病に襲われやすい。経験で、カーラ達はそれを嫌というほど知っている。
「土も水も、人が生きる土地そのものが疫病の元を生み出さないよう、陛下を中心に、私達行政に携わる者が心掛ける。そして民は民自身がそれぞれの住まいや身体の清潔を心掛ける。入浴は身体を清潔に保つには一番よ。それが王都を始めとして少しずつ国全体に行き渡って、眞魔国では近年疫病と呼ばれる病の発生がほとんどなくなっているの」
 ほう、とカーラとサンシアが揃ってため息をついた。
 いまだにほとんどの土地が荒れたままの新連邦。毎年、雪が溶ける頃からあちこちで流行りだす疫病……。
「そして第二は」カーラ達の思いに気付かぬ素振りでグラディアが続ける。「戦争未亡人や戦災孤児の雇用よ」
 あ、とカーラが顔を向けた。そうか、グラディアはこれが言いたかったのか。
「前の大戦で多くの戦死者が出たわ。皆一家の働き手達よ。国には生活の立ち行かなくなった未亡人や孤児たちが溢れたの。彼等の問題は長く尾を引いてね。今王都には公衆浴場が6つ、他にも王立の施設がいくつかあるのだけど、全て戦争未亡人や戦災孤児、それから戦争で傷ついて職をなくしたりした人を率先して雇っているのよ。もちろん、それだけで全ての人を救済できるわけじゃないけれど、何もないよりはずっとましでしょう? 特に公衆浴場は、どこよりも清潔にしておかないとならない場所だけど、これだけ広いから掃除も大変なのよね。人手はどれだけあっても足りないくらいよ。それに食堂では美味しい料理も出さないとならないし。こういうことは、男性より女性の力の見せ場でしょ? だからたくさんの女性がここで働いているの。そして、6つの浴場の経営責任者はどこも女性なのよ」
 そうか、と、カーラ達は深々と頷いた。
「だからね」
 グラディアの視線が、子供達の方に向く。そして面白いものを見つけたように、にこっと笑った。その笑顔に、カーラ達も視線を巡らせ……あ、と声を上げた。
 ホリィに誘ってもらったのか、それとも自ら混ざっていったのか、アリーが滑り台の天辺で腰を下ろしている。次の瞬間かなりの勢いで台を滑り降り、大きな飛沫を上げて湯の中に飛び込んでいった。子供達、そして周りにいた大人達から明るい笑い声が上がる。
「だから、ここで働く女性達にとって、戦災孤児の施設で暮らす子供達は他人に思えないのね。こういった境遇の子供達は数が多い分、充分に世話されているとは言い切れないし。なので施設の子供達の入浴代は無料にして、いつでも気軽に身体を洗いにやってこれるようにして欲しいと、6つの浴場で働く女性達全員の署名が入った嘆願書が提出されたの。入浴代は、自分達の給金から引いてもらっても構わないからって」
「そうだったのか……」
 視線の先では、子供達が元気に遊んでいる。滑り台に登る子供。浮き輪や浮き板を使ってバタバタと足を動かし湯の中を泳ぎまわる子供。アリーは少女にねだられたのか、ホリィの手をとって、彼女が泳ぐのを手助けしている。

 30年経っても戦災孤児のままの子供。その子達を見守る戦争未亡人達。彼女達を救おうとする魔王陛下、そして行政官僚達。彼等が護る街。平和な民。ぼーるぱーく。兵士とは思えぬ、明るい笑顔の青年達。芝生で遊ぶ子供達。輪になって弁当をつかう家族達。清潔な風呂。湯の中で遊ぶ子供達。……思考がぐるりと巡って、目の前の子供達の姿に帰ってくる。

「今日ね」同じように子供達の姿を見つめながら、サンシアが言う。「私達、王立病院に行ってきたのよ」
「病院?」
 そう。そこで初めてサンシアはカーラに目を向けた。
「カーラ、あなた知ってた? この国では、医療費と教育費が無料なの」
「………え?」
「つまりね、病気になってお医者に掛かっても、薬を貰っても、民はお金を払う必要がないの。そしてこの国に住む子供は、学校に通って勉強するのが義務とされているのよ。義務だから、学校に通うのにやっぱりお金はいらないの。全部国が負担してくれるから。だからね、子供が働かないと暮らしていけないほど貧しい家庭に対しても、保障がされているのですって。子供が働かなくても済むように、国が生活費を補助してくれるのよ。……健康な身体、正しい知識と教養。そして生活の保障。民が心身ともに健康でない国が発展できるはずがない。民に健康や正しい知識を提供することのできない王に、王を名乗る資格はないと、当代陛下が仰せになったのですって」
「ユーリ、陛下が……?」
 淡々と語るサンシアに、カーラは言わずもがなの問いを投げ掛けた。
「そうよ。あのお可愛らしい陛下が、ご自分の口ではっきりそう仰せになったのですって」
 サンシアが湯船の縁に頭を置き、天井を向いて目を閉じる。そしてその口から、ふふ、と小さな笑いが零れた。
「どこの国の王が、民に正しい知識を与えようなんて考えたかしら? むしろ逆よね。どんな王も、そして貴族も、これまでずっとこう考えてきたわ。国は王と貴族、支配者のもの。民に余計な知識を与えるな。民は王や領主の命じるまま、ひたすら働き、税を納めればそれで良い。税金を搾り取る相手に、自分で考える力など持ってもらっては困る。政に疑問を抱く頭を持った民などいらない。余計なことを考える身分不相応な愚か者は始末してしまえ。民は……支配者の贅沢な暮らしを支えるための、手であり、足であればそれで良いのだから……。彼等は民を人間だなんて、最初から考えちゃいないのよ」
 そういえば、サンシアは強烈な貴族嫌いだった。……彼女の過去に、何か……あったのだろうか…?
 尋ねることもできないまま、無言で見つめるカーラの前で、サンシアが濡れた手で目を覆った。
「……田舎の……ものすごい山奥の田舎にね……忌み穴と呼ばれる洞窟がある村があってね。……村人が、薬草も神への祈りも効かない重い病気に罹ると、そこへ入れられるの。鍵の掛かった重い扉がある真っ暗な洞窟の奥に、病人を放り込んで閉じ込めるのよ」
「………どうして……?」
「元々その地では、病は穢れだと考えられてきたのね。それに……疫病は人から人へ移るものだから、洞窟に封じ込めてしまえば広がることを止められるって考えた。その発想は分かるわ。封じ込めることで蔓延を防げる病も確かにある。でも、重病人を真っ暗な洞窟に閉じ込めるなんて……そんなの許されることじゃないわ」
「…………」
「病気は穢れなんかじゃない。そして、疫病だって色んな種類がある。病の原因を突き止めて、正しい治療をすればちゃんと治すことができる。正しい……知識さえあれば……」
「……サンシア……」
「今日行ってきた病院、ね。すごくきれいだったの。別に豪華とかそういう意味じゃないのよ? とっても、そう、明るくて、清潔で…病人を閉じ込めておくような雰囲気は全くなかったわ……。入院患者の病棟を見学させてもらったのだけど、どの病室も窓が大きくて、風通しが良くて、陽射しが気持ちよく射しこんで……。お医者様や看護人達もとてもきびきびと働いていたわ。教育費と医療費についても、ユーリ陛下の改革によってなされたものなのでしょう?」
 問いかけは、もちろんカーラに対してではない。「そうよ」と答えたのはグラディアだ。
「陛下が改革を断行なされる以前は、義務教育なんてなかったし、貧しい家の子供はやっぱり学校どころじゃなく朝から晩まで働いていたわ。そして、病人は……もちろん我が国では病人を洞窟に閉じ込めるなんてことはしなかったけれど、貧しい家の者は薬も買えずに苦しんでいた。その辺りは人間の国と同じよ。でも……ユーリ陛下がご即位なされてから、どんどん変化していったの。全て陛下のおかげよ。偉大なる魔王陛下。ユーリ陛下が眞魔国史上最高の名君と賞されるのは当然のことだわ」
「……史上最高の、名君……」
「ええ、そう……って、もしかして知らなかったの!?」
 ………知らなかった。いや、確かに素晴らしい王だとは思っていた。民の幸福と世界の平和を何より願う、稀有な王だと。しかし、当然得られるだろうその賞賛の言葉は、カーラの脳裏にこれまで浮かぶことはなかった。それは伝説的な存在に与えられる栄誉であり、自分の目の前、この現実の世界で、無邪気に笑う少年と結び付けられるものではなかったのだ。
 カーラは困ったように視線を仲間に向けた。サンシアは浴槽の縁に頭を預け、眠ったように目を閉じて動かない。
 グラディアが、ふ、と息を吐き出した。
「病人はもう家族の負担にならないから、家族も病に罹った本人も安心して、心に余裕が生まれるようになったわ。……近年民が怪我をしたり、病気になる数がどんどん減ってきているのよ。そして、病に罹ったり怪我をしても、完治するまでの時間が昔よりずっと短縮しているの。疫病が流行ることがほとんどなくなってことや、治療技術の発展と薬の開発が進んだことはもちろん理由としてあるのでしょうけれど、私は負担がなくなったことで民が精神的に安定したのが大きかったのではないかと考えているわ」
「私もそう思うわ」
 突然サンシアが口を挟んだ。
「今日お話した入院中の女性がね、お年は…人間なら70歳過ぎくらいだと思うのだけど……その人が仰ってたの。昔は病気になると息子達に申し訳なくて、いっそ死のうかと思ったって。暮らしが大変なのに、働けない自分が家族の重荷になって、って。でも今は全然違うんですって。仕事の口がどんどん増えて暮らしはずっと楽になったし、孫達も学校に行かせてやれるし、自分が病気になっても家族の誰の重荷にもならない。それが嬉しくてたまらないって。そしてこうして入院しているけれど、息子夫婦も孫達も毎日顔を見せてくれるし、3度の食事だけじゃなく、お茶やお菓子も頂けるし、病院の庭はお花が綺麗だし、同室の皆とお喋りするのも楽しいしってね。残念なのは、すぐに具合が良くなってしまったので、もうすぐ退院しなくちゃならないことだって笑っておいでだったわ。昔は、長生きなんてするもんじゃないと思っていたけれど、今は違うとも仰っていたわね。今は、一日でも長く生きていたい。ユーリ陛下の御世で暮らす幸せを、一日でも長く感じていたいって。でも、自分のことよりも何よりも、ユーリ陛下がいつまでもお元気であらせれることを、ユーリ陛下の御世が少しでも長く続くことを願って止まないとも仰っておいでだったわ。自分が願うことは、ただそれだけだって……」
 ふいに。あのムラタ猊下の顔が、カーラの目の前に浮かんだ。
 陛下を傷つけることを、眞魔国の民は絶対に許さないと、その言葉が耳の奥に蘇る。

 ねえ、カーラ。
 言って、サンシアが顔をカーラに向けた。

「この数千年、人間は世界の一体何を見てきたのかしらね? 私達……何様のつもりで、この国の乗り込んできたのかしら」

 眞魔国のこと、魔族のこと、ユーリのこと、そして、自分達人間のこと。
 私達は本当に、何も分かってはいなかったのだ。   


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メインキャラが全然出てこないよ、第…何弾でしょうか……(汗)。

名所巡りといえば、どこだろうと考えて、ふと思いついたのが「そうだっ、お風呂がある!」でした。
これまで存在だけはちょこちょこ出てましたしねー。……説明が妙に細かくなってしまいましたが。

アニシナさん登場の布石か? と自分で自分に問い掛けております。
あの方はダイケンジャーと一緒に魔族語と日本語の翻訳機なんてのも開発してますし(マニメですけど)、ガラスくらいはオッケーかな、と。
ちょこっとガラスの歴史を調べてみましたら、ローマ帝国時代からガラス工芸品はどんどん作られていたけれど、板ガラスの開発が進められたのは中世に入ってからで、完全に平らで大きな板ガラスの技術が完成したのは20世紀に入ってからなんですってね。そして現代の板ガラス製造法が確立したのは1950年代だとか。もっと古いものだと思っていたので、ちょっとびっくりしました。
まあ、その歴史をそのままあちらに移すのもなんですが、一応地球世界の中世に当る、ということでしたので、ああいう感じにしてみました。

やっと目から鱗状態、そして理解も深くなってきた、というところで、ラストに向かっていきたいと考えております。
ご感想、お待ち申しております。