「……いつか私達も、こんな素晴らしいぼーるぱあくを建てることができるかしら……」 遠くで眺めているだけでは我慢できなくなり、思わず飛び出してきた場所、観覧席のさらに前、席とぐらうんどを隔てる柵にしがみつくようにしながら、アリーはため息混じりに呟いた。 ぐらうんどの中では、代表ちーむのぴっちゃーが投球練習を開始している。「ぼーるが速いわ」と、アリーのため息はさらに深くなる。 「僕たちなんて、まだ草を刈った野っぱらでやってるだけですもんね……。すごいなあ、地面が平らですよ! どうやって草や石を除けてるんでしょう?」 それに、と、アドヌイの言葉の後を受けてゴトフリーが発言する。 ゴトフリーはアリーやアドヌイとは逆に、観覧席を見上げてため息をついた。 「こんなにたくさんの人が観に来てくれるなんて……本当にすごいですよね! ここで試合をすることなんかになったら、僕、緊張して気が遠くなりそうですよ」 「お前達」 割り込んできたのは、笑いを含んだコンラートの声だった。 「そんなことを言っていてどうするんだ? お前達は、眞魔国リーグ参加を目指しているんだろう? ここがその試合会場だし、リーグを観にくる客の数は今日の比じゃないぞ?」 柵に手を掛けたまま、アリーはちらっとコンラートを見上げた。……いつも通りの優しい笑顔。 小さく息を吸い、それからゆっくりその息を吐き出して、アリーは「分かっているわ」と答えた。 「分かっているけど……でも、あんまり差がありすぎて……。眞魔国は野球の本場なんだから、これだけの規模があっても当然かもしれないけれど……」 「アリー」 だんだん声が小さくなっていくアリーに、ずっと彼等の会話に耳を傾けていたユーリが声を掛けた。 「ここだって、最初からこれだけの規模だったわけじゃないんだよ?」 え? とアリーが隣に立つユーリに顔を向ける。 「ここさ、もともとコンラッドがおれの誕生日祝いに作ってくれたものなんだ!」 「そ、そうなの!?」 びっくり顔の3人に、ユーリがにっこり笑って「うん!」と頷く。 「でも最初はそれこそグラウンドだけだったんだよ? できるだけ整備はしたけど、でも誰もやり方なんて分かってなかったから今みたいに完璧じゃなかったし、道具も設備も全然揃っていなかった。もちろん観覧席なんて全然なかったんだから!」 「なかったの?」 「なかったよ。最初は野球がどんなものか知ってるのはおれとコンラッドの2人だけだし、ボールを投げるのも打つのも丸っきり形になってなかった。観客と言えば、コンラッドに野球を教わっていた子供達が数人だけ。ね? 今のアリー達とちっとも変わらないだろ?」 そう言われてみれば、と、アリー達が戸惑ったように頷く。 「実際さ、この国の野球の歴史は、コンラッドから始まったんだ」 アリー達3人が、意味が分からずきょとんと目を瞬く。 「コンラッドが子供達に、それも、自分の国で暮らしていくことができずにこの国に逃れてきた人間の子供達に教えてあげたのが始まりなんだ。ほんの数人にね。最初は確か…まともなバットはもちろん、グラブもミットもなかったよね? それから手作りするようになって……。バットを削るのも、それからグラブやミットを縫うのも、最初の内は全部コンラッドがやったんだよ」 「縫う、のも……?」 そう! と答えたかと思うと、ユーリはコンラートの腕に自分の腕を絡め、悪戯っ子の眼差しで見上げた。コンラートが困った顔で苦笑を浮かべる。 「コンラッドがー、蝋燭の灯の下でー、針と糸を手に1つ1つ縫って作ったんだよねー?」 子供達のために繕い物をするお母さんみたいに。 その言葉に、アリーとアドヌイとゴトフリーの3人が、何かを想像する様に揃って視線を宙に向けた。 「愛情たっぷりの、そりゃもう芸術的な作品ができたんだから!」 コンラートを見上げながら続く、笑いがたっぷり含まれたユーリの言葉に、コンラートがしょっぱい顔で天を仰ぐ。 「………どうせ俺は不器用ですよ。さんざん針で指を刺しましたし」 「不器用、なの? コンラートが?」 何でも軽々とこなしてしまうと思っていたのに。いや、でも、コンラートが縫い物までこなすとはさすがに考えていなかったけれど。 「おれは感動したの!」 大きな声に声にハッと見ると、ユーリがコンラートの腕をさらに深く抱え込み、身体をぴったり合わせるようにしている。 「おれとキャッチボールしようって、ずっと考えてくれてたんだろ? おれが野球好きになると思って、おれを喜ばせるために、野球を広めようって頑張ってくれたんだろ? 記憶だけを頼りに、一生懸命道具を揃えてくれてたんだ。あの時はよく分かってなかったけど、後から考えれば考えるほど、おれ……感動したんだ! コンラッドは、おれがこの国もコンラッドのことも、全然知らなかったあの15年間、ずっとずっと、おれのことを考え続けてくれてたんだなって……」 「……ユーリ……」 コンラッドは、おれのコンラッドだ。 囁くように告げるユーリ。コンラートが笑みを深めて大きく頷く。 ええ、ユーリ。俺はあなただけのものです。 ………私達、ここに立ってていいのかしら。 ちくちくと胸を刺すものはやり過ごせても、どうにも居たたまれないというか、ここに突っ立っている自分が何ともマヌケに思える気分の方は無視できない。やんなっちゃうわと、元王女らしからぬ呟きを漏らしながら、アリーは傍らの仲間達に顔を向けた。 アドヌイとゴトフリーの2人も、ほんのりと頬を赤らめ、どうしたものかと顔をきょときょとさせている。 と。 唐突に、カーンという鋭い、だが何とも心地の良い音が響き渡った。 見詰め合っていたコンラートとユーリが、夢から覚めたようにハッと身体を離す。 「……えとっ。あー……ゴメン、何だか話がズレちゃった。何が言いたかったかっていうとー……って、どこまで話してたっけ……?」 「…最初はグラウンドもなかったし、コンラートとユーリと子供達以外、野球を知ってる人もいなかった、ってトコまでよ」 「そうそう! だからさ、最初の頃はこの国だって、アリー達と全く同じ状況だったんだよ!」 「……それもさっき聞いたわ」 何となく意地悪したい気分の自分は、心が狭いのだろうか? ぼそっと呟きながらアリーは思った。 案の定、ユーリが慌てる。 「ごっ、ごめん! えーと、だからぁ……」 言って、ユーリが目を閉じ、大きく深呼吸をする。 「……諦めずに一生懸命練習して、少しづつ人を集めて、数が揃ったら試合をして、それを繰り返している内にだんだん観に来てくれる人も増えたんだ。そしてその人達のために作った見学席を少しずつ増やして観覧席らしくして、そしてそれがまた少しずつ大きくなって、てね。野球をやりたいって人がいつの間にか増えてきて、チームも増えて、人間の国にも知られるようになって、眞魔国リーグが開始されるようになってから、ようやくここもこれだけの規模になったんだよ。最初から立派なものがあった訳じゃない。おれ達も少しずつ少しずつ、この国の野球を発展させてきたんだ。だからアリー達だって諦めずに続けていれば、いつかきっと必ず素晴らしい選手達が集まって、球場だって立派なものが建てられるようになるよ!」 にこにこ笑顔のユーリをじっと見つめて、それからアリーも「うん」と頷いた。 「諦めずに、ね?」 「うん、そう。諦めずに続けるんだ」 「そうすれば、きっと夢は叶う。のね?」 「もちろん!」 魔王陛下の全開の笑顔。 不思議だなあとアリーはしみじみ思う。 この笑顔を見ていたら、世界で叶わない夢なんて存在しないような気がしてしまう。 「うん。そうね。私、私達、絶対諦めないわ!」 ね? と振り返れば、アドヌイとゴトフリーもまた、笑って大きく頷いた。 前方で、ユーリとコンラート、そしてアリー達が話をしているのを、カーラは敷物に座ってじっと見つめていた。 場所が高いところにあるおかげで、かなり距離が離れた場所にいる妹達の姿が良く見える。小さな姿にも関らず、アリーが笑ったのがはっきり分かって、カーラはホッと笑みを零した。 「あちらに行かなくても良かったのか?」 傍らに同じように座り込み、焼き菓子を頬張っているフォンビーレフェルト卿ヴォルフラムが声を掛けてきた。 「ええ。私はアリー達ほど野球にのめり込んでいないので、話を聞いてもよく理解できないと思いますし」 「……今日は敬語抜きだと言ったはずだ。普通に喋ってもらって構わない。以前の……あの砦でのように」 カーラの胸に、一瞬、懐かしい感覚がこみ上げてくる。 「………では、そのように。……あなたこそ良いのか? ユーリの側にいなくて。もしかして、私に気を遣ってくれているとか……?」 そういう訳ではないが、と、咀嚼した菓子を飲み込んでヴォルフラムが答える。 「知っているのだろう? あの2人のことは」 あの2人、というのは、もちろんコンラートとユーリのことだろう。カーラはちらりと敷物の端にいる仲間達に目を遣った。わずかに離れたその場所では、クォードとバスケス、そしてグリエとクラリスが顔を突き合わせて何やら話し込んでいる。彼等がこちらに注意を払っている様子はない。 あの4人で一体どういう話題が花咲くのだろうと疑問に思いつつ、カーラは頷いた。 「では……これは知っているか?」 「これ、とは?」 「僕とユーリはもともと婚約していたのだ」 「………え!?」 仰天して隣を見ると、やはりヴォルフラムは平然と前方を見つめたままでいる。 「それは……あなたと結婚の約束を交わしていながら、ユーリがコンラートに心を移した、と……」 自分はユーリという人を見損なっていたのだろうか。カーラの胸中が不穏なものに揺れ始める。 そんなカーラの心中を察してか、「愚かなことを言うな」とヴォルフラムがわずかに声を荒げた。 「そんなことではない。……ユーリが王となるため眞魔国に迎えられて間もなくのことだが、僕と口げんかになったのだ。そして怒ったユーリが僕の左頬を平手で打った」 「……そ、それで……」 「婚約が成立した」 「………………」 しばしきょとんとしてから、カーラは眉を顰めて「申し訳ないが」と断りを入れた。 「それは一体……」 「魔族の古式ゆかしい慣わしで、相手の左頬を平手で叩くのは求婚を意味する」 「………………」 「ユーリはもちろんそれを知らなかったのだが、知っていようが何だろうが、とにかく婚約が成立したのだ」 それは幾らなんでもあんまりではないのか? カーラの眉間の皺が、誰かを髣髴とさせるほどに深くなる。 「ユーリは事ある毎に文句を言っていたが……」 当たり前だ! と、胸の内で力を込めて呟く。 「……その『婚約関係』はいつまで続いたのだ?」 「今回、コンラートが戻ってくるまで」 「それまでずっと!?」 そうだ、とヴォルフラムが頷く。 「僕達が婚約を解消するという話はかなり以前から知られていたが、正式に解消されたのは、コンラートが戻ってきてからだ」 「……よく分からないのだが……どうしてそんなに長く? ユーリが王位についてからなら、相当の年数だろう? それにそもそも、その婚約は少々乱暴ではないのか? あ、いや、魔族の習慣に難癖をつけるつもりはないのだが、ユーリの感情をあまりにも無視しているし……。確かに、王族の婚姻の条件に愛情は不可欠のものではないが、それにしても……」 「ユーリを護るため、というのが、おそらくグウェンダル兄上のお考えだろうな」 それは? と、カーラが先を促す。 「ユーリはあの年齢で、我が国の最高権力者の座にある。それにあの美貌、そしてあの性格だ。ぜひとも伴侶の座をと願う輩はそれこそ無数にいる。もし全くの独り身であるとなれば、強引な手段を取ってでもその地位を得ようとする不埒な者が現れるのは必然だろう。だが、先代魔王の息子で、宰相の弟で、そして十貴族というこの国でも支配的な一族の一員である『婚約者』がいるとなれば話は違う。この僕を正面きって敵に回す者はそうそういないからな。僕を敵にするということは、ビーレフェルトの一族だけではなく、兄上、フォンヴォルテール卿をも敵に回すことになる。つまり、僕が婚約者としてあり続けることは、ユーリの身の安全を護るためにも必要だったのだ」 カーラが、呆れ半分納得半分のため息を漏らす。 「よく分かった。しかし……あなたも大変だったな。どうあれ、魔王陛下の婚約者としてそれだけ長い月日を過ごすというのは、相当気疲れするものではないのか? ある意味、自由を束縛されることにもなるのだし」 カーラの言葉には、紛れもない同情がこもっている。だが、ヴォルフラムは「まさか」と笑って返した。 「楽しかったぞ? ユーリの婚約者という席は、世界にたった一つしかないのだからな。僕だけが座る事のできる席で、常にユーリと共にあることは、本当に楽しかった。色々と苦労もさせられたが」 くすくすとヴォルフラムが笑う。その口元は確かに明るい笑みを作っているのに、遠くを見つめる瞳にどこかやるせない光が瞬いているような気がして、カーラはハッと息を詰めた。 「………そう、か…あなたは……ユーリのことを……」 初めてあの砦で出会ってから、家族同様に暮らしているという2人の仲の良さは知っていたが、それはすなわち家族、もしくは親友を愛するのと同じ感情なのだとばかり思っていた……。 「お前はどう思っているか知らんが、あいつは本当にへなちょこなんだ。根っから小心者で、兄上にちょっと睨まれたり、母上にからかわれたりするだけで、すぐに真っ青になったり真っ赤になったりするしな。そのくせ、絶対人間と戦争はしないなどと恐れ気もなく宣言したりもする。側で見ているこちらは、はらはらするやら腹が立つやら、もう大変なのだ。とにかく成り行きとはいえ、このへなちょこが僕の婚約者になってしまった以上、僕が常に側にいて、しっかり護って支えて鍛えてやらなくては、などとあの当時、僕も決意した訳なのだな。それで、一緒になって走り回っている内に……まあつまりそういうことだ」 「………そうか」 「コンラートに負けないくらいつも側にいて、コンラートがシマロンへ奔った後は、それこそ誰にも負けないくらい側にいて……だが、ユーリは僕を親友以上の存在、いや、この言い方は違うな、親友とは別の存在として見ることはなかった。とはいっても、僕も『婚約者』であることばかり言い立てて、僕の思いを率直にユーリに告げることはしなかったし、ユーリに対しても、僕に友情以外の感情を抱いてもらえるように働きかけることはしなかった。今思えば……臆病だったのだな、僕も。率直に思いを伝えて拒まれれば、せっかくの『婚約者』の地位すら失ってしまいそうで、怖かったのだ。たぶん……。そのくせ僕は、ユーリの伴侶に相応しい者は僕以外にいないと信じていたし、それに……ユーリの側でユーリを思い続ければ、いつかきっと、ユーリも友人に対するものとは違う思いを、僕がユーリに抱くものと同じ思いを抱いてくれると信じていた。そうあって欲しいと願っていた。……ユーリの視線の先にある者が誰なのかが分かっても、それでも……自分を信じて、そいつに負けないように頑張ったつもりなのだが」 微苦笑を浮かべたまま、前方でアリー達と会話を交わすユーリに視線を向けるヴォルフラムを、カーラは瞬きもせずに見つめていた。 「だが、ユーリが選んだのは結局そいつ…コンラートだったのだから仕方がない」 意外なほどさばさばとそう口にするヴォルフラム。どこか意外な感がカーラの胸に湧いた。 「ユーリはあなたの気持ちを……?」 「ああ、知っている、はずだ」 「コンラート、も?」 「もちろん」 「それなのに……」 「だからといって、どうすることもできまい。あの2人はお互いを想っている。その事実に、僕の感情など入り込む余地はなかろう」 「それは……そうだろうが……」 ほう、とカーラは息をついた。……ヴォルフラムが、羨ましい。 「見事だな……」 「何がだ?」 「そうやって潔く身を引けることがだ。私の様に未練がましい者には、とても真似できない……」 「潔い?」 ヴォルフラムが不思議そうに言った。 「ああ。……そう思うが……?」 バカを言え。言い返されて、カーラはきょとんと目を瞠った。 「僕は潔くなどない。それに大体……お前とて分かるのではないのか?」 「私が? 何を?」 「……コンラートを、愛しているのだろう?」 あまりに唐突に、そしてまっすぐにぶつけられた質問に、カーラはぐっと詰まった。 「本気で愛したのなら……報われないからといって、思いを簡単に捨てられるか?」 「それは……」 ……捨てられるくらいなら。 そう胸に呟きながら、カーラはヴォルフラムに向けていた視線を外し、唇を噛んだ。 「簡単に諦めたり、捨てたりなどできるはずがない。そうではないか? 僕とて……本気だったのだ。まあ、だからといって、この思いを今更ユーリに押し付けて、あいつを困らせようとは思わないがな」 「それは……」 「それに」 ヴォルフラムが続ける。 「誰かを愛するという感情は、何とも気持ちの良いものではないか?」 「……え?」 「最初、僕のユーリへの思いというのは、ある意味子供の独占欲のようなものだったと思うのだ。だがある時ふいに気付いた。僕はユーリに恋をしていると。ユーリが好きだと、いや、心から愛していると、初めて実感した瞬間を、僕は忘れられない。あの……得も言われぬ幸福感、世界が一気に色鮮やかに輝きだしたあの瞬間をな」 「ああ………それは分かる……」 自分にこんな感情があったのかと、自分で自分が信じられず、ベッドに突っ伏したあの時。立場を思い、現状を思い、自分を叱り付けながら、それでも胸に広がったのは、踊りだしたくなるほど幸せなときめきだった。 「報われないからといって、そんな素晴らしいものを捨ててしまうのはもったいないだろう?」 驚いてその顔を見返すと、ヴォルフラムは見かけとは裏腹の大人っぽい笑みを浮かべてカーラを見ていた。 「………それはまた……実に前向きな考えだな」 ヴォルフラム言葉は、まさしく言葉遊びのようなものだ。カーラは思った。 人の思いのしぶとさに、カーラは時々げっそりする。 吹っ切ったはずなのに、捨て去ったと思ったのに、愛する歓びと愛するが故の痛みは繰り返し胸を襲い、わずかも自分を解放してはくれない。思いの鉤爪は魂にがっちり食い込んで、決して離れようとはしてくれない。そんな自分の未練がましさが情けなく、疎ましく、心は心底疲れ果ててしまう。 「捨てるにはもったいない」と言い放つには、思いはあまりに重過ぎて、カーラもさすがに抵抗を覚える。 だが……。 間違いなく抵抗を覚えながらも、ヴォルフラムの言葉を耳にした瞬間、何故か心がホッと息をついた、ような気がしたのも確かだった。 カーラは胸に手を当てて、己の鼓動を掌で聞いた。 思いを捨て去ることに躍起になれば、募るのは苦しさだけだ。 そう、今の今まで忘れていたけれど、あの時、私は確かに幸せだったじゃないか。思いが報われるかどうか、そんなことはどうでも良いほど幸せだったじゃないか。 それをヴォルフラムは思い出させてくれた。 私は少し、自分で自分を追い込み過ぎるのかもしれない。 もうちょっと気を楽にしても良いのかもしれない。 あのときめきを、幸せな思いを、まだもう少し、心に留めて置いても良い……のかもしれない。 そんな思いが、ふと胸に湧いた。 そう思えた自分に、カーラは今度こそ本当にほうっと息をついた。 「ああ……そうだな。……ヴォルフラム」 何だ? とヴォルフラムがカーラを見返す。 「ありがとう」 思わず口をついて出た言葉に、ヴォルフラムが眉を顰めた。 「なぜ礼を言う? 別にお前を慰めているわけではないぞ?」 「ああ、分かっている」 笑って頷き、それでもカーラはヴォルフラムに感謝していた。 「とはいえ」 ヴォルフラムの声に、ハッと顔を上げる。 「そのように悟っている僕ですら、時折、あの2人の様子を見ていると、ムッとすることがないわけではない。だが、そういう場合の対処法もすでに僕は身につけた」 「どのような?」 「決まっている! コンラートを思い切り苛めて、いたぶって、嫌がらせをしてやるんだ!」 「………………」 「嫌がらせの方法も、思いつく度に紙に書いているんだ。かなりの数になったぞ。あとは折々にそれを実践するだけだ」 ふっふっふと笑うヴォルフラムに、カーラは思わず眉間を押さえた。 「お前もやってみろ」 「え……ええっ!?」 私が? と、思わず自分を指差してしまう。 「お前以外に誰がやるんだ? 思うに……お前は少し生真面目が過ぎるのではないか? 責任感が強いのは悪いことではないが、自分の心を内に押し込めてばかりでは性格が捻じ曲がるぞ?」 コンラートや大賢者の様に。 最後のセリフに、カーラはぽかんと口を開き、まじまじとヴォルフラムを見つめた。 「マヌケな顔をするな。……とにかくお前はもう少し我侭になってもいいと僕は思う。やってみろ。結構楽しいぞ?」 そう言われれば。 砦にいた頃、ユーリのことでコンラートをからかったことがあった、ように思う。その時のコンラートの反応が、とても可笑しくて、楽しかった、ような記憶がある。 「それも……悪くないな」 「だろう?」 にやりとヴォルフラムが笑う。そして。 「カーラ」 改めて名を呼ばれて、カーラの胸がドキリと鳴った。 「愛するが故の苦悩を抱えているのは、お前1人ではない。その痛みはお前だけのものではないのだ。己を哀れんで、痛みの中に1人でどっぷり埋もれていても、何も解決しないぞ」 ヴォルフラムのその言葉を胸の中で反芻して、それからカーラは大きく息を吸い込んだ。 「………あなたは……実に魅力的な男性だな、フォンビーレフェルト卿ヴォルフラム。ユーリがあなたを選ばなかったことを、私は正直不思議に思うし、それに……少なからず残念に思う」 「やはりお前もそう思うか?」カーラの正直な言葉に、ヴォルフラムがにっと笑った。「実は僕もかねがねそう考えているんだ。とにかく、僕の嫌がらせにコンラートが屈するようなら、即座にユーリを奪うつもりで準備は怠りなく進めるつもりだ。カーラ」 潔さなどくそくらえだ。 その愛らしい口から飛び出したあんまりな表現に、カーラは今度こそ絶句して、これ以上ないほど目を瞠ると、目の前の夢の様に美しい少年をまじまじと見つめた。 ヴォルフラムが、しれっとした顔で見返してくる。 カーラの胸に、不思議な、ほのぼのと温かいものが湧き上がり。そして。 我慢しきれぬように、プッとカーラが吹き出し、同時にヴォルフラムも笑い出した。 芝生と青空と風が心地良い。 初めて気付いた様に、カーラはそう思った。 のだが。 「おのれ、無礼なっ!」 いきなり傍らから上がった声に、カーラとヴォルフラムが揃って顔を巡らせた。 クォードが、クラリスに向かって拳を振り上げている。 「どういうつもりだ、貴様!」 「特に間違ってはいないと思うが?」 「そういう問題ではない!」 「……何をやっているのだ、このような場所で。他の客に迷惑だろう。妙な会話を耳にされても困るぞ?」 敷物の端に寄ってヴォルフラムが嗜めると、クラリスが「申し訳ありません」と軽く頭を下げた。一緒にいるヨザックはにやにや笑いながら肩を竦めて見せ、やはり同じようにその場にいるバスケスはというと……。 腹を抱えて笑いを堪えている。 その様子から見て、大したことではあるまいと、カーラはクォードに顔を向けた。 「クォード殿、ここで騒ぎなど起こせばユーリの迷惑になります。短気は抑えられよ」 「短気とかどうとか、そのような問題ではないわ! ……バスケス! 貴様、一体どちらの味方だ!?」 「味方とか敵とか、それこそそんな問題じゃねぇだろうよ」 言いながら顔を上げたバスケスは、苦しげに腹を押さえて、まだくっくと吹き出している。 「野球について説明をしてやっていたのです」 ヴォルフラムの視線を受け、クラリスが説明を開始する。 「砦であれほど坊ちゃんが親切丁寧に教えてやったというのに、こいつらが全く覚えていないので」 「こいつなどと申すなっ、無礼者!」 「と、こいつが申しますので」 噛み付くクォードをちらりと見遣って、クラリスが続ける。 「ならばどう呼べというのかと質問しますと、自分は元ラダなんとか王国の王太子、クォードなんとかどうとかである、その身分に相応しい呼び方をせよと答えますので」 この期に及んで、まだその身分と名称に固執するかと、カーラは小さく息を吐いた。「なんとかとは何だっ、なんとかどうとかとはっ!」と、耳元でクォードがうるさい。 「それで?」 「元なんとか王国のどうたらこうたらあーだこーだすったもんだでは少々長すぎます」 「………それは確かに長すぎるが、というか全然違……」 「いちいちそんな長い名称で呼んでいては、危急の場合には問題があると思い、少々略して呼んでやりました」 「……何と?」 「『元』と」 「………………」 「おい、元、と呼びかけましたところ、いきなり怒り出したのです。まったく底が浅いと申しますか、器が小さいと申しますか、これで大シマロンなきあとの国王になるつもりだったというのですから大笑いです。わっはっはっは……」 無表情、おまけに声には何の抑揚もなく、ただ「はっはっは」と笑い続ける(?)クラリスの隣では、バスケスがこれは全身で豪快に「がっはっは」と笑っている。何とも対照的で、摩訶不思議な笑いの合唱の傍らでは、クォードが憤怒の形相をさらに激しく歪め、ヴォルフラムとカーラは揃って何のコメントもできないまま、複雑怪奇な表情を浮かべて3人を見つめている。 その時、わっと観客が沸いた。 「試合開始ですぜ。坊ちゃん達が戻ってきますよ、皆さん?」 一人変わらぬ様子のヨザックが5人に向かって言った。 「今さらこんなことを言ったら笑われるかもしれませんが!」 アドヌイが興奮を隠さずに声を上げた。 試合開始と同時に、前に立っていては席に座っている人の邪魔になるからと、ユーリ達は芝生の敷物の上に戻ってきた。そして、うずうずと身体を伸び上がらせながら、熱心にぐらうんどを見つめて会話をしていた。とはいえ、観覧席から上がる歓声の大きさに、大声を上げなければまともな話は出来ない。 「野球って、投げて打ってだけじゃ駄目なんですね! 戦の様に戦略を練って、それからその時その時の駆け引きもものすごく大切なんだ!」 「笑ったりしないよー! それにちゃんと気付いたんだから、立派だって! そうなんだ! 相手チームのデータ……どんな特徴のあるチームなのか、足が速いのか、強打者が揃っているのか、ピッチャーの層は厚いのかとかね、とにかくしっかり調べて、事前の戦略を練ることがまず大事なんだ! もちろん何より自分のチームの状態をしっかり把握しておくことが1番だけどね! それからやっぱりその場その場での駆け引きに頭を使わなきゃならないし、瞬間的な判断力や咄嗟の行動力なんかもすごく大事なんだよ!」 「そういうところは、確かに戦と同じなのね」 「結局は勝つか負けるかの勝負だからね。戦略と戦術はしっかり整えておかないと、勝負はできないぞ?」 コンラートの言葉に、アリー達はもちろん、ユーリも一緒になって大きく頷く。そのすぐ側ではクォードが、「戦と同じとあらば、この俺に理解できぬはずがない」と、これまた力強く頷いていた。 眞魔国代表チームとクールファイターズの練習試合は、やはり実力者を揃えた代表チームが押し続ける格好のまま進んでいった。 それでも、代表に選ばれなかったクールファイターズの残留メンバーも意地があったのだろう、攻撃も守りも調整試合とは思えないほど必死に食いさがり、6回を終えても点差はまだ2点だった。 そして7回、クールファイターズの攻撃は1番からだった。 1番がヒットを打ち、2番が送りバントかと思いきや、これまたヒットを打ってノーアウト1、2塁。3番は振ってくるだろうと思ったところが、さらに意表をついて送りバントを成功させた。これでワンアウト2、3塁だ。 連続して裏を掻かれた代表チームがタイムを取り、わずかに時間が空く。 「1打同点のチャンスだね! もしホームランが出れば一気に逆転だ」 「次は4番ですもんね! 彼は、えーと、すでに2本のひっとを打ってますよね? 代表チームは彼を打ち取ることができるでしょうか?」 「この場合、攻守それぞれ、作戦としては何が考えられると思う?」 ユーリの問い掛けられて、アリー、アドヌイ、ゴトフリーの3人、そしてカーラとクォードも一緒になって首を捻った。 さすがというべきか、クォードもカーラも、6回までの実戦をその目にし、その都度説明を求めることで、野球の基本的なルールと試合の進め方をほぼ理解し終えていた。 「攻撃側としては……ひっとを打つ以外にないのではないのではござらんか?」 クォードが腕を組んで言う。 「あのばったーは4番でござろう。4番というのは、ちーむでも最も打者としての信頼が篤い人物。何と申したか、ぼーるを転がして、自分を犠牲にして走者を進める方法は取らぬのではないかと思う。ひっと、さもなくばほーむらんを打つことを期待して送り出す以外にないのでは?」 クォードの答えに、「おっさん、理解が早いなあ! すごいよ!」とユーリが褒める。クォードの頬が瞬く間に蕩けるように緩んだ。 「3塁に走者がいる場合。バッターがバントをして、自分を犠牲にすることで走者を本塁に返す。これは送りバントじゃなくスクイズっていうんだけど、確かにこれが成功しても入るのは1点だけだ。まだ逆転できない。そしてバッターは、残留組とはいえ3打数2安打で当っている4番なんだから、チームとしては2塁打以上を打ってくれる期待をしたいトコだよね? 代表チームもやっぱりそう考えるだろうな。だから守りの側としては、強打を警戒してなるべく深く守る。深い守りって意味はもう分かるよね? 逆に、送りバントやスクイズを警戒する時には、守りはバントシフト、つまり転がったボールを素早く取るために、なるべく前に出てくるんだ」 ああ! と突然カーラが大きな声を上げた。 「はい、カーラさん、どうぞ!」 ユーリがさっと手を伸ばし、カーラに発言を促した。指が何かを持っているかのように、軽く握られている。 「つまり……強打者だから、守備側は打ってくると考えて深い守りをする。攻撃側はその逆を突いて、ばんと…すくいず? とやらをやってくる可能性もあるわけだな」 「その通り!」 「お姉さま、すごいわ!」 アリー、アドヌイ、ゴトフリーが拍手する横で、クォードが「ぬぬぬ…」と、渋面を作って唸っている。 「4番の打力を信じて任すか、裏を掻くか、それぞれのチームの監督の采配次第だね。さっきも言ったように、スクイズが成功しても入る点は1点だけなんだし。それからもう1つ、守る代表チーム側も、できることがあるんだ」 「守る方にできること?」 新連邦組が揃って首を捻る。 「うん、それは……」 ユーリが続けようとした時、いきなり試合が動いた。「あれ、見て!」とアリーが叫ぶ。観客の声が更に高くなった。 バッターボックスで構えるクールファイターズの4番のすぐ後ろで、代表チームのキャッチャーが立ち上がっていた。 キャッチャーが立ったまま、バッターから離れた場所でミットを構えると、そこに山なりのボールが飛んでくる。 「あれじゃ……打てませんよ!」 ゴトフリーが驚いて声を上げた。 「それに、あのままじゃふぉあぼーるになってしまう!」 「そう。フォアボールにするんだ」 「どうして!?」 「ほら、1塁が空いてるだろ? 4番が打つと、少なくとも1点が入ってしまう。最悪の場合は同点、いいや、逆転するかもしれない。だから彼に打たせないために、空いている1塁に送ってしまうんだよ。塁は埋まるけど、点は入らないだろう?」 「でも……」アドヌイが戸惑ったような声を出す。「満塁になってしまいますよ?」 「そう、あれを満塁策って呼ぶんだ。確かに満塁ってのは怖いよね。でも考えてみて。4番は当っているけど、5番はどう? 彼は確かまだノーヒットだろ? つまり、代表チームは危険な4番との勝負を避けて、打ち取りやすい5番を相手にすることにしたんだよ。4番よりアウトにしやすいからね。それにもしもまずいゴロでも打ってくれれば、ダブルプレーに打ち取る可能性も高い。その場合1、2塁が埋まっている方が、守るほうとしてはアウトにしやすいんだよ。満塁にしてしまうっていうのは、意外と守る側にとって守りやすいんだ。もちろん両チームの状況次第だけどね」 「いや……しかし、姫!」 姫はやめろっつーの、というヨザックのツッコミを無視して、クォードは真剣な顔をユーリに向けた。 「はい、おっさん、どうぞ!」 またもユーリが、何かを握っているような手つきで腕を差し出す。 「確かに5番はひっとは打てぬかもしれませぬ。しかし、ええと、すくいず、とやらはできるのではござらんか? まだわんあうとなのだし、5番があうとになってもまだ攻撃は続きまする」 「そうそう、おっさんの言うとおり!」 えっへんとクォードが胸を張る。 「だから…ほら、見て、守りのシフトが変わっただろう?」 「あっ、本当だ!」 「あれがさっき言ったバントシフトだよ。5番は当ってない。だから打ててもゴロが精々のはず。ね? 4番が相手の時はどっちか分からなかったけど、今度は点を取るためにはスクイズって可能性がぐんと高まったわけ。だから1塁手や3塁手は迷わず前に出ていけるんだ。それだけでも4番を歩かせた価値はあるってことなんだよ。それに、もしスクイズが成功しても、入るのは1点きりだろうから、まだ同点にはならない。きっちり5番をアウトに出来れば、もうツーアウトだから次の打者はスクイズできない。強打しかないんだ。でも6番打者もそれほど当っていないはずだよ? だから、これをきっちり討ち取れば、最悪でも1点失うだけで済む。そういう計算をしてる訳だよね」 ふわぁ、とアリー達からため息が漏れた。 「すごい……。1打席ごとに、それだけ色々と考えて駆け引きをしなくちゃならないのね……」 自分達にそれができるだろうかと、不安の色を浮かべて3人が顔を見合わせる。 「ううむぅ……」 クォードが先ほどとは雰囲気の違う様相で唸り始めた。 「これは驚いた。球を投げて打って走ってという単純な遊びかと思いきや、その戦略戦術たるや、戦にも引けを取らんとは……姫」 呼びかける声が真面目だったので、ユーリも真面目な顔で「はい」と返事をした。 「つまり、この野球というものは、身体を動かす遊びというだけではなく、むしろかなりの頭脳戦でござるな?」 うん、とユーリが大きく頷く。 「この試合1つじゃとても説明できないくらい、ものすごい駆け引きがあるんだ。おっさんの言うとおり、野球は頭脳戦だよ。監督はもちろん、ピッチャーも、配球を組み立てるキャッチャーも、バッターも、塁に進んだ走者も、それから守る全員も、みんな1球1球ボールが投げられる度に考えて考えて次の行動を取るんだ」 「ふむ……。これはかなり奥が深いとみた。ううむ……。……姫、こうなったら5番の打者は発奮せねばなりませぬな?」 「だよね。お前なら簡単に討ち取れるって言われたも同然だし。バントシフトの裏を掻く打ち方もあるけど、でもやっぱりここはきっちりスクイズを決めたいところだろうね。たださ、ここでキレイにバントを決めるのはかなり難しいんだよ。技術的なこともあるけど、何より精神的にプレッシャー……重圧が掛かって、かなり緊張するし……」 「その緊張する気持ち、僕、ものすごく良く分かります」 あのバッターを応援したくなりました。 ゴトフリーのしみじみとした言葉に、アドヌイも大きく頷いた。 精神的な重圧はやはり大きかったのか、5番はのバントは2度に渡ってファウルとなってしまった。 「あちゃぁ……」 「ええとぉ、確かもしもう一度バントをして、それが失敗した場合は……」 「スリーバント失敗ってことで、バッターアウト。1点も入れられずにアウトカウントだけが増えるってことになるね。守備側としては、満塁策がばっちり当ったってわけ」 「なんと、そのような規則が……。ええい、ふがいない。軽く見られたままでよいのか、お主! ここで男を上げずにどうするのだ、5番!」 我慢できなくなったのか、拳を振り上げ、クォードが叫ぶ。 「いつの間にかくーるふぁいたーずの応援団になっちまってるけど……あの『元』、意外と良いやつ?」 ヨザックがこっそりとコンラッドに囁いた。 「無自覚のお人好しだな」 それも底抜けの。コンラートが笑って答える。 クォードの励まし(?)が届いたのかどうか。 次の1球、投げられたその瞬間に、バントの構えをしていた5番がふいにバットを引いた。飛び出していた1塁手と3塁手がハッと足を止める。そして。 カーンという木を叩く透き通った音が天高く走り、ボールは前進していた3塁手の頭を越えて飛んでいった。 「やった! 長打コース!」 ボールパークを怒涛の歓声が包んだ。 ピッチャーがボールを投げた瞬間、一斉に走り始めていた3人の走者は全力でホームベースを目指す。 その間、ボールは転々と転がり、外野の壁に当って不規則に跳ね返った。慌てた野手が処理を誤り、ボールはさらに別の方向へ転がり始める。 3塁走者はすぐにホームイン、2塁走者も余裕で本塁へ、そして満塁策で1塁に歩かされていた4番も、滑り込みで見事セーフとなった。ボールはそこでようやくピッチャーの手元に戻ってくる。 5番打者は自身も2塁まで進んで、拳を勢い良く突き上げた。歓声と拍手がさらに高まる。 「走者一掃のつーべーすひっとだ! 残留組が代表ちーむを逆転しましたよ! すごい!」 「よくやった5番! 褒めて取らすぞ!!」 クォードが飛び上がり、叫ぶ。 そのセリフは何だと思いつつ、カーラもまた同じように立ち上がって拍手を送っていた。アリー達も3人で手を取り合って跳ね回っている。弱いと思われていたチームの健闘が、カーラは何だか我がことの様に嬉しかった。 試合は結局、地力で勝っている代表チームが再逆転を果たし勝利をものにした。 その結果には地団太踏んで悔しがっていたクォード達だが。 観戦を終えた観客達が少しずつその場を去る姿を目で追いながら、クォードがふと「姫」とユーリを呼んだ。 「おっさん、野球初観戦はどうだった?」 ユーリに問い掛けられて、クォードが照れくさそうに頭に手をやる。 「いや、何と申すか……興奮いたした。恥ずかしい姿をお見せしてしもうたが……。だが姫、これは……良いものでござるの」 「良いもの? どんな風に?」 「久しぶりに勝負事の興奮を味わい申した。それも……戦の指揮をとっている時のような興奮を。……あれをご覧召されよ」 クォードが指差した先、グラウンドの中では、敗れたくーるふぁいたーず残留組の選手達と代表ちーむの選手達が笑顔で互いの肩や背を叩き、おそらくは健闘を讃え合っている。 「勝利した側も、敗北した側も、勝負が終わった後はあれあのように皆打ち揃うて清々しく笑っておる」 その姿を一緒に見つめるユーリも、うん、そうだね、と頷く。 「主力選手を敵に回した割には、1点勝負のいい試合だったからね。選手達も観客も、みんな満足してるんじゃないかな。それに、負けたからといって、罰せられるわけでもないし、誰が傷つくわけでもない。次にまた頑張ろうって皆思ってるんだよ」 「さようでございますな。……姫、このような場所でそれがしの記憶にあるのは……闘技場でござる」 うん、とユーリが頷く。 「闘技場でも、様々な試合が催され、多くの民が観戦にまいっておりました。そして……そこでは多かれ少なかれ必ず血が流されもうした。国によっては奴隷が殺しあうこともござったし、公開処刑と銘打って、罪人が嬲り殺されることも珍しくはござりませんでした」 再び、うん、とユーリが頷く。 「知ってるよ。そういうの……。おれの国ではやらないけどね」 今度はクォードが大きく頷く。 「長く戦の場におりましたゆえ、戦うということは、戦いで得る興奮というものは、命のやり取りあってこそ、言うなれば、血が流れてこそと思うておりました。民が闘技場で求めるの興奮もまた、そういうものなのだと。だが……違っておりましたな」 これほど心地良い興奮、血が流される勝負では得られますまい。 クォードがしみじみと呟く。 「後味が良いと申すか何と申すか……。応援していたものが負け、勝負が終わった当初はあれほど悔しかったと申すのに、なぜか今胸に残るものが、何とも言えず……心地良うございまするよ……」 そう言ってから、自分で照れくさくなったのか、クォードの頬がわずかに赤くなった。 いつも尊大な美丈夫の妙に可愛らしい様子に、ユーリはもちろん、周囲を取り囲むカーラ達の顔にもほのぼのとした笑みが浮かんだ。 そんな仲間達の表情に焦ったのか、クォードの頬がさらに赤みを増す。 「い、いや、これは……! 我ながら気恥ずかしいことを口にして……」 「んなことないよ、おっさん!」 ユーリがぱんっとクォードの背を叩く。 「むしろ、おれ、嬉しいよ! 初めて野球の試合を観戦して、そんな風に感じてもらえたなんてさ!」 ありがとう、おっさん! 全開の笑顔で見上げられ、クォードの顔が一気に真っ赤に燃えた。さらに汗まで吹き出してくる。 「さあ、そろそろ時間ですよ!」 クォードとユーリの間に、そのセリフと共にコンラートがずいっと割り込んできた。 「ほらユーリ、野球教室の参加者がどんどんグラウンドに下りてます。俺達も行かないと」 「ああっ、ホントだ! 皆、早く! グラウンドに下りるよ!」 瞬く間に気持ちを切り替えたユーリが、先に立ってすたすたと歩き始める。 主の注意をさくっと逸らす事に成功した臣下が、そのすぐ後ろに続く。 「………うわー……心せまー……」 「まあ、隊長ですから」 「……我が兄ながら……。よし、これをネタにまた苛めてやることとしよう」 魔族組が囁き合えば、人間達も。 「お姉さま? 今のコンラートの態度は何となく……あ、ううん、コンラートに限ってそんな……」 「……いや、もしかしたら……バスケス?」 そっと囁くカーラに、バスケスも顔を寄せる。 「大事なお方が他の男に笑顔を向けてるのが気に喰わねぇから邪魔したのさ。それ以外ねぇだろうが。まあ剣を抜かなかっただけでもましってトコか」 アリーの耳に入らないように、バスケスがカーラの耳元に囁き返す。 「……やっぱり…そうだったのか……」 ちょっと頭痛を覚えて、額を押さえてしまったカーラだった。 試合が終了した後のグラウンドに、彼等は降り立った。 「うわぁ、広い!」 「下りて見ると全然違うな! 興奮してきたよ!」 アドヌイとゴトフリー、それからアリーが、顔を真っ赤にしてきょろきょろと周囲を見回している。 グラウンドにはくーるふぁいたーずと代表ちーむの面々と、「野球教室」に参加する良い子達、その保護者、少年少女達、それからちょっと大きめのお兄さんやお姉さん達、つまり年齢も性別も多岐に渡った参加者達が集まっていた。そこへ、ユーリ達一同も合流する。 「よーし! 文化視察、野球体験コースの開始だ!」 正式名称「親善試合開催記念野球教室 野球大好きなそこの君! よってらっしゃいみてらっしゃい 本物の選手の手ほどきを受けて、ここで一発実力をつけよう! 君こそ明日のあいどるだ!」が間もなく始まろうとしていた。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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