朝。 初春のしんと冷えた空気に花の甘い香りが加わって、肌と鼻腔を心地良く刺激する。 ………おかげで頭がだんだんはっきりしてきた。 東の空に、まだ朝焼けの名残を残したこの時間、カーラは寝室を出て庭をそぞろ歩いていた。 すでに城は目覚め、人の活気に溢れている。 カーラが庭園を散歩し始めたわずかな時間の間に、すでに城で働く何人もの人々が彼女の脇をお辞儀をしながら通り過ぎていた。 ………魔族も人間と同じ様に、朝になれば目覚め、太陽の下でその光を浴びながら、一日を始めるのだ。 輝く青空の下、笑いさざめきながら今日という日の最初の仕事に精を出す魔族の人々を見つめながら、カーラはそんなことをぼんやり考えていた。 夕べは結局一睡もできなかった。 昨日。 閉ざされた扉の音が、いつまでも頭の中に響いて治まらなかったあの時間。 カーラ達は、凍りついたようにただその場に立ち尽くしていた。 豪華な客室。華やかにその身を飾りながら、顔を驚愕と恐怖に引きつらせ、その身を彫像の様に強張らせて立ち尽くす人間達。 傍目で見れば、その姿はさぞ奇妙なものだっただろう。 「…………何たる…何たる雑言……! あれが、共に戦場で戦った同志に対しての言葉かっ!!」 吐き捨てるようなクォードの言葉。その聞きなれた声が耳に響いた瞬間、カーラは驚いたように目を瞬かせた。まるで一瞬の白昼夢─それも極めつけの悪夢─から、一気に現実に引き戻されたような心地だった。 だがもちろん、彼女は夢を見ていたわけではない。 「…お、お姉、さま……」 ふと気付くと、アリーがカーラの袖に縋るように側に寄り添っていた。 どうして? アリーの声が涙に濡れている。その涙は、言葉の後からアリーの目の中に溢れてきた。 「……どうしてコンラートは……あ、あんな、あんなことを言うの……? どうして…? わたしたち、ずっと一緒だったじゃない。ずっと、家族みたいに一緒だったじゃない…? わたし、私、コンラートのこと、お、お兄様みたいにずっと思って……だからコンラートが、お姉さまと結婚してくれたらって……。そしたら私たち、本当の家族になって、ず、ずっと……一緒にって……。お姉さまとのことはもう諦めたけど……でも、でも! それでも!」 コンラートのこと、心の中でずっと、お兄様って思ってきたのに…! 「……アリー……」 「思うことは自由でしょう? 私、ちゃんと分かっているわ! 私たちがコンラートの家族にはなれないこと、ちゃんと分かっているわ! ツェリ様がおいでになるし、兄弟だって……。それに誰よりユーリがいる。……でも、それでも私、コンラートが私たちのことを、シマロンにいるもう1つの家族だって考えてくれたらって、私のことを、私とレイルのことを、血の繋がらない妹と弟だと思ってくれたらって、そう願って……」 願っていたの。 最後は消え入りそうな声でアリーが言った。 「……でも…全然違っていた、の…? コンラートにとって私たち、全然、意味のない存在なの……?」 「あれがコンラート様の本心とは思えません!」 若いタシーが声を張り上げる。 「僕達をあれほど力強く導いて下さったコンラート様が、いくら魔王陛下の御ためとはいえ、我々を滅ぼすなど、ありえるはずがないではありませんか!?」 「私もそう思います」ラースも続ける。「あのムラタという人物は、これまでの様子からみても魔王陛下とほぼ同等の地位にある人物と思われます。……魔王の絶対的な権力によって支配されているとばかり思っていたこの国に、宰相閣下がおられたことだけでも驚きであったというのに、よもやあのような聖職者まで……。かの人物を教皇と考えれば、コンラート様といえど表立って逆らうことは難しいのでは……」 「コンラートはそのような男ではないわ!」 怒号に、全員の体が跳ねる。 全員の視線の先で、クォードが憤然と肩を怒らせている。 「相手がどのような身分の者であろうと、決して意見するに怯むような男ではない! よほど何か意図するものがない限り、節を曲げて相手に阿るような男では……!」 「その意図があるんじゃないの!?」 サンシアがいきなり声を上げる。 「見た目が魔王陛下と同年代だからつい錯覚してしまうけれど、あのムラタという聖職者、並外れて頭の切れる男だわ。おそらく宰相閣下とも互角にやり合えるのではないかしら。あの男の発想は……とても聖職者とは思えないけれど。むしろ政治家か、でなければ……軍略家のような……。おまけに身分は宰相閣下やコンラート様より高いことは間違いないし。覚えてるでしょ? ムラタが入って来た時のコンラート様達の態度。ねえ、どう思う? あんな男が、大人しくあの可愛らしい魔王陛下に忠誠を尽くすかしら? 外面は幾らでも作ることができるわ。でも……あの聖職者、魔王陛下になり代わってこの国の支配者になろうと画策しているのではないかしら。それを察知したコンラート様が、あえて逆らわず、あの男の叛意を探っておられるということも考えられるじゃない?」 うぬぅ、とクォードが唸る。 「た、確かに、腹に一物も二物も隠し持っているような男であった。姫のお美しさには及ばぬが、年頃も背丈も纏う色まで同じゆえ、ついつい誤魔化されておったやもしれぬな……」 「サンシア殿、鋭いですよ!」 上司を褒めるタシーに、「そうでしょ?」とサンシアが胸を張る。 「ねえ、あなたはどう思う? カーラ」 話を振られて、カーラはわずかに眉を顰めた。思い出すのは、見上げられているのに、何故か見下ろされているような気がする、あの見た目だけはあどけない少年の眼差し。ユーリと同じ色の、でも全然違う、あの……冷たい光。 「人を……見下し慣れている少年、男だと思った。とても陛下と同年代とは思えないほど……。ああ、とは言っても、ユーリ陛下は混血でまだ10代だ。フォンビーレフェルト卿が80代という話だから、あの聖職者もそれくらいなのかな。同じ聖職者といっても、ダード老師とは随分違う。……確かに、あのような男がユーリ陛下に、真実曇りない忠誠を捧げるとは思いにくいな……」 「だったら!」アリーが声を弾ませる。「コンラートはわざと私達に冷たく当ったのよね!? 本当は……」 「僕、それは違うと思います」 ふいに上がった声は、あまりに唐突で、一瞬それが誰の声なのか、カーラにすら分からなかった。 「………レイル……?」 頭を巡らせれば、皆から少し離れた位置にぽつんと、居心地悪そうな様子で従兄弟が立っていた。 だがいかにも思索好きな、一見頼りなげな少年の瞳には強い意志が瞬いている、と、カーラは思った。 考えてみれば、この従兄弟はこの国に上陸してからほとんど口を利いていなかった。 いつもにぎやかで、ともすれば勇み足を踏みやすくそそっかしいアリーを援けている内に、同い年ながらすっかり大人びてしまったレイルが、ここしばらく何かを思い悩むように口を閉ざしていたことに、カーラは今さらながら気付いた。 「違うって、どういうことかしら?」 サンシアが声を低めて尋ねる。 「済みません」 その生真面目な性格からだろうか、レイルはまず謝罪して頭を下げた。 「どうという明確な理由があるわけではないんです。ただ……あなたが仰ったあのムラタ猊下の企みですが、それが実在するかどうかは僕も分かりません。ですが、僕にはあなたのお話が、コンラートが自分達の敵になるはずがないという答えが先ずあって、その根拠として無理矢理生み出した理由の様に思えてなりません」 「つまり……まず最初に結論ありき、というのが間違っていると言いたい訳ね?」 「……はい、そうなると思います。コンラートは常に僕達の味方だと、そう思いたいためだけに導き出した結論のように思えます」 「じゃあレイル、あなたはどう思うの? コンラート様のあのお言葉は……」 「僕、あれはコンラートの本心だと思います」 レイル! アリーが焦ったように声を高めた。 「……それに」 いつも側にいる従姉妹の声にも反応しないまま、レイルは言葉を続けた。 「僕……あのムラタ猊下は、何一つとして間違ったことは仰らなかったと思います」 レイル……。カーラは口の中で小さく従兄弟の名を呟いた。カーラの隣で、アリーが口に手を当て、別人を見るような目でレイルを見つめている。 「確かに口調は厳しかったし、僕達を嫌っておられるというのも、お話を伺っていて分かりました。でも……あの方が仰せになった一言一言、僕、本当に耳が痛いと思いました。この人の言ってることは正しい。全くその通りだと、頷かずにはいれらませんでした」 「……一体、あやつのどこが正しいと思ったのだ……?」 クォードが腕を組み、難しい顔で問いただす。それに顔を向けて、レイルはすうっと息を吸った。 「僕達が、新連邦の人間達が、魔族と友好を結ぶということを、本当はこれっぽっちも真剣に考えていない、ということです」 全員が息を呑み、これまでほとんど目立たなかった少年を見つめている。 「まずお祖母様が間違えました。この訪問団に、僕やアリー、それにアドヌイやゴトフリーが参加する必要はなかった、いえ、参加してはならなかったのです」 アリーが顔を歪め、その背後に控えるアドヌイとゴトフリーもまた苦しげに目を伏せる。 「真剣に魔族と友好を結ぼうと思うなら、その習慣、価値観など、魔族の真実をきちんと学ばなければなりません。ですから、事前訪問による調査は確かに必要だと思います。眞魔国の人々もそう思ったからこそ、僕達を迎え入れてくれたのです。だとすれば、ムラタ猊下の仰せの通り、行政、経済、文化、外交、これらの専門家を大量に送り込まなくてはなりませんでした。それこそがこの国の人々に対しての当然の礼儀だったはずです。でも、お祖母様は間違えた……。コンラートが言っていた通り、お祖母様にとって眞魔国との友好条約締結は当然のことだった。この訪問団は反対派を納得させる材料に過ぎなかった。でもそんなこと、この国の人には関係ありません。友好条約締結は国家の将来に関る重要な問題です。そのためには、それにふさわしい人材を送り込むべきだったんです。いい加減な人選をすれば、我々の誠意を疑われるのは当然の事です。違いますか?」 レイルの言葉に、カーラはない唾を飲み込んだ。 「お祖母様は国家の代表であるべき訪問団に、魔王陛下の個人的な友人に過ぎない僕達を参加させてしまいました。眞魔国という国を相手にしているというのに、お祖母様は魔族の民の心情に思い至らなかった……」 「それは違う!」 思わず、カーラは叫んでいた。 「お祖母様がお前達を参加させたのは……!」 「僕達が新連邦の指導部で、いずれ何らかの地位を得ることができるための下準備に、との思いやりですか?」 「………っ!」 レイルの切り返しに、カーラの喉が詰まる。 「だったらなお悪い。そうでしょう? カーラ姉さん。自分の地位を利用して、経験も実力も足りない孫を高い地位に就けるように画策する。それって不正じゃないですか」 「レイル……」 ひどい言い方をしてごめんなさい。 そう言って、だがレイルは小さく微笑んだ。それから、ふと顔を上げると、レイルは自分を見つめる人々の顔をゆっくりと見回し、そして「皆さんにお伺いします」と口を開いた。 「魔族を尊敬していますか?」 ふと沈黙が下りた。 全員の、瞬きもなく集中する視線に臆することなく、レイルは真っ直ぐ顔を上げている。 「どうして皆、そんなにびっくりするんですか? カーラ姉さんまで……。だって、尊敬して当然でしょう? コンラートだってれっきとした魔族です」 「レイル!」 「どうしてそんな声を上げるんですか? カーラ姉さん。コンラートは言葉でも態度でも、自分は魔族だとはっきり主張してるじゃないですか」 「…そ、それは……私は……」 「魔族は」 真正面から見返され、反論され、思わずうろたえるカーラから、レイルがスッと視線を外した。 「人間には到底得られない技術を持ち、これほどの繁栄を築きながら、数千年に渡って敵対していた人間を滅ぼそうともせず、支配しようともせず、対等な友好を、共存共栄を望んでくれています。……人間は」 ずっと魔族を蔑んできたのに。 「魔族は魔物。彼等は暗黒の世界で、人間の素晴らしい世界を羨んでいると僕達人間は言い伝えてきました。でも実態は全く違っていた。光に満ちているのは魔族の国の方。羨んでいるのは人間の方。これだけの国力があれば、眞魔国はいつでも人間を滅ぼすことができると思います。コンラートだって言っていた。新連邦を大陸の歴史から消し去るって。その自信もなく、コンラートはあんなことを口にしたりしません。実際現在の新連邦の力では、到底魔族の力に叶いません。でも、魔族は人間を滅ぼさない。人間が言い伝えてきたように、皆殺しにしたり奴隷にして支配したりもしない。それどころか滅びかけた大陸の大地を、何の見返りもなく救おうとしてくれている。本物の友情を育みたい、共に幸せに生きていきたい、そう願ってくれているんです。それって、魔族という種族が、とてつもなく高潔な精神の持ち主だという証拠じゃないでしょうか? 僕達、心からこの国の人達を尊敬すべきじゃないんですか? 滅びかけ、ただ負担を掛けるばかりの僕達と対等の条約を結んでくれることに、心の底から感謝すべきじゃないんですか? 僕達、そのことを本気で考えたことがあったでしょうか? 助けてもらうのは僕達の方なのに、ムラタ猊下の仰せの通り、もしこの国の人達の援助がなければ、僕達の国も民も滅ぶ以外未来はないのに……。それなのに、未だに魔族と友好を結ぶことを嫌がる人達が大勢いる。それを僕達は恥ずかしいとも思わず、それどころか当然の様に考えて、魔王陛下や側近の方々にも堂々とそのように申し上げてしまった。……クォード殿」 呼びかけられて、クォードの顔が跳ねる様に上がった。 「魔族が人間を援助して、それが効果を表せば、自然と人間の偏見も消えるだろう。あなたはそう仰いましたよね。でもそれおかしくないですか? 魔族に対する人間の誤解や偏見や迷信をなくすのは、魔族の責任なんですか? 魔族が人間を助けてみせなくちゃ、それこそ奉仕しなくちゃできないことなんですか? 違うでしょう? 偏見も迷信も、僕達人間が生み出したものです。それを間違っているんだって認めて、なくしていく努力をするのは、その責任を負うのは、僕達人間自身じゃなきゃおかしいです!」 真正面から見つめられて、クォードが珍しく目を伏せた。 カーラやサンシア、ラース達も顔を見合わせ、そしてどこか後ろめたそうにそれぞれの視線を逸らした。 「……世界の平和を真剣に考えている魔族を尊敬することもなく、無償の好意を示してもらいながら感謝もせず、それどころか何も見返りはないと堂々と言ってのけたんですよ、僕達は……。土下座してでも援助をお願いすべき立場なのに。まるで魔族が僕達を援助することが、いいえ、魔族が人間に奉仕するのは当然だとでも言うかのように……。僕達は」 誰も魔族への偏見をなくしたりしてないんだ。 「偏見をなくしたような振りをしているだけで、本当は少しもなくしてなんかいないんだ。皆、魔族を見下しているんです。違いますか? ……ムラタ猊下がお怒りになるのは当然じゃないですか! コンラートだって…! カーラ姉さん、あなたもそうです。姉さんはコンラートが魔族だと認めることに抵抗を感じてる。それってつまり、一番根本の部分で魔族を蔑んでいる証拠じゃないですか? 猊下に対して怒りを感じたのも、真実を言い当てられたからこそじゃありませんか!? ……あの方に対して、僕たちが怒りを感じる理由なんか1つもないんです。あの方はどこも間違ってなんかない。無体なことなんか1つも仰ってない。悪いのは僕達だ。僕達、人間なんだから! 人間の国が滅びかけているのも、戦争も、何もかも人間が悪いんだ! 世界の平和を考えたら、いっそのこと人間が滅んだ方が……!」 ふいに、それまで迸るように言葉を溢れさせていたレイルの動きが止まった。 ハッと顔を上げたレイルが、ぎくしゃくと背後を振り返る。 クロゥと、そしてバスケスの2人が、少年の傍らに立っていた。 「もういい。それ以上言うな」 少年の肩に手を置き、クロゥが静かに語りかけた。 その途端、レイルがカッと頬を、いや、顔全体を真っ赤に染めた。 「す、すみません」茹ったように顔を火照らせ、レイルが一同を見回す。「ぼ、僕……」 レイルの肩の上で、クロゥがぽんぽんと手を弾ませる。 「謝らなくてもいい。……長い間、お前も色々と考えていたんだな…?」 レイルが再びクロゥを見上げ、そして小さく頷いた。 「砦に居た頃から少しづつですけど、コンラートに魔族について話を聞かせてもらっていました。それからユーリと、いえ、魔王陛下とも出会って……。魔族について、魔族と人間について、色々と考えるようになって……」 ぽん、とレイルの背を叩くと、クロゥは仲間達に顔を向けた。 「もう少し時間がある。座らないか? お茶でも飲んで話そう」 「俺とバスケスは、少なくともここにいる誰よりこの国のことを、そして魔王陛下とその周囲の人々の関りについて知っているつもりだ」 どこか悄然とソファに座り込む同僚達を前にして、クロゥはお茶のカップを傾けながらそう切り出した。 「だからまず、大賢者猊下に対する誤解から解こう」 あの方は、魔王陛下になり代わろうなどと、爪の先ほども考えてはいない。 「誤解を怖れずに言うなら、あの方もコンラートと同じだ」 カーラが訝しげに顔を上げる。 「誰よりも何よりも魔王陛下が大事。あの方を傷つけるもの、苦しめるものは許さない。そういうことだ。コンラートとは表現の仕方がかなり違うが。……お言葉が突き刺さるように感じるのは…あまりにも深々と図星を刺されて、いや、抉られてしまうから、かな……」 「俺達もさんざんやられたからよ」バスケスが笑う。「けど、レイルも言ってたけどな、あのお人は間違ったことだけは言わねえぜ? 相当めんどくさいお人だがな。けどよ、あのお人の棘も毒も、刺された時は痛ぇばっかりだが……不思議なことに、今じゃ薬になってるような気がするぜ。まあ、それに気付くにゃ、かなりの時間が掛かるけどよ」 「レイルには即効だったようだが。……それとコンラートだが」 クロゥがちらっとカーラ、そしてアリーに視線を向ける。 「あれはコンラートの本心だ」 落ち着いた声に、カーラ達がきゅっと唇を噛む。 「……そういえば、お主はコンラートが何を言うか分かっていたようであったな」 クォードの問い掛けにクロゥが頷いた。 「言われたからな、俺達も。……あの時」 以前、コンラートを求めてこの国を訪れた時。 「砦の仲間への友情や愛情を思い出してくれればと願った俺に、コンラートははっきり言った。大切なのは魔王陛下だけだと。陛下以外の存在などどうでもいいと。護るべきなのは陛下だけ。必要なのも陛下だけ。……もし陛下がこの世から消えてしまったら、そんな世界はどうなろうと知ったことじゃない。そんなことも言っていたな……」 カーラの、膝の上で組んだ手に白く筋が浮くのを、クロゥは見るともなく見て、さらに言葉を続けた。 「カーラ、俺達はコンラートが眞魔国を出奔した理由を、とっくに知っていたはずだぞ。コンラートにとって、魔王陛下が全てだということも知っていた。お前も口にしていただろう? コンラートの世界は魔王陛下でできていると。あの時、砦が崩壊しかけていた時、コンラートが戻ってきてくれたのも、魔王陛下がシマロンの民を救ってやれと仰せになって実現したものだということも知っていたはずだ。ならばコンラートのあの言葉が真実であることも、分かっていているはずじゃないのか?」 カーラとアリーがのろのろと顔を上げる。 「私、は……」 分かっていた、そんなこと。ユーリこそコンラートの最愛の人、護りたいたった一人の人。 「だが……コンラートは、本当は自分の意志で戻ってきてくれたと……。ユーリ、は、それに許しを与えたのだと、思っていたんだ……。陛下を立てるため、建前でそう言っているだけだと…。だから私もそれに話を合わせて……」 「猊下の仰せの通り、コンラートは俺達の言葉にわずかも耳を貸してはくれなかった。陛下のご命令がなければ、コンラートはあの時砦に戻ってくることはなかっただろう」 「そんな、ことは……知らなかった……。だって……」 国造りという、ただそれだけではない。 祖母とカーラとアリーとレイル。自分達がコンラートと共に過ごしてきたあの日々は、命懸けの日々は。 同志とか仲間とかを越えた、強い絆を自分達の間に生み出したのだと思っていた。 その絆に、私達は生涯結ばれているのだと……。だが……。 「コンラートの心の内はどうあれ、あいつは危機的状況にあった俺達の元に戻ってきてくれた。そして最前線で戦い、俺達を勝利に導き、そして新たな国家を建設する基礎まで作ってくれた。そうだろう?」 全員がひたすらにクロゥを見つめている。 「シマロンのためではなく、魔王陛下のご下命を果たすためであったとしても、あいつは文字通り命を懸けてその使命を果たしてくれた。あいつの言葉にも行動にも嘘はない。……俺の言うことは間違っているか?」 いいえ、と、タシーらしい声が小さく応える。 「コンラートは、紛れもなく俺達の恩人だ。猊下は違うと仰せだったが、しかし、コンラートであればこそあれだけの仕事をやってのけられたんだ。コンラートがいなければ、大国を倒した上に、これほど短時間で新たな国家を建設することはできなかった。コンラートは、戦いにおいても、新たな国造りにおいても、わずかも手を抜くことはなく、全身全霊俺達のために力を尽くしてくれた」 クロゥの言葉と同時にバスケスとレイルが大きく頷き、言葉の意味を噛み締めるだけの間を置いて、ラースやサンシア達官僚、さらにアドヌイとゴトフリーが頷く。 理解を示してくれた仲間達に頷き返しながら、クロゥは、クォードとカーラとアリーの3人だけが、どこか曖昧な表情で目を逸らしていることに気付いた。 「コンラートは確かに俺達の仲間だった。ただたぶん……」 俺達は、コンラートに求め過ぎてしまったんだ。 ふっとカーラが顔を上げ、宙に目を向ける。 「コンラートは魔王陛下のため、眞魔国のため命を懸けて働いていた。だが俺達は、それを俺達のためだと勘違いして、コンラートが望みもしないことまで望んでしまった。期待し、夢を見てしまったんだ。コンラートが王座に就き、隣には王妃となったカーラがいて、新たな国家を仲間達と創る夢だ。皆で一緒に見てしまった夢だから、それが実現しないはずがないように錯覚もしてしまった。……だがコンラートは、眞魔国のウェラー卿コンラート以外の何者にもなれない。魔王陛下の臣下以外の何者にもな。あの時も、コンラートは俺達にそう言った。だが俺達はまだ心のどこかで望んでいる。コンラートがずっと俺達と共に生きてくれたらと。そんなことは望めないととっくに分かっているはずなのに。コンラートはもちろんそれに気付いている。だからこそあんな形で俺達の元を去ったのだし、今も……はっきりさせたかったんだと思う。夢は夢でしかない。無駄な期待をするな。もう自分に頼るな。甘えるな、と」 俺達は、今こそ自分の内側を見直すべきではないか? そう言って、クロゥがラース達の顔を見回した。 「眞魔国と友好を結びたいと俺達は願っている。だが俺達は魔族を、本当はどう思っているのか。どう思うべきなのか。レイルが言うように尊敬すべきなのか、友好を結ぼうと言ってもらえることに感謝すべきなのか。それとも……どうせ種族の違う相手、その力を利用できるなら、表面的な友好だけを結んでとことん利用してやればいい、それで良いのか。俺達は1度自分の中にどういう答えがあるのか、見据えてみるべきじゃないか?」 誰も何も答えず、深刻な表情を浮かべてただクロゥを見つめている。 同僚達のその様子に、クロゥの顔に苦笑が刻まれた。 「本当は今こんな話をするはずじゃなかったんだが……。でも良い機会だったかもしれない。とはいっても、今夜一晩で出る答えじゃないのだから、今からそんな顔をするのは止めてくれ。明日から本格的にこの国の人々と触れ合うんだ。そのなかで少しづつ考えを深めていけばいいと俺は思うぞ?」 苦笑混じりの言葉に、サンシア達がほうっと息をついた。 「……そう、そうね……。私も、もう少し感情を整理しなくてはならないわ。とにかく、全ては明日からね……」 深呼吸して、自分に言い聞かせるような様子のサンシアに、官僚達がそれぞれ頷く。 「……あの……」 不意に上がった声に顔を向ければ、レイルが真剣な眼差しでラースを見つめていた。 「……レイル?」 「すみません、ラース、殿、ロサリオ殿。あなた方にお願いがあるのですが……」 「我々に……?」 名指しされた2人が顔を見合わせ、改めて少年に視線を向ける。 はい、とレイルが頷いた。 「明日からの視察ですが……僕、お二方とご一緒させて頂いてもよろしいでしょうか」 「れっ、レイル…!?」 アリーが半ば腰を浮かして従兄弟を見遣る。 「僕、以前から行政に興味を持ってきました。経験もありませんし、知識も決して深くありません。ですからこれから勉強して、できれば行政部門で働きたいと考えています。この機会に、お二方のお側で学ばせて頂きたいのです。どうかよろしくお願いします!」 そう言って、改めて深く頭を下げるレイル。 アリーはパクパクと口を開いたり閉じたりしながら、全く言葉も出ない。そしてカーラも、突然の従兄弟の言葉に呆気に取られてその真剣な顔を見つめている。 「僕、ずっと考えてきました。コンラートからも……言われていたんです。新たな国家が誕生すれば、かつての身分も地位も意味がなくなる。手にしていた身分や権力に執着する者も少なからずいるが、いずれ必ずそれを認めなくてはならない時がくるだろう、と……」 『新たな国家においても、最高権力者はエレノアだ。だからお前もアリーも自覚しにくいだろうと思うが……。エレノアは女王になるわけではない。お前達ももう王族ではない。そんな身分は新たな国家から消えるんだ。お前もアリーも新たな国家の一市民に過ぎない。エレノアの地位が高いからといって、自分達もまた人に傅かれるのが当然だとも、自分達の将来が約束されているなどとも考えるべきではない。そうだろう? カーラはすでに武人としての人生を歩んでいる。お前達も、自分の人生は自分自身で切り開いていくんだ』 「……私、そんな話、聞かされていないわ……」 アリーがカーラにだけ聞こえる声でぼそりと呟く。 「僕、愕然としました。分かっているつもりだったのに、ちっとも分かっていなかったことに気付いて……。自分がどれだけ甘えているか、あの新生共和軍の砦でも、そして今でも、お祖母様の孫だということだけで、どれだけ特別待遇を受けているか。自分が王族ではもうないことも分かっていたはずだったのに……。僕はアドヌイやゴトフリー達野球仲間の皆から、『様』づけで呼ばれることに何の違和感もなかったし、アリーが皆に命令して、皆を従わせることも当然の様に感じていました。本当なら、僕達はアドヌイ達と身分の差などない、対等な仲間のはずなんです。でも、実際はそうじゃない。僕もアリーも、無自覚なままにアドヌイたち仲間を見下していたんです」 その言葉にある紛れもない非難の色に、アリーは息を詰め、愕然と目を瞠った。 「でで、でもっ」 思わず、といった様子でアドヌイが引きつった声を上げた。 「砦で、俺達はレイル様とアリー様の指揮下にありましたし、それに……俺達、ただの農民で……」 「だからアドヌイ」レイルがアドヌイとゴトフリーに目を向ける。「出身なんてもう無意味なんだ。それに昔の関係は、戦の終了と同時に終わってる。今の僕達はどんな地位についてるわけじゃない。なにもしていないんだ。お祖母様やカーラ姉さんの、それから以前ならコンラートの後を追い掛け回して、それだけで何か仕事をしているような気分に浸っていただけだよ。だけど君達はちゃんと首都警備の部隊に入って仕事をしているだろう? だから僕達は同等、いや、むしろ君達の方が僕達よりずっと偉いんだよ。僕達に遠慮する必要なんて、もう全然ないんだ」 「れ、レイル、様……」 「僕は僕という1人の人間として、自分の道を歩んで行きたいと思います」 真正面を向いて、レイルがきっぱりと言う。 「お祖母様とも過去の身分とも一切関係なく、自分の選んだ仕事をしていきたいんです。できれば…行政の分野で。勉強させてもらって、民と直に触れ合って、いつかどんな辺境の地でも構いません、民の生活のために力をつくす役目を果たしたいと思います……!」 ……いつの間にか、本当にいつの間にか、幼いと思っていた少年は大人になっていた。同い年の従姉妹を遥かに追い越して。 カーラは庭園のあちこちに置かれた腰掛に座りし、晴れ渡る早朝の青空を見上げた。 ベッドの中、何年振りかで自分のベッドに潜り込んできた妹が、胸に顔を埋め、声を殺して泣いていた、あのしゃくり上げる響きと涙の温もりが蘇ってくる。 ムラタ猊下の言葉、コンラートの態度、そして何より、物心ついた頃からずっと寄り添うように生きてきた、分身のような従兄弟のあまりにも突然─少なくともアリーにとっては─の豹変。カーラでさえ、胸を殴られるような気分を味わったのだ。アリーが受けた衝撃は大きかっただろうと思う。 「私っ、夜会になんか出ない!」 驚きと怒りと混乱に満ちた慌しい時間が過ぎて、やがて夜会に向かう時間が来た。と、突然アリーが癇癪を起こしたようにそう叫んだ。 妹の目は、レイルを迎え、改めて翌日の打ち合わせをする文官達一同に向いている。 その全員が一斉にアリーに顔を向けた。 「こんなっ、こんな気持ちで夜会なんて……っ! 私、絶対出ないわ!」 言ったかと思うと、髪を飾る花をどんどん毟りとっていく。 「アリー! 待ちなさい!」 伸ばした手を荒々しく払い除けられて、カーラは一瞬呆けたようにその場に立ち尽くした。と、次の瞬間。 パン、と軽い音がして、ハッとカーラは目を見開いた。 アリーが呆然と頬を抑え、その傍らにサンシアが立っている。 「レイルがあれだけ考えているっていうのに、あなたはいつまで子供でいるつもりなの? いい加減にしなさい!」 唇を震わせ、目を大きく瞠って、アリーは何も答えられない。 「いいこと? あなたには全然その資格がないけれど、それでも今現在、この国においてあなたが新連邦の代表の1人であることは紛れもない事実なのよ? 宰相閣下も仰っておいでだったでしょう? 友好条約締結のための事前訪問団として遇するって。あなたもその1人なの。新連邦の代表なの! そのあなたが、癇癪を起こして夜会を欠席? それが眞魔国側に知れたらどうなると思うの? 新連邦は一体どこまで眞魔国を軽んじるのか、本気で友好条約を結ぶ気があるのか、そんな国に援助を与える必要があるのか、きっと魔族の人々は疑問に思うわ。クロゥも前に言っていたでしょう? 私たちの一挙一動を魔族の人々は注目しているのよ? いい加減、お遊び気分は捨ててちょうだい。新連邦を代表する訪問団の1人として、もっと自分の立場を自覚しなさい!」 怒鳴りつけられて、アリーがびくんっと飛び上がる。 泣き出す一歩手前の状態で身体を震わせる妹を庇うこともできず、カーラもまた唇を噛んだ。 姉でありながら、妹を諭すことすら他人に任せてしまった自分のふがいなさに、カーラこそ泣きたい気分だったのだ。 「アリー」 レイルがゆっくりと従姉妹の側に歩み寄る。そしてそっと、涙が零れ始めたアリーの頬に手を伸ばした。 「……僕達、いつまでも昔のままではいられないよ。どんな我侭を言っても許される子供ではね……。夜会には出席しなくちゃ駄目だ。サンシア殿の言う通り、僕達個人の感情で好き勝手することは許されないんだ。僕たちの肩には新連邦の民の未来が掛かっているんだから。それに夜会に欠席したら、ユーリ、陛下もきっと心配なさるよ。そうなれば、ムラタ猊下やコンラート達はますます僕達を信用しなくなる。そうだろう?」 そう言うと、レイルはアリーの答えを待たず、くるりと踵を返した。 「クォード殿」 呼びかけながら、レイルの足は真っ直ぐクォードに向かう。 「…レ、レイル……」 「申し訳ないのですが」軽く一礼して、礼儀正しくレイルが言葉を続ける。「明日の文化視察、僕の代わりに参加して頂けないでしょうか?」 「…な、何……?」 「当然僕も参加するものだと、陛下はお考えだと思うのです。ですが僕はラース殿達と同行しますし……。クォード殿の様にこれまで野球を知らなかった者が参加すれば、きっと陛下もお喜びかと思います。どうか……」 「あ! ああ! なるほど! ……お主の言いたいことは良く分かった。そ、そうよな……いや、俺としてはこの国の行政に多大な興味を抱いておるのだが、だがしかし、姫、いや、魔王陛下を失望させてはいかんな。う、うむ、文化視察とて、眞魔国の民の暮らしは見えるとコンラートも申しておったし、前向きに検討することとしよう!」 ありがとうございます、とレイルが頭を下げる。 それからスッと頭を巡らせ、視線を今度はカーラに向けた。 「カーラ姉さんは」 「………私も……明日はユーリ陛下に同行させて頂こうと思う」 クォードのこともあるが、何よりアリーの側にいてやりたい。 「分かりました。よろしくお願いします」 落ち着いた表情と口調で、レイルがカーラを見つめる……。 レイルはずっとアリーの陰で、一歩引くような態度を終始崩さずにいた。 レイルの性格もあっただろう。しかしそこに、王太子を父に持つカーラとアリーに対し、同じ王族とはいえ、臣下となる身としての遠慮がなかったかと言えば、決してそうとは言えないはずだ。 まるでアリーに振り回されるように後を追いかけていた従兄弟。 彼は過去の身分を振り捨て、1人の人間として、今大きく一歩を踏み出したのだ。 この国で、私達の何かが、きっと大きく変わっていく。 そろそろ朝食の席に向かわねば。頭の隅でそう思いながら、カーラはいつまでも朝の空を見つめ続けていた。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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