「まったく…」 どさりと音を立ててサンシアがソファに腰を下ろし、ふうとため息をつく。声も仕草も淑女らしからぬサンシアが口を開いたのは、彼等が広々とした清潔で明るい洗面所と浴室に感嘆の声を上げ、朝でも夜中でも好きな時に身体を沈めることのできる大きな、磨き上げられて艶やかに輝く石造りの浴槽と、取っ手を捻っただけで迸る湯に驚愕の眼差しを向け、華やかな香りの石鹸水や洗髪水にうっとりとし、そして、この熱い湯を自由に、そして存分に使えることが、上流階級の特権では決してないと知らされて愕然とした、そのすぐ後のことだった。 「一体何なのよ、この国の経済力は。それに技術力の高さも……。話が違うにも程があるわ」 うんざりとした顔のサンシアに、本当ですよね、とタシーが相槌を打つ。 「魔王陛下にしてもそうですよ。魔王といえば悪鬼羅刹の総元締めという、あの連綿と続いてきた伝説は一体何だったんでしょうね。……そういえば、当代陛下の前王、ええと、確か上王陛下とお呼びするのでしたっけ? 何でも、絶世の美女だとか。魔王が美女だなんて、誰も想像できませんよね」 「宰相閣下のお側に、金髪の、魔王陛下と同年代の少年がいたのに気付いたか?」 カーラの言葉に、タシーがしばし考えて、それから「ああ、そう言われてみれば」と頷いた。 「彼が前王ツェツィーリエ陛下の三人の息子の末子、つまり宰相閣下とコンラートの弟君であるフォンビーレフェルト卿だ。彼がお母上にそっくりでいらっしゃる」 「なるほど。確かに陛下とはまた違った雰囲気の美少年でしたね! でも……それにしても、似てないご兄弟ですよねぇ」 「コンラートの話によると、母上に似たのはフォンビーレフェルト卿だけで、宰相閣下とコンラートはそれぞれのお父上によく似ているそうだ」 ああ、なるほど、と、タシーが大きく頷く。 「上王陛下という方にも、僕、ぜひお会いしたいですよ。きっと聡明な素晴らしい女性なんでしょうね。何といっても、コンラート様と、あの宰相閣下のお母上でもあるんですから!」 「そう。あの宰相閣下、よね」 突然の、どこか重々しいサンシアの声に、ふと静寂が戻った。 部屋に戻った全員の顔がサンシアに向く。 「私……ずっと納得できずにいたのよ。コンラート様が私達と共に歩んでは下さらなかったことを……。私達が連邦制という体制を選んだのは、新国家内の覇権争いを避けるためだった。でも……もしも、もしもよ? コンラート様がベラールの真の後継者として王になることをご決断なさっておられたら……どうなっていたかしら?」 それは、と言いかけて、カーラは唇を噛んだ。もし、コンラートが自分達の薦めのままに、王となることを決意してくれていたら……。 「その時には!」 カーラの、そしておそらくはその場に集う者達の表情の変化に気付いたのか、クォードが大きな声を上げた。 全員がハッとクォードに視線を向ける。 「……その時には。激しい争いが起きていただろう。コンラートが王となることについては、反対する者も多くいたのだからな」 「あなたのようにね」 あっさりと頷いて、サンシアが言葉を続けた。 「でも、コンラート様に関りなく争いは起きたじゃない。そしてそれを治められたのも、結局はコンラート様だったわ。でしょ? 争いが起こったとしても、コンラート様さえご決意なさっておられたら、今頃シマロンはあの方の下で王国として復活していたわ」 クォードがぐ、と唇を噛み締める。 「あの方こそ、1国を統べるに相応しい方よ。すぐ近くで働かせて頂けて、何度もそう思ったわ。だから……全然納得できなかった。あの方が王になることも望まず、連邦の長となることもなさらず、ただ……魔王の一介の従者であろうとすることが……。納得できなかったし、許せなかった…!」 サンシア…。 思わずその名を呟くカーラにちらっと目を向け、サンシアが小さく微笑んだ。 「だからね、コンラート様の忠誠をそこまで得られる魔王とは一体どんな存在なのだろうと、ずっと考えてきたの。そしてご本人を拝見して……正直ますます訳が分からなくなったわ。だって……美しくて愛らしくて、そして可愛い、でも、丸っきりただの子供じゃないの!」 そこまで言って、サンシアの表情がふと変化した。 「ただね。……あの宰相閣下にお会いして、ようやく答えが出た。そんな気がするのよ」 フォンヴォルテール卿グウェンダル。眞魔国宰相閣下。 ゆっくりと、舌の上で転がすようにサンシアがその名を口にする。 「黙って立っているだけで他の者を圧倒するあの威厳……。武人としても政治家としても、筋金入りの実力者だわ。あの方こそが、この国の真の支配者ということよね。無垢な王を立て、実際の権力は宰相閣下が全て握っておられる。政治、経済、外交、全てがあの方の指導の下に計画実行されているのだわ。私達はまだ、この国の繁栄の一端を垣間見ただけだけど、それでもあの方がすさまじいまでの行政手腕の持ち主であることは分かる。さすがコンラート様の兄上よ! つまり、コンラート様はあの兄上と共に歩むことを決めたということなのよね。そして眞魔国の支配者の1人として立つことをお選びになった。……納得はできないけれど、理解はできるわ。そして私達が実際に交渉し、そして手を結ぶべきはあの宰相閣下ということよ」 交渉相手として、不足はないわね! サンシアの声に気合がこもる。 それは違う。全然違う。サンシアは大事な事を分かっていない。 カーラは同僚の思い違いに、思わず腰を上げかけた。が。 「待て待て! 黙って聞いておれば、何たる雑言!」 カーラよりも先に、憤然と声を上げたのはクォードだった。 「あら、何よ」 「何よ、ではないわ、馬鹿者!」 馬鹿者ですって!? 顔色を変えたサンシアが勢いよく立ち上がり、クォードと睨みあう。 「そなたの言に寄れば」クォードが言葉を繋ぐ。「姫はまるで傀儡の王ではないか! 姫はあの宰相ごときに操られるような方ではないわ! かの姫は神にも等しい力を有された、偉大な存在なのだぞ!」 「魔力が強いからといって、政治や経済にも強いとは言えないでしょ! 姫、姫って、恋に目が眩んで頭まで緩んじゃったんじゃないの、あなた!」 「な、何ぃ……!」 「待ってサンシア、それにクォード殿も!」 黙っていられずにカーラは2人の間に割り込んだ。 「黙っておれ、カーラ!」 「そうね、ちょっと退いててちょうだい、カーラ。少しこの男に自分のバカさ加減を教えてやらなきゃならないわ」 「バカだと……っ!? おのれ、愚かな女の戯言と我慢しておればいい気になりおって! もはや許せん!」 クォードの手が剣の柄に掛かる。 「その剣を抜いたらどうなるか分かってるの!? このマヌケ!」 「貴様ぁ……っ!」 「お前達、いい加減にしろっ!!」 鋭い声が、その場に集った全員の耳を劈いた。 サンシアとクォードはもちろん、全員の視線が声の主に向く。 カーラが、腰に両手を当て、仁王立ちしてサンシアとクォードを睨みつけていた。 戦場で敵に対して見せていた炯炯と燃える眼差しを向けられて、さすがのサンシアとクォードもバツが悪そうに首を竦める。 「私達は遠いこの国まで、一体何をしにやってきたのだ!? 未だ飢えと戦の恐怖から脱し得ない民を救い、荒れた国土を元に戻し、平和な国家を造り上げるためだろう! 私達はそのために、それぞれの持てる力を捧げると誓い合ったのではないのか? 確かに私達はそれぞれ生まれも違う、育ちも違う、経験も、技術も、考え方の根本から違う。だがだからといって、いがみ合って何になるのだ! それも、これから外交交渉に入ろうという他国の王の居城で!」 そこまで言って、カーラはふうと息を吐き、それから部屋を見回した。 妹に従兄弟。長年の友人、そして新たな同僚達が自分を見ている。 1度、きちんと言わなければならないと考えていた。 そう、カーラは話を切り出した。 「皆も聞いてくれ。……以前、コンラートも言っていた。価値観や主義主張の違う者が集い、1つのことを為すのは難しい。だがそれぞれの違いを受け止め、理解し合うことができれば、結集されたその力は元の何倍も強力なものとなり、大きな結果を生み出すこともできるだろうと。だが逆に、それぞれの考え方の違い、立場の違いを認めることができず、ただ己を主張するばかりでぶつかり合えば、1人1人がどれほど大きな能力を持っていても、力は一向に発揮されることなく、為すべきことは為されぬまま崩壊するのだ、と。……皆もすでに分かっていると思うが、私達は今、大きな局面にあるのだ。それから……私達は確かにこの国を調査するためにやってきた。だが同時に、私達の言動を通して、この国の人々が新連邦のありようを見極めようとしているのだということも、肝に命じておくべきだと私は思う」 クォード殿。 カーラの呼びかけに、クォードが下がり気味だった視線を上げる。 「サンシアの言葉は少々乱暴だが、その意味するところは正しいと私も思う。誇りを捨てろなどとは言わない。だが、自分がかつて一国の王太子であったということを基本にして万事を判断するのは、そろそろ止めた方がよろしいだろう。それからサンシア」 何よ、とサンシアがカーラに挑戦的な眼差しを向ける。 「あなたは本当に頭が良い。おそらく私などより遥かに世界が見渡せるのだろう。だが、この世界はあなたの物差し通りに存在しているわけでも、動いているわけでもない。自分の判断を過信しないことだ。……軍を指揮し、敵に勝利するため、それなりに頭を働かせていた私の目から見ると、あなたの自信は少々危うく感じられる」 「……っ」 「魔王陛下のことにしても、あの方は、ただ可愛いいだけの存在などではない。ユーリ、陛下は、王として考え、王として判断できる方だ。私はそう思う。あの宰相閣下も、決して陛下を己の傀儡にするおつもりはないはずだ。もちろんコンラートも」 「じゃあカーラ、あなたはあの魔王陛下がご自分で政策を練り、臣下達に命令を下し、そしてこの繁栄を作り上げたと言うの? あの方は魔族だけれど混血で、実際の年齢も大して人間とかけ離れている訳ではないのでしょう? あの陛下に、自分の何倍もの人生を生きてきた臣下達を動かす政治力があると、あなた本当に考えているわけ?」 「政治力……」 それは、とカーラが言い淀む。 「そうよ。あの美貌と双黒、確かに神秘的な方よね。でもそれだけじゃ国を動かすことなんてできないわ。あのお若い陛下に、宰相閣下やコンラート様を始め、実力を有した臣下達が従わざるを得ないような説得力、もしくは求心力があるかしら?」 ある、と言い掛けて、その瞬間カーラの脳裏に宰相フォンヴォルテール卿の姿が浮かんだ。 ユーリを愛しむコンラートは別にしても、フォンヴォルテール卿は……。あの絶大な威厳。王者の気風。ユーリは、あの宰相の本物の忠誠心を勝ち取ることができているだろうか……? 「ある」 思わずカーラの息が止まった。 その言葉がどこから発せられたのか探るかのように、カーラは意味もなく頭を巡らせた。 「だが、政治力だの威厳だの求心力だの、そんな言葉はどれも当らない」 語っていたのはクロゥだった。 「名前の付けようのない、俺達のような者には理解することもできない力が、あの方にはある」 「クロゥ……」 「俺も、俺とバスケスも、サンシアと同じことを思った。初めてこの国に来て、あの王を目にした時」 全員が今、クロゥを見つめている。 「これが魔王かと、ただもう呆然とした。これが、この幼い子供があの『魔王』なのかと。宰相閣下とコンラートがいなければ、王として立つことなど到底できない無力な存在にしか見えなかった。だから、コンラートがどうしてこうまでこの王に入れ込むのかさっぱり理解できなかった」 「入れ込む?」 サンシアが不思議そうに言葉を挟んだ。 「養い親として可愛がっているとは聞いたけれど……」 「違う」 クロゥが即座にサンシアの言葉を否定する。 「コンラートは俺にはっきりと言った。ユーリ陛下こそ……この世界を手にするに相応しい、偉大な王だと」 「コンラート様が!?」 驚きの声を上げるサンシア、そしてずっと話の展開に耳を傾けている他の者─クォードやカーラ達ですらも、意外な思いを抱いてクロゥに目を向けた。 「ああ、そうだ。そして…サンシア、お前は重大な勘違いをしている」 「……かん、違い……?」 「眞魔国の現状、少なくとも人間との友好は、宰相閣下の政治構想に元々存在してはいなかった。宰相フォンヴォルテール卿は、俺達にはっきりと仰った。自分は、人間を滅ぼすつもりだったと。そのための準備はほぼできていたのだ、と……」 全員が声も上げずに、ただ目を瞠く。 あの宰相閣下が人間を滅ぼそうとしていた。カーラは慄然として己の二の腕を、まるで自分自身を抱きしめるように強く掴んだ。 「前王陛下の時代が終わるまで、フォンヴォルテール卿はもちろん、宮廷のほとんど全ての貴族達武人達が、人間を滅ぼすべき敵だと決め付けていたんだ。もし……ユーリ陛下の登極がなければ、人間と対等に友好を結ぶという、あの方の理想がなければ、そのために、陛下とコンラートが手を携えてなした努力がなければ、眞魔国は今も人間を滅ぼすべき敵とみなし、もしかしたら今頃は戦争が起きていたかもしれない。ユーリ陛下がおられたからこそ、眞魔国は今のこの繁栄を手にし、そして人間は希望を手にすることができたんだ。それに……宰相閣下はこうも言っておられた。確かに最初は陛下を傀儡として利用するつもりだった。だが…陛下は、大人しく飾り物になってくれるような子供ではなかった、とな」 部屋の中はしんと静まって、全員がソファにゆったりと座って語るクロゥを見つめている。 「……そういった内容のお話を、フォンヴォルテール卿と直になさったのですか?」 ラースの質問に、クロゥが頷いた。 「俺とバスケスの2人で。フォンヴォルテール卿と酒を酌み交わしながらじっくりと話をさせて頂いた。今思えば恐れ多いことだがな。あの時は……コンラートを取り返したい一心で、かなり気を張っていたというか、魔族に負けてたまるかと意地になっていたというか……」 くすりと苦笑を浮かべるクロゥに、文官達がほうと息を吐き出した。 「そのお話、先に伺うことができて助かりました。知らないままでいれば、対応を間違えかねなかった……。しかしクロゥ、そういった眞魔国の状況を、あなたはどうして事前に教えてくれなかったのですか?」 まったくだと、文官達はもちろん、カーラ達も頷いている。 「まずその目でこの国を見なければ始まらないと思ってな。この国に、我々の常識など通用しない。ただ話だけを聞いて、頭で思い描いているだけでは何も分かったことにはならない。ならばこそ、先ずは見ることだ。そう考えたから、事前に何も言ってはおかなかった」 なるほど、と頷くラースとは逆に、サンシアは「それでも」と不満の声を上げた。 「私にはやっぱり納得できないわ。だってあの陛下は、あまりにも子供よ? それこそここにいるアリーと精神的に全く差がないといって良いほど幼い、未熟な王よ。違う?」 「お前の言う通りだ。サンシア」 きっぱりと同意されて、反ってサンシアが驚きの顔になる。 「ユーリ陛下はまだまだ未熟な王だ。側近の方々も、コンラートも、そして誰より陛下ご自身がそれを自覚なさっておられる。やることなすこと、そして口に出す言葉、全てが未熟で幼い。だが……」 いつか、必ず分かる日が来る。 サンシアの目を真っ直ぐに見て、クロゥが言い切った。 「………いつか……?」 「そうだ。何が変わる訳でもなく、何が起こる訳でもなく、ただあの陛下と共に過ごしていれば、いつか必ず、この王が、この王であるならばと、信じられる時が来る」 「クロゥ」 呼びかけるカーラに、クロゥが視線を向ける。 「お前も、そうだったのか……?」 ほんのわずか、カーラを見つめたクロゥが、ゆっくりと大きく頷いた。 「ああ。こんな子供と馬鹿にして、こんな子供にどうしてコンラートがと腹を立てて、だが、この国の人々と、そして陛下ご自身と触れ合う内にいつの間にか俺は変わっていった。そして…最後にはこう考えるようになった……」 もしもこの世界に救世主というものが現れるなら。 「それは、眞魔国第27代魔王、ユーリ陛下を置いて他にないだろう、と」 カーラは自分の喉がごくりと鳴る音を聴いた。 知らなかった。長年の友人が、その内側でこんな変化を起こしていたなど。 クロゥは元々魔族嫌いで知られた男だったのだ。それが……。 あの時、眞魔国を初めて訪れて帰ってきた時も、その後も、ユーリ達が砦を訪れ、共に過ごしていたあの時も、クロゥはもちろんバスケスも、そんなことは一言も口にしなかったし、態度にも表すことはなかったはずだ。むしろあの砦での日々、クロゥもバスケスもユーリに対してそっけないほどだったのに……。 自分は。 ふとカーラは思った。 自分は、ユーリを本当に分かっているだろうか。 彼が好きだ。ユーリが、とても好きだ。 だがそれは、王への尊敬だっただろうか? 確かにあの存在に強い畏怖の念を覚えたことはある。しかしそれは、彼の神秘的なまでの美貌と、彼の力が起こした神の技にも等しい奇跡があって故ではなかっただろうか。 今あの時の衝撃を乗り越えた自分が彼に感じているのは、ただ友人への、それもたまたま強大な魔力を持ってしまった、しかし、弟の様に可愛い友人への親愛の情ではないのだろうか? コンラートの強い思いを私は……単なる溺愛だと考えていなかったか? 「王として考え、王として判断できる」と口にしていながら、自分は本当にユーリを「王」として見たことはあっただろうか……? 「……分からないわ。私には分からない……」 「まだ分からなくていい」 呆然と呟くサンシアに、クロゥが静かに言った。 「ただ俺の言葉を覚えていてくれ。今はそれだけでいい。……それから」 言って、クロゥはふとその表情を厳しいものに変えた。 「クロゥ…?」 カーラの呼びかけに、クロゥが瞳を上げ、全員の顔を見回す。 「先ほどバスケスとも話し合ったんだが……事前に教えておきたいことがある」 魔王陛下の側近の1人である、重要な人物の存在について、だ。 クロゥの発言の意味を掴みかねて、全員がきょとんとクロゥを見つめた。 「重要な人物、だと?」 クォードもどこか間の抜けた声を上げる。 「王である姫の下に宰相がいて王佐がいる。そしてコンラートがいて……他にまだ重要な立場にある者がいるのか?」 「いるんだよ」 バスケスがここで初めて発言した。 「さっきの迎えの中にゃいなかったがな。けど……この城にいて、あのお人と関らずに済むなんざあり得ねえしな」 「あのお人だと?」クォードの声に力が増した。「一体どのような人物なのだ? 側近としての地位はどの程度だ? 姫のご信頼は篤いのか? あの宰相との力関係については……」 「魔族の人々が自分達の国、眞魔国を呼ぶときに、どのように表現するか知っているか?」 クォードの言葉を容赦なく遮って、クロゥが言葉を続けた。 表現? 唐突な質問に、全員がきょとんと目を瞠った。 「双黒並び立つ眞魔国。そう呼ぶんだ」 「双、黒、並び立つ……?」 それはつまり。 考えて、カーラは胸が跳ねるように鼓動を打つのを感じた。 双黒といえばユーリだ。 魔族の絶対の支配者。魔王。 そのユーリと……「並び立つ」!? 「つまり……」 ロサリオが、懸命に冷静さを保った声で言った。 「眞魔国にはもう1人、双黒がいる、ということなのですか!?」 そしてその人物は。 サンシアがゆっくりと続けた。 「魔王陛下の隣に並んで立つことができる人物、ということになるわけね?」 「それだけじゃない」 クロゥの声が、厳かなまでに低く全員の耳に響いた。 「その方は、この眞魔国において……」 唯一無二、絶対に敵に回してはならない、最も恐るべき人物だ。 「それは……! カーラが口を開いた、その時だった。 ドアの外から、入室を知らせる金具を叩く音が響き、同時に扉が開かれた。 迎えに来た武官に案内されて回廊を進む。 できることなら、クロゥから初めてその存在を聞かされた人物の情報をわずかなりと得たいと、カーラはもちろん、クォードもラースもサンシアも望んだのだが、結局クロゥもバスケスも、中途半端な話はしたくないと口を閉ざしてしまった。 ユーリの側に、共に並んで立つ人物がいる。それがコンラートではないということに、カーラは自分でも驚くほど衝撃を受けていた。あのお陽様のようなユーリの隣に、クロゥが「恐るべき」と評する人物がいる。それがあまりにも意外で、そして、やはり自分達は、ユーリのこともコンラートのことも、そしてこの国のことも、本当は分かっていなかったのだと痛感した。 回廊を進む内、すっかり方向感覚を失ってしまった自分にカーラが内心焦りと恐怖を感じるようになった頃、彼等はようやく巨大な扉の前に立った。 連れられていったその部屋は、どうやら客室であるようだった。 広大と呼んで良いほど広く、天井の高いその空間は、木の渋い色合いが生かされた落ち着いた造りの部屋だった。全体の造作はもちろん、シャンデリアも、踝まで埋まる厚い絨毯も、美しく波打って纏められた豪奢なカーテンも、飾られた彫刻やタペストリー、そして蝋燭立てにいたるまで、華麗さや華々しさは極力押さえられ、重厚にして荘厳な雰囲気に溢れている。 四角い部屋の二方は、一面がガラス窓で覆われていた。そのガラスの向こうには、初春のこの季節にも関らず、満開に咲き乱れる花々に溢れた庭園が、遥か彼方まで広がっていた。高々と水を噴き上げる噴水も見える。 どっしりとした雰囲気の部屋の向こうには、軽やかにして鮮やかな原色の花々が咲き誇る庭。そして輝く昼下がりの柔らかな陽射し。 その部屋は、足を踏み入れた者の心を落ち着かせると同時に浮き立たせる、不思議な、だが何とも心地良い雰囲気に満ちていた。 部屋の中心には、やはり渋く落ち着いた色合いの巨大なソファセットが据えられており、そしてそこにはユーリ始め魔王陛下の側近中の側近の面々、そしてヒスクライフが腰を下ろしていた。 では、この部屋で、対等の友人同士が語らうように話をさせてもらえるのだ。 カーラはホッと息をついた。 自分達の立場を弁えろと言われたも同然の出会いからして、実は、高い場所に玉座が据えられた謁見の場に連れて行かれるのではないかと考えていたのだ。 最初に自分達が与えた印象の悪さを思えば、そして、国同士が未だ真の「友人」となっていないことを思えば、これは破格の待遇だろう。 「少しは休めたか?」 ハッと見ると、コンラートがすぐ前に立っていた。 軍服姿のコンラート。 あまりにも見慣れない、自分達にとっては違和感しか覚えることのできない姿……。 「さっきはろくに紹介も挨拶もできなかったからな」 そう言うコンラートに導かれて、彼等はソファに向かって歩を進めた。 ユーリを含め、座っていた人々がすっと立ち上がる。 「先ほどは慌しい状態で失礼した」 真っ先に口を開いたのは宰相閣下だった。 「改めて貴公等の来訪を歓迎する旨伝えたく、ここにお出で頂いた。これからの予定というか、貴公等の要望なども事前に聞いておきたかったのでな」 鋭い眼差しで見据えられ、自然に頭が下がる。カーラが隣に立つクォードをそっと見遣ると、下げた頭を戻す男の表情がどこか悔しげに見えた。誇り高いクォードにすれば、負けたような気がするのかもしれない。 「お心遣い、痛み入る」 宰相閣下の威厳に張り合うかのように、クォードが重々しく声を上げる。 「我々の方こそ、先ほどは失礼致した。ひめ…いや、貴国の陛下のあまりのお美しさに、少々舞い上がってしまったと思われる。どうかお許し願いたい」 何を他人事みたいに言ってるのよ。サンシアが小さく呟く。 「本当に、よく眞魔国を訪ねてくれました」 進み出てきたユーリが「魔王」の笑みを浮かべて、改めて歓迎の言葉を口にした。 今度はクォードも、率先して深々と腰を折る。カーラも腰を屈めながらそっと目線を動かすと、妹と従兄弟がやはり神妙な様子で頭を下げている姿を確認できた。 「どうぞ座ってください。そして、これからのこと、魔族と人間の友好のために必要なことについて、話し合っていきましょう」 配置された中で最も上座のソファ、その真ん中にユーリが座り、それと直角の位置に配されたソファの、最もユーリに近い場所を宰相閣下が、その対面を王佐閣下が占めた。そして宰相閣下の隣にはフォンビーレフェルト卿が座っている。コンラートは最初、ユーリのすぐ後ろに立とうとしたのだが、「ヨザックもクラリスもいるのだし、お前も座れ」という兄宰相の言葉と、それに熱心に同意する主に従って、今はフォンクライスト卿の隣に座っている。ちなみにヒスクライフは、眞魔国の人々とカーラ達の間の、1人掛けのソファにゆったりと腰を下ろしていた。両国の仲介者としての立場を表しているのだろう。 カーラ達新連邦組は、ユーリの真正面に1列、そしてそのソファの左右、わずかに下がった位置に置かれたソファに座っていた。もちろんクォードが、真っ先にユーリの真正面にどっしりと腰を落ち着けた。クォードの隣にはカーラがいる。その反対隣にはラースとロサリオが、そしてカーラの隣にはサンシアとタシーが座っていた。彼等の後ろ、いわば従者の位置にあるソファの片側にはにはクロゥとバスケスとレイル、そしてもう1方にはアリー、アドヌイ、ゴトフリーがいる。いつもなら当たり前の様にカーラの隣に座ろうとするアリーは、さすがに今回は思うところがあったのか、大人しく後方に下がった。今は隣に座るアドヌイとゴトフリーに、何か懸命に囁きかけている。 部屋を出る前、アドヌイとゴトフリーの2人は、自分達はとてもそんな場所へはいけない、荷物の整理でもしていると言い出した。カーラにしても、すっかり萎縮している2人の心情は理解できるし、サンシア達も同行する必要はないと言っていたのだが、アリーが「私達は共に同じ目的でやってきた同胞同僚でしょう!? 差別しないで!」と言い張って共に行動することになった。カーラにすれば、差別ではなく立場の問題だし、2人の気持ちも分かってやれと言いたかったのだが……。 お茶とお菓子が配られ、改めて紹介がなされ、それがクロゥとバスケスの番になった時。 立ち上がり、頭を下げた二人に、宰相フォンヴォルテール卿が声を掛けた。 「お前達も、無事で何よりだった、クロゥ・エドモンド・クラウド、そしてバスケス。お前達両名には、礼を言わねばならんと考えていた」 「閣下……?」 思いもかけない言葉に、クロゥとバスケスのみならず、カーラ達も目を瞠る。 「お前達は約束を果たしてくれた」 「約束、でございますか……?」 そうだ、とフォンヴォルテール卿が頷く。 「コンラートのことだ。……コンラートの身は、自分達が命に代えて護る。必ず無傷で眞魔国に帰す。そう約束してくれただろう? お前達はその約束を護ってくれた。……コンラートの兄として、礼を言う」 「兄上の仰せの通りだ。僕も弟として礼を言いたい」 「閣下……、フォンビーレフェルト卿……!」 「グウェン…ヴォルフも……」 二人に向かってそう告げる フォンヴォルテール卿とフォンビーレフェルト卿に、クロゥとバスケスはもちろん、コンラートも思わず声を上げていた。そしてカーラ達もまた、愕然とその姿に見入っていた。 コンラートの兄弟の情、家族の絆、戦場に1人ある家族の身を、彼等がどれほど案じていたか。 分かっていたはずなのに、目先の仕事に必死になって、遠く離れた家族の思いをろくに考えようともせずコンラートを引き止めていた自分に、カーラは赤面する思いで視線を伏せた。 「グウェンの言う通りだ。クーちゃん、バーちゃん、おれ達のコンラッドを護ってくれて、本当にありがとう!」 「陛下…!」 声をあげ、それからすぐにクロゥとバスケスは揃って勢いよく頭を下げた。 「滅相もございません! 我等の我がままをお聞き届け下さり、コン…いえ、ウェラー卿を派遣して下さいました陛下、そして皆様方のご温情、我等心底より感謝申し上げております!」 クロゥ達のその言葉を耳に、姿を目にした瞬間、カーラの胸がざわめいた。 そしてすぐ、クロゥとバスケスが今表した感謝の念が、本来ならここに到着してすぐ、どんな言葉よりも先に、自分達全員が揃って、魔王陛下と眞魔国に対して表明すべきものであったことに気付いた。 コンラートを「ウェラー卿」と呼び、自分達が生きる世界も立場も、全てが違っていることをちゃんと理解していたクロゥと違い、自分達は、未だにコンラートを自分達の仲間であると思っている、いや、思いたがっているのだ……! コンラートは、魔王陛下の命によりシマロンに派遣されていたにすぎない。 分かっていた筈なのに。おばあ様も、ちゃんとそう仰っていたのに。私はどうしてこうもいつまでも未練がましく……! 己のふがいなさにカーラが唇を噛んだ。その時、だった。 「ホントにはた迷惑だったよね。それにしても、こんなにぞろぞろ揃ってて、魔王陛下に感謝してるのはクロゥとバスケスの2人だけなのかい?」 突如背後から声が上がった。 と。 次の瞬間、魔王陛下を除いて、宰相閣下、王佐閣下、コンラート、そしてフォンビーレフェルト卿が、ざっと音を立てて一斉に立ち上がった。魔王陛下の背後に立つグリエとクラリスもさっと背筋を伸ばす。 他国の、それも人間であるヒスクライフまでが立ち上がり、姿勢を正すその光景に、一瞬驚愕した後、ハッと気付いたカーラもまた慌てて立ち上がった。ほとんど同時にクォードが、そして同じソファに腰掛けていた文官達も相次いで立ち上がる。視線をわずかに巡らせば、クロゥとバスケスはすでに後方にいるであろう人物に向かって頭を垂れていた。 ユーリの側近全員─もちろんコンラートも─が姿勢を正している姿を目にし、それから高鳴る胸の鼓動を感じながらゆっくりと振り返る。 その視線の先に。 「……双黒……!」 クォードの押し殺した、だが感嘆の思いを込めた呟きがカーラの耳を打った。 そこにいたのは、1人の少年だった。 どう見てもユーリやフォンビーレフェルト卿と同年代、人間ならば15,6歳の、まだまろみを帯びた頬を持つあどけない少年が、質素な服にこれは漆黒のローブを軽く纏い、それを颯爽となびかせながら足取りも軽やかに近づいてくる。 その髪は紛れもない黒。掛けた眼鏡のレンズの奥に見える大きな瞳も黒。ユーリと同じ、紛うことなき双黒だ。 少年は、ユーリやフォンビーレフェルト卿ほどではないが、それでも見事なまでに整った顔を真っ直ぐ正面に向けている。そして、カーラ達には目もくれずに横を通り過ぎると、魔王陛下の元、陛下と同じソファ、そのすぐ隣に迷わず腰を下ろした。 その間、魔王陛下の側近達は、高貴な存在への礼をとり、胸に手をあて、頭を下げ続けていた。少年がソファに座って初めて、彼等も元の体勢に戻る。 「いいよ、皆、座って」 少年からその言葉が出て、ようやく魔王陛下の側近達がソファに腰を下ろす。カーラ達も、それに続いてあたふたと席についた。 そんな彼等の様子にざっと視線を走らせた少年が、「ふーん」と軽く肩を竦めた。 「どうもイマイチだな……。ま、いいか。ああ、クロゥ、バスケス、久しぶりだ。君達も元気そうで良かった」 声を掛けられて、「はっ」と2人が畏まる。 「ありがとうございます。猊下もお変わりなく、何よりでございます」 猊下……!? クロゥが発した言葉に、カーラは目を瞠った。 「猊下って……教皇や、大神官に対する敬称じゃない!? どういうこと……?」 囁いてくるサンシアに、カーラも「分からない」と小さく首を振る。 「とにかくあやつが……クロゥの言っていた『恐るべき』人物だということか……?」 クォードも小さな声で会話に加わってくる。 「年齢はしかとは分からぬが、それでも魔族としてはまだ子供であろうが……」 そうだ。どれほど人間より長い年月を生きていたとしても、魔族の精神年齢はほとんど見た目通りだと聞いた。つまり人間の目で15歳に見えれば、その魔族は人間の子供と同じに扱えば良いのだ。生きてきた年数で考えると、対応を間違えてしまう。 そう考えれば、ユーリと並ぶその少年は、やはり人間の15,6歳の少年と同じであるはずだ。それがどうして……。 コホン、と軽い咳払いの音がした。 人間達の注目を受けた王佐閣下がすいと立ち上がり、少年の傍らに立つ。 「わが国最高位の聖職者にして大賢者、ムラタ・ケン猊下にあらせられます。くれぐれもご無礼なきように。よろしいですね?」 「……聖職者……!」 クォードが声を上げ、そしてカーラもまた、驚きに目を瞠って正面に座る少年を見た。その様子がよほどおかしかったのか、少年が苦笑を浮かべる。 「そんなでっかく目を見開いて、まじまじ見つめられると困っちゃうなあ。新連邦にも聖職者はいるはずだよ? 挨拶もできないほど驚くような珍しい存在とは思えないけどね」 その言葉に、カーラ達はハッと居住まいを正した。 「ご、ご無礼致した!」クォードが慌てて声を張り上げる。「魔族にとって、あ、いや、貴国の方々にとって、ひ…魔王陛下こそが神に等しい存在だとばかり思っており、よもやその……。そ、それに、『大賢者』と仰せなのは……」 「名誉職さ。気にしない、気にしない。で? 君達がシマロン、じゃもうないのか、新連邦から来たって人達?」 問い掛けられて、クォードは改めて少年に向かって相対した。 「お初にお目に掛かる。我等、この度新連邦より参った、対眞魔国友好条約締結事前訪問団一同でござる。それがしは代表を勤める、元ラダ・オルド王国の王太子、クォード・エドゥセル・ラダと申す。よろしくお引き回しを願いたい」 頭を下げるクォードに、「ああ!」と少年神官が何か思いついたように声を上げた。 「君がいきなり陛下に抱きつこうとしたとかいう、ヘンな人か」 「……ぐ」 酸っぱいものを大量に口にしたかの様な顔のクォードに、少年、ムラタ・ケン猊下が再び「ふーん」と声を上げた。 「どうも僕の歓迎意欲を刺激しない顔ばっかりだなー」 「お前の歓迎意欲が刺激されると……どうなるんだよ?」 隣に座る魔王陛下が、うさんくさそうに眉を顰めて質問を投げ掛ける。 「思いっきり苛めたくなる」 「やめんか!」 「クロゥとバスケスが初めて来た時はイロイロ面白かったのにな。……君のものであるウェラー卿を『取り戻そう』という、迷惑この上ない決意の割にアバウトで行き当たりばったりな行動が先ず何より興味深かったし、この城に来てからの空回りしっぱなしの気合も見てて楽しかった。一旦懐に入れると突き放せない君のことも心配だったし。でも、見たところ2人もすっかり落ち着いちゃって、これじゃ苛めがいがなさそうだ」 カーラが横目で確認すると、クロゥとバスケスが二人揃ってホッと安堵のため息をついていた。……そんなにあの少年猊下に苛められたのだろうか……。 「今度のはどうも……」 言いながらムラタ・ケン猊下は何気なく手を伸ばすと、魔王陛下の前にあったカップをひょいと取り上げ、くいとお茶を飲んでしまった。 「あ! それ、おれのお茶だぞ!」 「けちけちしない。減るもんじゃなし」 「減るだろ! てか、なくなってるだろ!」 「魔王ともあろうものがせこいこと言うなよ」 何なんだろう、この人物は。どうもよく分からないし、クロゥの言う『恐ろしさ』がどこにあるのかもよく分からない。カーラは内心で首を捻った。 「さて、と。僕はそろそろ行くよ」 改めて用意されたお茶を飲んだムラタ猊下が、いきなりそう宣った。 「話はこれからだぞ。明日からの予定とか……」 「言っただろ? 歓迎意欲が湧かないんだよ。僕としてはダード老師という人に会いたかったんだけど、ダメだったしね。官僚との話はフォンヴォルテール卿やフォンクライスト卿がいれば良いし、君の友達の野球仲間は何だかおどおどびくびくしてて面白みがない。あちらでウェラー卿のお嫁さん候補だったとかいう元王女様というのも……」 いきなりの言葉に、カーラの体がソファの上で跳ねた。ハッと顔を上げると、ムラタ猊下が真っ直ぐ自分を見ている。やっぱり今の「元王女様」というのは自分のこと……。 「……何としてもウェラー卿をモノにしてやる! というぎらぎらした意欲が全く感じられないんだよね。……事件の起きそうな予感が全然なくてつまらない」 「………猊下……」 「村田ー、お前なー」 コンラートが額に手をやり、魔王陛下が呆れたような声を上げる。仲間達の視線が一斉に自分に向くのを感じたカーラが、何か言い返さねばならない、と咄嗟に口を開く。が。 「という訳で!」 カーラに先んじてムラタ猊下が声を上げた。 「この僕の登場がなければ如何ともしがたい事態が起こらない限り、僕は今回のことには関らないこととする」 「お前の登場がなければって、どんな事態だよ?」 「今言っただろ? 事件に決まってるじゃないか」 魔王陛下の質問に、にっこりと少年聖職者が微笑む。 「例えば。友好条約締結の事前調査に訪れた他国の使者達が、突如謎の死を遂げる! とか」 「…………」 「…………」 「…………」 「明らかな殺人、しかし現場は密室。流れる血潮の中に苦悶の表情を浮かべて息絶えた使者である死者。そして彼、もしくは彼女の伸ばした指の先には、さらに謎を深めることになるダイイングメッセージが!」 呆気にとられて見つめる人々の視線を他所に、『最高位の聖職者にして大賢者』の少年はさらに勢いづく。 「被害者は外交使節、事は国際問題だ。しかし犯人の手がかりは全くなく、無能な警察の捜査は難航してしまう。ところが何と! そこに第二の殺人が起こってしまった! これは紛れもなく、友好条約締結のための事前調査団を狙った連続殺人だ。事態は混迷を深め、人間達は恐怖のどん底へ叩き落されてしまう。そこへ登場するのが探偵であるこの僕ということさ!」 「………いつ探偵になったんだよ」 「申し訳ありません、猊下、その場合捜査するのは警察ではなく俺の指揮下の兵なんですが……」 魔王陛下とコンラートが相次いで発言するが、ムラタ猊下は見向きもしない。 「密室、そしてダイイングメッセージ、巧妙に仕組まれた罠、綿密に編まれたトリック、入り組んだ時刻表の穴を次々に解明していく名探偵村田健!」 「時刻表トリックってジャンルが成り立つのは日本だけだって勝利が言ってたぞー」 「というか、そもそもありませんし、時刻表」 「犯人を追って地元の名所旧跡を渡り歩き、お土産もしっかりゲットしつつ……」 「人の話を聞けー。ってか、火サスのトラベルミステリーかよ!」 「今もやってるのかい? それ。でも、ストーリーの進行と共に協力してくれた地元のPRをするのは製作者側の礼儀ってものだよ?」 「協力って何だ! 製作者って何の製作だ!?」 「そしてついに! 探偵は真犯人を突き止める。彼、もしくは彼女の犯行を問い詰めるのは、もちろん海に面した断崖絶壁の上でなくちゃならない。この場合、絶対にお化け屋敷の中や、走行中のジェットコースターに乗りながら、という設定は許されない。どうしてだか分かるかな、陛下」 「……普通あり得ねーだろ、それ」 「犯人がその場で語るのは、先ず哀しい生い立ちからだ。それを興味本位のお化けやお客さん達に囲まれて、というのは人道的に許されないだろう? そして、ジェットコースターの中では下りの度に話が途切れてしまうし、下手をすれば恐怖のあまり何を話していたのか犯人が忘れてしまう可能性もある」 「だからあり得ねーって」 「断崖絶壁の上、荒れ狂う海を見つめ自己憐憫に浸りながら、警察と弁護士にすればいい話をご丁寧に探偵に聞かせる犯人。辛く切ない過去。そして犯行に至った動機。そして全てを語った犯人は、自分の命で罪を償おうと海へ身を投げようとする。それを察知し、咄嗟に止める僕!」 「ええっ!?」 「…………そこでどうしてそんな驚きの声が出るのかな、ウェラー卿?」 「あ、申し訳ありません。断崖絶壁と仰せだったので、てっきり犯人を背後から蹴り落とすものだとばかり……」 「探偵が犯人を始末してどうするんだよ?」 「猊下なら……あ、いえ、失礼しました。俺は日本のサスペンスドラマの展開はよく存じておりませんので」 「犯人の命を救って、イロイロ尤もらしい御託を並べて感謝されて、でもって警察に引き渡せばさらに感謝されて、僕の株はぐんと上がるじゃないか」 「ああ、そういうことならよく分かります」 「……何でかなー。理解してもらったのにすっきりしないこの気分は」 「あのな、村田」 魔王陛下がうんざりした声を上げる。 「それでお前、一体何が言いたいんだよ」 「何度も言ってるだろ? そういうわくわくするような楽しい事件が起こらない限り、僕に面倒を掛けるんじゃないよってことさ」 じゃね! 来た時よりも唐突に、少年聖職者はローブを翻して去っていった。 「……………一体……何だったのだ、今のは……」 クォードの呟きに、カーラを始め、同席していた同僚達が一斉に首を横に振った。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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