「おおっ、姫っ!!」 額に手を当て、天を仰いだカーラの体がさらに仰け反った。 「お会い致しとうございましたぞ! ああ、運命はかくも我らを結びつけたもうか!」 何をワケの分からんことを、と、口を開きかけたカーラ、そして彼らを取り巻く多くの人々の目の前を、絢爛たる衣装を身に纏った美丈夫が突進していく。 「あ、おっさん」 アリーと並んで、一瞬きょとんとしていた魔王陛下が思い出したように声を上げた。同時ににっこりと笑みを男に投げ掛ける。 「おおおっ、姫ぇっ!!」 男、クォードが大きく両手を広げ、さらに加速をつける。 あ、抱きつく。 皆がそう思った一瞬後のことだった。 人々の目の前で、クォードが実に情熱的に、熱烈に、自分自身の身体を抱きしめていた。 わずかな間を置いて。集った人々の視線が、哀れな男からほんのちょっとだけ横にずれた。 コンラートが立っていた。 新連邦の人々には見慣れることのない軍服を纏って。 そして。 魔王陛下をぶら下げていた。 陛下の背後から両の脇に手を差し入れ、持ち上げ、クォードの突進と抱擁を避けたのである。 コンラートに危険な抱擁の寸前で救出された魔王陛下は、大きな瞳をきょとんと瞠り、ぷらぷらとぶら下がっている。 「……き、き、き、さ、ま、あ〜〜〜……!」 自分自身を抱きしめたまま、恨みつらみを吐き出す怨霊のような低い声が漏れてくる。 その声を聞きながら。 コンラートは穏やかに、礼儀正しく、紳士的に、爽やかに、いかにも善意溢れる好青年らしく。 にっこりと笑みを浮かべた。 「させるか、阿呆」 あちらの地にいた頃は、クォードに対してそれなりに礼儀正しい対応をしていたはずだったが。 カーラ、そしてクロゥは、同時に同じ事を考え、同じように眉を顰め、そしてため息をついた。 もう表面を取り繕う必要性を全く感じなくなったらしい。 コンラートは自分を抱きしめた格好のまま、ぷるぷると震える男をさっさと見捨て、歩き始めた。 主をぶら下げたままで。 「陛下、お気持ちは分かりますが、まずはご挨拶すべき方にきちんとご挨拶をなさって下さい。彼らは、正式な訪問団ではありません。全員、ヒスクライフ殿が主宰する友好団の随員に過ぎないのです。ヒスクライフ殿は、今回彼らの身元保証人にもなって下さいました。ですから、まずは誰よりヒスクライフ殿にご挨拶を」 コンラートに背後からそう囁かれて、ユーリがあっと小さな声を上げ、ほんのりと頬を染める。 「ご、ごめん、コンラッド。おれったら……」 「俺に謝罪なされる必要はありません、陛下。…公私の区別をきちんとつけられない彼らも悪いのですし」 前を通り過ぎる瞬間、そう言ったコンラートの目がカーラに向けられた。その冷たい眼差しに、カーラの頬が一気に熱を持った。嬉しかった訳ではもちろんない。……恥ずかしかったからだ。 「ようこそいらっしゃいました、ヒスクライフさん! 今回もお出で頂けて、おれ、すっごく嬉しく思ってます。カヴァルゲートとの親善試合、皆もとっても楽しみにしています。どうかよろしくお願いします! ……あの、ごめんなさい、おれってば、久しぶりに友達の顔を見て舞い上がっちゃって、ご挨拶が遅れてしまって……」 ヒスクライフのまん前にぽんと下ろされた魔王陛下が、ちょこんと頭を下げた。 「お気になさる必要はございませんよ、陛下。我々はしょっちゅう伺っているのですし。懐かしい皆さんにお会いできて、陛下がお喜びになるのは当然のことです。私もお役に立てて嬉しく思いますよ。ですが、まあ、カヴァルゲートの代表ちーむの者たちにも、どうかお言葉をお願いいたします」 そう言ってヒスクライフが示した方向には、カヴァルゲートの友好訪問団が魔王陛下の御意を得ようと礼儀正しく整列していた。 彼らはカヴァルゲート全土の野球チームから選ばれた、魔王陛下が仰るところの「なしょなるちーむ」である。 カヴァルゲートやカロリア、フランシアといった国とは眞魔国リーグ以外にも、こうして定期的に親善試合が行われるのだ。もちろん眞魔国からの訪問もある。こういった親善試合も、野球好きの民の楽しみの一つとなっていた。 「皆さん、こんにちは! 今回もはるばる、ようこそ眞魔国へ! 皆、あなた方の到着をとても楽しみに待っていました。体調を万全に整えて、どうか当日には素晴らしい試合を見せてください!」 ユーリの挨拶に、カヴァルゲート野球ちーむの一団が「はいっ!」と元気な声を上げ、一斉に頭を下げた。 粛々と進む、略式ではあるが間違いない外交儀礼。 ふと感じた気配にカーラが隣に目を遣ると、アリーが戻ってきていた。アリーはカーラが見ていることに気付くと、照れくさげに笑って肩を竦めた。 「ユーリったら全然変わって……」 「アリー」 いきなり言葉を遮られ、アリーがきょとんと姉を見上げる。 「あれを見なさい」 そう言って向けた視線の先では、カヴァルゲート野球ちーむの代表が魔王陛下にご挨拶を言上している。 緊張して上ずった声が、どことなく初々しくも微笑ましい。 「国家の代表である正式な訪問団、そしてそれを迎える国王、魔王陛下、それから……」 カーラの視線が魔王陛下の背後に並ぶ人々に向けられる。コンラートと彼の弟のヴォルフラム、それから端の方に見知った男と女の顔があるが、彼ら以外全く知らない顔が大勢並んでいる。 「魔王陛下の側近、臣下の方々。……アリー、これは2カ国間の正式な外交行事だ。そして私達は、公式にはカヴァルゲート訪問団の随員に過ぎない」 「わ、分かってい……」 「分かっていない!」 小さな、だがはっきりと非難を込めて発せられた声に、アリーが怯えたような顔を上げて姉を見た。 「私達は友人の家に遊びに訪れたのではないのだぞ! それなのに……分かっていると言うならなぜ、正式な訪問団を差し置いて、魔王陛下の臣下の方々も無視して、陛下にあのような無礼を働いたのだ!? ご挨拶もせずに駆け寄って、あのように馴れ馴れしく…! あれが一国の王に対して、たかが随員が取っていい態度だと思っているのか!? お前は、おばあ様のお言葉を何と聞いていたのだ!?」 カーラは真剣になると男言葉になる。姉の本気の怒りを知って、アリーの表情は困惑を深めた。 「わ……わたし……だって……」 「少なくとも眞魔国の人々は」 ハッと見ると、いつの間にかカーラの隣に立っていた女性が、視線を魔王陛下に向けたまま言葉を挟んできた。 「新連邦がとんだ礼儀知らずを送り込んできたと思ったでしょうね。眞魔国を私達が軽く見ていると、勘違いされなければいいのだけれど。ああ、カーラ、あなたの妹のことだけじゃないわよ」 そこで初めてカーラに顔を向けて、それから女性の目がカーラの肩越し、いまだぷりぷりと怒っているらしいクォードに向けられた。彼女達の見ている前で、クォードに歩み寄った行政官ラースが、彼に何か囁いている。 「あの『ラダ・オルドの元王太子』って一言を金科玉条のように大切にしてるバカもね」 「……サンシア……」 サンシア・リュカス。 20代半ば、カーラと同年代の若さだが、目つきは武人のカーラより鋭い。その冴え冴えとした碧の瞳に似合う怜悧な顔立ち。いつも長い金髪を太い1本に編み、それを頭に巻きつけ、すっきりとした項を露にしているのが彼女の特徴だ。唇にはきちんと朱を入れ、高価な耳飾や香水も嗜んでいる。少なくとも、カーラの様に「女性であることを忘れて」生きるつもりはないらしい。 ドレス、というには少々語弊がある機能的な服装を身に纏い、常にきびきびと迷いなく行動するその姿は、「新連邦」の経済を担う官僚として、信頼に値する能力があることを全身で示している。 そのサンシアのもう1つの特徴が「貴族嫌い」であった。 「新連邦」は王制ではない。かつて「新生共和軍」において、王侯貴族出身者が失われた故国を、いやそれ以上の領土を手に入れようと争った経緯を踏まえ、コンラートが主導し、数を増やした文官達と協力して整えた全く新しい政治体制だ。貴族階級もない。それどころか全ての民が「法の下に平等」とされる。 全ての人民が平等な存在ということは、すなわち立身出世は実力次第ということだ。だからこそ自分はこの国に力を貸すと決めたのだと、サンシアは国造りに参加した当初から堂々と公言していた。 彼女のそのきっぱりとした態度を、コンラートは非常に高く評価していたのだが……。 「あのバカとあなたの妹を参加させたことが、エレノア様という方の指導者としての限界ね」 さすがにその言葉には、カーラもムッとした。隣では妹が鋭く息を吸い、今にも場にそぐわない大きな声を上げようとしている。 妹を止めるべきか、それとも自分が先んじて言い返すべきか。一瞬迷った時。 「魔王陛下と側近の方々がこちらにおいでになるわ」 冷静なサンシアの言葉に、迷いが霧散した。 「拙者、今はなきラダ・オルド王国の元王太子、クォード・エドゥセル・ラダと申す。この度は貴国訪問をお許し頂き、『新連邦』を代表し、心より御礼申し上げる!」 顔は陛下への恋しさやらコンラートへの怒りやら、色々複雑なものに赤らんでいたものの、案外まともな挨拶をして、クォードが大陸の王族の礼法に則った礼を取る。 「ラダ・オルド……大シマロンに滅ぼされた国の1つだったな」 答えたのは、「眞魔国宰相」を名乗った美丈夫だった。 「眞魔国宰相、フォンヴォルテール卿グウェンダル」と男が名乗った時、カーラは瞬間呆然とその顔を見つめてしまった。 同じ美丈夫とはいっても、クォードとは何かが根本的に違う。 鍛え上げているのだろう、長身に見合う立派な体格に、優雅に纏められた濃灰色の長い髪、わずかに眉を顰めた脆弱さの欠片もない美貌、人間達を鋭く見据える青い瞳。全身を形作るその全てから、圧倒されるような威厳と威風が溢れ出ている。 実際、ユーリとこの宰相閣下を並べて、「どちらが王に見えるか」と問えば、おそらく100人が100人、1000人が1000人、宰相閣下を選ぶだろう。ユーリが王らしくないということではない。宰相フォンヴォルテール卿が醸し出す王者の「気」が、あまりにも強烈なのだ。 見つめられると思わずその場に平伏したくなるほどの「力」を感じて、カーラは下腹と膝に力を込めた。カーラの両脇では、妹が緊張に顔を引きつらせて、サンシアが瞳を輝かせて、魔王陛下の側近中の側近を見つめている。 「よく来られた。貴公等のことは、陛下からも弟からも聞いている」 低い、胸にずんと響く美声。 弟。 その単語に、わずかな間を置いて、カーラはハッと顔を上げた。 魔王陛下の隣にはコンラートが立っている。 そう、だった。この宰相閣下は、コンラートの実の兄上……! コンラートと血の繋がった実の兄弟なのだと思うと、宰相閣下に対して、また新たな感慨が湧いてくる。 「これから樹立されるという貴公等の新たな国家とは、我々も友好を築いていきたいと願っている。よって、友好条約締結を前提とした貴公等の訪問は望ましいものであり、これからの両国のためにも、ぜひ我等魔族の真の姿をしっかりと見てもらいたいと考え、ヒスクライフ殿のご協力の下、こうして来てもらったのだが……」 1つ確認しておきたい、と言った宰相閣下の眉間の皺が1本増えた。 「貴公等が非公式ではあるものの、友好条約締結を見据えた訪問団であるという我々の認識は正しいのか? それとも……貴公等はただ単に暇に飽かして休暇に訪れただけなのか?」 それによって我等の対応も考え直さねばならないのだが。 宰相閣下のお言葉に、カーラは再び頬が熱くなるのを止められなかった。隣でサンシアが小さく息をついて首を左右に振っている。 「表向きはどうあれ、友好使節、と思ったのですが……」 その声は、宰相閣下の隣から上がった。 「………!」 その人物は、今まで存在に気がつかなかったのがおかしいと思えるほどの美貌の人物だった。 魔王陛下がおいでにならなければ、「絶世の」と付けたいほどの、宰相閣下とは全く別次元の美しさを備えた人物。 銀色というか、灰色というか、長い髪をゆったりと背に流し、その服装も白っぽく、全体として色素の薄い印象のその人は、女性とも男性ともつかない優美な顔立ちをわずかに引きつらせ、美しい紫色の瞳にかすかな、だが間違いようのない怒りを湛えて彼等を見据えている。 「失礼。私は魔王陛下の王佐を務めております、フォンクライスト卿ギュンターと申します」 慇懃に挨拶をすると、フォンクライスト卿はざっとカーラ達「新連邦」から派遣された人員に視線を走らせた。 「一国を代表する使節団としては、少々ふさわしからぬ行いが目に付くようですが…?」 我等の陛下に対し奉りあのように無作法に……と、どこか憎々しげにフォンクライスト卿が言い募る。 うぐぐ、とクォードが唸り、カーラの隣でアリーが体を強張らせる。 「あっ、あのっ、ごめんっ。おれが悪いんだ!」 いきなり声が上がった。 コンラート、フォンヴォルテール卿、フォンクライスト卿、そしてカーラ達、全員が吃驚した顔でその声の主に顔を向ける。 「おれが皆に久しぶりに会えて嬉しくて……それで舞い上がっちゃったから! だからなんだ! おっさん達は悪くないんだよ! ……ごめんな、グウェンもギュンターも…。おれが……ちゃんとしてないから……」 しょぼっと眉を八の字にして肩を落とす王に、側近達が慌てた。 「陛下! そのような、とんでもございませんっ! ええ、陛下がお悪いことなど何一つとしてございませんとも!」 優雅という言葉をそのまま体現したような王佐閣下が、髪を振り乱して叫んだ。……魔王陛下を溺愛しているのは、コンラートだけではないらしい。 ふう、と宰相が小さく息をついた。 「まあ、よい。我々はあくまで『友好条約締結のための事前訪問団』として貴公等に対することとする。貴公等もそのつもりでいてもらいたい。貴公等の中には我等の陛下の個人的な友人がいることも承知している。だがくれぐれも、自分達がこの国を訪れた第一義が何であるのかを忘れないでもらいたい。……我々は、私は、他国の者が公式の場において、我が王を軽々しく扱うような真似を許すことはできない」 「初っ端からとんでもない恥を晒してしまったわね」 ひとまずは部屋へ入って一休みするようにと言われ、「新連邦非公式訪問団」一同は案内された一室に集まっていた。 カヴァルゲート訪問団は人数が多いこともあり、血盟城の敷地内にある離宮に宿泊することになっていたが、彼等新連邦の一行は血盟城の中の血盟城、魔王陛下の居城の中に部屋を与えられることになったのだ。 正式な外交使節ではなく、あくまで「事前調査団」に過ぎないことから、与えられたのは個室ではなく3人部屋が4つと、今彼等がいる打ち合わせ用に用意された部屋の、合計5部屋だった。 「元ラダ・オルドの王太子であり、この訪問団の代表である俺に個室を与えないとは……!」とクォードが怒りを見せたが、「単なる調査団に城内の部屋を与えるだけでも特別待遇でしょう」とラースに窘められた。 その打ち合わせ用の部屋で、彼等は巨大なソファセットに腰を下ろし、これまた巨大なテーブルを囲んでいたのだが。 実は、そこに至るまでがまた一騒動だった。 部屋に入った途端、クォードは最も上座に当るだろうソファのど真ん中にどんと腰を下ろしてふんぞり返り、「本日よりこの部屋は、この訪問団の代表であり、元王太子である俺のいわば執務室になる」と、いきなり宣った。おまけに自分を中心にしてソファに座る者の席順を決めようとしたために、文官達から即座に顰蹙をかい、クロゥやバスケスも含めた人数で大反撃をくらってしまったのだ。かと思うと、今度は逆に、アリーのお供のようにくっ付いてきたアドヌイやゴトフリーが、自分達のような身分の者が同席するのは恐れ多いから立っていると言い出して、アリーを戸惑わせた。 結局行政官のラースが「我々は共にこの国の調査に訪れた同胞同僚であり、身分などを忖度すべきでない。そもそも新たな国家においては、身分の上下はない。クォード殿は確かに代表ではあるが、それは単にまとめ役ということであって、我々は部下になったわけでも、もちろん臣下になったわけでもない。過去の身分に拘り、同僚を差別したり区別したり、逆に無意味に謙ることは間違っている」という主旨の発言をし、それにカーラ達も賛同して、半ば無理矢理にだが決着とした。今は全員が思い思いにソファに座り(アドヌイとゴトフリーはアリーの隣で身を縮めているが)、クォードが座っていたソファでは、クロゥとバスケスが喚く元王太子を端に追いやって、二人並んで座っている。 コンラートの副官だったこともあり、この2人、特にクロゥは、武人でありながら官僚達の信頼も篤い。実際今も、結果としてクロゥが最も上座の中心に位置しているのだが、誰も文句をつけない。皆が落ち着いた後も、クォードだけはずっと何か言いたそうに表情を歪めているが……。 クロゥ達なら、クォードがどういう態度を見せようが適当にいなしてくれるだろう。そこまで考えて、カーラはほうっと息をついた。 メイドが運んできたお茶とお菓子を前にして、ラースが改めてクォードに身体を向けた。 「クォード殿。もっとご自分の立場について、よくお考え頂きたい。……部屋のことにしてもそうですが、とうの昔に滅んだ国の王太子であったことに、どれほどの価値があるとお思いなのですか? まして、魔族にとってはそのようなもの、全く無意味といってよろしいでしょう。それよりも、先ほども申しましたが、ご自分の浅はかな行動が、魔王陛下の側近の方々の眉を顰めさせ、新連邦という新たな国家への印象を歪めたことを、ちゃんと自覚なさっておられるのか?」 容赦のないラースの言葉に、むっつりとしていたクォードが、ぐ、と言葉に詰まる。 「それは……姫のお姿を目にして、つい……。その点については……確かに……」 許せ。 クォードが噛み締めた歯の間から、唸るようにそう言った。 この誇り高い男が許しを請うだけでも大した変化だ。カーラはそう思った。だが。 「許せ、ですって?」 さらに追及の手を休めない者もいる。 「何それ? 一体何様が誰に対して言ってるの?」 サンシアがクォードを睨みつけている。思いもよらない追求に、クォードがぱちぱちと目を瞬いて同じテーブルにつく女を見つめている。 「さっきの態度もそうだけど、貴方、一体いつまで王太子気取りでいるわけ? ラースも言っていたけど、貴方が王子様だった国はとっくになくなっているのよ? それとも何? 一州の統治者になることを、名前が違うだけで王になるんだと勘違いしてるんじゃないの?」 「そ、それは……しかし……」 「しかし? しかし何よ。いいこと? 貴方の昔の国が入ってるからって、貴方の統治する土地が貴方のモノになる訳じゃないのよ? 貴方は中央から統治者に任命され、派遣されるだけ。もし統治者としてふさわしくないと判断されれば、私達は貴方を罷免することもできるわ。統治者になるということが、王同様に州を好き勝手にできることだと考えてるなら今の内にはっきり言ってちょうだい。帰国したらすぐ、間もなく発布される法に則って、貴方の統治者としての資格を剥奪するよう連邦議会に進言するから」 カーラの見ている前で、ぶるぶると、傍目にもはっきり分かるほどクォードの身体が震え始めた。引きつった顔が青くなり、そして赤黒く染まっていく。ふん、とサンシアが鼻で笑った。 「もうその辺りでやめたらどうだ?」 上がった声に、カーラはホッと息を吐き出した。止めようにも、アリーのこともあって口を挟むに挟めないでいたのだ。感謝の思いを込めて、声の主に顔を向ける。 クロゥが、内心はどうあれ、冷静な表情を崩すことなくカップを傾けている。 「やってしまったことは、今更どうしようもあるまい。クォード殿もちゃんと分かっておいでだし、それに」 クロゥの目がちらりとアリーに向く。 「アリーももう充分理解しているだろう。ここは眞魔国で、魔王陛下の友人だからと自由にできたあの砦ではもうない、ということを」 カーラとレイルに挟まれて座るアリーが、唇を噛んで項垂れた。レイルがそんな従兄弟を何も言わずに見つめている。 「俺とバスケスは、かなりの時間この国にいたし、この城で生活していた」 全員の視線がクロゥ達に集中した。 「だから、眞魔国の現状についても、魔王陛下とその側近の方々、もちろんコンラートもこの中に入るが、その人々のことも大体のことは理解しているつもりだ。この城での生活の仕方についてもな。ざっと説明するから、きちんと頭に入れておいてくれ。その上で、なすべきことを整理し、実行しよう。大切なのは我々のこれからの行動だろう。それをしっかり示せば、側近の方々の我々を見る目も変化するはずだ」 建設的な意見を口にするクロゥの隣で、バスケスが茶菓子を頬張りながらうんうんと頷いている。 「クロゥ殿の仰るとおりだと僕も思いますね!」 茶菓子を手に、そう明るい声を上げたのは、タシー・ゲイルという名の、まだ20歳そこそこの若い官僚だ。先祖代々経済官僚とかで、大シマロン崩壊前まで本人も父の秘書として働きながら経済を学んでいた。滅んだ故国に忠誠を誓う父や祖父の反対を押し切って新たな国造りに参加し、今はサンシアの部下として働いている。 藁色の明るい真っ直ぐの髪を肩まで伸ばし、一見若い女性の様に見えるが、頭の回転と鋭さはかなりのものだとコンラートが評していたのをカーラは思い出した。 「とうに消えた身分だの地位だの、それから過去の戦いの功績だのにしがみつく以外何の能もない者は、遠からずその存在そのものが消えていくでしょうね。だからそんなのはほっといて、前向きにいきましょうよ。………あ、このお菓子、すっごく美味しいですよ!」 表情も声も明るく、瞳も少女の様にきらきらとさせて、だが口にすることはかなり辛辣だ。思わず眉を顰めたカーラの視界に、ぐぐっと唇をひん曲げたクォードの顔が映った。……クォードは決して愚かではない。それどころか指導者としても傑出した才能を持った人物なのに……。 「そんなことより僕、一刻も早くこの国を隅々まで見て廻りたいですね! あの港に並んでいた各国の貿易事務所の数を覚えていますか? すごいですよ! それにここへ来る途中の村でも見たでしょう? あの手水場! 紐を引っ張ったら、水が流れて全部流してくれるんですからね! それに取っ手を捻っただけで水が溢れてくる。井戸から水をくみ上げなくても良いなんて、一体どういう仕組みになってるんだかぜひ知りたいですよ。まったく、魔族が人間の生活を羨んで、人間を滅ぼし、国を奪おうとしてるなんて僕達はずっと信じてきたんですからお笑いですよね。とにかく」 一気に喋ったかと思うと、くいっとお茶のカップを傾ける。こくりと喉を鳴らすと、タシーは「お茶も美味しいなあ」とにこっと笑った。 「戦争と新たな国造りにすっかり内向きになってる間に、僕達は世界の趨勢からとっくに置いてけぼりにされてるんです。事前調査なんて悠長なこと、本来やってる暇はないんですよ。一刻も早く眞魔国と友好条約を結び、世界経済の流れに合流しなくては! クロゥ殿は確か地方にも出かけて、道路の整備による人とモノの移動の活発化と地方経済の振興策について視察なさっておられるのでしたよね?」 「そんな大層なものじゃないが」クロゥが苦笑して答える。「バスケスと2人で、宰相閣下のお許しを頂き、1週間余り地方を見て廻った。幹線道路の整備とその沿線の村や街の状況などをな。なるべく早く、皆にもその目で確認してもらいたいと思っている。経済だけじゃなく、行政という面でも驚くべき政策が随所で実行されているからな」 「クロゥ殿とバスケス殿がご同行頂けたのは、我々にとって実に幸いでしたな。ぜひその時には案内と解説をお願いします」 ラースも頷きながら答えた。その隣で、ラースの同僚のロサリオ・フィリン─これは30歳そこそこの男で、大シマロン中央官僚出身者だ。目から鼻へ抜けるような雰囲気のサンシアやタシーとは全く違い、年より老けて見える穏やかな風貌の、その印象を裏切らない好人物だ。堅実にして確実な行政処理能力を高く評価され、ラースと共に行政部門においての地位は高い─も一緒になって頷いている。 そのロサリオがラースに続いて口を開いた。 「聞いたのですが、こちらには魔王陛下直属の行政専門機関があるそうですよ。管轄ごとの縦割りになり易く、処理効率が鈍くなりがちな行政部門において、これを統括する機関の存在というのは注目に値しますね。行政を担当する我々としては、ぜひこの機関の視察をお願いし、お話を伺いたいと思います」 ロサリオとラースが頷き合う。 「まあ、その辺は日を改めてってことだがよ。まずはこの城のことだわな!」 ぐいっとカップを呷ってお茶を飲み干すと、バスケスが陽性の大きな声を上げた。この男が明るい声を上げると、何となく場の雰囲気も明るくなる、とカーラは思った。 「なあ、クロゥ。この城で暮らすなら、マズはアレだよな!」 「お前はあれがすっかり気に入っていたからな」 「また毎日アレを堪能できると思うと、俺ぁ嬉しいぜ!」 「イヤだわ、焦らさないでよ、2人とも。アレって何なの?」 サンシアが笑いながら声を上げる。 「世界広しと言えど、眞魔国以外では絶対にお目にかかれない代物、かな?」 「風呂さ!」 「…………ふろ…?」 「浴室だ。まずはここの使い方から教えよう」 笑みを浮かべながら言って、クロゥが立ち上がった。 「まったく! 何ですか、あの男! こともあろうに衆目の前で陛下に抱きつこうとするとは!」 何たる恥知らずな…っ! 「…… ギュンター、まだ怒ってるよ……?」 執務机について書類にサインしながら、ユーリが呟くようにそっとコンラートに話しかけた。 魔王陛下の前では、王佐閣下が一向に沈静しない怒りを書類と正面に座るグウェンダルにぶつけている。そのグウェンダルは眉をきゅうっと顰めながら、書類に没頭する振りを続けていた。 「ギュンターの目の前でしたからね。よっぽど腹に据えかねたんでしょう」 「ギュンターだってしょっちゅう抱きついてくるのになあ……」 「俺やヴォルフに阻止されてますが。それにしても……」 友好条約締結のための事前調査、と報せがあった時は、正直呆れた。 まだ建国も宣言していない国が、それも自分の派遣を含め、眞魔国にさんざん援助を受け、これからも援助を与えてもらわなければ土地を復興させることもできない国が、条約締結に相応しい国かどうかを調べにやってくる。……噴飯ものだ。本来なら逆だろう。援助を与える側の眞魔国が調査団を派遣し、自分達と条約を結ぶにふさわしいかどうかを調べる、というのがあるべき形だ。 それをしないのは、ひとえに魔王陛下が彼等との友好、友情を心から望んでいるからだ。 今だ魔族と結ぶことに躊躇する者達を説得しやすくするために、調査をするという名目で訪問団を送り込む、というエレノアの苦肉の策だというのは分かる。分かるのだが、それはコンラートがエレノアや新連邦のトップに居る者達をよく理解しているからだ。だが……。 実はそこからすでに、グウェンダルやギュンターは今回の訪問団に対して眉を顰めていたのだ。 そこへもってきて、代表であるクォードのあの行動。 「……あの馬鹿」 コンラートは密かに息を吐いた。 もし一国の王となれば、かなりの能力を発揮できるはずの男だ。しかし、新たな国に王は必要ない。クォードが無意識にしろ、「王」という身分に固執すれば必ず破局が来る。そこまでいかなかったとしても、方向性を間違えた能力は本来の力を発揮できないまま、変化の波の中に埋もれてしまうだろう。 このままだと、あの男は本当に「おバカな元王太子」で終わってしまう。 それにしても。 今回のあのメンバーは、エレノアがやはり決定したのだろうか。自分やユーリとの関係を考えての人選か? それでも、眞魔国について調査したいというなら、もう少し人を選ぶべきだろう。 顔なじみをを代表にしたかったというなら、クォードじゃなくカーラにすればいい。サンシア、タシー、ラース、ロサリオといったメンバーは問題ないが、この関係の人員は倍いてもおかしくない。クロゥとバスケスは案内役として必要だろうから良いのだが……アリーと野球仲間が来る必要は全くなかった。 そもそも条約締結のための調査団に、どうして専門家でもなければ関係者でもないアリーと野球仲間が加わっているのか。単に遊びにくるなら、条約締結後で構わないのに。 だが、まあ……確かにユーリは友人に会えて喜んでいる。ボールパークにも案内するんだと張り切っている。 だから、それはそれで良いといえば言える、かもしれないが。 ふと、コンラートはメンバーの中の一人の顔を思い出し、目を眇めた。 レイル。 いつもけたたましいアリーの影にいて、ほとんど目立たない少年。今日も皆の後ろで静かに佇み、ここしばらくずっと浮かべていた何か言いたそうな表情で自分を見ていた。 彼はいつまで今のままの自分でいるつもりだろう……。 「グウェン! これで最後?」 ユーリが1枚の書類をぴらぴらと振っている。コンラートはその書類を受け取ると、兄の下に持っていった。 「……ああ、これで今日は終わりだ」 やった! とユーリが朗らかな声を上げる。 「夜はカヴァルゲート代表チームの歓迎会だったよな。ウチの代表チームも参加するんだっけ?」 「ええ、そのはずですよ」 「そっか! じゃあ、それまでアリー達と……」 「その前に!」 グウェンダルが主の言葉を遮った。それからコンラートに目を向けると、弟の名を呼んだ。 「コンラート、改めて新連邦から派遣されたあの者達について、詳しいことを教えてくれ。性格や対魔族観などをな。陛下も、友人と遊びたいのは分かるが、その前に彼等と顔を合わせ、彼等の存念をその口からきちんと聞かせてもらうことが先だろう」 「………うん、それはそうなんだけど……。なあ、グウェン、ギュンターも。もうさ、おっさんやアリーのこと、怒るの止めてくれよ」 あれはおれが悪いんだし、とユーリがぼそっと呟く。 「ギュンターも兄上も、アリーのことは別に怒っていないのではないのか?」 横からヴォルフラムが口を挟んでくる。 「え? そう?」 アリーというのは、とギュンターが軽く上を向いて考えてから、「ああ、あの娘ですか」と答えた。 「あれは別に……。まあ確かに少々無作法ではありますが、まだ子供でしょう? 若い者は時としてああいう失敗をしてしまうものですし。それに陛下とじゃれるように騒いでいる姿は、なかなか可愛らしくもありました。ねえ? グウェン?」 「外交使節としては大問題だがな。非公式の、というのならあの程度は構わんのではないか?」 「しかし!」 あのクォードという男は許せませんっ! ギュンターの怒りがまた元に戻った。 「……アリーはいいけど、おっさんはダメなんだ……」 何で? 首を捻るユーリに、コンラートとヴォルフラムが揃って苦笑を浮かべた。 「見た目の問題ですね。後は、王佐閣下はご自分の特権を侵害されるとお考えでいらっしゃるとか」 部屋の隅でクラリスが小さく、だがきっぱりと言う。唯一その声が聞こえたヨザック─ウェラー卿が帰国して以来、お庭番と魔王陛下の護衛との2足の草鞋を履いて飛び回っている男が「ぷっ」と噴出した。 ……汁を撒き散らしながら陛下に抱きついて煩がられるのも特権か……。 「……なるほど。『新生共和軍』以来の武人と、新たに登場した文官達との間の勢力争いか。それがあのわずかな人数の訪問団の中にも存在するわけだな」 グウェンダルの言葉に、コンラートが「まあね」と頷いた。 「新連邦」内で、今問題が少しづつ表に表れているのが、武人、特に対大シマロンとの戦いに参加していた「新生共和軍」出身の武人と、文官達の間の軋轢であった。 一方は「戦いの間、穴に潜んで隠れていた臆病者が! 新たな国ができたのは、我等が血を流して戦ったからこそだ!」と声をあげ、一方は「剣を振るうしか能のない阿呆共が。コンラート様と我々がいなければ、領土を争ってとうの昔に自滅していたくせに、何を偉そうに」と嘲笑を隠さない。 「わが国の様に」 コンラートがユーリに顔を向けて言葉を続けた。 「魔王陛下の下、1つの種族でまとまり、安定した国家を作っているのとは違って、新連邦は様々な国家、民族の寄せ集めです。連邦政府の頂点にいるのは、そのような価値観の違う多くの国家の、元国王や貴族達です。そのために争いが起きたことは陛下もご存知でしょう?」 「うん」ユーリが大きく頷く。「そのためにクーちゃん達がきて、コンラッドがまたあっちへ行かなくちゃならなくなったんだもんな」 そうなんです、とコンラートも頷いた。 「例えばクォードのように『元ラダ・オルドの王太子』などと、いつまでも過去の栄光だの身分だのを引きずる者同士が同じ席に集い、1つの国家を作るというのは、非常に不安定なものなのです。いつまた権力争いがおきないとは限りません。というか、起きない方がおかしいと言いますか……」 全員が頷く。 「ですから俺は、そのような者達が好き勝手できないように、法を整備することにしました。もちろんゼロから法律を作ることはできませんので、色々と既存のものを利用しましたが……。とにかく、どういう身分であろうが全ての者が法に縛られること、それから、武人よりも文官、いわゆる官僚の力を強化させました。軍の力が強いよりも、文官の力が強い方が、再び争いを起こさないようにするには必要なことですし」 なるほど、とユーリが頷く。 「そういうのって確か、えっと、シルビア、シビリ、シベリ、シベリア、ン、ハスキー……は違うか。えーとぉ」 「シビリアンコントロール。文民統制ですね。まあ、現在の新連邦最高議会を占めるのは今も申しました、反乱を起こしたかつての王侯貴族と武人達、そして各地の実力者であって、直接選挙で選ばれた議員ではありませんので、厳密には違いますが。ですが、以前に比べれば、よりその形に近いのは確かだと思います。主導しているのは議員ではなくて官僚ですけどね」 「日本では官僚ってあんまり良いイメージないんだけど……。でもこの国の官僚は皆頑張ってるよね!」 「新たな国でも頑張っていますよ。官僚達は大シマロンが戦争ばかり起こしている間、かなり苦労していましたからね。軍は国を護るために必要最低限のものがあればいい。国家を動かすのは自分達だと、皆、積極的に協力してくれました。このまま元国王だの元王太子だのに任せておくと、新連邦は最悪軍事独裁国家になりかねないと、文官達の危機感は非常に強いものがありましたし」 「それは良くないよ! ただでさえ辛い思いをしてきた民が、また苦しむことになるんだから! ……そっか、さすがだね、コンラッド。シベリアンコントロールで平和国家を目指す。うん! すごいよ!」 もちろんそれだけじゃない。 グウェンダルは「シベリアンじゃなくて、シビリアンです」と、グウェンダルにもよく分からない言葉をユーリに教えている弟を眺めつつ、内心苦笑した。 武人の力を抑え、官僚の力を法によって強化する。軍は小シマロンなどの脅威から、国を護るための必要最低限のみ。つまり、他国に攻めかかる力を持たせないということだ。いずれ眞魔国の脅威とならないように。 コンラートはおそらく長年の間武人に反感を抱き続けてきた官僚を味方につけ、新連邦から、反乱によって肥大した軍事力を削れるだけ削り取る、その基礎を作ってきたのだ。 「経済と行政に携わる官僚が4名、訪問団の中にいます。俺もよく知っている人物達ですが、自分達の国だけではなく、世界の未来についても中々よく考えていますし、眞魔国と友好を結ぶ重要性も充分認識している者達です。アリー達と野球について語り合いたいお気持ちも分かりますが、彼等とも話をして頂けますと俺も嬉しいです」 うん、分かった! ユーリが元気に頷いた。 「では、そろそろその者達と直に話してみるとしよう」 グウェンダルが宣言した。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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