和やかなんだか緊迫してるんだか良く分からない晩餐が続く中。 扉が開かれて、1人の女性が入室してきた。 接待役の女性達とは服装はもちろん、雰囲気も全く違うその女性に、カーラはふと心を引かれ、思わず動きを目で追った。 女性は真っ直ぐユーリの元に近づくと、わずかに離れた場所でぴたりと足を止めた。 「ヴェルダさん! お久しぶり!」 「お久しゅうございます、陛下。先ほどはお迎えに上がれず、失礼致しました。本日は当店をお選び下さいましたこと、真に光栄に存じております」 満面の笑みで言葉を掛ける魔王陛下に、女性も笑顔で答えゆっくりと頭を下げる。 見た目は、人間なら30歳半ばくらい、だろうか。上品で知的な雰囲気の女性だ。服装はお仕着せではないだろう。身につけているのはドレスというより、ほとんど男装といってもよいほど直線的な仕立ての衣装だ。即座に動けることを第一にしている内にこうなった、という経過が、やはりドレスから縁遠くなってしまったカーラにはよく理解できる。 「えっと、紹介します!」 ユーリが笑顔で一同を見回した。 「この人はヴェルダさんっていって、ここの経営責任者なんだ!」 「ラーゼン・ヴェルダと申します。皆様、ようこそおいでくださいました。食事は如何でございましょう? お口に合いますでしょうか?」 にっこりと笑い、女性、ラーゼン・ヴェルダが問い掛けてくる。 ゆったりと結い上げた金髪も、抑えた化粧も、服装も、そして笑顔も、その人物の女性としての、そして経営責任者としての、有能にして豊かな人柄を伝えてくるような気がする。 「いや、実に楽しませて頂いておる」 クォードが鷹揚に答える。 「公衆浴場に備えられた食堂とのことゆえ、如何なるものかと思うておったが、どの料理も実に美味。料理だけではない。酒も良いものを揃えておられる。いやいや、さすがひ…陛下がご推薦なされた店だと感服いたした」 クォードの褒め言葉に、「ありがとうございます」とヴェルダが頭を下げる。 「こちらでは、特に料理に力を入れております。本日ご用意致しましたのは、眞魔国の各地方の郷土料理に、さらに一手間二手間加えてできあがりました、私共の自信作でございます。ですが、今回一番のお勧めは食後のお菓子ですわ。ぜひご賞味下さいませ」 「うっわー、楽しみ〜!」 わくわくと嬉しそうなユーリに、カーラとアリーも顔を見合わせて笑みを浮かべた。 「ヴェルダさんはね」ユーリが同席する人間達の顔を見回して言った。「お客さんに喜んでもらえるような企画をどんどん出してくれるんだ。特に、6つの公衆浴場が合同してできる企画をね。人気投票とか」 「にんきとうひょう…って、何?」 アリーが初めて聞いたと首を捻る。 「人気投票と申しますのは」 ユーリに代わって、ヴェルダが説明を始めた。 「一定期間、お客様に6つの浴場を試して頂いて、湯加減や清潔さ、店員の接客態度、窓から見える景観やお料理など、幾つかの項目に点数をつけて投票して頂くという催しでございます。各部門で最高点を獲得した浴場はもちろんですが、特に点数の合計が最も高かった浴場はその年度の最優秀浴場として陛下から表彰され、従業員達もご褒美を頂くことができます。店の者にも励みになりますし、宣伝にもなりますね」 へえ、なるほど…と、アリーが大きく頷いた。それを見て、ヴェルダが微笑みながら「ですが」と言葉を続ける。 「この企画の最も重要な点は、6つの浴場が競い合うことで、公衆浴場が常にその質を向上させていけるということです」 「質の……向上、ですか?」 アリーが再び首を傾けた。 「素晴らしいですわね」 ふいに割り込んできた声はサンシアだった。ワイングラスを手にヴェルダを見上げている。 「その意識と緊張感を持ち続けることは、国の経済を発展させる上でとても重要なことですもの」 そうなの!? と、アリーがまじまじと目を見開く。そんなアリーに向かって、サンシアが「もちろんよ」と大きく頷いた。 「利益を上げることばかりに汲々とするのではなく、常に商品の質の向上を目指して努力するお店は必ず繁盛するわ。つまり、良い品を作ることができれば、利益は後からちゃんと追いかけてくるってことね。それが1つの店に留まらず、同業者が共に競い合うものなら、その業種そのものがさらに伸びるでしょう。そしてまた1つの業種だけではなく、全ての産業が、それぞれ揃って努力を惜しまなければ、その国の経済は間違いなく発展するわ。経済が発展するということは、先ほどフォンビーレフェルト卿も仰せになったように、国家そのものが発展するということよ。6つの公衆浴場は、投票という形の利用者の目を常に意識して、彼等に満足してもらえるように努力し、その努力を同業者の間で競い合うことでさらに高めている。それができるのは、ヴェルダさん達にその能力があることはもちろんだけど、同時にこの眞魔国という国に、さらに発展し成長していこうとする意志と力が漲っていることの証明でもあるのよ」 「そう、なんだ……」 呟いたアリーが小さく息をついた。 「それも全て、魔王陛下の深いお志があれがこそですわ」 ヴェルダの言葉にアリーが顔を上げる。 「私達にどれだけその意志があろうとも、国に私達の努力を受け入れてくれる懐の深さがなければどうにもなりません。陛下は私達民が、自らなすべきことを考え、そして自ら行動することを認め、期待して下さっておられます。陛下の志の高い政があればこそ、私達の努力が実を結ぶのです」 ヴェルダさん、それ褒めすぎだから。ユーリが顔をぽっぽと赤らめて、首と手を懸命に振っている。 「……民が自ら考え、自ら行動する……」 思わず呟いたカーラの視線は、自然とサンシアに向いた。サンシアもまたカーラにその真剣な顔を向けてくる。 『正しい知識を持ち、自らの頭で考える力を持った民』 これまで、どの国のどの王も、決して望まずにきた民の姿。 「褒めすぎなどではございませんわ、陛下」 ユーリを見つめるヴェルダの眼差しは真剣だ。 「私のような立場の者に職をお与えくださり、それどころか責任者の地位に就けてくださいました陛下のお慈悲、私は決して忘れは致しません」 ユーリへの挨拶を終えると、ヴェルダは各卓を廻り、食事の説明や質問に答え、やがて「どうぞごゆっくりお過ごし下さいませ」という言葉と笑顔を残して部屋を出て行った。 「ヴェルダさんはホントに大げさなんだよなー」 いつもあんな調子だからちょっと困っちゃうよ。照れくさそうに頬を染めて、ユーリが言い訳するように言う。 「彼女は陛下の大ファンですからね。今夜も陛下が大切なお客を連れてきてくれるというので、相当張り切ったらしいですよ?」 「陛下ってゆーな、名付け親! ……責任者になってもらったのだって、ヴェルダさん自身が有能だからなのにな。やっぱまだ気にしてるのかな……」 「あの……」 何となく気になって、カーラは遠慮気味に口をはさんだ。 「聞いていいだろうか……? 先ほど彼女は自分のような立場の者と言っていたが、何かあるのだろうか?」 そう尋ねた瞬間、ユーリとコンラートが顔を見合わせる。 「…あ、いや……」 「ヴェルダは」 無理に聞こうとは思わない、と続けようとしたカーラの言葉に被さるように、コンラートが言葉を発した。 「かつて夫が主催する学舎で、子供達に読み書きを教えていた教師だった。夫は当時若手の、新進気鋭の学者だった……」 「当時?」 「ほぼ30年前。あの、シマロンとの戦時中のことだ」 そういえば、とカーラは思い至った。この浴場で働いている女性は、ほとんどが戦争未亡人か戦災孤児だった。 「戦争が激しくなり、犠牲者が増えるに従って、ヴェルダの夫は体制批判を始めるようになった。戦争の早期終結を求めるその声はどんどん大きく、やがて過激になり、学生を始めとして多くの民を巻き込み始めたんだ。そしてついに……ヴェルダの夫は反逆者として捕えられてしまった」 「それは……」 いつの間には部屋はしんと静まっていた。全員の視線がコンラートに集中している。 「彼は最前線に送られ、そして、戦死した。訓練も受けたことのない学者が、最前線で生き延びられるはずがない。彼は戦場で処刑されたわけだ。……そして、残されたヴェルダと子供達、確か3人いたと思うが、彼等には悲惨な生活が待っていた。多くの民が家族を戦でなくし、それでも誰に文句も言えないまま懸命に耐えていた時代だ。反逆者とされた者の家族に当る風は厳しいものだっただろう。教職はもちろん、まともな職につくこともできなくなったヴェルダは、それこそ泥を舐めるような生活をしながら子供達を育てたんだ。陛下がこの施設を創られ、戦争未亡人や孤児を率先して雇用すると発表された時、ヴェルダは夫のことを包み隠さず話した上で、皿洗いでも掃除婦でも何でもするので雇って欲しいとやってきた。面接で彼女と話をした試験官は、彼女を掃除婦などで雇うのはもったいない、例え夫が何を言ったとしてもそれは昔のこと、能力のある者はそれに相応しい地位に就けるべきであると上に進言した。それを耳になされた陛下のご指示で、我々は研修の間にヴェルダの人となり、そして能力を見極めた上で、最終的に彼女を責任者に抜擢したというわけだ」 「大正解だったよね。確か、その時の試験官にもボーナスが出たんだったよね?」 「人を見る目があるというのも、官僚として重要な能力ですからね。まあつまり……」 コンラートがカーラ、そして人間達を見回して、改めて口を開いた。 「戦争が民に齎すものは不幸だけだ。その痛みと悲しみ、そして流される涙に、人間も魔族も違いはない」 皆、同じ。そういうことだ。 コンラートの言葉に、カーラを始め、その場に居合わせた全員が大きく頷いた。 「……えっと、何か空気が重くなっちゃったね。ね、皆、どんどん食べて! あ、でも今日お勧めのデザートがまだ控えてるから、その分の隙間は残しといてよ!」 考え込む人間達に、ユーリが殊更明るい声を上げる。 でざーと、というのは、おそらヴェルダが言っていた食後の菓子のことだろう。ユーリもコンラートも、そういえばあの賢者も、時折カーラ達には理解できない言葉を口にする。 「おお、姫の仰せの通りだ! ……いかん、楽しみにとっておいた料理が冷めかかっておるわ。これは早速頂かねば!」 クォードも大きな声を上げると、いそいそと大皿の料理を掬い取る。その声に、部屋の空気がまた一段と柔らかく解れ始めた。 ユーリがホッとした様に笑顔になるのを見ながら、カーラも同じく大皿の料理を掬い、自分の皿に移した。 「本当にこれは美味そうだ」 周囲でまたお喋りが始まったのを聞くともなく耳にしながら、料理を口に運ぶ。が。 「サンシア!」 ガタン、という音と共に、ふいに上がった大きな声。 「………アリー…?」 グラスを手にしたサンシアが、訝しげに振り返る。 アリーが席を立ち、サンシアに身体を向けている。 カーラの席からはアリーの背中しか見えなかったが、その背中を見れば、妹がここしばらくないほど緊張しているのが分かった。 「一体…どうしたの?」 アリーを見上げて尋ねるサンシア。アリーは1歩踏み出すと、その横に並びサンシアを見下ろした。 「サンシア……いえ、サンシア、さん!」 サンシアが、いや、その場にいた全員が目を瞠る。 注目されていることに気付かないほど緊張しているらしいアリーは、きゅっと1度唇を噛むと、突然勢い良く頭を下げた。 「お願いします! 私に……経済とか、行政とか、私が皆の役に立てるために必要なことを、どうか、教えて下さいっ!」 アリー……。呟くカーラの前で、アリーがひたすら頭を下げ続けている。 「……驚いたわね。あなたが私に、なんて……」 手にしていたグラスを卓に置き、サンシアがアリーに向き直る。 「アリー、あなたにも国のために出来ることがあるということは、夕べ分かったのではなかったかしら? 外交の、カーラには出来ない部分をあなたが埋めるという……。外交ならば、私よりもあなたのおばあ様とか……」 「でも私には基礎がないの!」 アリーが頭を上げて叫んだ。 「外交に、私の元の身分とか血筋が役に立つなら何でもするわ! でも! 今の私ができることっていったら、ドレスを着てにこにこ笑ったり、ダンスをするだけよ。それじゃ外交官として働いてるなんて言えないわ! 私は国に何が必要か、行政も経済も何も分かっていない! 国が国としてあるために何が必要なのか、発展するためにどうしなくちゃならないのか、民のために何ができるのか、私、自分のどこを探っても何も見つけられないの! 答えが私の中にないの! だって私、そんなこと、きちんと勉強してこなかったんですもの……。大シマロンに追われて、反乱軍ができて、新生共和軍になって、新連邦が生まれて……。でも私、その中でいつも護られてきたわ。おばあ様やお姉様や皆に、ずっと護られて甘やかされて好き勝手してきたの。それなのに私ったら、本当は何もできないくせに、自分が一人前の戦士になったつもりでいい気になっていた……。私、戦場にいたくせに、結局世間知らずの王女様のままだった。自分が……何も分かっていないんだってことに、ただの役立たずだってことに、私……やっと気付いたの!」 だから、ちゃんと勉強したい! 思いの丈の籠もった力強い声が、はっきりとそう言った。 「レイルがラース、さんに行政について教わることになって……」 「だからあなたは私にって?」 「違うわ! ……いえ、違わないのかもしれない。でも……」 アリーはしばらく言葉を捜すように唇を噛んでから、改めてサンシアに視線を向けた。 「レイルに、もう今までのままではいられないって言われたあの時から……私、ずっと怖かったわ。いつの間にか皆が私を置いて、ずっと遠くに行ってしまったような気がして。一人ぼっちになってしまったような気がして……。でもそれだけじゃない。ずっと…このままじゃダメだって考えてた。このまま甘ったれの王女のままでいたら、私は本当にただの役立たずで終わってしまうって。でも、レイルはもちろんだけど、お姉さまやおばあ様のお側では、私はまた甘えてしまうわ。私……もう甘ったれではいたくないの」 あなたなら。そう言って、アリーは強い眼差しをサンシアに向ける。 「あなたなら、私を絶対に甘やかしたりなんかしない。そしてきっと私を鍛えてくれるわ。そう信じてる。だから……お願いします! 自信を持って外交ができるように、私に経済と行政の基本を教えて下さい!」 ぶんっと音がするほど勢いをつけて、アリーが頭を下げる。 そんな妹の姿をカーラはじっと見つめていた。 もう子供と思うのは止めようと。 そう決めたのは夕べのことだけれど。 視線を感じて顔を上げると、サンシアがもの問いたげに自分を見ていた。 その視線に、カーラはゆっくりと頷き、そして唇を「頼む」と動かした。 サンシアが小さく微笑んで頷き返す。 「容赦しないわよ?」 「望むところです!」 「やるからには、基本だの何だのと言わずに徹底的にやるわ。泣き言は聞かないわよ?」 「もちろん!」 「野球はどうするの?」 「仕事の合間を見て……できれば続けたいと思ってる。始めの内は無理かもしれないけど、でもアドヌイやゴトフリー達も軍の仕事をしながらやってるわ。私も両立させていきたいと思ってる…思ってます!」 「簡単じゃないわよ?」 「覚悟してます」 まるで睨み合う様に、口を閉ざした2人の視線がぶつかる。 いいわ。サンシアが言った。 「その覚悟とやらがどの程度のものなのか、じっくり見させてもらいましょう」 ホッとアリーが肩の力を抜いた。 「よろしくお願いします!」 「……すごいなー、アリー……」 「ユーリ?」 しみじみと、どこか羨ましそうに呟く主に、コンラートはその顔を覗きこんだ。 「おれ、砦にいた時のアリーしか知らないけど、でも役立たずだなんて全然思わなかったよ。アリーはアリーなりに一生懸命頑張ってるって思ってた。でも……アリーはそんな風に思ってなかったんだな。今よりももっと成長しようって決意してるんだ。……すごいなって思う。おれも皆が褒めてくれる言葉に安心して甘えてちゃだめだな。アリーに負けないように、もっと頑張らないと!」 な? コンラッド! そう言って自分を見返し、にこっと笑う主に、コンラートは穏やかな笑みを返しながら、内心で苦笑していた。 アリーがあのように決意した過程には、レイルのことだけではない、ユーリの治世を目の当たりにした衝撃がある。そうコンラートは確信している。 眞魔国史上最高の名君。 国を挙げての賞賛を知っていながら、決して奢らぬコンラートの主。最愛の王。 コンラートは円卓の、少々離れた場所にある皿に盛られた料理を大きなスプーンでたっぷり掬い取ると、ユーリの前にある皿に乗せた。 「はい、ご褒美です」 「……ご褒美……?」 何の? と尋ねるユーリに、コンラートは「今日のところはとりあえず」と微笑んだ。ズレた答えにユーリは小さく首を傾げてから、「ま、いっか」と笑った。 「これ、実は大好物なんだ!」 嬉しそうに笑って、ユーリがいそいそと先割れスプーンを手にする。 ユーリの好物なら、コンラートはもちろん全て把握している。あらかじめ、この浴場におけるユーリの好物─もちろん前菜からデザートに到るまで─をヴェルダに揃えさせておいたコンラートは、「たくさん食べて下さいね」と優しく主に笑いかけた。 客を楽しませるより、主を喜ばせる方を選ぶ自分がホスト失格であることには気付かないままだった。……別に気付いても特に何とも思わないだろうが。 充分に食べて飲んでお喋りをして、その日の夕食会は終りの時を迎えた。 最後に大好物のフルーツパイを、コンラートの分までお腹に納めて大満足のユーリに、戦争の罪を口にしながら、実は主さえ幸せなら世界中の人々が泣き暮らしていても全然平気かもしれない護衛が、持参してきたマントを頭から被せる。 「他の客がびっくりしますからね」 髪を洗い、本来の色に戻った魔王は素直に頷いた。せっかくのんびりしているお客さん達を慌てさせたくはない。 そうして、見送りにきたヴェルダを先導役にして、彼等が5階から3階、大浴場前のホールに降りた時だった。 「おじちゃんっ!」 ソファが並ぶ一画から、小さな影が飛び出してきた。 おお! クォードが思わず声を上げる。 クォードの大きな身体に飛びつくようにしがみついてきたのは、あの少女、ホリィだったからだ。 「……ホリィではないか! そなた来ておったのか!?」 驚くクォードの傍らで、カーラ、サンシア、アリーが顔を見合わせる。 「私達が入浴している時に……一緒にいたのだが……」 自分達が浴場を出る時は、子供達はまだ湯の中で遊んでいたはずだ。しかしあれから一体どれだけ時間が経っているのか……。 「あ、あの…申し訳ありません」 ふいに離れたところから声がした。 見れば、若い男性と女性が1人ずつ、言葉通り申し訳なさそうに佇んでいる。 「孤児院で子供達の世話をしている方々ですわ」 ヴェルダが説明するのとほぼ同時に、2人が前に進み出てきた。 そしてクォードの前に立つと、2人揃ってお辞儀をする。 「ご無礼をお許しください。あの……この子がどうしても、その、昼間のおじさんに会いたいと申しまして……」 「我々が入浴してから相当の時間が経っておるだろうに、もしやここでずっと待っておったのか?」 クォードの質問に、はい、と2人が頷く。別の視線を感じてカーラがふと見ると、ソファの影からもう少し年嵩の少年がこちらをじっと見つめていた。……昼間、球場でカーラ達に最初に質問をしてきた少年だ。 「お風呂で温まり直そうとか、必ずこの中をお通りなのだから、お茶を飲みに行こうとか申したのですが、もしもうっかりすれ違いになったら嫌だと……。それでずっとここに。あの……ご身分の高いお方だと伺っております。どうかお許しを……」 ホリィはひたすら恐縮する大人などそっちのけで、クォードの服にしがみつき、満面の笑みで男を見上げている。 そんな少女を見下ろしていたクォードは、ふいに身を屈めると、無骨な手を少女の脇にぐいっと差し込み、小さな身体を勢いよく宙に持ち上げた。そしてその逞しい腕の中に、幼い少女の身体をすっぽりと納めた。 「おお、身体がこんなに冷えておるではないか!?」 ホリィの頭を撫でながら、クォードが嘆くように声を上げる。 「風邪をひいたらどうするのだ、ホリィ」 「大丈夫だよ!」少女が元気に答える。「ホリィ、強いもん! 風邪なんかひかないもんっ!」 おじちゃんに会いたかったんだよ! 太い首にしがみつき、耳元でそう告げる少女に、クォードの顔がくしゃりと歪む。 「そうか……俺に会いたいと、ずっと待っていてくれたのか。そうと知っておれば……」 言ってクォードは、ホリィをぎゅっと抱き締めた。 その時。 彼等の傍らから、ふいに伸びてきた手があった。その手が、優しく少女の頭に添えられる。 その場に立ち会っていた2名の大人から、ひ、と引きつった声が上がった。 クォードの首筋に額を押し付けていたホリィが、「あれ?」と顔を上げる。 「………おにいちゃん……?」 「うん。覚えてる? 昼間、一緒に野球をしたよね?」 「おぼえてる、けどぉ……」 クォードの腕の中で、ホリィがきょとんと首を傾げた。 「おにいちゃん、どうしてかみの毛もおめめも黒いの?」 ホリィの大きく見開かれた青い瞳が、フードを落としたユーリに注がれている。 孤児院の世話役の男女は、悲鳴を上げる1歩手前の顔で全身を引きつらせている。少年もまた、ぽかんと口を開け、目の前に現れた人を見つめている。 「だめだよー、おにいちゃん。かみの毛やおめめ、そんなふうに黒くしちゃ。黒いのはね、まおう様とだいけんじゃ様だけなんだよ? かってにそんなことしたら……えーとぉ……とーとい方々にたいして、ぶれい、でしょっ!」 最後は指を立て、ユーりにお説教する少女に、気の毒な世話役達の顔がさらに絶叫モードになる。「ホリィ…っ!!」と呼びかける声は、その場に居合わせた人々の耳に、ほとんど断末魔の叫びの様に響いた。 「ごめんごめん」 ユーリが笑う。 「でも、ホリィ」ユーリの手がホリィの頭を撫で続けている。「ほんとに冷たいよ? やっぱりもう一度お風呂に入って温まった方がいいな。それにね、このおじちゃんとはまたすぐ会えるんだよ?」 ホント!? ホリィが期待のこもった声を上げた。 うん、と頷いて、ユーリが2人の官僚、サディンとグラディアに顔を向ける。 「戦災孤児の施設も視察対象に入っていたよね? あちらの子供達を救済するための参考にってことで」 はい、と2人が頷く。 「だったら、ホリィのいる施設に視察に行けば良いね。そしたらまた会える」 「会えるの!?」 「会えるよ。おっさ…ゴホ、クォード殿、視察に行ってくれるよね?」 「もちろんでござる! ホリィ、聞いたであろう? すぐにそなたに会いに行くぞ。そうだ、その時には菓子など土産をたんと持ってまいることとしよう! 良い子にして待っておれ。よいな?」 「うんっ!」 ホリィが元気に頷いた。 笑顔のクォードと笑顔のホリィが、額をくっ付け合ってさらに声を上げて笑う。きゃっきゃっという少女の天真爛漫な笑い声に、大人達の顔にも笑みが浮かんだ。 「……また見事に懐かれたものね。それにしても、あの殿下がこれほど子供好きとは思わなかったわ」 「ああ、全くだ」 サンシアとカーラが、皮肉とは縁遠い笑みを浮かべながら囁き合う。 「あなた達も冷えたでしょう?」 ユーリの眼差しが、今度は2人の世話役と少年に向いた。 「とととと、とっ、とんでもっ、ございっ、ません……っ!」 あたふたとお辞儀をする世話役と、ぽかんと口を開けたまま全く動かない少年に、ユーリは笑いかけた。 「もう一度お風呂で充分温まってから帰って下さい。でもその前に」 ヴェルダさん、とユーリがすぐ側に立つ女性に声を掛けた。 「この人達に、温かくて美味しいものを食べさせてあげて下さい。あ、もちろんお代はこちらで持ちますから」 律儀に付け加える魔王陛下に、ヴェルダはこの上ない笑みを浮かべて頭を下げた。 「畏まりました、陛下」 最後に思いもかけない一幕を加えて、今度こそ本当に夕食会は終了した。 翌朝。 新連邦調査団の新たな視察の朝が始まった。 「準備は良い?」 サンシアに問い掛けられ、仲良く並んだレイルとアリーが「はいっ!」と答える。今日からは魔王陛下との文化視察は一切お断りし、行政と経済を主とする視察のみが行われることとなっている。魔王陛下もレイルとアリーの決意を尊重して、彼らのことは行政諮問委員会のグラディアとサディンに任せるとしてくれた。 「それでは今日の予定を確認するけど……」 全員の前でサンシアが言いかけた時だった。 バンっ! と。予告も何もなく、破裂するような音を立てて扉が開かれた。 一斉に、全員の視線が扉に集中する。と。 「……っ、ひえっ!」 バスケスが、絞め殺される鶏のような声を上げた。 「……あ、赤……?」 言葉もなく見つめる一同の視線の先で。 部屋に突如踏み込んできたのは、1人の女性だった。 最も目を引くのは、頭頂高く一括りにされた髪と、強烈な光を放つ瞳だ。 腰まで流れる豊かな、真紅の髪。 猫の様に丸い大きな目。青い瞳。 若々しく愛くるしい顔立ち。小柄な身体。 強い意志の光を隠すことなく、爛々とその瞳に宿らせて、その女性はぐるっと部屋の中に集まる人々を見渡した。 そして。 「私と話をしたいのはどなたです!?」 大きな声できっぱりと言った。 ……突然飛び込んできて、どなたですって聞かれても。 誰も反応できないまま、呆気に取られて女性を見つめている。 だが。 「…あ、あわわ……あんた……」 バスケスが女性を指差し、その隣でクロゥも緊張した面持ちで女性を見つめている。 「おや?」 女性が二人に気づいた。 「あなた方、いつぞやの頭の悪い人達ですね? またこちらに来ていたのですか? 頭は少しは良くなりましたか?」 「…………そ、それは……」 どう答えれば良いのか見当がつかない。バスケスとクロゥの2人が揃って口ごもる。その様子に、女性がきゅっと眉を顰めた。 「全く成長の跡が見えませんね! これだから男というものは駄目なのです! 成長の努力をしないまま、年齢を重ねるだけで大人になったと思い込む! 年齢と共に大きくなるのは腹まわりの寸法だけですよ!」 別にそれは男だけの問題ではないだろう、と思いつつ、何となく勢いに押されて反論できない。 「そんなことはどうでもよろしい!」 誰も何も言っていないのに。 「私は忙しいのです! 質問に早くお答えなさい! 誰が私と話をするのですか!?」 私は! 女性が腰に両手をあて、偉そうにふんぞり返った。 「フォンカーベルニコフ卿アニシナです!」 ふっと一瞬の空白。そして。 サンシアがだっと床を蹴り、ほとんど一瞬でアニシナの前に立った。 「しっ、失礼致しました、フォンカーベルニコフ卿! 私は、新連邦友好条約事前調査団におきまして経済部門を担当しております、サンシア・リュカスと申します!」 わざわざのお出で、恐縮でございます! 腰を折るサンシアの背後で、「お風呂の! あの特殊ガラスを開発した方よ!」というアリーの声がした。すぐさま人間達がサンシアの後方に集まる。 「あなたがこの調査団とやらの代表者なのですか?」 アニシナの目は真っ直ぐサンシアに向いている。 「…あ、いえ……」 「お待ちあれ、それがしが……」 アニシナの瞳の輝きに気圧されたようにサンシアが戸惑い、同時にクォードが前に踏み出してくる。が。 「大変よろしい!」 「…………は?」 「男など、何の役にも立ちません!」 「……え……」 「そこに突っ立つ2人を例にするまでもなく、男ほど成長という言葉から縁遠い存在はありません! 敵とみなせばそれと戦うことしか考えず、滅ぼすことしかできないのです。滅ぼした後に何が残るか、男というものはこの数千年、全く考えようとしませんでした。想像力が貧困などという生易しい言葉では、その愚かさを表現することは到底できません!」 世界平和の敵は男です! 凄まじいまでに短絡的な結論を、堂々と宣言するアニシナ。 しかし誰も反論できない。クォードは足を踏み出した形のまま固まっている。 「対して! 女性は違います。女性は命を生み出す神秘の力を有した存在。滅びとは全く対極に位置する偉大な存在なのです。世界の平和は女性の手によってこそ生み出されます。一端滅んだ国家を、新たな国家として再生させることができるのは、命を生み出す女性のみ! よって、あなたが我が国との友好の第1歩となるこの調査団の代表を務めることは、世界平和のために実に正しいことなのです!」 それで? アニシナの視線が、サンシアからわずかに逸れた。その目は、今度はカーラとアリーに向けられている。 「この2人の役割は何なのでしょう?」 期待を込めて質問されて、カーラは思わずごくりと喉を鳴らした。 「……あ、あの……失礼致しました。私、カーラ・パーシモンズと申します。こちらにおりますのは、妹のアリーです。その……申し訳ありません、私はただの武人でございまして……」 「何を謝るのです?」 「あ、いえ、その……」 武人など、官僚や学者から見ればただの破壊者に過ぎないと思われているのではないか、そんな気がしてしまったのだが……。 「私も武人です」 「は!?」 カーラが、その場にいた全員が、揃ってきょとんと目を瞠る。 「おや? 知らなかったのですか? 眞魔国で『卿』がつく貴族階級は基本的に皆武人ですよ? こればかりは男性も女性も関係ありません。違いは現役か予備役かというそれだけです。私は現在のところ予備役ですので、危急の事態が生じない限り軍服に袖を通す必要はありませんが」 「…そ、そう、だったのですか……」 それは全くの初耳だった。つまり、軍服を着ている貴族は現役で、華やかな礼服やドレスを纏っているのは予備役、ということになるわけか……って、ではコンラート達兄弟の母、ツェツィーリエも武人なのか!? 「もっとも、当代陛下が玉座にあられる限り、私が軍服をまとうことはないと思いますけどね。とは言っても、コンラートのような人もいますが」 え? とカーラ達の顔が上がる。良く分からないという人間達の表情に、アニシナが軽く肩を竦めた。 「かつての大戦の後、コンラートは軍籍を退いたのです。ですから彼は本来現役軍人ではありません。ですが、あのように当たり前に軍服を着て魔王陛下の護衛を務めておりますし、王都警備の最高司令官でもあります。その他にも軍の仕事に色々と携わっています」 「そ、それは、どうして……」 「迂闊だからです!」 「……………」 「おそらく本人も周囲の者も、コンラートが軍籍にないことをついうっかり忘れているのでしょう。どうして男というものはこうも迂闊なのでしょうね!」 それは男だけの責任なんでしょうか。 「そう言えば、大シマロン後の新たな国家における指導者も女性だと聞き及んでいます」 アニシナがうんうんと大きく頷きながら言った。 「女性が指導的地位に就いているとは、新連邦とやらもなかなか見所がありますね! そうやって、無能な男共を排除し、新たな国家を正しく導いていくことが重要なのです!」 気に入りました! アニシナが莞爾と笑って大きく頷いた。 「あなた方、私の研究室においでなさい! いかに男の無駄な支配を脱し、女性による正しい国家運営を確立していくか、具体的に話を進めてまいりましょう! このフォンカーベルニコフ卿アニシナ、女性の自立と因習からの解放、そして本来尊ばれるべき女性の権威の拡大のためなら、どのような協力でも惜しみませんよ! さっ、早速参りましょう!」 「ああああのっ、お待ちください、フォンカーベルニコフ卿!」 「何です?」 くるっと振り向き扉に向かうアニシナを、咄嗟に止めるサンシア。怪訝な眼差しでアニシナが顔を向ける。 「あっ、あのっ、私達、これから行政関連の視察に向かうことになっておりまして……!」 おや、とアニシナが再び身体を人間達に向けた。 「そういえば、グラディア達がそのようなことを言ってましたね。……そういうことなら仕方がありません。では時間が空き次第、私の研究室を訪ねておいでなさい。よろしいですね? 早朝でも夜中でも、私はいつでも……ああっ、いけない、私としたことがっ!」 「……一体ど……」 「私の新型乳酸毒入り健康飲料『今日もお腹は超特急君』を放ってきてしまいました! あれは元々『今日もお腹は元気君』だったのですが、グウェンダルに飲ませた結果から改名し、現在改良を加えているところで……。あ、いえ、そのようなことはどうでも良いのです。このまま放っておいたら、あれは発酵しすぎて体積が3785倍に増えてしまいますっ! 今は大型酒樽に満々と……。ああ! そういえば夕べもにたあにしたギュンターが汁まみれで床に転がっていたはず! これは大変です! 一刻も早く私の大事な新型乳酸毒を救出に向かわねば!」 ではっ! 一声叫ぶと、真っ赤な髪をブンっと鞭の様に振り、アニシナは部屋を飛び出していった。 しん、と静けさが部屋を満たす。 「………あのぉ……」 おずおずと、レイルが第一声を上げる。 「僕達……排除されちゃうんですか……?」 「で? 君は一体何をぶすくれてるんだい?」 「ぶすくれてなんかねーよ!」 署名をする手を止めて、魔王陛下がキッと顔を上げる。 「……ただ」 「ただ?」 またからかわれるだけだと気付いたのか、ぷくっと膨らみかけた頬を急いで元に戻すと、ユーリは「仕事、仕事!」と視線を書類に戻した。 「ユーリはアリー達に遊んでもらえなくていじけているんだ」 「ヴォルフっ!」 おれはいじけてなんかいねーぞ! ユーリが喚く。 「なんだ、そんなことか。……何でも、お勉強に忙しいとかいうんだろ?」 そうなんだ、とペンを置いて話に乗りかけた魔王陛下がハッと顔を引きつらせた。 向かいの机に座る宰相閣下の底光りのする眼差しが、「仕事をしろ!」と怒鳴っている。 ガバッと覆いかぶさるように机に向かい、大慌てで署名を再開する主の姿を微笑ましく見つめていた護衛が、その顔をスッと上げた。 視線の先では、大賢者と弟が向かい合ってソファに座り、執務時間中であることも気にせず、お茶とお菓子を優雅に楽しんでいる。 「レイルもアリーも、視察についていくだけではなく、どうやら毎日レポート提出を課せられているようです。時間があれば机に向かっていて、先ほども陛下が部屋へ遊びに行かれたのですが、忙しいからと丁重に追い出されてしまいました」 ちなみにアドヌイとゴトフリーの2人は城を出て、くーるふぁいたーずの合宿所に入ってしまった。練習に参加するのに、いちいち血盟城から通っていては大変だからだ。よって、今ユーリの野球の相手をしてくれるのは、コンラートを除けば誰もいない。 その説明に、「ふーん」と大賢者が鼻を鳴らす。 「調査団員が、本来あるべき姿に戻ったってことじゃないか。別に驚くにはあたらないよ。……それで視察は? どういった所を廻ってるの?」 村田の質問に、コンラートが「はい」と受ける。 「戦災孤児の施設や職業訓練所、それから昨日は花火工場と研究所を訪れました。火薬の平和利用という考え方はかなり新鮮だったようですし、手持花火を試させてもらって喜んでいたそうです。何本か、土産に貰ってきたらしいですね。明日からは泊りがけで道路整備の設計施工組合と工事現場を重点的に視察することになっています。また同時に、街道と街道沿いの村々を訪れ、旅の安全を護るための方策、そして各村の活動などを見て廻る予定です」 「インフラの整備は急務だろうしねえ。……そういえば、戦災孤児の施設、大変だったみたいだね?」 「そのようですね。さすがにそれは陛下がご一緒するわけにはいきませんでしたので、我々も報告を受けただけですが」 約束通り訪れた戦災孤児の施設で、新連邦調査団一行は大歓迎を受けた。 そしてこれまた約束通りにクォードが大量のお菓子や衣類、生活必需品などを土産と称して寄付したため、子供達の彼を見る目はきらきらと、ほとんど英雄を仰ぎ見る眼差しになっていたという。 ホリィはクォードの肩によじ登って離れず、子供達も最初から最後までクォードにまとわり付いて、クォードも視察どころではなくなってしまった。懐く子供達にせがまれるまま、やれ野球だかくれんぼだ鬼ごっこだと遊びまわり、他の仲間達の視察が終了する頃には、縋る子供達から「帰らないで」と泣きつかれる始末となった。結局その日はクォード1人が施設に残り、泊り込みで子供達の相手をすることになってしまったのだ。 「あの男がねえ……。人は見かけによらないってことか。まあ、1つの施設にだけ大量の寄付をするのはかなり問題だと思うけどね。それはともかく、どうなんだい? 彼等の眞魔国観は少しは変化したのかな?」 「……? 眞魔国、かん、って? 村田?」 サインをしながらも注意は向けていたらしい。ユーリがふと顔を上げて親友を見た。 「そりゃ渋谷、彼等は初めてこの国に来たわけだしね。それに魔族とまともにつきあうのも初めてだろ? イロイロと先入観だの何だのあったとしても不思議じゃないよ。きっと魔族について色んな想像もしてただろうし。たぶん彼等が目にした魔族の現実は、彼等にとっても驚きの連続だったんじゃないかな? 日々実態を目にすることで、彼等の中にも変化が生まれたんじゃないかと僕なんかは思う訳さ。で? どうなの、ウェラー卿?」 「仰せの通りです、猊下」 コンラートが軽く頭を下げる。 「彼等は皆、自分達の魔族に対する認識がこれまでどれほど浅いものだったかを、真剣に実感している様子です。同時に、自分達の国の者の多くがいまだに古い認識のままでいることに、かなりの焦りと早急な改善の必要性を感じているようですね」 やっとかい、という村田の呟きは、幸いユーリの耳に届かなかった。 表面だけをさらっと撫でただけの村田とコンラートの会話に、ユーリは素直に首を傾けた。 「何だよ、それ。カーラさん達、何か焦ってるの? だったらそんな必要ないって言ってあげないと。だってさ、そんなの当たり前のことじゃん。人間は4000年以上もずっと魔族は魔物だって言い聞かされてきたんだし。近頃やっと誤解だって気付いてくれる人も増えたけど、実際はまだまだなんだもんな。それに何より、新連邦とはこれからなんだから! あれだけでっかい国だし、人口だって多いんだから、理解してくれない人がたくさんいたって仕方がないよ。今回来てくれたあの人たちが始まりの第1歩だ。おれはいつかきっと、人間も魔族もお互いの違いなんか誰も気にしない日がやってくるって信じてる。信じて、おれのできることをやるよ。焦らずに、1歩ずつ。焦って何かやっても良いことなんかないもんな。ゆっくりじっくり。これからこれから! な? だろ?」 見上げられて、コンラートがにっこりと笑みを浮かべる。 「そうですね。これからです。頑張りましょう」 「おうっ!」 「……話がまとまったのなら、さっさと仕事をしろ!」 宰相閣下のお決まりのお叱りに、「うわっ」と声を上げて魔王陛下が書類に向かう。 「サボるなよ、ユーリ。その仕事を終えないと、このロシュフォールの職人から献上されたケーキは、全て僕が頂くぞ」 「ヴォルフ! それ全部新作なんだぞ! ホントはおれにって持ってきてくれたんだ! お前達にはちゃんと分けただろう!? おれの分、残しとけよな!」 「ふん。これが誰の腹に納まるかは、全てお前次第だ」 「あのなーっ!」 言い合う年少コンビを他所に、大賢者と陛下の護衛が軽く目配せを交わし、頷き合った。そして姿勢を戻すそれぞれの顔に、期せずしてほぼ同時に柔らかな笑みが浮かんだ。 まったく、渋谷。 村田は魔王陛下のために用意されたケーキに容赦なく先割れスプーンを突き刺し、大きな欠片を削り取るようにしながら心に思った。 君のその清々しいまでの素直さに触れてると、自分がどうしようもなくあざとい小利口者に思えてならないよ。 実際。ケーキを口に入れ、くす、と村田が笑う。 精霊の王にして、偉大なる帝王の資質を備えたユーリの前では、自分の知略などその程度のものなのかもしれないが。 「無自覚ってのがまた面白いんだけどね………って、おや?」 もぐもぐとケーキを咀嚼する村田の目が、ぱあっと輝いた。 「うん! これも美味しい! いやー、田舎のケーキ屋さんも侮れないなー」 もうちょっと貰っちゃおう。 言いつつ、ざっくりとスプーンでケーキを割る村田に、ヴォルフラムが「ああっ!」と素っ頓狂な声を上げ、ユーリがハッと顔を向ける。 「うわーっ、村田っ! だからそれおれのだってば……っ!」 「いいじゃないか、減るもんじゃなし」 「だから減ってるだろうがーっ!!」 そんな執務室の様子を何気なく眺めていたもう1人の護衛である女性士官は、ふと胸のポケットに違和感を覚えて中を探った。 指に紙の感触が当る。 「………忘れていた」 新連邦から来た男が自分に渡した白鳩便の届け先。手紙が欲しいと言っていた。 自分の手紙が欲しいなら、先に血盟城宛で手紙を送ってくれれば良い。このようなものを渡さなくても、住所を書いてくれれば返事を出す。そう言うと、男はもちろんそのつもりだと言いながら、「あんたに俺のいる場所を知っといてもらいたいんだ」と答えた。 ……人間の国を訪ねる予定もないし、知ったからどうなるとも思えないのだが。 しばらくその紙を見つめていたクラリスは、やがてふうと息をついて、再びそれを胸に戻した。 あの男を見ていると、何となく懐かしい気分になる。忘れていた思い出がなぜか次々と思い出される。……あまり喜ばしいこととは思えないが。それでも……。 クラリスは胸に湧き上がってきた何かから目を逸らすように、窓の外に視線を向けた。 空が青い。今日も良い天気だ。ああ、そう言えば……。 「……そろそろカヴァルゲートとの親善試合だな」 そしてついにその日がやってきた。 眞魔国代表ちーむとカヴァルゲート代表ちーむによる、野球の親善試合。その当日。 ぼーるぱーくの観覧席は、立錐の余地もないほどの観客に埋め尽くされていた。 そして観覧席上部に設置された「ろいやるぼっくす」では、魔王陛下、大賢者猊下、宰相閣下、フォンビーレフェルト卿、そしてカヴァルゲート代表としてヒスクライフが席についている。 魔王陛下と大賢者猊下という、「並び立つ双黒」が文字通り並んで姿を現した時の興奮に、満員の観客達はまだ酔い痴れていた。 「わー、ここに座るの久しぶりだなー」 「だろうね。君はもっぱら芝生組だし。君がここに座るのは、こういう時と眞魔国リーグの時くらいじゃないか?」 「今日もうっかり芝生に向かっていくから皆焦っただろうが。それどころかあんな大きな声で『つい癖で』などと! これで魔王がお忍びで試合観戦をしていることが民にバレてしまったぞ」 「……おれがしょっちゅう出歩いてることは、結構知られてるはずだろ!」 他愛無い会話を交わす年少組の隣では、宰相とヒスクライフがお茶を飲みながら互いの労を労っていた。 「閣下が野球観戦をされるのは滅多にないのでは?」 「ええ、正直言ってあまり興味はないので。しかしまあ、これだけ民の心を掴んだ催しですし、私も1度きちんと観ておく必要があると考えた次第です。ヒスクライフ殿も、ヒルドヤードのことからカヴァルゲートのことまで、何でもかんでも任されて大変ですな」 「いや何、自分で何もかも把握しておかなくては気が済まないだけですよ。ところで……」 ちらっと背後を確かめて、ヒスクライフが続ける。 「ウェラー卿のお姿が見えませんが……?」 ろいやるぼっくすの後方には見慣れたの男女2名の士官の他に、兵士が数人並んで立っているだけだ。 「コンラートは、陛下のお言いつけで別の場所で待機しています。間もなく……出てくるでしょう」 そして観覧席にも、同じように会話を交わしている一団がいた。もちろん新連邦の人間達だ。 カヴァルゲート訪問団の随員に過ぎない彼等には、「ろいやるぼっくす」に入る資格はない。 彼等が今回占めている場所は芝生ではなく、ぐらうんどと壁を隔てただけの最前列の観覧席だった。彼等を含む随員達に眞魔国側が用意してくれたのだ。彼等と共に、これまでの日々ですっかり親しくなったサディンとグラディアも席についている。そしてまた彼等の席のすぐ側には、今回無料で招待された孤児たちの集団もいた。元気な子供達がかなりの大集団でいることから、他の場所に増して騒々しい。その中には、おそらくあのホリィもいるのだろう。 「……クォード殿は大丈夫かな……」 「魔王陛下のお言葉ですもの、あの人だってきっとちゃんとして……くれるかしらね、本当に……」 カーラとサンシアが、同時にほーっとため息をついた。 「……どうも嫌な予感がするんだ」 カーラが言って額を押さえる。 「あ、見て見て、ほら! アドヌイとゴトフリーがいるわ!」 アリーが立ち上がってぐらうんどの中を指差した。 彼等2名は今日、ぼーるぼーいという役を頂いて、ぐらうんどの中で観戦することが許されている。アリーはそれを知ってからしきりに羨ましがっていた。 「どうしてかしらね、あの2人に関しては全く不安を感じないのよ」 「しっかり者ですからね、2人共」 サンシアの隣に座っていたラースが笑って言った。 「ではクォード殿はどうなんです?」 今度はタシーが、サンシアの背後から笑って質問を投げ掛けてきた。 「クォード殿は……正直何を仕出かすか予想がつかないからねえ」 ため息をつく人間が3人に増えた。 やれやれと思いつつ、ふと顔を上げたカーラの視界に、話し込む2人の男の姿が映った。 クロゥとサディンだ。 どこがどう合ったのか、気がついた時にはこの2人、何故かいつも一緒にいて、暇があれば話しこんでいる。バスケスに言わせると、ある夜酒場へ出かけ、そこでじっくり語り合って以来なのだと言うのだが……。 相棒が他の男とこれほど親しくなるのはどんな感じだ? とふざけて尋ねてみたのだが、その時のバスケスの反応はどうも妙だった。歯切れが悪いというか、「放っておいてやってくれや」というセリフが、バスケスという男にしては何ともいえない違和感が……。 カーラの訝しげな視線に気付いたのか、グラディアが「どうしたの?」と言いながら、その視線の先を追った。そして。 「ああ……あれね……」 と、これまた意味深な発言をする。 「何か……あるのか?」 驚いてカーラが問えば、これもまた妙な表情を浮かべてグラディアが口ごもる。 「……グラディア?」 「放っておいてあげてくれる?」 バスケスと同じことを言う。 「それは……」 「傍の者が気にすることじゃないのよ。何ていうのか……」 ふう、と息をついて、「まさかね」とグラディアが続けた。 「まさか……あなた達の中にも犠牲者がいたとはねえ……」 「犠牲者!?」 不穏な言葉に、カーラは目を瞠った。 ごめんなさい、と、グラディアが苦笑を浮かべる。 「変なコトを言っちゃったわね。でも……本当に気にしないで。彼等は彼等でちゃんと気持ちを整理するわ」 ………さっぱり分からない。 やがて。 ぐらうんどで練習していた選手達がベンチに下がり、代わって手に何か棒のようなものを持った男性が姿を現した。 『皆さん!』 ぼーるぱーく全体に、人の声とは思えない音量でその言葉が響き渡った。 「っ! な、なに、この音!」 アリーがひっくり返った声を上げて上を見る。音が空から降ってきたような気がしたのだ。アリーだけではない、カーラもサンシアも、人間達は皆空を見上げて何かを探すようにきょろきょろと首を振った。 『本日は眞魔国代表ちーむとカヴァルゲート代表ちーむによる友好親善試合にお集まり頂き、ありがとうございます!』 「……こ、怖い……。声が……。これ魔術なの…?」 「大丈夫よ」 大きな声というにはあまりに異様な「音」に、びくびくと呟くアリー。その姿に、苦笑しながらグラディアが優しく声を掛けた。 「ほら、彼が手に持っているものがあるでしょう? あれ、フォンカーベルニコフ卿が開発なされた魔道装置『とってもめでたい声広がり君』っていうの。声広がりというのは、末広がりと掛けてあるのですって。末広がりというのがどういう意味なのかは聞かないでね。知らないから。とにかく、あれに向かって声を出すと、ほら、あそこを見て」 サンシアの指が、観覧席の一番上、四隅に設置された巨大ラッパのような妙な形の物を指す。 「あそこから音が大きくなって出てくるの。だから声が上から降りてくるような気がするのね」 「………またフォンカーベルニコフ卿か……」 「素晴らしい方よ」 「…………なるほど」 ところで、どうしてフォンカーベルニコフ卿は開発したものに「君」をつけるのだろう。いや、その前に、どうしてそんな妙な名前ばかりなんだろう。……やはり聞いてはいけないのだろうか……。 頭が良すぎる人間は変じ、いや、個性的な人物が多いというが、そうか、やはり、人間も魔族も同じなのだな……。 言葉に出さないまま、カーラはしみじみと心に頷いた。 『大変お待たせ致しました! ただ今より、友好親善試合を開催いたします! まず最初に!』 言葉を切って、進行役の男性がぐるっと観客達を見回す。 『我らが偉大なる第27代魔王、ユーリ陛下より、お言葉を賜りますっ!』 うおぉっと、人々の声が波のうねりの様に上がり、拍手が沸く。 その声と音は、ユーリが「ろいやるぼっくす」で立ち上がり、人々に手を振ることでさらに盛り上がった。 「陛下! ユーリ陛下!」 「魔王陛下ばんざい! 眞魔国ばんざいっ!」 熱狂的な民の声。 『皆さん! こんにちは!』 ユーリの声がぼーるぱーく中に響く。歓声がさらに大きくなる。その声が納まるのを待って、ユーリは言葉を続けた。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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