フィールド・オブ・ドリームゲーム・13



『今日、こうして人間の国の皆さんと友好親善試合が開催されることを、心から嬉しく思っています! カヴァルゲート代表ちーむの皆さん、本当に良く来て下さいました! こうやって……』

 ユーリはゆっくりと満員の観客達を見回した。

『こうやって、野球はもちろん色々な形で魔族と人間が新たに出会い、新たな交流を繰り広げていくことができれば、そしてその出会いと交流を、世界中に少しずつでも広げていくことができれば、いつかきっと、この世界から種族の違いによる差別や偏見や争いが消えていき、本当の平和がやってくると信じています』

 ユーリの言葉に聞き入る観客席から熱意のこもった拍手が沸き起こる。

『でも今日のところは』
 ユーリがガラッと声を変えて、明るくその言葉を発した。
『難しいことは抜きで、野球を思いっきり楽しんでください! おれも城で待ってる書類の山のことは全部忘れて、この試合を楽しませてもらいます。選手の皆さん、頑張ってください! 観客の皆さん、どうぞ応援、よろしくお願いします!』

 わぁっという歓声と、笑いと、拍手、そしてユーリを呼ぶ声が一気に大きくなる。
 観客達のその思いを受け取るようにユーリは手を振り続けた。

「………ユーリって、本当に本気で世界から戦争をなくそうって考えてるんですね……」
 しみじみと呟くレイルに、「その通りよ」とグラディアが答える。
「陛下が即位あそばされた頃は、魔族と人間は文字通り一触即発の状態だったわ。その状態から今の平和に民を導かれたのだもの、偉大な王よ、ユーリ陛下は。……自分はそのために王になったんだって、よく口にもなさっておいでだし」
「そうか……」
 ろいやるぼっくすから目を離さないまま、カーラは頷いた。
「だが…私は時折不思議でならなくなる。ユーリは、陛下は、普段は本当に元気な…こう言っては何だが、普通の少年に見える。話していてもそう思う。それがどうすればこれほどの、偉大と賞賛される王となれるのだろう。……宰相閣下やコンラートといった有能な側近が揃っていることは分かるのだ。だがそもそも彼等のような側近達が、ユーリを傀儡にするでもなく、あれほどまでに忠義を尽くす理由は何なのだろう……?」
 ほとんど独り言の様な言葉に、周囲にいた友人達の視線が集まった。
「素晴らしく魅力的な人物だと思う。慈悲深く、高い理想を持った、民にとって得がたい王だとも思う。だがふと立ち止まってよく考えたら、彼がどうしてここまで人を惹きつけて止まないのか、分からなくなる時があるんだ……」
「それは私達だって同じだわ」
 思わず顔を向けた先で、グラディアとサディンが笑みを浮かべてカーラを見ていた。
「陛下のお姿を目にしただけで、どうして私はこんなに幸せになれるのか。陛下の笑顔を見ていたい、陛下の思いを民に、民の思いを陛下に伝えて、陛下の理想をどんどん現実に近づけていきたい、その力の一助になりたい。そんなことをどうしてこんなに強く願ってしまうのか、私だって分からないわ。サディンも、私の同僚達も皆同じよ。分かっているのは、私達のこの思いが、『魔王陛下』に対する臣民の忠誠心なんて単純なものじゃないということだけ ……。以前、大賢者猊下が仰せになったことがあるの」
 そう言って、グラディアもまた、視線をろいやるぼっくすのユーリに向けた。

「偉大な魂とはそういうものだ、と。精霊の王たるユーリ陛下は、まさしく世界の中心に立つ方だと猊下は仰せになられたわ。ご本人がどう思われようと、他人の思惑がどう働こうと関係ない。なぜなら、陛下を求めるのは、この世界そのものだから。陛下がその理想を高く掲げて道を歩まれる限り、世界は陛下を中心に、そのお力と光を糧にして、少しずつ少しずつ、でも確実に変化していくだろう、と」

 ほう……っと、カーラの胸から息が吐き出された。

 ユーリは。この世界そのものが求める王……。

『お待たせ致しました!』

 思考がそれぞれ別世界に入っていた人間達が、揃ってハッと顔を上げた。
 ぐらうんどでは再び進行役の男が声を張り上げている。

『これより、始球式を始めます! 皆さん!』

「いよいよね……」
 サンシアが緊張した声で呟いた。隣のカーラも頷く。

『本日の始球式は、皆さんの記憶に長く残るだろう特別なものとなりました!』
 観客席から「ほお…」とも「おお…」ともつかない、怪訝な声が上がる。
 人々が自分の言葉に集中していることを確認して、男がさらに声を大きくした。

『本日、始球式のぴっちゃーを務められますのは! 眞魔国の民であれば知らぬ者のない我が国屈指の剣豪にして、眞魔国史上に必ずやその名を残されるでありましょう希代の英雄!』

 観客達の「おお…!」という声が、期待を込めて盛り上がっていく。

『ルッテンベルクの獅子とその名も高い! ウェラー卿コンラート閣下であります!!』

 うわきゃあぁぁぁあああ……! と、歓声が一気に爆発した。
 その叫びにも似た声は、コンラートがグラブとボールを手に姿を現した途端、一気にそのヴォルテージを上げた。
 歓声と拍手は魔王陛下に対するものと少々色合いが違う。かなり甲高い、紛れもなく女性と思しき声─ほとんど絶叫─が、格段にその割合を増している。

『そして、ばったーぼっくすには! ウェラー卿が大シマロンに潜入し、かの国を壊滅すべくお働きになっておられたまさにその時! 閣下と共に対大シマロンの兵を指揮なされていた戦友、大シマロンに滅ぼされた元ラダ・オルド王国の王太子、クォード・エドゥセル・ラダ殿下が務められます! 殿下は大シマロンなき後、ウェラー卿のご指導の下、新たな国家を建設することに尽力され、今! 眞魔国との間に友好条約を結ぶべく、我が国をご訪問なされておられたのです!』
 おお、と人々から嬉しい驚きの歓声が一斉に上がった。
『手を携えて共に戦い、そして今、両国の間に平和を齎された閣下と殿下が始球式を務められますことは、世界平和の象徴であるこの友好親善試合にふさわしいことと思われます! 皆さん! どうぞ盛大な拍手をもう一度お願いいたします!』

 うわぁぁぁ…! という感動の歓声と共に、大きな拍手で観客席がうねった。それに答えて愛想良く手を振るコンラートに、彼の名を呼ぶ女性達の声がさらに高く響き渡る。
 そしてクォードはというと、人々の歓声や拍手などそっちのけで、ひたすら素振りを続けていた。

「………女性にもてもてのウェラー卿は良いとして、あの殿下、始球式の意味が分かってるのかな? 何だか殺気を感じるんだけど……?」
 お茶のカップを傾けながら、ろいやるぼっくすで村田が呟いた。
「もてもてはどうでも良いんだよっ、って良くないけど、いや、今は良いんだ、今だけは! ……えーと……」
 こほ、と軽く咳払いをするユーリ。
「始球式を誰がやるかって話をしてたらさ、おっさんがいきなり立候補してきて。ピッチャーコンラッドで、もう1回、何が何でも勝負したいんだって……」
 勝負? 村田が目をパチパチと瞬かせて繰り返した。
「勝負って? だって始球式だよ? 始球式っていったら、バッターは空振りするもんだろう!?」

「僕、いつか聞いてみたいと思ってたんですけど」
 そう質問したのはタシーだった。
「始球式って、試合前の儀式ですよね? それは良いとして、分からないのは、どうしてばったーは投げられたぼーるを打たないのかってことなんです。何度か見ましたが、必ずわざと空振りしてるでしょう?」
 そう言われれば、と、カーラ始め全員が頷いた。それもそうね、とグラディア達までが首を傾けている。
「あれはね」
 レイルと顔を見合わせて頷きあってから、アリーが答えた。官僚達の疑問に答えられることが嬉しくて堪らない様子だ。
「ぴっちゃーに対しての敬意の表れなのよ。始球式は儀式だから、ぴっちゃー役は野球と関係ない人が務めることが多いの。それで、これはユーリに聞いたんだけど、昔あった試合で、国の大臣か何かを務めた人が始球式のぴっちゃーになったんですって。ところがその人の投げた球がとんでもない方向へ飛んでいってしまったのね。ほら、素人だから。ところがその時ばったーぼっくすに立っていた選手が、大臣を務めるような立派な人の投げた球をぼーるにしちゃいけないって咄嗟に考えたわけ。で、バットを振ったの。空振りすれば、どんな球もすとらいくになるでしょう? それ以来、始球式ではぴっちゃー役になった人に敬意を表して、投げられた球がどこへ飛んでいっても空振りして、すとらいくにするのが慣例になったのよ」
 その試合というのが、早稲田大学チームとアメリカの選抜チームとの試合で、始球式のボールを投げたのが大隈重信、バッターは当然早稲田の学生だった、というのは、もちろんアリーの知ったことではない。
「後はね、もしばったーが投げられた球を打っちゃって、その球がぴっちゃー役のところへ飛んでいったら大変、っていうのもあるのよ。だって始球式のぴっちゃーは素人が多いから、球が打ち返されても取れないでしょう? 下手したら大怪我してしまうわ。だから用心のために空振りするの。分かった?」
 なるほど、とアリーとレイルを囲む全員が大きく頷いた。
 ちなみに、この始球式の形式は日本から他国にも広まり、現在アジア各国の始球式はこの形で定着している。
 という薀蓄はどうでも良く。

「………ぴっちゃー役に敬意を表して、同時に怪我をさせないため、なんだな……?」
 カーラの確認に、アリーとレイルが頷いた。
「それはつまり……」

 コンラートとクォード殿には全く当て嵌まらないわけだな……。

 ふっと、その場の全員の呼吸が止まった。
 次の瞬間、全員の視線が一斉にぐらうんどに向かう。

 余裕綽々、歓声を送る観客達に向かってにこやかに手を振るコンラート。
 打つ気満々で素振りを続けるクォード。

「……ああ、やっぱり嫌な予感が……」
 カーラが言って、頭を抱えた。


「……始球式のボールって、打ち返しても構わないんだっけ?」
「まあな。別に打っちゃ悪いって規則はないよ。引退した新庄なんて、始球式のボールをスタンドに運びたいっては っきり言ってたくらいだしさ。それにバットを必ず振らなきゃいけない訳でもないし……。ただ……」
「我が国においては、始球式のボールは空振りするものって陛下がお決めになったしねえ」
「べ、別に決めたってわけじゃなくて、ただ……うー……やっぱ決めたことになるのかな……?」
「まあ別にだからどうってこともないけどね。もし彼がウェラー卿のボールを打ち返したとしても、『なんだあいつ、そそっかしいヤツ〜』って笑われるだけだし」
「……いや、だから打ち返したからって別に笑われることじゃないしー……」
「僕は笑っちゃうけど」
「…………」
「で? あの元殿下、バッターとしてはどうなのさ。ウェラー卿と勝負したいって言ってるんだろう?」
「ああ、それは……」
 言った途端、ユーリがにこっと笑った。村田がおや? と友人を見返す。
「コンラッドが、おれの見てる勝負で負けるわけないじゃん!」

 コンラートがピッチャーズマウンドに立つ。と、すっと顔を上げ、その視線を真っ直ぐろいやるぼっくすに向けた。
 距離を置いて、コンラートとユーリの視線がしっかりと絡まる。
 ふっとコンラートが微笑む。それから胸に手を当てると、コンラートは主に向けて優雅に腰を折り、お辞儀をした。
 わあっと人々の声が上がる。どこか冷やかしているような明るい響きに、ろいやるぼっくすでは魔王陛下がひとしきり照れている。
 顔を上げたコンラートが、改めて本塁に視線を向けた。ほぼ同時に、クォードもばったーぼっくすに立ち、バットを構えた。

 2人の視線がぐらうんど上でぶつかり、そこに見えない火花が散る。始球式ではあり得ない緊張が、2人を中心に広がっていく。
 その変化は、ろいやるぼっくすの人々はもちろん、観客達や当然新連邦の人間達をも瞬く間に巻き込んでいった。
 空気の急変したぐらうんどを、人々が固唾を呑んで見つめ始める。

 コンラートがゆっくりと、大きく振りかぶる。
 クォードのバットを握る手に力が籠もる。

 続く、コンラートの投球モーション。しなる腕。
 大きな手から放たれたボールは、容赦のない速さで本塁に向かっていく。

「………ストレート…っ!」

 ユーリがろいやるぼっくすから身を乗り出した。

 ぶんっ!!

 空を切る、強烈な音。

 思いっきりバットを振り抜いたクォードの身体は、バッターボックスでほとんど反転している。
 ボールは。
 キャッチャーのミットにがっちりと受け止められていた。

 ……この2人は共に武人であり、大シマロンという強大な敵と戦ってきた戦友だ。だから、緩いボールを投げて、軽く空振りするなんて、そんな甘ったるい真似はできないんだろう。そうとも! 始球式で真剣になるなんて、どこかお間抜け、などと考えてはいけない! これは、お互いが常に真剣勝負でその力を競い合う、真の友情で結ばれた親友同士の儀式なのだ!
 と。
 ちょっと無理矢理感のある、好意的で感動的な結論に到るだけの間を置いて、うおぉっという歓声と温かい拍手が一斉に沸き起こった。

 ほーっと肩から力を抜き、椅子にぽとんと腰を下ろしたユーリの視線の先に、またまた愛想良く手を振るコンラートがいる。
「……おっさんには悪いけど、すごいストレートだったなー。さすがコンラッド」
 なあなあ。
 誰にともなくユーリが呼びかける。

「おれのコンラッドって、世界一カッコ良いよなー」

 頬をほんのりと染め、くふくふっと笑いつつ、ユーリが呟いた。
 ……カッコ良いコンラートさえ見られれば、始球式だろうが試合だろうがどうでも良いんだな。
 偉大なる魔王陛下を生暖かく見つめる一同が、揃って大きなため息をついた。


「……と、とにかく空振りしたし、これで始球式の形は整ったわけだな…?」
 確認するカーラに、ぐらうんどを見つめたまま全員が頷く。だがまだ安堵の表情からは遠い。
「これで何事もなく試合が始まってくれれば……」
 カーラの嫌な予感は外れたことになるのだが……。
 カーラ達が見つめる先では、ろいやるぼっくすに向け再度頭を下げたコンラートが、にこやかにぴっちゃーずまうんどから降りようとしている。このまま無事に……。
 だが。

「待ていっ! コンラートぉ!!」

 うわぁっ、と咄嗟に頭を抱えるカーラ。

「クォード殿!」
 ラースが思わず立ち上がり、大きな声を上げる。が、もちろんぐらうんど上のクォードは見向きもしない。

「このまま終わってなるものか! コンラート! もう一度俺と勝負しろっ!」

 ばっとを突きつけ怒鳴るクォードに、「あ、あの、これは始球式で……」と進行役が声を掛けるが、やはり見向きもされない。
 対するコンラートは軽く眉を顰めると、「阿呆」と一言残し、すいっと身体の向きを変え、出口に向かって歩き始めた。

「おのれ、逃げるかっ、コンラート!!」

 不穏な雰囲気と言葉に、観客席がざわめく。

「完璧に勘違いしてますよ、あの人」
「このままでは我々の立場が……!」
「どっ、どうしよう、お姉様……っ」
「どうしましょう、カーラ殿!」
「……カーラ! 頭を抱えて現実から逃避しても、事態は好転しないわよ!」
「………いっそ眠らせてくれ……」
 この状況で、一体自分にどうしろというのだ。……何だか泣きたくなってきた。

「へえー、これはまたとんでもなく笑える展開になってきたねー」
「……あっちゃー……」
 村田の目が楽しそうに輝きだせば、ユーリは目をまん丸に見開いて、グラウンドの2人を見つめている。
「あの男を下がらせろ! このままではカヴァルゲートの代表団に対して礼を失することとなる!」
 怒鳴る宰相閣下の隣で、ヒスクライフが「いやぁ、これは驚きましたなあ」と苦笑を浮かべている。
 そして彼等の背後では、ヨザックが「おもしれー」と護衛の立場も忘れてくっくと笑い、「救いようのない馬鹿だな、あの男」とクラリスが冷たく言い放っていた。


「クォード」
 コンラートが、鼻息も荒く自分を睨む男に向かって言った。
「始球式は1球切りと知っているはずだぞ。正々堂々の一発勝負に負けたんだ。潔く敗北を認めてこそ、元王太子の誇りも護られるというものだろう。……そんなことも分からない男だとは思っていなかったのだがな」
 俺はあなたを見損なっていたのか?
 きりきりと歯を噛み締め、喉の奥から唸りを発する男に、コンラートが哀れみの目を向ける。
「……あのー、ですから、始球式は勝負じゃないんですがー……」
 おずおずと、だがほとんど命懸けの気分で進行役の男が割って入る。が、やっぱり無視された。

「…………分かっておるわ、そのようなこと……。だが……」

 俺は、約束したのだ。

「約束?」
 コンラートが怪訝な表情で眉を寄せた。
 まさしく。その時だった。

「おじちゃんっ!!」

 思いもかけない場所から、思いもかけない大きな声が、懸命の叫びが、グラウンドに響き渡った。

「……っ! あれは……!?」

 コンラートとクォード始め、ぐらうんどにいた人々が、ろいやるぼっくすの貴人達が、観客達が、ベンチで試合開始を待つ選手達が、一斉にその声の主に向かって顔を向けた。

 1人の幼い少女が、ぐらうんどと観客席を隔てる壁の上、その高さをものともせず、ふんっと踏ん張って仁王立ちしていた。
 周囲では世話役らしい<大人たちが、少女を壁から下ろそうと右往左往している。

「……! ホリィ……っ!」
 クォードが叫ぶ。
 その声に、少女、あの戦災孤児ホリィが、キッとクォードを見据えた。

「あの子! きっとクォード殿を止めてくれるんだわ!」
 サンシアが安堵の声を上げる。

「あれ、ホリィだ! そっか……きっとおっさんにお説教するつもりだぞ」
 結構気の強い子なんだ。笑ってユーリが言う。

「おじちゃん!」
 再びホリィがクォードを呼んだ。
 そして。

「おじちゃんっ、打って!」

「「「「「……はあ……っ!!?」」」」」

 観客席で、ろいやるぼっくすで、吃驚仰天の声が上がる。

「ホリィと約束したでしょ! おじちゃんっ! 絶対ほーむらんを打つって!」
「おお、ホリィ…っ!」
「おじちゃんっ、負けたまんまじゃダメっ! あきらめたら、そこでしあいは終りなの! 勝つまでがんばってーっ!!」

 そうだったのか、と、この一幕を見守っていた観客達は思った。
 偉大なる英雄、ウェラー卿の投げる球をほーむらんにするなどど、そんな大それた約束を、この聞いたこともない国の元王子は子供と交わしていたのか。

「……くくっ……ホリィ……。よくぞ、よくぞ言ってくれたっ!!」
 感極まったらしいクォードが、ぐっと拳を握る。
 俺は絶対に負けん!

「ほーむらんを打つまで、俺は諦めんぞ!」

 うんっ、おじちゃん! ホリィが答える。

「あ、でも、いつまでもやってたらやっぱりみんなにめーわくだから、ひっとでも良いからね! なんだったら、前にころがすだけでも、ううん、ばっとに当るだけでもいいからー」

 幼い子供のさりげない気の遣い方が、何だかとっても感動的だ。人々は思った。
 そんな約束を交わしていながら、きれいさっぱり空振った男は情けないことこの上ないが、あの少女のためにも、こうなったらぼてぼてのごろでもいいから打たせてやりたい。

 これが始球式だとか、まだ試合は始まっていないとか、そんなことも忘れた人々の温かい思いやり(?)は1つになり、やがて力強い拍手となって観客席に溢れ始めた。

「……おお! 皆が俺のほーむらんを期待してくれておる!」

 一気に元気が湧いてきたクォードは、その勢いのままにコンラートに向かうと、改めてバットを突きつけた。

「もう一度、俺と勝負しろ! コンラート!!」

「これはまた意外な展開に」
 完全に面白がっている口調で村田が言った。隣のユーリは、はーっと息をついて、椅子の背もたれに脱力したように背を預けている。
「コンラートは…どうするつもりなんだ…?」
 ヴォルフラムがぽつりと呟いた。

 ふう、とため息をつき、コンラートは一端伏せた目をゆっくりと上げた。
 クォードが戦闘モードもバリバリに自分を睨みつけている。
 やれやれ。
 胸の中でため息をつき、コンラートはクォードに向かって歩き始めた。

「……コンラート……!」
「1球だけだ」
 ハッとクォードが目を瞠る。
「ホリィも言っていた。いつまでも続ければ皆の迷惑になる。1球限りの1発勝負。それでいいな? ……ごねればごねるほど、男としても武人としても、あなたの値打ちは落ちる一方だ。そんなこと、充分分かっているのだろう?」
「……分かっておる……。だが俺は……。いやしかし、コンラート! 手加減は無用だぞ! もし手を抜けば、俺は生涯お主を許さんからな!」
 それには答えず、苦笑だけを浮かべて、コンラートは進行役の男を手招きした。

『……それでは! いきなりで恐縮ではありますが! ウェラー卿対クォード・エドゥセル・ラダ元王太子の! 1球限りの1発勝負を、この場で始めさせて頂きますっ!』

 うわぁぁああっ! 観客の歓声と拍手が一斉に上がる。
 その盛大な声と音を全身に浴びて、コンラートがピッチャーズマウンドに戻った。そして顔をろいやるぼっくすに向ける。

「まあ、こうするしかないだろうね。さてさて……?」
 村田の声が弾む。
「いやはや、思いも掛けないことになりましたな」
 ヒスクライフが苦笑すれば、グウェンダルは額を押さえ、げっそりと肩を落とす。
「……コンラッド……」
 身を乗り出すユーリの目に、遠くのコンラートがくっきりと映る。そして。
「………っ、あ……!」
「どうした? ユーリ?」
「渋谷?」
 ヴォルフラムと村田が、両側からユーリを覗き込む。
「コンラッドがおれに……」
 ……謝った。

 主にその言葉を告げてから、コンラートはバッターボックスのクォードに身体を向けた。
 遠くに座す主が自分の言葉を読み取れない、とは不思議なほど思わなかった。
 ユーリはちゃんと分かってくれる。

 ちらっと視線を横に向ければ、あの壁の上、慌てる大人たちを尻目に少女がいまだ仁王立ちしている。
 ボールにバットが当るだけでも良いと言いながら、その全身から、その瞳から、願いと期待が迸っているのが分かる。おそらくクォードもそれをひしひしと感じているはずだ。自分よりも遥かに強く。

 クォードは、コンラートが手抜きをすればすぐにそれを察するだろう。そして本当に許さないだろう。誇り高い男は、哀れみを受け入れることを自分に許さない。
 しかし、ストレートを投げればまた空振りすることは確かだ。
 とすれば。

 ぼーるぱーくは水を打ったように静まっている。

 コンラートはゆっくりと大きく振りかぶった。
 確立は5分か、それとも……

「……ちゃんと打てよ」

 しなやかに撓る腕から放たれたボールは、ギュンッと唸りを上げ、かなり低い位置から凄まじい速さで本塁に向かっていった。そしてすぐに急激なカーブを描いたかと思うと、バットを構えるクォードの顔面に襲い掛かっていく。

「……あれは……っ!」
 ユーリが椅子から飛び上がった。

 でっどぼーる!?
 人々が愕然と思ったその瞬間。

「待っておったぞ! これぞ絶好球ーっ!!」

 カーン、と。
 凍りついた緊張の壁を打ち破るように、その透き通った音がぼーるぱーくに響き渡った。

「ああっ!?」
 新連邦の人間達が一斉に立ち上がる。立ち上がって、真っ白なぼーるの行方を目で追う。

 ぼーるは、高く高く、飛んで飛んで飛んで。
 間もなく人々の目の届かない、ぼーるぱーくの外に飛んでいった。

「………場外ほーむらん……!?」

 ぼーるぱーくは、目にした光景が信じられず、唖然とする人々でさらに静まり返ってしまった。
 全ての人々が、クォードですら、その瞬間の姿のまま、固まったように動けない。

 その時。

 パチパチと。
 拍手の音が場内に響き始めた。

 音の出所を探す人々の目は、時を置かず、まうんど上に立つその人物を見つけた。
 ウェラー卿コンラート閣下が、グラブを外して脇に挟み、ばったーぼっくすで固まる男に向かい、その健闘を讃えるべく、にこやかに拍手をしている。

 おお…っ、と、感動のため息が一斉に観客席を満たした。
 さすがルッテンベルクの獅子。さすが英雄! 何という男前、何という潔さ!
 これは間違いない。閣下はあの少女のため、わざとほーむらんを打たれたのだ!
 拍手と歓声が誰よりも彼等の英雄に、そしてホームランを打たせてもらい、ぎりぎりで面目を保った元王子に送られる。
 見れば、魔王陛下も立ち上がり、熱心に拍手をなされている。
 人々の感動と、ウェラー卿への崇拝の念は、この瞬間さらに深まったのであった。

「……ふふふ、ふは…ふははははははーっ!! 見たか、コンラート! これが俺の実力だ! おお、何という感動! 何という解放感! そして……何と心地良い歓呼の嵐! これが全て俺のためにあるとは……!」
「おじちゃーんっ!!」
 少女が壁の上で飛び跳ね、大人達を絶叫させている。
「おお、ホリィっ!」
 クォードが少女の立つ壁の下に走り寄った。
「見たか、ホリィ! 俺は約束を守ったぞ!」
「うんっ、おじちゃんっ! ありがとう!!」
 言ったかと思うと、少女がひらりと己の身を宙に投げ出した。
 人々が驚愕の叫びを上げる。だが次の瞬間、ホリィの体はしっかりとクォードの腕の中に納まっていた。
「ありがとう、おじちゃん! ホリィ、嬉しい!」
「言ったであろう? 俺は約束したことは絶対に守る!」
 クォードはホリィの身体を持ち上げて肩に座らせると、再びばったーぼっくすに戻った。そしてホリィを肩に乗せたまま、1塁に向かって走り出した。
 始球式なのに、という野暮なことは言わず、人々は、ちょっと間の抜けた元王子様と、これは可愛い少女を温かい目で見つめながら、心のこもった拍手を送り続けた。

「コンラッド、わざとおっさんの好きな球を投げて……。ホリィのために打たれてやるなんて、ホントに優しいんだから。謝ることなんかないのに」
 やっぱりコンラッドは世界一カッコ良い……!
 頬を赤く染め、ほうっと熱い息をつきながら、ユーリは拍手を送り続けている。もちろん、最高の恋人に向けて。

「…………打たれて男を上げるなんて、上手いこと良いトコ取りをしたよね、ウェラー卿。まったく、それでよくまあ僕を腹黒呼ばわりするもんだよ……」
 ま、僕の共犯者にはふさわしいけどね。
 魔王陛下の親友が、くっと唇の端を上げて呟いた。

「見たかぁ? 隊長のあの笑顔。もう真っ黒いモンが全身から立ち上ってるぜ」
 魔王陛下と大賢者猊下の背後で、2人の士官が囁き合っていた。
「今回は譲ってやるが、次は問答無用で叩きのめしてやると言ってますね。まあ、陛下が喜んでおられるからよろしいのでしょう」
「坊ちゃんにとってだけ最高の男であれば、な。俺達にとっちゃ迷惑な話だが」
「その迷惑なのと、一体何年一緒にいるのですか、グリエ殿?」
「くされ縁ってーのさ。ちなみにお前さんもしっかりくされ縁で隊長と繋がっちまってるからな。覚悟しとけよ」
「………………了解」

「……何とかこれで……納まるのか……?」
 げっそりとカーラが言った。
「たぶん……」
 サンシアが答える。
 新連邦の人間達全員が、ぐったりと椅子に身体を沈めた。
「……どうして始球式でこんなに疲れ果てちゃうの……?」

 彼等の前を、ホリィを肩に乗せたクォードが意気揚々と走り去って行った。




「皆、ホントに楽しかったです! 元気でね!」
 お陽様の様な魔王陛下の笑顔に、カーラ達は顔も心も綻ぶ心地を味わっていた。

 この人と出会えた。この国を知った。
 眞魔国と、そして魔王陛下とこれから関っていくことが、自分達の人生をきっと大きく、だが間違いなく豊かで充実したものへと変えていくだろう。
 その未来を、彼等は信じた。信じることができた。
 それがたまらなく嬉しい。
 春の陽射しと柔らかな風を全身に感じながら、カーラは微笑んだ。

 彼等、新連邦対眞魔国友好条約締結のための事前調査団の一行は、その任務を終え、ついに帰国の途につく日を迎えた。
 正式な出発と別れの儀式は、カヴァルゲート友好代表団と共に、すでに血盟城で終えている。そのカヴァルゲート代表団は、すでに彼等の船に乗って出発していた。今、港に残っているのは、カヴァルゲートとは別方向に出航する船に乗る新連邦代表の一行と、公務を離れ、友人として彼等を見送りたいと希望した魔王陛下、そしてその側近一同だ。

「ひっ、姫…っ! こ、これでお別れかと思うと某……!」
 溢れる涙を堪えて、クォードの顔がぐぐぐーっと歪む。
「おっさんもそんな顔しないで! 最後のホームラン、すごかったよ! ホリィも喜んでたし。あ、子供達からのお土産、ちゃんと持ってくれた?」
「もちろんでござる! 姫のお優しさ、このクォード・エドゥセル・ラダ、またしても感激仕った! あの場にあの子供達をお連れ下さるとは……!」

 血盟城での別れの儀式の最後、呼ばれて姿を現したのは、一行が訪れた戦災孤児の施設に暮らす子供達だった。
 緊張でがちがちになった子供達は、それでも精一杯の心づくしの品を、心を込めて一行に贈った。それは手作りの人形だったり、髪飾りだったり、手紙だったりしたのだが、特にホームランを打つクォードの姿を描いたホリィの絵は、拙いながらも人々の感動を誘った。
 画面全体に大きくクォードの勇姿が描かれ、その余白の端っこに小さく、打たれてしょぼんと肩を落とすコンラートの姿が描かれるという構図は、ウェラー卿の周囲にいた人々を一瞬蒼白にし、冷や汗を流させるくらい感動的な出来栄えだった。もちろんウェラー卿はホリィを褒め称え、クォードは感激のあまり男泣きに泣いた。ウェラー卿の幼馴染である某氏は、「いやー、あん時ゃ、新連邦の一行が船に乗るまでに、確実に人員が1人減ると覚悟しました!」と後に語っている。
 どういう奇跡が起こったのか(一説には魔王陛下が「あの時、ホントに一番カッコ良かったのはコンラッドだったね!」と仰せになったからだともいわれている)、人間達は1人も減ることなく、無事に港に辿り着いた。
 そして、魔王陛下始め、フォンヴォルテール卿、ウェラー卿、フォンビーレフェルト卿、クラリス、そしてもう1人、と、最後の、友人としてのお別れができることとなったのだった。
 だが。
 カーラ達一行の瞳には、少々複雑な光も瞬いている。
 それは他でもない、自分達を見送るために「わざわざ忙しいのに」やってきてくれたという「もう1人」がいるからだ。
 その「もう1人」が、にっこり邪気のない笑みを浮かべて彼等に告げた。

「陛下の、そして眞魔国の民の期待を裏切らないよう、しっかり働いてくれたまえ。君達新連邦がこれからどう動くか、僕も本当に楽しみに思っているんだ。……君たちのお手並み、じっくり拝見させてもらうよ」

 にこっと笑ったのは、もちろんムラタ猊下だ。
 忙しいなら来てくれなくても全然構わないのに。というか、無理矢理記憶から追い出していたのに。
 どうして最後の最後に顔を見せるんだ! と、口に出せない叫びが人間達の胸に渦巻く。
 何と言っても、この笑顔が曲者だ。
 少なくとも本人は「にこっ」のつもりかもしれない。だが、その笑みを見せられた人間達には、それはどう考えても「にやり」とか「にたり」にしか見えなかった。
 それどころか、彼等の耳に「僕が言った通りにちゃんとできなかったら、その時は覚悟しておくんだね」という言葉までがなぜかはっきり響いてくる。
 彼等の目の前で、艶やかな同じ黒髪、同じ漆黒の瞳、同じ年代、同じ背丈、同じ体つき、の、2人の少年が並んで、同じようにニコニコと笑って立っている。なのに。
 どうしてこんなに違って、それもほとんど別の生き物の様に見えるんだろう……。
 できることなら魔王陛下の、明るくて、可愛くて、優しくて、温かい笑顔だけを記憶に留めておきたかった……!
 顔に笑みを貼り付けた人間達の胸の奥に、滝のような涙が流れ始める。

「カーラさん、これからが大変なんだと思うけど、でもどうか頑張ってください。そして、元気でいて下さいね。また会える日を楽しみに待ってます」
 クォードとの会話を終えて、ユーリがカーラに手を差し出した。
 慣れない行為にほんのわずか戸惑って、それからカーラもそっと手を伸ばした。2人の手が、しっかりと結ばれる。
「ありがとうございます、陛下。私も楽しみにしています。私達が、人間も魔族も、当たり前にお互いの国を行き来して、当たり前に友人として過ごせる日がくることを」
 ユーリと笑みを交わし、それからカーラはそのすぐ傍らに向けて顔を上げた。
 ユーリにぴったりと寄り添って、コンラートが立っている。
「…………元気で」
「ああ、君も」
 これ以上、自分達の間に必要な言葉はない。

「アリー、レイル、2人もこれからだな。頑張れよ! おれも2人に負けないよう、頑張って王様やるから!」
「ありがとう、ユーリ、いえ……陛下。本当に色々と勉強させてもらいました。ありがとうございました!」
「僕も陛下に負けないよう、しっかり勉強して頑張ります。ありがとうございました。どうぞお元気で」
 公式の場じゃないんだから「陛下」はいいのに、と言うユーリに、だが2人は「けじめだから」と首を振った。
「友好条約が結ばれて国が落ち着いたら、今度は本当に遊びに来ます。陛下もいつか平和になった新連邦に遊びに来てください。その時には、思いっきり名前で呼ばせてもらいます!」
「……そっか」
 分かった。笑って頷くユーリに、アリーとレイルも大きく頷いた。

 そうやって一行全員と言葉を交わし、握手を交わし、最後にクロゥとバスケスの前に立ったユーリは、残念そうに2人の手を取った。
「クーちゃん、バーちゃん、今回はあんまり話ができなかったね」
「いいえ、陛下。お話はできませんでしたが、以前と違って楽しい時間を過ごさせて頂きました。ここで学ばせて頂いたことは、必ずかの国で民のために役立たせます」
「たっぷり風呂も堪能させてもらったしよ。水が出るようになったら、あっちにもでかい風呂を作ってやろうと思ってるんだ。清潔ってのが、病を追い出すために大事だってことも良く分かったしな!」
「そうかー! うん、頑張ってね! あ、そういえば、クーちゃんはサディンさんとすっごく仲良くなったんだって?」
「え?」ハッと見開かれたクロゥの目が、どこか不自然に揺れる。「は……え、ええ、まあ……その……お互い色々と感じるところに共通点がありまして……」
 へえ? とユーリが首を傾げる。
「あ、仲良しっていえば……」
 言いながら、ユーリはコンラートを見上げた。
「コンラッド、グリエちゃんはどうしたのかな? 見送りにこないなんて……」
 今、ユーリの側にいるのは、コンラートとクラリスの2人だけだ。
「あ、いえ、あいつは少々頼まれごとがありまして……」
 と、コンラートが説明し始めたその時だった。

「坊ちゃーーーんっ!」

 噂をすれば影の声。

「俺のコト、呼びましたーっ!?」

「あ、グリエちゃん!」
「え?」
「うわっ」
「な、何ですか、あれ……!?」

 驚きの声を背後に聞きながら、クロゥは絶句し、そしてバスケスは……。

「みっ、見るな、クロゥ! おめぇは見るんじゃねえ!!」

 大慌てでクロゥの両目を隠そうとした。が……。

「わー、グリエちゃん! 今日はチャイナドレスか!」
「そうでーす! 坊ちゃんにお名前をつけて頂いた『完璧ちゃいな』でーす! せっかくのお見送りだから、グリエったらお洒落してみましたーっ!」

「…………コココ、コンラー、ト……?」
「どうかしたか?」
 思わずど吃るカーラに、平然とした顔のコンラートが応える。
「どうかって……。あ、あれは、グリエ殿、だろう……? あの、姿は……」
「あいつの趣味だ」
「……………」

「ね、ねえ、レイル……」
 アリーが目を見開いたまま、ぼんやりと従兄弟の名を呼んだ。
「あんなに逞しい身体なのに、男の人なのに、どうして……ちゃんと綺麗な女の人に見えるの……?」
「……わ、分からないよ、僕も……」
 ごくっとレイルが唾を飲み込む。

 呆然と見つめるカーラ達の前で、「むふふ」と笑ったヨザックが、パッと扇を開いた。
 身体の線にぴったり添った、真紅の地に花柄というドレスに身を包み、房飾りも豪勢な扇を口元でゆらゆらと揺らしながら、ヨザックがゆっくり人間達に向かって歩み寄る。
 そして逞しい腕を伸ばしたかと思うと、その手が棒の様に立つクロゥの首にさっと巻きつき、ぐいっと身体を引き寄せた。

「これ、懐かしーだろー? お前等のために着てやったんだぜぇ? 嬉しいだろ?」
 ふっと耳に息を吹きかけられて、クロゥの身体がびくんっと震えた。と、その端正な顔が一気に真っ赤に染まる。
 うひゃあ、とマヌケな声をあげ、顔を覆うバスケス。
 ヒューヒューと無責任な口笛は村田だ。
 グウェンダルとヴォルフラムは呆れた顔でため息をつき、ユーリは「グリエちゃんたら、真面目なクーちゃんをからかってー」と、面白がって手を叩いている。ユーリが楽しそうだから、コンラートももちろん平和な笑顔だ。
 だが人間達は。
「………く、クロゥ……!?」
「あれ、一体どうしちゃったの?」
「ま、まさか……!」
 思い到った結果に、全員の顔が激しく引きつった。

「……どっちも迷惑度では大して変わらんな」
 これからどれだけ彼等と長い付き合いになろうとも、他人に迷惑を掛ける魔族には絶対ならないでおこう。
 常識を弁えた平和主義者を自認する女性士官は、しみじみと心に決めながら、相棒の体たらくに悶える大男に視線を向けた。
 ………後で、船に乗り込む直前にでも、何か一言告げておこう。
 どんな一言を贈るべきか、今はまださっぱり分からないけれど。

「なーなー、グリエちゃん!」
「はい、何ですかー、坊ちゃん!」
 抱えていた男の頭をぺっと放り投げ、ヨザックがユーリの元に駆け寄ってきた。
「グリエちゃんは、着替えてたから遅くなったのか?」
「違いますよー」
 ニコニコ笑ってヨザックが首を振る。
「お供を頼まれたんです。アニシナちゃんに!」
「アニシナさん!?」

「ようやく私の出番ですね!」

 突如として上がる、朗々とした声、その口調。

「アニシナさん! ………アニシナ、さん……?」
「はい、陛下。大変お待たせ致しました!」

 目を瞠る眞魔国組一同。そして、ヨザックの女装よりも遥かに強烈な衝撃を受けて、呆然と顎を落とす人間達。

「お待たせって………アニシナさん、それ、どうしたの……?」

 フォンカーベルニコフ卿アニシナは、両手に大きく膨らんだ鞄を二つずつ持ち、そして何と背中には、彼女の背丈よりまだ巨大な樽を背負い、紐で身体に括りつけていた。

「私も、彼等と共に新連邦に向かいます!」

 はあっ!?
 人々がぽかんと口を開け、目の前の小柄な女性を凝視する。

「……あ、あのっ、フォンカーベルニコフ卿! 私達と共にと仰せなのは……」
「当然、あなた方と一緒に行くと言っているのです! 遠慮には及びません!」
 質問したサンシアが、返ってきた答えに絶句する。

「実は、改良中だった私の新型乳酸毒入り健康飲料『今日もお腹は超特急君』が、見事『今日もお腹は元気君』に変身したのです!」
「……はい……?」
「………毒入り?」
「健康飲料です!」
 きっぱりと断言するアニシナ。
「発酵したのが良かったのですね! 体積が増えれば増えるほど栄養価が増し、味も良くなることが判明致しました。これを持って、私は新連邦に向かいます! これであちらの国の飢えた民も少しは癒されることでしょう」
「つまりアニシナさん」
 村田が1歩前に進み出た。
「新連邦の飢えた民を救うため、アニシナさんが自ら、栄養がたっぷり詰まったその飲み物を持って行く、ということなんですよね?」
 分かりやすい解説と、その意味するところに気付いて、新連邦の人間達がハッと表情を変えた。
「仰せの通りです、猊下。液体ですので、腹持ちが良いとはいえませんが、少なくとも栄養不良はかなり改善されると確信しております。また、これは量が減りましても、少量の水を加えて発酵させ、改めて体積を増やすということを繰り返せば永遠になくなることはありません。新連邦の飢えた民がどれだけ多くいようとも、必ず全員に行き渡らせることができるでしょう!」
 それは…! と声を上げたカーラ達は、改めてまじまじと、小柄な愛らしい女性科学者に目を向けた。
「フォンカーベルニコフ卿……! あ、でも……わざわざあなた様にお出で頂いては、あまりに申し訳なく……」
「遠慮には及ばないと言ったはずです!」
 気を遣ったカーラの言葉は、すっぱりと否定された。
「それに、『今日もお腹は元気君』を『今日もお腹は超特急君』に戻すことなく増やすことができるのは私だけです。安心してお任せなさい」
 アニシナがにこっと笑うと、その愛らしさが一気に数倍増する。
 そこに到って新連邦の人間達はようやく、この変わった……いや、個性的な天才学者にして武人の女性が、今、自分達に何を申し出てくれたのか、それが何を自分達の国に齎してくれるのかを、その頭ではっきりと理解した。
 同時に、彼等の胸に熱い塊のようなものがせり上がってくる。

「フォンカーベルニコフ卿……!」

 感動に言葉もない人間達に、アニシナが呆れた顔を向ける。

「なんですか、大げさな。私はただ、『今日もお腹は元気君』を最良の形で活かしたいと考えただけですよ?」

 これが。
 さりげなく、何の見返りも求めず、差し伸ばされる慈悲の手。これこそが。
 魔族という。存在。

「アニシナさん!」
「はい、陛下?」
「それ、味見してみて良いですか?」
「ええ、もちろん。たっぷりありますから」
 どうぞ! という声と同時に、アニシナがくるっと後ろを向く。と、その巨大な樽の下に、ちょこんと取り付けられた蛇口が姿を見せた。
「これをお使いください!」
 どこから出したのか、アニシナが背を向けたまま、さっとコップを差し出す。

「では、先ず俺が」
 そう言ってコップを受け取ったのはコンラートだ。……何といっても、アニシナの発明品。用心に越したことはない。
「………失敗作ではないだろうな……?」
 側に寄ったグウェンダルが、そっとアニシナに囁く。
「何を失礼な。すでに馬、羊、猿、鳥、犬、猪、ギュンター、ダカスコス、骨飛族といったもにたあを得て確認済みです。皆、瞬く間に元気溌剌となりました!」
「………骨飛族……?」
 飲むのか? 飲めるのか、骨飛族!?

「……うん、これは」
 コップに注いだ白い液体を飲み干して、コンラートが頷く。
 隣にはわくわくとした顔のユーリが、反対側にはハラハラした顔のヴォルフラムがコンラートの顔を見上げている。
「ヨーグルト、ですね。ええ、大丈夫、これは成功作のようですよ。……珍しく」
「飲む飲む! 飲ませて、コンラッド!」
「皆さんもどうぞ! コップなら幾らでもありますよ」
 本当にどこから出てくるのか、ガラスのコップが次々に現れる。
 そして。

「…! 美味しい…っ!」
 サンシアが目を瞠る。
「本当にこれは……何という……」
 男性達も、驚きの顔を互いに見合わせている。
「とろっとして、甘酸っぱくて……私、こんなに美味しいものを飲んだの、初めてかも……!」
 アリーがうっとりと呟く言葉を聞きながら、カーラもため息をついてコップの中身を見つめた。
 果実の様に爽やかに甘く、ほんのりと酸っぱい絶妙な味わい。とろりと喉を流れる心地良い飲み応え。
「芳醇、とは、まさしくこのこと……」
 カーラの思いを代弁するように、クォードがしみじみと言った。
「これを飢えた民に、子供達に飲ませてやることができれば……」
 カーラ達全員の脳裏に、やせ細った新連邦の貧しい子供達の姿が浮かび上がる。
 おそらく、生まれてからこの方、1度もこんな甘味を味わったことがないだろう、あの子達に。
 カーラの視界が、ふわりと潤んだ。

「フォンカーベルニコフ卿……アニシナ、様……!」

 アニシナに呼びかけるカーラの声に触発された様に、人間達全員がアニシナに向かって姿勢を正した。

「ありがとう、ございます…っ!!」

 人間達が心からの感謝を込め、一斉に頭を深く深く下げた。

 ありがとう。
 世界にあなた達がいることを。
 あなた達と出会えたことを。
 世界と運命の、全てに感謝します……!



「そろそろ時間ですね」
 コンラートの言葉が、その時を皆に思い出させた。
 お別れの時だ。

「では、姫……いや、陛下、そして皆々様方」
 クォードが眞魔国の人々をぐるっと見渡して重々しく口を開いた。
「まこと、感謝申し上げまする。では……これにて」
 頭を下げたクォードがきゅっと唇を噛み締める。
「それでは私も参りましょう。陛下、猊下、しばらくのお別れです! 私がいなくて色々とご不自由でしょうが、どうかしばしお許し下さい!」
「頑張ってきて下さいね、アニシナさん!」
「新連邦の人間達に、くれぐれも迷惑を掛けるなよ」
「迷惑とは何です、グウェンダル! 私は新連邦から無能な男共を一掃し、女性による正しい国家運営を確立し、ついでに飢えた民を救おうと決意しているだけです!」
「そっちがついでか!?」
 それが迷惑だというのだ! 思わず叫ぶ宰相閣下。
 そこへ。
「あのよ」
 のんびりした声にふと見ると、バスケスが頭を掻きながら立っていた。
「その背中のでかい樽、こっちによこしなよ」
「……おや」
「いやぁ、あんたみてぇな女の人に、そんなモンを背負わせといちゃいけねぇだろうが。それに、俺達の国を助けてくれるってんだしな、俺らが手伝うのは当然だと思うしよ」
「これは意外と気が利くこと。そうですね、これを持てるというならお任せしましょう」
「ああ、確かにでけぇがあんたが背負ってるくらいだしな、問題ねぇよ」
「あ、鞄は私がお持ちします」
 クロゥもやってきて手を伸ばす。
「く、クロゥ、バスケス、ちょ、ちょっと待て……!」
 何故か慌てて止めるコンラートを、逆にカーラが止めた。
「コンラート、フォンカーベルニコフ卿に荷物を持たせては失礼だろう? 別に傷つけたりはしないし、きちんと管理するから……」
「い、いや、カーラ、そうじゃなく……」
「では」
 アニシナが言って、先ず手にしていた合計4つの鞄を地面に置く。
 埠頭の舗装された表面に、ピシッとひびが入ったことに気付いたのは、幸か不幸か魔族だけだった。
 それからアニシナは身体に巻いていた紐をくるくると解き、背中の樽を軽々と前に回すと、底に手を当てて顔の前に掲げた。
「そこのあなた、よろしく頼みますよ」
「おう、任せときな。新連邦まで、俺がしっかり見張っとくからよ」
「フォンカーベルニコフ卿! バスケス! 少々、少々待って……!」
 らしくなく焦った声で前に踏み出してきたのは、クラリスだった。引きつった顔をどう取ったのか、バスケスが嬉しそうに頬を緩ませる。
「あんたも元気でな、クラリス。えっと、よ、手紙、出すからよ。返事くれよな。待ってるから……」
 そう言うと、真っ赤になった顔を照れくさそうに横に向けると、「ほら、こっちによこしてくれ」とアニシナに声を掛けた。
「よろしいですか? はい、どうぞ」
 アニシナがひょいと樽を放り投げる。
「おう! ……とと、と、と、と……? え? あ? あ、わ……ど、どわーーーっ!!」

 どーん、というあり得ない音。地響き。それから。

「わーっ! バスケスが潰れたーっ!!」
「バスケス!」
「バーちゃんっ!」
「だから言ったのに!」
「だから止めたのに!」
「………何ですか、口ほどにもない。これだから男など役に立たないというのです。……そこのあなた、何をしているのです? 私の鞄を運んでくれるのでしょう? たった4個の鞄ごときで何を顔を真っ赤にして唸っているのです。腕が抜ける? 何をふざけたことを。ああもう本当に男というものは……!」

「いやー、これで新連邦の未来もかなり期待がもてるようになってきたなー。うん、楽しみ楽しみ」
「村田……。お前、やっぱちょっと黒すぎ……」

 春の青空の下。
 新しい国の未来を背負って、若者達が歩み始める。
 眞魔国と新連邦の、新たな歴史という船が今、若者達の希望と共に港を出発……できるかどうかは、まださだかではない。

「早く助けろーっ!!」

                                          おしまい(2008/04/10)


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終りましたー!
あお様、このような作品となりました。何と申しますか……すみませんっ!
そして、またまた長々続いてしまった物語を、最後まで読んで下さった皆様、本当にありがとうございましたっ!
皆様の優しさに、心の底の底から感謝申し上げます!

12話に引き続き、イロイロ変な部分もあると思いますし、あれ? というところもあっちこっちに散らばっておりますが、どうかご容赦下さいませ。

これからも頑張ります。
次回作も、どうかお付き合い賜りますよう、心からお願い申し上げます!
本当にありがとうございましたー!