「……な、なんと…お…!」 おそらく呻き声の主も、自分が声を上げたことに気付いていないだろう。 クロゥはそう思った。 「何度見てもでけぇや。なあ?」 相棒が隣からそう声を掛けてくる。クロゥは「ああ、相変わらずな」と頷いた。 眞魔国、魔族の国の王都に向かう小高い丘の上で、彼らは広大な王都を挟んでその向こうに聳える山を眺めていた。 王都を眺める視界、その端から端、よりまだ長く高く大きく聳える山だ。春の淡い緑と常緑のくっきりとした緑に豊かに覆われたその山の稜線は、全体として見ればなだらかなのだろう。だが目を凝らしてよく見ると、それは大小幾つもの頂、尾根、谷、が重なり合うようにしてできた、かなり奥の深い山稜であろうと思われた。 そしてその山全体に広がって。巨大にして広大な城が建っていた。 ……少し違うかもしれない。 山並みそのものが、半ば城にその姿を変えていた、と表現した方がしっくりくるかもしれない。 それほどに、その広大な城は山の風景に溶け込んでいた。山と一体化していた。 城を建てやすくするために山の形を変えるとか崩すとか、そういうことを、魔族は好まなかったのだろうか。城の方を山に合わせ、自然の形をそのまま取り込んで城を造り上げたとしか思えなかった。 その場所に合った様々な高さ、様々な形の城館、そしてそれを繋げる回廊、全てが何より山の存在を、自然の存在を尊重しているように思える。 自然を変えるのではなく、自分達を自然に合わせる。 それが魔族らしいと、クロゥは思った。 「………あれが……血盟、城……? ユーリのお城なの……?」 こんなに…すごいなんて……。少女が呆然と呟く。 「ああ、そうだ。……ちなみに、あまりに広すぎるため、即位して何年も経っているというのに、陛下はいまだに迷子になってちょくちょく遭難しているらしいな」 「そのたんびに捜索隊が結成されて、魔王陛下の救出に城内を探し回るんだとさ」 夢からいきなり覚めたように、少女がぽかんと目を瞬かせた。 「それって何だかユーリらしいですよね。……ホッとしちゃったな、僕」 少女の隣にいた少年が笑って言った。それを聞いた少女も、どこか安堵したように息をついた。 クロゥと相棒、バスケスは、笑みを含んだ視線を交して頷き合った。そんな彼らの視界に、わずかに離れた場所に固まり、王都の広がりと巨大な城を呆然と見つめている数人の同胞の姿が映る。今回の訪問の目的のため、選ばれて同行した者達だ。 「………魔族4000年の歴史を見つめてきた城か……さすがだ……」 ふいに聞こえた声に顔を巡らせれば、こちらはかなり付き合いの深い男が馬上で腕を組んでいる。先ほど呻き声を上げていたその男は、感心したように言った。 「しかしどこか無骨というか…武張っておるな。……今ひとつ麗しき姫にはふさわしくないような……」 うーむと男が再び唸った。 「戦乱の中で魔族達が築いた城ですからな」 彼ら一行の案内役でもあり身元保証人でもある男が解説を買って出る。 「この城は、いえ、王都そのものが、魔族と精霊との盟約によって建造され、護られているそうですよ。血盟城の血盟とは、すなわち精霊との固い盟約を意味するそうです」 なるほど、と男と馬を並べた若い女が納得したように頷く。 「精霊との盟約、となれば、この城が自然に溶け込んだ形であるのもよく理解できます」 男、カヴァルゲートの次代女王の父親であり、ミッシナイの大商人であるヒスクライフがにっこりと笑って頷いた。 「では、まいりましょうか」 形式的な案内兼護衛としてついている眞魔国兵士に前後を挟まれつつ、ヒスクライフと共に馬を操り、眞魔国王都に向かう一行。彼らは、長年に渡る大シマロンとの戦いを制し、新たな国家を立ち上げるために力を尽くす人間達だった。 元ラダ・オルドの王太子クォード・エドゥセル・ラダ、対大シマロン連合の盟主であるエレノアの孫娘、カーラ・パーシモンズと妹のアリー、2人の従兄弟のレイル、そして以前眞魔国を訪れたことのあるクロゥ・エドモンド・クラウドとバスケスという6名を主とし、他に6名を加えた、合計12名だ。 彼らは新たな国家「新連邦」旗揚げ直前の今、建国後の眞魔国との友好条約締結を見据えて、非公式に眞魔国を訪れたのである。 条約締結はすでに決定事項であるものの、実は新国家の幹部となる者はほとんど眞魔国という国を知らない。というか、伝説と迷信と誤解と思い込みばかりが深く根を張って、魔族の真の姿を分かっていない。分かっているのは、当代魔王陛下とその側近が、信頼に値する人物である、というただそれだけだ。 それもあって、今回、眞魔国と魔族についてその目で確かめるべく、彼ら12名がやってきたのである。とはいえ、条約未締結国というか、建国宣言はこれからで国そのものができておらず、また元々が敵国人であったこともあり、彼らは正式な使者にはなり得なかった。よって、眞魔国中枢でも信頼の篤いヒスクライフに身元保証をしてもらった上で、彼が主宰となっているカヴァルゲート訪問団の随行という形で、彼らはようやくこの国を訪れることができたのである。 ちなみにカヴァルゲート訪問団は、元々眞魔国と友好関係にあるカヴァルゲート王国から、さらに友好を深めるべく定期的に派遣される使節団だ。ある目的でやって来た彼らは、馬で前を進むヒスクライフ達の後から馬車に乗ってついてくる。 「……それにしても」少年、レイルが呟くように言った。「眞魔国がこれほど豊かな国だなんて……知らなかったな」 確かに、と、一同が大きく頷いた。 港から王都に辿り着くまでの道中、荒廃した大地に慣れた目を圧倒する、この国の自然と人々の生活の豊かさに、彼らはほとんど恐れをなしていたと言っていい状態だった。 「魔族が我らの土地を支配しようとしているのではないかと、いまだに案じている者もいるが……」 クォードがどこか苦々しげに応えた。 「やると言われてもいらない。貰っても迷惑なだけ、というあの男の言葉はまさしく真実だな……」 あの男。 カーラはふと目を伏せた。 コンラート。 コンラート・ウェラー。いや、今となってはもう「ウェラー卿コンラート」と呼ぶべきなのだろう。 ほんの少し前まで、自分達と共に新たな国造りに力を尽くしてくれていたはずの男。 「もう俺を…君達から解放してくれ」 そう言われた時、覚悟していた以上の脱力感がカーラを襲った。 大シマロンの残党とカーラ達「新生共和軍」の決着が、まだ完全についていなかった頃。 眞魔国第27代魔王ユーリが、その正体を隠し、突如として彼らの砦を訪れたあの時から。 カーラ達は知っていたはずだった。コンラートが求め、その生涯を賭けて護ろうとしているものが何なのか。何のために、今彼は自分達と行動を共にしているのか。そもそも彼、コンラートは自分達の同志であるのか。 コンラートにとっての祖国。従うべき主。護るべき民。家族。そして仲間。 その全ての答えを、カーラ達はとうに知っているはずだった。 納得していたはずだった。 しかし。 元大シマロンの広大な国土をほぼ完璧に制圧し終え、連邦制というこれまで世界に類を見ない政治体制を敷くことが決定し、その完成に向けて皆が己のできる仕事、役割を果たそうと無我夢中になってきたこれまでの日々。 コンラートの存在はあまりにも力強く、そして大きかった。 日々の会議においても言葉は少なく、殊更己の才智をひけらかすこともないが、彼の一言の重みは日毎にその価値を深めていった。コンラートの判断とコンラートの指示。それがなければ、日々怒涛の様に溢れ出る様々な問題が解決されない、そんな意識がいつしか人々の中に浸透していた。 常に冷静沈着、表情も穏やかなら、言葉も滅多に荒げることはない。だが、わずかの時間もだらけることなく、きびきびと行動し、その日その時の状況を完璧に把握した上で発せられる的確な指示は、戦闘の指揮官として以上の絶大な信頼と崇敬の念を人々の心に呼び起こしていた。エレノアや執行部の面々ですら、いや、彼らこそ、最終的にコンラートの了承をもって全ての判断を下すようになっていた。それに公然と逆らってみせたのは、誇り高いラダ・オルドの元王太子くらいだ。 だがほんのわずかな人数の対抗心や妬み嫉みなど、大勢に何の影響も与えなかった。 国造りに携わる誰もがコンラートの指示を求めた。他の誰でもなく、コンラートの判断こそを頼った。そして誰もが、コンラートの傍で、彼と共に、彼の手足となって働くことを願った。 コンラートの信頼を得たい。彼に頼りにされる部下、もしくは同志、なれるものであれば友人になりたいと、誰もが思った。戦闘が終結して後、恒久的な平和を求め、新たな国家を造るという壮大な計画に携わろうと、全土から人材が終結し、「新生共和軍」であった頃より遥かに巨大な組織になったその時においても、コンラートの崇拝者は減るどころか増える一方だった。 時間が経てば経つほど。戦闘という、ある意味単純な仕事が終わり、その次の段階における作業が煩雑になればなるほど。 コンラートを求める声と眼差しと願いは、強く大きく熱くなっていった。 人とは哀しいものだ。 カーラは思う。 もう分かっているのに。 コンラートが必死で働いている理由はただひとつ。 一刻も早くこの地を離れ、彼らの元を去り、唯一無二の主の元に帰りたい。ただその願い故だということを。 それなのに。 周囲の羨望の眼差しを受けながら、彼と共に歩き、語らい、議論し、決断し、すべき事を実行し、夜には気の置けない仲間達も交えて酒を酌み交し、その日の労を労い合う。そんな充実した日々を過ごしていると、ついつい……忘れてしまう。 彼と共にある日々が永遠に続くような錯覚を覚えてしまう。 新たな国家の建設という仕事に打ち込むことを、彼が生き甲斐に感じてくれるようになったのではないかと、そんな夢を抱いてしまう。 そして。 共にある自分が、自分達が、彼の、掛け替えのない存在になれた様な勘違いをしてしまう。 あり得ないのに。 「コンラート様が連邦議会の長になられないというのは何故ですか!? 今現在これほどお力を奮っておられながら、新たな国家において全く責任ある地位に就く予定がないというのは、一体どういうことなのでしょう!? あの方は、ベラール王家の唯一の後継者であるとも聞いております。本来なら王として立っても、何の問題もなき方。あの方が、連邦の長どころか1州の統治者にもなられない理由をお聞かせ頂きたい!」 そう言って詰め寄ってきたのは、「新生共和軍」から「新連邦」へと移行する途上で組織に加わってきた人物の1人だ。 「魔王陛下にお願いすることはできないのですか? コンラート様は私達にとって絶対に必要な方です。あの方がおいでにならなければ、新たな国は本当にできるのかどうか……。魔王陛下に、コンラート様が私達の元にずっと居て頂ける様に、お願いして頂けないでしょうか!」 「新生共和軍」にいた頃からコンラートを、そして魔王陛下をも見知っている者ですら、そう願い出てきた。 王に、とは言わない。でも、せめて自分達の指導者として、これからも共にあって欲しい。 その声は日を追って大きくなる。 できるはずもないのに。 そして。 「新連邦」建国を大陸全土に向けて発布する。 その日取りが決定したその夜だった。 「俺の仕事は終わりました。これからの事は、実際にこの国を支える貴方達によって為されるべきです。俺は」 帰ります。 いつも通り穏やかに、だがきっぱりと、コンラートはそう言った。 新たな国造りに、多くの者が情熱を傾け力を尽くす、この充実した日々。 それがコンラートに何の影響も及ぼさなかったことを、彼の故国と主への思いをわずかも変えることができなかったことを、その場に居合わせた全員が痛感した。 眞魔国を選ぶか、自分達を選ぶか、彼は悩んですらくれなかったのだ。 「…ですが……コンラート……」 エレノアが苦しげに声を発する。が、言葉は続かなかった。コンラートがそう決めた以上、どうすることもできないことは、これまでの長い付き合いで分かっている。 「コンラート!」 それでもカーラは声を上げた。 「建国を発表する日は決まったが、まだ問題は山の様にある! 貴方がいなければ……」 「問題は永遠にあり続けるよ、カーラ」 唇の端を軽く上げて、コンラートがそう切り返してきた。 「国造りに、問題がなくなる時などない。いつまでもずるずるとしていては、この国と皆のためにもならない。俺はいつまでも君達に付き合うことはできないのだから。……だから、建国宣言の発布が決まったことはちょうどいい機会だと思う」 「では……せめて、発布の日を共に……」 「それはできない」 「どうして!?」 「建国宣言の発布式に参加するということは、俺が新たな国に関ることを意味するだろう? 俺はそんな立場にない。俺は眞魔国の臣民であり、魔王陛下の臣下だ。ここにいるのは、陛下のご命令に従い、君達の手伝いをしているだけなのだから」 自分はお前達の仲間ではない、と。はっきり告げられて、カーラは唇を噛んだ。 分かっている。分かっていた。だが……。 「コンラー……!」 「頼む」 苦笑を浮かべながら、コンラートが言った。 「もう俺を……君達から解放してくれ」 愕然とした。 自分達は、コンラートが進むべき道を遮り、彼の歩みを妨げる、ただの障害物なのだと、そう言われたような気がした。 「………分かりました」 同じ事を感じたのかもしれない。エレノアが低い声で頷いた。 コンラートが眞魔国へと発つ。 もう戻ってこない。 そのことを、皆に伝えなくてはならない。……かなりの混乱が起こるだろう。一国の長であるより、魔王の従者であることを選ぶ。それを納得しない者も多くいるはずだ。帰すな、という声も間違いなく起こる。 自分の胸を満たす寂寥感や脱力感を見ない振りして、カーラは懸命に頭を働かせた。 自分達はもちろん、コンラートにも、皆への説得に当ってもらわなければならない。 そしてそれが落ち着いたら……別れの宴を催そうか。 カーラが、多くの者達が、自分達の王に、と望んだほどの人が、自分達の元を去る。切ない、やるせない思いを、せめてその場で……。 だが。 カーラの、せめてものその思いは、あっさりと裏切られた。 帰ると宣言されたその翌朝。 慌てふためく従者に教えられ、飛び出した先で目に飛び込んできたのは、荷物を馬に括りつけるコンラートの姿だった。 「ああ、お早う、カーラ。俺はこれで行くから」 ただもう、呆気にとられてその姿を見ていた。 間もなく、祖母エレノアや、クォード、アリー、レイル、クロゥとバスケス、ダード老師、そして執行部の者達が顔を引きつらせて集まってきた。 「お早うございます、エレノア、老師、皆も。…今ご挨拶に伺うつもりだったんですが」 晴れやかな顔で、コンラートが言った。 「こんな形で……私達を放り出していくつもりか!?」 詰め寄るカーラに、コンラートはきゅっと眉を顰めた。 「引継ぎすべきことは全部終わっている。何も問題はない。あるとしても、言っただろう? 後は君達の仕事だ」 「コンラート!」 ただもうカーラは叫んだ。 「皆に、貴方から別れを……! せめて……」 「悪いが」 どうしてこんな時に、こんなに爽やかに笑うんだ? この男は。こんな笑顔、いつもはほとんど見せてはくれないのに。こんな時に、私達がこんな思いをしている時に……! 「時間を無駄にしたくないんだ。皆には君達からよろしく伝えてくれ」 それじゃ。 馬に乗り、にっこりと、それこそ嬉しくて堪らないという笑顔をカーラ達に投げ掛けると、コンラートはあっさりと彼らに背を向けた。 魔王ユーリを、カーラ達は知っている。友人であるとすら、思っている。 あの愛らしく、素直で、明るくて、優しくて、そして雄々しい魔王が好きだ。大好きだ。 その気持ちに、何一つ変化はない。 コンラートとあの王の間にある絆も、想いも、ちゃんと分かっている。 だから。 コンラートがユーリの元に晴れて戻れるその日には、笑って見送ろうと決めていた。 今までありがとう、と。本当にありがとう、と。どうかあの人と幸せになって下さい、と。 それなのに。 人の心とは、どうしてこうも身勝手なのだろう。その持ち主の思いにすら従ってくれぬほど。 身勝手に。 叫ばずにはおれないのだ。 これほどまでに。 これほどまでに。貴方の人生にとって私達は不要な存在だったのかと。 振り向きもせず前に進む男の背に、カーラは叫びを投げつけた。 ここを離れることが、私達と別れることが、そんなに嬉しいのか。 別れを惜しむ気持ちもないのか。 長い年月共に過ごしてきて、カーラはその時初めて、コンラートを冷酷な男だと思った。 声にならない叫びは届くことなく。 コンラートは、去った。 当然のことだが、とんでもない騒ぎが巻き起こった。 ほとんどの者が、それは希望的観測にすぎなかったけれど、コンラートが望んでこの地を離れたとは考えなかった。 コンラートが魔王の臣下であることを、皆、知識としては知っている。だから皆がその事実に、自分達の都合の良いように縋り付いた。魔王の命令があったから、コンラートは否応なしに従わざるを得なかったのだ、と。本当は、自分達と共にいたかったはずなのだと。 頼りにしていた人を突如失った衝撃に、呆然とし、絶望し、泣き出すもの(多くは女性だったが)が続出した。旅立ったコンラートを連れ戻そうと、馬を仕立てて飛び出そうとする若者達も大挙して現われた。ただでさえ問題が多いというのに、作業は一気に停滞し、それどころかコンラートが帰るまで仕事を放棄すると言い出す者まで現れた。 カーラ達コンラートの近くにあった者が説明と説得を繰り返すものの、騒ぎは一向に収まらない。 多くの者が次々に執行部に押し寄せては、どうしてコンラートを行かせたのかと詰め寄り、眞魔国に抗議しろ、魔王の手からコンラートを取り返せと言い募る。 一体どうすればいいのか。ここはやはりユーリに、コンラートをもう1度こちらに戻してもらった方が……。 頭を抱えたカーラがそこまで考えた時だった。 「勘違いをしてはなりません」 混乱する者達に、エレノアがきっぱりと告げた。 「コンラートは自らの判断でこの地を去ったのです。コンラートは元々この地に長居をする意思を持っておりませんでした。彼がここで働いていたのは、全てが魔王陛下のご温情によるもの。苦しむ民のために必要であるなら、その力を貸してやるようにと、魔王陛下がコンラートにご命令下されたから、彼はこの地に、彼自身が必要と思われる期間、一時的に滞在して私達を助けてくれていたに過ぎないのです。新連邦建国の発布が決定して、コンラートは自分の仕事が終わったと判断しました。そして去りました」 彼の判断を、私は正しいと思います。 執行部に押し寄せた人々を見据え、エレノアははっきりと言った。 「このままでは、私達はコンラートに頼るあまり、自ら決断し、自ら国を動かす意志も力もなくしていたでしょう。新連邦は私達の国なのです。この大地に生まれ、この大地に育った私達の国です! 眞魔国の民であり、魔王陛下の臣下であるコンラートに、これ以上頼ることは許されません! ……今、この件について私達にできることは、長い間のコンラートの助力、そして彼を私達のもとに派遣して下さった魔王陛下と眞魔国に感謝を捧げることだけです。眞魔国に抗議するだの、魔王陛下からコンラートを取り戻すだの、見当違いも甚だしい考えは、今すぐこの場でお捨てなさい!」 しんと静まった部屋で、全ての人々がエレノアを見つめていた。 もちろん、カーラも、アリーも、仲間たち皆も、だ。 「さあ、何をぼんやりしているのです? 我らの国が、国として動き始めるまでもう間がないのですよ! ぐずぐずしている暇はありません! なすべきことをするのです!」 その日から、ようやく人々が動き始めた。 祖母は正しい。カーラも永い眠りから覚めたような心地で、仕事に向かった。 「新連邦」は、私達の国だ。 世界が魔王陛下でできている男が関る余地など、本来あってはならなかったのだ。 そう、コンラートは正しかった。 これは「私達の仕事」なのだ。 この地で生きる私達の手で、なすべきことをなそう。 自らの胸にそう言い聞かせ、カーラは改めてなすべき仕事に向かい合った。 そうして。様々な問題は日々溢れ出るものの、それでも人々の動きがひとつの流れに沿って滑らかに動き出したと実感したある日。 眞魔国訪問の話が持ち上がったのだ。 「眞魔国とは、なるべく早く友好条約を結びたいと思います」 エレノアの言葉に、執行部のほとんどが頷いた。が。 「しかし……魔族と結ぶとなりますと……あまり性急になされぬ方がよろしいのではないでしょうか。その…民の不安もありまするし……」 新生共和軍の勝利が確定してから彼らの元に参入してきた者から、異論が出た。 「我々がこうして新たな国造りができるのも、眞魔国の援助があったればこそ。それに、大地を復活させるためには、魔王陛下のお力が不可欠なのですぞ?」 ダード老師が穏やかに嗜める。 魔族贔屓と名高い神官の言葉に、それでも、と声を上げた者が数人現れた。 「魔王の力で大地を復活させるということですが、それはつまり魔王の魔力が使われるということでありましょう? 大丈夫なのでしょうか。むしろ大地や作物が魔力で汚されると……」 貴様ぁっ! ダン、と、荒々しい音と共に、怒りの声が上がった。 それまでずっと黙っていた男が、憤怒の形相で立ち上がっている。 「大地が汚されるだとぉ! 貴様、姫のお力を一体何だと思っているのだ! あれはまさしく神の力! 神々しいまでにお美しい姫の、文字通り神秘の力なのだ! それを汚れなどと……!」 燃え立つ怒気に慄く人々の前で、男、元ラダ・オルドの王太子クォードが剣を抜いた。 「姫を侮辱するものは、このクォードが許さん! 眞魔国との友好に異論ある者は前に出よ! この場で我が剣の錆にしてくれるわ!」 「クォード殿、落ち着いてください」 魔王陛下に一目惚れし、熱烈な愛を説こうとしたものの、それをことごとくコンラートに叩き潰され、それでもいまだに諦めないしつこ……情熱的な男に、エレノアはため息と共に告げた。 「相手は魔族、となれば、不安に思う民がいるのも致し方ありませんでしょう。あの時、あの奇跡を目の当たりにできたのは、ほんのわずかな人々なのですから……」 その上で、提案があります。 エレノアが、執行部全員の顔を見渡して言った。 「私は魔王陛下、そしてあの方が治められる眞魔国が信頼に値する国であることを知っています。ですが、今現在、眞魔国がどのような国なのか。その国土、民の暮らし、政の有り様などはよく存じておりません。友好条約を結ぶに当って、この際、眞魔国に使節を派遣したいと思います。その目で眞魔国と魔族の実態を確かめ、真に友好を結ぶに相応しい相手であるかどうかをしっかりと見極めてきてもらいたいのです。その者達の判断で、この件を決定したいと存じます。如何でしょう」 エレノアの提案は、満場一致で採択された。 俺が代表とならずして誰がなる! 真っ先にそう宣言したのは誰でもないクォードだった。 「姫の国と友好を結ぶその最初の1歩を踏み出すのは、このクォード・エドゥセル・ラダをおいて他になし!」 友好条約を結ぶ相手を冷静に見極める、という点では少々の、いや、多大な問題があるものの、元の身分的にも現在の立場的にも、彼は確かに最適だ。連邦議会においても相当の地位を占めることは確実だし、滅んだ彼の王国を含む州の統治者として立つことも決定している。まだ「国家」ではないものの、受け入れる眞魔国側にとっても不足はないだろう。……コンラートからは恨まれるかもしれないが。 エレノアはそう判断して、この使節団─正式ではないものの─の代表に彼を任命した。 そうして主たる成員として、クォード、カーラ、アリー、レイル、クロゥとバスケスという、魔王陛下にとって馴染みの者を選んだ。中でもクロゥとバスケスは、かつて眞魔国を訪問したことがあり、魔族の主だった人々と面識もあるし、また勝手の分からぬ国での案内役にもなれる。 だがこれだけでは足りない。クォード達は皆、眞魔国との友好推進派ばかりであり、厳しい視点に欠ける。そしてまた、国家と国家が手を結ぼうというからには、行政や経済など専門分野に携わる人員も必要だ。とはいえ、正式の友好使節団ではなく、まだ予備調査という段階では、あまり大人数にするわけにもいかない……。 「おばあさま! ねえ、見て! 眞魔国訪問団員を私なりに選んでみたの!」 夜の一時、長年の友人とカーラ、そしてクロゥとバスケスという、まさしく「気の置けない仲間」を相手に談笑していたエレノアの私室に、もう一人の孫娘が飛び込んできた。 「……アリー、声くらい掛けなさい」 笑って嗜めるが、そんなことを気にする娘ではない。後ろから「失礼します、おばあ様」と、これは礼儀正しく孫息子が入室してくる。アリーも少しはレイルを見習ってくれればよいのだが……。 「アリー、あなた、一体どういう権限で訪問団員を選んだというの?」 「建設的な提案を進言する権利は誰にでも与えられるべきだって、コンラートも言ってたわ!」 眉を顰める姉にきっちり言い返して、アリーは祖母に向き直った。 「それでね、おばあさま。私、彼らと一緒に眞魔国に行きたいんだけど……」 ふう、とため息をついて受け取った紙には、10名近い名前が並んでいる。 「……アドヌイ・ロボ、ゴトフリー・パシャ、ルーベン・クァント、ペリー………アリー、これは……」 「私達、新連邦野球ちーむの主力よ! 眞魔国は何と言っても野球の本場ですもの! 一度は眞魔国で本物の野球を勉強してこなくちゃ……」 「……アリー……」 小さく首を左右に振りながら、エレノアは紙をアリーに戻した。 「遊びに行くのではないのですよ?」 「遊びだなんて思ってないわ!」いかにも心外だと、アリーが声を上げる。「だって、新連邦と眞魔国の友好の第一歩としての訪問なんでしょう!? 野球は眞魔国の国技よ? この野球で友好を深めるのは、立派な文化交流だわ!」 理屈ばっかり達者になって、と、エレノアが再びため息をつく。アリーの頭の中では、すでに正式な友好訪問団になっている。その前段階という意識は、全く頭に残っていないようだ。 すぐ傍らで、くすくすと笑う声がした。ダード老師だ。 「まあ、何だね、魔王陛下もぜひ野球を見に来てくれと仰せだったし、少しくらいはいいのではないかね? 全員というわけにはとてもいかんが」 本当は私も行きたいのだがねえ。 温めた酒を啜って、老神官がしみじみとそう口にする。 「長年の、いわば憧れの国だしねえ。……しかし、神殿と聖職者の問題が収まらんと、私も動くに動けん」 大シマロン滅亡と新国家樹立にあたって、これまで庇護されてきた神殿とその関係者の処遇がずっと問題となっていた。新国家が眞魔国との友好を結ぶ意志を表明してからは、更にその問題が複雑になっている。 「今回は諦めて下さいな、ダード。……それで訪問団員ですが、アリーの提案は論外ということで……」 ひどいわ、と拗ねた声がするが、エレノアは無視した。すかさずカーラが口を開く。 「何より、経済と行政の専門家が必要と思います。眞魔国との友好の重要性を見極めるためには、彼らの判断が必要ですし、それがなければ他の者への説得力にも欠けると思います。クォード殿を含め、私達は強力な親眞魔国派とみなされておりますし」 カーラの言葉は、エレノアの考えと同じだ。 「あなたは誰を推しますか? カーラ」 「経済ではサンシア、行政ではラースでしょう」 エレノアとダードが大きく頷く。 サンシア・リュカスは、かつて大シマロンでも有数の貿易商人であった男の娘だ。 ベラールの宮廷の奥深くまで入り込んで商売に勤しんでいたが、反乱が起こると即座に資産を外国に移し、完璧な保身をした上で、戦争の帰趨を冷静に見極めることに努めた。そして、新生共和軍の勝利が確定するとみた途端、執行部に資金の提供を申し出、同時に一人娘を送り込んできたのである。 見事なまでの商人魂だった。 そのあからさまな意志、もしくは下心、に、眉を顰めるものも多かった。だが、誰よりコンラートが、経済に対する彼女の見識の高さを評価したのだ。彼女は有能な商人としての高い資質がある。彼女の才能を取り込み、使いこなせ。それがコンラートの言葉だった。 そしてもう一人、ラース・オーボエは30代後半の男で、これは根っからの役人だった。 かつて大シマロンの行政庁に勤務していたが、閲覧する者が限られている書類を見せろとごり押ししてきた貴族に対し、とことん拒絶を貫いたところ首を切られてしまった。反乱が発生する直前のことだ。新国家樹立に参加したいとやってきた彼を登用したのも、やはりコンラートだった。くそ真面目が玉に瑕だが、広範な知識と応用力がある。適応性も高い。彼も今は行政の専門家として、指導力を発揮している。 「私……あの人たち、苦手だわ……」 暗に一緒に行きたくない、という思いを滲ませてアリーが呟く。 「それはあなたが悪いのよ、アリー。何の役職にも就いていないのに、彼らの仕事に口を出したりするから」 それほど昔ではない以前のことだ。エレノアの孫であるという以外、一体何の権限、どういう根拠があって、彼女が我々に指図することが許されるのかと、サンシアやラースを含む文官達から抗議が上がったことがある。 「私は! ………ただ、おばあ様やお姉様のお役に立ちたくて……」 ぷくっと頬を膨らませる妹に、カーラは苦笑を浮かべた。 砦で、ただ必死に戦っている時は良かった。盟主エレノアの孫であり、元一国の王女と王子であるアリーやレイルが中枢部に好き勝手に出入りしても、何か発言しても、特に問題になることもなかった。 アリーやレイルとて、遊び暮らしていたわけではない。戦闘にこそ出なかったが、集まってくる難民上がりの若い兵士達を束ね、後方支援などをこなしていた。それもあって、「新生共和軍」ではそれなりの居場所を占めることもできた。しかし、今は違う。 エレノアやカーラも、最初は2人にそれなりの仕事を与え、発言権を与えてやりたいと考えていた。しかし、年も若く、一軍を率いたこともなく、これといった技術も専門知識もない2人だ。全土から経験も知識も豊かな人材が続々と集まってきている今となっては、この2人にはそれなりの地位どころか、「エレノアの孫」という以外、どこにも座るべき場所を与えてやることができなかったのだ。 後で分かったことだが、レイルはそれでもかなり早い段階で、自分の立ち位置の不安定さに気付いていたらしい。だがアリーは、自分の立場が変化しつつあることに全く気付いていなかった。あちこちの部署に飛び込んで行っては、古参として新参の文官達に、ついつい先輩気取りで「教えを垂れ」てしまったのだ。それが反感をかったのである。 かつて自分達に理屈など必要ではなかった。カーラは思った。 使命感と情熱と力。それがあればよかった。 だがもう違う。 平和な国家をその中心となって支えるべきは、カーラ達のような武人ではなく、文官だ。実際彼らの数は、古参の武人達の数をとうに超えている。 カーラ達のように戦いの功績によって高い地位を占める古参の者達は、これから彼らと共に働き、彼らの理念と向き合っていかなくてはならない。 力でも情熱でもなく、原理原則、理論理屈、そしてそれを何より重要視する人々─彼ら、「官僚」と。 結局、眞魔国に訪問するのは、最初に決めた6人の他、経済の専門家としてサンシア、行政の専門家としてラース、それからこの2人がそれぞれ選んだ者が2人、そして、文化交流担当としてアリーが望んだ者の中から2人、アドヌイ・ロボとゴトフリー・パシャが選ばれた。 アリーとレイルは魔王陛下と親しくしており、ぜひ眞魔国を訪れて欲しいとかねてから申し出がある。そしてその際には共に野球をしたいと言われていた。魔王陛下のその希望に添うためにも、アリーとレイル、そして野球ちーむの人員は必要だとエレノアは皆に説明した。 「くれぐれも言っておきます。この訪問は、決して遊びに行くものではありません。友好条約を結ぶために、その相手国の内情を調査するために行くのです。……魔王陛下には大変お世話になっており、単なる調査だけでなく、交流も必要であろうとアリーとレイル、あなた方を選びましたが、何よりこの基本を忘れないようにしてください。勝手な行動は慎み、カーラ達の指示を常に仰ぐように。それから、魔王陛下とはあの砦において友人付き合いをしておりましたが、今回は陛下の治める国への訪問です。陛下のお立場もありますし、臣下の方々の目もあるでしょう。国家と国家の代表であるという立場を決して忘れることなく、言動にはくれぐれも注意してください。いいですね?」 はい、と神妙に頷くのはアリーとレイル達年少組だ。 ともあれ。対眞魔国友好条約締結のための事前調査団は人数を揃え、国を出発した。 「カーラさん! アリー! レイル! わお、クーちゃん、バーちゃんっ!!」 血盟城の最も高い場所にある城館で。 飛び出してきた黒衣の少年が満面の笑顔で駆け寄ってくる。 「魔王陛下……!」 思わず声を上げるクロゥに、「あれが魔王!?」とサンシアが絶句している。 「眞魔国にようこそ! 皆で遊びに来てくれて、おれ、ホントに嬉しいよっ!」 ………遊びに来たんじゃないんですが。 陽の光の下で、魔王陛下はこの世のものとは思えないほど美しい、輝くような笑顔を彼らに投げ掛けた。 「ユーリ!」 周囲の状況も省みず、アリーが吹っ飛ぶように駆け寄っていく。 「アリー! 待ってたよ! 本当に来てくれてありがとう! うんと楽しんでいってくれな!」 「私も会えて嬉しいわ、ユーリ! 色んなところへ連れてってね! 野球もしたいし、他にもいっぱい遊ぼうねっ!」 「だからぁ……」 額を押さえ、カーラは天を仰いだ。 彼らの眞魔国での日々がこれから始まる。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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