しゃるういだんす?・6−1



 準備は怠りなく進められていたはずなのに、まだ陽も昇らぬ内からお城の中は大変な騒ぎになっていた。
 天下一舞踏会当日。
 もちろん私も夜明け前からしっかり起きている。そして、姫様も。

「ねえ、アグネス! やっぱりこのドレス、ちょっと子供っぽいと思わない? やっぱりこちらの薔薇色の方が…」
「姫様、それはもう十分検討なさったのではございませんか? 昨夜は薔薇色のドレスが少々派手すぎると仰せだったような気が致しますが……」
「一晩経てば気持ちも変わるわ。ねえ、髪飾りなのだけれど、このドレスだとこちらの銀は沈んでしまうような気がしてきたのだけれど……」
「姫様、それも昨夜さんざんお悩みになって銀にお決めになったのではありませんでしたか?」
「夜の決意というのは、朝陽の中ではまた変わるものなのよ」
「……まだ陽は昇っておりませんわ。それより姫様、目の下に寝不足のクマが……」
「何ですって!」
 姫様が鏡台に向かって突進して行かれる。思わずふうとため息が漏れた。

『俺はこの手で、他の誰の手も取るつもりはありません』

 あの夜の、ウェラー卿のお言葉が蘇る。
 ご自分の手を見つめてそう仰った、ウェラー卿のどこかやるせない眼差し。
 もしかしたら、あの方には思うお方がおいでになるのかもしれない。でも、思いをその方に告げることが叶わず、ずっと胸に秘めておられるのかもしれない。そんな風に考えた。
 先代魔王のご子息。でも、人間との混血。
 魔族社会のことは全く知識がないけれど、でも、おそらくは微妙なお立場にあるのではないかと推測することは私にもできる。
 ただ、ウェラー卿は当代魔王の側近だとも聞いた。決して地位が低い訳ではないはずだから、お血筋だけが問題なのではないのかもしれないけれど……。
 それ以上、私に分かることなどないから、そこで考えるのを止めることにした。
 とにかく私にとって大切なのは姫様だ。
 ウェラー卿が姫様を舞踏会のお相手に選ぶ可能性はまずないということ、できることならラン様と踊って頂くこと、それをさりげなくお伝えして、了解して頂かなくては……。
 かなり難しい気もするけれど。

 部屋の外、そして窓から見える庭を、城の者達が慌しく行き来している。本当に当日になって何を慌てているのやら。
 でも、この日を胸を高鳴らせてお待ちになっていた紳士淑女の方々は、皆さん、姫様と同じ様に落ち着かない朝をお迎えになったのかもしれない。とすれば、お側でお世話する私のような立場の者は、色々と追い使われているのだろう。
 せっかく外国の方もいらっしゃるのだし、それぞれ国情の違う国で働く方々と、もうちょっと交際を広げておけば良かったかも、とふと思う。そうすれば、私の見聞も深まったかもしれないのに。
 滅多にない機会なのに、もったいないことをしたかも、と思いつつ、それでも、何より眞魔国の方々とお知り合いになれたのは意義深い、とも思い直したその時。
「アグネス」
 母の声に振り返った。

「ライラ様のお部屋って……いつもの客間ではなく?」
「ええ。私室にとのお言葉ですよ。朝食の後にあなたに来てもらいたいと」
「姫様ではなく……私に……」
 よく分からないと首を傾げた私に、母が「そうなのよ」と、これも首を捻る。
「姫様には内緒で、というのがまた不可解で……。ですが、ライラ様の仰せですしからね。姫様には私から適当に申し上げておくので、あなたはあちらにお伺いなさい」
 分かりました、と答えて、それからふと、ウェラー卿のお言葉とラン様のお考えについて、母の考えが聞きたくなった。

「……そう。誰の手も取らない、と。人様のお心の内を勝手に推し量るのは無礼というものですが……そうですね、何か強いご決意を感じるわね」
 あの方は意志の強い方でいらっしゃるから。そう呟く様に言って、それから母はくすっと笑った。
「穏やかと見せて、むしろかなり強情なお方とみたわ。こうと決めたらそうそうご決意を曲げることはなさらないでしょう。……どうやら今日の舞踏会で、姫様もご自分のお気持ちに区切りをつけることになりそうですね」
「それは少し早いのではないかしら? ラン様はウェラー卿にアシュラムへのご同行をお願いすると言っていたわ。もしそうなれば姫様も……」
 まだ希望を捨てられないのではないか、と続けたかった私の言葉は、母に遮られた。
 いいえ、と微笑を浮かべて、母がきっぱりと首を振る。
「今日、よ。姫様は聡明な方です。舞踏会を終える頃には、姫様もご自分のお心をきちんと整理なされることでしょう。……大丈夫よ」
 母がここまで自信を込めて言葉にして、実現しなかったことはない。



 衛士が開いてくれた扉を潜ったその瞬間だった。

「うわーんっ!!」

 は? と思わず顔を上げた私の視界、すぐ目の前を、ドドドドドッと地鳴りのような音をたて、青い布の塊が、右から左へものすごい勢いで駆け抜けていった。
 あまりに素早かったので、それが誰なのかも、着ている衣装が何なのかもよく分からなかった。
 すぐにバタンともガシャンとも聞こえる荒々しい音がして、見れば中庭に通じる扉が揺れている。青い塊は中庭へ走り去ったらしい。

  「待てーっ、ユーリーっ!」
 いい加減覚悟を決めろーっ! と、叫んで後を追うのは…フォンビーレフェルト卿だ。
「坊っちゃ、じゃねー、お嬢様ーっ、何で逃げるんですかー!」
 無茶苦茶可愛いのにー、と楽しそうなのはグリエ殿。
 呆然と見ている間に、お二人の姿もまた中庭に消えていった。
「やあ、お早う、アグネス」
 と、耳に飛び込んできた冷静なお声は……。
「……お早うございます、ムラタ様。…えーと……」
 ライラ様の、ここは居間になるのだと思う。部屋中央に設えられたソファには、ムラタ様がいかにも食後の一服といったご様子で、のんびりお茶をお召しになっている。
「ちょっとここで待っててくれるかな。今二人が生け贄を、じゃなかった、僕たちの姫君を捕獲してくるから」
 ………聞き流すにはあまりにも危険なお言葉が、少々入っておりませんでしたでしょうか…?
「あの…ライラ様は……」
「今、おいでになるよ。ちょっと目を離した隙に逃げられちゃってね」
「逃げた……」
 状況から察するに、あの青い塊はユーリ様、ということになる。でも……お召しになっていた衣装は、今思い返してみれば……。
「あら、アグネス、来ていたのね。おはよう」
「おはようございます!」
 慌ててご挨拶すれば、「一緒に座って待っててくれるかしら?」と、ソファに招かれた。

「あの、先ほどの方は、ユーリ様…でいらっしゃいますね?」
 昔ならまだしも、恐れ多くも、今はフランシアの王妃となられたライラ様の私室で、ライラ様と並んでソファに座り、お茶を供されていることに緊張しながらも、私はお尋ねした。
 そうよ、と、ライラ様が笑って頷かれる。
「何でもやります! って仰って下さったから張り切って着付けたのに、逃げられてしまったわ。やっぱりあなたが来るのを待ってからにした方が良かったみたい。ユーリ様も、私達二人掛かりなら逃げられなかったかも……」
 ……二人掛かりで、何をしようというおつもりだったのでしょう。
「あの……ユーリ様がお召しになっていた衣装は、あれは……」
 ドレス、ですよね?
 言わずもがなの確認に、ライラ様がにーっこり笑って頷かれた。
「ツェリ様にちょこちょこおもちゃにされて、女装もいい加減慣れてるはずなんだけどねー。やっぱり天下一舞踏会ってのがネックだったかな」
 ツェリ様、と仰る方がどなたかは分からないけれど、どうやらユーリ様はドレスを着慣れているらしい。
 でも「女装」と呼ぶからには………やっぱりユーリ様は男の子、なのだろうか……?
 では、私や母が感じたあの違和感は……。

「だーっ、離せー、おれはヤだぞー、こんなカッコで天下一舞踏会に出るなんて……っ!」

 中庭から声が近づいてくる。確かにユーリ様だ。
 そして間もなく、グリエ殿とフォンビーレフェルト卿に両側から腕を掴まれ、引きずってこられるユーリ様の背中が見えた。
 青いドレスに身を包み、何とか外へ逃げ出そうとじたばた暴れている。
「離せってばっ! このうなぎのにものーっ!!」
「……………」
「……………」
「…………裏切り者って言いたいんだね」
 お茶のカップをのんびり口に運びながら、ムラタ様が解説して下さる。

「ユーリ様、往生際が悪いですわよ」
 ライラ様が、いまだに私達に背を向けて暴れるユーリ様に、笑いを含みながらもきっぱりと仰せになった。
 ユーリ様が「…う」と詰まって動きを止める。
「ご自分のお言葉には責任を持つべきですわ。私のお願い、聞いてくださると仰いましたもの」
 ね? とライラ様に念を押されて、私達に背を向けたままのユーリ様ががっくりと肩を落とされた。
 フォンビーレフェルト卿とグリエ殿が掴んでいたユーリ様の腕をお放しになる。
「はい、じゃあユーリ様、こちらをお向きになってね。アグネスと一緒に御髪を整えて、そらからお化粧もしましょう」
 アグネス、お願いね?
 にっこりと、でも容赦なく、ライラ様が話を進めていかれる。
 ……ちょっと意地悪お姉さんって感じで……怖いです、ライラ様。

 ううー、と情けなさそうに唸りながら、ユーリ様が振り返られた。……両腕を交差する様に、顔をお隠しになっておられる。よっぽど恥ずかしく思っておられるのだろう。
 何と言うか……可哀想になってきてしまった。
 だって、16歳の男の子。
 こんな格好をさせられて、嬉しいはずがない。いくら約束したからって、普通男の子が女装して、そしてそれを披露する場所が事もあろうに天下一舞踏会とあっては、嫌がらないほうがおかしいと言うもの。
 天下一舞踏会は、ただの舞踏会ではない。美しさと優雅さと気品に懸けては人後に落ちないと自負する人々、各国から選び抜かれた紳士淑女が集い、妍を競う絢爛豪華な舞台だ。そこへ……。
 昔からご尊敬申し上げ、理想の女性と崇めていたライラ様に対して、初めて怒りのような感情が私の胸に湧いた。
 それは、嫌がる男の子を無理矢理女装させて、まるで見世物の様に天下一舞踏会の会場に連れて行こうという、ただそれだけの理由ではない。
 ユーリ様が身にまとうドレスを一目見て、私は思わず眉を顰めてしまったのだ。
 真正面から見たその青いドレスは……。
 天下の天下一舞踏会(…ちょっと表現がおかしいけれど)に出席するには、その青いドレスはあまりに質素に思えた。
 仕立ては悪くないのだが、どうも布の質が今ひとつだ。何より形がいけない。今流行の、ドレスの切り替え部分から何層にも重ねたフリルが顔を出し、それが優雅にふんわりと広がって床に流れる形(裾を引きずるから、歩くのも踊るのも一苦労なのだが、そこを上手く捌くのが腕の見せ所というわけだ)ではなく、私達侍女が多く身につける、裾が床に触れるか触れないかの一般的な形をしているし、フリルもない。
 丸く開いた襟ぐりと、肩からわずかにはみ出す程度の袖口に繊細なレースが飾られているけれど、装飾と言ったらその程度で、後は背中の腰部分にリボンがある程度か。
 それと……胸がないから、その部分の布が何となく垂れていて……はっきり言って……みすぼらしい…?
 こんな姿でユーリ様を天下一舞踏会の会場に登場させるのは、あまりに惨い仕打ちでは……。
「このドレスはね」
 私の表情を読まれたのか、ライラ様が可笑しそうなご様子で仰った。
「私の母が、私のために初めて仕立ててくれたドレスなのよ」
 ハッと、顔が引き締まる思いがした。ユーリ様も顔は隠したままだが、すっと息を吸われた後は、駄々っ子のような雰囲気が消えてしまった。
「私は陛下をお守りする武人であろうと決めて、ずっと女であることを忘れたつもりで生きてきたわ。そんな私を、母は不憫に思ったのでしょうね。舞踏会があると聞いて、これを仕立ててくれたの。母は、アグネスも知っていると思うけれど、このフランシアの田舎の農婦にすぎないわ。だからこのドレスはそんな母が頭に描く、精一杯優雅なドレスだったのね。舞踏会に間に合ったとこれを私に差し出したときの、母の嬉しそうな顔が今も忘れられないわ……」
 懐かしそうにそう仰せになられてから、ライラ様がくすっとお笑いになった。
「これを着て舞踏会の会場に現れた私を、皆それはもう呆気に取られて眺めたものよ。あのライラがドレスを着てきた、という驚きの目と、こんなドレスを着てきた、という笑いを含んだ目……。でもね……舞踏会が始まってすぐ、陛下が私の元においでになられて……」

『皆の注目を一身に集めているあの美しい女性は一体どこの姫君だろうと、さんざん悩んでしまったじゃないか、ライラ。びっくりしたよ。だけど……とても綺麗だ』

「そう仰せになって、私に手を差し伸べて下さり、そして……照れくさそうに……」

『もちろん、最初の舞踏は私と踊ってくれるよね? いいや、最初と最後は、必ず私と踊って欲しい。あ、できれば中間も』

「こんな美しい姫君が、他の男性の手を取る姿を見たくない。なんて仰って……」
 嬉しかったわ。
 ライラ様がほんのりと頬を赤らめ、そう仰せになられた。
 つまり。これって……。

「…………もしかして、僕達は単に惚気られているだけなのか?」
「そうみたいですねー」
 フォンビーレフェルト卿とグリエ殿が囁き合っている。

「という訳でね」
 何が、という訳、なんだろう? よく分からないが、ライラ様はどこか嬉しそうに笑っておられる。
「ユーリ様、私の母が思いを込めて仕立ててくれたこの大切な大切な大切なドレスで、どうか天下一舞踏会に参加して下さいませ。ね?」
 その結論に至る経過が良く分からない。何だか、上手いことユーリ様を乗せているような気がする。
 ユーリ様のお顔を覗きこむライラ様の、ちょっと悪戯っぽくお笑いになったお顔を見て、そう考えた瞬間。

「……わっ、分かりましたっ!」
 ユーリ様が顔を覆っていた腕を外される。
「そんな大切なドレスを貸してくれて、あっ、ありがとうございますっ! おれ、このドレスで天下一舞踏会に乗り込ませて頂きますっ!!」
 拳を握り、力強く宣言なされるお姿を目の当たりにした私はー…………
 ……………
 ……………
 ……………
 ………………………腰が抜けた。

「アグネスー、大丈夫かい?」
 背後から聞こえる笑いを含んだ声は、たぶんムラタ様、だと、思う。
「あれ? お姉さん、どうしたの?」
 頭の上から声が降ってきて、目の前の青一色だった視界が揺れた。と思ったら、目の前にお顔が現れた。
 小首を傾げてじっと見つめられ、思わず仰け反った。

 眩しい。
 別に光っているわけでもないと思うのだけれど、眩しくて目を開けてまともに見ることができない。
「お姉さん? アグネス?」
 お顔が、さらに傾いて私の目を覗き込む。……眩しいのに、目が離せなくなった。答えなくてはと、頭の隅で声が聞こえるのに、喉が詰まって声が出ない。

「…………ゆーり、さま……?」
「うん。おれ」

 ………無理矢理喉を動かして、唾を飲み込んで、声を出して、ようやく呼吸が楽になったような気がして、私はほーっっと息を吐き出した。
 やっと、少し落ち着いた気が、する。
 頭を振り、もう一度深呼吸して、それから意を決して真正面にしゃがんでおられるユーリ様のお顔に目を向けた。

 ………信じられない。同じ「人」の形をした顔とは到底思えない。
 何て……美しい。何て、愛らしい。何て、何て……!
 優しげな曲線を描く眉の下、つぶらな瞳、小ぶりの鼻、幼げな、でも形の良い唇、頬から顎にかけてのまろやかな流れ。
 ああ、ダメだ。そんな言葉ではどこがどう美しいのか全く表現できてない。
 まるで聖堂画の天使や、彫刻に描かれた女神の様に、いえ、それ以上に、地上にあるとは思えない完璧な美。……ああ、違う! その完璧な美に、無垢な幼い少年の、もしくは少女の、穢れを知らない、だけどどこか不安定な儚さ、脆さが加わって、もうすでに完璧を越えているというか!
 ……何を言っているのか、自分でも良く分からなくなってきた。
 とにかく。
 傾城と呼び、傾国と呼ぶ美しさがある。どこか退廃的な、破滅の匂いがする言葉だ。
 でもユーリ様は違う。この方のこの美しさには退廃の欠片もない。むしろ…そう、光に満ち溢れて、希望に輝いている。そんな気がする。ただ…。
 この方のためなら、己の城も、国も、傾けて悔いなしと思い定める人が、必ずいる。この方を目にすれば、それこそ無数にそんな人が現れる。そう思う。

「……アグネス…大丈夫? どこかで転んで頭とか打った?」
 ハッと目を瞬くと、目の前に不思議そうなユーリ様のお顔があった。
 ドキリと胸が高鳴るが、そこはぐっと抑えて、私は大きく頷いた。
「…失礼しました。もう、大丈夫、です」
 たぶん、と心の中で付け足して、私はゆっくりと立ち上がった。
 ユーリ様もつられて一緒に立ち上がる。お顔はまだ不思議そうなままだ。でも、お側のフォンビーレフェルト卿とグリエ殿は私の心境がよくお分かりらしく、同情を込めた眼差しを送られた。

 ね、アグネス? 耳元で、ふいにライラ様のお声がした。
「ユーリ様なら、例えシーツ1枚を身体に巻きつけただけでも十分だと思わない?」
 仰せの通りです、と囁き返して、私はまたもやため息をついた。
 どれほど流行のドレスに身を包んでも、どれほど高価な装飾品で全身を飾っても、ユーリ様の美しさ、この内側から溢れ出るような輝きには到底敵いはしないだろう。
「このドレスはね、確かに私の思い出の品で、本当に大切なものなのよ」
 ライラ様のお言葉が続く。
「でもね、これをユーリ様に着て頂こうと思ったのは、本当はそれが理由じゃないの」
 ライラ様が、私の耳元でくすっとお笑いになった。
「だって、ユーリ様が流行の最先端をいく素晴らしいドレスをお召しになってしまったら、他の女性達があまりにも……可哀想でしょう?」
 まあ、これではあまり意味はないのだけれど。ライラ様の呟きに、私も頷いた。
 貧しげ、とすら思っていた質素な青いドレスが、今は優雅に華麗に光り輝いて見える。
 ……懸命にドレスを選んでおられた姫様のお姿が、頭の中に蘇った……。

「さーて、あまり時間がないわ! お化粧と、それから急いで髪を結わなくては!」
「お化粧……必要ないのでは?」
 思わず申し上げると、「そうです!」とユーリ様が乗ってこられた。
「塗ったってムダだから! それにおれ、顔がベタベタするの苦手で……!」
「せめて紅くらいはね。それから眉ももうちょっと整えて……。あ、胸に詰め物も必要ね。私、お化粧は苦手だから、アグネス、その辺りをお願いね? さ、ユーリ様、参りましょう。……心を決めた以上はじたばたしない!」
 しまったーというお顔のユーリ様を、ライラ様が半ば力ずくで引きずっていかれる。私も慌てて後に従った。
「がんばれ、シブヤー。完成を楽しみにしているよー」
 ムラタ様とフォンビーレフェルト卿とグリエ殿ににこやかに見送られ、ユーリ様の肩からがっくりと力が抜けた。



「これより、天下一舞踏会を開催いたします!」

 進行役の男性が、誇らしげにその宣言をした。
 魔王の力によって自然の崩壊が止まり、平和と活力を取り戻した国々から集まってきた人々が、一斉に拍手をし、歓声を上げる。

 舞踏を競い合う天下一舞踏会は昼間に開催される。そして優勝者が決定した後、夜になってからお祝いの、今度は本当に楽しむためだけの舞踏会が開催されることになっている。つまり、今日は丸一日舞踏会が続くということだ。

 豪華に飾られた大舞踏会場。期待と興奮に笑いさざめく人々。
「ああ、胸がどきどきしてきたわ。ねえ? アグネス? やっぱりこのドレスで正解だったわよね?」
「はい、姫様。お美しくていらっしゃいますわ」
 薄紅色のドレス。真っ白なフリルと共に、美しい曲線を描きながらゆったりと波打つように流れる裾。たるみのない、肌に吸い付くように仕立てられた真っ白な手袋。金と銀を組み合わせた髪飾りと対の首飾り。手になされる上品な色合いの扇。抑え目なお化粧が、姫様の清楚な美しさを際立たせていて……。
 それなのに、私は自分の口調がどこか白々しかったのではないかと、妙に後ろめたい気持ちになっていた。
 傍らから私を見ている母の、怪訝な眼差しが胸に突き刺さって……。
「アグネス」
 母だ。
「先ほどから気になっているのですが……あちらにおいでの方」
 ちらりと横に向けられた視線の先。その壁際に、青いドレスの少女がお供も連れず、たった1人で立っている。
「あれは……ユーリ様、ですね?」
「…! 分かるの!? 母様!」
 思わず声を上げたら、母にじろりと睨まれた。慌てて口を押さえる。
「分かりますとも。私は人の顔ばかりを見ているわけではありませんよ? ……あのお姿はライラ様のお指図ですか?」
 ええ、と私は頷いた。
「お化粧と御髪を整える役目を仰せつかったの。……でも、あれでは意味がないけれど……」
 ユーリ様は、これまた大きいだけの質素な扇でしっかり顔を隠しておられた。
 あのお顔が見えない、ことが、もったいないと言うべきなのか、助かると言うべきなのかが今ひとつ分からないのだが……。
 お顔を伏せ、さらに扇で隠して、人の陰に隠れるように立つユーリ様のお姿に、通り掛った人々は皆、「この場違いな娘は、一体どこの田舎から紛れ込んできたのだろう?」と、怪訝な表情で眉を顰め、また嘲笑を浮かべて見遣っている。2、3人で固まって、くすくす笑いながらこちらを指差している姫君達もいる。
 ……あまりにも見当外れな嘲笑だから、怒りすら湧かない。知らないというのは幸せなことだ。
 そして母も。
「ライラ様は一体どういうおつもりであのようなドレスを……。あれではユーリ様がお気の毒でしょう。とは言っても、あの方が本当に男の子でいらっしゃるなら、どんなドレスだろうと笑いものになりかねませんが……」
 眉を顰め、そう呟いていた母は、ふいに私に顔を向けた。
「フォンビーレフェルト卿達はどちらに?」
「ご一緒だとウェラー卿にばれてしまうというので、離れておいでになるのよ。たぶん……どこかでこちらを見守っておられると思うけれど……」
「そう…。では、ユーリ様をこちらにお呼びしなさい。あのような年若い娘……で、いいわね、少なくとも今は……が、お1人であのようにおいでになって良い訳がありません。私達がお側についていて差し上げましょう」

「……ユーリ様、でいらっしゃるの!? 本当に!?」
 私がユーリ様を壁際からお連れすると、母から話を聞かされたのだろう、姫様が目をまん丸にして仰せになられた。
 扇で顔を隠したままのユーリ様のお身体が、ぴきんと震えて堅くなる。
「ライラ様のお願いなのですわ。ドレスを纏って天下一舞踏会に出席なされるようにと」
 まあ、と声を上げた姫様が、ユーリ様の頭の先からつま先まで、素早く視線を走らせる。
「……ライラ様がこのドレスを…?」
 どうしてこんなドレスを? と瞳に疑問を滲ませて、私に問い掛けるのはラン様だ。
 きちっとした礼服に身を包み、いつでも姫様のお相手ができるように準備万端整えておいでになる。
「あの……ユーリ様? 扇を下ろされませんこと? じゃないとお顔が見えなくて、何だか…お話もしにくいですわ」
 姫様のお言葉に、ユーリ様が扇ごとふるふるとお顔を左右に振った。
「………おれ、はずかしーから……」
 それに。やっぱり見たくないから。
 いつもお元気なユーリ様とは思えない、それこそ消え入りそうなお声で呟かれて、姫様と私達は思わず顔を見合わせてしまった。

 アントワーヌ様が、復活した天下一舞踏会をフランシアで開催できる歓びを挨拶とされ、参加者代表が舞踏会に参加できる光栄と感謝の言葉をフランシアに献じ、人々が心のこもった拍手で場を盛り上げた、その余韻も消えぬ頃。
 司会進行を務める男性が朗々と通る声を上げた。

「それではここで、天下一舞踏会、歴代優勝者の中でも、最も高名なお方を御紹介いたしましょう! 眞魔国、前魔王陛下のご次男、当代魔王陛下の側近にして、英雄と名高い、ウェラー卿コンラート閣下でいらっしゃいます!」

 高らかに謳い上げられるそのお名前。同時に上がる歓声と拍手の中、ウェラー卿がゆっくりと広間の中央にお姿をお見せになった。
「何て…! 何て凛々しいお姿……!」
 その呟きはほとんど無意識だったかもしれない。頬を染め、瞳を潤ませた姫様が、胸元に寄せた両手を揉みしだく様になさりながら、うっとりと閣下を見つめておいでになられた。
 そんな熱い眼差しで閣下を見つめておられたのは、決して姫様お一人ではなかったと思う。
 舞踏会に集まった姫君方は、みな魂を抜かれたようにウェラー卿に見入っておられた。
 かくいう私もその一人だ。もっとも、私はこの直前にユーリ様という、この世の方とは思えない美しい方を間近で拝見していたから、正気に戻るのは誰より早かったと思うが。

 ウェラー卿はやはり武人でいらした。
 お召しになっておられたのは、真っ白な軍服─礼装、だろうと思う。
 お顔立ちも、立ち居振る舞いも、全てが端正であられる閣下に、華美な装飾を一切排した純白の礼装は事のほかお似合いでいらっしゃった。惚れ惚れするほど颯爽とした、見事な立ち姿だ。

 ウェラー卿は貴賓席にお座りになるアントワーヌ様とライラ様に優雅に一礼なされると、並み居る人々をゆっくりと見回された。

「フランシア国王、アントワーヌ陛下、そしてライラ妃殿下、本日、ようやく復活叶いました天下一舞踏会に、こうして魔族である私をお招き下されましたこと、心より光栄に存じております。ありがとうございました。そしてお集まりの皆様にも……」

 閣下のご挨拶に耳を傾ける私の視界の隅で、何かがふと不自然に動いた。何だろうと顔を向けると、何とヴァイオラ様が大広間の中央に向け、足を踏み出されたところだった。……閣下のお目に止まろうという魂胆、いえ、お心積もりなのだろう。
 気づけば、数人の積極的な姫君が、負けじと前にお進みなされておられる。
「まあ、何て無作法な。あのような慎みのないことをなさってまでコンラート様のお目にとまろうなどと、本当に浅ましいわ。ねえ、アグネス、そう思わない?」
「はい、姫様。私もそのように思いますわ。思いますから……一緒になって前に出てどうなさるんですかっ、姫様!」
 裾を大きく捌きながら前に進み出ようとなされる姫様の腕をしっかと握って、私は素早く姫様の耳元に囁いた。
「大きな声を出さないで、アグネス。だって、負けていられないじゃないの」
「そういう問題ではございません!」
「姫、一国の公女としてのご自覚をお持ち下さい」
 ラン様も横から声を潜めて、でも強い口調で姫様を諌められた。
「それに、前に出ているからといって、ウェラー卿に選んでもらえるというものではないでしょう!」
「そんなことは分かっているわ」
 姫様が、どこか瞳に自信を漲らせれて私達を振り返られた。
「私はただ、あのヴァイオラ様の生意気……あら、私としたことが…ええと、あの自信過剰なご様子が気に入らないだけよ。あの方の目の前でコンラート様に選ばれて、そして」
 扇にさりげなく隠した口の端がきゅっと持ち上がる。
「ヴァイオラ様の鼻っ柱を叩き潰してやりたいの」
 ……ラン様が「う」と小さく呻いて手を離された。
 姫様、何かがすでにヴァイオラ様を越えておいでになります……。
 せめて母に何か一言、と振り返れば、母はあらぬ方向に顔を向け、こちらに全く関心がなさそうだ。
「母様! 姫様に何か言って……」
「姫様は大丈夫ですよ。お心が少々お祭り騒ぎを起こしているだけだから。それよりも、アグネス」
 ほら、と言われて見れば。
「……ユーリ様……」
 姫様方が前に進み出られるのと相反して、ユーリ様はなぜかまたも後方に下がっておられた。
 思わずお側に駆け寄ると、ユーリ様は扇で隠したお顔をさらに深く伏せてしまわれた。
「ユーリ様、あの……」
「おれ…見たくないんだ。コンラッドが……」

 おれの知らない女の人を選んで、一緒に踊るところを……。

 弱々しいお声に、ハッと胸を衝かれる。
 ウェラー卿がどなたを舞踏のお相手に選ぶのか見たいと仰せだったけれど、それももしかしたら不安の表れだったのかもしれない。
 ユーリ様は……ウェラー卿のことを……。

 でも。
 どうなのだろう。この方は、本当に少年なのだろうか、それとも……。

「では閣下! 歴代優勝者のお一人として、最初に模範とすべき舞踏を皆様にご披露願います! どうぞ、お相手となられる姫君のお手をお取りください!」

 司会進行役がそう声を上げた瞬間、前に進み出ていた姫君方がさらにずずずいっと前に進み出た。……姫様もだ。
 なりふり構っていられるか、というご様子の姫君達の間に火花が散って見えるのは、もちろん気のせいだろう。
 ただ、大広間に不穏な緊張が高まってきたのは確かなことのように思う。

 ずいっと距離を詰めてくる姫君達に、司会進行役の男性が恐れをなしたのか、顔を引きつらせて数歩後ずさった。
 もちろんウェラー卿は、ずっとお顔に浮かべている笑みをわずかに苦笑に変えただけで、全く余裕のご様子だ。
 それから、閣下はずらりと並んだ姫君方をゆっくりと見回された。

「申し訳ありません。私は今回……」

 ふいに。
 閣下の言葉が途切れた。同時に、そのお顔が一瞬、何か衝撃を受けたように強張った。そして目を瞠られたまま、全く動かなくなってしまった。
「………閣下……?」
 司会の男性が声を掛けるが、ウェラー卿の反応はない。
 そして見開いていた目を、何か探るように眇めると、すっとその表情を改められた。
 それから……。

 ウェラー卿がいきなり。
 大股で、何か逃げようとするものを追い詰めるような勢いで、歩き始められた。……私達の姫様に向かって。

「……まさか…?」
 ラン様が訝しげに眉を顰め、それから焦ったように声を上げる。
 まっすぐこちらに向かってこられる閣下のお姿に、私もドキリと胸を高鳴らせた。
 まさか、ウェラー卿は……姫様を…? だって、誰の手も取らないと、あれほどはっきり……。

 私達の目の前で、姫様がしゃんと背筋を伸ばされ、その瞬間を待っておられる。
 閣下の、おそらくは視界の外に置かれた姫君達─もちろんヴァイオラ様をその筆頭として─の、驚愕の眼差しが姫様に集中する。
 ウェラー卿の足取りに、迷いはない。

 あと数歩で、閣下が姫様の真正面にお立ちになる。
 胸を張ってその時をお待ちになっておられた姫様が、そこでドレスの裾を持ち上げ、優雅に、これ以上ないほど優雅にお辞儀をなされた。ほう、という、満場のため息。
 だが。

 ウェラー卿の足は、姫様のすぐ前においでになっても全くその勢いが衰えなかった。
「……………え…!?」
 私も含め、周囲の人々からどこか間の抜けた声が漏れる。

 ウェラー卿はスッと、まるで、いいえ、明らかに、姫様のお姿など全く目に入っていないご様子で、その傍らを通り過ぎると、そのまま真っ直ぐ…真っ直ぐ、私とユーリ様がおいでになる壁際に向かっておいでになられた。
「か、閣下……?」
 その瞬間に気づいた。ウェラー卿は全く瞬きをなさっておられない。
 まるで視線で何かを射止めようとなされるかの様に、底光りする眼差しをお向けになったまま、こちらに向かってこられるそのお姿は、はっきり言って……怖い。
 だけど同時に気づいたことがある。
 閣下は真っ直ぐ私達に向かってこられるけれど、その強い視線の向く先は、決して私ではない、ということだ。
 閣下のひたすらな眼差しはただお一人に向けられていて……。

 ウェラー卿の足が止まった。
 扇で顔を隠したままのユーリ様の真正面。身体が触れるか触れないかという近さで。

「……………やっと…見つけた」

 ほう、と息を吐いて、ウェラー卿がその一言を口から押し出された。

 ぴくり、とユーリ様のお身体が揺れて、扇で隠したままのお顔がそっと上がった。

「………コンラッド……」

 小さな、呟くようなユーリ様のお声。
 そのお声が耳に届いた瞬間だろう、今度はウェラー卿のお身体が震えるように揺れた。

「…ユーリ……」

 おずおずと。ウェラー卿が両手を伸ばされた。
 まるで、不用意に触れたら、そこで目の前の存在が消えてしまうと言いたげなほど、慎重に、ゆっくりと、その大きな手を伸ばされ、そして、扇を握るユーリ様の手を包むように握られた。
 温もりを感じ取ったのだろうか、ウェラー卿がほう、と長く深く息をつかれる。
 ……その瞬間のウェラー卿の表情を、私は長らく忘れることができなくなった。
 それはまるで……凍え切った旅人が、ようやく炎に手を翳すことができたような、もしくは、迷子になり、寂しくて、哀しくて、心細くて、切なくて、もうどうしようもなくなってしまった幼い子供が、ようやくの思いで親と再会できた安堵の瞬間のような、今にも泣き出しそうなひどく無防備な表情だった。

「………おれ、こんな格好してるのに……どうして分かったの? コンラッド……」
 扇の向こうから聞こえる声に、ウェラー卿が苦笑なされた。
「どんなお姿でおられようと、俺は必ずあなたを見つけます。俺にあなたが分からないなど、絶対にあり得ません。どのようなお姿にその身を変えられようと……たとえドレス姿であろうと、グウェンの編みぐるみであろうと、遊園地で怪人と戦っている着ぐるみの中であろうと、それからー…悪い魔法使いに蛙に姿を変えられていたり、大きな鉢を頭から被せられていたり、親指姫にされていたり……」
 よく分からない例えに、周囲の私達が首を捻っていると、ユーリ様がプッと吹き出された。
「コンラッドってば……悪い魔法使いと関係ないのが混じっちゃってるよ。てか、どうして知ってんのさ、日本昔話まで。それに戦隊ショーも……」
 くすくすと笑い続けられるユーリ様に、ウェラー卿のお顔も綻んだ。
 でも……。
 何だろう、何だか妙な違和感が……。
「御無事で、何よりです」
 ほっと仰せになるウェラー卿のお言葉に、その違和感の正体がいきなり分かってしまった。
 ユーリ様はウェラー卿の名づけ子。
 その子供に。

 ウェラー卿はどうして敬語で話しているのだろう……?

「俺と、踊っていただけますか?」
 ユーリ様からほんの半歩下がった、と見ると、ウェラー卿がすっと手を差し出し、淑女に対しての正式な舞踏の申し込みをなされた。
「お、おれと……っ!?」
 扇の向こう(一体いつまでお顔を隠しておいでのつもりなのだろう?)から、ユーリ様の緊張に上ずった声が上がる。
「お、おれ、ダメだよ、コンラッド! だって、知ってるじゃん。おれ、いつまで経ってもダンスが苦手で……」
「ですが俺は歴代優勝者の一人として招待されていますし、踊らないわけにはいかないんです」
 誰の手も取らないと、あれほどきっぱり宣言しておられたのを綺麗さっぱり忘れたご様子で、ウェラー卿は仰せになった。ユーリ様が扇の向こうで焦っておられる。
「…だったら……他の……」
「俺が」
 ウェラー卿のお声に力が籠もる。
「あなた以外の、一体誰を誘うと思われるのですか?」
「……コンラッド……」
 あなただけです。
 こんな衆人環視の中じゃなく、もっと雰囲気のある場所で二人きりの時に聞きたい、ある意味とんでもなく破壊力のあるお声で、閣下が囁かれた。
 ユーリ様のお身体がびくっと震える。
「俺が今この手に取りたいのは……あなたの手、だけです。ユーリ」
 どうか。
 手を差し伸べたお姿のまま、ウェラー卿がじっとユーリ様を見つめる。
 扇を握るユーリ様のお手が、小さく震える。そして。

「………コンラッド」

 ゆっくりと、ユーリ様のお顔を隠していた扇が下がっていく。
 どうなることかとお二人のご様子を窺っていた人々が、それこそ一斉に、恐れ慄くように後方に下がった。

「コンラッド……」
「ユーリ。……綺麗ですよ、とても」

 突然の落雷のような驚愕が、波の様に周囲に広がっていくのも何処吹く風。
 ウェラー卿とユーリ様は何とも言えず幸せそうな笑みを浮かべ、お互いのお顔をひたすら見つめ続けておいでになる。

「俺の手を……取って頂けますか? ユーリ」
「ほんとに、おれで良いの? せっかくのコンラッドのダンスが台無しになっちゃったら…」
「歴史に残る、最高のダンスを披露してみせますよ。俺に任せてください」
「……コンラッド……。うん、分かった!」

 ようやくお心を決め、ユーリ様がウェラー卿に手を伸ばされた。そのお手をしっかりと握り締め、それからご自分の腕に絡ませると、ウェラー卿はユーリ様と並び、大広間の中央に向かって歩き始められた。

「……アグネス、あなた、平然としているけれど……分かっていたのね?」
「だって、唇に紅を注して差し上げたのは私だもの」
「…よく手が震えませんでしたね。褒めてあげますよ」
 母が首を振りながら、深々とため息をついた。
「それにしても……フランシアに到着して以来、一体何度肝を潰したことでしょうね」
 目の前を通り過ぎていった姿に、愕然としたまま微動だになさらない姫様とラン様のお姿を見つめ、母がしみじみとそう言った。
「今回のこれが最大で、そして最高の驚きでしたよ」

 声にならない絶叫、もしくは悲鳴、というものがあるなら、今のこの広間を満たすものがそれなのだと思う。
 あり得ない程しんと静まった大広間、この絢爛たる舞台で、お二人の足音と、ユーリ様の衣擦れの音だけが響く。
 やがて中央にお二人が立ち、ウェラー卿がすっとその立ち位置を変えた。
 お互いの手を取り、その目を見つめながら向かい合うお二人。

「音楽を」
 ウェラー卿のご指示に、ユーリ様を見つめ、顎を落とし、魂も飛ばしていたらしい司会進行役がハッと己を取り戻した。それから慌てて楽団の下に飛んで行き、これも役目をすっかり忘れているらしい楽団員を目覚めさせた。
 わずかの間を空けて、唐突に、少々不揃いに、音楽が始まる。

 繋いでいた手を離し、ウェラー卿とユーリ様がゆっくりと礼を交し合う。
 それから改めてお互いの手を取り、そしてゆっくりとお二人が最初のステップを踏んだ。

 頬を真っ赤に染めた、余裕のない一生懸命な表情。
 優雅に、颯爽と、危なげない足取りで、広い空間を存分に舞う余裕の笑み。
 くるくると回る青いドレス。たなびくリボン。光を反射して、きらきらと煌く髪飾り。

 お二人の舞踏を、私達は瞬きも忘れて夢中になって見入っていた。
 この世の方とは思えない程美しい、そして愛らしい少女の舞踏は、そのたどたどしい足取りもまた、微笑ましさを増すものでしかなかった。
 笑みを浮かべる余裕もない、必死の表情で、ウェラー卿に導かれるままくるくると大広間を舞うそのお姿に、頭に浮かぶのは燦々と陽の射す花畑。風に吹かれて青空の下を舞い踊る可憐な花びら、もしくは蝶々か……。

「………アグネス」
「…はい、姫様」
「素敵ね、コンラート様。あれほど見事な舞踏の名手はそうそうおいでにならないわ」
「仰せの通りですわ、姫様」
「本当に…素敵。……でもきっと、私がお相手を務めても、これほど見事に踊っては下さらないと思うわ。だってコンラート様、とっても幸せそうなんですもの。……あんな幸せそうなお顔、私の前で1度も見せて下さったことはないわ……」
「姫様…」
「私を慰めようなんて考えちゃダメよ、アグネス。絶対にダメ。じゃないと私……泣いてしまうわ」

 音楽が止み、お二人の動きが止まった。
 広間の中央で向き合い、身体を離し、お辞儀をする。ユーリ様が肩で息をしているのがはっきり見て取れて、それが何とも可愛らしく、そして……不思議なことに、抱きしめたいほど愛しいと思った。
 ウェラー卿がユーリ様の手を取る。そして二人並んで国王夫妻の前にお立ちになり、それからユーリ様が深呼吸をされるのを待って、お二人ご一緒に深く頭を下げられた。
 アントワーヌ様とライラ様は満面の笑顔だ。
「見事な舞踏だったよ! さすがだね、ウェラー卿! へい…ユーリ様も、とってもお可愛らしかったですよ」
「とても素敵でした。ウェラー卿、そしてユーリ様も! 期待していた通り! お願いして大正解だったわ!」
 仰せになると、お二人は揃って拍手をウェラー卿とユーリ様に送られた。
 拍手は、やがておずおずと広間の人々に伝わり、瞬く間に大きく、熱烈なものへと変化していった。
 ウェラー卿とユーリ様が、今度は観客達に向かってお辞儀をなされる。
 同時に、拍手と歓声が一気にその熱を増して、広間を満たした。


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長くなりすぎましたので、二つに分けます。すみませんっ。