しゃるういだんす?・4 |
「…………私達の考えは根本的に間違っていたということなのですね……」 姫様が仰せになられ、恥じ入るように視線を伏せられた。 お隣に座るラン様も、母も、当然私も、同じように肩を落とし、目を伏せる。別に姫様がそうなさっておいでだから、それに倣っている訳ではない。 ……そうせずにはいられなかったからだ。 浮かれに浮かれて叩いた扉の向こうに、アントワーヌ陛下とライラ様、そしてウェラー卿がおいでになられた。 ガラス張りの部屋。陽射しが溢れんばかりに射し込む中で、大きなソファに身を預け、ゆったりとご歓談なされるお三方の姿は、まるで一幅の絵画の様に美しい。その中に自分達が招き入れられたのだと思うと、身の内から誇らしい思いが湧き上がってくる。 「お待ちしてました、エヴァ様」 ライラ様のお言葉に、姫様がそれはもう優雅にお辞儀をなされた。 姫様を交えてのご歓談の、最初は気軽な話題から始まり、それから少しづつ魔族に対する理解を深める話に移行していった。 「では、その魚人族という種族は、半身が魚、半身が人という姿から脱皮を繰り返し、最後は完全な人の姿になるのですか!?」 「そうです。脱皮を終えた魚人族は、男女共目を瞠るほど美しい方々ばかりですよ。濁りのない、美しく澄んだ水の中でしか生きられない水の精霊です」 「その精霊というのはつまり……お伽噺に出てくる『花の妖精』のようなものなのでしょうか…?」 姫様の質問に、ウェラー卿がにこりと笑って頷かれた。 「誤解を怖れずに申しますなら……そうご理解頂くのが一番分かりやすいかと思います」 頷く私達に、「精霊というのは」とウェラー卿が説明を続けられた。 「元々目に見えるものではないのです。それは…上手く表現できませんが、この大地の、世界の自然の、いえ、私達が生きるこの世界そのものの中に息づく意思、世界が世界であり続けよう、滅びることなく生き続けようとする力そのものなのです。そしてその力が長い年月の間に強く、濃くなった部分で、ある時何かの作用が起こり、形を得た精霊が誕生するのです。つまりそれが、水の精霊の魚人族であり、大地の精霊である骨地族、また骨飛族ということになる訳ですね。そのような目に見える精霊が存在するということは、その大地に力が漲っている、という証明にもなります。……お分かりになりますか?」 ……半分も理解できているのかどうか、すら分からない。 ただ、眞魔国には化け物ではなく、妖精(…と言ってもいいのだろう)が本当に存在していて、それがいるということが、大地が豊潤であるということの証明だ、ということだけは分かった。 私がおずおずとそう申し上げると、ウェラー卿は嬉しそうに「充分に理解なさっておられますね」と仰って下さった。……ドキリと胸が鳴って、困る。 「どうしてその…精霊が、眞魔国にだけ存在するのでしょうか?」 ラン様の質問に、ウェラー卿が頷かれた。 「あなた方、人間に追われたからですよ。化け物として」 姫様がこくりと喉を鳴らされた。 「そもそも魔力というものは、魔族がその魂の資質に従って、地水火風それぞれの精霊と契約を交わすことで、精霊によって齎された力なのです。精霊と魔族は強い絆で結ばれており、我らが魔王陛下は全ての精霊を従わせる、精霊の王とも呼ばれています。つまり魔族にとってこの世界は、いわば自分達の力の源ということになりますね。その魔族が、大地を滅ぼすようなことは絶対にしません。いいえ、できるはずがないのです」 「魔力はこの大地より齎されたもの。大地の力で大地を滅ぼすことはできない。……そういうことでございますね」 母の言葉に、ウェラー卿が顔を上げられ、大きく頷かれた。 「仰るとおりです。……そして人間は魔族と、またその力と強く結びつく形を持った精霊を一括りに『魔物』として逐ってしまった」 「まさかそれが」母がハッとした様に目を瞠る。「結果として大地の崩壊を招いたということでございますか!?」 「精霊を追い払うということは、大地から生きる力を奪い去るということになりますからね。それが現在の状況の遠因となったことは充分考えられます。ただ魔族と精霊が人間に逐われてから4000年です。それが現在の状況を作り出した原因の全てとは言えません。我が国の学者達も様々な研究と解釈を発表しているようですが、はっきりしたことは分かりません」 「ですが」 ふいに姫様が仰せになった。 「はっきりしていることが1つだけ、ありますわ」 大地の崩壊は、人間自身が招いたものだということです。 きっぱりとした姫様のお言葉。私達の間に重い沈黙が下りる。 ほう、と姫様がため息を漏らされ、それからきゅっと唇を噛み締めてウェラー卿にお顔を向けられた。 「閣下、まだきちんと理解しているとは申せませんが、我が国の自然が崩壊しつつあるのは、精霊を失い、大地が力を失ってしまったため、という理解でよろしゅうございますか?」 「今も申しましたように、それだけが理由かどうかは分かりません。ですが、基本的にはそれでよろしいかと思います」 「では……眞魔国と友好条約を結べば、その力をもう一度大地に与えて頂けるということでございますね!」 そこでなぜか、ウェラー卿の表情が強張った。 「……あの……?」 ウェラー卿が小さく息をつく。……確か、昨日もこのような状況になったような……? 「覚えておられますか?」 「は?」 「昨日申し上げたこと……あなた方が根本的に勘違いをなさっているということですが……」 あ、と姫様のお口から小さく声が漏れた。 「あなた方の国の大地を崩壊から救う、という行為は、決して友好条約締結の交換条件ではありません」 一瞬言われた意味が分からず、姫様もラン様も、そして母も私も、ぽかんとウェラー卿の顔を見つめてしまった。 「これだけははっきり申し上げておきますが」 ウェラー卿が私達に言い聞かせるように、語調を強めて仰った。 「我々は、大地を蘇らせて差し上げるから、友好条約を結んでくださいとお願いしている訳ではありません。また同様に、友好条約を結んでやるから大地を蘇らせろとあなた方に強いられるいわれもないのです。そもそもあなた方の国の自然が崩壊し、大地が滅びに瀕していることに関して、我々魔族は何の責任もありません。どうして友好条約を結べば魔王陛下が大地を蘇らせてくれると、当然の様に決め付けておられるのでしょうか?」 どうして、と、言われても……。 「そもそもあなた方、アシュラム公領の方々がお考えになる友好とは、一体どのようなものですか?」 ウェラー卿の仰りたいことがますます分からなくなり、私達はただ黙ってその端正なお顔をさらに見つめ返した。 「国と国が友好条約を結ぶ。それはつまり、それぞれの国の民と民が互いを理解し合い、様々な交流を重ね、援け合い、そして友情を育んでいくことを目指すものではないのですか? 我々が望んでいるのは、まさしくそれです。我々魔族と人間達が、対等に向き合い、お互をいを認め合い、それぞれの民が対等に、平等に、真の友情を育むこと。これだけなのです。……あなた方は、魔族を本当に理解したいと思っておられますか? 魔族との友情を欲しておられますか? この先何年、何十年、何百年に渡る国家と国家、民と民との本物の信頼関係を、我々魔族と築いていきたいと、その意思をお持ちですか? 種族が違うという、ただそれだけで敵視することなく、全ての種族の民が平和に暮らしていけるように、世界平和を実現するために、我々魔族と共に生きていく未来を望んでおられますか? その覚悟を持っての友好条約締結であると、胸を張って俺に言うことができますか?」 ただ呆然と、私達は体を硬くしているだけだった。 魔族と、友情を育み、信頼関係を築き、世界平和のため、共に生きていく。 そんなこと。 大公様も、大臣達も、それどころか、姫様も、ラン様も、そして、私達も………。 「友好条約締結の書類に署名をすれば、見返りとして魔族は自分達の国の大地を蘇らせてくれる。目的はただそれだけ。それができれば全てお終い。……失礼ですが」 我々は、そのような国と友好条約を結ぶことなど、欠片も望んではおりません。 ひくぅ、と、子供が泣き出す寸前のようにしゃくり上げる音がした。 姫様が唇を震わせながら、何かを言いたくて言えないもどかしさに、何度も首をお振りになっている。 ラン様もまた、何かを突然気づかされた衝撃に、口を覆い、目を見開いて宙を見つめている。その視線の向く先は、おそらく自分自身の内面だろうと私は思った。 「ウェラー卿……コンラート、そんなにきつく仰らないで。お願いよ。気持ちは分かるけれど、決して悪気があるのではないの」 「魔族と友好を結べば、その見返りとして自然の崩壊が治まり、国土が蘇る。友好条約を結ぶということの、最も重要な部分を置き去りにして、そのことだけが各国に広まってしまったからね。アシュラムの大公殿も、単純にそういうものだと思い込んでしまわれたのだろう」 それまでずっと黙っておられたアントワーヌ陛下とライラ様が、取り成すようにそう仰せになられた。 ウェラー卿もそのお言葉にハッと気付かれたかのように表情を緩められた。そして苦笑を浮かべる。 「……申し訳ありません。俺としたことが……。昔に比べれば遥かに理解が進んでいるというのに、それでも……。ただ俺は……このままではあまりにも……」 魔王陛下がお可哀想で……。 魔王が可哀想。そのあまりに似つかわしくない言葉に、私は思わずウェラー卿の口元をまじまじと見つめてしまった。 ウェラー卿がふいに顔を上げ、その視線が一瞬だけ私と交わった。 「我らが陛下は、心から人間達との対等の友好を望んでおられます。あなた方が長年誤解なさっておられたように、世界を滅ぼすだの、人間を支配しようとするだの、そのような事は全く考えておられません。魔族と人間は必ず分かりあえる。人間の誤解と偏見を打ち破り、真の友情を築いていこう。それが世界から戦をなくし、本物の平和を齎すことに繋がるのだと、常にそう仰せになっておられます」 『おれは人間と分かりあいたいって思ってるし、分かり合えると信じてるし、そのためならどんな努力でもしようって決めてるから』 ふいに、先ほど耳にした少年魔族、あのシブヤ・ユーリの言葉が蘇ってきた。 あの子も、魔王のそんな志を受け継ごうと決意しているのだろうか。 「……陛下が人間の国の大地が蘇るため力を尽くされるのは、決して条約締結の見返りでもなければ、もちろん褒美でもありません。その国の民が苦しんでいるのであれば、友情を誓った国の王として、できる精一杯の手助けをしようという、魔王陛下のお優しさであり、その国への好意であり、民への慈悲の表れなのです。偏見や迷信に目を曇らせることなく、魔族との永遠の友情を願ってくれた国の民に対して、それこそ何の見返りも求めず、陛下は持てるお力を注いでおられます。……近年、眞魔国と友好条約を結ぼうという国が急速に増えてきました。それはそれで素晴らしいことです。しかし、我らが陛下のその思いが、種族に関りなく苦しむ民を救いたい、戦も飢えもない平和な世界を造りたいというその願いが、一体どれだけ理解されているのかと考えると……」 実際かなりいるのですよ。 そう仰って、ウェラー卿は苦笑を浮かべた。 「条約締結の書類に署名をすれば、陛下がその場で呪文を唱え、それで自分の国の大地が一気に蘇るのだと勘違いしている人間が。実際に、署名をしたのに国の状態が変わらないのはどういう訳だとか、条約を結んだのだから、魔王は今すぐ自分の国を救えだとか、堂々とねじ込んで来る者も少なくありません。そんな相手に対しては、我々もその場で条約締結破棄を叩きつけてやりたくなります。それでも陛下は、それだけ切羽詰っているのだから、彼等も自分達の国の民を一刻も早く救いたいと考えているのだからと、我々を宥められるのです。しかし、そんな時の陛下のお顔が、それはもう……お辛そうで……」 ほう、と息をつくウェラー卿の眉間に憂いの影が射す。 「ウェラー卿が今仰ったことは本当のことよ」 ライラ様がそこでお言葉を発せられた。 「第27代魔王陛下は、本当にお優しくて、民への慈悲に溢れた方なの。世界から一切の争いがなくなり、世界中の民が平和に幸せに生活できるようにしたいと、そんな大きな理想を掲げて、理想の実現のために懸命に努力なさっておられるわ。人間の国の大地を復活させるというのも、陛下の無償の好意から全て始まっているのよ。決して条約締結の見返りではないの。ね、エヴァ様。眞魔国と友好条約を結ぶということは、これから両国が何を求め、何に向かって共に努力していくことなのかということを、先ず考えて下さい。大地を復活させてくれるそうだから条約を結ぼうでは……世界平和のために真剣に頑張っておられる陛下があまりにも……お気の毒だわ」 ライラ様のお言葉に、ウェラー卿は感謝の眼差しを送り、アントワーヌ様は微笑みと共に大きく頷かれた。 「………私達の考えは根本的に間違っているということなのですね……」 姫様が仰せになられ、恥じ入るように視線を伏せられた。 「………恥ずかしく思います。私……今、とてもとても恥ずかしくて……この場から走って逃げたいほど…恥ずかしく思っています……」 項まで真っ赤に染めた姫様が、搾り出すようにそう仰せになられた。 ラン様もまた、膝に拳を当て、体を硬くして顔を伏せておられる。 「…それなりに長らく生きて」私の隣で、母もまた重たいものを押し出すように言った。「世の道理も少しは弁えたつもりでおりましたが……気づいてみれば、閣下の仰せは至極ごもっとも。思い至らぬこの身の浅ましさに、恥じ入るばかりでございます……」 頭を下げる母に倣って、私も頭を下げた。私達2人の気配に気づいたのだろう、いまだにフィータの長男という意識を捨てきれないラン様が、まるで頭を床に落とすように深く頭をお下げになった。 ……同時に気づいたことがある。 大公様のお話を伺って以来この時に到るまで、魔族と友好を結ぶということがアシュラムにとってどういう意味があるのか、将来を見据えて何をなしていかなくてはならないのか、そんな事を少しも考えようとしなかったのは、おそらく……私達が魔族を、人間と対等の存在として認めていなかったからだ。化け物ではなかったとしても、魔族を野蛮で低級な種族だと、内心で見下していたのかもしれない。 そこまで思い至って、私は自分自身で気づかなかった根深い偏見にゾッとしてしまった。 ………恥ずかしいと、私も今、心からそう思う……。 「どうかお顔を上げて下さい」 苦笑交じりの深い声にふと顔を上げれば、ウェラー卿が困ったように唇の端を上げて、私達を見ておられた。その瞳が柔らかく優しい光を放っている。 ……心がホッと息をついた。 「つい言葉が荒くなってしまいました。俺の方こそ、どうかお許し下さい。……こうしてお話しただけでご理解下さる方はあまりおいでになりません。分かって頂けてとても嬉しく思います。公女殿下」 ハッと上がった姫様のお顔を、ウェラー卿の神秘的な光を湛えた瞳が覗き込む。 姫様のお顔と項が、つい今しがたと同じようでいて、全く違う紅に染まった。 「魔族は確かに人間とは違う種族です。ですが、決して悪魔でも化け物でもありません。あなた方の友として、どうか新しい目で我々を見て下さることを心から祈っています」 「…は…はい……っ!」 姫様の夢見るようなお声。 「あっ、あの…っ、ウェラー卿…!」 「はい?」 「ああああのっ……どうかそのっ……ま、魔族の、友、として、あの……私のことは公女殿下ではなく、名前で、どうかあの……エヴァ、と、お呼び下さいませ!」 それは、と一瞬仰ってから、ウェラー卿がまた、にっこりとお笑いになった。……笑いかけられた者の胸を熱く滾らせ、風景を、その色も形も一瞬で変えてしまうようなとてつもない力を秘めた笑みだ。もしかして、これがこの方の魔力ではないのか……? 「ありがとうございます、エヴァ様。それではどうか俺、あ、いや、私の事も……」 と言い掛けてから、ウェラー卿が浮かべていた笑みをどこか自嘲めいたものにお変えになった。 「申し訳ありません。つい普段の癖で……。前王の息子とはいっても、私は上流貴族の生活とはほとんど縁がなかったものですから、つい粗雑な物言いをしてしまいます。お許し下さい」 「とんでもございませんわ! ……あの、でも、上流貴族の生活と縁がなかったと仰せなのは……?」 「ウェラー卿のお父上は人間でいらしたでしょう? ほんのわずか前まで魔族と人間は敵対していましたからね。人間の血を引いたウェラー卿は色々とお苦しい立場にあったのですよ」 ウェラー卿に代わって説明を引き継がれたライラ様のお言葉に、「まあ!」と姫様が声を上げられた。 「だけどね」 アントワーヌ陛下が、さらにその後を受けて仰せになられた。 「ウェラー卿のお父上は、大シマロンの正当な後継者、本物のベラール王家の直系でいらっしゃるんだ。つまり、ウェラー卿にはシマロンの王になる資格があるということなんだよ」 ええっ!? という慎みを忘れた驚きの声が、私達全員から一斉に上がった。 目の前にいる人が、魔族であると同時にベラール王家の直系という事実はあまりにも衝撃的だ。 …………そういう存在のことが、何かで話題になってはいなかったか……? 「まあ! ではお父上様と一緒に世界中を旅しておいでになられたのですか!?」 「ええ、そうです。見聞を広めさせてくれた父には感謝しています。でもそのおかげで、すっかり上品さとは縁のない、粗野な男が出来上がってしまいましたが」 「それはご謙遜と致しましても、少々度が過ぎておられましょう」 首をふるふると振るばかりの姫様に代わって、母が若い者を嗜めるように言った。 「本当ですよ、乳母殿。一国の公女殿下に無礼を仕出かすのではないかと、これでもかなり緊張しているのです」 「ご冗談はお止め下さいませ、閣下」 「コンラート、と」 「え!?」 「コンラートとお呼び下さい。あなた方の新たな友として」 「…は、はい…っ、こ、コンラート、様……!」 笑顔をさらに明るくされるウェラー卿。姫様は今にもソファから浮かび上がりそうだ。 お茶会はそこから一気に和やかになっていった。 「ねえっ、どうだったかしら! 私、ちょっとはしたなかったかしら!? エヴァと呼んで下さいって、少し急ぎすぎたかしら? ウェラー卿は…いいえっ、コンラート様はどのように思われたかしら!? あ、でも、もし慎みのない女だと不快に思われていたとしたら、自分も名前で呼んで欲しいなんて仰ったりはしないわよね!」 私達の応答など全く必要としない姫様の一人語りは、高熱に浮かされて溢れるうわ言の様に、ひたすら止め処もなく流れていく。 今日で私達の距離が一時に縮まったような気がするわ、と、うっとりなされる姫様は、興奮されておられるのか足取りもおぼつかない。 部屋に戻る道すがら、私達はふわりふわりと踊るように進まれる姫様の背をただ黙って追っていた。が。 「……そういう個人的なことを考えている時ではないのではありませんか、姫」 急に真面目な、まるで怒っているかのような声を上げたのはラン様だった。 姫様の足がぴたりと止まり、くるっと私達に向かって振り返られる。 「何なの、ラン。私に何か言いたいことがあるの?」 ムッとしたご様子の姫に、一瞬怯んでから、ラン様はそれでも珍しく大きな声を上げられた。 「もっと他に考えるべき大切な事があると申しているのです。ウェラー卿が仰っていた、友好条約の真の意義についてとか……!」 「それは……」 今度は姫様が怯んだように視線を逸らされる。 「大公様も、僕の父はもちろん重臣のお歴々も、魔族と友好条約を結べば国土が復活するのだとただ単純に考えています。そういう問題ではないのだということ、そして、ではどうすべきなのかということを、僕達はもっと検討すべきではありませんか? アシュラムの未来が掛かっているのです。ウェラー卿との仲がどうこうとか、そのようなことは二の次、三の次、いいえ、姫のお立場とその使命を思えば、今お考えになるべきことでは全くないと……!」 「分かっているわ! そんなことっ!」 姫様がお顔を真っ赤にさせて怒鳴り返された。 姫様が声を荒げるなど、滅多に、いいえ、これまで全く目にしたことはない。 姫様ご自身も驚かれたのだろう、ご自分のお声にぴくんと身体を強張らせると、「ランは性格が悪くなったわ!」と言い捨てるように仰って、またくるっと踵を返された。 「……こうも女の扱いが下手では、将来が危ぶまれまする」 母がこれ見よがしに大きく息を吐き出す。 「ぼ、僕は間違ったことは言ってない……!」 「正しいから良いというものではございません。忠言にしろ、諫言にしろ、口にすべき時と言葉を誤れば、何の益も生まぬばかりか害になりまする。もう少しお勉強なされませ」 う、とラン様が唇を噛んで、母とラン様の掛け合いは終了した。……やれやれ。 部屋の扉を開けると、3人の小間使いと1人の兵士が、くるくると居間を動き回っていた。 一瞬、城の者が私達のいない間に掃除をしているのかと思った。でもなぜ兵士までもが? と首を捻りかけて気がついた。 「お帰りなさいませー!」 雑巾を手にしていた夕焼け色の髪を持つ兵士、グリエ・ヨザック殿がくるっと振り返って明るい声を上げた。その声で、3人の淡い萌黄色のドレスを着た少女が、いえ、少女の姿をした少年達が揃って私達に顔を向ける。 「あなた方……何をなさっているのです?」 母の質問に、「掃除です!」と元気に答えたのは赤毛の小間使い、シブヤ・ユーリだ。 いや、ユーリ様、とお呼びすべきだろう。 出会いはどうであれ、この少年はウェラー卿のご家族も同じ。実際弟君の態度を見てもそれは確かだ。 「匿ってもらってるんだから、お礼にせめて何かお役に立とうって話になって!」 見れば、ユーリ様ははたきを、金髪のムラタ・ケン(……彼は確か、ムラタと呼んで欲しいと言っていた。とすれば、ムラタ様、と呼ぶべきか)は箒を、茶色髪のフォンビーレフェルト卿は布巾を手にしている。 「まあ!」姫様が思わずといったご様子で前に飛び出された。「そのようなこと! どうかお止め下さい。お礼だなんて、とんでもありませんわ。私の方こそ、皆様のお役に立ててとても嬉しく思っているのです!」 「姫様の仰せの通りです。あなた様方がそのような事をなされる必要はございません」 母も姫様に並んで言った。 「あなた様方にそのようにして頂きましては、ライラ様に申し訳が立ちません。それに……」 言って、母がつかつかと部屋の隅に向かう。 「これは何ですか?」 母が指差した先には。 「……あー……」 ユーリ様の情けなさそうな声。 母が質問すると同時にその場に向かったグリエ・ヨザック殿が、部屋の隅に置かれた大きな盆を取り上げ、私達の前に運んできた。 盆の上には……割れた陶器やガラスの破片。 「……えっと、そのー……ごめんなさいっ! 掃除してたら、うっかり割れちゃって……」 ガラスの水差しとこっちの花瓶はおれが割りました! ホントにごめんなさいっ! ユーリ様が叫ぶように言って頭を下げる。 「こちらの茶器は、僕が、その……」 申し訳ない、とフォンビーレフェルト卿が頭を下げる。 ふう、と母がため息をついた。 「どうやら家事家宰の能には恵まれておられぬご様子。お志はそれなりに嬉しゅうございますが、これ以上フランシアの財を減らさぬためにも、お掃除は中止なさり、静かにお茶でも召されるがよろしいかと存じます」 静かに丁寧に、そして決然とした語調で母が言う。目つきもちょっと怖い。……母にこういう態度を取られると、大抵の相手はかなりの圧迫感を覚えるのだ。 今もユーリ様とフォンビーレフェルト卿がひくっと顔を引きつらせ、直立不動になると、「はい!」と声を揃えた。……素直で良い。 結局皆でお茶になった。 「あ、そうそう」姫様が弾けるように仰せになった。「もう少ししたら、コンラート様ががフランシア国軍兵士の剣術指南をなされるのですって!」 「剣術指南!?」 「アントワーヌ陛下からのご依頼だそうですの。なんでもコンラート様は御国でも指折りの剣士でいらっしゃるのですって!?」 「兄は」 フォンビーレフェルト卿が、さほど興味なさそうな表情を作りつつ、口調と瞳の輝きがあからさまに自慢げという、複雑な様子で説明をしてくれた。 「我が国で、3本の指に入る剣の達人として名を馳せています。剣聖とも呼ばれるほどで……まあ、下々の申すことですが……」 コホン、という小さく可愛らしい咳払いは、自分は兄の腕をさほど認めていないと主張しているかのようだ。そういえばこちらのご兄弟は色々と複雑な関係にあるのだった。フォンビーレフェルト卿のこの態度もそれに由来しているのだろうか。 でもまあ、直観力と人を見る目の鋭さを高く評価されているフィータでなくとも、この閣下の心情は実に分かりやすい。一応本人は隠しているつもりらしいが。 「剣聖!? まあ、何て素晴らしい……! さすがコンラート様でいらっしゃるわ。本当に……あれほど全てが完璧な殿方がこの世においでになるなんて……!」 両の頬に掌を当て、うっとりと仰せになる姫様を、今更気付いたかのように3人の少年が見据えている。 「………いつから…?」 低い声で最初の言葉を発したのはユーリ様だ。 「え?」 「……だって、部屋を出て行くときまで『ウェラー卿』って呼んでたのに、帰ってきたらいきなり『コンラート様』って呼んでるじゃん……。いつから? どうして?」 ムッとした声。この子も素直なだけに分かりやすい子だ。隣でまあまあと宥めるのはムラタ様。 「つい先程からよ?」 素直すぎて他人の表情に少々ニブい姫様が、これまた素直にお答えになる。 「エヴァと呼んで下さいませと私がお願いしたら、にっこりと、それはもう素敵に微笑まれて、あなたの新たな友として、自分のこともコンラートと呼んでくださいって」 うふふ、と思い出し笑いをする姫様。……本当は「あなたの」ではなくて「あなた方の」だったと記憶しているけれど、どうやら姫様の脳内で都合よく変換されたらしい。 見る間にユーリ様の表情と雰囲気がぐぐっと重くなる。 「うわー、さすが眞魔国、夜の帝王ウェラー卿」 笑って茶化したムラタ様は、ユーリ様にじろっと睨みつけられてきゅっと首を竦めた。でも……夜の帝王って一体…? 「コンラッドってぇ」 ユーリ様が唇をぷんと尖らせるようにして言う。 「誰にでも人当たりが良いんだよね。別に深いこと考えてないから、何か期待してても無駄だけど」 そこまで言われてようやく、姫様が「あら?」と目を瞠った。 「ユーリ様、あなた……まあ……!」 「……な、なに……」 妬いておいでなのね! 姫様の、面白そうな楽しそうな弾む様なお声に、ユーリ様がソファの上でひくっと身体を揺らした。 「っ、や、妬くって…! なんでおれが妬いたりすんだよ…! ヘンなこと言わないで……」 「ええ、もちろんお気持ちは分かりますわ」 おほほ、と、手で口元を上品に…少々わざとらしく隠して、姫様が嬉しそうにお笑いになった。 「コンラート様はユーリ様の名付け親。ご一緒にお暮らしなのですもの、本当のお父様やお兄様と同じように慕っておられるのでしょう? そのような方が他人と仲良くなさっておられるのを目にしたら、やっぱり良いご気分にはなりませんわよね。でもね、ユーリ様、いつまでもコンラート様に頼っておられてはいけませんわ。子供はいつかは親離れするものですもの。ユーリ様もこれを機会に自立を目指してみてはいかがかしら?」 「…………お姫様って幾つ……?」 「ユーリ様、女性に年齢を尋ねるのは失礼でしてよ? でもよろしいですわ。私、年の暮れには18歳になりますの」 「つまり今17じゃん。おれ、16だから、いっこしか違わないじゃん。子供扱いしないでもらいたいんだけど!」 「男の子って、同じ年齢でもなぜか皆子供っぽいものなのよね。20を過ぎたランだってそうよ。ね? 乳母や、アグネス。私達いつもそう言ってるのよね? 不思議ねえ」 ユーリ様とその向かい側に座っていたラン様が、恨みがましい視線(ユーリ様の目は見えないが、雰囲気は分かる)を私に向けてきた。……姫様、私達を巻き込まないで下さいませ。 「それに比べて、コンラート様の素敵なこと……! 見た目はランと大して変わらないというのに、全然違うのだもの。とても落ち着いた、まさしく大人の男性で…」 「そりゃ100年も生きてるんだし」 「立ち居振る舞いもご立派で、物腰も柔らかくて、礼儀正しくて…」 「そりゃ元プリだし」 「とても優しくていらして…」 「コンラッドは誰にでも優しいの!」 自分で言った言葉に自分で傷ついたような顔で、ユーリ様がきゅっと唇を噛んだ。 しかし姫様はそんなことに気づかず、荒々しくテーブルに手をつき、ぐっと身を乗り出された。 「あなたね、いちいちおかしなことを仰らないで下さいます!? ……あの時、私を『エヴァ様』とお呼び下さった時のコンラート様の優しい眼差し……。あの眼差しと微笑が、誰にでも贈られるものだとは到底思えませんわ! 私、コンラート様とお会いした時、はっきりと神の啓示を受けましたの。この方こそ、私の運命の殿方なのだって!!」 「おれ達魔族だから神様なんて関係ないから。そもそもおれ、仏教徒だし。それに………ツェリ様が言ってたけど」 「……どなたです? ツェリ様って」 「あ、母だが」 補足説明はフォンビーレフェルト卿。 「まあ、コンラート様のお母上! きっと素晴らしい女性なのでしょうね」 「すごい美人だよ。ヴォルフそっくり。で、そのツェリ様が言ってたんだ。ちょっと前まで自分こそコンラッドの運命の花嫁だって思い込む女の人が次から次へと現れて、そりゃもう大変だったんだって。コンラッドがそんな女の人といちいち結婚してたら、今頃5000人くらい奥さんがいただろうってさ。お姫様は5001人目かもね。ま、コンラッドが全然相手にしないから、現れては消えていくんだけど」 つん、とユーリ様がそっぽを向く。左隣ではムラタ様が「へえー」と意外そうに、右隣ではフォンビーレフェルト卿が呆れたように、背後ではグリエ・ヨザック殿が困ったなあという苦笑を浮かべてユーリ様を見守っている。 「……なかなか仰いますのね、ユーリ様……」 姫様のお声が、地を這うようにどんどん低くなっていく。 間に入る必要性を感じて、私は嫌々ながら口を挟むことにした。 「その、ユーリ様、質問があるのですが、ちょっと前まで、というのはどういうことでございますか?」 今はそんな女性が現れないということは、もしかすると決まった方がおいでになるのかも、と思って聞いてみた。もしかしたら、少々浮かれ過ぎの姫様の熱を冷ますことができるかもしれないし。 「当代魔王陛下がご即位あそばされたからですよー」 答えてくれたのは、なぜか3人のソファの後ろに立つグリエ・ヨザック殿だった。 グリエちゃん? とユーリ様が後ろを見上げる。 「当代陛下がご即位なされて、ウチのたい…ウェラー卿は側近中の側近として常にお側に侍ることになりましたからね。ご婦人方と気軽にお付き合いすることもなくなったと言う訳で。まあ、元々そういうことにはあまり執着しない男ですし。特に今は当代陛下にお仕えすることに全身全霊を捧げてますからねー。陛下が一番、陛下命、魔王陛下のためなら例え火の中水の中、世界の中心で常に陛下への愛と忠誠を叫んでます!」 グリエ殿は不必要なまでに一生懸命だ。でも最後の一言は良く分からない。前に座る3人の顔を見回せば、「惜しい。ちょっと古過ぎ」とムラタ様が首を振っている。 「……コンラート様の魔王陛下への忠誠心は、私もよく分かりますわ。でもそれと個人の幸福とは別物でございましょう? コンラート様も5001人目にして、ついに運命の相手を見つけるということもございますわ!」 「期待するだけムダだってば!」 「どうして無駄だと言えますの!?」 「ムダだからムダなの!」 「説得力がありませんわ!」 姫様とユーリ様は、お互いテーブルに身を乗り出し、ほとんど額をくっつけそうな距離で睨み合っていた。 と。 「…! ユ、ユーリ!」 「シブヤぁ?」 「うわ、坊ちゃんっ」 「姫!」 「姫様!」 ほとんど同時だった。 姫様とユーリ様が。 手を伸ばし、お互いの両頬をぐにっと掴んだかと思うと、いきなり引っ張り合いを始めてしまったのだ…! 「……うにゅ、ふゅぎゅ……」 「…ふ、みゅみゅ……」 「止めろ、ユーリ! 他国の姫君相手にそんな真似……!」 「姫! 手をお離し下さい! はしたないですよ!」 「いははっふぁりゃふぉめんなふぁいっへひひなふぁいー」 「ふぁれふぁゆーふぁー!」 「いひっふぁひー!」 「ふぉっひふぉほー!」 「ふぁふぇふぁいふぁほー!」 「ほへはっへー!」 「………すごいなー、意思の疎通がちゃんとできてる」 ムラタ様が腕を組んでしみじみ感心している。……全くだ。 2人を止めるために立ち上がったラン様は額を手で押さえてため息をつき、フォンビーレフェルト卿はあきれ果てた様子で肩を落としておいでになる。 とにかく止めなくては。と思ったら。 「いい加減になされませ!!」 母の怒鳴り声で、2人がまた同時にパッと手を離した。……2人とも頬が真っ赤だ……。 「所詮子供同士の他愛無い口喧嘩と黙っておれば……! ご身分とお立場を弁えられませ!」 母のお説教に応えることもできないほど、実は痛かったらしい。2人とも、ううとべそを掻きながら、それぞれのソファに蹲り、頬に手を当て、くるくると撫でるように摩り続けている。だがしかし。 「こうしてはいられないわ!」 姫様が突如、決然として立ち上がった。……頬っぺたが真っ赤でぷくっと膨れておりますが、姫様……。 「もう間もなくコンラート様の剣術指南が始まるわ! 私、行かなくては! そして……」 お疲れになったコンラート様に、そっとタオルを差し出すの。 うふ、とお笑いになる姫様。……赤く膨れた頬に、さらに赤みが増す。 「おれも行く!」 ユーリ様も挑戦するようにそう叫んだ。 「お前が行ってどうする!? コンラートにあっさりバレてしまうぞ」 「そうですよー、坊ちゃん。あいつを甘く見ちゃいけません」 「そうそう。このお姫様の気配なんてウェラー卿は気にも留めないだろうけど、君の気配は一発だよ?」 ……ムラタ様の言葉に、姫様への棘を感じるのは気のせいか? 「離れてるから! 遠くから見るだけだから! それに……たくさん人がいたら、気配も混じっちゃって分からなくなるだろ?」 ムラタ様とフォンビーレフェルト卿とグリエ・ヨザック殿が顔を見合わせ、それから揃って首を左右に振った。 ムラタ様が何か言おうと口を開ける。 「そうですわね、一緒に来て頂くわ」 先んじてそう仰ったのは姫様だ。 え? とユーリ様が驚いたようにぽかんと口を開く。 「私がコンラート様にお渡しするタオルを運んでもらえるかしら? 私、小間使いではないから、そういうものを運んだりはしないの」 あなたの役目よね? にっこりと姫様が笑う。 ぐぐっと、ユーリ様が悔しそうに拳を握った。 「……分かった。タオルを持ってく」 周りの3人が、深く深くため息をついた。 「……お姫様って意地悪だ……」 大量のタオルの山を抱えて、ユーリ様がぼそっと呟いた。 練兵場へ向かう道、姫様は先頭を弾む足取りでお歩きになり、そのすぐ後ろをラン様が、さらにその後を私達、私とユーリ様とムラタ様とフォンビーレフェルト卿とグリエ殿がついて行く。母は部屋でお留守番だ。 「………申し訳ありません」 さすがにちょっと可哀想になって、私は隣を歩くユーリ様にそっと囁いた。 「そのタオル、半分持ちましょうか?」 「ううん。ムラタ達にも言ったけど、コンラッドに持っていくものだから、全部おれが持つ。………ありがと」 タオルが多すぎて、仰け反り気味に歩くユーリ様が、ちらっと私を見て小さく微笑んだ。 何だかますます申し訳なさが増してくる。 「姫様はあんな意地悪を仰る方ではないのです。本当はとてもお優しくて慈悲深い方ですわ。それなのに、今回はまるでお人が変わられたみたいで……」 主であり、妹の様に愛しく思う姫様を悪く言うつもりは全くないが、それでも……。 そもそも汗を拭くだけのために、どうしてこれだけ大量のタオルが必要なのか良く分からない。姫様は城の女官に大量のタオルを運び込ませ、その中から肌触りがどうした、色がどうした、ああでもないこうでもないとさんざん引っ掻き回した挙げ句、今ユーリ様が抱える量のタオルを選び出したのだ。 『これはユーリ様が運んで下さいましね?』と仰せになられた姫様の表情は、長年お側にいる私が目を瞠るほど意地悪で、さすがの母やラン様も唖然としていた。 「ねえ、お姉さん、もしかしてウェラー卿がお姫様の初恋?」 後ろから口を挟んできたのは、ムラタ様だ。 部屋を出る前、「女性にあのような暴力を振るうとは何事だ! 恥を知れ!」とお説教するフォンビーレフェルト卿と、叱られてしょぼっと肩を落とすユーリ様の傍らで、何だかひどく楽しそうにくすくすと笑っていた。 「それは……」 ふと考えて、ああそういうことかと思い至った。思わずため息が出る。 「ええ、そうですわね。母上様を早くに亡くされて以来、姫様は父大公様にそれはもう大切に大切に護られてお育ちになりました。それに、物心つくかつかない内からお側には私の母や私がおりましたし……。近しい殿方といえば、家族兄妹同様に育ったラン様くらいで、17歳におなりの今日まで、いいえ、ウェラー卿とお会いするまで、まともに殿方とお話することもございませんでしたわ。……初めて深く語り合うことになった殿方が、あのようにご立派で、その……見目麗しい素敵な方だったのですもの、姫様が夢中になってしまわれるのも思えば無理のないことです。ユーリ様に意地悪をなされましたのも、もしかしたら……姫様ご自身はお気づきではないかもしれませんが、ウェラー卿の名づけ子でいらっしゃるユーリ様への焼きもちがあったかもしれませんわね」 「なるほどねー。純粋培養のお姫様か。純情なだけにやっかいだね。ところで……ウェラー卿に夢中になってしまったのはお姫様だけ? お姉さんは?」 「わっ、私は……!」 いきなりの攻撃に、防御が間に合わなかった。頬が一気に熱くなる。 ふいっとムラタ様から顔を背けたら、今度は髪の毛越しにじとっと私を見つめるユーリ様と向き合ってしまった。仕方がないから真正面に向き直り、そして、深呼吸をする。 「……あんなに素敵な方ですもの、女なら誰でも胸を騒がせますわ。でも私は私を知っておりますから、のぼせ上がったりは致しません」 「それ、どういうこと?」 きょとんとユーリ様が質問してくる。思わず苦笑が浮かんだ。 「私はご覧の様に、大して美しくもございませんし、素敵な殿方を惹きつけるような魅力はございませんわ。それに家柄も貴族とはいえ下級ですし、母が乳母を、私が侍女を勤めることでやっと家計を支えております。家名の方は……フィータの血筋を生かせませんでしたので、代々のご先祖様には申し訳ないこととなりました……」 「下級貴族というならコンラートとて同じだ。あいつは父親が人間であるために、様々な形で差別されてきたからな」 それまで黙っておられたフォンビーレフェルト卿が、ぼそっと口を挟まれた。 「だが身分の上下など、その人物の真価を証明するものにはならん。………その証拠に、コンラートはあからさまに差別されていた頃から兵士達の信望は篤かったし、ご婦人方にも人気があった」 うー、とユーリ様が唸る。 「フィータの血筋って何の事か聞いていい?」 ムラタ様のその質問の仕方はまるで……そう、すっと隙間から入り込むように、私の内側に踏み込んでくる気がした。 「………私の家、フィータ家と申しますのは、代々優秀な法術師を多く輩出することで名をなす家なのです。歴代のフィータを名乗るほとんどの者が法術師か神官になっておりますわ。母の父、私の祖父も法術をよくする神官として高い地位にありました。ですが……母と私は残念ながら術者としての才能には恵まれませんでした」 「法術師の血筋か……」 フォンビーレフェルト卿の口調が、わずかに苦いものとなる。やはり魔族であれば、法術師に対して友好的な気持ちにはなれないのだろう。 「不思議だなあ」 ふいに、ムラタ様が仰った。 「何がでしょう?」 「代々神官で法術師の家系っていうなら、魔族への反感も強いんじゃないかと思ってさ。でもお姉さんも、お姉さんのお母さんも、すごく理解が早いっていうか……僕たちを疑うってことがなかったよね? どうしてだろう。先にウェラー卿と会ったからかな?」 「いいえ、そういうことではなく……」 私は才能に恵まれなかったが故に得たものを思って、小さく微笑んだ。 「私も母も、術者としての力はありません。ですが、その代わりと言っては何ですけれど、周囲の皆様から良く直観力に優れていると言われます」 「直観力?」 ユーリ様が不思議そうに声を上げる。 「はい。何かに触れた時であるとか、見た時など、瞬間的に頭に浮かぶものがあるのです。……感覚的なものなので説明が難しいのですが、言葉であったり風景であったり、もっと単純な印象だったり……。例えば、変装している人の手に触れた瞬間に、その人物が女性であるか男性であるか、もしくは、そのどちらでもない、他の人とは違った何かであると感じたり……」 言いながらユーリ様をそっと見ると、逆に良く分からないよう様子で見返された。 「どちらでもないって? どんなの?」 「………それは……」 ……カマを掛けたつもりだったのだけど、おかしい、反応が予想と違う。人をごまかせる性格ではないと思うし、もしかしてこの子は自分のことを……。 そこまで思考を巡らせた時だった。いきなり「コホンっ」と強い、そしてわざとらしい咳払いで、注意を呼び起こされた。 ハッと隣を見れば、ムラタ様が意味ありげな眼差しで私を見ている。 「すごいねー。それだけでも十分超能力って感じだけど」 「……ちょうのうりょく、というものがどういうものかは存じませんが、理屈を超えた何かの存在を感じることがあります。それから、やはり良く言われますのがフィータの人を見る目の高さ、ですわ」 「へえ?」 「その方のお言葉やお人柄を信じることが出来るかどうか、嘘を言っているかどうか、相対せば大体のことは分かります。特に母の人を見る目は定評がございまして、大公様はもちろん、重臣のお歴々からも頼りにされております。重要な外交の場などでは、必ず呼ばれて参るほどなのです」 「へえー……って、ああ、なるほど、それでか」 ムラタ様が大きく頷いた。私も「はい」と頷く。 「祖父も神官であり法術師でした。皆様方の前ではございますが、魔族は魔物、この世を闇に落とす悪鬼と教えられて育ちました。この度姫様のお供をしてこちらに参ります時も、魔物と対決し、最悪の場合は命を落とす覚悟すらしておりましたのです。姫様もラン様もそうでした。魔族と関り、魂を汚されて国に帰るくらいならこの地で命を捨てる、と……。ですが、生まれて初めてお会いした魔族は……ウェラー卿でした……」 初めて出会ったあの瞬間を思い出すと、ため息が漏れる。それが重くも苦しくもないものであることが、いまだに不思議でならない。 「一目で分かってしまいました。この方は真実信頼に値する、立派な方だと。母も同じです。いえ、母の方こそ誰より強くそれを感じたのが分かりました。魔族だと聞かされた時は……正直呆然としてしまいましたが……。もし私達が法術師であれば、その力ゆえにウェラー卿のお人柄を先ず疑って掛かったでしょう。魔族は魔物という前提から離れることはできなかったと思います。ですが私達親子は法術師にはなれず、その代わり……」 「人の真実を見抜く力があった。……皮肉な話だね」 魔族と戦うために発達した法術師の家系であればこそ得たその力で、魔族が魔物ではないという真実を瞬間的に見抜いてしまった。 ムラタ様が皮肉ではない笑みを含ませてそう言った。 「その通りですわ」 「ウェラー卿に出会った瞬間に、これまで常識だったことが一気に覆ったんだよね? お母さんも君、お姉さんも、衝撃を受けなかった?」 「受けましたとも!」 当然でしょう。思わず訴えると、ユーリ様、ムラタ様、フォンビーレフェルト卿が大きく頷く。 「だよね。分かるよ。……これまでの常識とか、当たり前だと思ってた世界が一瞬で変わってしまう衝撃って……大きいよね」 同じようなことがあったのか、ユーリ様が再びしみじみと頷いた。 「祖父は立派な人でした。優しくて大らかで見識も深く広く、本当に尊敬できる人でした。でも……間違っていた。魔族は祖父が最期まで信じていたような魔物でも化け物でもなかった……。それを認めるのは、母も私もとても辛かった……です」 そうだろうね、とムラタ様もまた深く頷きながら理解を示してくれた。 「でも乳母さんとお姉さんは、それが辛いからといって目を背けることをしなかった。ちゃんと受け止めて、乗り越えて、僕たちを受け入れてくれた。……とても立派だし、僕はお2人をとても魅力的な女性だと思いますよ」 「うん! おれもそう思う!」 「確かに、そう考えれば、乳母殿とアグネス殿の態度は実に見事だな!」 驚いて見回せば、ユーリ様、ムラタ様、フォンビーレフェルト卿がにっこりと笑いかけてくれた。そして彼等のさらに背後から、黙ったままついてくるグリエ殿も、明るい笑顔で大きく頷いてくれる。 「あの……」 急に照れくささがこみ上げてきた。 「ありがとうございます」 「もう1つ質問してもいいかな?」 「ええ、どうぞ」 この中で一番しっかり者なのはムラタ様だ。どうやら彼に話を通せば、万事順調に物事が進むように思う。 「あの」彼の目が数歩先を進むラン様に向く。「ランって人は何者なのかな。乳母さんのことを『母さん』って呼んでたよね? どうもよく分からなくて」 ああ、と私も頷く。初めて私達に接する人は大抵戸惑う。 「ラン様は、大公家のご一族、アシュリー家のご嫡男ですわ。姫様とは従兄妹になられます。ただ……ラン様を産んだ方がご正室ではなく、ご正室がお産みになったお子が当時すでにおいでになったこともありまして、ラン様は家を出され、私の家の長男としてお育ちになったのです。ご正室とご嫡子が事故で亡くなられて、改めてラン様はご実家に引き取られました。……それが3年前のことで、ラン様は17歳でした」 「だから乳母さんのことを『母さん』って呼ぶんだ!」 「はい。母はいつもそれで怒っております。アシュリーの嫡男としての自覚が足りないと」 「乳母さんらしいね」 ユーリ様の言葉に、軽やかな笑いが溢れた。 歩き続けてふと気づくと、同じ方向へ向かっていく人の数がどんどん増えていく。 それも……うら若い女性の数が。 「……人が増えてきたなー。皆同じ所へ行くみたいだ。でも…おれ達が行くのは練兵場だろ? どうして女の人ばっかり…?」 「それはシブヤ」ムラタ様が笑う。「目的が皆一緒ってことじゃないか。さすがだね」 え? とユーリ様がきょとんとする。 その時。 「あら! そちらにおいでなのは、アシュラムの公女殿下ではございませんこと?」 掛けられた声に顔を向ければ、華やかに着飾った姫君たちの一団が私達を見ていた。 「……あの方達……」 「知り合い?」 「いえ……」 思い出した。 ウェラー卿とお会いする前、私達の魔族に対する勘違いを大笑いしてくれた上流貴族のお嬢様方だ。 姫様もさすがに足を止め、お嬢様方に向かい緩やかにお辞儀をなさった。 お嬢様方が、何を思ったのか姫様に近づいていく。私は姫様の傍らに急いだ。 「どちらにお出でになりますの? ……まさかと思いますけれど、練兵場かしら?」 「ええ、そうですわ」 姫様が胸を張って仰せになる。 「コンラート様にお誘い頂きましたの」 その瞬間、お嬢様方の顔色と表情が一変した。 「コンラート様、ですって……!?」 4、5人の女性達が色をなして姫様に詰め寄ってきた。 「あなた、失礼ではございませんの? ウェラー卿か、でなければ閣下とお呼びすべきですわ!」 そうよそうよとお嬢様方が声を揃え、さらに姫様に迫ろうとする。 これはいけないと、間に入ろうとして驚いた。姫様がたじろぐどころか、お嬢様方に向かって胸を突き出すように前に踏み出されたのだ。 「コンラート様が! 名前で呼んで欲しいと仰せになりましたのよ。これから私、コンラート様と親しくお付き合いさせて頂くことになっておりますの。その証拠に、コンラート様も私の事をエヴァと名前で呼んで下さいます」 あなた方とは違いますわ! 堂々と宣言なされた姫様(いつから「親しくお付き合いすることになった」のかは、私も分からないけれど……)に、お嬢様方の顔が一斉に引きつった。 お嬢様方の背後に、一気に燃え上がる怒りの炎。 姫様とお嬢様との間に、火花が散った。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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