しゃるういだんす?・2 |
「………………」 「………………」 「………………」 「…………えーと」 爽やかな笑顔のままで、ちょっと困ったようにその人が、恩人が、魔族、が、首を傾けた。 「………尻尾は!?」 「は!?」 「角は? 牙はないんですか!? 隠してるんですかっ!?」 見せてくださいっ! しん、と部屋の中が静まる。 姫様が、いつの間にか魔族の男の胸元に迫る勢いで詰め寄り、真剣な眼差しを向けておいでになられた。 彼が、まじまじと姫様を見返す。 「……ぶふっ…!」 突然。彼が吹き出した。吹き出して、そして、身を折って笑い始めた。 「…くっ、ぷっ、はっ、ぷは、ははは……っ」 お腹を押さえて、口も押さえて、堪えて、でも堪えきれない笑いが止まらない。 「…っ、す、すみま、せん…っ、近頃ない新鮮な反応、だった、ので……」 ぷっくっく、と笑いながら、苦しそうに彼が言った。 私達はただ呆然とその姿を見つめ、その傍らではライラ様がやれやれとため息をついておいでになる。 「…き、貴様、図ったなっ!?」 突然、本当に唐突に、鋭い糾弾の声が上がった。ラン様だ。 身を折って笑っていた彼が、その姿のまま「…え?」と目線を上げる。 「魔力で山賊を操って、姫達を襲わせたのだろう! そして姫を……!」 ラン様のその言葉に胸を突かれ、私もハッと目を瞠った。 「おのれ魔物が卑怯な真似を!」 ラン様の手が剣の柄に伸びる。……ダメよ! ラン様の腕じゃとても……。 「お止めなさい!」 ビンと空気を弾くような鋭い声は、ライラ様だった。 「我がフランシアの宮廷において、そしてフランシア国王であられる陛下とこの私の前で! 貴公は剣を抜いて何をしようというのか!」 まさしく武人の声でライラ様がラン様を怒鳴りつけた。 ラン様の身体が、瞬間、凍りついたように固まった。 ふう、とライラ様がため息をつく。 「……それで? 一体どういうことかしら?」 ウェラー卿? 一瞬で王妃の声音に戻ったライラ様が、視線を魔族の男にお向けになった。 「こちらに来る途中」 彼、が、答える。 「街道で、この方達が賊に襲われていたのに出くわしたんですよ。それでお助けしたんですが……」 弱ったなあ、と魔族が苦笑を浮かべる。 ふう、と再びライラ様がため息をつかれた。それから改めて顔を私達に、視線をラン様に向けられた。 「せめてこの国にいる間だけでも、先入観を捨てて欲しいとお願いしたはずです。もう忘れてしまいましたか?」 責めるような眼差しに、私は思わず視線を落とした。と、そこへ。 「ライラ」 王妃様を呼ぶ、穏やかな優しいお声が響いた。 ハッと目を上げると、いつの間にかアントワーヌ陛下がライラ様のお隣においでになっておられた。 きびきびと活動的に行動なされるライラ様を、いつもニコニコ笑って見つめておられるアントワーヌ陛下は、今もやっぱり優しい笑顔だ。そして陛下はライラ様の肩に手を置かれ、それから変わらぬ笑顔を私達にお向けになった。 「ウェラー卿は私達の長年の友人でね、賊を操って人を襲わせるような人物ではないよ? それはフランシア国王と王妃の名において保証しよう。……とにかく、姫、それからラン殿も、とにかく座って話をしよう?」 座るって……。魔族と一緒に? 魔族と私達が同じ卓につくなんて……。 私達の躊躇いにお気づきになったのだろう、アントワーヌ陛下の笑顔が苦笑に変わった。 「エヴァ殿。それからラン殿」 聞いてくれるかな? アントワーヌ陛下の笑顔の中に、ふと厳しい光が射した。 「私達人間は、悪いことが起こるとそれを全部魔族のせいにしてきた」 ゆったりと陛下がそう仰せになられた。 「魔族のせいにして、責めを全て魔族に押し付けることで、私達人間は自分達が負うべき責任を放棄してきた。そして、様々な問題を自ら解決することから逃げてきたんだ。政の失敗も、戦争も、民の飢えも、流行り病も、この大地の崩壊も、全てね。何でも魔族のせいにしてしまえばこれほど楽な事はない。そうすれば、責任を負わない罪悪感からも、何もできない無力感からも解放される。数千年も、私達はそれを繰り返してきて、そうすることが当たり前になってしまっていた。でもね……どう考えても長すぎるよ。我々人間も、もうそろそろ考えを改めるべきだ。違うかな?」 私達は無言で、陛下の仰せになった言葉の意味もさっぱり頭に沁みこまないから、どうお答えすることもできなくて、だから、無言で、ただ無言でいた。 「でもそれは、人間の責任ばかりではありませんよ」 ふいに。男の声が、悔しいほど深みのある声が割り込んできた。 「我々魔族も、長い間頑なになってきました。人間と分かり合える時など来ないと、つい数年前まで信じ込んでいたんです。理解を求めようと、その努力を怠ってきたのは魔族も同じですよ」 「うん、ま、お互い様だねえ」 のんびりとアントワーヌ陛下が仰せになり、またにっこりと笑みを浮かべられた。 「まあ面倒は話はおいおいしていくとして、とにかくお茶にしよう。ね?」 私は思わず男、ウェラー卿、の、顔を見上げた。 私の視線に気付いたのか、彼がふと視線を向けてきた。 「俺、いえ、私と同席されるのがお嫌でなければ、ですが?」 窺う様に視線を向けられて、ぐっと言葉に詰まったその時だった。姫様がずいっと前に進み出られた。 「あの! ご一緒させて下さいませ! ぜひ!」 姫様! と声にならない声で呼ぶが、もちろん姫様には届かない。 姫様は、胸元で両手を組み、まっすぐウェラー卿を見上げておられる。 ウェラー卿が、あの笑顔を、人の心臓を鷲掴みにして砕いてしまうような力を持った笑みを浮かべて姫を見下ろす。 それから、「あ」と、何かに気付いた様に小さく声を上げた。 「すみません、先ほどのご質問ですが」 「………質問…?」 「ええ。ほら、尻尾とか角とか牙とか……」 「あ、は、はい…!」 「ご期待に添えなくて申し訳ないのですが」 「……はい?」 「ないんです」 「え?」 「別に隠している訳でも、もちろん化けている訳でもなくて、もともとそんなものはないんです。そもそも、私も尻尾や角を持った魔族というのは見たことがありません。確かに人間の国には見られない生き物もおりますが、それはかつて魔族と共に人間に逐われた自然の精霊であって魔物ではありません。あなた方が言い伝えておられる魔物とか化け物とかは、眞魔国においてもお伽噺の中にしか存在しませんよ?」 「そ、そうなのですか!?」 「ええ。眞魔国には夜しかないとか、魔族は陽の光の下では生きられないとか信じている人間もいるようですが、そんなことはありません。太陽はあなた方の国と全く同じに、朝になれば登り、夜には沈みます。そして我々も、朝になれば目覚め、夜には眠るのです。子供達は学校へ行き、大人は仕事をし、夜は家族で食事をする。そんな日常の生活は、魔族も人間も全く同じなのですよ?」 「まあ! それは存じませんでした!」 そんな会話を交わしながら、男、ウェラー卿は実に自然に姫様を促し、ソファへと誘った。 姫様とウェラー卿、アントワーヌ陛下とライラ様、4人が本当に自然な歩みで私達から離れていく。 「ラン様、何を突っ立っておいでになります?」 ラン様と同じようにぽかんとしていた私は、その声にハッとなった。 母が、厳しい眼差しで私達を見ている。 「ラン様も早くあちらへ。姫様のお隣にお座りになって下さいませ」 「あ、ああ…!」 ラン様が慌てて姫様達の後を追う。そして、背中を見つめる私の前で、ラン様が姫様とウェラー卿の間に割り込むようにお入りになり、姫様と半ば無理矢理自分の隣に座らせた。 姫様が、あからさまにムッとした顔でラン様を睨みつけている。 思わず……ため息が出た。 「アグネス」 母が今度は私を呼ぶ。 「参りますよ。ぼうっとしていてはいけません」 「……あ、はい、母様」 歩き始めた母の背中を見つめる。今この時、母は何を思っているのだろう……。 神官だった祖父。穏やかな優しい人だった。たった一人の娘と孫が、ほとんど法力の才能を持ち合わせていないことが分かっても、失望を表したりはせず、人として恥ずかしくない人生を送れと言ってくれた。 世に悪徳を蔓延らす魔族を憎み、民の幸せをひたすら祈っていた祖父……。 ソファでは、アントワーヌ陛下とライラ様、その斜め隣に置かれた1人掛けのソファにウェラー卿、アントワーヌ様達の真向かいにラン様と姫様がお座りになっていた。 私と母は、姫様達のソファの後ろに立った。 女官達が改めてお茶とお菓子の用意をしている。手伝う必要はないので、私は立ったまま、斜め向かいに座るウェラー卿を観察することにした。 本当に端正な人だ。人、と呼ぶべきではないのかもしれないが。 ライラ様が友人と呼ばれ、そのライラ様のお言葉を信じると姫様が仰せになり、私もそれに従うと宣言したものの、いざその人物を目の前にすると、どうにも心は落ち着かなかった。 魔族を目にするのは初めてだ。まさかこれほど人間と変わらない姿をしているとは思わなかった。 まさかこれほど素敵な……ゴホンゴホンっ! と、とにかく……本当に、この男はあの賊たちを操ってはいなかったのだろうか……。 ウェラー卿が、笑みを浮かべて、何かを教えようというのか、その手をふと上げた。 大きな手だ。貴族的な容貌と相反して、ひどく節くれだって、無骨に見える。あれは剣を握る手、きっと…戦いを知っている手だ……。 その時、ぱちんと弾けるように、私の脳裏に浮かんだことがあった。 「…ま、待って下さい! ……おかしいわ!」 何もしていないのに「待って」と言われて、ソファに座る人々がきょとんと顔を上げる。 「あ、アグネス? どうしたの?」 姫様が私を見上げて仰った。 だが私は、姫様ではなく、ウェラー卿の手を見ていた。 そう、この手! 「おかしい?」 ライラ様が首を捻られた。 「はい!」 私は勢い込んで頷いた。その場の全員が私を見ている。私はウェラー卿を真っ直ぐ見つめて口を開いた。 「だって、だってあなたあの時、私の法石を拾ったじゃないですか!? その手で法石を……。魔族が法石に触れられるはずがありません! そして私にちゃんと返してくれたわ。法術師や法石を嫌う魔族がそんなことをするはずがない!」 あなた、本当に魔族なんですか!? 私の言葉に、ほんのわずか驚いたような顔をしていたウェラー卿が、すぐに笑みを取り戻した。 「そのことですか。それは……」 「お待ち下さいませ」 ふいに。 私の隣で声が上がった。母だ。 私に集中していた視線が、わずかに横に逸れる。 母がすっと頭を下げた。 「申し訳ございません。このような場において、分も弁えず娘がご無礼申しました。お詫び申し上げます」」 「母様!」 母がじろりと私を睨む。思わず首を竦める私。 「アシュラム大公領、エヴァレット第一公女殿下の乳母、エイドリアン・フィータと申します。たかが乳母、そして侍女風情がこのように出しゃばりますこと、何とぞお許し下さいませ」 ……そう、私はしょっちゅう忘れてしまう。自分が姫様の侍女に過ぎないということを。 一国の国王陛下や王妃様が語らっておられる場で、私のような侍女が口を挟むなど、本来許されない無礼だ。子供の頃から存じ上げているアントワーヌ陛下とライラ様がお相手だから、ついつい甘えてしまった。今この場には、陛下とライラ様だけではない、魔族が同席しているというのに……。 礼儀を弁えないと思われれば、人間の恥となる。そんな言葉が浮かんで、私は頭を下げたままの母に倣い、深く頭を下げた。 「あ、あのっ」 慌てたように姫様が声を上げられた。 「乳母とアグネスは、私にとって家族も同じなのです! 幼い頃に母をなくしましてからはずっと一緒に……。私を案ずるあまりのことですので、どうか………」 ウェラー卿がふっと笑みを零した。それを間近に見てしまったせいだろうか、姫様のお言葉が唐突に切れた。 「どうぞお気になさらずに。私の方こそ、公女殿下に対し失礼致しました」 軽く頭を下げられて、姫様がふるふると頭をお振りになる。 「乳母殿は、文字通りエヴァ様の母上代わりなのよ。アグネスはお姉さんね」 ライラ様がウェラー卿に向かって笑顔で仰せになった。 「ただの乳母と侍女ではないの。ラン殿はエヴァ様の従兄弟だけれど、フィータ家で暮らしていたこともあるほどだし。本当は一緒に席についてもらっても良いくらいのお付き合いがあるのよ。彼女達を話に加えて上げてくれるかしら?」 ライラ様のありがたいお言葉。 「ええ、もちろん」と頷くウェラー卿に、母が改めて頭を下げた。 「……私ごとき身分卑しき身にもったいないお言葉。怖れ多いことでございます」 母の目が真っ直ぐウェラー卿に向いた。 「閣下には、無礼に無礼を重ねることとなり、真に申し訳ございませぬ。本来ならば、ここで再びお顔を拝見したその時に、何より最初に申し上げねばならないことがございました。……ウェラー卿、先ほどは我が主をお救い下さいましたこと、心より御礼申し上げます。ありがとうございました」 母が三度頭を下げた。……でも、あれはまだ……。 「母さん! それはまだ……!」 「ラン様!」 私の心を読んだようなラン様のお声は、母によって鋭く、恐ろしいほどの眼差しと共に遮られた。 「フランシア国王陛下と王妃殿下が保証すると仰せになりましたことに、疑いを差し挟むおつもりか!? お立場を弁えられませ!」 母を見上げていたラン様が、ハッと顔色を変えて正面をお向きになった。苦笑されるアントワーヌ様と、眼差しをきつくなされたライラ様のご様子に、ラン様が身を縮めて頭を下げる。 「……も、申し訳ありません……!」 ラン様と同じ事を考えてしまった私も、思わず恐縮して、一緒に頭を下げた。 「私達に謝る必要はありません。謝罪はウェラー卿に。もう一度はっきり申しますが、ウェラー卿はあなたがご想像なさったような人物では全くありません」 「……は、はい……っ」 ライラ様のお声には、はっきりと怒りが籠もっている。ああ、どうしよう……。 ラン様はちらっと背後の母を見上げ、それから無意識だろう、唇を何度か舐めるように噛み締めると、顔をウェラー卿に向けた。 「………あ、あ、の………」 ラン様が何度か口を開き、閉じ、開き、だが、その口からそれ以上の言葉は出てこなかった。 魔族に謝罪する。……ラン様にはできない。 アシュラムでは、誰もが小さな頃から「魔族は人間を悪の道に陥れようとする悪魔だ」と教え聞かされて育つのだ。ラン様の、人間として、アシュラム公家の一員としての誇りが……。 「従兄弟の無礼、申し訳なく思います。どうかお許し下さい、ウェラー卿」 唐突に、きっぱりと。 そのお言葉は、姫様のお口から発せられた。 迷いもなく、不安もなく、堂々と真っ直ぐに背筋を伸ばし、姫様はそう仰せになると、小さく、だが優雅に頭をお下げになった。 「……ひめ……!」 「驚きのあまり、私もお礼を申し上げることを失念いたしておりました。まことに恥ずかしく思います。先程は、私達をお助けくださいまして、真にありがとうございました。もし貴方様がおいで下されなければ、今頃私の命はなかったでしょう。にも関らず度重なる我らの無礼。どうかお許し下さいませ」 姫様は慌てるラン様を見向きもせず、ウェラー卿を真っ直ぐ見つめたまま、そう仰せになられた。 いいえ、とウェラー卿が微笑んだまま首を振った。 「私ももう一度申しますが、どうぞお気になさらないで下さい。当然のことをしたまでです。それから無礼云々も。魔族だからと怖れられることには慣れています。むしろ、アントワーヌ殿やライラ殿のように、人間でありながら魔族の友人として、魔族への誤解や思い込みに立ち向かってくれる人達が増えてきたという現実の方が、私にとっては感慨深いものがありますね」 最後の一言は、アントワーヌ陛下とライラ様に向けられて発せられた。 ウェラー卿に笑い掛けられて、陛下方も大きく頷かれる。 「色々とあったものね、お互いに」 何を思い出されたのか、ライラ様がくすっと笑われた。 そのご様子に頷いたウェラー卿が、顔を上げ、視線を私に向けてきた。ドキリと胸が鳴る。…も、もちろんこれは、魔族と目を合わせたためのもので、決してときめいた訳じゃない! ……はず…。 「ご縁があって、こうしてお会いできたのですから、私も魔族について理解して頂く努力をしたいと思います。先ずは、あなたの、アグネス殿でしたか? 先ほどのご質問についてですが」 「……あ、あの、法石の……」 私の言葉に、こくりとウェラー卿が頷く。 「私があの法石に触れることができたのは、私に魔力がないからですよ」 「………え……ええ……っ!?」 思わず声が裏返ってしまった。 隣の母はもちろん、前にお座りになる姫様やラン様も、私と同様に驚愕の表情を浮かべているのが分かった。 魔力を持たない……魔族? 私達の表情がよほどおかしかったのか、ウェラー卿がくすくすっと笑った。 「あの、ご無礼でございますが」母が咳き込むように口を挟む。「閣下は、その、怖れながら、前魔王、へい、かのお子と伺いました。そのお方が魔力を持たないとは……。そもそも魔力を持たない魔族というものが存在するのでございましょうや?」 「いますよ、当たり前に」 あっさりと頷かれ、私達がさらに絶句する。 魔族というのは、存在そのものが「魔のモノ」で、悪しき魔力の具現化したものだと祖父から聞いていたのに…。 「まず私のことですが、私は魔族と人間の間に生まれた混血です。混血の魔族は、基本的に魔力を全く持たないのですよ」 「こ、混血…!」 「で、では、お母上様は人間……」 「父です」 「…え?」 「私は、人間の父と、魔族の母の間に生まれました」 「……………あの」 ぽかんとした様子で姫様が声を上げられた。 「で、でもあの……貴方様は、魔王のご次男で、だからその……」 「前魔王であったのは私の母親ですよ。女王だったのです」 「同じ女の私から見ても、それはもう絶世の美女でいらっしゃるのよ?」 悪戯っぽい笑いをお顔に乗せて、ライラ様がお言葉を挟まれた。 「………魔王、が……絶世の美女……」 想像できない、というか…何だか頭痛がしてきた……。 「それでは、あの」母が続ける。「現在の魔王陛下は、閣下のお兄上ということでございますね?」 「いいえ」 また否定されてしまった。 「あの……しかし……」 「眞魔国には、王家というものが存在しません」 「は!?」 それって一体……? 「魔王の位は世襲で継がれるものではないのですよ。王となられるのに相応しい方が選ばれるのです。ちなみに、私の兄は当代魔王陛下の宰相を務めています」 「宰相閣下……!」 はい、とウェラー卿が頷く。 「あ、あの、では、貴方様の兄上、宰相殿も人間との混血でいらっしゃるのですか?」 「いいえ。兄は純血の魔族です」 姫様の質問に、ウェラー卿が小さく首を振って答えた。 「おれ、いえ、私には兄と弟がいますが、混血は私だけです。3人とも父親が違いますので……」 「さ、さようで、ございますか……」 3人の魔王の息子。全員片親が違い、1人だけ混血。……何だか複雑なものを感じるのは、気のせいじゃないと思う。 ウェラー卿は再び私に顔を向け、「話を戻しますが」と言った。 「法石は魔族に反応するのではなく、魔力に反応するものです。法力は魔力と相反する力ですからね。つまり、例え魔族であろうと、魔力がなければ法石の力は発動しないということです。だから私はあの法石を手にすることができたのです。あなたにお返ししたのは、あれがあなたの物だからですよ? それ以外に理由などありません。ご納得頂けますか?」 「…はい、あ、あの……ありがとうございました……」 それ以上何も言える言葉がない。私はほう、と胸から吐息を溢れさせた。 「法石の力と魔力につきましては、神官を務めておりました私の父より同様の話を聞いたことがあります」 母が私の後に続けて言った。 「しかし、よもや魔王のご実子として生まれた方が人間との混血で、そして魔力をお持ちにならないとは……。それに、王位が世襲でないことも……。これは思いも寄らないお話を伺わせて頂きました。あの……このようなお話、初めてお会い致しました私共が伺ってもよろしかったのでしょうか?」 「別に隠していることではありません。アントワーヌ殿やライラ殿はもちろん、眞魔国や魔族と触れ合った方なら誰でもご存知のことです」 「さ、左様でございましたか……」 さすがの母も初めて知った魔族の姿に戸惑いを隠せないでいる。 私も、情報を整理するのが精一杯だ。 「今のお話、理解できましたか? エヴァ様、ラン殿?」 「はっ、はい!」 「あの……驚きましたが、大体のところは……」 「だったら、もう1つの疑問も解決されたわね?」 「もうひとつの…疑問?」 姫様がきょとんと尋ね返される。ええ、そう、とライラ様が頷かれ、お顔をラン様に向けられた。 「ウェラー卿は魔力をお持ちではないの。人を操ることなどできません。つまり、山賊があなた方を襲ったのは、ウェラー卿に操られたからではない、ということね」 「…………あ……!」 ラン様が頓狂な声を上げられ、それから思わずといった様子で口を押さえられた。 「それは……確かに仰せの通りですわ、ライラ様! ね? 乳母や、アグネスも。そうでしょう!?」 振り返る姫様のお顔が輝いている。 「はい、姫様。まこと、仰せの通りでございます」 母が頭を下げた。 私は、ウェラー卿に顔を向けた。 ゆったりとソファに身体を預け、穏やかな微笑を浮かべて私達を見ている。 私は……。 ライラ様のお言葉を理解した瞬間、胸がこれまでなかった音を立てるのを聞いた。その音はそのままどんどん大きくなり、そしてそれに合わせて頬がどんどん熱くなっていく。 私は……とんでもない恩知らずだ……! 人として恥ずかしくない生き方をしろと。祖父にそう言われて、誇り高く、正しくあろうと決意して生きてきたはずなのに。 ウェラー卿が魔族であるというその事実だけで、口には出さなかったものの、あらぬ疑いを掛けてしまった……! たとえ相手が何者であろうとも、何の証拠もないまま、無実の罪を擦り付けるなど……。 「あの…!」 声が上がった。 ハッと見れば、ラン様が身体を真っ直ぐウェラー卿に向けている。 「先ほどは、本当に失礼致しました! 魔族であると聞いた瞬間に、私はあなたの全てを疑いました。ですが……。私もフィータの祖父より、魔力も法力も持たぬ者にとって、法石はただの石に過ぎないことを確かに聞いております。まさか、魔力をお持ちでないとは思いも致しませんでした。あのような言い掛かりをつけてしまいましたこと、恥ずかしく思います。お許し下さい!」 そう、私の兄として育ったラン様も、祖父から色んな話を聞いて育った。人として立派に生きろと教えられたのは、私だけじゃない。 「……つまり魔石のことがなかったら、まだ疑っていた、ということね」 憮然としたお声でライラ様が呟かれた。 「そ、それは……っ」 ラン様が慌てたように首と手を振る。 「良いんですよ、ライラ殿」 ウェラー卿が取り成すように口を挟んだ。 「誤解が解ければ、俺は、あ、いや、私はそれで充分です」 私達の前では俺で構わないわよ、とライラ様が笑う。それからすっと表情を変え、お顔をラン様に向けられた。 「大体ね、もうちょっとよく考えて御覧なさい」 あまり頭の良くない子供に言い聞かせるように、ラン様に向かって指を1本立てられる。 「眞魔国がアシュラムに対して、何か策を弄して事を企てる意味があるのかどうか」 「…………あ」 今度はちょっと間の抜けた声を上げて、ラン様が恐縮するように身体を縮めた。 ラン様のお顔は、今きっと真っ赤だろう。その全身からまるで湯気が上がるほど、ラン様が恥じ入っておられることが、後ろにいても良く分かる。 アントワーヌ陛下とウェラー卿が、どことなく気の毒そうな表情で苦笑を浮かべている。 ……アシュラムは大陸の端にあるかなきかのちっぽけな国だ。 自然の宝庫、という今はかなり怪しくなった売り物以外に、特にこれといって産物もなければ産業もない、ほとんど自給自足の山国に過ぎない。 大シマロンがなくなり、あの広大な国土がどうなるのかさっぱり分からない現状においては、眞魔国こそこの地上最大の王国だ。世界一の大国が、その国で重要な地位にある身分の高い人物が、わざわざ山賊を操って公女殿下を襲う意味がない。それこそ……暇つぶしの遊びででもなければ。でも、ウェラー卿という人は、魔族は……魔族であるけれど、そんな人ではない、と思う。思いたい。 「………恥ずかしく、思います、心から……」 項垂れたしまったラン様の隣で、姫様も申し訳なさそうに身を縮めておいでになる。 「さ! もう面倒な話はここまでにしようじゃないか!」 唐突に、アントワーヌ陛下が明るい声を上げられた。 「誤解も解けたようだし、魔族が魔物じゃないことも少しは理解してもらえたようだしね。違う話をしよう。ほら、お茶だって冷めてしまったよ。淹れ直させよう」 「あ、あのっ、陛下!」 女官に合図する陛下に向けて、姫様が身を乗り出された。 「私、国の事もありますし、眞魔国や魔族のことをもっと教えて頂きたいのですが……!」 「慌てなくてもよろしいでしょう? エヴァ様」 ライラ様が姫様に仰せになる。 「天下一舞踏会まで、まだ時間はたっぷりあるのですし、ゆっくり時間を取って話をすれば良いわ。今、一度に何もかも話をする必要はないのじゃないかしら? ねえ、ウェラー卿」 ライラ様とウェラー卿が視線を合わせた。 「実はアシュラム公領は、ご多分にもれず、と言ったら下世話な表現だけれど、国土が荒廃しつつあるのよ。それでアシュラムの大公様は、眞魔国と友好を結んで、魔王陛下のお力をお借りすることを検討しておいでになるの。でも、もうお分かりかと思うけれど、アシュラムは魔族に対する偏見の強い国。それで大公様も踏ん切りがつかなくて……。だから私達の陛下が、今回の天下一舞踏会にウェラー卿が参加するから、1度話をしてみたらどうか、と助言をされたというわけ。つまりエヴァ様は、あなたに会うためフランシアにおいでになったのよ。私達としては、あなたにこの方々とお話をしてもらって、眞魔国の理解者を増やしてもらいたいと考えているわけね。了解してもらえた?」 「なるほど、そういうことでしたか」 ほんのわずか苦笑を滲ませて、ウェラー卿が姫様にお顔を向けられた。 「あの…っ、アシュラムは今本当に大変な状況に陥ろうとしております。もし魔王…陛下にアシュラムを救って頂けるのであれば、私達もぜひ友好条約を結ばせて頂きたいと思います! そのためにも、国の父や閣僚達に眞魔国について正しい知識を持ってもらわなくてはなりません。どうか、御国について、魔族について、お教え下さいますようお願い申し上げます!」 姫様が必死の面持ちで仰せになり、頭を下げられた。一拍遅れて、ラン様、そして私達も同じように頭を下げる。 と。ふう、とため息が耳にかすかに響いた。 顔を上げてみれば、ウェラー卿がかすかに眉を顰めている。 「あの……」 「どうやら」ウェラー卿がこれまでよりほんの少し低い声で言った。「根本的に勘違いをなされておられますね」 「………え……」 ……勘違い……。 ふ、とウェラー卿が息を吸い、話を続けようとした。その目がまっすぐ姫様を見て。 そして、ほんのわずかの沈黙の後、ウェラー卿がすっと身体の力を抜いた、様に見えた。 「確かに……急ぐ必要はありませんね」 「え?」 胸元で手を組み、おそらくは健気なほど真剣な眼差しでその言葉を聞こうとされていた姫様が、きょとんと首を傾けられた。 その仕草に、ウェラー卿が苦笑を浮かべる。 「そうね」 ライラ様がウェラー卿に向かって頷く。 「始まりは大体こんなものだわ。でも、だからこそ粘り強く対話を重ねて、理解を深めて欲しいのよ。……天下一舞踏会までまだ数日あるし、ゆっくりと魔族と眞魔国について、何より、魔王陛下について教えてあげて欲しいわ」 それが世界を平和に導く唯一の方法だと信じているから。 「分かりました」 ライラ様とウェラー卿の間では、意思の疎通が成り立っているらしい。 目の前の2人の顔を何度も交互に見遣る姫様。姫様の背中に戸惑いを感じる。 ウェラー卿が改めて姫様に顔を向けた。表情には、もう先ほどの厳しいものはない。 「理解して頂きたいことがたくさんあります。色々とお話させて下さい」 「もっ、もちろんです! ぜひ、よろしくお願い致します!」 姫様のお声が、一気に明るく弾み始めた。 「……それにしても驚いたよね」 お茶を淹れ換え、新しいお菓子も並べられ、お茶会らしい柔らかな雰囲気になったところで、アントワーヌ陛下がしみじみと仰せになった。 「我が国で天下一舞踏会を開催することになって、たまたま歴代優勝者の名簿を見ていたら、君の名前があるんだものね。コンラート・ウェラーって」 「優勝!?」 優勝って、つまり、この人が世界一の舞踏の名手……! 私達全員の視線を浴びて、ウェラー卿が苦笑を浮かべる。 「昔の話ですよ。俺と組んで下さった女性が、たまたま見事な踊り手でしたので。幸運だったんです」 ウェラー卿の自分を指す言葉が「俺」に戻っている。王の息子で、洗練された大貴族のはずなのに……でもこちらの方が似合っている気がするのは何故だろう? それにしても……。 剣の腕もすごくて、舞踏も名手で。一体この人って……! 「だから君に来てもらったんだよ。何といっても天下一舞踏会復活の記念大会だからね。優勝経験者の参加は良い目玉になるよ」 笑顔のアントワーヌ陛下に、ウェラー卿の苦笑が深くなった。 「問題はあなたの相手になる人よね。知ってた? ウェラー卿。ウェラー卿コンラート閣下といえば、眞魔国とお付き合いのある国の女性達の間では、『憧れの王子様』の筆頭といって良いくらいなのよ? あなたが参加するというので、参加予定の女性達が色めき立っているらしいわ。あなたに選ばれるのは自分だと、水面下ではもう争いが始まっているのですって」 モテるわね? ウェラー卿に向かってぱちんと片目を瞑ってみせるライラ様。 一国の王妃様としては少々…と思われる仕草に、隣で母がコホンと咳払いをした。もし姫様が、いや、それが私でも、もし男性にこんな仕草をしてみせようものなら、母からキツいお仕置きを受けただろう。子供の頃なら……お尻を思いっきり叩かれたり、とか……。 「あ、あのっ」姫様が、突然会話に割り込まれた。「舞踏の相手を選ぶと申されますのは……?」 「……ああ、エヴァ様は天下一舞踏会の仕組みはご存じないのね?」 あのね、とライラ様が説明を始められた。 「天下一舞踏会はね、必ずしも最初から舞踏のお相手が決まっているわけではないのよ。もちろん決まったお相手と一緒に参加する人もいるわ。でも、舞踏会本番までの数日間で、自分にぴったりのお相手を見つけるというのも、この大会の醍醐味の1つになっているの。いかにも上流階級の、刺激を求めてやまない方々が楽しみそうな企画よね。まるで恋人探しみたいでしょ?」 「こ、こいび…っ!」 わずかにひっくり返った声を上げてから、姫様は「コホン」と居住まいを正された。 「……で、ですが、それですと、結局お相手が見つからないまま本番を迎える方もおいでになるのではありませんか?」 そうなのよね、とライラ様が朗らかに笑って頷いた。 「だからそうならないように人数の調整が行われるし、お茶会や夜会を頻繁に開いて、参加者がそれぞれたくさんの方々と出会えるようにこちらも計らわないとならないわ。それでもやっぱり、1人の女性に多くの男性が自分と組んで欲しいと申し込んだり……逆の形も当然あるわけね」 アントワーヌ陛下とライラ様がクスッと笑ってウェラー卿に視線を流した。 「ウェラー卿がどこのどういった姫君を選ぶのか、皆興味津々よ? 我が国の貴族の姫君方や上流階級のお嬢様方も、舞踏会に参加するか否かを問わず、あなたが来るというだけでそれはもう盛り上がっているんだから」 「……話が大げさ過ぎますよ。アシュラムの方々が誤解なさいますから、もう止めて下さい」 「大げさではありませんっ!」 「…………」 「…………」 「…………え?」 ウェラー卿、アントワーヌ陛下、ライラ様、が、きょとんと目を瞠る。 「…だっ、だって! こんなに素敵な方でっ、勇気もあおりだし…っ」 「ひ、姫…っ」 「あんなにお強くて、お優しくて、礼儀正しくて、あっ、お声も! とっても良いお声で、それから…」 「姫様っ」 「それから! 笑顔になられた時の……!」 「姫様っ!!」 夢中になっておられたらしい姫様の身体が、ピシッと固まった。 そのまま、姫様の全身の熱が一気に上がっていくのが、背後に立つ私の目にはっきりと分かった。今姫様のお顔は、きっとラン様に負けないくらい真っ赤になっておられるだろう。 私の隣で、母が片手で顔を覆い、深く深くため息をついた。 「……………ええと、エヴァさ……」 「あのっ!!」 突然。 恥ずかしさに、おそらく全身を真っ赤に火照らせおられるはずの姫様が、無作法なほど大きなお声でライラ様のお言葉を遮った。 「わ、私…!」 姫様は本当は芯のお強い方だ。でもその気丈さは、いつもはほとんど表に表れることがない。ご本人も周りの方々も、姫様は大人しい、か弱い姫君だと勘違いなされておられるかもしれない。 でも本当は、全然違う。 私達の注目する前で、姫様は今、普段の淑やかで儚げな雰囲気をかなぐり捨て、キッとお顔を上げられると、お身体を真っ直ぐウェラー卿に向けられた。 「私、眞魔国と魔族について、長らく誤解しておりましたことを自覚いたしました!」 「…………あ、はい、えーと……ありがと……」 「この上は! ぜひぜひ眞魔国のことについて、詳しくお話をお聞かせ頂きたいと思います!」 「…ええ……ですから……」 「貴方様を通して、魔族の真実について学びたいと存じます!」 「は、はい……」 「そして、あわよくば…っ」 「あわよくば…?」 姫様が、ハッと息を止めた。 と思ったら。 姫様の全身が、再び燃え上がるように熱を帯びたのが分かった。……姫様のお身体から立ち上る熱気で、空気が揺らめいているような気がする。 アントワーヌ陛下とライラ様とウェラー卿が、きょとんと首を傾けた……。 ………姫様が浮かれておいでになる。 私達の前を歩かれる姫様の足取りは、いつの間にかすっかり舞踏の足運びになっている。 ドレスの端を軽く持ち上げ、跳ねるように軽やかな足取りで進まれる姫様に、通り掛った方々がびっくりしたように足を止められるのが何とも照れくさい……。 ふと耳に聞こえるかすかな歌声。……姫様が、舞踏曲を口ずさんでおられる……。 「……ねえ、母さん……?」 「私は母ではないと、何度言わせれば気が済むのですか、あなたときたら全く!」 いつもの文句を口にしながら、ラン様に向けるその口調は母親のものだ。母の注意はすっかり姫様に集中している。 与えられた部屋に4人で入り、扉を閉めた。その途端。 「そうだわ!」 くるっと勢いよく振り返った姫様の、紅潮した頬が輝いている。 「父上様に鳩を飛ばさなくては! 何も心配することはありませんって。魔族は私達が言い伝えてきたような魔物ではありませんって! 眞魔国との友好条約をすぐにでも進めてくださいって申し上げないと!」 「お待ち下さい、姫。それはまだ……」 「何を言ってるの、乳母や。あなた、まさかまだウェラー卿のことを……」 「いいえ、そういう訳では……」 「私達は何年も何百年も間違ってきたのよ? 言ってみれば、無実の罪を魔族に着せてきたんだわ。それが過ちだと分かった以上、一刻も早く正しい道に戻らなくては! でしょう?」 「はい、それはもちろん……」 「今夜の晩餐もご一緒させて頂けることになったし、明日もお話を伺うお約束ができたし……」 うふふと堪えきれない笑みを零し、頬をほんのり赤く染められて、姫様がくるりとドレスを翻された。 「ねえ、乳母や、アグネス、ランも」 「はい、姫様」 私達は並んで姫様のお言葉を待った。 「あのね、あの、私ね……」 「はい」 「あ、あのね……」 と。 いきなりお顔をぶわっと真っ赤になされると、ぱっと両手でそのお顔を隠された。 「だめだわっ、とても口に出来ない!」 いやだわ照れるわ私ったらだめよそんなはしたないわ、きゃあっ。 意味不明のお言葉が一気に飛び出したかと思うと、最後は悲鳴を上げ、姫様はそのまま駆け出しておしまいになられた。 寝室に通じる扉が、勢い良く音を立てて閉ざされた後。 居間には、ラン様と母と私が残された。 「……ひ、姫……?」 間を大きく外したラン様の呟き。 私の隣で母が、またも深々とため息をついた。 夜。 なぜかふと目覚めた私は、喉の渇きを覚えて寝台を抜け出した。水差しを用意するのをうっかり忘れていた。 確か居間に水差しがあったはず、と思い、扉を開くと。 「……誰!?」 人の気配に、思わず声が出る。 窓際に、人の影が佇んでいた。 「……アグネス、目が覚めたのですか?」 「母様?」 母だった。 「どうしたの、母様」 「……ちょっと眠れなくて……」 側によって驚いた。母はお酒を飲んでいたのだ。 食事中でもさほど嗜まない母がどうして……。 「………母様……どう、したの……?」 私の不審な声に、母が小さく息を吐き出した。そしてグラスを手にしたまま、ゆっくりと踵を返してソファへと向かう。 「……何だか、思いも寄らないことが起きてしまったわね……」 ソファに腰を下ろしながら、母が呟くようにそう言う。弱々しい口調に、何だか一人にしておけない気分になって、私は母の隣に腰を下ろした。 「……姫様も仰せだったけれど、国元に鳩を飛ばさなければね……。大公様は、エヴァ様が魔物を目にしてさぞ恐ろしい思いをしているのではないかと、きっと気を揉んでおられるはずだから……」 「そ、そうね。私も本当に驚いたわ。まさか魔王の息子があのような方だなんて……」 そして、姫様があのように浮かれてしまわれるなんて……。 「父は、お祖父様は……間違っていたのかしらね……」 「母様……?」 「間違っていたのね……。私達は魔族の真の姿を何も知らないまま、ただ忌まわしい思いだけを募らせてきた……」 でもね、アグネス。 母が真っ直ぐ私に目を向けた。 「知っていて欲しいの。少なくともお祖父様は、どうすれば民を幸せにできるか、いつも必死にお考えになっておられたわ。神官として法術師として、国のため、民のため、何ができるかいつも……! 大地が狂い始めたことを、お祖父様は早くからお気づきになっておられた。民を救わねばと、いつも口になさっておいでだった。決して……決して、自分の責任から逃れようとはなさらなかった…!」 「母様…!」 「何もかも魔族に押し付けて楽になろうなどと、そんなこと、お祖父様は少しもお考えではなかったわ!」 「分かっているわ、母様…!」 母の手が、震える手が、私の夜着の袖を掴んでいる。母が……泣いている。 私は思わず母を抱きしめていた。 「あなただけは……分かってさしあげてね? 疑ったりしないでね? 魔族に対しては……間違っていたかもしれない。でも…っ、お、お祖父様は……決して……!」 「分かっているわ、母様。お祖父様は立派な方だった。慈悲深くて、御心根の優しい、温かい方だった。尊敬できるお祖父様だったわ。私はちゃんと分かっているわ……!」 私の胸に顔を埋め、肩を震わせる母を抱きしめて。私はただ、分かっている、分かっていると繰り返し続けた。 うかつにもお茶の葉を切らし、私は厨房に向かって歩いていた。 回廊に、明るい陽の光が差し込んでいる。ふと立ち止まって外を眺めれば、城のお庭には美しい花々が咲き誇っている。 太陽の輝きも、空気も、そして花も。 全てがアシュラムよりずっと生き生きして感じられるのは、錯覚だろうか、僻みだろうか、それとも、やっぱり魔王の魔力がこの国に力を与えているのだろうか。 回廊を行き交う人々の表情も足取りも、ゆったりと余裕があって、とても穏やかなのが羨ましい……。 夜が明ければ、母はいつも通りの母だった。 「姫様。本日もアントワーヌ陛下、妃殿下、そしてウェラー卿とご歓談のご予定が入っておりますが……よろしゅうございますか? アシュラムの公女殿下として、その品位を損なうことのないよう、くれぐれも振る舞いにはご注意あそばしますように」 ご自覚をお願い申し上げまする。 厳かな口調で申し上げる母に、姫様は自信なさ気に視線を逸らしたかと思うと、すぐに夢見るような瞳を宙に向けられた。 「そうは言うけれど、乳母や、それは無理というものよ? だって……あの方のお姿を目にしただけで、胸が痛いほど高鳴ってしまうのだもの。まして、お声を聞いたり、瞳を覗いたりしたら、私……!」 胸元でお手をぎゅっと絞る様に握り合わせ、ほうっと息を零される。 やれやれと母が肩を落とした。その傍らで、ラン様も一緒になってがっくり肩を落としている。 ……本当に、ラン様がもうちょっとしっかりしていてくれたら。 小さい頃からずっと、それも兄妹として過ごしてきたのだから、ラン様の姫様への思いなんてとっくに知っている。 3年前までは、それは叶わぬ思いだった。少々血筋が特徴的とはいえ、所詮下級貴族の跡取り息子と公女殿下。姫様に対して、ラン様が幼馴染以上の地位を求めることは決して許されなかった。 でも今は違う。ラン様は大公家の一族、最上級の貴族であるアシュリー家の嫡子だ。むしろ現在では、姫様の夫最有力候補となっている。乳兄妹であることが、さらにラン様を有利にしていたのだけれども……。 肝心の姫様にとって、ラン様は文字通り乳兄妹、兄であり従兄弟である以上の存在ではなかった、ということか……。 「……ラン様ったら、ホントに……甲斐性なしなんだから……」 でもそれも仕方がないか。 ウェラー卿コンラート閣下。 「あのお方相手では……そんじょそこらの男がどう足掻いてもかないっこないわよね……」 あーあ。 姫様も誰もいないところだから、私も安心してため息だってつけるし、ボヤくこともできる。 「………私も、ときめいちゃったものね……」 まるでお伽噺の王子様そのもの。あんな素敵な人に出会ったら、胸だって高鳴るし、分不相応な夢だってみてしまうわ。だって、私だって…。 「女の子だも………きゃっ!」 「ふぎゃっ!!」 いきなりだった。 回廊の角を曲がった瞬間、何かがすごい勢いで衝突してきたのだ。 堪えきれずに尻餅をついてしまう。ドンという鈍い衝撃が背中を駆け上がる。 「………いった〜……」 「…あたたぁ……」 声からして人間だ。でもこっちはゆっくり歩いていたわけで、なのに吹っ飛ばされたって事は……。 「…あたぁ……あ……ごっ、ごめんなさいっ!」 お尻を撫でながら身体を起こし、前を見ると……子供だ。 14、5歳というところだろうか、小柄な男の子が廊下に四つん這いになって私を見ている。らしい。 らしい、というのは、その子の顔半分が前髪に隠れて見えなかったからだ。 「お、おれっ、急いでて、それで……あ、あの! 大丈夫ですか!?」 「大丈夫っていうか……あのね!」 あなた、どういうつもりなの!? 叱り飛ばすと、男の子はひゅんっと首を竦めた。 「ここをどこだと思っているの!? 街中じゃないのよ! お城の中よ! 走り回ったりして良いと思っているの!?」 「ごめんなさいっ」 「大体どうして……あら?」 床についた手にふと妙な感触を覚えて見ると、私の手の下に黒縁の眼鏡が転がっていた。 「……あ! それ、おれのです!」 両手両膝をついたまま、男の子がとととっと器用に近づいてくる。そして床から眼鏡を手に取ると、顔を隠すようにして掛けた。 「………目が悪いのだったら、その前髪をお切りなさいな。良く見えないだろうし、目にも良くないわよ?」 「あ、は、はい……っ」 言いながら、男の子が立ち上がる。 「あのっ、ホントにごめんなさい! ……立てますか?」 手を差し伸べる男の子。一応私も淑女の端くれなので、1人で立ち上がったりせず、その子の手を取った。 「………あ、ら……?」 「はい?」 ふと頭を過ぎった感覚に、男の子を見る。 「あなたもしかして……」 男の子、が、首を傾ける。 その時だった。 「シブヤ!」 しぶや? 顔を上げると、男の子、の背後、回廊の向こうからもう1人、同年代の少年が駆けて来る。 「何やってんだよ、君は。マズいぞ、彼等がこっちに来る」 その言葉に、ハッと彼が顔を上げる。 「うわ、ヤバ…っ」 「え?」 「お姉さん! こっち!」 握ったままだった手を、いきなり引っ張られた。 …………扉の向こうを、数人の人が駆け抜けていく。 「確かにこちらへ向かったはずですよ!」 「早く探さないと、あいつに見つかったら何を言われるか……!」 焦りを含んだ、そんな会話が薄く開いた扉の隙間から聞こえて消えた。 「………あの人たち、あなた達を探してるのね?」 彼に無理矢理引っ張られて、たまたま飛び込んだこの部屋で。 私は改めて2人を眺めてみた。 年のころはどちらもやっぱり…15歳前後。揃ってほっそりと小柄な身体。質素な服装はどことなくくたびれていて、旅をしてきたようにも見える。 私とぶつかった方は、すっぽりと頭を包む大きく不恰好な帽子を被り、赤茶色の前髪が垂れて顔の上半分が見えない。隙間から覗くのは黒縁眼鏡。 そして後から来たもう一人は、やはり眼鏡を掛けているが、こちらはすっきりと顔を露にしている。 金髪と青い目の、なかなか整った顔立ちの少年だ。 卑しげな感じはしない。でもどちらも城内より、街の通りを歩いている方がよほど似つかわしい格好をしているのだけれど……。 「……お城に忍び込んできたんじゃないでしょうね。まさか……盗賊……!?」 「違うっ」 赤茶髪の「男の子」が、勢い良く首を左右に振った。ついでに両手もぶんぶんと振る。 「違う! 違いますっ! ここに来るって、ちゃんと鳩で知らせてあるし!」 「じゃあどうして追われているの!?」 「それは…!」 「男の子」が困ったように顔を伏せる。 「あれは……おれの国の、人、で……おれ達を連れ戻すために……」 「連れ戻す…?」 「あのー」 さらに問い詰めようとした私を遮って、もう1人の金髪少年が声を上げた。こちらは赤茶髪に比べてかなりのんびりした余裕の表情だ。 「お姉さんは、フランシアの人ですか?」 「…いいえ。私は隣のアシュラム大公領の者よ。主のお供でこちらに滞在している……」 「お姉さん!」 いきなり。金髪少年がパンッと音を立てて両掌を合わせ、私を拝むように見上げると、無邪気な笑顔を見せた。 「とっても綺麗で優しそうなお姉さん! お願いがあります!」 「………アグネス。何なのです? その子達は……」 母が眉を顰めて私を見た。ソファにお座りの姫様とラン様も、きょとんと私、と、私の背後を見つめておいでになる。 「あ、あの……」 お行儀良く立っている2人の「少年」をチラッと見て。それから私はなるべく申し訳なさそうに頭を下げた。 「お腹を空かせた迷子を…拾ってしまいました……」 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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