「どういうこと、それっ!?」
 彼は顔を蒼白にして叫んだ。

「天下一武闘会って……どういうことだよっ。もう大シマロンはなくなったんだぞ! どうしてそんなのが……! どこかが後を継いだのか!? …そっ、そんなことよりっ……どうしてそんなのにあんたが参加するってことになるんだよっ! あれは……!」

 あの雪の日が、頬に当る冷たい風が、そしてあの時、あの瞬間、あの胸の痛みと混乱が、まるでタイムトラベルしたように実感として思い出される。
 天下一武闘会。その名前で思い出されるのは、ただただ…。
 彼の目にじわっと涙が盛り上がってくる。

「お、お待ちください、そうではなくて……」
「ダメだ! 絶対にダメだっ! 皆も何なんだよ、その顔! 検討するとか、そんな問題じゃないだろっ。いいかっ、おれは絶対許さないからな! そんなものに参加するのは絶対……!」

 その時、彼の背中をつんつんと突っつく指があった。うるさげに振り払うが、指は全く諦めようとしない。
「絶対許さな……って、何なんだよ、さっきから!」
 その指の持ち主は彼の親友で、その親友が今度は何も言わないまま彼を手招きする。
「……だから、何だってんだよ!?」
 いきり立つ彼に、親友は机の上にある未決済の書類の山に手を伸ばした。
 そしてそこから2枚の書類をひょいと手に取ると、机の上に裏返して置いた。そして徐にペンを取り、そこに大きく文字を書いた。「その書類は重要な……!」という声が2、3起こるが気にしない。

 書類の裏にでかでかと書かれた文字はその世界の文字ではなかった。
「………何だ、この、やたらと線の多い記号、のようなものは……」
 その場に居合わせた1人が、腕を組んで首を捻る。

 彼の親友はその2枚の書類の上、端っこを摘むようにして持つと、彼の前に掲げて見せた。

 その1枚には。
 『天下一武闘会』の6文字。
 そしてもう1枚には。
 『天下一舞踏会』の6文字。

「…………およ……?」

 彼がきょとんと首を傾げる。

「彼が今回参加を打診されているのは」
 親友はそう言うと、1枚をぺっと放り投げた。裏はまだしも、表は国家の大事を決める重要書類がひらひらと部屋の隅へ飛んでいく。
 残ったのは1枚。

「こっち」

 彼は残った1枚を、でっかい瞳でまじまじと見つめた。

「……………およ…?」



しゃるういだんす?



「魔族に舞踏ができるのですか!?」

 一呼吸置いて、返ってきたのは爆笑だった。

 姫様のお顔が、一瞬で真っ赤に染まる。

「だってそうではありませんかっ!」
 叫んだのは私。
 後先考えないのは私の昔からの悪い癖だが、ここは大事な姫様のため、私はお腹にぐんと力を籠めた。

「魔族といえば、恐ろしい化け物でございましょう!? それはもう二目と見られぬ姿かたちで、角が何本も生えて、尖った爪は刃物よりも鋭いと! それに尻尾も……」
 見るもおぞましい化け物が、どしんばたんと踊っている姿が一瞬頭に浮かんで、私は思わずぶるっと身体を震わせた。
「………ア、ア、アグネス…っ」
 姫様が私の腕に縋るようにして呼びかけられた、が、それは意識の外。
「そのような化け物と一緒に舞踏などと……!」
「アグネスッ!」
 ようやく姫様のお声が耳に入って我に返った私は、同時に周囲の眼差しの変化にも気付いた。

 人々が、軽蔑も露に私を見ている。
 どこの田舎者? 誰かが呟いた。

「…あ、あの……」

 空気が固くて冷たい。どうしよう……。これはやっぱり、私が余計な嘴を入れたからなんだろうか。
 また失敗してしまったんだろうか、私。
 でも。……でも!
 魔族については、私、少しもおかしなことは言ってない! ……はずだと思うのだけど……。

「伺ってもよろしい?」

 ふいに声が上がった。

「…っ、は、はい……!」
 掛けられたお声の主が、今回この国を訪れた私達が誰より頼みにする方であり、そしてそのお声が思いのほか優しかったからだろう。応える姫様の声に力が戻っている。
 その方がほんのわずか悩ましげに微笑んで、それから仰せになった。

「貴女は、貴女のお国の方は、魔族についてどれだけご存知なのかしら?」

 私と姫様、それからラン、いえ、アシュリー伯家の跡継ぎラン様と、3人で顔を見合わせる。

「………あの……」
「エヴァ様。貴女は魔族とお会いになったことがあるのかしら?」
「いっ、いいえっ、とんでもない……っ!」
「では貴女に魔族が恐ろしい化け物だと教えた方は、魔族と関ったことがあるのかしら?」
「いえ、あの、乳母は……そんな……」
 姫様の乳母は私の母だ。世界を滅ぼそうとする魔族と、人々を救うために闘う英雄達の、長い長い物語を私達に何度も聞かせてくれた母。母はその話の最後に必ず、「神よ、邪な魔族を滅ぼし、世界に光をお与え下さい」とお祈りしていた。その母が魔族と係わり合いを持つなどあり得ない。
「私の両親も…誰も、魔族と関るなどそのような神に背くような真似……!」
 ふう、とその方がため息をつかれる。
 その方、フランシア王国王妃ライラ様が。
「魔族と会った事もないのに、どうして魔族の姿がお分かりになるの? どうして化け物だと決め付けるのかしら?」
 決め付けるも何も……。
 戸惑う姫様が私に顔をお向けになった。でも、私もどうお答えすればいいのか分からない。
「ねえ、エヴァ様」
「あ、は、はい……!」
「国王陛下も、私も、そしてここにお集まりの方々の多くも、皆、魔族の方々と至極当たり前にお付き合いさせて頂いているのです。魔族は、決して貴女方が、いいえ、私達人間が長らく言い伝えてきたような化け物ではありませんわ。……でも、それも実際に会ってみないと分からないかもしれませんね。とにかく、ここにおいでの間だけでも、魔族は魔物、化け物だという先入観を捨てるよう努力してみて下さい。そうでなければ……貴女もここにお出でになった意味がございませんでしょう?」
 ライラ様の聡明そうなお顔が、何のためにこの国においでになったの? と問い掛けておられる。
 姫様がハッと気付いた様に目を瞠られ、それから困ったように顔を伏せられた。

「もう間もなく到着される予定のその方は、陛下にとっても私にとっても、昔からのとても大切な友人です。私達の大切な方と、迷信で曇った目で会って頂きたくはありません」

 お優しいだけではない、かつてはフランシア国王を御自らお護りしていた武人でもあるライラ様は、お美しいお顔にきっぱりとした意志を湛えて私達を見据えられた。


 私はアグネス・フィータ。今年18になる。
 生まれ育った国は、フランシア王国の隣国、アシュラム公領だ。
 その名の通り、私達のその国は、元はある王国の大公様が治めておられた領地にすぎなかった。その王国は長い歴史の中で分裂したり統合したり、色々あって滅んだわけだが、時の大公様だけはしっかり生き延びた。そしてその大公様は、自分の領地と戦乱のどさくさに紛れて拝借した誰彼の領地を幾つかまとめ、それを1つの国として周囲の国々に認めさせたのだ。だから当然……小さい。でもって、弱い。
 そんなちっぽけな国を、建国当初からずっと援けてくれたのがフランシア王国だった。
 フランシアは決して大国でも強国でもないが、その援助の歴史は古く、私達にとってはどこよりも信頼できる隣国だ。何度か両国の王家の間で婚姻も交わされ、私達としては親戚の国という意識が強い。
 だから、フランシアが大シマロンに併合されそうになった時は、国中の人々が身を揉んで心配したし(でも心配しただけで、何の援助も助言もできなかった)、それを見事跳ねのけたと思ったら、今度はいきなり眞魔国と結ぶと宣言され、それこそ皆ぶっ飛んだ。

 フランシアや私達の国は大陸の東南にある、緑豊かな山間の国家だ。自然の宝庫、というのが売りだったのだが、ここ数年それがかなり危うくなってきた。
 自然が狂い始めたのだ。
 冬に雪が降らず、春の雪解け水が激減した。水が減った上に夏は日照りが続き、川という川が干上がってしまった。と思えば、秋はいきなり大雨が降り、神の恩寵と喜んだのもつかの間、雨は何日経っても止まず、山は崩れ、村は土砂と洪水に襲われ、疫病が流行り、多くの民が苦しみ、そして息絶えていった。そして雨の後、まだ秋のさなかのはずなのに、まるで天が死を覆い隠そうとするかのように雪が降り、降り続け、真っ白で清潔な雪の下、私達はさらに死を増やした。
 1度狂った自然は元に戻ろうとせず、ひたすら狂い続け、状況はどんどん悪くなった。
 私達の国からどんどん緑が消えていった。もちろん水も。
 神官様や法術師様達は、それが魔族のせいだと仰った。魔族の呪いだと。
 大シマロンが魔族討伐を行おうとしたことに腹を立てた魔族が、ついに人間を滅ぼすべく活動を開始したのだと。
 ……大シマロンが次々と大陸諸国を滅ぼし、併合し、支配した国の民を魔族との戦いの最前線に送り込もうとしていたことは迷惑な話(自分たちの国が併合されていたら、とても「迷惑」では済まないということは私達にも分かっている、つもりだ)だが、どうしてもっとちゃんとしなかったのかという怒りも感じている。魔族討伐が叶えば、大シマロンの国王は人間の歴史に英雄として名を刻まれただろうに。
 魔族討伐に失敗した大シマロンは、圧政に苦しんでいた民の反乱によって結局滅んでしまった。王がいなくなってしまったのだから、滅んだといっても差し支えないだろう。
 その反乱の首謀者は、シマロンの真の王家の末裔だという噂だが、同時に実は魔族だったという噂も流れていて、真偽の程は分からない。
 とにかく。
 磐石と思われた大国、大シマロンですら滅んだ。今かの地では、反乱を起こした者達が新たな国家を建てようとしているらしいが、いまだ形は見えず、混沌としたままらしい。
 おそらく勝利の喝采を上げているだろう魔族を、さらに喜ばせていることもある。
 大陸の幾つもの国が、魔族と友好を結んでいるというのだ!
 そう、狂い始めたのは自然だけじゃない。人間もだ。
 今、自分たちの世界を闇に堕とそうとしている魔物と結ぶ国が、年々数を増やしている。
 魔族と結んだ国は、魔王の力によって自然の崩壊が止まるのだという。当然だろう。自然を壊しているのは魔王の意志によるものなのだから、それを止めることができるのも魔王だけだ。
 でも、それを救いと思うほど、世界は病んでいるのだ。

 フランシアの国王陛下が魔族と結ぶことを宣言されたのは、大シマロンに反乱が起こる直前だった。まるで大シマロンが滅ぶことを予期したかのように、陛下は決断されたのだ。
 しかし当初の私達の混乱は、それはもうひどいものだった。
 アシュラムよりずっと自然も豊かに残っているはずなのに、一体フランシア国王陛下はどうなされたのだろうとか、自分達はどうすればいいのだろうとか、私達はおろおろおろおろ右往左往をひたすら繰り返していた。そして、フランシアに事の次第を質すこともできず、神官は呪いと破滅を叫ぶばかりで道を示すこともなく、当代大公様を始め、国を預かる人々は自ら何の結論も出せず、気がついたら私達の国の自然はもはや抜き差しならぬ事態にまで追い込まれていた。
 そこまできてようやく。私達は決断したのだ。

「……エヴァ、フランシアに行ってくれるか?」
 当代大公であるお父上にそう問われて、姫様はほんのわずか逡巡してから頷かれた。以前は頻繁に行き来していた国に行けと言われて姫様が躊躇われたのは他でもない、お父上の、いや、今この、国の重鎮達が集う広間に漂う緊張感がただ事ではないからだ。
「はい、父上様。それで……あの……私は何をいたせばよろしいのでしょうか」
「フランシアでな、今度……天下一舞踏会が開催されるのだ。それにお前とアシュリーのランとで参加してもらいたい。アシュリーには既に承諾を得ている。……お前は舞踏が得意だろう? ぜひ優勝を狙ってもらいたいものだな」
 ことさら軽さを装われたお言葉に、姫様はもちろん、私も、それから姫様のすぐ後ろに私と一緒に控えていた母も、きょとんと目を瞠った。
 国が、大陸が、こんなにも混乱しているこの時代に……天下一舞踏会……?
「あ、あの……お父上様」姫様がおずおずと申し上げる。「天下一舞踏会というのは確か……」
「おお、かつて大陸各国持ち回りで開催されていた、世界一の舞踏の名手を決めるあの大会だよ。以前は年に1回開催されていたはずだが、ここしばらくは各国もそれどころではなかったからの。存在も忘れておったくらいだが、今回フランシアが主催で久しぶりに開催されることになってのう」
「そ、それは……」
「フランシアやカヴァルゲート、それに沿岸貿易で興隆が著しい都市国家など、国が安定してきた国家が、また舞踏会を開こうと話を決めたらしいな。……大シマロンもなくなって、もう侵略される恐れもなくなったということだろう。それに……自然の状態も、そのような国ではかなり改善されてきたようだしの。つまり……」
「……魔族と結んだ国、ということでございますか?」
 わずかに躊躇ってから、大公様は頷かれた。
「それでの、エヴァ……」
 そうお声を掛けたきり、大公様は口を噤まれてしまった。
「つまり……お父上様」
 何も言えない父上様に代わって、姫様がお言葉をお続けになられた。
「我が国も……魔族と結ぶことになったのでございますね……?」
 ひゅっと息を呑む音。私のすぐ隣に控える母だ。
「まだ決まったわけではない。ただ……このままではいくらフランシアが援けてくれようと、我が国の滅亡はただわずかに先延ばしにされるだけだ。神殿は、我が国の民の魂や大地が汚されると言うが、しかし……」
 苦しげに息を吸い込んでから、大公様が続けられた。
「だがの、エヴァ。小心と嗤われるかもしれんが、私はまだ決断しきれずにおるのだ。まして……眞魔国を訪れ、かの国に直接友好と援助を願うなど……。それでの、これは実はフランシアの国王陛下が仰せ下さったのだが、その舞踏会に魔族が、それもかなり高位の、魔王に近しい者がやってくるらしい。それでお前とランとで、その魔族を観察して、高位の魔族というものがどういうものなのか、話ができる相手なのか、見極めてきて欲しいのだよ。お前もランもしっかり者だ。それにお前の側にはフィータ家の者もいる。私はお前達の判断を信じようと思う。………済まん、エヴァ」
 そこまで仰せになって、大公様が頭を下げられた。
「お前に恐ろしい思いをさせることになるやもしれん。だが……私はユージンに、人も大地も荒れ果てた国を譲ることだけはしたくない……」
 ユージン様。我が国のお世継ぎである公子様。まだ12歳におなりになったばかりの……。
「分かりました、お父様。私、フランシアに参ります!」
 お覚悟を決められた姫様が、頭を誇らしく上げて仰せになられた。

 決まった以上はと、母は力強く準備を開始した。でも母の心は恐怖と不安に慄いている。娘の私には手に取るように分かる。
 そして。
「乳母や、アグネス……あのね、無理をしなくていいのよ。もしも……」
「よもや姫様、私共をお連れにならないと仰せではございませんでしょうね。私もアグネスも、もちろん姫様のお供をさせて頂きますとも! 姫様をお1人になど、決して致しません!」
 そうよね? アグネス、と、母が厳しい目を私に向けてくる。母は見かけはふくよかでおっとりして見えるけれど、これで結構気の強い人だ。もちろんそんな母の娘として、私も弱虫ではないし、卑怯者でもない。
 私は姫様に向かい、きっぱり頷いて「もちろん、私もご一緒させて頂きます」と申し上げた。
「乳母や……アグネス……」
 ありがとう。
 小さな声でそう仰せになった姫様は、泣きそうなお顔で微笑まれた。
「本当はね、とっても心細かったの。……嬉しいわ」
「姫様……」
 3人で手を取り合い、頷きあったその時、部屋の扉の向こうから女官の声がした。

 入室してこられたのは、アシュリー伯家のラン様だった。もうお1人の同行者。
「準備はどう?」
 ラン様のお言葉に、母が「もう間もなく完了いたします」と答えた。
「若君様のご準備は終わられましたか?」
 母に逆に質問されて、ラン様は、でもすぐにお答えにならなかった。
 わずかに眉を顰められたかと思うと、ラン様は苦笑を浮かべられた。
「……ここには僕達4人しかいないのだし、止めてくれないかな、そういうの……母さ……」
「若様!」
 ラン様のお言葉を厳しく遮って母がキッと視線を上げた。
「そのようなこと、2度とお口になさってはならないと申し上げたはずでございます! あなた様はアシュリー伯家の跡継ぎの若様。まだご自覚なされませぬか!?」
 最後はお説教になってしまった母に、ラン様がそっと苦笑を深め、援軍を求めるように私に視線を向けた。
 私は何も言わず、ただ小さく頭を下げた。

 ラン様は、アシュリー家の当代ご当主様が女中に産ませたいわゆる庶子だ。
 ラン様を産んだ女性はアシュリーの奥方様に館をたたき出されてしまい、生まれたお子をご当代様は実子とお認めにはならなかった。かといって紛れもない我が子を貧しい女中に手に任せることもできず、結局お子、ラン様は巡り巡って我が家に引き取られることとなった。
 そのままなら、ラン様は、下級貴族であり、また代々法術師を良く輩出したフィータ家の長男として跡を継ぎ、それなりの役職に就いて公家にお仕えしただろう。
 しかし、そうはならなかった。
 アシュリー家の奥方様と御嫡子が乗った馬車が事故にあい、お気の毒ながらお2人とも亡くなってしまわれたのだ。
 結果、ラン・フィータは、実のお父上に乞われて本来の身分に戻ることとなった。そして、大公家の一族であるアシュリー伯家の跡継ぎ、ラン・ウェスランド・アシュリー様となられたのだ。
 それが3年前のこと。ラン様は17歳、私が15歳の頃だった。



 フランシアは、かつてに比べれば少なくなってはいたものの、アシュラムと比べれば遥かに自然が豊かに残っていた。
 魔族とかなり早くから結んだこともあり、もしかしたらとんでもなく変わってしまったのではないかと怖れていたのだが、その美しさも穏やかさも人々ののどかな雰囲気も全く変わっていなかった。
 魔族と友好を結び、その力を注がれて汚された、という感じはない。
 そして王宮でお会いしたフランシア国王アントワーヌ様、そして王妃ライラ様も、以前お会いした時と全くお変りになっていなかった。
 アントワーヌ陛下の穏やかで優しい笑顔、ライラ様の凛とした眼差し。
 特に、ライラ様は姫様と私の憧れの女性だ。
 一体どうなっておしまいだろうと不安で仕方がなかったライラ様は、やっぱり私達が覚えている通りのライラ様だった。私達はそれが嬉しくて、ホッと胸を撫で下ろしたのだが……。


「大切な友人。そのように王妃様が仰せになったのでございますね?」
 母に確認されて、姫様と私は同時に頷いた。
「そうよ、ライラ様ははっきりとそう仰せになったわ」
「魂を魔族に汚され、操られているということは……」
「そのような印象は全く感じられなかったわ。以前の通りお優しくて、それでいて凛々しくて。アグネスはどう?」
「姫様の仰せの通りです。……母様、私もこのフランシアの方々が、魔族に心を狂わされているようには思えなかったわ」
 私の言葉に、母が考え深げにため息をついた。

 少し風に当りたい、という姫様のご希望で、私達は連れ立って外に出た。緑が滴る山道を、馬に乗ってゆっくりと進む。
 アシュラムは山国ということもあって、山道坂道が多い。なので馬車が使い辛く、馬に乗って出歩くことの方が多い。必然的に、馬を操ることが得意になる。もちろん女性もだ。そして姫様は元々馬に乗るのがお好きな質で、私達は当然の様に乗馬服を用意していた。
 そうして3人、馬を操りながら、先ほどの面談、というか、ライラ様やフランシア貴族の女性達とのご挨拶を兼ねたお茶会でのことを話していた。母は荷物の整理などであてがわれた部屋に残り、あの時の様子を知らない。だから、魔族のことで嗤われたことはボカして、ライラ様のお言葉だけを伝えたのだが……。

「……確かに、この地の空気は澄んでいるように感じられますが……」
 母の言葉に応えるように、小鳥がチチッと軽やかに鳴いて枝を渡っていく。
「私はフィータの血を引く者ではありますが、結局法術を身につけることはできませんでした。それはアグネスも同じ。……さて、どう判断すれば良いものやら……」
「でも乳母や、あなたやアグネスには他の人より鋭い直感と、誰もが認める人を見る目があるわ。自分の感覚を信じれば良いのではないかしら?」
「姫様……」
「私はそのような力は全くないけれど、でも、ライラ様のお言葉を信じてみようかと思うの」
「姫様…!」
「ねえ、アグネス? ライラ様は、フランシアが眞魔国と結ぶ前にお会いした時と、少しも変わっておられなかったわよね? あなたはそう感じたでしょう?」
「はい、姫様。ライラ様は、私達がずっと憧れてまいりましたままのライラ様でしたわ」
「だったら……それに賭けてみようかと思うの」

 姫様の金糸のような御髪が風になびく。さらさらと音まで聞こえそうな軽やかさだ。縮れた赤毛の私とは全く違う。
 私の大好きな姫様。
 人目を惹く派手な美しさとは違う、お育ちとお人柄の良さが滲み出た、上品な美しさを備えた姫様。
 同じ母の乳で育った、同い年の……妹のような姫様。
 私と、あの当時兄様と呼んでいたラン様と、そして姫様と。家族のように、本当の血の繋がった兄妹の様に、いつも一緒にころころと遊びまわっていた。
 母の焼いたお菓子の匂いがする懐かしい日々……。
 姫様は一見、淑やかで大人しげな方だが、決して弱い方ではない。本当はとても意志のお強い方だ。
 見た目では分からない姫様のそんな強さが、私は大好きなのだ。

「姫様がそうお決めになられたのでしたら、私もそのつもりでまいります。ね? 母様?」
 また母が小さくため息をついた。
 法術師の家系に生まれ、信心深い母にとって、魔族は忌避すべき存在だ。私も母と同じように法術師としての能力には恵まれなかったけれど、魔族に対しての考え方は同じだ。魔族は魔物。
 ただ、姫様がライラ様を信じるとお決めになるなら、私が出来ることはただ1つ。姫様を命にかえてお護りしながら、その意志に沿うこと。それだけだ。

「……あ、ら……」
 母が急に妙な声を上げた。
「姫様、これはいけませんわ。話に夢中になってついこのような場所にまで……」
「場所って……?」
 見回せばここは……山の中。
 アシュラムならどこにでもある当たり前にある風景だけれど。
「周辺の荒れた国々から多くの流人が山に潜り込んで、無体を働いていると王宮の方に伺っております。大陸でもこの辺りではフランシアが最も豊かさを保っておりますし……。山に向かう街道に、備えもせずに向かってはならないと注意されておりましたのに……。うっかりアシュラムに居るような気になって油断しておりました。姫様、戻りましょう。万一不逞の輩にでも出会いましたら……」

「期待されちゃあ、登場しないわけにはいかねえよなあ」

 いきなり。
 野太く割れた声がした。ハッと振り返った先に、古びた剣を手にした大きな男が立っていた。黒々と陽に焼けた顔。荒んだ眼差し。粗末な荒布を何枚も身体に巻きつけ、まるで獣のように舌なめずりするその姿……。
 ザザッと不吉な音がして、再び振り返ると、そこに似たような男達が4、5人、手に山刀や斧を手に立っていた。
 さらに音がして振り返ると、先ほどの男の側に、さらに男の数が増えている。総勢……考えたくない……。
 散歩気分で、ラン様に何も告げずにやってきたのは失敗だった。

「そこをお退きなさい!」

 母が怒鳴りつける。空気がピンと震える。しかしそれは、獣のような男達の野卑な笑みを深めさせただけだった。

「良い女じゃねえか、なあ、兄弟。そこの金髪は味見のし甲斐がありそうだぜ。もう1人の赤毛もなあ。……婆はどうでもいいがよ」
 ぎゃははと下品な笑いが湧く。
「婆とは何です!」
 母様、突っ込むのはそっちじゃないから。思いながら、私はそっとマントの内側を探った。すぐに硬い感触が指に当った。
「あなた達」母に代わって呼びかける。「もう一度申します。そこを退いて私達を通しなさい」
「……気の強い女だなぁ」
 最初に出てきた男が、含み笑いを見せた。わざとらしくて下品な笑いだ。
「俺ぁ、結構好みだぜ? おめぇみてぇな赤毛がよ。可愛がってやるから、怪我しねえうちに馬から下りてきな」
 男達がゆっくりと私達を取り囲んでくる。
「………ア、アグネス……乳母や……」
 姫様が馬を寄せてきた。私はその姫様の耳元にそっと顔を近づけた。
「姫様、ちょっと目を瞑っていて下さいませ」
 心得た姫様がすぐにぎゅっと目を瞑る。
 私はすぐに懐からそれを取り出した。
 私の護り石。青い、法石。
 私はそれを掌に乗せ、高く掲げた。
「『世の始まりの光よ! 我が祈りを……』あっ!」
 真言を唱え始めた瞬間だった。いきなり手首に衝撃を感じたのだ。法石が、拳大の石(おそらく私の手首に投げ付けられたものだろう)と一緒に落ちて転がっていく。
「法術師かよ。危なかったぜ」
「なあに、呪文を唱えなくちゃ術が使えないんじゃ大したことぁねえよ。……よぉ女、俺達が呪文を唱え終わるまでのんびり聞いてると思ってたのかよ。そいつはちょいと人をバカにしすぎじゃねえか?」
「……呪文じゃなくて真言よ……」
 言い返しながら、私は冷や汗が背中を流れるのを感じていた。
 ど、どうしよう……。
 私は法石と真言の助けがないと何もできない。母様には直感力以外に何もない。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう……。
 ああでも! 姫様だけでもお助けせねば!

 男達の輪が縮まった。
「こいつぁ良い馬だぜ。女だけじゃねえ、馬まで良いのが手に入った。今日はついてるぜ」
「全くだあ。でもよお、婆はどうするんだ? いくら俺様でもこれぁいらねえなあ」
 俺もだという声。ゲハゲハともガハガハとも聞こえる下品な嗤いがいくつも重なる。それを耳にするだけで身体が穢れていくようだ。ゾッとする。
「ほれ、お嬢ちゃん、お馬から下りてきな。俺が代わりに馬になってやるからよ」
「ばーか、お嬢ちゃんに馬になってもらうんじゃねえか」
 ぎゃははと嗤いが一気に高まった。
「無礼なっ! それ以上近寄るでないっ!」
「近寄るでない! だとよ」
「育ちが悪いもんでねえ、無礼はどうぞお許しを。このくそ婆っ!」
「母様!」
「乳母やっ!」
 男の猿臀が母の握る手綱に伸び、母を荒々しく引き摺り下ろそうとする。
 思わず母の側に馬を寄せようとした私も、男達の手に阻まれてしまった。きゃあっという悲鳴にハッと振り返れば、男達のいくつもの手が姫様のドレスをわし掴んでいる。
「姫様っ!」
 ああ、誰かっ!!

 その時。
「…おいっ!」
 男達が動きを止めた。私達もハッと顔を上げた。
 街道の先から聞こえてくる、紛れもない馬蹄の響き。
 視線の先には……ああ、1頭の馬が私達に向かって駆けて来る!
 馬上には……若い男性。その人が馬を走らせたまま剣を抜いた。
「ちっ!」忌々しげに男が舌を打つ。「若造が1人きりじゃねえか。構やしねえ、囲んで殺っちまえ!」
 おうっ、と応えて、男達が一斉に得物を構えた。
 馬に乗った男性は無言のまま、一直線にこちらに向かってくる。
 近づけば否応なしに馬の速度は落ちるだろう。その機を捉えようと男達が向かっていく。
 だが男性が操る馬は全く速度を落とさなかった。そのまま突っ込むように、男達の中に飛び込んで、そして……。
 剣が、光を反射して眩しく煌いた。
 一瞬目を閉じ、それから風が吹く様に身近に感じた気配に目を開けると。
 男性を乗せた馬が、すぐ傍らにいた。
 え、と振り返ると、10人近い数の男達が、腕を抱えるようにして地べたに転がり、ある者は悲鳴を上げ、ある者は泣き喚いている。
 私が目を閉じたのは、ほんの一瞬のこと、だったはずなのに……。
 男性がふっと顔を巡らせた。
 一瞬だけ、私の目と男性の目が合う。

 ……何という……美しい、瞳。

 銀色の星。
 何と清冽な煌き……!

 男性がさっと手綱を翻した。
 馬が即座に呼応して、大地を蹴る。その先には、残った頭らしい男と、まだ数人。
「わっ、わわわっ、な、何だてめぇっ! 何モンだ!?」
 叫ぶと同時に、男達が無様に身を返し、転がるように逃げ出した。馬がそれを追う。
 すぐに追いついた馬は、男達をひらりと飛び越えた。
 男たちと馬が、馬に乗った男性が向かい合う。と、男性の剣が再び閃いた。
 今度ははっきりと見た。
 その剣が瞬く間に、男達の得物を握る手首、おそらくは腱を突き、切り裂いていくのを。
 ぐぎゃあ、と獣じみた悲鳴を上げて男達が地に伏す。
 男性は、よほど剣に自信があるのか、男達の傷を確かめることもなく、さっと剣を振り、鞘に戻した。

 ……若い人だ。どう見ても、ラン様と同じ20歳くらい、せいぜい1、2歳上? だろうか?
 この若さで、この剣の冴え。10人以上もの山賊達を相手に怯まない雄々しさ。見た目は、逞しいと言うよりはむしろほっそりとしておられる程なのに……。
 薄茶色の髪、同じ茶色の瞳。何て不思議な、何て……美しい瞳だろう。  それに……それに。

「何て……凛々しい方……」

 ドキッとした。ついうっかりと心の声が口から飛び出てしまったのかと思って。でも違った。
 ハッとして傍らに目を向けた。姫様が、頬をマーノリアの花の様に紅に染めて、唇を震わせておいでだった。
 ……初めて見る。姫様のこんな表情。

「女性が3名で、それもそのような軽装で危険な街道を行かれるのは、無謀が過ぎると思いますね」

 胸が震えた……。
 何て……。

「胸に響く……良いお声……」
「………姫様……」
 あなた、私の心を読んでおいでになるのですか? 思わずそう問い掛けてみたくなるものの、私が隣に居ることもすっかり忘れているような姫様の横顔を見ると、ため息しか出てこなくなる。

「あなたの仰るとおりです。うかつでした。恥ずかしく思っております」
 母が重々しく答える。
「まさか、これから街道を進まれるおつもりでしたか?」
 言いながら、男性が馬を下りた。そして括りつけてある荷物を探り、間もなく束にした紐のような物を取り出した。
「いいえ。ほんの散歩のつもりだったのです。山道を行くのは私達にはあまりにも日常のことで、うっかり他国であることを失念していました。本当に……うかつでした」
「他国と仰ると?」
「私達はアシュラム公領の者です」
 歩きながら、男性が「ああ、なるほど」と頷いた。
「アシュラムの方なら、女性でも当たり前に馬をお遣いになりますね。山道に慣れておられるのも分かります」
「アシュラムをご存知ですか? ……あの、何をなさろうとしておいでなの?」
「この者達を放っておくことはできません。といって、これだけの数を引きずって行くこともできませんので、縛っておいて、後ほどフランシアの警吏に捕えてもらおうと思います」
「ああ……確かに仰るとおりだわ。……アグネス」
 母が私に顔を向け、頷いた。それに頷き返して、私は馬を下りた。
「……あの、お手伝いいたします」
 駆け寄って声を掛けると、男性がふと顔をこちらに向けた。

 ………本当に……何て整ったお顔立ちなのだろう。
 全身から気品と、そして、研ぎ上げた剣の鋭さと厳しさ、それから激しさ……のようなもの感じる。この方は単なる剣士ではないだろう。おそらくは……一国の軍で、軍人として生きてきた人だ。それも、一兵卒などではあり得ない。

「………そうですね、手早くした方が良いだろうから……お手伝い願えますか?」
「はい!」
 頷くと、にこっと笑いかけられた。
 胸が……高鳴る。何て何て優しい笑顔……! ……ああもう私ったら、さっきからおかしいわ!

 いまだに地面を転がって呻く男達に向かう途中、「おや?」と男性が声を上げ、地面から何かを拾い上げた。
「……これは……法石……?」
 男性の手の中に、青い石。
「そっ、それ!」思わず1歩前に踏み出す。「私のです! 先ほど落とされてしまって……!」
 男性が意外そうな表情で振り返った。
「あなたの? あなたは法術師なのですか?」
「いいえ!」
 咄嗟に答えると、男性の怪訝な表情がさらに深まる。
「あの……私の家は昔から、法術の才能を持つ者が多く生まれてきたのです。アシュラムでは法術師や神官を輩出する家として、少々名が通っております。祖父も神官でした。私も修行したのですが、残念ながら法術師にはなれませんでした。真言を唱えることで、何とかその……法石から目くらましの光を生み出すことが精一杯で……」
「ああ、ではそれを使ってあの場を逃れようとなさったのですね?」
「はい。ですが、真言を唱えている途中で石を弾かれてしまって……。恥ずかしいです……」
 とんでもない。男性が穏やかに微笑みながら首を振った。
「真言を唱えるには、少なからぬ集中力を必要とするはずです。あの様なならず者を相手に、あなたの様な令嬢が怯まずにいるだけでも大した勇気だと思いますよ?」
 はい、お返しします。
 にっこりと笑みを浮かべて、男性が法石を返してくれた。
 心臓が……左右上下、胸の中を跳ね回って苦しくて仕方がない。

「このような頑丈な紐、よくお持ちでいらっしゃいましたのね?」
「昔からよく旅をしましたので、こういった物の用意だけは怠りないようにしています」
 喋っている間も、手は迷うことなく男達を纏めていく。
 呻き、喚き、悪態をつく男達。だが男性が彼等の首筋を軽く(あくまで見た目では)打つと、男達はたちまち気を失ってしまった。本当に腕の立つ人だ。……同年代でこれほどの方がおいでになるのだから、ラン様にももうちょっと修行してもらわなくては……。

 私が手伝う間もなく、手早く手際よく、男性は男達を後ろ手に、1つにまとめて縛り上げていく。4、5人ずつ、3つの山賊の塊が瞬く間にできていった。

 仕事を終えて母達が待つ場所に戻ると、姫様がさっと馬を前に進めてこられた。
「あ、あの……っ!」
「姫様!」
 ビンッとした声で、母がそれを遮った。
「乳母や……」
「姫様はどうぞそのままで」
 そう言うと、母は姫様の姿を隠すように自分の馬を進ませ、男性の前に来たところで馬を下りた。
 母が胸を張り、威厳を湛えて男性の前に立つ。

「主に代わりまして、御礼申します。危ないところ、真にありがとうございました」
 男性は柔らかく微笑むと、軽く頭を下げた。
「当然のことをしたまでです。ご主君には何とぞお気に留められませぬようお伝え下さい」
 姫様の耳に届いていることを承知の上で、男性は母にそう告げた。顔も視線も母から動かさず、その場にいるのは母と私だけという態度を通している。下から姫様を見上げるような無作法は全くない。未婚の、高貴な姫君に対する礼儀をちゃんと弁えているのだ。その態度は無理がなく、とても自然だ。
 この男性は、付け焼刃ではない宮廷作法を身につけている。
 母がざっと視線を男性の全身に走らせ、それから大きく頷いた。
 法力は全くないが、人を見る目は私よりよほど確かな母の表情がふっと緩む。
 母のお眼鏡に叶った、ということだ。
「ついつい話し込んでしまい、このような仕儀となりました。あなたがお出でにならなければと思うと、身の毛もよだつ心地が致します。どれほど感謝してもし足りません。ですがとりあえず、都に戻らねばなりますまい。申し訳ないのですが、都までご一緒願えますでしょうか?」
 万一ということもありますので。そう母が言うと、男性が「分かりました。お供いたしましょう」と頷いてくれた。
 母の後ろ、馬上の姫様がぱあっと顔を輝かせておいでになる。
「このおぞましい山賊共を、一刻も早く捕えてもらわねばなりません。本当に何たることでしょう……」
 ため息をついて、母が男性を見上げた。
「命を奪うことはなさらなかったのですね?」
 確認するように問い掛ける母に、男性が頷いた。
「たとえ賊であろうと、闇雲に命を奪ってよいものではないでしょう。それにここはフランシアの地。フランシアの法を犯す者は、フランシアの法によって裁かれるべきです」
「まったく、あなたの仰る通りです」
 母が嬉しそうに笑みを浮かべて大きく頷いた。神官の娘として生まれたからか、母は混乱する大陸の情勢の中で、何より『法』が蔑ろにされることを常々憂慮している。
 ではまいりましょうと、私達が馬に乗ろうとした時だった。
 男性の動きが不意に止まった。
「……馬ですね。こちらに向かってきます」
 ドキリと胸がなる。まさか山賊が、と思いながら都の方向に目を向けていると、確かに1頭の馬がこちらに向かって全速力で駆けてきた。
「……あれは……!」
 見る見る馬が近づいてくる。それと同時に、乗り手の顔もはっきり見えてくる。
「あれは……ランだわ…!」
 馬上の姫様が声を上げ、背を伸ばして手を振られた。
 確かにあれはラン様だ。おそらく私達が居ないことに気付いて、探しておられたのだろう。

「姫っ! 母さんっ!」
 ラン様の乗る馬が私達の前で急停止した。
 嘶く馬を宥めながら、ラン様はざっと周囲に目を走らせた。おそらくすぐに何が起きたか理解したのだろう、馬を下りる時のラン様の表情は厳しかった。
「大丈夫なのかっ!? ……こんな街道にどうして3人だけで! 母さん、一体どういうつもりで……!」
「ご子息ですか?」
 柔らかくて深みのある声。……本当に、同年代とは思えないわ。
 ハッとラン様が男性に顔を向けた。表情は厳しいままだ。
「こやつは!」
「御礼を申されませ、ラン様!」
 母の厳しい声が飛ぶ。ラン様がハッと顔を母に戻す。
「ここまで来たところで賊に襲われましたが、ちょうど通り掛ったこの方に助けて頂きました。このような事態に陥りましたことは私の失態です。これについては帰国後大公様に申し上げ、処分を受けるつもりでおります。それはそれとして、私達が怪我もなく無事であったのはこのお方のおかげ。この方は恩人でございます。先ずは、大公家の一員として御礼を申されませ。それから、私はあなた様の母ではございません。お間違えのないように」
 母が一気に言い切る間、ラン様の表情が目まぐるしく変わった。最後に何か言おうと口をパクパクとされたものの、結局一言も言い返さないまま、ラン様は身体ごと男性に向かい合われた。
 ラン様を母の息子と思った男性は、母の言葉に疑問を抱いたかも知れない。だが彼は礼儀正しく、それを問いただそうとはしなかった。

「……失礼した」
 男性が同年代だということと、その質素な身なり(でも決して粗末ではない!)で、ラン様は男性を目下の者と判断したようだ。
「我らが姫への助力、ありがたく思う。都に戻り次第、改めて礼をさせてもらいたいのだが……名を聞かせてもらえるだろうか?」
「名乗るほどの者ではありませんよ」
 苦笑を浮かべると、男性は視線を母に向けた。
「どうやら俺がお供をする必要はなくなったようですね。賊のこともありますし、俺は先に都に向かわせて頂きます。それでは」
 失礼します、と母に一礼し、男性は颯爽と馬に乗った。
「先ほどから思っていたのですが、実に良い馬をお持ちですね」
 母が呼びかける。……聞いて欲しいのはそんなことじゃないのに。
「さすがにアシュラムの方は違いますね。……これは生まれた時から俺がこの手で世話をしてきた馬です。自慢の一つなんですよ」
 にこっと笑いかけられると、もう一度誰にともなく一礼し、男性はさっと手綱を返した。
 そして瞬く間にその場から離れて行ってしまった。

「……今時珍しい、立ち居振る舞いの端正な殿方でしたね。それにあの剣の腕前の見事なこと……!」
 それに引き換え。
 母が眼差しを鋭くしてラン様を見据える。
「母さ、あ……いや……」
 子供の頃、母に散々叱られてきたことを思い出されたのか、ラン様が困ったように視線を泳がせる。
「何とまあ人を見る目のない! それで一国の重鎮となるおつもりか! ……あのお方」
 母の目が、もうすでに誰の姿もない街道の先に向けられる。
「質素に装っておられましたが、かなり身分の高い貴族の若君と見ました。それだけではありません。何よりあの方は姫様の命の恩人。それをまああのように居丈高に。……ラン様! 私、ほとほと情けなく思いましたぞ!」
 ラン様が困ったように顔を歪ませたかと思うと、ちらっと私に視線を向けた。大公家の血を引く者に特有のさらさらとした金髪から覗く目が、何とか言ってくれと訴えてくる。
 それが妙に腹立たしくて、私はぷいっと横を向いた。
 その時。
 ふいに、妙な音が耳を打った。何か……しゃくり上げるような……?

「…ひ、姫様……!?」

 馬上で、姫様が泣いておられた。
 ぽろぽろと涙を零し、それを拭うこともなされないまま、ひくっひくっとしゃくり上げながら、幼子の様に泣き続けておられる。

「…! ひ、ひめ……!」
「…なっ……名前、もっ、教えて、いただけなかった……っ!」
 ひくう、と喉から音が漏れる、かと思った瞬間、姫様がパッと顔を両手で覆い、さらに肩を震わせられた。



 姫様を宥めつつ、都に戻り、宮殿に戻り、お湯を使わせて頂いた後も、姫様のお顔は晴れなかった。
 いや、むしろどんどん思いつめたような表情になってきている。
 おろおろとするラン様は放っておいて、母は無言のまま冷たい果汁やお菓子を用意し、私はただ寄り添うように姫様のお側にいた。
 ソファに腰を沈める姫様の隣に座る。と、姫様が突然、私の腕にすがり付いてきた。
「姫様…?」
「アグネス……」
 私、どうしよう。
 姫様がまるで呻くように、そう呟かれる。
「私、一体どうしてしまったのかしら……。ああ、アグネス、私、胸が……。どうしよう、アグネス」
 姫様がほうっと息をつかれた。
「……あの方のお姿が、あのお声が、あの……微笑が……。こうしていても目の前に浮かんできて……。私……」
 あの方のことを思うと、胸が苦しくてたまらないの……!
 小さく囁くように、でもそれはまるで悲鳴のよう。
 ほ…うっ、と深いため息が別の場所でなされた。母だ。厳しい表情で姫様を見下ろしている。
 母のその目が私に向けられた。母の言いたいことは分かっている。
 姫様は……。

 カランっと、扉の鐘が鳴った。母が慌てて飛んでいく。
 扉が開けられ、母が廊下にいる誰かと言葉を交わしている。その間も、姫様は私に縋りついたまま、胸を押さえ、唇を震わせて、おそらくは身体の中で荒れ狂う思いに耐えておいでだった。

「姫様」
 母が戻ってきた。
「アントワーヌ陛下がお呼びでございます。ご用意なされませ」


 アシュラムの公女として、国の使者として、負う義務は果たさなくてはならない。
 陛下のお呼びとあれば、否応もない。
 私達は、人形の様にされるがままの姫様のドレスを整え、自分達も即座に身なりを整えると、今度は母も一緒に部屋を出た。
 向かったのは、数時間前にお茶会が催された王妃様の客間だ。
 導かれるまま、部屋に入る。
 と。

「ああ、おいでになりましたのね。お待ちしてましたわ、エヴァ様」
 王妃様が席を立ち、にっこり笑ってこちらに向かってこられた。
 部屋の中、ソファの上座には国王アントワーヌ様がにこやかに座っておられる。そしてその向かい側にもう1人……。
「ご紹介したいと思っていた方が、ようやく到着されたのです。さ、こちらにどうぞ。……ウェラー卿」
 呼びかけとほとんど同時に、国王陛下とお話なさっておいでだった方が立ち上がった。
 立ち上がって、そして振り返った。

「……っ!」
「ま、あ……っ」

 私は吸い込んだ息を吐き出すこともままならないまま、呆然と目を瞠ってその人を見ていた。
 そこに立っていたのは紛れもないあの男性。
 私達を山賊から救ってくれた、名も名乗らずに去っていった、そしてそして、今、姫様が……。

「アグネスっ!」
 姫様がぎゅっと私の腕を掴んで、そっと、でも力強く囁かれた。

「これは運命だわ。そうでしょ? これは絶対に運命よ。私は運命の方に出会ったのだわ……!」

 質素な旅姿とは違う、礼服を纏った姿で、その方は私達を認めると、にっこりと笑った。

「あなた方でしたか」
「あら、ご存知なの?」
 ライラ様の質問に、男性が「こちらに来る前に少々」と笑って答える。
「そう、でしたら話は早いかしら。では、私からご紹介させて頂きますね」
 エヴァ様。ライラ様が姫様に呼びかけられる。

「こちらは、ウェラー卿コンラート閣下でいらっしゃいます。眞魔国、前魔王陛下のご次男にして、当代魔王陛下の政務をお輔けなされておられる、眞魔国の重鎮のお1人ですわ」

「先ほどは失礼しました。ウェラー卿コンラートと申します。どうぞお見知りおき下さい」

 にっこりと。
 優しく、穏やかに、上品に、そして惚れ惚れするほど爽やかに。
 その人が、魔族の、男が、微笑んだ……。


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500000HITキリリク、 AOY様から頂きました、「舞踏会をテーマにしたストーリー」の第1話でございます。
フランシア初登場。もう原作設定もマニメ設定もごちゃごちゃです。でもって……またまたオリキャラの説明でほぼ1話使ってしまいましたー……。
それも、ベッタベタの少女マンガ的展開、もしくは、王道時代劇……。
山賊の、かなりアブない、拙宅としてはほとんどあり得ないセリフを書いた時は、気持ち悪くてドキドキしました(笑)。

前作で、魔族と人間との関りについてかなり書きましたので、今度は眞魔国内で軽やかなお話を、と思っていたはずなのですが……こうなっちゃいました。
「舞踏会、舞踏会、舞踏会……そういや、外伝で天下一舞踏会ってのがあって、コンラッドが優勝してたよな〜」とふと思い出した瞬間、一気にこのストーリーが頭に浮かんでまいりまして。
天下一舞踏会の実態につきましては、もちろん捏造設定でございます。
オリキャラの説明をするのが楽しくて、どんどん指が動くというのはどうなんだろうとふと考えます。やれやれ。

すっかり「運命の出会い」を信じてしまったお姫様は、これからどうするのか。
肝心の舞踏会はいつ出てくるのか。
そして我らの坊ちゃんは……次回、こそっと(?)登場の予定です。

とにかく頑張ります。ご感想、お待ち致しております。