夕焼け空 |
…………そうか。 そういうことだったのか……。 彼はしばし呆然としてから、深く深く息を吐き出した。それこそ体内の空気という空気を絞り出すみたいに。 まさか。 こんな光景を目にすることになろうとは。 夢にも思わなかった。 というか。 何てことだ。今目にしてしまった光景に、自分はこれほどまでにショックを受けている。 「………あの……お役人様……?」 ハッと見ると、村長だと名乗った初老の人物が、腰を屈めつつ上目遣いで自分を見上げるという、かなり苦しい体勢で自分を見ていた。 「あ、いえ」苦労して笑みを浮かべる。「何でもありません。自然の美しい素晴らしい村だと、見惚れていました」 村長が嬉しそうに笑って頭を下げた。 村の集会場は、世話役始め村の主だった人々が集まっていた。 村長に案内されるままに彼がその場に入っていくと、部屋を慎ましく満たしていた音がぴたりと止む。そして、一斉にその視線が彼に向けられた。 「皆、報せにも書いておいたが、今日、王都からお役人様がご到着なされた。こちらのお方だ。あの……」 自分が紹介すべきか、それとも自己紹介してくれるのか、分からずに自分を見上げてくる村長に頷き返して、彼は村人達の前に立った。 「皆さん、こんにちは。魔王陛下のご命令により、本日王都よりこちらに参りました。私は、行政諮問委員を務めております……」 彼は世話役の席に座る、でかい身体を窮屈そうに縮めた男に、そっと目を向けた。 「……スズミヤ・トール、と申します」 霞ヶ関から眞魔国へ。 もう何度目かの出張に、彼、凉宮透は気分も軽やかに血盟城へとやってきた。そこで、突如これまでにない新たな仕事を依頼されたのだ。 「……ロシュフォール領の村に、ですか?」 そうなんだ、と笑って仰せになるのは魔王陛下。 日本人渋谷有利である時と目鼻立ちは同じはずなのに、この世界においては内面の輝きが隠されることなく現れるためか、文字通り人を超越した、だが本人は全く無自覚の、絶世の美貌を有する王である。その王は、己の容姿が何を齎すか全く無頓着のまま、全開の笑顔を透に向けた。 話はこうだ。 眞魔国全土の道路を拡張整備すると同時に、上下水道を全国津々浦々まで完璧に設置するための大工事が、数年来ずっと続いている。時間が掛かるのは当然だろう。元大シマロン、今新連邦には及ばないとはいえ、眞魔国はこの世界で第2位の広大な国土を誇っているのだ。そもそもこの世界そのものが、地球の総面積の1.8倍(誰がどう計算したのか透は知らない)の大きさだという。その世界において、第2位の面積を持つ眞魔国の全国津々浦々まで行う工事となれば、一体どれだけの時間が掛かるのか知れたものではない。 その工事がこれから行われる、もしくは現在行われている土地をランダムに選び、工事の現状などについて抜き打ち的に調査することが先日決定したのだという。長い期間に渡る大工事、そういうチェックがしばしば行われることも必要なのだろう。そして、行政に関る官僚の中でもトップに位置する諮問委員も、すでに様々な土地に赴いて視察を行っているのだと聞かされた。 その中の1箇所に透にも赴いて欲しい、ということなのだ。 場所は、ロシュフォール領でもかなり辺境の山奥の村だという。 ちょうどいい、と透は思った。 地球、そして日本を基本モデルとした有利の施策が、この国、そしてこの世界にどのような影響を与えているのか。それが良い影響なのかどうなのか、きちんと精査したいと常々考えていたのだ。地方を見て回れるとなれば願ってもない話だ。 どうしてその村を自分が担当することになったのか、という詳しい理由は気にも留めず、というか、別に考える必要性も感じないまま、透は二つ返事でそれを了承した。 妙だと思ったのは、昔なじみ、いや、透の魂の前の持ち主にとっての昔なじみに会った時だった。 「ロシュフォールに行くんだろぉ?」 そいつは、準備のために部屋に向かう透を捕まえると、にやっと笑って言った。 「まあ……よろしくな」 何に? 問い返す透に、そいつはただいつも通り人の悪い笑みを浮かべただけだった。 そして次に。 やっぱり透の魂の前の持ち主にとって敬愛する元上官と話した時。 「これから出発するのか?」 「はい。行きと帰りに使う道を変えて、地方の状況をなるべく詳しく観察してきたいと思ってます」 「そうか、気をつけて行ってきてくれ。……それで……」 「はい?」 「その……よろしく伝えてくれ」 「……誰に、ですか……?」 いや、とあからさまに誤魔化すと、元上官はぽんと透の肩を叩き、これ以上ないというほど人の良い、爽やかな笑みを透に投げ掛けてきた。 ………元上官がその笑顔ほど「白」くはないことを、透はとっくに知っている。 どこでもない、この村に来なくてはならなかった理由を透が知ったのは、集会時間の少し前、村長に案内されて村を一回りしていた時だった。 高い山に四方を囲まれたその村は、流れ込む豊かな雪解け水に育まれた緑が目にも心にも優しい土地だ。 村の多くの面積を占める共同牧場。地球のものよりかなり目つきの鋭い羊、牛、それから山羊の群れ。それを囲むように点在するこぢんまりした家々。それぞれの家の広い庭は、花よりも野菜畑になっている方が多いようだ。それから我が物顔で歩き回るこちらの世界版鶏たち。 ………雰囲気的には、スイスの田舎の村って感じだな。ハイジもどっさりいそうな感じ……。 透のスイスのイメージは、せいぜいテレビのトラベル番組かアニメ、後は…カレンダーの写真から得た程度だが、その暮らしぶりもさほど地球と差があるわけではない、らしい。 村人のほとんどが、村を囲む山を利用した羊や山羊の放牧、村外れの土地を利用した野菜や果物の栽培などに従事しているが、生活は自給自足がメインのようだ。経済活動らしいものといえば、せいぜい……。 「村営作業場がありまして。そこで羊肉の加工や山羊の乳のチーズなどを作って出荷しております。とは申しましても、こんな村のことですので大規模な商売には至っておりませんが……」 と、村長が照れくさげに言っていた。 村の外れには、1年中ほとんどその豊かな水量を変えない大きな川がある。 これを利用して上下水道と、その関連施設を作ることができれば、作業場などの仕事もさらにレベルを上げることができるかもしれない。製品をブランド化できればもっと良い。化学工場を作るわけではないし、汚水処理をきちんとできれば自然を傷つけることもないだろう。むしろ垂れ流し状態の今よりは、衛生面での状況はずっと良くなるはずだ……。 そんなことをつらつら思いながら、透と村長はある1軒の家の前にやってきた。 これまで見てきた家と、ほんのわずか雰囲気が違う。窓が大きく、何かを陳列しているらしい内部がかなりはっきり見えた。玄関の軒先にはどこか少女趣味な看板がぶら下がっている。 『オーギュのパンとケーキの店』 ああ、ケーキ屋か。 最初はそう思っただけだった。 「この村では、パンやケーキを自分の家では作らないのですか?」 街ならまだしも、田舎では自家製が普通だろう。 もちろん作らないわけではありませんが。村長が笑って答える。 「ここの店主、オーギュと申しまして、村の世話役の一人なんですが、彼が作るパンや菓子が実に美味いんですよ。村のかみさん連中がどう頑張ってもオーギュの腕にはかなわんのです。パンもケーキも絶品ですよ」 へえ、と感心した。 オーギュというからには男性だろう。そう言えば地球の菓子職人も男性が多い。洋菓子の本場のフランスなど、医者と同じくらい社会的地位の高いこの職業はほとんどが男性(パティシエ)で女性の職人(パティシエール)はほとんどいないと聞いたことがある。それを思えばこの世界のケーキ職人が男性でも、ちっともおかしく……。 「……………げ」 みてはならないものをみた。 思わずひらがなで考えてしまった。 綺麗に磨かれた透明なガラス窓に思わず腹を立てたくなるほど、恐ろしいものを見てしまった。 男が、ぶっとい手で、ケーキにクリームを塗りつけている。 やがてその作業を終えたのか、男は手にしていた道具を傍らに置くと、今度はぶっとい指でイチゴらしきものを摘まんでケーキの上に並べている。 イチゴを並べ終え、満足いく形になったのか、男が厳つい顔をにっこりと綻ばせた。 眩暈がした。 「………あの……お役人様……?」 村長の声がした。 村の集会場で村人相手に、自分は村を調べに来たのではなく、これから行われる上下水道工事に関る問題、または、要望について調査に来たのだと安心させ(どうもいきなり王都から役人が来たというので、かなり不安を覚えていたらしい)、その日の顔合わせを終えた。 感触的には、上下水道が果たして何であるのか、村人達は今ひとつよく分かっていない気もするのだが……本格的な調査は明日からだ。 昼下がり。 透は村長のお供を断って、一人で村へ出た。行く先は決まっている。あの店だ。 店主のオーギュは、集会が終わってすぐに会場を出て行った。ほとんどそれを追いかける様に、透はその店に向かった。 パンだのケーキだのを買うのは、やっぱり女性がほとんどなんだろう。 だから、店構えも看板も少女趣味なんだろうな。でも……一体誰がデザインしたんだろう。……店主とか? 二の腕に鳥肌が立ったのが分かった。 透は店の扉の前に立ち、2度ばかり深呼吸してから取っ手を握った。 カララ…ン、と、カウベルのような音がする。 一気に溢れてきたのは、香ばしいパンの香り。甘いケーキの香り。砂糖、生クリーム、そして果物の甘酸っぱい香り。 そしてその香りの中に、岩をごつごつ削って人型にしたような、でかい男が立っていた。 似合わない。似合わなすぎる……。 この男に似合うものといえば、とにかく何よりまず酒だ。それも思い切りアルコール度の高い、匂いだけで咽てしまうようなやつ。それから汁の滴る骨付き肉の焼いたのとか、いがらっぽい安物のチーズ。後は、煙草の煙と、猥雑な男共の下品な笑いと、それから……。 喧嘩。 「いらっしゃ……おや? あんた……」 棚に焼き菓子らしきものを並べていた男、店主、が振り返って、訝しそうに目を細めた。 先ほど集会場で目にしたばかりの王都の役人が、なぜ自分の店を訪ねてきたのか。不安はないが、不思議そうではある。当然だろう。 「……こんにちは。えーと……」 何か適当に誤魔化して、と瞬間思考を巡らせてから、透はすぐにその考えを放棄した。そんな必要はない。 「お話をしたいと思ってきました」 かつて、ウェラー卿コンラートの下でその名を馳せていた男。 「鉄腕オーギュ、あなたと」 「そうかい。隊長とヨザックから」 「よろしくと」 「あんた、隊長たちとは親しくしてるのかい?」 「ええまあ。時々飲みに連れて行ってもらったりしてます」 「ベルンのとこだろ?」 「ええ、そうですね」 「へへ。懐かしいな。俺も前の戦争の頃は、しょっちゅうあそこで仲間達と管を巻いてたもんなんだぜ?」 「………昔のこと、覚えてるんですか……?」 「忘れるわきゃねえだろ!? いつの事だと思ってんだよ。まだ30年にもなっちゃいねえだろうが」 ……忘れてるのかと思ったのだ。 もしかしたら、戦時中、自分の知らない戦闘で頭でも打って記憶喪失になったとか、でなければ、ちょっとばかり脳の回線がズレたとか……。 店のカウンターの傍に小さなテーブルと椅子をセットして透を座らせると、オーギュがお茶を運んでくる。女房がちょっと出てるもんでな、と言いながら、ポットからお茶をこぽこぽとカップに注いでくれた。カップと並んだ白い皿には、可愛く畳んだ紙ナプキンが敷かれ、「俺が焼いたんだ」というクッキーが数枚並んでいる。 ………きちんと並べられたクッキーを見ていたら。なぜだろう。目頭が熱くなってきた……。 あれはまだ戦争が激化する前のこと、だっただろうか。 自分、いや、カール達が「便利屋部隊」などと呼ばれることもなかった頃。 「新兵だあ!?」 詰めていた砦の食堂兼作戦会議室で、彼が酒壷に口をつけ、直に酒を喉に流し込んでいたあの夜。 王都から新兵が到着した、という報せに、彼は手の甲でぐいっと口を拭うと「けっ」と笑った。 「こないだの奴らは揃いも揃ってすぐにおっちんじまったじゃねえか。ったく、俺達の部隊に役立たずばっかり送ってきやがって。ろくでもないヤツらだったら、戦いが始まる前に俺が片付けてやらぁ」 「バカやろう、カール。役立たずだって盾くらいにはなるんだぜ? 戦闘が始まったら、一番前に並べちまえばいいのさ」 それもそうだ、と笑い合う。どいつもこいつも、可愛げなんか欠片もない荒くれ者ばかりだった。 カールの、それでも掛け替えのない仲間達。 やってきたのは、思わずカールが「ちっ」と舌打ちしてしまうような連中だった。一目見たら分かる、どいつもこいつも苦しくなった生活から逃れるため、仕方なく軍に転がり込んだ食い詰め野郎共。 敬礼もまともにできない志願兵達だ。 おそらくその中でも最低レベルのを揃え、カール達、ほとんどが混血でできた部隊に送り出した、いや、放り出したに違いない。 精一杯の威嚇を込めてカール達を睨みつけてくる様子からも、ろくでなし揃いだと分かる。 「野良犬共が……」 少なくともカール達は兵学校を卒業している。軍人として正規の訓練を受けてきたのだ。どれだけぱっと見が同じでも、野良犬と一緒にしてもらいたくはない。 扉を開けて、隊長、ウェラー卿コンラートと副官のグリエ・ヨザックが入ってくる。 「俺がこの隊の司令官だ」と自己紹介する隊長に、志願兵達の目つきと態度が一気に変わった。悪い方向に。 後から思えばそれも仕方がないかもしれない。 長身だが、ほっそりとした体つき。上品な顔立ち。一見穏やかに見える眼差し……。 明らかに馬鹿にした表情で、志願兵の一人が「おいおい、俺たちゃこんなのの下で大丈夫なのか?」と聞こえよがしに嘲笑った。 誰が動くより先に、カールが動いた。 気配を感じさせずに相手に近づくのは得意だ。そいつがハッとこちらを向いたのと同時に、カールの拳が唸りを上げて男の顎にヒットした。 吹っ飛ぶ身体。 さして小さくもないその男の身体は、テーブルにぶつかり椅子をなぎ倒し、ごろごろと転がって壁に激突し、止まった。 それきり動かなくなった男にすたすたと近づくと、首根っこをひっ掴まえ、ぶら下げて元の場所へ運ぶ。そしてその場に男をぽんと放り出すと、カールは志願兵達を睨みまわした。 「今度隊長に無礼な口をききやがったら、てめぇら、敵と戦う前にこの俺がぶっ殺してやるから覚悟しやがれ」 顔を引きつらせた男達が、救いを求めるように周囲を見回す。だがカールには絶対の自信があった。ここに今集う仲間達は、今間違いなくカールと同じ目をしてこいつらを睨みつけている。 「カール」 「はい、隊長」 「話の途中だ。戻れ」 「失礼しました!」 敬礼するカールに、声も表情も一切変えずに頷くコンラート。男達の表情に怯えが加わった。 そんな男達を冷笑する思いで見ていたカールの目に、一人の男が映った。 それまで気付かなかったのが不思議なほど大きな身体。荒事で鍛えたのだろう、隆と盛り上がる硬い筋肉。ごつごつとした厳つい顔。ふてぶてしい表情。 睨むカールの視線に気付いたのか、その男が顔を巡らせ、カールを見た。 ふん、と男が鼻で笑った。小さな動きだったが、その手の挑発をカールが見逃すはずがない。 近い内に、こいつにはきっちり思い知らせてやる必要があるだろう。 思い上がった野良犬の鼻っ柱は、なるべく早く叩き潰しておくに越したことはない。 カールはその男の顔を、しっかりと脳裏に刻み付けた。 それが、ハインツホッファー・カールとノイエ・オーギュの出会いだった。 「あんた……そうは見えないが、軍にいたことはあるのかい?」 「ええ、まあ。それなりに……」 「そうかい。……いやさ、『鉄腕』って呼ばれるのも久しぶりだと思ってな」 「有名でしたからね」 「会ったことがあったかな? どこの部隊だったんだ?」 「…え? あ、いや、遠くからあなたの顔を見たくらいで……。部隊は、その……いろいろと……」 ふーん、と気のない相槌が返ってくる。 今、オーギュは透の相手をしながら、新たな仕事に没頭している最中なのだ。透のテーブルのすぐ横に据えた作業代に焼き上げた丸いスポンジケーキを置き、それに淡いピンク色のクリームを塗りつけるという……。ほんのり甘い香りが、透にまで届いた。 「俺を知ってるなら……もちろん、あいつの事も知ってるよな?」 「あいつ?」 「剛腕さ」 しばらくじっとオーギュを見つめて。それから透は「ええ」と頷いた。 「もちろん。知っていますよ」 その日は案外早くやってきた。 新兵がやってきて幾度目かの戦闘、とも呼べない小競り合いが起きた時。 怪我を負った古参の仲間の世話をしているカールの側を通り掛ったオーギュが、「何が兵学校出だ。だらしのねえ」と捨て台詞をぬかしたのだ。 「てめぇ、待ちやがれ」 その言葉をまさしく待っていたかのように、オーギュが振り返った。 「あんなに強い男は初めてだったな」 ピンク色のクリームをきれいに撫で付けながら、オーギュが微笑んだ。 「きっと……彼も同じことを思ったでしょうね」 「そうかなあ……。何せ、殴っても殴っても倒れねえんだから」 それはお前も同じだ。 透もそっと微笑んだ。 殴っても殴っても倒れない。 カールは信じられない思いで相手を見た。 すでに顔は腫れ上がり、切れた唇も血で真っ赤に染まっている。おそらく自分も同じ姿をしているだろう。 カールの渾身の力を込めた拳を叩き込まれ、それでも倒れない相手。カールにとって初めての経験だった。 下方から繰り出されたオーギュの拳に、カールの顎が強烈な勢いで突き上げられる。 思わず仰け反る身体。わずかにブレる足。だがそこでふんっと踏ん張って、カールは体勢を戻した。 野良犬の拳なんぞで、この「剛腕」カールが倒れてたまるか! その場は、すでに隊のほぼ全員に取り囲まれている。 腕を組んでこちらを見守るコンラートとヨザックの姿もある。 だが、誰も止めない。上がるのは野次ばかりだ。 すでに賭けが始まっていることも、カールは知っている。コンラートが自分に賭けてくれていることを信じて、カールは次の拳をオーギュの腹に向けて放った。 ごふぉっ、と息を吐き出して、だがそれでもオーギュは倒れなかった。ぺっと、赤く染まった唾を吐き出すと、また構え直してカールを見据えてくる。 この野郎っ! カールの闘志に、改めて火が点いた。 結局勝負はつかなかった。勝負がつかない場合は相打ちと看做されて、賭け金は胴元総取りだ。ヨザックがホクホク顔でコンラートの杯に酒を注いでいる。 「痛ぇ……」 「沁みやがるぜ、チクショウ…!」 互いに顔を倍ほどにも腫れ上がらせ、傷に沁みる酒を自棄になって呷った。 「どっちがどっちか、一目見ただけじゃ分からない顔になったな」とコンラートが言い、皆が笑う。これくらいの喧嘩で、コンラートは部下を営倉送りになどしない。いい加減にしておけよ、と笑うだけだ。 オーギュが仲間として認められたのは、その日以来だったと思う。 元来頭の配線がシンプルにできている男達だ。酒と拳というアイテムがきっちりツボを押してくれれば、仲良しになるのは難しくない。 それにもう1つ。 オーギュは確かに荒くれた野良犬だったが、カール達を混血であるということで貶めることは決してなかった。 混血のカールと純血のオーギュ。彼らはいつの間にか、お互いをお互いの親友の位置に据えていた。 戦争は日を追う毎に激しくなる。部隊は息つく暇もなく、戦地から戦地を駆け回る。コンラートが一時期隊を離れていたこともあって、部隊の編成も変化した。カールとオーギュも、それぞれ別の隊に配属された。 泥沼化する一方の戦争。だから、王都に戻って、ある時は、偶然にも戦地で、オーギュと顔を合わせるのがカールは楽しかったし、嬉しかった。オーギュをぶん殴って、倒れもしなければよろめきもしない、頑丈なままでいることを確認して、確認し合って、互いの無事を喜んだ。 そうして浴びるほど酒を飲み、肩を組んで歌い、骨付きの肉を毟るように喰らい、また酒を飲んだ。 そして……ついにあの日を迎えたのだ。 混血と亡命者とで結成されたルッテンベルク師団。 ついに明日はアルノルドへ向かう、というその日。集結したカール達の元へ、オーギュが駆けつけた。 「隊長!」オーギュがコンラートに訴えた。「俺も連れてって下さい! 俺も皆と一緒に戦います! 俺も仲間だ。そうでしょう!?」 そう思ってくれてますよね!? 懸命に叫ぶオーギュに、コンラートが微笑みかけた。 「当たり前だろう? 鉄腕オーギュ。……来てくれてありがとう。嬉しいよ。だが……」 お前を連れてはいけない。 コンラートはきっぱりと断った。 オーギュは怪我を負っていた。コンラートはかつての部下の状況ををちゃんと把握していた。 「大丈夫です! もうすっかり良くなりました! だから……!」 コンラートの拳がオーギュの鳩尾に入っていた。オーギュは息を詰め、顔色を変えた。みるみる脂汗が滲み出てくる。 「まだ床を離れられる状態じゃないはずだぞ? 無理をしたな、オーギュ。……病院へ戻れ。故郷で待ってる女房や子供を悲しませるような真似をするなよ」 「……た、たいちょう……」 「何だ、病み上がりですらねえのかよ! こんなんじゃ殴れねえじゃねぇか。邪魔だ、バカ野郎。とっとと行っちまえ」 「………カール」 「見送ろうなんてことも考えるんじゃねえぞ! よろよろの怪我人なんぞに見送られたら、験が悪くて仕方がねえや。ったく、何だその顔は! 辛気臭ぇったらねえぜ!」 今にも泣き出しそうな顔で自分を見るオーギュから目を逸らして、「その代わり」と、カールは続けた。 「帰って来たら、ちゃんと迎えに来てくれや。そん時ぁ、思いっきりぶん殴ってやるからよ。だから……元気でいろよ。またこんな怪我なんぞしてたらタダじゃおかねぇぞ! それから、また皆で飲みに行こうや」 「……カール……」 「あばよ、オーギュ。またな」 「……死ぬなよ。絶対死ぬなよ……! 隊長、皆……カール……!」 「死ぬかよ、バカ野郎! 俺を誰だと思ってやがる!」 俺は剛腕カールだぜ!! 「……そう言ったのに」 作業台の上の、ピンク色のケーキを睨みつけるようにオーギュが呻いた。 「あんな荒地で……野晒しになりやがって……」 どっちがバカ野郎だ……! オーギュが、どんと音を立てて椅子に腰を落とした。 「………一番」 「……え?」 「一番……辛い時に、死んじまったなあ、って、思ってな……」 誰が、とは、聞けなかった。 「………混血に生まれたってだけで、あいつらは本当にひでぇ目にあっていた」 「ええ……知っています」 「その、一番ひどい時に、一番辛い形で逝っちまった……」 「………………」 「……教えてやりたかった……。見せてやりたかったなあ……」 今の、この国を……! 作業台の上のケーキの色が変わったような気がした。 ふと見ると、大きな窓の外、太陽が傾き始めているのに気付いた。差し込む陽の光の色と角度がゆっくりと変化して、店の中の色を微妙に変えている。 「あれから……どんどん世界は良くなっていくんだぞって……教えてやりたかった。隊長が英雄と呼ばれて、混血の魔王陛下が即位なさって、だから……混血魔族だって堂々と胸を張って生きていける。もう誰からも後ろ指さされることも、石を投げられることも、無実の罪に堕とされることもない。平和になって、魔族と友好を結ぶ人間も増えて、暮らしも良くなった。……もう…すっかり大丈夫なんだぞって。お前達の苦労は全部報われたんだって……」 でもよ。 オーギュが搾り出すように言って、顔を大きな手で覆った。 「死んじまった奴らに……報われたなんて言っても……もう、分かりゃしねえもんなあ……! あいつらは、カールは、辛いまんまイッちまって、だからあいつらはこの先もずっと……辛いまんまなんだ……!」 「……オーギュ……!」 「死んじまったあいつに……俺ぁ、何にもしてやれねえんだ……!」 「でも覚えている!!」 とっさに上げた声に、オーギュが驚いたようにこちらを見た。 「あんたはおれ……カール、達を、あの戦いで逝ってしまった彼らを、忘れたりはしないだろう!? 忘れない限り、あんたが彼らを思い出して、あんたの思い出の中でカール達が笑っている限り、彼らの魂が辛いままでいることなんてないんだ!」 ……話しかけてやってくれよ。 透の言葉に、オーギュがまじまじと見返してくる。 「思い出の中のカールに、皆に、今生きてるあんたの言葉を聞かせてやってくれよ。そしてあんたの話を聞いたカールが笑っていれば、その笑顔を……あんたがちゃんと思い浮かべてやれれば、それは、カールが生きてるってことだから。あんたの中に、カールも、皆も、ちゃんと生きてるってことだから……!」 オーギュはただじっと透を見つめている。が、やがて、ふうと小さく息をついた。 「若造が……女子供相手じゃあるまいし……陳腐な気休めを軽々しく口にするもんじゃねえや……」 一瞬言い返そうと思ったが、ガラスに映る自分の姿に透は開きかけた口を閉ざして目を伏せた。 確かに……説得力のない陳腐な慰めだ。 心の中で生きている。それを透のような形で実感できることは、まずない。 「すみません……」 だから、素直に謝った。 「忘れやしねぇよ」 ふいに上がった言葉に、透はハッと顔を上げた。 オーギュがどこか遠い場所、でなければ、なくした何か、に視線を向けている。 「誰が忘れるもんかよ……。あいつが、あいつらが……俺にとってどんなに大切な奴らだったか知りもしねぇで、偉そうに説教するんじゃねぇや…!」 「すみませ……」 「魂が何だってんだ。夢みたいな事をぬかしやがって……! 魂があるなら、本当にそんなもんがあってくれるなら、この俺が野晒しにしたまんまでおくもんかよ! 今すぐだってアルノルドへ飛んで行って、そして、あいつらの、あいつの、カールの、魂を……持ってきて、連れてきて、そして……一緒に……!」 オーギュが両手で顔を覆い、がくりと肩を落とした。 「……すまなかったな、何だか……急に興奮しちまって……」 しばらくして、顔をごしごしと擦りながらオーギュが照れくさげに言った。 「いえ、悪いのは僕です。考えが足りませんでした。申し訳ありません」 「いや……俺も言い過ぎた。悪かったな、妙な話を聞かせたのはこっちの方なのに。……変だな、どうしてだか急にあいつの話がしたくなっちまって……」 「それは……」 おお、しまった! 突然オーギュが大声を上げて、立ち上がった。 「すっかり手を休めちまった。いかん、もうすぐ受け取りに来る時間じゃねえか!」 「あ、あの……」 「こいつだよ」 そういってピンク色のクリームに覆われた丸いケーキを指差す。 「今日オットーの家の娘の誕生日でな。今夜親父が仕事から帰って来たら、家族で誕生会をするんだそうだ。そのためのケーキさ。話に夢中になって飾り付けを忘れてた。……あんたは……」 「あの! ……見学してても構いませんか?」 透の言葉にきょとんとした顔をして、それからオーギュは思い出したように頷いた。 「ああ別に構やしねえが……。面白いかい? こんなものを見てて……」 「ええ、もちろん。何と言っても……あの『鉄腕オーギュ』がケーキを作るんですから」 隊長やヨザックに教えてやらないと。 そう言うと、オーギュは酸っぱいものを飲まされたような顔で透を睨んだ。 それから20分ほどして、親子連れが店の扉を開けた。 母親らしい女性は、店に見知らぬ男がいることにちょっと驚いたようだったが、推定年齢30歳ほどの幼女は興奮気味で透に全く気付かなかったらしい。まっすぐ作業台に向かうと、「あたしのケーキは!?」とオーギュにしがみついた。 「おう、ベルタ、ほぅら、こんなのができたぞ!」 オーギュが幼女を抱き上げて出来上がったばかりのケーキを見せてやる。 ピンク色の上に、色とりどりのクリームで花や模様が描かれている。そして零れ落ちそうなほどのフルーツも。 「きれいっ。おいしそう!」 「あらぁ、本当に素敵なケーキだねえ!」 「自信作だよ。……ほら、ベルタ」 幼女を片腕に抱いたまま、空いた手でオーギュはカウンターの上に置いてあった包みを手にすると、それを幼女に渡した。 「誕生日、おめでとうな、ベルタ。これぁ、おじさんからの贈り物だ」 「ありがと! オーギュおじさん!」 「あらあら、悪いわねぇ、オーギュ。ありがとう!」 「なに、ほんとは女房が包んだもんさ」 「そういえばエリサは?」 「ちょいとサーヤの家に行くといって……そういや遅いな。どうせまたぺらぺらお喋りに夢中になってるんだろうけどよ。近頃はトーラやシホナも一度出かけるとなかなか戻ってこねぇんだ。家の手伝いもしねぇで、困った娘達だよ」 「何言ってんのさ。2人ともいい子達だよぉ」 そこにいるのは。 パン屋の店主で、夫で、そして父親だった。 もう荒くれた野良犬でも、「鉄腕」と呼ばれた戦士でもない。 幼い少女を抱き上げて笑う、穏やかな表情。 ほんの少し切なげに瞬く瞳。 ささやかな幸せを実感するたびに、感じているのだろう幸福感と、おそらくは罪悪感。 男が、生涯背負っていくのだろう、思い出という名の傷。 オーギュの上に流れた時間と歴史の痕跡を、透はただじっと見つめていた。 「遅くまで失礼しました」 「いやぁ、こっちこそ変な話になっちまって悪かったな」 いいえ、と首を振る。 「あんた……」 「はい?」 「本当に隊長たちと親しいんだな」 「……え?」 「いやさ、さっきあんた、隊長のことを『隊長』って呼んだだろ? ウェラー卿でも、閣下でもなく」 わずかにぽかんとしてから、透は失態に気付いて息を呑んだ。……こんなに鋭い男だっただろうか……? 「あんた……まさか、ルッテンベルク師団にいたってことは……」 「僕が!」思わず大きな声を上げる。「……僕が、ルッテンベルク師団にいて、生き残れるように見えますか?」 「いいや、これっぽっちも見えねぇな」 きっぱり言われて、ちょっと肩が下がる。 「……違います。ただ……ちょっとだけ、あの方が指揮していた部隊に入っていたことがある、んです」 「ああ、そうか。……俺がいねぇ時だな。俺もあちこち動かされたから」 ええ、そうですね、と、嘘をつく胸の痛みに視線を逸らした。 そうか、ともう一度頷いてから、オーギュがどこか晴れやかな顔で透を呼んだ。 「あんた、俺の息子のことは隊長から聞いてねえか?」 「息子さん、ですか? いえ……」 なんだ、そうかい? とオーギュはちょっと残念そうに唇を歪めた。 「俺の息子はよ」 気を取り直して続けるオーギュ。 「士官なんだぜ!」 「士官!?」 驚きの声を上げる透に、オーギュが今度こそ嬉しそうに顔を綻ばせた。 「おうよ。まだ成り立てだがな。……魔王陛下の改革で、平民も士官学校に入れるようになったのは知ってるだろ? 俺の息子もな、それで士官学校に入学してな。おめぇ、ウチの息子の同期にゃ、このロシュフォールの若様も、グランツの若様もおいでになるんだぜ? そんな若君達とよ、ウチの息子ときたら、俺お前の仲さ! 信じられるかい? この俺の、しがない田舎のパン屋の、志願兵にしかなれなかった俺の息子が、大貴族の坊ちゃま達と並んで立派な士官様さ! すげぇだろ!?」 「ええ! 本当に……すごいですね!」 おめでとうございます。そう言って頭を下げると、「おう! ありがとうよ!」と満足げに頷かれた。 「……なあ、あんた」 「はい?」 急に表情も声も変わったオーギュに、透は訝しい思いでその顔を見返した。 「この国は……変わったよな……」 「……ええ、そうですね」 「あんた、さっき……」わずかに口ごもってから、オーギュはどこか照れくさげに続けた。「さっき、言ったな。俺が……あいつらを覚えている限り、あいつらは俺の中に生きている、って……」 「……はい」 「本当に……そう、思うか…? その……あいつも、あいつらも、俺の中でこの国が変わっていく姿をちゃんと見てるって……そう、思ってもいいもんか、な……」 目を逸らし、小鼻を掻くようにしながら透の返事を待つ男。 透は、小さく頷いた。 「そう……思います。思い出すたびに、かつて大切だった人達が、間違いなくここに生きているって……。そう、僕は信じています。信じたいと……思っています」 胸を押さえ、そう言う透に、オーギュも答えるようにかすかに頷いた。 「……まあ……そんなこたぁどうでもいいんだけどよ! おお、そうだ」 いきなり大きな声を上げると、オーギュはカウンターに積んだあった紙袋を1枚取り上げ、徐にパンや焼き菓子を詰め込み始めた。 「持ってってくれや。腹が空いたら喰ってくれ。パンはな、明日の朝にでもな。焼き菓子は日持ちがするからまだしばらく大丈夫だ。俺のパンも焼き菓子も評判がいいんだぜ? 何つっても、魔王陛下からもお褒めのお言葉を頂戴したくらいだからな!」 「…あ、あの………ど、どうも……。ありがとうございます」 この村に滞在中は村長の家に泊めてもらうことになっているし、食事も出るのだが……。 でもまあいいかと思い直し、透はありがたく袋を受け取った。パンは村長の奥さんに渡せばいいし、焼き菓子はおやつに頂こう。 ありがとうございました、と礼を述べ、今度は女房と娘を紹介するからまた来いと言ってもらい、透はオーギュの店を出た。 すでに陽は傾き、西の空は紅のグラデーションに飾られ、東側はすでに暗くなっている。きっと村長が気を揉みながら自分の帰りを待っているだろう。 それでも透は足を速めることなく、ゆっくりと田舎道を進んで行った。 オーギュ。 透ではない男が、かつて親友だった男。 その厳つい顔を思い浮かべて、透は小さく笑みを浮かべた。 あ・り・が・と・う。 声を出さず、唇だけをそう動かす。 透は彼ではないから、忘れずにいてくれたことを、思い出をずっと大切にしてくれたことを、オーギュに「ありがとう」と礼を述べる資格はない。 それを口にしていいのは、カールや逝ってしまった彼ら。そして彼らと共に戦い、生き延びたコンラート達だけだ。 だから透は声には出さず、唇だけを動かした。 ありがとう。オーギュ。 袋から焼き菓子がはみ出している。 それを摘んで、一口齧ってみた。 「………嘘だろ。……ホントに美味しい」 嬉しいやら切ないやら。 色々複雑な思いに胸が塞がれて、透は視線を空に向けた。 なぜか夕焼け空が滲んで見えた。 プラウザよりお戻り下さい
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