《有利》 「……じゃあ、最初にアメリカ行ってたんだ……?」 「ええ。NASAブランドの協力が欲しかったものですから。……日本に行くなら、日本語を話したかったですし」 それに気付いたのは、日本でも屈指の一流ホテルのフロントで、係のおねーさんとコンラッドが何の問題もなく会話を交わしているのに気付いたからだ。おねーさんが言った。 「日本語がお上手でいらっしゃいますね、ミスター」 「付け焼き刃ですよ。通じてホッとしてます」 付け焼き刃の日本語ユーザーは「付け焼き刃」なんて言葉は使えない。 けれど目の前の爽やかな笑顔に、おねーさんは反論も忘れて頬をぽおっと染めた。………むちゃくちゃムカついた。 「……あのさ。……俺、一緒に泊ってもよかった……? コンラッド、1人になりたかったんじゃない……? 邪魔、じゃなかった……?」 「何言ってるんですか、ユーリ!? 一緒にいたいとユーリに言ってもらえて、俺はものすごく嬉しかったんですよ?」 コンラッドが、こんなコトで俺を拒むはずはないことを承知の上での発言。…ちょっとだけ自己嫌悪。 でも、ちらと見上げたコンラッドの顔は真剣で、俺は内心安堵の息をついた。ルームサービスで持って来てもらったココアを一口啜る。 「………だったら…俺も嬉しい……」 コンラッドがにこ、と笑う。………どーしてこんな笑顔を、惜し気もなくあっちこっちに振りまくかなー、こいつはぁ。 『ゆーちゃんの学校の皆さん! もうすっかりコンラッドさんのトリコよっ。素敵ですもんね〜、16年前と少しも変わってないあの笑顔!』 俺がぼう然自失してる間に何が起こっていたのか。 ハッと気がついたら目の前にえびす顔の校長がいた。俺とコンラッドとおふくろが、何でソファーに並んで座って、どうして紅茶とケーキでもてなされてるのか、さっぱりワケが分からなかった。おふくろは浮かれまくってるし。 無我夢中で立ち上がって、次の瞬間、俺は校長室を飛び出し教室に向かって全力疾走、しようとして思いきりドレスを踏んづけた。 「どはっ」 「ユーリッ」 床と仲良くする寸前で、がっちりキャッチしてくれたのは、どこでもここでも頼もしい俺の護衛だ。……何つーか、「渋谷有利」に「護衛」がいるのって、同じ俺なのに違和感ありすぎだな……。 「…どうしてそんなに急いで……危ないですよ…?」 「だっ、だいじょーぶっ!!」 ハタッと現実に戻った俺は、ぐわしとドレスの裾を掴むと、思いきりよくたくし上げた。 「……! ユーリッ!」 何故かうろたえるコンラッドに、「ぢゃっ!」と一声残し、俺は教室に向かってダッシュを開始した。履いているのは学校の上履きだったので、足さえ自由になれば走るのは楽なもんだ。実は委員長達は、俺にやたらと踵の高い靴を履かそうとしたんだけど、全力で抵抗して上履きで許してもらった。てか、あんなの履いてたら1歩だって歩けやしねーって。……後ろから俺を呼ぶコンラッドとおふくろの声がしたけど、とにかくもう、1分1秒でもこの姿でいたくないっ。てか、こんなカッコをコンラッドの目に晒したくないーっ! 廊下にいる連中が何やら声を上げていたけど、もうそんなのどうでもいい。………なぜか今日に限って、教室が遠く感じてならなかった。 「……ドレスっ! 脱がしてくれっ!!」 教室に飛び込むと、悪友達と担任がいた。 使えるものは何でも使おう、と、俺は一番近くにいた担任にぐるんと背中を向け、そう叫んだ。だって、背中をとめてるのが、チャックじゃなくてボタンなんだ。それもえらくでかくて、装飾過多なヤツ。手をまわしたって、簡単に外せやしねー。 と。いつまで待っても、ボタンが外れない。 「何やってんだよ、セン……」 セー、まで言葉が続かなかった。振り返った先に担任がいない。あれ? と見回してみたら、教室の隅っこにしゃがみ込んで壁に縋り付いていた。 …………そうかよ、そんなに笑いたいンかよ。訴えるぞ、教育委員会に。 担任はよっぽど笑いを堪えるのに必死なのか、今度は壁にごんごんと頭を打ちつけている。 「……何やってんだ、あれ…?」 「見ないでやってやれよ、渋谷」 「そうそう。それが生徒の思いやりってモンだぜ」 「独身男の悲哀が背中ににじみ出てるよなー」 「……何言ってんだ……?」 どーでもいいから外してくれ。そう言うと、「へーへー」と疲れたような声を上げながら、悪友の1人がボタンを外してくれた。やっと胸が楽になる。 「あら、ゆーちゃんっ、もう脱いじゃうのーっ!?」 「だあぁっ!!」 デリカシーってもんがねーのか、ウチの親はっ!! 息子が着替えてる最中に、って、そりゃ俺の部屋じゃねーけどもっ。 「コンラッドさんとツーショットで記念写真撮りたいのよ〜。ね、ね、もう一回、ドレス着て? ね? ママのお・ね・が・い。うふ」 うふ、じゃねーってのっ! 見たら、おふくろに続いて、コンラッド、どころか女子まで教室に入ってきやがった。 「皆、こっからでてけーっ!!」 机の上に放り出してあった制服に着替え、やっとホッとして教室の扉を開いた。ら。 コンラッドが、女子だの、先生(女の…当然か)だの、たぶんPTAの奥さん達だのに、5重6重に取り囲まれていた。コンラッドの前にはおふくろがいて、なにやら解説者になっている。 まじ、ムカつく。 こんな大量の女に囲まれて、うろたえもせず、にやけたりもせず、もちろん怖じ気づくこともせず、どうしてこうも余裕の笑顔でいられるんだ、この男は。にこにこにこにこ、爽やかに笑いやがって。 さっすが眞魔国一のモテ男だよなっ。夜の帝王だってなっ。ふんっ。 「……帰るゾっ、おふくろ。コンラッドも!」 普段なら絶対しない、女の人を腹立ちのままに押し退けて、俺は2人の前に立った。そしておふくろとコンラッドの腕をがしっと掴んだ、途端、一斉に「きゃあっ」という悲鳴が上がった。 今のいままで何にも言わなかったはずなのに、何でここで悲鳴なんか上げるんだよっ!? どうでもいいや、と2人の腕を引っ張る俺に、おふくろが逆らった。 「待ってよ、ゆーちゃん。今帰る訳にはいかないでしょ? これから面談があるんだから」 ………忘れてた………。 「あのね、コンラッドさんも、一緒に先生とお話したいって仰ってるのよ?」 「………はあっ!?」 「俺も、ユーリが学校でどんな風に過ごしてるのか、ぜひ教えて頂きたいですし。あ、でも、部外者はダメでしょうか……?」 「あたりま……」 「いいえ! ちっとも構いませんわっ!!」 ギャラリーからいきなり声が上がる。 「……………教頭…センセ……」 ずいずいと、髪を隙なくびしっと結い上げて、きっちきちのお固いスーツに身を包んだ教頭先生が、満面の笑みで前に進み出てきた。……何でこんなに嬉しそうなんだろう……? 「私、教師を束ねております、教頭でございますの。この私が許可致しますわ。……さぞ、渋谷君の事がご心配でいらっしゃいますでしょう? どうぞ何でも質問して下さいませね? 担当教師には、くれぐれもご無礼のないよう、申し伝えておきますので」 顔は冷静だけど、胸元に添えられた両の拳がわなわなと震えている。それに気付いているのかいないのか、コンラッドはぱあっと更に明るくなった笑顔を、教頭先生に向けた。……教頭の顔が、一気に真っ赤に染まっる……。 「ありがとうございます、先生。ご配慮、心から感謝致します」 「とととととんでもっ、ございませんわぁ…っ」 3オクターブくらい高く跳ね上がった教頭の声は、ものの見事にひっくり返った。 そうこうしている間にも、廊下にはどんどん女子の数が増えていく。 ……もお、我慢できねーっ! 俺はすぐさま教室にとって返した。 教室には、何やってんだか、担任がいまだに壁と仲良しになっていた。 「センセーっ!」襟首ひっ掴んでこっちを向かせ、俺は喚き立てた。「すぐ面談やってくれ! 頼むから、すぐっ、今すぐっ、ぐずぐず待ってなんかいらんねーんだっ!」 相手が担任教師だとか、気にしてる余裕はない。さっさと終わらせて、とっとと帰るんだ! 担任はどこかぼおっとした顔で俺を見つめると、いきなり額に手を当てて天を仰いだ。 「……おい? センセ……?」 「…………………渋谷……頼みが、ある……」 「何だよ」 「頼むから……白雪姫の顔でがならないでくれ……。せめて顔洗って、メイク落としてきてくれないか……?」 ……………………………きれいさっぱり忘れてた。 三者面談ならぬ、四者面談。 学校の保護者面談に、よもや名付け親が加わるなんて、ほんのちょっと前まで想像もしてなかったぜ。ふう……。 最初から最後まで、コンラッドはおふくろと並んで、にこにこそりゃもう楽しそうにっていうか、嬉しそうに笑って、担任の話に頷いていた。 「……本当に元気というか、明るくて、クラスの中でも人気者ですね」 にこにこ、うんうん×2。 「正義感も強くて、口先だけじゃなく、弱きを率先して助ける態度には、教師としても大変感心してますよ」 にっこにこにこ、うんうんうん×2。 ……………いーや、ホメ過ぎだ。これは絶対オチがあるぞ。 「ただー…」 ほら見ろ。コンラッドとおふくろが、きょとんと目を瞬いて担任を見ている。 「パ・リーグを語るのと同じくらいの熱さで、勉強にも立ち向かってくれれば嬉しいんですけどねえ」 ………よけーなコト、言うんじゃねーっ……てか、俺がどれほど勉強が苦手かは、脱走共犯者の保護者ならイヤってほど分かってるよな? そう思って、ちら、と見上げたら、コンラッドも俺を見て、『困った人ですねえ』とでも言いたげに苦笑していた。……苦笑なのに、それでもやっぱりコンラッドはすごく楽しそうだった。俺のこちらでの生活の一端に触れられたのが嬉しい。そう思っている事がはっきりと分かって。コンラッドが本気で喜んでくれているのが分かって。 俺は、胸がきゅうっとしめつけられるような、同時にふわふわするような、そして舌の奥がむず痒くなるような、ついでに意味もなく頬っぺたが熱くなるような、何とも居た堪れない気分になってしまって、椅子の上で落ち着きなく身じろぎを繰り返していた。 「………それでー、渋谷君は将来の希望とかは……」 「あ、それはよろしいんですよ、先生」 おふくろににこやかに遮られて、担任が「は?」と書類から顔を上げた。 「ウチのゆーちゃん、永久就職が決まってますから」 ………………おふくろっ、それは激しく意味が違うゾっ!! 「ユーリ、あれが東京タワーですよね?」 「……へ?」いきなり現実に戻る。ここは…ホテルだ。「あ、ああ、うん、そう。そっか、ここからこんなしっかり見えるんだ」 大きな窓の向こう、オレンジ色にライトアップされた東京タワーが、夜空にくっきりと浮かんでいる。その足元に広がるのは、眠りにつくことのない東京の夜景。 「綺麗ですね。ああいうライトアップは、眞魔国では望む事ができません」 「うん、そう。そう、だねー…」 改めて、しみじみと俺は思った。……ここは地球。日本。そして東京なんだ。東京のホテルで、俺はココアのカップを、コンラッドはブランデーのグラスを手に、2人並んで夜景を見つめているんだ。 「……何か、実感湧かないや…。コンラッドと日本にいるんだって。…あんまりいきなりだったから……」 「すみません。……その、てっきり猊下からお聞きになっているとばかり……」 「四千年かけて発酵させた性格の持ち主だかんな。俺が驚く顔が見たかったとか……あ、でも、イヤだって言ってんじゃねーぞっ? ……コンラッドと日本で過ごせて……すげー嬉しいって思ってんだから……」 だんだん声から力が抜けていく。……恥ずかしーし……。 そおっと見上げてみたら、コンラッドがものすごく嬉しそうに笑ってた。お世辞でも何でもなく。…………うん。すげー、嬉しい。くっそー、むちゃくちゃ嬉しいゾっ! 「俺も、ユーリが生まれ育った国に来れて、本当に嬉しいですよ。ユーリの御母堂にも歓迎して頂けましたし。……実はちょっとだけ心配してたんです」 「……何が……?」 「俺達は、ユーリをあの人達、ショ−マや美子さんから奪う存在ですからね。自分達に、ユ−リに近づくなと罵られても仕方がないと思ってました」 「……え? ……だって、分かってたんだろ? 俺が眞魔国の魔王になるって……。承知の上で俺を生んだんだろ? ……だったら……」 「それはそうですが、そんな理屈と感情は、必ずしも一致しませんですしね。可愛いユーリを奪われてなるものかってあの人達が考えても、ある意味当然だと思います」 「……可愛いユーリって……」 「ユーリは可愛いですよ?」 「あのなー……」 「今日のシラユキヒメは、本当に綺麗で可愛かったです」 「そっ、それを口にするんじゃねーっ!!!」 がなりたてる俺に、コンラッドはくすくすと肩を震わせながら笑いやがった。こんちくしょー! 「……本当に可愛かったですよ、ユ−リ。本当に……」 コンラッドが。そっと手を伸ばして、俺の髪に触れた。そして優しくぽんぽんと俺の頭頂部で手を弾ませると、ふわりと俺の顔を覗き込んだ。…………高鳴るなという方が無理だ、俺の胸。 「………ユーリ……」 どくん。心臓が、さらにでっかく内側から胸を叩く。 今さらだけど気がついた。 俺達はホテルの1室に2人きりで。 今夜、このままこの部屋で、そりゃツインでダブルじゃないけれど、いや、ダブルがよかったって言うワケじゃない……んだけども、もちろん、……とにかく、一緒に一晩過ごすことになるわけで。 俺はパジャマ姿で。コンラッドはパジャマのズボンだけ穿いて、上はバスローブを軽く羽織っただけの、お互いすばらしく無防備な恰好で。 んでもって。んでもって。俺は……一体いつから、いつどの瞬間から、何が起きて、こんなコトになったのかさっぱり分からないんだけども……俺は……コンラッドが……大好き、で。いやもっと男らしく堂々とはっきり言うと(誰にだ?)、その……恋……しちゃってる、らしくて。いやいや、しちゃってるワケで。 ううう。はだけたバスローブから覗くコンラッドの鎖骨が、何でだよぉ、すっごくせくしぃ、に見えたり見えなかったり……。 何なんだよぉ。平均的一般的健康的男子高校生が、何で男の鎖骨にどきどきするんだよぉ。いくら週末の恋人同士か新婚さんの初夜みたいなシチュエーションだからって……………初夜っ!! 「……ユーリ」 「……はっはっ、はいぃっ。な、何でしょーかっ、コンラッドさんっ……」 「どうしました? 顔が赤いような……」 「ななな、何でもないっ。おっ、お風呂で逆上せたかなっ!?」 「……バスルームを出てから、もう1時間くらい経ってますよ…?」 「………………」 何を思ったのか、またもコンラッドがくすくす笑う。くっそー、腹たつ。……俺ばっかり。バカじゃん? 「…ユーリ」 それでも。この柔らかい優しい声で名前を呼ばれると、ただそれだけで嬉しくなってどきどきする。 コンラッドが、俺を覗き込んだ態勢のまま、ふわりと笑った。 何を言われても、それから……自意識過剰なんて言われてしまうかもしれないけど……、コンラッドに、何を、されても、狼狽えたりしないように、深く息を吸ってお腹に力をためて、その綺麗な瞳を見返した。 「寝る前に、ちゃんと歯を磨いて下さいね? 虫歯になっちゃいますよ?」 ………………………どーせ、ガキだよ、俺はっ!! 《コンラート》 「………………と……」 気配がして。俺はふと目を覚ました。 長く色々と経験しているお陰で、どこでどんな状態で目覚めても、瞬時に状況把握するくらいはできる。 地球。ユーリの国、日本。その首都、東京のホテルの1室で俺は目を開いた。 「………ユーリっ!?」 ぎょっとなって、俺はベッドの上に跳ね起きた。 目覚めてふと横を向いたその視界に、いきなりユーリの顔が飛び込んできた。 光量を落としたベッドサイドのライトに照らされて、ベッドの縁、シーツの上にあごを乗っけて虚ろな眼差しで俺を見ている。 まるで。首だけがベッドに転がされたようなイメージに、俺は一瞬背筋を凍らせた。 「ユー……」 「こおやあとお……」 ……今のは俺の名前か……? よくよく見れば、ユーリは床に膝をついて、あごを俺のベッドに乗せ、何をしたいのか、両手でシーツをぺたぺたと触っている。………完璧に寝惚けている。 ほお、と思わず深い息をついて、俺は改めてシーツから身体を起こした。 「ユーリ? どうしました?」 脇に手を差し入れて立たせようとすると、ユーリの手が俺のパジャマを掴んでくる。見ると、虚ろだった瞳が、真直ぐに俺を見ていた。 「ユーリ?」 「………こあい、ゆめ、みた……こおらっとぉ……こあいゆめ、みた……」 「…怖い、夢……?」 んっ、んっ、とユーリが頷く。何だかあの頃、俺が国に、ユーリの下に戻ってすぐのあの日々に戻ってしまったかのようだ。……切ない程に、あどけない姿。 シーツを捲って促してやると、ユーリは高い場所によじ登るかのように、ベッドに這い上がってきた。腰を抱いて、よいしょとベッドの中央に乗せてやると、すごい勢いでむしゃぶりついてくる。 「……ユーリ……」 「…こんやっとお、こん……こあい、ゆめ……」 抱き締めて、頭を撫でてやる。ユーリが胸の中で、ぐりぐりと額を押し付けてきた。 「こお……とぉ……おれ……きあい、なった……」 「…え…?」 「こおらっど…おれ、ないひと、へーかって、どっかいっちゃう……おれ……きらいだって、も、だいきらいなったって……おっかけたのに……ね、どこきらい? すぐなおすよ……ちゃんとなおすから、だあら……」 ひくう、としゃくりあげる響きと同時に、胸に感じる、かすかな冷たい感触。 抱き締めた。 それ以外、俺に何ができる? 『………心は一塊で出来てる訳じゃないんだ。幾つもの部屋が、たくさんの層が、重なりあい交じりあい、複雑にからみ合ってできているんだ。成長に……追いつけない部分も、心にはあるんだ。彼自身が気づかない心の奥底、無意識と呼ばれる場所に、置いてきぼりにされた心の一部分、深く傷つけられ、いまだに血を流し続けている場所が、まだ残っているんだよ』 唐突に。あの人の言葉が蘇ってきた。 ではまだなのか。まだ、ユーリの中には、傷ついて、そして、あの日以来ずっと血を流し続ける心の部屋が、まだ存在していると言うのか。 「……大丈夫ですよ、ユーリ。もう怖い夢は見ません。俺はここにいます。あなたの側にいます。だからもう、大丈夫です」 耳に、ほとんど唇を当てるようにして声を送り込む。腕の中で。ぴくんと小さな身体が跳ねた。 「……こん……こあーゆめ……」 「大丈夫です、ユーリ、もう大丈夫」 「こん……い、る……?」 「いますよ。ほら、ちゃんとね、ユーリを抱っこしてるでしょ?」 頭と背中をぽんぽんと叩いてやる。しがみつくユーリの力が更に増した。 「今度はきっと楽しい夢が見れますよ。……もう2度と、あなたに悪夢を近付けさせたりしません。もう2度と……」 「……こんやっとぉ……」 「はい?」 「…おれ……きらい…ない……?」 「好きですよ、ユーリ」想いを込めて、囁いた。「大好きですよ。ユーリだけです。ユーリだけを…」 しっかりと抱き締めて、頬を合わせる。 「愛しています」 ユーリの身体から、ふいに力が抜けた。 「こん………だ………す…き……」 これ以上、何を求める事がある? 俺の耳に、「すくう、すくう」と、健康的な寝息が聞こえてきた。 そっと顔を覗き込むと、穏やかな寝顔が胸の中にある。顔も、頬にまだ涙の跡があるけれど、とても穏やかで、悪夢に苦しめられている様子は窺えなかった。 頬に指を滑らせて、涙の残滓を拭った。くすぐったかったのか、ユーリはほんのちょっと眉を顰めたが、すぐにあどけない寝顔に戻ってくれた。……唇がわずかに微笑んでいるような気がする。悪夢は完全にユーリから去ったらしい。 再びユーリを抱き寄せる。と、またもユーリが胸に縋り付いてきた。激しくはないが、額をくりくりと胸に押し付けてくるのは、どうやら無意識のクセらしい。 ほんの少し汗ばんだ、高めの体温。 少年らしい、張りのある肌。 さらさらとした、シャンプーの甘い香のする髪。 胸に当る柔らかな頬と、ほんの少しくすぐったい睫。 その全てを、あなたはまるで投げ出すように無防備に、そして絶対の信頼をもって、俺の腕に預けてくれている。 もしかしたら、俺のせいかもしれないのに。 あなたにそんな悪夢を見せてしまったのは、俺のせいかもしれないのに。 あなたの、眞魔国とはまったく関係のない、この日本での平和な生活に俺が乱入してしまった事が刺激となって、あなたの中で眠っていた傷を呼び覚したのかもしれないのに。 あなたは、それでも……。 これ以上、何を望む事がある? あれほどまでに傷つけて。苦しめて。泣かせて……。それなのに。 全てを許されて。 側に仕えることを許されて。 今では、誰1人として、俺を責める者もなく。そして。 ユーリ。 俺の、ただ1人の主。唯一無二の俺の王。俺の命よりも、この世界よりも、大切なあなたに。 これほどまでに慕われて。 名付け親のままで。保護者のままで。 あなたの、この温もりを、この腕の中で、護る事が許されている。 もう。何一つとして、望むものなどない。 もうこれ以上。何も。 プラウザよりお戻り下さい。
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