あなたの言葉は黄金の雫・3 |
今日。コンラッドが帰国する。 血盟城内は、ここ二、三日、異様な緊張状態にあった。そしてそれはもう間もなくピークに達しようとしている。 グウェンは眉間の皺を更に増やし、同じ書類を何度も確認し続け、仕事はちっともはかどらない。 ギュンターは俺を見ても汁一つ流さず、時々胃の辺りを押さえ、何か言いたそうに口を開いてはまた閉じて、を繰り返している。そしてやっぱり仕事ははかどらない。 ヴォルフは顔色がどんどん悪くなり、目の下にクマがはっきり見え、炎を吹き出さないのが不思議なくらい、ぴりぴりと身体を強ばらせている。仕事には…何の関係もないけど。 誰も彼もが、俺の顔を窺っては何かを読み取ろうと懸命だった。 ツェリ様も、ヨザックも、ウルリーケも。貴族も一般兵士もメイドら使用人達も、気がつくと俺の顔をじっと見つめ、目が合うとそそくさと視線を外す。 そして俺は何も言わない。 大嫌いだと。絶対許さないと。叫んでしまったあの日から、俺はこの件に関して周囲の誰とも、一切話をしなかった。 平然とその日を迎えたのは、村田だけだ。その村田も、何も語らない。 そして今、ただ黙って、大広間の玉座に座る俺の傍らに、グウェンやギュンターと供に立っている。 高い所にある玉座から、数段下がった所にツェリ様が、さらにその下にヴォルフがいた。そこから身分に従って、貴族達が左右に分かれ、ぎっしりと立ち並んでいる。たぶんすぐ近くに、アニシナさんやギーゼラもいるんだろう。 広間全体に、放電するんじゃなかってほどの緊張が渦巻いている。 「……ウェラー卿が、いえ…ウェラー・コンラートが参りました……!」 取り次ぎの声がした。 なつかしい顔が、少しも変わらない雰囲気を纏った男が、大広間に入ってきた。 服は見なれないデザインの私服ー濃紺の、ウエストをベルトで締めたコートのような長衣にブーツ姿ーで、剣はない。おそらく入城と同時に差し出したんだろう。恭順の証として。 救国の英雄となるか、反逆者となるか。それが俺の一言で決まる。 大広間は、怖い程に静まり返っている。 コンラッドは、広間に入ってきたその時から、俺をじっと見つめていた。 前に進んでくる間も、わずかも視線を逸らさなかった。だから俺も、じっと彼を見つめ続けていた。 懐かしい、懐かしい顔。瞳。まだ遠くにいるのに、どうしてだかあの銀の虹彩がはっきりと見える。 一歩、また一歩。失くしたと思ったものが帰ってくる。 高鳴る胸が痛い。見開いたまんまの目が痛い。 そして。 広間の中程、その本来の身分から思えばあり得ない程玉座から遠くで、彼は足を止め、膝を付き、頭を垂れた。己の身を謹む、意志の現れ。 「……陛下。お言葉を」 ギュンターが囁く。 「…もっと近くに」 囁き返すと、ギュンターが頷いた。 「魔王陛下のお言葉です。ウェラー・コンラート。いま少しお側近くに」 は、と小さな返事が返り、コンラッドが立ち上がった。そしてまた数歩、前進し、同じように跪く。 そんなやりとりを数回繰り替えして、コンラッドはようやく玉座の真下にきた。そして、俺の顔を一瞬だけひたと見つめてから、ゆっくりと跪いた。 「………陛下……」 緊張のせいか、ギュンターの声がどこか震えている。 あんたが俺の言葉を怖がってどうする。コンラッドがあんなに落ち着いているってのに。 少し笑える。そして。俺はすうっと息を吸い込んだ。 「よく…無事に戻ってきてくれた。コン…ウェラー卿」 俺の言葉に、コンラッドが驚いた顔でハッと顔を上げ、それから慌てて下を向いた。 「無事に…帰ってきてくれて。俺は……ホントに、本当に…………嬉しい、デス…」 密かに何度も練習したのに。セリフをばっちり王様らしく決めようと、夜中にスピーチの練習もしたのに。 予定じゃ、こんなに早く涙が溜るはずじゃなかったのに。……………ダメだぁ、もお。 「…それから……。ゴメン、な。俺、のために、国のため、に。辛い思いを、させて…。全然気が付かなくって。俺は…何にも…知らなくって…。ホントに………ゴメンなさい…っ! んで。本当に。ありがとう……!」 「…陛下っ……」 コンラッドの声が、喉に詰まった何かを押し出すような声が、響く。 そしてその瞬間、雷雲の様に広間を覆っていた緊張が、安堵の吐息と供に一気に流れて消え去った。 涙の幕を通してふと見ると、ヴォルフが今にも倒れそうに脱力しているのが分かった。 ツェリ様が顔を両手で覆っている。 隣ではグウェンが驚く程大きくて長いため息を零し、ギュンターが流れるものを隠す様に、手の平で目頭を押さえている。村田は……静かに、ただ、小さく微笑んでいた。 コンラッドは、震える唇を噛み締めたまま、ひたすら俺を見つめている。 「…帰ってきてくれたんだよね? 俺の側に、帰ってきてくれたんだよね? またずっと、俺の側にいてくれるよね?」 「……陛下のお許しを、頂けるとあれば」 「許すも許さないもないよ。コンラッドは、ただの一度だって、俺の側近じゃなかったコトなんてないんだから。コンラッドはずっと、過去も現在も未来も、ずっと、俺の、大事な、大事な人、だ。……だから、だからもう…」 涙が、ぼろぼろぼろぼろと溢れて流れて、なのにそれを止める事も拭う事もできないまま。俺はただもう目を見開いて、畏まる男を見て、見つめて、いた。 「…もう…どこにも………行かないでっ…!!」 「…っ、へい、か…っ!」 「陛下って呼ぶなっ、名付け親!」 しっかりと視線を合わせ、お互いの顔を見つめて、俺達はやっと笑みを浮かべる事ができた。 「ウェラー卿に剣を!」 グウェンの声が広間に響く。 待っていたかのように、誰かがコンラッドの剣を捧げて近づいてきた。ヨザックだった。 軽く頷きあうと、ヨザックの手から剣を受け取り、コンラッドはそれを両手に捧げ持つと、改めて俺に向かって頭を下げた。 「俺の忠誠の全て、いいえ、魂も命も、俺の全ては魔王陛下、貴方ただお一人だけのものです。永遠に…!」 その日、ようやく、ウェラー卿コンラートが帰ってきた。 廊下から、そっと摂政の執務室を覗く。 扉を護っている衛兵さん達が困ってるのは背中にしっかり感じられたけど、なんつーか、入り辛いんだよ。 大広間での接見が終わって、でも俺はすぐにコンラッドと話ができなかった。 王様のスケジュールは残ってるしーてか、こんな日に通常の予定を入れとくってのはどーなのよ!ー他にも謁見を求める人らがいたりして、すっかり緊張がなくなった以降は妙にのどかに時間が過ぎていった。 もっとものどかだったのは臣下の皆さんだけで、俺は泣いて目が腫れてしまったのが恥ずかしいやら、コンラッドに会いたくて、すぐ側で声が聞きたくて、積もり積もった話がしたくてしたくて、そわそわそわそわ、全然腰が落ち着かなかった。 で、気が付いたらコンラッドはさっさとどこかへ退出していて、いつの間にかグウェンもヴォルフもツェリ様も、そして最後にはあろうことか、王佐までも姿を消してしまっていた。 王様差し置いて、自分らばっかり先に………。ありか!? ありなのか、そんなことっ!? 村田も隙あらば逃げようとするし、仕事は進まないし、俺はそれからずっとイライラしっぱなしで。やっとの思いでコンラッドのもとに向かう事ができたのは、もう間もなく夕食の時間になろうとする頃だった。 で。 俺はグウェンの執務室を、細く空けた扉の隙間から覗き込んでいる。 部屋の中には、ああ、コンラッドがいる。グウェンがヴォルフがギュンターが。そしてしっかりツェリ様もソファに、コンラッドの隣にぴったり寄り添う様に座っている。 俺の視線にも気づかず、何やら会話が弾んでいるようだ。 ………なんかさ。 家族が、あ、まあ、ギュンターは違うんだけど、でも、離ればなれでいた家族がやっと一緒になれたっていう、どこか甘くて優しくて、そして親密な関係を持つ者だけの濃い空気が部屋いっぱいに漂ってて。 色々不安を掻き立ててきた俺としては、どうもお邪魔虫っぽくて、その中にずかずかと侵入する事ができないでいた。……どうしよ。と、思った時。 ぱこん、と後頭部がはたかれた。 「っ………むらたぁ…」 「何恥ずかしいコトしてんだよ、全く。ほらっ」 入るよ! と一声かけて、村田は執務室に足を踏み入れた。片手に俺の襟首をしっかり握って。 「陛下、猊下」 全員が立ち上がり、前に進み出たコンラッドが、誰よりも深く頭を下げた。 「やあ、ウェラー卿。お疲れさまだったね。…考えてみたら、顔を合わせた事はあっても、まともな会話をするのはこれが初めてか」 「はい。色々と御心配をお掛けし、申し訳ございませんでした」 「いいよ。気にする必要はない。君が誰より一番大変だったんだしね。よくやり抜いたよ。見事だった」 再び、コンラッドが深く頭を下げた。 ………いいんだけど。その、猫の子運んでるみたいな手、外してくんないかな、村田様。 声が聞こえたみたいに、いきなり村田が俺を解放した。ふう、と息をつく、と、視線を感じた。 コンラッドが俺を見ていた。何だかとんでもなく……優しくて、そしてどこか、哀しい眼差し、で。 会いたかったのに。 会いたくて、話がしたくて、この半日ずっとイライラそわそわしてたのに。 いざこうして顔を合わせると、照れくさいというか何というか、妙にドキドキして、俺は声を出せずにいた。 「さて!」 ぽん、と村田が手を叩く。 「これから少々皆の時間を拝借したい。僕に付き合ってくれないかな?…ああ、陛下とウェラー卿はいいよ。残ってて」 さあ、出て出て、と促され、俺達を除く皆が部屋を出ていった。通り過ぎざまに、ツェリ様は軽くウインクして意味ありげににっこりと笑い、ギュンターもここ暫く見なかった蕩けるような笑顔を見せてくれた。グウェンとヴォルフからもーヴォルフは「何で僕まで…」とちょっと不満そうだったがーぴりぴりした緊張感のない、穏やかな雰囲気が感じられた。………そして、扉が閉じられた。 どうしよ…。 タイミングを逃すと、まじ、照れくさくなってきた。 コンラッドもそうなのか、俺達はしばらく、夕陽の射し込む部屋で二人きり、黙ったまま立っていた。 「陛下…」 先に動いたのはコンラッドだった。 何も言えないままの俺の側に歩み寄ると、そのままスッと膝をつく。 「!…コンラッ……、も、もういいよ、そんなコトしないで…」 「陛下。何とぞお許し下さい。いえ、許さぬと仰って下さっていいのです。いかな理由があったとしても、陛下に対しあのような真似を、あのような…言動を…。そのために陛下がどれほどお苦しみでいらっしゃったか、俺は目の前で見て分かって、嫌と言う程分かっていたのに……、それでも………俺は……!」 コンラッドは辛そうに顔を歪めると、耐え切れない様に俯いた。肩が、震えている。 俺は終わったと思っていた話を蒸し返されて、どうしていいか分らないまま、コンラッドの側にしゃがみこんだ。そして、そっと、震える両の肩に手を置いた。ぴくり、とコンラッドの身体が震える。 「…うん。辛かったよ…」 「へい、か…っ」 「すっげー辛かった…。泣きたいのに泣けなくってさ。どーしてだか、泣けねーの。でさ、そっちの方が、思いっきり泣くより、ずっとずっと辛いのな…。感情が渦を巻くって言葉があるけどさ。初めて実感したよ。でもさ……」 右手を、コンラッドの覚えているより少し伸びた髪に添え、撫でてみる。さら、とした感触。 「俺もさすがに色んな経験したし、ちょっとだけ大人になったような気もするし。だから、今だから、分る事がある」 手のひらを伏せたままの頬に寄せ、そっと促すと、コンラッドの顔が上がる。視線が間近に真直ぐに合う。だから、分かってしまった。やっぱり、と思った。 こんなに辛いのに、こんなに苦しんでいるのに、コンラッドの瞳は乾いている…。 「ちゃんと分る。俺より、コンラッドの方が何倍も何倍も辛かったんだって。俺みたいに喚く事も、叫ぶ事もできなくて、泣く事なんて絶対できなくて。心を殺してなきゃいけなくて。心が……凍ったみたいになっても我慢しなくちゃならなくて…。そうだろ?」 「…陛下…」 「も、いいよ。もういいんだよ。許してやれよ、自分自身をさ。俺も……ワケ分かんなくて辛かったし、哀しかったし、悔しかったし………。でももう、いいんだ。もう、ここに、コンラッド、いるから……。だからさあ……」 首に両腕を回し、引き寄せる。コンラッドの頭が、無抵抗に俺の首筋に埋まった。 「だから! その、『陛下』、止めてくんない? それに、さっきからのみょーにバカ丁寧な言葉使いも、すっげーヤだ。なんかさ、コンラッドここにいるのに、やっと帰ってきてくれたのに、なのに、まだ遠くにいるみたいで………ヤなんだよっ!」 泣けてきた。コンラッドの身体は無事で帰って来れたのに、心だけがどこかで足踏みしてる。 「ちゃんと帰ってきてよ。俺の……コンラッドに戻ってよ。戻ってきてよ。一緒に…キャッチボール、しようよ……」 俺の気持ち、受け取ってよ、頼むから。もう、振り払わないで。 「……陛下…」 肩に顔を埋めたままの声が、くぐもって聞こえる。 「…あなたに、この手で……触れても、いいですか……?」 「んなの…コンラッドが俺に触るの、許可なんか必要ない、よ?」 「…ありがとう…ございます」 その言葉と同時に、両脇にだらりと下がったままだったコンラッドの腕が、ゆっくりと動く気配を感じた。 そして、その腕が俺の背中に回り、掌が、そっと、本当に涙が出るほどそっと背に触れ、俺がちゃんとここにいることを確かめるみたいにおずおずと、髪を、肩を、背筋を撫でた。 だから俺は、もっと強く、もっともっと強く、コンラッドを抱き締めた。 「コンラッドが、帰ってきてくれて、俺は、嬉しい。嬉しいよお…!」 「……………ユーリ……!!」 コンラッドを抱き締めた。コンラッドに抱き締められた。 床にしゃがみ込んで。身体をぴったり合わせて。耳に響く鼓動が、どちらのものか分らない程ぴったりと。 首筋に感じる暖かく濡れた感触が、何であるかはっきり分る程しっかりと。 俺は。今、やっと、本当に。コンラッドを取り戻した。 「おかえり、コンラッド」 「……ただいま。ユーリ」 部屋を出ていったはずの全員が、ドアの向こうで聞き耳をたてていた事に気づいたのも。 この件に関して今日まで何も言わずにいたのが、皆へのちょっとした仕返しだとバレて、ヴォルフに盛大に怒鳴られるのも。 もうちょっとだけ後のことだった。 プラウザよりお戻り下さい
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