見知らぬ弟 |
コンパ帰りの大学生。ご帰宅時間は午前一時。 暖房でちょっと過ぎるくらいに温まったリビングに響くのは、あるかなきかの加湿器の作動音。 その部屋の真中で、俺は何とも表現できない胸のざわめきに、ただぼんやりと突っ立っていた。 家に戻り、ほろ酔い気分でリビングに足を踏み入れた俺の視界に一番に入ったのは、ソファに寝転がる弟の姿だった。 その足元には我が家自慢の二匹の駄犬。 一人と二匹は、仲良く熟睡中だ。 「ゆーちゃん、風邪ひっくよー」 ソファに近づいて、俺は多分そんな声を掛けたと思う。 もちろんこんな時間に眠っている弟が、それくらいで目を覚ますはずがない。 俺はソファの傍らに腰を下ろして、「目の中に入れても痛くないほど『キライな』弟」、有利の顔を覗き込んだ。 「……か…可愛い…」 どうしてこんなに可愛いんだ…! よくぞ生んでくれた、母よ! でもって、どうして妹じゃなかったんだっ! これで妹なら完っ壁………いやいやいやいや。 まろみを帯びた頬。少し低めの鼻。柔らかそうなピンク色の唇。今どき珍しい、癖のない漆黒の髪。 長い睫。そして閉じた目蓋の向こうには、見開くとこぼれ落ちそうに大きな澄んだ瞳。 全てのパーツが完璧な上に、それが絶妙のバランスで配置されているのだ。もうそんじょそこらの 女子高生など足元にも及ばない。 それにしても、と、俺は有利の顔をさらにまじまじと見つめてみた。 もともと可愛い弟だったのだが、近頃更に可愛さが増した。と、思う。 変質者一歩手前の兄バカとせせら笑っていた悪友共が、俺の家に押し掛けてきていた時、茶を運んで きた弟を一目見て、ちょっと呆然としていたことからもそれは確かだ。 少し前までは、そんなことはなかった。…はずだ。 「…育ち盛りだもんなあ…」 …って、違うだろ。 近頃めっきり薄情になり、じっくり見つめることもさせてくれない弟の顔の造作を堪能し、ちょっとうっとりしていた その時。 ふと弟が身動ぎした。 ソファに押し付けられていた頬がこちらに向けられる。 おお、可愛い顔が真正面に。思わず唇がが綻んでしまったその瞬間、有利の閉じられた目蓋から一筋の涙が こぼれ落ちた。 あれ…? と思う間もなく、有利の唇が震え、手が何かを探すように震えながら宙を彷徨い始める。 「…ゆーちゃん?」 宙を掻く指をそっと握ってやる。すると。 ポロポロポロポロと、大粒の涙が目蓋をこじ開けるように零れ、流れ落ちて行った。 「ゆっ、ゆーちゃ……」 「…ラッド…」 「え?」 「…コンラ…ッド…、行か…ない、で…」 兄貴ってのは、こんな時どーしたらいーもんなんでしょーかね? 弟が、そりゃもう可愛くって可愛くって可愛くって、妙な虫がちょっかいでも掛けようもんなら、踏み潰して にじり潰して、砂と泥の中に跡形もなく消し去ってしまおうと決意してしまうほど大切な弟が。 男の、それも外人の、名前を呼んで泣くんですよ、奥さん。(って、俺は誰に向かって話してるんだ?) 俺はしばし呆然としながらも、有利の手を握ったまま、その涙に濡れた寝顔を見つめていた。 弟の、空いていたもう片方の手が震えながら伸びてきて、俺の手に重ねられる。 両手が、俺の手、いや、夢の中の誰かの手を、懸命に求めている。 小さな、愛らしい唇が震えて…名前を呼ぶ。切れ切れに。だが、間違い様もないただ一人の名前。 コンラッド、と。 行かないで。ここにいて。そばにいて。 驚きも、悔しさも、憤ろしさも脇に追いやるほどの、切ない声で。 「…も……やだぁ…、かえって、きてぇ…」 弟が泣く。 「コンラッド……ッ!」 夜が明ければ日曜で。 俺は、我が家にしては異様に大人数の食卓についていた。 久しぶりに接待ゴルフもなく、家族揃っての朝食に、思いだした様に意気揚揚と臨んだ親父とおふくろ。 草野球チームの練習を控え、ユニフォーム姿で飯を掻きこむ今日も元気一杯の弟。そしてその隣に。 「…なんでおめーがいるんだ?」 「いやー、おかーさんのご飯、ホントにおいしーですっ!」 自称弟の親友、村田健がいた。俺の疑問に、おふくろがにっこりと笑う。 「健ちゃんのお母さん、お仕事でしばらくお家にお帰りになれないんですって。お父さんも出張だしね? ね、ウマちゃん? 健ちゃん、しばらく家でご飯食べてったらいいと思うのよ。なんだったら泊まってっても いいわよね。ううん、いっそのこと、お母さんがお帰りになるまで、家で暮らしたらいいんだわ。ね? ウマ ちゃん、いいでしょ?」 「おー、そうしろ、そうしろ」 答えたのは親父じゃなく、有利だ。「えー、悪いよー」「俺とお前の仲じゃん。水臭いコト言うなって」と、 肩を小突き合わせながら勝手に盛り上がっている。 「そうだなあ。その間、ゆーちゃんの勉強見てもらえれば助かるかも?」 にやにやしながら投げられた親父の言葉に、有利が固まった。 俺は味噌汁をすすり、ため息をつきながら正面に座る二人を見た。 全く共通点のない村田健と有利。片やサッカー少年、片や熱狂的野球少年。片や日本一頭のいい高校生、 片や………。一体何があって、こいつらは親友同士になり得たんだろう? 村田が何やら囁き、味噌汁を噴出す勢いでぎゃはぎゃはと弟が笑う。その姿に夕べの面影はない。 もしも。 もしも夕べ、あの時、弟の口から漏れた名前が「健」だったなら。 俺のこの、胸の奥でぐるんぐるんのたうつ、正体不明の不安は消えるだろうか? いや、もちろん弟が泣きながら呼ぶ名前が男だという段階で、許しがたいものがあるのは当然なのだが。 どんな野郎だろうが、ゆーちゃんに粉かけようなどと不埒なことを考える奴は、この手で抹殺して闇に 葬っても充分正当防衛だと確信してはいるのだが。(愚かな大衆は認めないだろうが) しかしそんな事とは別の、何かものすごくイヤなものがじくじくと体中を侵食しているような気がして 夕べからどうにもたまらないのだ。 弟、有利は女の子にもてない。 これに関して、同じ疑問を抱いたらしいおふくろが村田に問いただしているのを、俺は通りすがりに耳に したことがある。村田曰く。 「美形の彼氏なら欲しい。かっこいい彼氏も欲しい。でも自分より可愛い彼氏なんて、絶対いらない」 同級生の女子がそうのたまったそうだ。 なるほど、と、おふくろも、そして家の階段を上がりかけていた俺も納得した。 鍛えているはずなのに、いつまでたっても「華奢」という言葉が似合う身体。愛らしい顔立ち。 もちろんだからといって、心身ともに健康な男子高校生が、道を踏み外していいはずはない。 世の腐った女子がなんといおうと、兄は許しませんとも。ええ、絶対!! どんなに巫女さん姿が似合いそうでも。黒いドレスに白いレースのメイド服を、どれほど完璧に着こなせ そうでも。ゆーちゃんは、俺の大事な可愛い大切な弟、なんですからっ。メイド姿を堪能できるのは、 おにーちゃんだけの特権です!!………じゃなくてー。 「おい」 俺の声に、食後のお茶を啜りながら話し込んでいた有利が、きょん、と顔を上げた。ついでに村田健も。 身長が同じくらいなせいか、目線も同じ高さにある。その四つの瞳にひたと見つめられて、俺は一瞬 たじろいだ。そして、ふと思った。 こいつらって、何か、どこか、似てる、かも……? 「何だよ、兄貴?」 呼びかけておきながら黙ってしまった俺に、有利が眉を顰める。 「…あ、ああ、その…」無意味に一つ咳をして、「お前ンとこのチームに、外国人っているのか?」 「へ? がいじん? んにゃ、いない、けど?」 なー、と小首を傾げる有利に、うん、と村田が頷く。 「じ、じゃあ、学校に留学生がいるとか、バイト先に外国人が…」 「えーと? 確か英語のセンセーが、カナダだか、オーストラリアだかから来たとかこないとか…」 「渋谷も僕も、バイトは今してないよねー?」 てめーはどうでもいいんだよ、村田健。 「その先生ってのは、名前は?」 「はあ? あー、確か、マーガレット何とかとか、マーサ何とかとか、いった、かな?」 女かよ。 「何なんだよ、一体、兄貴はさあ…」 ぶつぶつ言いながら、そろそろ時間なのか、有利が立ち上がる。その姿に、俺は意味もなく焦った。 「お前、夜中に寝言いってたからさ。何か、外国人の……コンラッドって…」 カシャン。 驚いたことに、俺の言葉に反応したのは親父だった。 湯呑みを落とし、零れたお茶をおふくろが「もー、何やってんのよお」とぶつくさ言いながら布巾で ふき取る。 虚空を睨む親父の顔は一瞬で、普段の能天気が信じられないほどの厳しさを湛えていた。 そしてそのままの表情で、視線を有利に向ける。 俺もつられて、顔を上げた。…上げて。息を呑んだ。 「…ゆー…?」 無表情。 凍ったように立ち尽くす弟の顔。そこには本来あるはずの無邪気な子供の顔はなかった。ただひたすら 真っ白な、何もない、表情(かお)。瞬きすらも忘れて。どこか全く別の場所を、誰かを、見ている。 一体いつから、弟はこんな表情を覚えてしまったのだろう。 野球と野球と野球と女の子の事しか興味がないはずの、筋肉でできた脳。読む本といえば「週間ベース ボール」か「草野球の友」。勉強は嫌いで、ついでに曲がった事も大嫌いで、心に誓うは禁酒禁煙。 世界にはきれいなものや、楽しいことが一杯溢れていると、信じる眼差しに曇りはなかったはずだ。 優しさや善なるものや、光に溢れた世界をシンプルに信じる無垢で無邪気な子供………。 一体いつ、弟の中にこんな得体の知れない何かが生まれてしまったのだろう。 もしそれを生み出したのが「コンラッド」とかいう男なら、俺はそいつを絶対に許さない。 「さーて、そろそろいこっかー」 俺と親父と、そして有利の間で凍った空気を破ったのは村田健だった。唐突に立ち上がると、すっと 弟の肩に腕を回す。 ふっと、夢から覚めたように弟が瞬きをした。そしてどこかぎこちなく頷くと、促されるまま踵を返す。 俺が見つめる先で、背を向けた二人は玄関に通じるドアに向かった。 肩に回されたままの村田の手が、ぽんぽんと労わるように有利の肩を叩く、と、次の瞬間、ぐっと力強く その肩を掴んだ。まるで、「何もかも分かっている」「大丈夫」もしくは、「がんばれ」とでも告げて いるかのように。 俺の視線を感じたのか、村田がふいに振り返った。そしてそれこそ能天気な笑顔で「行ってきまーす!」 と声を掛けてくる。 「はーい、行ってらっしゃーい」 これまた明るくおふくろが返し、いそいそと二人を見送りに後を追った。 残されたのは、俺と親父。 「…………成人してからと、言ってたはずだ……っ」 どういうつもりだ、コンラッド…! らしくなく、どこか吐き捨てるように呟くと、親父は立ち上がった。 そして荒々しく部屋を出て行く。 「おい、ちょっと、親父っ!?」 最後に残されたのは、俺一人。 平凡だけど平和な家庭。至極一般的な日本人。ちょっとだけエリートな父親。いつまでも少女な母親。 未来の東京都知事な俺。超がつくほど可愛いけど、天然お子様な弟。 昨日も今日も、そして明日も。何も変わらず、穏やかに、ちょっと退屈な時もあるけれど、それでもとても 心地よく。 そうやって過ぎていくはずだった日々。 変わるのだろうか。いや、もうとっくに何かが変わってしまっていたのだろうか。それに俺だけが気付かず いたのだろうか…? どんな答えも出ないまま、俺はその場に立ち尽くしていた。 プラウザよりお戻り下さい ………初まるマ…です。 コンユオンリー! と宣言していながら、コンラッド出てないし。うう、いいのかなあ、最初のが こんなんで。 えーと。設定ですが、お父さんもお母さんも、ユーリがすでに即位しているのを知りません。 で、勝利にーちゃんですが、魔族のことは全く知らないままです。彼はギャルゲーは大好きですが、 「とんでも系」は全く無関心な人ですので、「悪魔」だの「神様」だの「前世」だの「宇宙人」だのは全て 鼻で笑っちゃうトコがあるんですね。てな訳で、大分原作とずれてますのでお許しを。 私はどうも、主人公に直接何かしてもらうよりも、脇にいる人の視線から主人公を見る、というのが 好きみたいです。やっぱりかなり外してる、かも? とにかくっ。今度はコンラッド出すぞっ。 |