流れいく花色の風・5 |
「お疲れ様でしたーっ!!」 もうすっかり夜も更けて、でも食堂の中は笑顔に溢れている。 皆で協力して女の子─8歳だった─を診療所に運んで、父さんと母さんとリンナとで手術をして。無事に終わったのが3時間ほど経ってから。お腹の中はとっても腫れてて、もうちょっと遅かったら大変なことになっていたと、リンナが教えてくれた。「お父さん、とっても腕のいいお医者様ね」と言われて、私もニコルもすごく嬉しかった。 そして今、旅を一緒にしてきた皆と、最後まで付き合ってくれた役所の人、後から女の子のお父さんも加わって(お母さんは子供に付き添ってるそうだ)、父さんの慰労会が始まっている。 「娘を助けて下さいまして、本当にありがとうございました!!」 女の子のお父さんが、何度目かのお礼を言い、深々と頭を下げた。照れくささと、たぶんお酒で、父さんは顔を真っ赤にしている。「医者として、当然のことです」と父さんが言い、横で母さんが小さく吹きだした。 「……子を想う気持ちは、皆同じなんですなあ……。魔族だろうが、人間だろうが……」 「当たり前のことじゃん」 父さんの呟きに、ユーリが事も無げに答える。 「そうなんですなあ。…当たり前のこと、なんですなあ…」 ちょっとだけ遠い眼をして、それから父さんはユーリ達に視線を戻した。 「もう大丈夫ですと伝えましたら、あのご両親がいきなり泣き出しました…。私に縋って、ありがとうございます、ありがとうございます、と何度も頭を下げて……。何にも変わらんのですなあ、本当に。…こうして旅をしてきて、とっくにそんな事は分かっていたはずだったのに。……おかしなものです。さんざん見えているものも、心が受け入れようとしなければ、見えないのと一緒なんですな……」 「今はどうです?」 コンラッドさんが穏やかな口調で父さんに問い返した。 「ええ…。やっとね。やっと、眼に映っていたものが、本当に見えて来たような気がしますよ」 「それはよかったですね」 「はい。本当に…」 父さんと母さん、私、そして半分目の潰れかかったニコル。同じテーブルに、コンラッドさんとヨザックさん、そして、ユーリ。 不安も恐怖もわだかまりも、何にもない穏やかな空気。 そこに。透き通った音色が、そよ風の様に滑り込んできた。 皆が一斉に顔を向けた一角に、アリサが座っている。竪琴を構えて。 「あの」とリンナが板を持ってきた。「アリサがこれをって」 父さんが受け取った板には、『あの子を助けてくださった先生に、お礼を込めて演奏します』と書かれてある。 アリサの竪琴から、アリサの心の声が流れてくる。 高く、低く。爪弾かれる、澄んだ軽やかな音色。私達の心を、真っ白な羽で包むように、優しく、優しく。 ありがとう。あなたがいてくれて。私は。嬉しい。 好き。この世界が。私を生かしてくれる、この世界が。大好き。 優しい人に。ありがとう。たくさんの優しさを。親切を。ありがとう。 たくさんの人に。ありがとう。 愛してくれて。支えてくれて。守ってくれて。抱きしめてくれて。 ほんとうに。ありがとう。 私の中に流れ込む、声。目の前が、少し、潤んで揺れた。 アリサは銀色。竪琴も銀色。 なのに、潤んだ視界に、なぜかとりどりの奇麗な色が浮かんで見えた。 ああ、そうか。 脈絡もなく、浮かんだのは、きらきらと陽の光を反射して煌くあの、カチャの村の花畑と噴水。そして。 たくさんの、たくさんの、小さな虹。 アリサの竪琴は、あの虹と同じくらいの大きさなんだなあ。 両手の中で、抱きしめる。希望のかたち。 心がホッと息をついて、本当に穏やかなで幸せな眠気が、今ゆるやかに私を包もうとしていた。 母さんとポーシャさんが、手を握り合って、何度も何度も同じ約束を交し合う。落ち着いたら、必ず手紙を出す。きっと出す。そして必ずまた会いましょう、と。 ポーシャさんと女の子のご両親に見送られて、私達の乗った馬車は出発した。母さんはいつまでも後ろを向いて、一生懸命手を振っていた。どんどん小さくなるポーシャさん達も、ずっと手を振りつづけている。 「きっとすぐに会えるようになりますよ」 コンラッドさんの言葉に、母さんが何度も頷いた。ちょっと涙ぐんでいる。父さんが母さんの肩を、ぽんぽんと慰めるように叩いて抱き寄せた。 お友達ができて、ホントによかったよね、母さん。 冬晴れの陽射しの中、私達の馬車は新しいお客を乗せて、軽快に街道を走りつづけた。 芸術学校のある土地に向うアリサ達とも、やがてお別れの時が来た。 たどり着いた村の広場で、皆で握手して、お別れを言い合う。ここで、彼女達は別の方向へ向う馬車に乗り換えるのだ。コンラッドさんとユーリの手を握るときのリンナとエべレットは、そりゃもうすごい気合が入っていた。何か言いたそうに目をうるうるさせていたけれど、結局「元気でね」というユーリの言葉で、諦めたように手を引いた。 「アリサ、元気でがんばってね。アリサだったら、きっと素晴らしい芸術家になれるよ」 ユーリにそう言われて、アリサは嬉しそうに微笑んだ。そして板を取り出し、『がんばります。いつか魔王陛下の御前で竪琴を弾くのが夢なんです』と書いてみせてくれた。 「それはもう、絶対に大丈夫!!」 どうしてだか、ユーリがきっぱりと断言する。アリサは一瞬きょとんと首を傾げたけど、すぐに大きく頷いた。 たくさんたくさん手を振って、私達はお別れした。 そうして。 最後のお別れが、私達を待っていた。 馬車に乗って、たくさんの村や街に着いて。市場や露店や屋台をひやかして。お買い物して、お食事して。 ユーリとニコルとコンラッドさんと、そこにいつの間にか自然と、私とヨザックさんも加わって。皆で飛び回って、はしゃぎまわって、新しい国で新しい発見をいっぱいして。父さんと母さんは、そんな私達を見て、いつも明るく笑ってて。夜になれば、お宿のお部屋に集まって、遠くなってしまった故郷のこと、眞魔国のこと、色んな話に花を咲かせて。そして。 ついにたどり着いた、大きな街。今までで一番大きな街の中心街に、そのお店はあった。 「花屋さんだねっ」 ニコルが嬉しそうに声を上げる。 それは遠目でも分かる、間口の広い、とっても大きな花屋さんで、たくさんのお客さんと、たくさんのお店の人が出入りしていた。 「ああ、間違いない。港でもらった封筒にも『フォーウェザー生花店』とあるし…」 「…あそこに、アイリーンがいるのね……。それに、赤ちゃんも……」 でも、何となく気後れして、私達はその場所から動けずにいた。 「勇気を出して、がんばって。きっと待っててくれてるよ」 ユーリが後ろから声を掛けてくれる。うん、それはそうなんだけど…。 まだ迷う私達の耳に、その時突然、思いもしない言葉が投げかけられた。 「俺たち、ここでさよならするから」 「……………えぇっ!!?」 私は、そして父さんも母さんもニコルも、一斉に後ろを振り返った。 「どっ、どうして…そんな、急に……」 うろたえる私達の前で、ユーリとコンラッドさんとヨザックさんが、穏やかに微笑んでいる。 「夕べのうちに言おうか迷ったんだけど…。でも、言うと寂しくなっちゃうから、ぎりぎりまで言わないことにしたんだ。ゴメンな?」 「…しかし…。まだ私達は何のお礼も……。お世話になりっぱなしで……。何か、その…」 「楽しかったですよ、とても。坊っちゃんも俺たちも、むしろあなた方にお礼を言いたいくらいです」 いつも優しいコンラッドさんの声は、今日もやっぱり沁みるほど優しい。 「そういうコト。お互い自分達の目的地に向って、迷わず進んでいかなくちゃな。それに、これが最後にゃならないって」 ヨザックさんはそう言って、にかっと笑ってくれるけど。 すぐ側で、ひくんっとしゃくりあげる音がした。ニコルだ。もう盛大に涙を流している。 「……ゆーり、にー、ちゃ……」 えぐえぐと、ニコルがその場で泣き出してしまう。微笑を浮かべたまま歩み寄ると、ユーリは膝を折り、真正面からニコルと向き合った。そしてニコルの頭を抱いて、そっと引き寄せる。 「元気でな、ニコル。種族が違ったって、そんなの何の関係もないんだから。だからきっとすぐに友達もできるぞ。ニコルはいいやつだもんな。俺が保証する。この国で、ニコルは、皆は、絶対に幸せになる。俺が約束する。だから、がんばれ」 うっうっと嗚咽を繰り返しながら、それでもニコルは頷いた。止まない涙を、袖で懸命に拭うニコルの頭をぽんぽんと跳ねるように撫でて、ユーリが立ち上がった。 「…何と申し上げたら……よろしいんでしょう。私達は…本当に……」 父さんの言葉も途切れた。母さんも、涙をいっぱいに溜めている。そして、私も。 「あの………あの、ユーリ、あの…ね……」 何を、どう言葉にすればいいんだろう…? 「元気でな、クィン。ホントはもっといっぱい話したかった気もするんだけど。でも……楽しかった」 「あ、あたしも……。あの、あのね、ユーリ、ありがとう、ね。えと、それから……ごめんね。あたし……いっぱいヒドいこと言って……。ユーリのこと、いっぱい傷つけて……。あたし……」 「何言ってんだよ。そんな昔のコト。もー忘れたって」 「そんな昔じゃないよぉ」 おかしくって、哀しくって、私は思わず吹き出していた。吹き出して、笑って、そしてやっぱり、泣いた。 「だいじょーぶ、クィンちゃんは逞しいですからね。きっと力強く生きて、ひとかどの女性に育ちますって」 「……なんでかなー。あたし、褒められてる気がしないんだけどなー」 「んまー、ひどいわー。こーんなにクィンちゃんのこと褒めちぎってるのにーっ」 「だからヨザックさん、それ絶対ヘンだってばあ」 泣きながら笑って。笑いながら泣いて。もうこれで最後だって、皆ちゃんと分かってた。 「お元気で」 「あなたも、お元気で」 「手紙書くから、あのお店宛てに。返事くれよな」 「約束だよ? ぜったい、ぜーったいお手紙ちょうだいよ?」 「おう! その代わり、返事も絶対だぞ?」 「うんっ!」 「元気でね」 「元気で」 「さようなら」 もうこれで何度目だろう。お別れの手を振るのは。 手を振って、振って、ちぎれるほど強く、呆れるほど長く、手を振り続けて。 旅を共にした、大好きな人たちは、あっという間に人波の中に姿を消した。 「……さあ。行こうか」 父さんの声に頷いて。私達は振り返り、そして今度は迷わず歩き始めた。 お店を訪ねて、案内を乞うて。間もなく、店の奥から転がり出るように、父さんたちと同年代に見えるご夫婦が飛び出して来た。 そのお二人は、ラクシスさんのご両親で、つまりアイリーンのお舅さん達、という訳で。彼らは私達を見ると、いきなりもの凄い勢いで頭を下げ始めた。 大切なお嬢さんを誘拐する様な真似をして。とんでもないご心配をお掛けして。辛い思いをさせてしまって。なのに、迎えに出ることもできなくて。 申し訳ない、申し訳ない、と何度も何度も謝られた。 そしてようやく落ち着いたご両親から、アイリーンは出産に時間が掛かって、身体がかなり弱ってしまったので、まだ産院に入院しているのだと教えられた。赤ちゃんは、何と双子だったのだそうだ。ラクシスさんも、アイリーンに付き添って産院にいるらしい。 「そちら様には申し訳ないんですが」と、お舅さんが言った。「本当にいいお嫁さんを貰ったと、近所でも評判なんですよ」 「赤ちゃん達もアイリーンさんによく似た、本当に可愛い女の子で」 お舅さんもお姑さんも、とっても優しそうな人たちで、母さんはちょっとホッとしてたみたいだ。 病院は、ポーシャさんの街の診療所とは段違いに大きくて、まるでお城みたいだった。こんなに大きな建物は、私が生まれた辺りでは、ご領主様のお屋敷くらいしかないかもしれない。 病院は中もとっても立派だった。お医者さんも何人もいて、いろんな病気に合わせて窓口が違うらしい。産院はこちらだと案内された場所は、お腹の大きなこれからお母さんになる人や、赤ちゃんを抱いた人でいっぱいだった。 「……父さん、母さん! クィン、ああ、ニコルもっ」 「ア……アイリーンッ…!!」 「お姉ちゃんっ!」 ベッドを飛び出して駆け寄ってくるアイリーンと、思わず駆け寄る私達と。 病室の真中で、しっかりと抱き合って、そのまま床にへたり込んで。私達は声を上げて、泣いて泣いて、懐かしい声と姿と、押し寄せてくる色んな思い出に、また泣いた。 「ラ、ラクシス、です! あの、初めてお目にかかります。お会いできて、本当に嬉しいです。それから、その、申し訳ありませんでしたっ!!」 藁色の髪の男の人が、直立不動でそう言い切ると、バッと深くお辞儀をした。それはお辞儀というより、身体を腰でぽきんと折ったという感じで、何だかとっても可笑しかった。 魔族に浚われた、なんて言ってたのが笑えるくらい、ラクシスさんは気の良さそうな、真面目そうな男の人だった。アイリーンが手紙で、今はとっても幸せだって書いてたけど、二人を見てるとそれが本当なんだってよく分かる。 ラクシスさんは街の役場に勤めていて、軍に事務の仕事で出向してるんだそうだ。そのお役目で人間の国へ調査に出かけていて、道に迷った挙句に私達の村にたどり着いたらしい。 「アイリーンに出会った瞬間、これが眞王陛下に導かれた運命なんだって確信しました!」 要は一目惚れだったんでしょ? ラクシスさんは拳を握って力説しているけど。アイリーンは、そんなラクシスさんを幸せそうな眼差しで、うっとりと見つめている。お似合い、なんだなー。きっと。 私達はラクシスさんのお家にしばらくの間、住まわせて頂くことになった。花屋さんの二階から上は住宅で、住み込みの使用人もいる。その中の空いている部屋の一つを、私達も使わせてもらうのだ。本当は父さんと母さんに一部屋、私とニコルに一部屋でどうぞと言って貰えはしたんだけど、やっぱり父さんが遠慮した。 目的地には落ち着いたけど、その瞬間から私達、特に父さんは落ち着かなくなった。 今までは、アイリーンに会う事だけを頭に置いておけばよかったけど、こうしてその目的を果たしてしまったら、今度は何をどうしていいのか分からなくなってしまったのだ。 とにかく働き口を見つけよう。父さんはそう言った。母さんもそのつもりだ。いつまでも、こちらのお家に厄介になっている訳にもいかないし。ニコルだって学校に─人間の子供でも構わないのなら、行かせてやりたい。父さんたちは私も学校にって思ってくれてるみたいだけど、私は働く決意を密かに固めていた。 そんな私達に、フォーウェザーさんは「気兼ねなく、いつまでもいて下さい」と、ご夫婦共々、心のこもった言葉を尽くしてくれる。「焦る必要はありませんよ」と。 フォーウェザーのご両親も、お店の人も、私達にものすごく気を使ってくれる。 アイリーンから、私達の国や村の窮状を聞いていたこともあるし、何よりラクシスさんとアイリーンが駈落ちしたために、結果私達一家が村を追放されてしまったことを、必要以上に気にしてくれているみたいだった。 でも勇気を出して眞魔国に渡ったことで、初めて目が開く思いを何度もしたし、生まれて初めてと言っていい美しい風景も見れた。美味しい料理もお腹いっぱい食べられた。そして何より、魔族の人たちとの素晴らしい出会いがたくさんあった。これだけでもう、今までの苦労なんて全部報われている。 そう父さんたちが話すのを聞いて、アイリーンもラクシスさんも、本当に安心したみたいだった。 「そろそろ退院してもよさそうですね」 お医者様がにっこり笑って、そうアイリーンに告げた。 「ありがとうございます、先生!」 アイリーンも、ラクシスさんと顔を合わせて嬉しそうに笑った。傍らの小さなベッドには、双子の赤ちゃんが眠っている。ふわふわの金髪がとっても可愛くて、ホントにアイリーンによく似てる。 「ところで、ペローさん?」 お医者様が、珍しく父さんに声を掛けてきた。「はい?」と顔を上げた父さんも、ちょっと訝しげだ。 「実はその、ご相談がありまして。……ペローさんも私共とご同業とか」 「ああ、はい。故郷の村で診療所を営んでおりました。…あの、それが…?」 「ちょっとご質問させて頂いてよろしいですか?」 そう前置きすると、お医者様は父さんに次々と質問を始めた。 経験は何年? 主にどんな病気を診てきたのか? 手術の経験は? こんな症状と、似ているけれど別の症状、あなたはこれらをどう見分けますか? その対処は? 薬は何を? 父さんは矢継ぎ早の質問に戸惑いながら、それでもその一つ一つに答えていった。 医師となって30年以上になります。 村で医者は私一人でしたから、どんな病も診てきました。それこそ、お産だろうが骨折だろうが、何でもです。 ええ、設備は充分ではありませんでしたが、手術はいくつもしてきましたよ。つい先だっても、同じ宿に泊まり合わせた娘さんの、腹の炎症部分の切除を行いました。ええ、何でも街の医師が出張で不在だったらしくて。そうです、別の診療所に運ぶ時間はありませんでした。は? ええ、成功しました。私の見立てでは、10日ほどで元気になるのではないでしょうか。 ああ、それでしたら、熱があるかどうかが問題ですね。熱がある方は徹底的に冷やさないとなりませんが、もう一方は逆に暖めないといけません。 薬はもちろん薬草を、ええ、その場合は、これと、そうこちらを2対1の割合で。 「ペローさん、眞魔国で医師を続けるおつもりはありますか?」 「え? ええ、それはもちろん。続けられれば嬉しいのですが……」 そうですか、と言って、そのお医者様はホッとしたように笑顔を浮かべた。 「ペローさん、眞魔国で医師となるには、国家が主宰する試験を受けて、合格しなくてはなりません」 「そうなのですか!? ……それは……」 父さんは、そして側で期待を込めた眼差しで二人を見ていた母さんも、ちょっとがっくりきたようだった。 「大丈夫ですよ。今質問させて頂いて分かりました。ペローさんなら、絶対に合格しますよ。どうですか? 資格をとって、この病院で働かれては?」 ええっ!? と大きな声を、父さんと母さん、そして私もアイリーンもニコルも、悲鳴の様に上げてしまい、お医者様を思わず2、3歩後退さらせてしまった。 「あ、でもしかし、私は人間で……」 「試験を受ける資格は、『眞魔国において、医療活動を行う意志のある者』というだけです。フォーウェザーさんが後見人になって、正式にこちらに移住なさるのでしょう? でしたら何の問題もありませんよ」 実は深刻な人手不足でして。と、お医者様が話をし始めた。 できればベテランで経験を積んだ医師が欲しいのだが、中々人材がいない。回ってくるのはまだまだ物の役に立たない新人ばかり。心底困り果てていたのだと、ちょっとだけ声を潜めて教えてくれた。 「我が国も、多くの人間の国と友好を結んでいますからね。この街も、ご想像以上に人間の人たちがいらっしゃるんですよ? 病院にくる人間も近頃とみに多いのです。彼らはやはり、魔族より人間の医師の方が安心できるでしょうしね。ぜひ、私たちと一緒に働いて下さい。お願いします」 「こっ、こちらこそ、ぜ、ぜひに! あ、あのっ、ありがとうございます!!」 父さん、そして母さんが、勢いよく何度も何度も頭を下げた。私もニコルも、それからアイリーンとラクシスさんも、思いっきり深々と頭を下げた。 嬉しかった。ありがたかった。ああ、本当に、眞魔国にやってきてから、いいことばかりが起こる。……ううん、違う。 ユーリ達と出逢った、あの瞬間から、だ。 父さんを誘ってくれたのは、実はこの病院の院長先生だった。 父さんは試験に合格するまで、準医師の資格(他国でお医者だった人は、この資格でちゃんとお給料が貰えるそうだ)で、働くことになった。 その夜、フォーウェザーさん一家が、お祝いのパーティーを開いてくれた。 テーブルに乗り切らないほどのご馳走を囲んで、お店の店員さん達も一緒に、それはもう賑やかなひと時を過ごすことができた。参加できなかったアイリーンには、ちょっと申し訳なかったけど。 一家を養うには充分のお給料をもらえると分かって、父さんは早速新しい住まいを見つけるつもりだったけど、ラクシスさんご一家に反対された。暮らしに慣れるまでは、一緒にいようと一生懸命に言ってくれる。結局父さんは説得されて、仕事と生活が軌道に乗るまでこの家で暮らすことになった。 実は母さんも、資格取得を目指すことになっていた。母さんはずっと父さんの助手をしてきて、経験も知識もある。こちらに来てから、気力体力ともにすっかり復活、いや、前よりずっと元気になってしまった母さんは、どうやら父さんに対抗意識を燃やし始めたらしい。負けるものですか、と呟いていたから……どうなるのかな? 私はどうしよう。 生活の当てがなかった時は、何でもして働こうと思ってたけど……。 でも、ま、いいや。時間は私たちの前にたっぷりあるし。ゆっくりじっくり焦らずに。この国で何をしていきたいのか、どんな人生を歩んでいきたいのか、たくさんたくさん考えて、それから確実に前進していこう。うん! 退院は明日だというのに、アイリーンはもう荷造りを始めている。赤ちゃんを連れて家に帰れるのが、嬉しくてたまらないらしい。 私に色々指図して荷物を纏めていくアイリーンは、何ていうのかな、母親の自覚? 自信? そんなものが生まれてきたのか、昔に比べてずっと堂々として見える。お母さんになるっていうのは、強くなることなんだって、近頃私はしみじみ思うようになった。 午後、部屋にはラクシスさんとご両親もやってきて、他のベッドでもお見舞いの人たちが集まってきていて、10人部屋の病室は結構賑やかだ。ここに来た初っ端が派手だったせいか、私たちは皆にすっかり顔を覚えられ、すぐに親しくお話をするようになっていた。 それぞれが持参してきたお菓子を、ほかのベッドに配ったり配られたりしながら、おしゃべりも弾むお茶の時間。 ドアの向こうが妙に騒がしいな、と思ったその時、バタン! といきなり扉が開いた。 「皆さん、大変です! いいですか? 落ち着いて、落ち着いて聞いてくださいねっ」 助手の女の人が、真っ赤な顔で飛び込んできた。あなたが落ち着きなさいよ、と誰かが声を掛け、その場で笑いが起こる。 「ああもう! 笑っていられるのも今の内ですからねっ。…いいですか、皆さん」 わざとらしく、コホンと咳を一つ。 「今日、今、これから、何と! 魔王陛下が次代を担う赤ん坊達に祝福を授けるため、この産科病棟をご訪問あそばされる事となりました!!」 一瞬の沈黙。そして、うわあ、とも、きゃあ、とも、おおー、ともつかない雄叫びや悲鳴や歓声が、一斉に病室に湧き起こった。 「陛下がっ。陛下がうちの子に祝福を!?」 「魔王陛下にお会いできるの!? 本当に? 本当っ!?」 「芸術学校の開校式にご臨席なされて、その帰りにお立ち寄りになると仰せになられたそうですよ!」 「何という幸運でしょう! ああ、一生の自慢になりますよ!」 「ラクシス! ラクシス、怖いわ、私。魔王様は、この子達にも祝福をして下さるかしら? 人間の血が混じった子よ? 触れたくないと仰られたら、私どうすればいいの?」 「大丈夫だよ、アイリーン。陛下はそんなお方じゃない。知ってるだろう? 魔王陛下はそれはもう慈悲深い立派な方でいらっしゃるんだから」 「そうとも、アイリーン。それに、陛下も人間との混血だと聞いている。きっとこの子達にも、分け隔てなく祝福をしてくださるに決まっているよ」 半泣きになってしまったアイリーンを、ラクシスさんとご両親が懸命に宥めている。その様子を、私たちは気もそぞろに眺めていた。 魔王。 まさか、こんなところでその姿を見ることになるなんて。 父さん、母さん、私、そしてニコルは、思わずそれぞれの手を取り合って、不安な顔を見合わせた。 魔王。魔族の王。世界の邪悪の主。全ての恐怖の根源。 教えられた姿が頭を過ぎる。真っ黒で、巨大で、角と牙が生えてて、毛むくじゃらの手を何本も持っていて、その1本1本に武器を持っていて、気に入らない者の首を軽々と刎ねる。そして口からは炎を吐き、敵の軍勢を焼き尽くす。 分かってる。分かってる。そんなの全部嘘っぱちだ。 これまでの日々で、私たちはそれをちゃんと学んだ。魔王はそんな化け物じゃない。悪魔じゃない。 魔王は己の民の幸せを何より願う王様だ。 煌びやかな宮殿で贅沢に暮らすより、戦争を起こして領土を増やそうと考えるより、国民のより良い暮らしに尽くす事を望む王様だ。立派な人だ。でも……。 何年も、何年も、言い聞かされてきた物語の根っ子は、嘘だと分かっていても、私たちの心の地面の中で枯れずに根を張ったままだった。もし何かきっかけがあれば、そこからまた、新しい思い込みと誤解の芽が生えてくるだろう。 胸がドキドキと鳴る。 消えたと思っていたはずの、恐怖がゆっくりと頭を擡げ始める。 「お見えになりました!!」 私は両隣の母さんとニコルの手を、思い切り強く握り締めた。握り返す二人の手も、いつの間にか汗ばんでいた。 扉が開いて。最初に入って来たのは、見覚えた院長先生だ。緊張にしゃちこばって、何だかぎくしゃくと動いている。顔が光って見えるのは、たぶん汗だろう。 院長先生は扉の脇に控えて、頭を下げた。そして……その人が部屋に入って来た。 最初に目に入ったのは、黒、だった。 真っ黒。 ゆったりとした、でも、全身真っ黒な衣に身を包んでいる。…だけじゃない。髪の色も、黒いんだ。それに……。 小さい? …っていうか。子供? 子供の王様? あれ? ヘンだな。何だか、その……。 戸口に近いベッドに、たくさんのお供に囲まれて、魔王、陛下、が近づいていく。何か喋ってる。でもまだ遠いから、よく見えないし、声も聞こえない。……でも……あの雰囲気………あれ……? 次のベッド。そして次のベッド。少しづつ、少しづつ。近づいて来る集団。 その真中に魔王陛下。周りを囲む人たちに比べれば、すとん、と小さくて、細っこくて。特に、陛下のすぐ側に、ぴったり寄り添うみたいに付き従ってるお供の二人が、そりゃもう抜きん出て背が高いから、よけい陛下が小さく………ぅ? 「……ね……ねえ……?」と、声を上げたのは母さんだろうか、私だろうか。 「…おねえ、ちゃん……?」と震えているのは、ニコルの声、だろう。 「………おい……?」は、父さん…? 私の手がじっとり汗でぬるんできたのは、たぶんさっきまでの恐怖とは、全く違う原因だと思う。 近づいてくる、この国の主。 院長先生が、アイリーンのベッドの傍らに立った。 「へ、陛下。こちらは人間の女性でして。その、我が国の青年と恋に落ち、実に情熱的な手段でこの地にたどり着き、先だってこうして双子の赤ん坊を産み落とした次第であります!」 私と同年代にしか見えない魔王陛下、艶やかな黒髪と、やっぱり真っ黒な瞳を持った少年王は、妙に見慣れてしまった気のする、気の遠くなりそうに奇麗な顔に慈しみ深い笑みを浮かべ、アイリーンに声を掛けた。 「魔族の国で、何かお辛いことはありませんか?」 「…いっ、いいえ……っ!」 アイリーンの声は見事にひっくり返っていた。「いいえ」が、「ひーへ」に聞こえる。 「お、お、お、夫も、かっ、家族もっ、とてもっ、よくして、くれて、おりますっ。こっ、こここ、この、国にっ、来れてっ、本当にっ、しっ、しし、幸せにっ、思っておりますっっ!」 「ありがとう。あなたの勇気に心から敬意を表します。そしてあなたを快く受け入れてくれた、ご家族の方にも」 フォーウェザーのご一家が、顔を真っ赤にして慌ててお辞儀をした。それににこりと優しい笑みを投げかけられると、陛下は傍らの双子に眼を向けられた。 「魔族であろうが、人間であろうが、人を愛する気持ちに変りなどありません。この子達は、誤解や偏見を乗り越えたご両親の間に生まれた子供たちです。きっと愛情に溢れた、素晴らしい人に成長するでしょう。…赤ちゃんの名前は? 「こ、この子がメイリーン、そしてこちらがキャスリーンと申します!」 ラクシスさんの言葉に、陛下が深く頷かれた。そしてお供の手を借りて、双子をそっと抱き上げられた。 「メイリーン、キャスリーン、あなた達が、魔族と人間、この二つの世界を繋ぐ掛け橋となってくれることを心から祈っています。平和と愛情に満ちた世界を築く、優しい、暖かな手を持った人に成長しますように。種族の違いに関わりなく、全ての生命を愛することの出来る人に……」 そう言うと、陛下は子供たちの額にそっと唇を寄せた。周囲から、ほう、とため息がもれた。アイリーンがポロポロと涙を流している。 「あ、あの、陛下……」 院長先生が、私たちに向って手を差し伸べて言った。 「こちらの方々は、この女性のご家族でございます。その、このご夫婦の情熱的な手段のために、偏見に満ちた人間達から生まれ育った場所を追放されたのだそうです。それでこの度この国に移住されることとなりました。こちらのご主人は、長らく医師をなさっておりまして、資格を取得次第、当病院にて医師として勤務されることとなっております」 「そうですか…! それはよかった」 そう言うと、魔王陛下は真正面から私たちと向き合った。 こぼれ落ちそうな大きな、澄んだ瞳。まろやかな頬。目は二つ、鼻は一つで口も一つ。皆一緒のはずなのに、どうしてなんだろ、くらくらするほど奇麗な顔。ホント、奇麗過ぎるよ、あんたってばさ。 そのすぐ後ろには。縁取るラインの色だけが違う、同じ形の軍服を着たお供の二人。一人は茶色髪。もう一人は夕焼け色みたいな、熟れ過ぎた果物みたいな、ヘンな色の髪。どちらも笑っているけれど、一人はにこにこ、もう一人はニヤニヤ、だ。 「…やだもう……!」 「ク、クィン……!?」 アイリーンの焦ったみたいな声。でも私たち、なんだかもう。 泣いていいんだか、笑い転げていいんだか、さっぱり分かんないよ? ほら、ニコルだって、「えへへ」と楽しそうに笑いながら、一生懸命溢れる涙を拭っている。 「とっ、父さん!? 母さんも……、どっ、どうしたの? ねえ、変よ、みんな、ちょっと! 陛下が、魔王陛下が…! ねえってば! クィン、何なの、一体!? ニコル、お願い! どうしちゃったのよ、みんな!?」 もうほとんど悲鳴になってる。ごめんね、アイリーン。でもね。私たちね。 いっぱい辛かったの。いっぱい悲しかったの。いっぱい苦しかったの。 でもね、船の上で優しい人に会って、その人たちと一緒に、いっぱい奇麗なものを見て、いっぱい美味しいものを食べて、いっぱい笑うことができたんだよ。それがね。それが、今、一度に、一緒くたに、辛かったことも哀しかったことも嬉しかったことも楽しかったことも、私たちの中にいっぱいになって、それがもうね、溢れてきそうなの。ああもう。 ちょっとでも長く見ていなくちゃもったいない奇麗な顔が、どんどんぼやけてくる。 私は目を瞬いて、それから袖で眼を拭って、そうして視線を逸らさずに、正面に立つ人を見た。 視界の中で、私たちと正面の3人を除く人たちが、滑稽なくらい慌てているのが分かった。でも、そんなのどうでもいいや。 「眞魔国へ、ようこそ!」 にこーっと笑って、魔王陛下がそう仰る。 その途端、私はぷっと吹き出してしまった。だって。 その笑顔は。偉大な陛下の慈愛に満ちた笑みでも、威厳に溢れた王者の微笑でもなくって。 どこからどう見ても。 いたずらに大成功した、ガキ大将の会心の笑顔、なんだもの。 私が笑う。父さんも吹きだす。母さんも、ニコルも、泣きながら笑い出す。そしてとうとう。 魔王陛下も、お供の二人も、声を上げて笑い始めた。 開け放された窓から、ふわりと風が流れてきた。 その風に瞳をくすぐられて、また視界が潤んでくる。 ここから始まる。 ここで始める。 風は、もうそこまで来ている、春の花の香りがした。 終(2005/05/21) プラウザよりお戻り下さい。
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