青と朱が、柔らかに混じりあう夕焼け空のグラデーション。 小高い丘を覆う天空の全方位を、春の霞んだ色が重なりあって彩っている。 「ここも結構お気に入りなんだよね」 陛下がー赤い髪粉を軽くまぶし、茶色のコンタクトレンズを入れた上に、更にメガネをかけ、用心のために大きめの帽子をかぶっておいでになるー大きく伸びをしながら、仰った。…………ちょっと外出するだけでも、これだけ手間を掛けなくちゃいけないなんて。結構見えないご苦労が多いんだなあ……。 「ほら、部屋に閉じこもることが多いだろ? こんな風に周りになーんにもない広い場所に来るとさ、生き返るっていうかー」 「今日は特に根を詰めておいででしたからね」 すぐ隣を歩いておられるウェラー卿が、ちょっと面白そうに笑いながら仰った。 この方はまた、私服に着替えられると、いきなり周囲に溶け込んでしまう。かなりいい男だけど普通の青年って感じで、目立たなくなったというか。…これも技かな? 軍服を着ている時の、すごい凛々しさとか迫力が、すっと影を潜めてて、「剣聖」とか「救国の英雄」とかには全然見えない。 僕達ー陛下とウェラー卿と僕の3人ーは、郊外の「御花の丘」に来ている。 ここはもともと歴代魔王陛下の、遠乗りやお出かけ時のご休憩所として、陛下と陛下に許された者だけが散策できる場所だ。いや、だった、だ。昨年、ユーリ陛下のお達しで、一般に解放された。 高い木々のない見事なまでに広々と視界が開けた丘は、花の、と呼ばれるだけあって、四季折々いっぱいの花で一面が満たされる。春の花が終われば夏の花、秋の花、そしてなぜかこの一帯だけ、冬の冷たい雪と風にも負けずに咲き誇る花がある。そんな特別な場所だからこそ、魔王陛下専用だった。でもユーリ陛下は、ならばなおの事国民に解放すべきだと仰せになったらしい。 花祭りを前にして、丘にはくるぶしか脛辺りまでしかない、小振りの草花が何種類も咲き乱れていた。そして、花の中で春の宵を楽しもうと、大勢の人が丘を散策に訪れていた。 もともと特別な場所だったこともあって、ここには、馬の乗り入れは禁止、危険な遊技も禁止、出たゴミは持ち帰る、といった決まりごとも幾つかある。だからこそ安心してシートを広げ、携帯してきたお茶や軽食を楽しんでいる家族連れも多い。……しみじみ、平和。 時折、肌に柔らかな風が吹いて、小さな花びらが舞い上がる。 誰もが思わず深呼吸したくなる、心地いい空間だった。 「僕、王都にきて半年になるけど、ここに来たの初めてです」 「そっかー。いいトコだろ?」 「はい!」 丘のなだらかな曲線をのんびり歩きながら、僕達は見晴し台に向かっていた。 子供達が花環を首に掛けたり、頭に飾ったりしながら、傍らを駆けていく。その元気にはしゃぐ姿を、陛下が楽しそうな視線で追いかけている。そしてその陛下を、ウェラー卿がちょっとドキッとするほど優しい目で見つめている。……確か、ウェラー卿は陛下の名付け親だったっけ。やっぱり陛下に対して父親みたいな気分になるのかな? 見た目はそうじゃないけど、お年はそれくらい離れていらっしゃるんだし……。 見晴し台は、丘から水平にはり出した格好で作られた場所だ。そこに立つと、丘の裾野から広がる郊外の田園地帯と、その向こうの王都を囲む城壁、いくつもの尖塔、そしてさらに向こう、地平線に連なる緑深い山の中腹から上にかけて、豪壮たるその威容を現す血盟城を、もっとも美しい角度で眺める事ができる…んだそうだ。本年度版「観光と美食の案内 王都編」(眞魔国旅と歴史出版社編)を開くと書いてある。 そのかなり広い見晴し台は、夕陽を受けてうす紅に輝く風景を堪能しようと、かなりの人で賑わい、様々な言葉や歓声に溢れていた。 僕達も、人々に混じって見晴し台に立った。視界が晴れ晴れと開けて、ホントに気持ちがいい。 「…こんな風に、皆の声を聞くの、好きなんだ」 「陛下?」 思わず聞き返すと、ウェラー卿が「しっ」と唇に指を当て、小さく首を降った。確かに、陛下がこんな所にいるとバレたら大変…。 でも陛下はそんな僕達の様子に見向きもなさらず、いつしか遠い眼差しを虚空に向けていた。 「あそこに」陛下の指が遥か遠くの血盟城を指す。「ずっと閉じこもってると、いつの間にか不安でたまらなくなる。俺はちゃんとやってるのかなって。俺が今この国にいることで、皆の役に、皆が幸せになることの力になってるのかなって。みんな…幸せなのかなって。何かとっても大事なことを、俺は見逃しているんじゃないかって、時々…たまらなく、なるんだ…」 「…………」 「…ユーリ」 「……こういう場所に来るとホッとする。みんな笑ってるし、色んな声を聞いているのも楽しい。……でも…こんなキレイで、こんな広い空の下にいると……気持ちいいのに、何でかな……時々、ほんの時々なんだけど、哀しくなるんだ…。俺みたいな、黒を持ってるって以外何のとりえもなくって、頭も悪くって、みんなに迷惑ばっかりかけてるこんな、こんなちっぽけなヤツに何ができるんだろう…って。何かできるって考えること自体、おこがましいんじゃないかって。俺なんか………」 「そんなこと仰らないで下さい!」 思わず大きな声が出た。 「へ…あなたは、僕達の誇りです。あなたがこの国においでになるって、それこそが、僕達の生きる力です。あなたは本当に立派に、すべきことをやり遂げておいでになります。みんな、そう思っています。本当です! あなたの時代に生きていられて、ホントに幸せだって、皆言ってるんです! ご自分を卑下したりしないで下さい。僕達の気持ちを信じて下さい。………僕、嬉しかったです。へ、あなたにお会いできて、思いもかけずお話しもできて。……田舎の家族に自慢したいな。でも言っても信じてもらえないかも知れない。あなたが、お腹が空いたらつまみ食いだってするし、居眠りだってする、普通の………」 そこまで言って、僕は愕然とした。 魔王陛下は精霊の王でもある、と。だからその御心、本性は「只人」にあらず、と。 だから僕はみんなが考えると同じく、陛下が天上から眺める様に国や民を眺め、全てを見通し、あらゆる事象を己の掌の上で動かす、そんな人を超越した存在だと、漠然と信じていた。 でも違う。ユーリ陛下はまだ十代の、普通の子供だ。つまみ食いもする。居眠りもする。肩凝りもするし、怒ったり、叫んだり、そして悩みもする。たった一日だったけど、僕はもうそれを知っている。 つまりそれは。今こうして見晴し台に立つ人々と全く変わらない、当たり前に同じ人である陛下が、そのお小さい幼い身体に、その薄く頼り無げな背に、世界の全てを背負っておられる、ということなんだ。 立ち尽くす僕とウェラー卿をそのままに、陛下が一人、見晴し台の手摺に手をつき、前方に身を乗り出された。視線の先は、たぶんご自分の居城だ。 風が舞う。花びらがそれに乗り、陛下を包む。風と花をまとった陛下の後ろ姿。一瞬のそのお姿に僕は、同じ場所に立っていながら、これほどたくさんの人に囲まれていながら、陛下がどこか別の場所で、独りぼっちで泣いておられるような気がした……。 「ユーリ」 いつの間にか、ウェラー卿が陛下のお側にいた。後ろからそっと両手を陛下の肩に置き、抱き寄せる。と、陛下がぱっと振り向いて、ウェラー卿に抱きつかれた。そのまま。お二人の時間が止まる。 「…辛くなったら、いつでも俺にぶつけて下さい。八つ当たりだって何だって構わない。俺が全部受け止めます」 ウェラー卿が、囁く。 「長い間……あなたに耐えることを強いてきた。許して下さい。全て、俺が悪いんです。もう、もう決して、あなたにあんな苦しみを与えたりしない。誓います。……だからもう、我慢しなくていいんです。プレッシャーに押し潰されそうになったら、叫んでも喚いてもいい、泣いてもいい、俺を殴ってもいい。不安も恐怖も全部俺に吐き出して下さい。そして……すっきりしたら、また歩き出して下さい。あなたが望むことを実現するために。………大丈夫。あなたにならできます。俺は、あなたを支え続けていきます。あなたが……俺を必要として下さる限り……」 「………俺が……コンラッドを必要じゃなくなる日なんか、こない……」 陛下の声は、ウェラー卿の胸の中でくぐもっている。ウェラー卿が、小さく微笑んだ。 「では、生涯、あなたのお側に。……ヴォルフラムに邪魔だって言われそうだけど」 「ヴォルフは関係ない!」 陛下が、パッと顔を上げて叫んだ。瞬間、お二人の視線が合わさり、固まる。 「……俺がっ。俺がコンラッドに、側に、居て欲しいんだ。ヴォルフとは……全然………」 口ごもる陛下の手を、ウェラー卿がそっとすくい上げ、そしてその指に口づけた。 「お側にいます。ユーリ」 そして今度は陛下が、ウェラー卿のその手を取り、ゆっくりと引き寄せると、頬を寄せた。 「……どこへも………行かないで……」 ………どうしよう。 いつの間にか、すっかり二人だけの世界になっちゃってるし……。 でも、その。 ……………………マズいんです、陛下っ! ウェラー卿! あなた方のっ、あまりの雰囲気にっ、もっ、注目が集まっちゃってるんですーーーっ! 「ゴホッ、ゴホッ」 ヤボとでもなんとでも言ってくださいっ。 お二人の側に寄って、わざとらしく注意を引くと、お二人がハッと顔をこちらに向けた。そしてようやく自分達が注目の的になっていることに気づいて下さったのか、パッと離れた。ああ、照れくさいですよぉ、陛下〜〜〜。 「…ごっ、ごめん! あの…その…や、おっ、俺ってば何やってンだか……?」 陛下、真っ赤だ。ウェラー卿も、口元を大きな手で覆っている。たぶん、「俺としたことが…」って感じかな? ……何と言うか、お二人って………可愛い、かも…? 「見て見てっ! すっごいきれい〜っ!」 いきなりすぐ側で声が上がってびっくりした。一瞬、陛下のことを言ってるのかと思ってしまった。 でも違ってた。僕達のすぐ隣に、新しい一団がやってきてたのだ。十人ほどの団体で、家族親戚一同、って感じ。どやどやと場の雰囲気を壊してくれたおかげで、陛下とウェラー卿もホッとしたみたいだった。 僕と変わらない年頃の女の子が、小走りに手摺に駆け寄ってきた。 「空がひろーい! ねっ、お城が夕焼け色になってる! あーもー、おねーちゃんが羨ましいなあ。王都にお嫁に来れるなんてさー」 「何言ってるのよ。それに自然だったら、ウチの田舎だってたっぷりあるじゃないの」 「そうだよ。都会なんて、人が多すぎるし」 手を繋いだカップルが、少女の後にやってきた。 「全然違うわよぉ。あーん、結婚式が終わっても、私しばらくこっちにいちゃダメ? お店手伝うし。ねー、お母さん、ダメ?」 察する所、このカップルは間もなく結婚式を迎えることになっているわけだ。で、他の人達は、式に出るため田舎からやってきたご家族一同、と。 少女が母親らしき女性からなにやらお説教されている。その間も、年齢のまちまちな一団は、眼下に広がるのどかな景色と、広大な王都の景観に歓声を上げていた。 「幸せ」の輝きが、彼等からいっぱいに放たれている。それが何だか嬉しくて、僕は陛下に目を移した。陛下に感じて欲しかった。今、この国に生きている人が、間違いなく感じている幸せを。 陛下は微笑んでいた。彼等のすぐ側で、彼等と同じ場所、同じ高さに立って、そして同じ様に見えない明日に希望と不安の両方を抱えて。 「ねえっ、今あそこに、魔王陛下がいらっしゃるのよねっ。すごいっ、すごいわ!」 母親のお説教は、右から左だったらしい。 「何だか信じられない! 魔王陛下がすぐ近くで、生きて動いていらっしゃるなんて」 何を言ってるの? と誰かが笑いながら尋ねる。 「信じられないの。だってあんまり偉大な方なんだもん。魔王陛下もご側近の方々も…。田舎でもたくさん話を聞いたけど、凄すぎて、本当に今生きている人とは思えないくらい。まるでおとぎ話の主人公みたいなんだもの。ほら、身を窶してシマロンに潜入なされた、ウェラー卿の大冒険とかっ!」 大冒険…。小さく呟いて、陛下が口元を押さえ、吹き出すのを堪える様に顔を伏せた。僕も、思わず歪みそうになる唇を必死で押さえる。ウェラー卿は、と見ると、手摺に腰を降ろした格好で、そっぽを向いて頭をがしがしやっている。 田舎に居た僕は全然知らなかったけど、ウェラー卿が陛下を裏切ってシマロンに出奔なさったと言う話は、王都を密やかに駆け巡っていたらしい。でもそれが実は「敵を欺くには先ず味方から」な作戦で、大シマロンに内乱を起こさせ、国を内部から瓦解させる、という潜入工作であったこと、そしてもしそれが失敗したら、ウェラー卿は裏切り者の汚名を着たまま死ぬ覚悟であったことが判明し、大評判になった。もともと下々にも人気の高かったウェラー卿は、一気に、そして二度目の「救国の英雄」になった。もちろん最初は戦争の頃の話だけど。 そしてそれ以来、それはもうたくさんの作家達がペンを取り、様々な年代向けに書かれた、作家の数だけの「ウェラー卿の大冒険」が生み出された。いまでは「毒女」と並んで、各年代のベストセラーに必ず入っている。確か、来年度の小学校の教科書にも採用されるはずだけど。 「あ〜、私、いつかぜーったい王都に住む! そして、垢抜けた都会の女になるんだわっ!」 ついに、陛下が吹き出した。こらえ切れずに、お腹を押さえてしまってる。よっぽど苦しかったんだな。 「………そんなに、おかしい?」 拗ねたような声が掛けられた。まあすぐ側にいたんだから、分かっちゃうよな。…って、いいのかな、止めなくて。 どうしよう、と思ってウェラー卿を見たら、小さく首を振られた。いい、らしい、のかな? 「田舎者がバカなこと言ってるって、思ってるんでしょ!?」 「ちっ、違いマス。えーっと、ゴメンなさい。そうじゃなくって、元気いっぱいだなーって、楽しくなっちゃったんだ。ホント、バカになんてしてないけど……ゴメンね?」 陛下が慌てて手を振って仰った。そしてペコッと小さく頭を下げた。……いいのかなーっ? 女の子は、それでもぷっと頬を膨らませて陛下を睨んでいる。 「あなたがはしゃぎ過ぎなのよ」 お姉さんらしき人が、横から入ってきた。 「ごめんなさいね、煩かったでしょ? この子、王都が初めてなの。だから嬉しくって興奮してるのよ。気にしないでもらえる?」 「はい、その、こちらこそ、笑ったりしてごめんなさい。あの……ご結婚されるんですか?」 「ええ、そうなの。それで今日は家族や親戚が集まって王都観光よ」 「おめでとうございマス」 「どうもありがとう」 「ねえっ」 放っておかれた女の子が、顔を突き出して声を上げた。 「あんた、王都に住んでるの?」 「あ、うん」 「じゃ、さ、『レセット通りのイーシャのお店』って覚えて!」 「レセット通りの……?」 「イーシャのお店、よ! お姉ちゃん達が今度開く食堂なの。お姉ちゃん、すっごくお料理上手なんだから、絶対美味しいわよ! きっと王都一の食堂になるわ」 「新しいお店?」 「ええ。あの人もずっと料理人の修行をしてたの。結婚を機に独立することになって。来週開店なのよ。よろしかったらぜひ食べに来てね?」 「いいですねー」 「来るって言いなさいよっ」 そう声を上げた少女の顔が、ふっと変化した。視線の先は陛下の後ろに立たれたウェラー卿だ。 と、いきなり陛下の袖を握ると顔を近付けた。 「ねっねっ、この方、あんたのお知り合い?」 「え? あ、うん…」 きゃあ、と飛び上がったかと思うと、今度は姉の袖に縋り付いた。 「お姉ちゃん、やっぱり都会よ! すっごく素敵な人がいるーっ!」 さすがのウェラー卿もぷぷっと吹き出した。お姉さんが焦ってる。 「ちょっと、この子ったら。…あの、すみません、妹が失礼を…」 「かまいませんよ。素敵と言われて怒る男はいません」 にこっと笑顔のウェラー卿。うわー、この人、実は天性のたらしだー。案の定、もうすぐお嫁さんになるはずのお姉さんが、妹と一緒になって頬を染めている。 「そろそろ行きましょうか? もうすぐ夕食の時間ですし」 「ああ、うん、そうだね」 ウェラー卿の言葉に頷いて、それじゃあ、と踵を返した陛下の足が止まった。 「…あの」 再び振り返って、姉妹に声を掛ける。 「なあに?」 一拍おいて、陛下が口を開いた。 「あの。…幸せになって下さい。どうか…」 真面目な陛下の声に、ちょっと目を瞠ったお姉さんだったけど、すぐににっこりと笑顔を見せた。 「ええ! もちろんよ」 姉妹に挨拶し、そして側に居たたぶん彼女達のご両親から、「ありがとうね、坊や」とお礼を言われ、手を振られ、手を振り返して、僕達はその場を離れた。 そして間もなく、「魔王陛下ーーっ!!」といういきなりの大声に耳をつんざかれ、僕達三人はビックリ仰天して、今離れた場所を振り返った。 少女が。手摺の柵に足を掛け、ぶんぶんと手を振っている。僕達に背を向けて。彼方の血盟城に向かって。 「今度ーっ、私のおねーちゃんがーっ、王都にお嫁にきまーすっ! どうかーっ、おねーちゃんをーっ、よろしくお願いしまーすっ。食堂がーっ、繁盛しますよおにーっ。みんなで幸せに暮らせますよおにーーっ!」 「やめなさい!」「恥ずかしいじゃないのっ」「お願い、やめてー!」と、ご家族ご親戚が彼女を止めようとやっきだ。でも全然平気な少女は、最後まで元気いっぱいにお願いを言い切った。 呆気に取られて、ぽかんと開いていた陛下の口元がくしゅっと歪む。そしてすぐに、それはもう楽しそうにくすくすと笑い出された。 「まーかせて」 それが俺の仕事だもんな。小さく、でも力強く拳を握ると、陛下はくるりと向きを変え、そして振り返ることなく歩き出された。 朝、昼、夕、と魔王陛下とテーブルを共にするという、あり得ないような幸運を堪能させて頂き、お土産に料理長特製ケーキまで頂いて、僕はお城をお暇した。 丸一日、お城で過ごしたわけだ。しみじみしながら、いくつもの門を潜り、最後の門を出た僕の視界に、数人の人影が映った。 「……あれ? 編集長? 先輩達も……ロッタさん?」 「ティートッ!?」 「無事か!?」 暗闇の中で、落ち着きなげにうろうろしていた全員が、飛びつくように僕の側に駆け寄って来た。 仕出かしたコトの大きさに、冷静になった途端すっかり後悔した編集長と皆は、その日一日中、僕の身を案じて城の外でうろうろしていたらしい。 で、「楽しかったですー。お料理美味しかったですー。あ、これ陛下からお土産!」とやってしまった僕は、一瞬目を点にした皆から、怒鳴られ、泣かれ、小突かれた。当然、ケーキは残らずみんなに奪われた。 「…よし。これでいいだろう。……それにしても、ったくよぉ……」 僕の書いた原稿を、編集長が見つめながら、しみじみと呟いた。そして煙草の煙りを深ーく吐き出した。 「……シンニチからぁ、デマだってやられるかもな。王宮からも差し止めがかかるかも……」 「平気です。それに、陛下はそんなことはなさいません」 笑って答えると、編集長はちょっと驚いたような顔をしたけれど、すぐに笑顔で頷いてくれた。 「だな」 「はい!」 僕の書いた記事『ユーリ陛下のある一日』を一面に載せた新聞は、我が社史上再大部数を刷り上げ、翌日の昼下がり、そのほとんどを売りつくした。 王都のある教会では、ひと組のカップルの結婚式が行われていたのだが、ある瞬間、突如すさまじいばかりの複数の悲鳴が教会内に響き渡り、聖なる場所にあるまじき大騒ぎが巻き起こったという。目撃者によると、教会の外に飛び出し、興奮のあまり顔を真っ赤にしながらはしゃぎ回る少女がいたとかいないとか、その手には発行されたばかりの新聞が握られていたとかいないとか言われているが、さだかではない。 会社は何とか危機を脱出した。ありがたいことに、有力なスポンサーがついてくれたそうだ。どうもそれがフォンヴォルテール卿らしいという社内の噂だけれど、編集長が何も言わないので分からないままだ。ただ僕らに知らされたのは、その人は、とあるきっかけから我が王都日日新聞社の過去の記事を集め、これまで書かれた内容から、潰すには惜しいと思って下さった、ということだけだった。状況に流されることも、おもねることもなく、正論を貫いてきたが故だと編集長は自画自賛してる。でもそのおかげで潰れそうになったんだから、エラそうなことは言えないんじゃないかな、と思ったけれど、もちろん口には出さなかった。 さて。僕はと言えば、見習いの身分からついに「記者」にしてもらえた。といっても、まだまだ下っ端だけど。でも、皆からお祝のお食事会を開いてもらったのは嬉しかった。場所は、レセット通りにできたばかりの食堂だ。そこは新婚夫婦が経営しているお店で、食事の種類も豊富だし、何より味がいいと、ただ今評判の、行列ができる店になっている。 その店では、特にある料理が大評判だ。持ち帰りもできるので、僕達が食事をしている間もひっきりなしに客が訪れていた。料理の名前は「さんどいっちー」。特に、ハムとチーズと芋のサラダを挟んだ、通称「陛下のさんどいっちー」は、大人気だ。 たぶん今日も、都会の垢抜けた女を目指す少女が、バラ色の頬で、満面の笑顔を浮かべながら、それを販売していることだろう。 もしかすると今日、店を密かに訪れてくれるかも知れない誰かを待って。 『………ユーリ陛下は人を超えた偉大な存在ではない。まずそれをはっきり言おう。あの方は、まだ20代にもなっていない子供だ。若いとすら言えない。幼い少年だ。そしてその幼い肩に、我が眞魔国の命運がかかっているのだ。人々の命を、生活を、未来を、幸福を、己の手に握っているという事実に、陛下が恐怖すら覚えておられると言ったら、読者諸氏は信じられるだろうか? 陛下はご自分が超人ではないことを自覚しておられる。今現在の己の能力の限界を、自分一人の力が、小さく無力であることを、誰よりも理解しておられる。故に、ご自分を賛美する人々の中にあって、陛下がどれほどの孤独の中にあるか、読者諸氏よ、あなたは想像できるだろうか? だが同時に、陛下は、眞魔国、そして国民の一人一人に繁栄と幸福を齎したいと、ご自分の全身全霊をもって力を尽くしたいと、切に願っておられるのだ。かのウェラー卿が、あれほどまでの試練に立ち向かわれたのは、まさしく陛下が感じられておられる不安と恐怖、同時に存在する、祈りにも似た人々への尽きせぬ想いを、誰より御理解なさっていたからに他ならない。……………故にこそ、陛下を偉大な方と呼ぼう。あの方は天上の高みにおられる訳ではない。未来が見える訳でもない。我々国民と同じこの地上に生きて、お小さい身体、幼い魂で、それでも世界を懸命に背負っておいでになる。恐怖と不安から逃れることなく、立ち向かい、ご自分自身の弱さと闘っておられる。その使命を果たそうとなさっておられるのだ。超人でないからこそ、只人であるからこそ、ユーリ陛下は偉大な魔王であらせられるのだ。………御花の丘、見晴し台で出会った貴女へ。陛下はあの時貴女に「幸せになって下さい」と仰せになられた。そのお言葉の、哀しいまでの重さを分かって頂きたい。「幸せに」。眞魔国の民がみな、幸せに。それこそが、陛下が胸に抱くただ一つの願いだ。貴女はいわば、国民を代表して陛下の想いを受け取ったのだ。「もちろん」と貴女は応えられた。そう。その言葉通りに、幸せになって下さい。そして元気な妹嬢へ。「皆が幸せになれますように」と、貴女は王城に向かって叫んだ。あなたのあのはち切れんばかりの元気さ、明るさ、そして笑顔を陛下は殊の外お喜びになった。一時の不安に苦しんでおられた陛下の御心を救ったのは、貴女から溢れるように輝く未来への明るい希望だ。貴女の背中に向かって陛下が浮かべた笑みを、貴女にも見て欲しかった………」(王都日日新聞 春の第三月 某日発行一面記事より抜粋) プラウザよりお戻り下さい。
|