沈黙が大広間を覆った。 その言葉をついに口にして、だがクロゥは目を逸らすことなく、至高の座にある王を見つめていた。 玉座で、魔王ユーリもまた、自分を凝視している。 大きな瞳をさらに大きく瞠いて、少年王はクロゥを、いや、クロゥの形をした災厄を見つめていた。 玉座のがっしりとした肘掛の先を握り締める両の手が、白く震えている。それを目にして、クロゥはわずかに眉を顰めた。 ……この王を、傷つけるものになりたくなかった。 「妙な事を言うね」 魔王のすぐ傍らから声が上がる。もちろんムラタだ。彼が黙っているはずがない。 クロゥは覚悟を決めて視線を動かし、賢者と目を合わせた。クロゥ、と、相棒が小さく声を掛けてくる。 「ウェラー卿が大シマロンに単身潜入したのは、我が眞魔国のため。そして魔王陛下の御ため。大シマロンに潜伏する不平分子を糾合し、反乱を起こさせることで、眞魔国への戦争行為を阻止するため。結果、大シマロンは混乱するどころか、王家は離散し国体はほぼ壊滅した。ウェラー卿は立派にその任務を完了させたわけだ。その彼が、何ゆえ再びかの地へ赴かなければならないのかな? ウェラー卿の行為は、反乱軍、いや、失礼、新生共和軍のためでもなければ、もちろん大シマロンに征服された民のためでもないのだよ? そもそも彼は人間ではなく、魔族なのだからね。民の解放はあくまで、かの土地に生まれて育った人間であり、大シマロンの圧政に対して反旗を掲げ、反乱を実行した君達自身の役目だ。ウェラー卿の、ではない」 魔王陛下が臣下たるウェラー卿をシマロンに派遣する根拠を、そしてそれが眞魔国にもたらす利益を。 「納得できるように説明したまえ」 眞魔国のウェラー卿コンラート。魔王陛下の絶対の忠臣。それ以外の立場などないと、少年の姿をした冷徹な賢者は言う。 自分達は、コンラートに理想の王の姿を見た。そして、大シマロンが滅んだ後は、解放された土地に、彼が民の歓呼と共に王として迎えられる時がくると信じた。そんな同志の思いや夢など、幻ですらないと。 クロゥは唇を噛んで、斜め前方に佇むコンラートに視線を向けた。 コンラートは今、その硬い表情を少しも崩そうとせず、怒りすら含んだ冷たい眼差しをクロゥとバスケスに注いでいる。 もう当のコンラートにすら、自分達の夢は否定されている。それでも……! クロゥはキッと眦を上げて賢者、そして魔王を見上げた。 「我々新生共和軍の同志達は、コン、いえ、ウェラー卿の打倒大シマロンの号令に従って集まった者がその中軸をなしております。そしてその者達が頼りとしたのは、ウェラー卿の出自、シマロンの大地を治める資格を持つ、ベラールの正統な後継者であるというその事実です。真実の王たるウェラー卿の下にこそ、我らは集まったのです。ベラールの名を詐称し、不当に王を名乗り、民を圧したかの者達を追放し、真の王を迎える、それこそが我らの目的なのです。真のベラール王家復活を旗頭に集った我らに、その号令を掛けたウェラー卿が応えるのは、理の当然と考えますが如何に!?」 「その割には」 わずかも動じることなく、笑みすら浮かべてムラタが言った。 「ウェラー卿が王位に就くことに、新生共和軍指導部の半数以上が反対したんだったよね。大シマロンに滅ぼされた各国王家やその関係者達が、こぞって我こそはと名乗りを上げたそうじゃないか。君の論は、とうに君達自身によって崩されているよ」 「いいえ!」 ここで言い負かされる訳にはいかないと、クロゥは声を高めた。 「以前フォンヴォルテール卿が仰せになった通り、注がれてもいない美酒に酔い痴れ、なくした権力を再び手に出来ると愚かな夢を描いている者が存在することは確かです。しかし! 世界を観る目と、冷静な判断力を持つ多くの者達、そしてまた、実際に剣を手に戦ったほとんどの戦士達─その多くは、シマロンに虐げられ続けてきた民達です─は、コンラ、ウェラー卿以外の指導者を認めようとはしておりません! ウェラー卿のない共和軍に未来はないと、故に心ある者は我らの元を離れているのです。今、ウェラー卿がかの地に戻ってくれば、離れた者達は必ず帰参し、共に戦ってくれるに違いありません! そして、現在の指導部に失望を覚えながらも、シマロンの国土と民を救おうと必死に戦っている者達は皆、ウェラー卿が戻ってきてくれることを心底願っているのです。信じているのです! ウェラー卿、いいえ……俺達のコンラートが、必ず戻ってきてくれて、自分達の先頭に立ち、そして自分達を勝利に導いてくれると! ………コンラートッ!」 クロゥは湧き上がる激情のまま、身体ごとコンラートに向き合った。 「戻ってきてくれ! それが……あの国の民に希望を与えたお前の、果たすべき義務だ!」 再び沈黙が支配する大広間に、クロゥの荒い息だけが響く。 「確認したいのですが」 その時、突如として凛とした女性の声が上がった。 思わず振り返ったクロゥとバスケスの視線の先に、若い女が一人立っている。 猫の目のような、大きく、真っ青な瞳に、真っ赤な髪。それを頭頂付近で一つに縛って流しただけで、髪飾りの1つもなく、その身を包む機能的で質素な服装には宝石1つ飾られていない。年頃の姫君の優雅さとは無縁の様子から、てっきり官僚かと思ったが、腰に手を当ててふんぞり返る姿からは、小柄ながらも異様な迫力と威厳が醸し出されている。 一体何者? と二人は目を瞬いてその女性を見つめた。 許しも得ずにいきなり発言し、前に進み出てきた女性を咎める者は誰もいない。 正体不明のその女性もまた、不躾なまでの視線を、クロゥとバスケスの全身に走らせている。 「何やらちょっとした出来事があった様子。不在であったのが悔やまれてなりませんね。まあよろしい。私なしで解決できたというなら、大したことではなかったのでしょう。……さて、あなた」 女性がクロゥの目にしっかりと視線を合わせてきた。 「あなたの言葉を総合するに、つまりあなた方は、コンラート、ウェラー卿を自分達の王として迎えたいと考えているのですか? 元大シマロンの土地をベラール王家の末裔であるウェラー卿に捧げたいと? そのために彼を迎えに来たというのですね? そうですね!?」 「……それは…!」 よろしい! 返事をしようとしたクロゥの言葉を叩き伏せるように、赤い女性が力強く宣言した。 「自分達の手に余るものを、それにふさわしい存在に任せる、ということは、決して恥ずべき行為ではありません。まして事は一国の問題。その地に生きる民のためにも、判断は熟慮に熟慮を重ねた上でなされなくてはなりません。その結果として、人間達がウェラー卿を求める、ということであるならば。……コンラート!」 女性はつかつかとクロゥ達の前を横切り、コンラートの正面まで歩み寄ると、ぴしっと指をその胸に突きつけた。 「あなた! とっとと大シマロンに赴いて、さっさと戦を終わらせてきなさい!」 「………アニシナ」 顔を手で覆って、げっそりと息をついたコンラートが、これまたげっそりとその女性の名前らしき言葉を口にした。 「俺は、シマロンの王になどなる気はないんだ……」 「当たり前じゃないですか」 呟くコンラートに、あっさりと女性─アニシナというのが、その名前らしい─が宣った。 呆気に取られる大広間の一同。 「あなたは魔王陛下に忠誠を誓った身ですよ? あなたには陛下の御身をお護りするという使命があります。そのあなたが遠く離れたシマロンの地で王位についてどうするのですか。そもそもあなたは、王の器ではありません!」 きっぱり決め付けると、そこでアニシナはクロゥ達に顔を向けた。 「しかしシマロンの人間達は、そんなあなたに王になってもらいたいと願っているのです。そしてあなたは魔王陛下に忠誠を誓い、陛下をこそ唯一の王と決めている。ならば結果として」 シマロンの地を眞魔国の領土とし、魔王陛下が彼らの王となれば、それで全ては万々歳ではありませんか! おお、と、わずかの空白の後、広間を声が満たした。そう言われれば、確かにその通り、と、集まった人々が納得し、互いの顔を見合わせては頷きあっている。 「まっ……!」 「安心しなさい!」 待ってくれと声を上げる間も許されず、またもアニシナの自信と確信に満ちた声がクロゥの動きを止めた。 「シマロンの土地が加われば、眞魔国の領土は一気に10倍となりますね。国土も広大ですし、治める相手が人間となれば、些細な問題がいくつか、起きないとも限りません。統治については充分に策を練り、その地の民にとって最善の方法を取ることを約束しましょう。何、わが国の男共は揃いも揃って頼りないですが、いざとなればこの私、フォンカーベルニコフ卿アニシナがいます! 任せなさい! そのためにもコンラート! あなたはシマロンの残党はもちろん、その新生共和軍とやらで、実力もないのに権力を夢見る愚かな男共も一掃するのです。よろしいですねっ!?」 堂々と女性が宣う。 そしてくるりと踵を返すと、フォンカーベルニコフ卿アニシナを名乗る人物は、宰相閣下に向かって傲然と頭を向けた。 「何をぐずぐずしているのです、グウェンダル! さっそく人を集め、コンラートが無能な男共を叩き出している間に、シマロンの土地を治めるための対策を練り上げるのです! 陛下が直に統治するわけにはいかないのですから、執政官を派遣することになりますね。その役目、私に依頼したいということであれば、遠慮は要りませんよっ。眞魔国における女性の自立と地位の向上をめざす仕事が中途半端になることは否めませんが、滅びかけた大地において私の豊かな才能を振るう必要があるとなればそれも致し方ありません! 気概と能力に溢れた女性を集めねばなりませんね。破壊された大地から新たな命を生み出すことができるのは、女性だけなのですから。さっ、忙しくなりますよ!」 「おっ、お待ち頂きたい!」 やっとの思いでクロゥが口を挟むことに成功した。何です? とアニシナが煩げに視線を向ける。 「……シマロンの地を、魔王陛下に献上することはできません……!」 搾り出した言葉に、アニシナがきょとんと目を瞠いた。 「意味が分かりませんね。あなた方は先ほどコンラートにシマロンを治めてほしいと言っていたではありませんか」 「その通りです。しかしそれは、魔族の支配を受け入れるという意味ではありません! シマロンの人々にとって、魔族はいまだに魔物なのです。あなた方の支配下に入るとなれば、今より更なる混乱が国を覆います。些細な問題などではありません!」 「先ほど、眞魔国の協力が必要だと言っていたように記憶していますが?」 「国の復興のために、ご協力頂きたいと申し上げたのです! 魔族の支配下に入るという意味ではありませんっ。……我々が欲しているのは、コンラートその人なのです。コンラートに戻ってきてもらい、戦いを勝利させ、戦を終わらせたいのです。そしてできることなら……」 コンラートにシマロンの地を治めてもらいたい。 「ですから、コンラートは魔王陛下の臣下だと言っているではありませんか。ならば当然………このままでは埒があきませんね。つまりこういうことですか?」 アニシナが今度はクロゥ達の真正面に歩み寄り、小柄な身体を伸ばすようにして彼らを睨めつける。 「あなた方はコンラートに、魔王陛下と縁を切ってもらいたいとでも言うのですか?」 アニシナのその一言に、クロゥ、そしてバスケスはごくりと喉を鳴らした。 「………確かに以前は……それが当然だと考えていました。魔族であることを捨てて、人間として、俺達の王として生きて欲しいと……。しかし……今は、そのようなことを望んではおりません……」 当然です、とアニシナが頷く。 「陛下との縁を断ち切るなど、コンラートに出来るわけがありません。万一そのようなコトが起きようものなら、その瞬間にコンラートはふにゃふにゃのへろへろ、背骨の抜けた新種の生物に変身して、剣どころか、せいぜい先割れスプーンで自殺を計るのが関の山、戦の手助けなどとんでもない、生かしておくだけ空気の無駄というシロモノに成り果てるのは目に見えています。で? あなた方はそんな新生物が欲しいとでも?」 そ、そうではなくて……と、クロゥは痛み出した胃と頭に眉を顰めて首を振った。視界の隅に、額を手で覆って天を仰ぐコンラートの姿がある。 「……コンラートに戦の指揮をとってもらい、膠着状態にある現在の状況を打破してもらいたいと思っています。そしてできるなら、大シマロンを完全に壊滅させ、小シマロンの介入を排除し、新たな国家を樹立するため、我らの中心で指導者としての役割を果たしてもらいたい、と……」 眞魔国と縁を切りシマロンの王になる、それができないというならせめて。 「それが終われば……コンラートは魔王陛下の元にお返しいたし……」 「あなた、馬鹿ですね!?」 すっぱりきっぱり言い放たれた言葉に、クロゥは絶句して棒立ちになった。 「魔王陛下、お願いします。ウェラー卿を貸してください。戦の指揮をとり、勝利した後は新しい国を造ってください。私達は何もしないで、コンラートの後からついていきます。そして新しい国ができた後も、どうか魔王陛下、援助をお願いします。でも、言っておきますが、その国は私達のものです。魔王陛下には差し上げません。土の一握り足りとも渡しません。助けて頂いても、眞魔国には何の見返りもありません。お礼もしません。なぜなら私達は魔族が嫌いだからです。お返しするのは、命懸けのただ働きをしてくれたコンラートだけです。ではよろしく。………あなた方が言っていることは、つまりこういうことですよ? 分かっているのですか!?」 そのあんまりな内容に、クロゥは言い返そうとして、だが言い返せずに視線を床に落とした。 顔が熱い。 言葉はひどいが、クロゥ達の望みはまさしくその通りだからだ。 眞魔国の人々の立場からすれば、だが。 「コンラートがいなければ、あなた方、何もできないのですか? 反乱を起こし、ここまで事を進めておきおきながら、コンラート一人がいなくなっただけで全てが崩壊するとでも? あなた方新生共和軍の指導部に巣食う男共は、そこまで無能揃いなのですか!?」 「無能なんですよ、アニシナさん」 壇上で、苦笑を顔に刻んだムラタが、立って彼らを見下ろしていた。 「だから彼らはこの国にやって来たんです。……クロゥ・エドモンド・クラウド。分かったかな? 前にも言ったよね。ウェラー卿の立場を正確に理解すれば、展開は自ずとこうなる。君達が理解する、いや、理解していると思い込んでいるコンラート・ウェラーなどという人物は、本来存在しないのだからね」 「とにかく」 どこか疲れた様な声で、口を挟んできたのはフォンヴォルテール卿だ。 「アニシ…フォンカーベルニコフ卿は下がれ、いや、下がってくれ。頼むからこれ以上混乱させないでもらいたい……。それから、新生共和軍の両名とは後ほど……」 謁見が打ち切られる。それを察した瞬間、クロゥは身体を投げ出すようにその場に膝をついた。 「陛下!!」 見上げた先の魔王ユーリは、きゅっと唇を噛み締めたまま、無言でクロゥを見返している。 「陛下は何度も我らの仰せになりました! 魔族と人間が対等に友好を結べるようにしたいと。戦のない、平和な世界を作りたいと。我らもそう思います! 心からそう思います! 人間と魔族が共に手を携えて、平和な世界を創り上げる。そのために力を尽くしたいと、今では心の底からそう考えています! しかしそのためには、泥沼の戦を終わらせねばなりません! 確かに……魔族の皆様方からすれば、何の見返りもなく、ただ助力だけを乞う我らの要求はあまりに図々しく、理不尽に聞こえるものと思います。ですが陛下! 我らは、陛下は救いを求める人間に、見返りを求められる方とは考えておりません。民を慈しむ陛下の深いお志は魔族の民のみならず、人間も含め、生きとし生けるもの全てに注がれていると信じております。戦を終わらせることは、全ての始まりなのです! かの広大なシマロンの地に平和と安定がもたらされることは、人間世界と、そして眞魔国との平和と友好に必ずや大きな意義をもつものとなるはずです! 人間世界との真の友好をお求めになられるのであれば、どうか! シマロンの地を今この時も覆う流血を、止めるお力をお貸し下さい! コンラートを、ウェラー卿を、シマロンにお遣わし下さいっ!」 その代わり、クロゥは更に膝を進めて頭を下げた。傍らで相棒が同じように、床に額をこすりつけているのが気配で分かる。 「コンラートの身は、我ら両名が命を懸けて護ります! 必ずや傷ひとつつけることなく、陛下の元にお返し致します! それからもうひとつ……」 クロゥはひたと魔王の大きな瞳を見つめると、徐に剣を抜いた。ハッと周囲の人々が身構える。それを無視して、クロゥ、そしてバスケスの両者は、剣を水平にすると、両手でそれを支え、ユーリに向けて掲げた。 「陛下。我らは陛下の臣ではございません。陛下に忠誠を誓うことは出来ません。ですが何とぞ、陛下に対し奉り、この誓いを致すことをお許しください! 陛下。これより後、いついかなる時であろうとも、この眞魔国、そして恐れながら陛下の御身に何らかの災いが生じたその時には、私、クロゥ・エドモンド・クラウド、そしてバスケスの両名は、必ずや陛下の御許に馳せ参じ、己の持てる力と命の全てを陛下に捧げ、陛下をお護りする力の一助となることをお誓い申し上げます!!」 「………くー、ちゃん……ばーちゃん……」 ユーリが口元を震わせる。 「 ……陛下、どうか、シマロンの民にもあの花火の輝きをお与え下さい。生命あるもの全てを慈しむ陛下のお優しさを、あの光の雨の様に、シマロンの大地にも注いで下さいます事を、我ら両名、心から願っております……!」 剣を鞘に納めると、クロゥとバスケスは、あらん限りの思いを込めてユーリを見つめ、そして頭を下げた。 全ての荷造りを終えて、クロゥとバスケスはあらためて部屋を見回した。 薄闇に浮かぶ豪華な客室は、いつの間にかすっかり馴染んだ彼らの部屋となっていた。 「朝湯ももうできねえな。こいつが一番残念だぜ」 いたずらっぽく相棒が笑う。それに笑みを返して、クロゥは荷物を詰めた袋を担ぎ上げた。 「行こう」 謁見で、言うべきことは全て言った。と、思う。ユーリから確実な反応を得ることはできなかったが、今は拒絶の言葉がなかっただけでもよしとすべきだろう。 そう、ユーリは苦しげに眉を顰め、哀しげな光をその漆黒の瞳に湛えてはいたものの、だがクロゥ達の願いを拒絶することだけはなかった。 だからクロゥは帰国を決めた。 なすべきことを全て終えたからには、もうこの国にいる必要はない。彼らには帰るべき国があり、待つ仲間がおり、すべき事があるのだ。 答えを待つことなくこの国を出れば、事はうやむやにされ、コンラートが戻ることもなくなる、とは、不思議なほど考えなかった。あの少年王は、決してそんな卑怯な真似はしない。それがクロゥ達にとって良いか悪いかは別にしても、必ず何らかの答えを出してくれるはずだ。 だが、ここまであの少年王を苦しめるものとなってしまったからには、ユーリとも、そしてコンラートや、彼らと暖かく接してくれた全ての人々と、これまでのような形で顔を合わせ、別れを告げることもできなかった。 だから、何も告げずに去る無礼を詫びる手紙を残し、夜陰に紛れて旅立つことにしたのだ。 夜の闇に沈んだ回廊に出る。 遠くから巡回する衛兵の足音だけが響いてくる。 「……あいつらにも、嫌われちまったな」 バスケスが残念そうに呟いた。 クロゥ達が、コンラートを再びシマロンへと願ったことは、すぐに血盟城の人々に知られることとなった。 彼らの元に食事を運んできたメイドは、もういつもの気安さを見せてはくれなかった。厳しく躾られているから、決して無礼な真似をすることはなかったが、その態度は部屋を出るまでひどく慇懃で堅苦しいままだった。そしてまた、城内で顔を合わせた兵達も、礼儀正しく接してくるものの、これまでの日々で培った暖かな雰囲気を感じさせてはくれなかった。 皆、自分達の主にとってコンラートがどれほど大切な存在かが分かっているのだ。 そして自分達は、そのコンラートを命を落とすかもしれない戦場に連れ去ろうとしている。 魔族と仲良くしにきた訳ではない、と口にしたのはクロゥだったが、今となっては心寂しいものがある。 仕方がない、と小さく呟いて、クロゥは歩を進めた。 ずっと借りたままの馬を勝手に厩から引き出して、彼らはすぐに馬上の人となった。そして月明かりの中に浮かぶ血盟城を目に焼き付けるように見渡すと手綱を引いた。 夜通し、全力で街道を駆け続けた。 夜明けは近いが、まだ景色は闇の只中にある時間、あの果樹園に囲まれた村に入った。もうずいぶん昔のことの様に思える、懐かしさすら感じる村は、まだ眠りの中にある。黄金色の大きな果実も、黒々とした影の中に沈んで見えない。 ぜひまた寄ってくれと笑顔を向けてくれた村人達に、心の中で不義理を詫びて、二人は速度を緩めることなく村を通りすぎた。 夜明けの薄明かりがゆっくりと世界に広がる頃、、彼らは港に入った。入国許可証を提示して敷地内に入り、管理局に向かう。 管理局は仕事の性質上、夜間も閉鎖されることはない。事前の確認の通り、その建物の窓からは煌々と光が洩れている。 夜勤は男性の仕事なのか、それともたまたまそうだったのか、管理局に詰めていたのは以前のような女性達ではなく、男性ばかりだった。思わず安堵の息をつきつつ、二人は手続きに向かった。 出国手続きをしてくれた男性職員は、よほど気のいい人物なのか、それとも退屈だったのか、シマロンに向かう船への乗船手配を請け負ってくれた。それをありがたく受けて、二人は自分達を運んでくれる船が決まるまでと外に出た。 黒一色だった空に、紫と紺、そして朱色が縞模様となって波打つように広がり始めている。管理局に入るまではのたりと黒かった海原も、緩やかな波頭に光が瞬き始めた。 「………ああ、陽が上る」 水平線に、ゆったりと朱金の塊が顔を覗かせ、そこから帯状の黄金の輝きが滑るように海を照らし始めた。 「……綺麗だなぁ……」 「ああ。……この国にふさわしい美しさだ……」 この国に、そしてあの王に。 ぽってりと瑞々しい朝陽が、水平線からゆるゆると天頂に向かって上っていく。その美しさに、ただ二人が見惚れていたその時。 「クーちゃんっ! バーちゃん!!」 バッと振り返った二人の視界に、ものすごい勢いで駆けてくる馬の姿が映った。 馬は三頭。 呆然と見つめる二人の前で、駆けてきた馬はようやく停止した。 「よかったぁ、間に合った!」 その言葉は、先頭の馬、手綱を握るコンラートの前にちょこんと座る少年から発せられた。 「………陛下……」 思わず口から出た声に、まだ馬に跨ったままの少年、ユーリがホッとした顔で笑った。 コンラートに助けられ、ユーリが馬から下りる。別の馬からはフォンビーレフェルト卿が、そしてもう1頭からはグリエが下りた。 「二人ともひどいよ! 何にも言わないで出てくなんてさ! もうびっくりして慌てて追いかけて来ちゃった!」 クロゥ達の前に駆け寄ってきたユーリが、今度はぷくっと頬を膨らませて文句を言っている。 まるで夢か幻でも見ているような気分で、クロゥは思わず「どうして…」と呟いていた。 「……陛下、私達はあなたに……あれほどまで良くして下さったあなたに、あのような事を願って……。それなのにどうして……」 どうしてって……。言って、ユーリは心外そうにクロゥを上目遣いで睨んでいる。 「だって、友達だろ!?」 トモダチ。言葉の意味が一瞬分からなくて、クロゥとバスケスは呆けた顔でパチパチと目を瞬いた。 「そりゃ、さ、コンラッドのことはあるけど……。でも、それとこれとは別だろっ? せっかく友達になれたのに、見送りもできずにお別れするのはイヤだよ! 絶対イヤだよっ!」 あのさ。 叫ぶように言ってから、ユーリは姿勢と、それから声をあらためて二人を見つめた。 「……二人ともごめん。二人が何を望んでいるか、最初から分かってたはずなのに、おれはずっとそれを考えないでいた。…いや、違う。分かってたんだけど、でも、おれ達にとってコンラッドがどれだけ大事な人か納得して貰えれば、二人は諦めて帰ってくれるんじゃないかなって、勝手に考えていたんだ。クーちゃん達が、シマロンの人達の思いを背負ってここまでやってきた覚悟とか……そういうの、ちっとも分かってなかった……。ごめんなさい……」 おれね。 だんだんうつむき加減になっていったユーリが、きゅっと唇を噛んで顔を上げる。 「まだ……その答えは出ない、出せないけど……。でも王様として、おれがどうしなくちゃならないか、一生懸命考えるから……! だから……二人に答えを出すのは、もうちょっとだけ……待ってて下さい……!」 お願いします! 「陛下……」 ぺこんと頭を下げられて、クロゥは思わず手を伸ばしかけた。だがすぐに思い返したように腕を戻すと、クロゥはバスケスと共に背筋を伸ばし、姿勢を正した。 「陛下のお気持ち、よく分かります。申し訳なく、心から申し訳なく思っております。……急いで答えを出そうとはなさらないで下さい。我々とてそう簡単に倒されたりは致しません。どうかじっくりとお考えになって下さい。その上で出された結論であれば、我々はそれを……受け入れます」 ありがとう、とユーリが微笑む。 その笑みに、やはり笑みを返して、クロゥは改めて頭を下げた。 「陛下、皆様、本当にお世話になりました。この国で過ごした日々を、俺は決して忘れません。どうか……お元気で」 「まあ、何だ」バスケスもバリバリと頭を掻きながら口を開いた。「色々あったけどよ……ありがとうな」 それからバスケスは二カッとユーリに笑いかけた。 「俺ぁ、頭が悪いから、小難しいことは分からねえ。けどよ、おめーは結構いい王様になると思うぜ? 時間はたっぷりあるんだ。早く立派になろうなんてしねーで、のんびりやれや。な? せっかくいい家来が揃ってんだからよ。それと……」 自分の理想を忘れるんじゃねーぜ? バスケスの言葉に一瞬きょとんとして、それからユーリは「うんっ!」と大きく頷いた。 「おれ、まだまだ未熟者だけど、でも、一生懸命がんばるよ!」 この王は必ず決断してくれる。 クロゥはユーリの笑顔に確信した。 どれだけ悩んでも、どんな回り道をしようとも、この少年は必ず「王の道」を選んでくれる。この国のためだけではなく、世界にとって最良の道を。 たとえそれが厳しい向かい風の吹き荒れる道であろうとも、ユーリは選んだその道を、まっすぐに進んで行ってくれるだろう。 やがて、管理局の職員が船の手配ができたとやってきた。間もなく出航するという。 礼を述べ、クロゥとバスケスは改めてユーリ達と向き合った。 「ま、元気でな」 別れを告げる二人に、グリエがからりとした笑顔を向けた。 「今度会うことがありゃあ、お勧めの酒場に連れてってやるよ。そん時は……グリエ自慢の艶姿で、お酌でもしてあげようかしらあ?」 「……………い、いらんっ!」 微妙な間を置いて断ってから、クロゥはフォンビーレフェルト卿に身体を向けた。やれやれと、バスケスがため息をついている。 「色々とご面倒を………フォンビーレフェルト卿……?」 いつからそれを手にしていたのか、フォンビーレフェルト卿は両腕に何か大きな箱のようなものを抱えていた。 それを「受け取れ!」と、どさりと腕に手渡された。 「約束していた魔王まんじゅう1年分だ! 持っていけ!」 「………まん、じゅう……?」 一体いつそんな約束を……? 呆気にとられて反応が遅れている間に、フォンビーレフェルト卿は次の行動に移っていた。足元に置いてあった、これまた一抱えもある大きな包みを、力を込めて持ち上げる。 「それからっ、これは兄上からの土産で、眞魔国特産の酒だ。ほらっ!」 これは慌ててバスケスが受け取る。 「……フォンヴォルテール卿が……」 「兄上からの伝言だ。この先どのような結論がでることになろうと、我々は人間との平和と友好、そして共存共栄の道を求め続ける、と。そして、我々にできることがあれば、できる範囲で、可能な限りの協力をしよう、とのことだ」 「………それで充分です。ありがとうございました。どうかフォンヴォルテール卿にも、よろしくお伝え下さい」 ある意味、彼らの好意と信頼を裏切った自分達には、もったいないほど温情に満ちた言葉だ。 そして最後に、彼らはコンラートと向き合った。 「……元気で。二人とも、シマロンの雑兵などにやられたりするなよ」 「ああ。お前も、元気で」 「色々悪かったな。……ありがとよ。えーと…まあ、その……元気でいてくれや」 待っていると、今それを口にすることはできないから。 言葉少ない別れの最後に、彼らは互いの笑顔を脳裏に刻み付けた。 「元気で! 戦場で怪我なんかしないでね! また会おうねっ!」 「陛下も、どうかお元気で! 本当にありがとうございました!」 「また会おうや! 平和になったら、またなっ!」 商船に乗り込み、甲板に立って手を振る。埠頭では、今は高く上った陽の光をいっぱいに浴びて、ユーリとコンラート、フォンビーレフェルト卿、グリエが、大きく手を振って見送ってくれている。 良い旅だったと、クロゥはしみじみ思った。 失望も、まして絶望も感じない。帰る場所は泥沼の戦場なのに、不思議と胸を満たすのは希望に満ちた温もりだけだ。 船がゆっくりと動き出す。 更に大きく、クロゥは腕を振った。この国で得た、大切な友人達に向かって。 彼らは何事もなく航海を続け、要所要所の港で船を乗り継ぎ、そしてようやく故国へと帰ってきた。 輝く海の碧と大陸を彩る緑、そして平和と豊かさに恵まれた国々の空気の色が、シマロンに近づくにつれ、次第に色褪せていくように感じられるのは、錯覚ではないだろう。 そうしてようやく辿り着いたシマロンの港は、汚れ、あちこちが欠け毀れ、船が接岸するのがやっとの悲惨な状態だった。……船がまだやってこれるだけ、ましかもしれない。 長い戦乱が、大シマロンの占領下で曲がりなりにも豊かであった国土を、隅々まで蝕んでいる。この街の行政官が誰かは分からないが、とても港の修繕まで手が回らないのだろう。それもまた、致し方ない。 それでも船がやってくれば、新たな荷が降ろされ、物と人が動く。 いつしか埠頭には職と食を求める人々が、わらわらと集まってきた。それと同時に、おそらくは港に住み着いているのだろう、孤児と思しき子供達が、集団でクロゥとバスケスを取り囲んできた。……商船から降りた客は、この二人だけだったのだ。 物乞いをする子供達に囲まれて、バスケスは荷物を地面に下ろし、中から大きな箱を取り出した。箱にはフォンビーレフェルト卿に貰ったまんじゅうが入っている。ほんの数個口にしただけで、ほとんど残っているその菓子を、バスケスは箱ごと、最も年長で、彼らの頭らしき少年に渡した。中を覗き見た少年がパアッと顔を輝かせる。 「少々固くなっているが、まだ充分に食える。独り占めするなよ。皆で分けて食え」 いいな? と怖い顔で念を押せば、少年はぶんぶんと頭を激しく上下に振る。 本当にこの少年が皆に平等にまんじゅうを分けるか、それとも独り占めしようとするか、もしくは、誰かに奪われるか、それは分からない。だが、それはクロゥ達の関知するところではない。結局は……生き延びる力を持った者が生き延び、力のない者は死ぬしかないのだ。この国では。 あの魔王なら、おそらく自分の手で菓子を公平に配ろうと努力するだろう。しかし、飢えた子供はこれから砦に向かう道中にも、山なすようにいる。その全てを救うことは絶対に出来ない。戦が終わって、この土地に平和が戻り、国が国として機能し始めるその時まで。 だから、自分達はまだ、あの少年魔王の様に理想と慈悲の心だけで民を救うことなどできないのだ。 戦乱の地に戻ってきたことを、クロゥとバスケスは、その五感の全てで実感していた。 「……クロゥ! バスケス!!」 馬を走らせ、やがて二人は懐かしい仲間の待つ砦に入った。 「ああ、よく無事で! 本当によく無事で帰ってきてくれました!」 先ずは帰参の挨拶をと、入った部屋にはエレノアとカーラ、ダード老師、そしてアリーとレイルという、最も気の置けない仲間が揃っていた。 「ただ今戻りました、エレノア、皆。……ご心配をお掛けしました」 こうして無事に帰ってきてくれたのだから、もういいのです、と、涙を湛えてエレノアが二人を順に抱きしめる。その薄い背を抱き返しながら、クロゥはエレノアの肩越し、扉を見つめるカーラの、切ない瞳に気付いた。 もしかしたらコンラートが共に帰ってきたのではないかと、今にも扉が開いて、その姿が現れるのではないかと、彼女の痛いほどの思いが分かってしまい、クロゥは小さくため息をついた。 「それにしても、思いの他早かったのだね。私は、何ヶ月も、もしかしたら、1年くらい掛かるのではないかとも考えていたのだよ」 ようやくソファに皆が腰を落ち着けてから、ダード老師がゆったりと笑って言った。 「俺達も最初はそのつもりでした、老師」 「ねえねえ!」我慢できないと言いたげに、アリーが声を上げる。「それで? どうだったの? その……」 緊張したように唇をちょっと舐めて、アリーが再び口を開いた。 「その、コンラート、は……」 エレノアとカーラの緊張が一気に高まる。本当は誰より先にその事を聞きたくて、だが答えが怖くて、言葉にできずにいたのはよく分かっていた。 そっと、クロゥとバスケスは視線を交わし、頷きあった。 「実は、ミッシナイのヒスクライフ殿。あの方はコンラートと以前からの知り合いだったのです」 驚く一同。 「俺達の依頼を聞いて、すぐにコンラートに関わりがあるとお考えになり、連絡を取ってくれていました。ですから、その、眞魔国についたその日の内に、コンラートとは再会できたのです」」 ほっ、本当にっ!? 咳き込むようにカーラが声を上げ、身を乗り出した。エレノアやアリー達も、驚きの顔で目を瞠いている。 「無事なのかっ!? コンラートは、生きて、無事でいるのか!?」 「ああ」バスケスが頷く。「腹が立つほど元気でいやがったぜ」 わずかの間動きを止めて、それから、はあーっと大きな息をつき、カーラがソファに身体を沈めた。 「よかった……。コンラート……」 「それで、あのっ」 レイルがもどかしげに言葉を挟む。 「コンラートは大丈夫なんですか? 魔王の追っ手とか、それに……そうだ! 反魔王派の動きはどうなんですか? やっぱりコンラートは反体制派の活動を?」 反魔王派…? クロゥとバスケスが揃ってきょとんと少年の顔を見返す。 「……だから、あの……」 問いかえされて、逆に困ったような様子のレイルに、「ああ!」とクロゥが声を上げた。そうだった。 コンラートが反魔王的な活動をしているのではないかと、最初に言ったのはクロゥだ。すっかり忘れていた。 「……あー、それは……」 もし眞魔国に反魔王派などがいるとすれば、誰よりコンラートがそれを根絶やしにするだろう。 「ねえっ! それで、コンラートは? 無事でいるなら、どうして一緒に帰ってきてくれなかったの?」 もっともなアリーの質問に、クロゥとバスケスは再び言葉に窮した。期待に満ちた眼差しが痛い。 本当の事は言えない。それが、クロゥとバスケスの間で一致した意見だった。 眞魔国が、本当はどのような国であるか。コンラートが眞魔国で、どんな立場にあるか。それを語れば、コンラート出奔の真実も明らかにしなくてはならない。それは……避けたい。コンラートが再びこの地で指揮をとる可能性がある限り、コンラートがシマロンに奔った真の目的を話すことはできない。 そしてまた、魔王の真実も、彼らが眞魔国でどんな日々を過ごしてきたかも、まだしばらくは黙っていようと決めていた。どう考えても、魔力で誑かされたとしか思われないだろう。クロゥ達が逆の立場なら、必ずそう考える。特に魔王については、己の目で確認しない限り、誰も信じることはできないはずだ。 魔王の第一印象が「可愛い!」などと……。 だから、クロゥの舌は自然と重くなる。 「コンラートはその……まだ動けないんだ」 「動けない? やはり眞魔国内で何か活動を? それとも魔王の追捕の手が迫っているとか……。何とか連れ出すことは出来なかったのか!?」 カーラの声に、まただんだんと熱がこもって来る。 「コンラートを、魔物の中に置き去りにしてきたのかっ!? 何のために眞魔国まで行ったんだ!? 今こうしている間にも、コンラートが魔王の牙に掛かったら……!」 「魔王は……っ!」 「バスケス!」 咄嗟に上げた声に、バスケスがハッと口を閉ざした。不自然な沈黙が、部屋に広がった。 「………バスケス。……クロゥ……?」 エレノアが、訝しげに2人の顔を見つめている。 「……申し訳ありません、エレノア。長旅で、少々疲れたようです。……休ませて下さい。話は…また改めて」 そう言うと、クロゥはバスケスを促してさっさと立ち上がった。 認めたくはないが……一瞬、ムカついたのだ。魔族のことも、魔王のことも、何も知らない彼らの言葉に。 魔王陛下を悪く言うな、と、怒鳴りたくなる衝動が己の中に生まれたことに、クロゥは内心愕然としていた。 仲間との間に、決定的な認識の違いが生じたことを、今クロゥははっきりと自覚していた。 驚いて引き止める声がする。それを振り捨てるように、2人は部屋を出た。 「……クロゥ……」 「ああ……」 それ以上の言葉を交わすことなく、2人は石の廊下を歩いていた。 だが。 「クロゥ。バスケス」 ハッと振り返った先には、ダード老師が一人立っていた。 「……老師」 「私とだったら話をしてくれるのではないかと思ってね。……必要とあれば、エレノア達には黙っていよう。教えてくれんかね?」 眞魔国で何を見たのかを。 2人はダードの招きに応じ、老人の部屋に入った。そこで、バスケスが抱えたままの袋を開け、酒瓶を1本取り出し、テーブルに置いた。 「眞魔国特産の酒です。美味いです。……一緒に飲んで下さいますかい、老師?」 探るようにバスケスに問われたダードは、にこりと笑うと、いそいそとグラスを用意した。 バスケスが注いだ酒を、、3人でゆっくりと干す。 「……やっぱり美味ぇや」 「良い味だね。これを知らずにいるのは不幸なことだ。そう思わんかね?」 そうですね。答えてクロゥは、ダードに向かって頭を下げた。 「老師、俺はあなたに謝罪しなくてはなりません」 「クロゥ……」 「俺は、俺達は間違っていました。そして老師、あなたは正しかった。眞魔国は、魔族は……」 「魔王に会ったかね?」 唐突なダードの言葉に、クロゥとバスケスがハッとその顔を凝視した。 「先ほどのカーラの言葉に、バスケス、お前さん、かなり怒っていただろう? 『魔王は』の後を、どう続けるつもりだったのだね?」 クロゥとバスケスは、思わず顔を見合わせ、それから大きく息をついた。 「……老師……俺は……」 ダードは黙ってクロゥ達の言葉を待っている。 その時、突然、クロゥは自分の視界が濡れたようにぼやけ始めたことに気付いた。 あまりにも突然で、一瞬何が起きたのかさっぱり分からなかった。 「…お、おいっ、クロゥ…? お前……」 目に溢れたそれは、ゆっくりと頬を伝って流れていく。 「俺は、老師……」 瞳を濡らして流れていくものは止まらず、同時に、同じほど熱く滾るものが、胸の奥から湧き上がってくる。 「あの国の民に……なりたいと思いました……。あの王の民に…。そして、あの人に、あの魔王陛下に、忠誠を捧げる者になりたいと……魔王陛下の騎士にこそなりたいと、心の底から……願いました……っ!」 良き主君を得てこそ騎士の誉れ。父の言葉が蘇る。 「あの方に仕えることのできる全ての人々が……羨ましかった。俺は…魔王陛下に命を捧げられるコンラートが……心の底から羨ましかった。憎らしいほど、羨ましかった……っ!」 それだけ言うと、クロゥは濡れた顔を手で覆った。 肩に相棒の腕が回される。そしてクロゥの肩を抱くその大きくて優しい手に、ぐっと力が籠もる。 元大シマロン、新生共和軍本陣である砦で。 また一日が終わろうとしている。 コンラートが再びその地に立つまで、後しばらくの時間が必要だった。 おしまい。(2007年1月8日) プラウザよりお戻り下さい。
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